第二章 子羊と不思議な出会い

 

 ……島国エピドートの西部に位置する王都ピスタサイト。

 全部で五つの地区に分かれたこの街は、国の≪いしずえ≫たる教皇ベンジャミンがおわすヴァーテル教の発祥地として名高い。

 中でも、教会本部のあるセナーテ地区は礼拝や観光目的の人間たちで常に賑わっている。
 大陸における聖教の発祥地を巡礼するため、そして教皇ベンジャミンによる偉大なる説法と恩恵を受けるため、人々は連日足しげくこの地区へとやってくる。
  
 このセナーテ地区の大通りを曲がり、百貨店のすぐそばにある路地へ入って最初の角を右に曲がる。
 そこには質のよい名店揃いと称賛されるオリヴァー小路がある。ここには数代にわたって続く折り紙付きの老舗、そして新進気鋭の店主たちが営むティールームやパブ、バーなどがずらりと勢ぞろいしており、この小路に店を構えられるのは飲食店のオーナーたちにとって一種の誉れとされていた。
 その一角に、エドワードの経営するティールーム&バー「子羊亭」はある。
 ウェイトレスの少女マーガレット、そして赤毛の料理人ネイサンとともに、彼は自身の所有する一軒家デタッチドハウスの一階で喫茶店を経営して生計を立てていた。
 ミルク色の暁霧ぎょうむが引き連れてくる、のどかで静穏な朝。
 セナーテ地区はオリヴァー小路にたたずむこの一軒家で、今日もまた彼らの新しい一日が始まろうとしていた。
 
 
***
 
 
「う……ん……」
 優美なダマスク柄が織り込まれたタオルケットが跳ねあげられ、ゆったりした夜着に包まれた青年の足が宙を舞う。
 形のよいつま先がシーツの上を揺蕩い、またもぞもぞと毛布の中へ収まっていく。
 エドワードはめくれた掛布を肩口まで引き上げながらぱちぱちとゆっくり瞬きをした。
 ……白いレースのカーテンをすり抜けてやってくる、穏やかな朝陽が心地いい。
 カーテンの色を拾い上げた陽光が、部屋中をすがすがしいほどの純白に染め上げている。初春の柔らかな陽光が辺り一面を覆いつくし、早く眠りから醒めろと優しくエドワードを急かす。
 その様を眺めやって、彼は布団にくるまったまま目を細める。
(ん……。朝、か……)
 早く起きないとまた同居人にどやされてしまう……と、エドワードは毛布にくるまったまま眉間に皺を寄せる。
 寒い、起きたくない、眠い。
 しかし開店準備をするためにはもう起きなければならない……。
 まだ寝ていたいという気持ちと早く起きなければという気持ち、二つの相反する感情のあわいで葛藤したのち、彼はまたうとうとと微睡み始める。
 ……このまま、もう少しだけ眠っていたい。
 思考を止めて再び眠ることに没頭する彼の脳を、刹那、少女の声が遮った。
「こらぁ、エドっ! 一体いつまで寝てるのよっ! 早く起きないと、ティールームの開店時間に間に合わないわよ!」
 バン!と音を立ててドアが開き、扉の向こうから小柄な少女が顔を出す。
 部屋の入口からちょこまかと駆けてくる彼女の髪はその柳腰をすっぽり覆ってしまえるほど長く、素晴らしい黄金こがね色をしていた。蜂蜜のようにまろやかな色合いが特徴的で、髪全体にふんわりとけぶるような艶がある。
 この少女は名をマーガレットという。この店の給仕係として働く娘なのだが、とある事情によりエドワードの「家族」として彼の家に居候をしていた。
 ふわふわと楽しそうに流れるウェーブがかった髪を遊ばせながら、彼女はずかずかとエドワードの部屋に踏み込んできた。
 その姿を薄目を開けて眺めながら、エドワードはだるそうに口を開く。
「マッジか……。朝っぱらから叩き起こさないでくれ、俺は朝が弱いんだ……」
 愛称で彼女を呼び、不機嫌さをあらわに答えてやる。すると、マーガレットは腕組みをしてふんと鼻を鳴らした。
「それ、昨日も聞いたわ。そんなの、理由になりません!」
 ……真っ赤な子供用のエプロンを身につけ、腕を組んで仁王立ち。不思議なことに、そうしていると溌溂とした美貌が際立つ。
 子供特有の甲高い声に、エドワードは顔をしかめた。
「怖い顔するなよ……。昨夜遅くまで客の相手してたの覚えてるだろ。怠くて起きられないんだよ」
「じゃあせいぜい身体鍛えて早起きに耐えられるようになりなさいよ。さあ、起きて。甘いパンでもかじれば少しは目が覚めるわよ」
「……うるさい、静かにしてくれ……」
「もうっ。往生際が悪いんだからっ!! えい!!」
 ぐずぐずと駄々をこねる店の主に対してマーガレットはとうとう強硬手段に出た。パジャマに包まれた二の腕を力任せに引っ張り、そのままベッド下へと引きずり下ろす。
「うわっ」
 マーガレットの抜群の力加減と彼自身の有する反射神経により、絶妙な角度と体勢で床に倒れこんだエドワード。怪我こそしていないものの、彼は肘と腰をしたたかに打ち付けて顔を歪めた。
「……痛ってぇ……、なんなんだ……っ!!」
 抗議の声を上げる間もなく、パジャマの合わせに手が伸びてくる。
「それっ」
「うわっ、ちょ……、何、すんだ……っ!」
 掛け声を合図に、問答無用でマーガレットは彼のパジャマを脱がせにかかったのだった。
 とても、楽しそうに。
 
***
 
 
(あー……、朝っぱらからえらい目に遭った……)
 マーガレットによって寝間着を引っぺがされたエドワードは、彼女の手によってあれよあれよという間にシャツとスラックスを着せられた。
 ぱりっと糊のきいた純白のシャツにカーキ色のこじゃれたVネックニットをベストのように重ね着し、下はダークグレーのスラックスですっきりとまとめる。スラックスはまだ春先ということもあって上質なウール地のものだ。見た目にはとてもスマートなシルエットをしているが、穿くととても温かくて過ごしやすいので気に入っていた。
「うう……今朝も寒いな……」
 エピドートでは冬から春にかけての気候が最も厳しい。他国の人間たちからは「銀雪ぎんせつの孤島」と称されているだけあって、冬場の積雪量は相当なものだ。
 最近ではやっと暖かくなってきたものの、やはり布団の中が一番居心地がいいのは冬と変わらない。
 まだ半分寝ぼけている頭をなんとか奮い立たせ、エドワードはマーガレットに続いて廊下を進んだ。
「全くもう。どうしてそんなに寝起きが悪いのかしら?」
 呆れ顔で桜色の唇を尖らせるマーガレットに、「仕方ないだろ」とエドワードはぼやく。
「バーテンダーの仕事は疲れるんだ。客の話も聞かなきゃいけないし、それなりに気も遣うしな」
「じゃあせめて寝る前の読書をやめたらどう? いっつもダラダラ本読んでるでしょ。夜は遅くまでお店を開いてるんだし、寝るときはせめてさっさと寝たらって思うんだけど」
「何言ってるんだ、読書愛好家から本を取り上げるなんて拷問以外の何物でもないだろ。それだけじゃない……、新しいレシピも編み出したいし、カクテルの勉強もしないといけないし……。とにかく、そういうのだけはやめられないんだよ」
「ああもう、わかったわよ。けど、毎朝毎朝起こしてあげてるあたしの身にもなってよね。ロングスリーパーのエドを叩き起こすのは至難の業なんだから」
 背に流れるウェーブがかった金の髪をふわりと靡かせ、マーガレットは腕組みをして肩を怒らせる。
「全くもう、目覚まし鳴っても起きないし、スヌーズもいつの間にか勝手に解除しちゃうしっ! だからせめて夜は早めに寝たらって言ってるのにっ……!」 
 ぶつくさ言うマーガレットを連れて、階下へ降りる。すると、一階のダイニングにはすでにいい匂いが立ち込めていた。
「……おやおや。エド、今日はいつもより早いんじゃないですか」
 キッチンに立って仕込みと下準備、そして朝食の支度をしていたネイサンは、賑やかな声につられて顔を上げた。
 エドワードはあくびをするとネイサンに挨拶をした。
「ああ、おはようネイサン」
 
 ネイサン・ウォルコット、二十八歳。
 かつてエドワードの屋敷で執事として働いていた青年だ。が、当主であるエドワードの父に粗相をしてしまったことがきっかけで仕事をクビになってしまい、今はエドワードの営むこの「子羊亭」で料理人として働いている。
 きわめて温和な人柄で、料理の腕も確かなので、客からも人気がある。特に彼の作る菓子類は甘さと塩気のバランスがちょうどよいと評判で、エドワードもそれに負けじと菓子作りの腕を磨いているところだ。
 二人とも得意とする料理がそれぞれ異なるため、店では互いの長所を活かした調理をすることにしていた。
 
(とはいえ、スコーンの食感ではまだまだ負けてるな……。俺ももっと工夫しないと……)
 
 何しろネイサンのスコーンはその焼き具合が絶品で、まさに「狼が口を開けたような」と形容するにふさわしい出来上がりなのだ。
 
 癖のある赤毛を揺らしながら、彼はプレートに手際よく朝食を盛り付けていった。
 スクランブルエッグにベイクドポテト、火を通したソーセージやベーコンといったものを大きなワンプレートにどっさりと盛り付けるのがエピドート流だ。合間にチーズを乗せたジャケットポテトをちびちびとつまんだり、こんがりトーストした薄切りパンをかじったりするのが子羊亭における朝の定番である。
 食卓に用意された薄切りパンは各々好きな焼き加減にトーストするのが暗黙のルールだ。隣では銀製のトーストラックとバターケースが朝陽に照らされてぴかぴか光り輝いている。
 パンを好みの焼き加減にトーストし終えたら、あとはそこにジャムやバター、あるいは総菜やチーズなどを乗せて無造作に頬張るのがお定まりだ。
 なお、三人とも生粋のエピドート人であるため、ジャムは塊のままでんと乗せてしまうのだが、もちろん誰も咎めたりはしない。このエピドートではジャムというのは「塗る」ものではなく「乗せる」ものだからである。
 
 出来立ての温かな朝食を前に、マーガレットがはしゃいだ声を上げる。
「わあぁ。今日もおいしそう~」
「たくさん食べてくださいね、マッジ。はい、エドも」
 眼鏡の奥の瞳をきゅっと細めると、ネイサンは朝食の盛り付けられた皿を二人に差し出した。
「サンキュ」
 
 エドワードはダイニングのスツールに腰かけると店内をぐるりと見渡した。
 子羊亭を営んでいる一軒家の一階は、大部分が店だ。調理場とホールが隣り合う形になっていて、客席からは常時エドワードとネイサンが調理している姿を眺めることができるようになっていた。
 中庭部分にはコンサヴァトリーがあり、ここでは庭木を眺めながらのんびりお茶が愉しめるようになっている。店先にあるテラス席と繋がっているため、宣伝効果も上々だ。テラス席で楽しげにお茶をする客に目を留めて新しい客が次々と入店してくる……などといったことも珍しくない。
 芝草の放つ青臭い匂い、濡れた土壌の湿った匂い、そして穏やかな花の芳香といったものは多くのエピドート人にとって強いノスタルジーを呼び起こすものだ。
 庭木の手入れは少々手間取るものの、あの絶大な客寄せ効果を考えればここをわざわざ荒れ放題にしておく理由はない。
 
 また、夜はバーになる子羊亭には、陽が落ちるとバーテンダーとして働くエドワードの「見せ場」もきちんと用意されていた。
 それが、ホール奥にしつらえられたカウンター席だ。席に腰かけるとエドワードと真正面から向かい合う格好になり、彼の鮮やかな仕事ぶりを見ることができるのだ。
 このヴィンテージのバーカウンターはエドワードの密かな自慢である。ヴィンテージの家具屋に何度も足を運び、子羊亭のホールの大きさや広さと相談しながら一番気に入ったものを購入した。
 他にも、カウンター上部に設置されたワインラックや奥に置かれたリキュール用のキャビネットなど、バーカウンターに置くものはすべて彼自身がこだわり抜いて選んだものばかりだ。そのおかげかバーテンダー業にも自然と気合が入り、連日の深夜営業もさほど苦にならずに続けられている。
 マーガレットはこの国の労働法に従ってバーの営業時間帯には店には出てこないことにしているのだが、それを残念がる客も大勢いるようだ。
 中には、彼女に小さな花や菓子をプレゼントしていく者もいる。オープンしたてだというのに、マーガレットは早くも「子羊亭」のアイドル的存在となっていた。
 
 ネイサン手製の朝食を頬張りながら、エドワードは今日店で出す新しいアレンジティーのレシピについて考えていた。
(今日は何にするかな)
 子羊亭では、毎日違うフレーバーのアレンジティーやオリジナルカクテルを味わえる、というのがすでに評判になりつつある。今日はどんなレシピにしてみようか……。
 
 エドワードはれっきとした良家の子息でありながら紅茶や酒といったものが好きだ。
 昔からティータイムが一番の楽しみで、きょうだいたちとお茶会のまねごとをして遊んだり、アフタヌーンティーの支度をする母にせがんで実際に紅茶の淹れ方を教わったりもした。
 貴族社会では「お茶はメイドが淹れるもの」という認識が強いものだが、エドワードは別だ。
 自分でお茶を淹れてみたいし、できることならそれに合うクッキーやケーキも手作りしてみたい。ずっとそう思ってきた。幼少期にはメイドに混じってキッチンに忍び込み、あとで両親にこってり絞られたことすらある。
 十八の年に寄宿学校を出てからは、王都にある喫茶店を順繰りに巡ったり、夜のフレデリク地区にカクテルを飲みに行ったりした。酒の魅力に目覚めたのもこの頃で、初めて訪れたバーで出されたギムレットがあまりにもおいしくて感激したほどだ。
 そんなエドワードが自分の料理の腕一つで食べていけたらと願うようになるまでそう時間はかからなかった。
 父にはこっぴどく叱られ、母には困惑されたものの、エドワードは諦めなかった。
 昼間は資格取得のための勉強にいそしみ、夜はフレデリク地区のバーで修業とアルバイトに明け暮れ、自分の店を開くための資金を溜めた。
 紅茶に関しては「もてなしの達人」とも呼べる母から直々に手ほどきを受け、おいしい淹れ方やアレンジの仕方などを一から教えてもらった。何せ社交界ではなにかと紅茶でもてなす場面が多いのである。
 紅茶の方が歴史が古いせいか、大半の国民はまだコーヒーより紅茶を好んでいる。スタンダードなものはもちろん、一風変わったアレンジティーも大人気だ。子羊亭では毎日微妙にレシピやデコレーションを変えて供しているせいか、最近ではこのアレンジティーを楽しみに通ってきてくれる客も増えてきた。
 
 エドワードはそこでフレデリク地区でバーを営む師匠ジャックの顔を思い出して小さく笑う。
 最初こそ「貴族のボンボンに“ご指南”するなんざ俺は御免だ」と言っていたジャックだったが、毎晩熱心に店に通うエドワードに根負けしたのか、最後には親身になって技を伝授してくれるようになった。
 彼の経営するバー「ゾディアック・ダイアル黄道十二宮」はフレデリク地区でも指折りの名店であり、サービス、味、演出のすべてにおいて同地区の他店と大きく差をつけている。聞いたところによれば、かつてクラッセルの公子がお忍びで来店したこともあるという。
 手伝いに入ったばかりの頃は皿洗いや片付けといった雑用しかさせてもらえなかったものの、閉店後にジャックが一対一でテクニックをレクチャーしてくれるようになると俄然気合が入った。それからというもの、エドワードはそれまで以上に雑用や掃除を頑張るようになり、しばしばジャックに「現金な坊ちゃんだぜ」とからかわれたものだ。
(元気にしてるかな、師匠……)
 今度報告がてらフレデリク地区に足を運んでみようと、エドワードは朝食を咀嚼しながらぼんやりと思った。
 
 ただのたしなみにすぎない紅茶や酒も、この国では資格さえ取れば立派な仕事にできる。子羊亭はまだ開店して間もない店ではあるが、早くもエドワードにとって最高の仕事場、そして生き甲斐となりつつあった。
(俺の腕前はホントまだまだだけどな)
 とはいえ勉強熱心なエドワードだ、スキル向上のための勉強や練習は怠っていない。
 同業者に話を聞いたり、新しいテクニックを教わることもしょっちゅうだ。
 まだまだ半人前と謙遜してはいるが、エドワードは母とジャック、双方に磨かれた自身の腕前にそれなりの自信を持っていた。
 
 ぼんやりと空想に耽っていると、何かを思い出したようにマーガレットが顔を上げた。
「あっそうそう、これね!」
 一抱えほどもある大きな紙袋をエドワードにずいと差し出して、自慢げにマーガレットが人差し指を立てる。
「朝市での戦利品よ! 今日はメイクイとこんぺいとう、デコレーション用の生クリームにミント……。あと三種類のフレーバーシロップもあるから、アレンジティーはうんと華やかになると思うわ」
 メイクイはハマナスを乾燥させたもので、紅茶のデコレーションに用いる。こんぺいとうは少しだけ沈めて楽しんだり、添えたりするもの。透明なグラスに注いだアレンジティーに入れると愛らしい風情になるので気に入っていた。生クリームとミントはてっぺんにあしらって見た目をより豪勢にするための名脇役だ。
 フレーバーシロップには薔薇や柘榴など様々な味のものがあり、甘みというよりは風味を愉しむものだ。種類が豊富で市場に行けばいろいろなフレーバーのものが手に入る。凝ったアレンジティーにしたいときには必須のアイテムだ。
 そこでエドワードは受け取った包みをまじまじと見つめた。
 メイクイやこんぺいとうはそれほどでもないが、三種類のシロップが入った瓶はそれなりに重量がある。茶色の紙袋はずっしりと重かった。
(こんな細い腕でここまで運んできたのか)
 マーガレットの腕を見やってから、エドワードはくしゃりと――まるで妹にでもするようにマーガレットの髪を撫でて微笑んだ。
「買い物、いつもありがとな。助かってる」
 エドワードを見上げてマーガレットが笑う。
「どういたしまして! えへへ!」
「じゃあ、今日は春らしい華やかな味わいのローズティーにしよう。この間作った薔薇のジャムがあるから、この薔薇のシロップとジャム、そしてメイクイを添えて作るとするか」
「きゃあ、それ、可愛いわね! ローズピンクを茶葉に混ぜてもいいんじゃないかしら」
 確かにそれはいいかもな、とエドワードはうなずく。
 乾燥させた薔薇の花びらローズピンクを茶葉に混ぜて香りを抽出すれば、より一層かぐわしい香りになりそうだ。
「よし、それでいくか」
 
 紅茶やカクテルのレシピを編み出している時、エドワードはなんともいえず幸せな気分になる。
 ティーブレイクの支度をする母を間近で見てきたせいかもしれない、紅茶は人を楽しませるために淹れるもの、という考えが根底にあるのだ。
 いつだったろう。あれはある天気のいい日のことだった。お茶会の準備をする母が、穏やかな顔に笑みを湛えて歌うように自分にささやいたのだ。
『エドワード? お茶を淹れるときはね、真面目に、そして相手のことを考えて、じっくり淹れるの。大事なおもてなしの時間ですもの、真面目に、大切に、だけど楽しんで淹れなくちゃね』
 しばらく屋敷には帰っていないが、母は元気にしているだろうか。
 子羊亭を開店させるための後押しをしてくれ、店のために紅茶を淹れる手ほどきをしてくれた母。
 そんな母の儚げながらも気丈な後ろ姿が目に浮かぶ。
 薔薇のいい香りを体中に纏わりつかせて微笑んでいたあの人。三人のきょうだいたちを慈しみ、多忙な父に代わって惜しみなくたっぷりと愛情を注いでくれた女性ひと
 今でも愛する人のために紅茶を淹れて、一緒に和やかなティーブレイクを愉しんでいるに違いない――。
 
「エドってばなんだか楽しそうね」
「ん。ああ……。……なあ、マッジ、ネイサン。あとで薔薇のお茶を試飲してみてくれないか? 二人の意見が聞きたいんだ」
(母さんの庭を想像しながら、優しい気持ちを込めて作ってみたい)
 そんな胸中を知ってか知らずか、マーガレットはにっこりした。
「もちろんいいわ。エドのお茶、あたしは世界で一番好きよ! 上手だからっていうのもあるけど、とっても素敵な味だもの!」
「私も好きです。エドに負けないように、今日も精一杯デザートを作らせていただきますね。せっかくですからローズティーに合う味のものにしてみましょう」
 ネイサンの言葉に、スツールに腰掛けて足をバタバタさせていたマッジが瞳を輝かせる。
「ネイサンのお菓子っ! うわぁっ、ますます楽しみっ!」
 マーガレットが興奮するのも無理はない。ネイサンの作るスイーツは女性陣に大人気なのだ。アレンジティーに添わせた味わいのものともなれば、やはり気になってしまうのだろう。
 朝食の皿を片づけると、エドワードは二人に向き合う。
「……じゃあふたりとも。今日も一日、よろしく頼む」
 二人からそれぞれに元気よく返事が返ってくる。
「まっかせて!」
「承知しました」
 
 
***
 
 
 ここで少々、エドワードとマーガレットの不思議な邂逅について書いておく必要があると思う。
 それは、この世界における様々な理をものの見事に超越した巡り合わせだった。
 
 ……一カ月ほど前。エドワードが買い取ったばかりのこの一軒家にようやく引っ越してきた日の夜、唐突にそれは起こった。
 一階奥の一室から、不思議な歌声が聞こえてきたのだ。
 まだ幼くぎこちなく、どこか舌足らずな、けれども綺麗な歌声が。
 時刻はちょうど深夜二時を過ぎたばかりだった。深夜未明というのは、人によっては「魔界との扉が繋がる時刻」などとうそぶく逢魔が時である。要するに「何が出てもおかしくない」、という意味だが、二階で荷物の整理をしていたエドワードは、恐怖するより先に呆れた。
「ったく……、なんてお約束な……。俺、疲れてるのか……?」
 時間が時間だけに、近所の子供の悪戯というのは考えにくい。
 エドワードは漆黒の髪をくしゃくしゃと手で乱した。
 
 エドワードが呆れたのには理由がある。
 それは、この空き家の値段がものすごく安かったことである。「破格の値段なのだから、もしかしたらいわくつきかもしれない」……という疑いは当然あった。
 天井から雨が漏るとか、備え付けのものが故障しているなんていう類のものであれば、業者を呼んですぐに解決することができる。
 しかし、一番厄介なのが心霊現象だ。この国でこれを解決しようとなると手間なのだ。公に仕事を頼めるのは教会が認めた霊媒師のみなので、大がかりな手続きが必要になる。
 教会はそういった人外のものに関する仕事の権利を独占しようと、厳しく異能力者たちを取り締まっているのだ。
 
 エドワードはそこで居住まいを正した。
 破格の値段で家を売るからには、家自体に何かしら問題があるのだろうと踏んでいたが、やはり当たりだったようだ。
(やっぱり、あの部屋か……?)
 この一軒家には一つだけエドワードでさえ見たことのない閉ざされた部屋がある。
 不動産屋の男はその開かずの間をなかなかエドワードに見せようとしなかった。そしてとうとう、購入の前に部屋を見ることはかなわなかった。ということは、やはりこの一軒家には人に言えないような「何か」があるのだ……。
「……俺も馬鹿っちゃ馬鹿だよなあ……」
 気が重い。けれど確かめてみるしかない。
 エドワードは懐から錆びた鍵を取り出し、まだ一度も足を踏み入れたことのない部屋へと足早に向かった。
「うう、さぶ……」
 初春の空気は刺すように冷たく、エドワードはカシミアのカーディガンの前を指でしっかりと掻き合わせた。
 もしもこの家に霊の類が住みついているならば、早々に祓ってもらわなければならない。依頼は面倒だがやむをえないだろう。
 あまり酷ければ出ていくということも考えなければならないが、せっかく見つけ出したいい物件だ、それはできれば避けたい。
 少女のか細い歌声を追いかけながら、エドワードは一階奥のつきあたりの部屋目指して歩を進めた。
「ここ、だよな……?」
 件の部屋の扉は、特別鍵の数が多いとか、ドアにやたらおかしな札が貼り付けてあるとか、そういった変わった様子は全くなく、他の部屋と何ら変わらないシンプルな作りだった。
 錠に鍵を挿し込んでゆっくりと回し、やたら重たい部屋のノブをひねって開ける。
 すると――
「……うわっ!!」
 すさまじい量の埃に、鼻をやられる。こんなおぞましい場所に足を踏み入れようとしていることを、エドワードは少しだけ後悔した。
 ランプの灯りを翳して、闇の中に身を投じる。
 薄闇の中目を凝らすと、部屋の中はまさに「荒れ放題」だった。
 感触の悪い木の床は床板の大部分が腐食しており、エドワードが歩くたびにギィギィと薄気味の悪い音を立てる。
 壁もまた酷かった。可憐な花柄の壁紙が中途半端に引っぺがされ、所々むき出しになっている下地がかなり見苦しい有り様だ。剥ぎ取られ方も尋常でなく、おまけに壁を相手に暴れたようなぼこぼこした痕跡があちこちに残っている。
 質素な木の椅子はこれでもかというほど大胆に脚の部分がへし折られているし、ペンダントランプには真っ白な蜘蛛の巣が幾重にも張られていてうっかり触れるのも躊躇してしまうほどだ。
 部屋の中で唯一相当な値打ち物と思われるカーテンはただの小汚いぼろきれと化し、今は申し訳程度にカーテンレールにぶら下がっている。
 エドワードはため息をついた。
「……よくこんな家を売りに出せたものだ……。ここで一体なんの惨事が……」
 やはり、恐怖するより先に呆れてしまう。
 人に売りつけようというのだ、他の部屋同様、この部屋ももう少し綺麗に整えることはできなかったのだろうか……。
「ん?」
 エドワードはふと、首筋を誰かに撫で上げられたような気がして首に手をやった。
(蜘蛛の糸か……?)
 ……ここまで荒れ放題の部屋なんだから、いつ蜘蛛の巣に触れてもおかしくないよな。
 そう思ったエドワードだったが、次の瞬間、薄闇の中をふわりと漂うあるものに気づく。
 光の粒子を帯びた金色の何かが、エドワードの視界に移る。そしてそれは、不思議な感触を伴って彼を狼狽させた。
 妙にふわふわと、肩や首に絡みついてくる金色。エドワードの肌を確かめるように、背後からまとわりつく、それ。
 明らかに蜘蛛の糸などではない何か――。
「っ……、なんなんだ……?」
 エドワードは思わず肩口に手を伸ばした。さらさらとした感触が指先を滑る。それを掴んでみて、エドワードは瞠目した。
「髪の毛……っ!?」
 艶やかなそれをひと房手に取ってまじまじと見つめていると。
『あんた、誰? あたしの髪に触れるの?』
「うわっ」
 思わず振り向いた、その先には。
(冗談だろ……、こんな――)
 そこには、黄金色の髪をふわふわと靡かせ、質素なドレス姿で宙に浮かんでいる幼い少女の姿があったのだ!
『……なによあんた。もしかして、あたしの声が聞こえてるわけ?』
 きついまなざし。ガラス玉のようにきらきらとした瞳はペリドット色。眉山のくっきりとした細い眉はどこか勝気そうな印象を与える。今は真一文字に引き結ばれているが、花弁のような淡いピンク色の唇がとても可憐だ。
 少女はそこで泳ぐようにすいと上空に浮上した。
 グレイッシュブルーのドレスは風を孕んでふっくらと膨らみ、実体を持っていれば恐らく引きずるほどに長いだろうと思われる立派な金髪は揺蕩うように宙を漂う。
 エドワードはそこでわずかに後ずさりした。
(浮いてる……!)
 これは恐らく人外の何かだ。それも魔物や異形のものとは違う、人に近い何か。例えばそう……、幽霊のような――。
 勘弁してくれと思ったが、足の有無はなんとなく確かめなかった。うら若い少女のドレスの内側を覗くような下劣な趣味は持っていない。
 そこで少女は値踏みするように腕を組み、怪訝そうに眉をひそめた。険しい顔つきで、上空からエドワードを見下ろす。
『あんた、只者じゃないわね。もしかしてあたしを退治しに来たの?』
「俺の名前はエドワード・アディンセル。しばらく前にこの一軒家を買い取った人間で、言うなればこの家の今のあるじだ」
『ふん。主だかなんだか知らないけど、あたしをここから引きはがすことはできないわ。だって、あたしだってここから離れる方法を知らないんだから』
「……よくわからないけど、お前、この家に取り憑いてる座敷童子か何かか? 力のある霊媒師にここに繋ぎとめられでもしたのか?」
『……はあ? ザシキワラシ?』
 座敷童子とは、東国の昔話に登場する妖怪のことだ。一度座敷童子が住みつくと、その家は長きにわたって栄え続けるという。
 エピドートでも同じような「幸福をもたらす精霊」の存在が確認されており、似たような話は枚挙にいとまがない。住みつかれた家の者は大層喜び、たとえ霊媒師に依頼してでもけして彼らを手放そうとはしないのだとか……。
『そのザシキワラシとやらがなんなのかは知らないけど、別にあたしは霊媒師に繋ぎとめられてるわけじゃないわ』
 少女はきゅっと唇を引き結んだ。そして大仰に息を吐く。彼女の動きに合わせて、ドレスにあしらわれたいかにも質の悪そうなレースが揺れた。
『あたしはずっと昔にここで病にかかって死んだ。でも悪霊なんかじゃないわ。悪さはしたことないし、第一、この部屋から出たことだってないんだから。出られない、と言った方が正しいかしら』
「……出られない? そうなのか? 遺体は?」
『……ここは、あたしが生きてた頃は娼館だったの。この部屋はあたしたち下働きが眠る場所だった。遺体はあたしが死んだときここから運び出されたけど、それからどうなったのかはわからないわ。気付いたときには魂だけがこの部屋に縛りつけられてしまっていたの』
「……」
(この家が昔は娼館だった? それは一体いつの時代の話なんだ……?)
 少女は過去を懐かしむように遠くを見つめている。
『ここでたくさんの下働きたちが死んでいったけど、魂だけのあたしには何もできなかった。流行り病は恐ろしいものね、あっという間に人々の命を刈り取ってしまう…………』
 そこで、とある熱病の名が脳裏に浮かぶ。この国がまだ小さかった頃、ある熱病が流行して多くの人々の命を奪ったのだと、以前寄宿学校で勉強したことがある。
(確かに昔、そういう病気で死んだ人間が数多くいたらしいが……)
 今ではよくある感染症の一つとしてすぐに薬を処方してもらえるものの、その頃はワクチンもなく、熱病の感染者を減らす手立てがなかったのだそうだ。
『すごく辛かったわ。何日も高熱が続いたこと、よく覚えてる……』
 少女は瞳を伏せて悲しそうにつぶやいた。
 エドワードは痛ましさから眉根を寄せた。そして、そっと訊ねてみる。
「……お前みたいな小さな娘が、どうして娼婦になんかなったんだ」
『はあ? そんなの決まってるわ。家族のためよ』
 少女は夜闇を揺蕩いながらきっぱりと答えた。冗談めかしているような雰囲気はなく、どこまでも真剣な表情だ。
 ……「家族のため」――。
(なるほどな……)
 口減らしのため、借金のために、娘を大都市の娼館に売る。この国が豊かになる前、寒村などでそういったことが盛んに行われていたことは知っている。
 苦しく切迫した生活を少しでも楽にするための「犠牲」である。売られた娘たちは娼館で下働きなどをしながら生活し、大きくなればやはり娼婦となる。
『派手な恰好がしたかったからとか、遊ぶためのお金が欲しかったからとか、そういうんじゃないの。家族が食べていくためにはしょうがなかったのよ。あたしの村はとにかく貧しかったの。明日どころか、今すぐ口にできる食料さえないんだもの。あたしも弟も、栄養が足りなくてがりがりで、いつもひもじい思いをしていたわ。……まあ、今となってはそんなことはどうでもいいけど……。ねえ、エドワード……、だったかしら』
「ああ」
『みんな、目に見えないあたしのことを恐れて、この家を売りに出し続けた。でも、あたしは好きでみんなを怖がらせているわけじゃないの。そりゃあ、あたしがいると、この部屋は少しおかしくなるみたいだけど、それはあたしがここにいるべきものじゃないからみたいだし……』
 なるほど、この部屋の荒れようは彼女の影響だったのか。
 意図的にではないのだろうが、日常的にこう荒れるのは確かに恐怖以外の何物でもないだろう。長年売りに出され続けているというのも頷ける。
 少女はぎゅっと両手を組み合わせた。縋るような目で訴えかける。
『あたし、ここから出て自由になりたいわ。外の世界を見てみたい。昔と比べて変わったかしら……。あたし、もうずっとこの部屋で一人ぼっちだったの。すごく寂しかったし、早く自由になりたくて仕方なかった。そして、できることなら、みんなのところへ行きたいわ』
 みんな、というのはここで死んだという見習いたちのことだろう。
「どうして出られないんだよ。自由になりたいとか言うなら、出てみればいいだろ」
 率直な感想を口にする。……と、太ももにすさまじい蹴りをお見舞いされた。ブーツの踵らしき突起が太ももにめり込み、エドワードは思わず呻いた。幽霊に足はあるのかと思ったが、彼女の場合ちゃんとあるようだ。
『出られるものなら出てるわ!! この朴念仁っ!!』
「つ……!! 痛ぇな!! いきなり人の足を蹴るなよ、危ないだろ!?」
『そっちがわからずやだからでしょ!?』
 二人はしばらく火花を散らして睨み合う。
 が、負けを認めたエドワードはふいと目を逸らした。
(年下相手に大人げなかったな)
 相手が困っていると知りながら、年甲斐のない対応をしてしまった気がする。
 漆黒の髪をさらりとかきやってから、渋々エドワードは少女に向き直った。
「……で? 出られない原因がなんなのか、お前にはわかってるのか?」
『……あのね、なんでだかこの扉、あたしを弾くの。今だってこうして、ほら……』
 少女がそろそろと扉に触れた途端、扉からばちばちと青白い閃光が走り、少女の手をぴしゃりとはねのけた。
『いたた……。ほらね』
「見事に嫌われてるな……」
『そうなの。もうずっとこんな調子で、あたし、かなり長いことこの部屋に閉じ込められてるの……。でも、あたしの髪の毛をあなたが触れたっていうことは、あなたが鍵なのかも……』
 刹那、少女の白い手のひらが差し出されてエドワードは面食らった。彼女は早く手を取れとでもいうように、柔らかそうな手のひらを突き付けてくる。
 そこにあるのは、真摯なまなざし。
 少女の視線を受け止めたエドワードは、そのペリドットの瞳に一瞬だけ「何か」を垣間見た。
 刹那、エドワードのこめかみにずきりと激痛が走る。
(つっ――!?)
『お願い、ジョゼフ! あたしをここから出して!』
 甲高い声。……悲鳴にも似た。
 誰かが声を振り絞っている。泣いているのか、その声はか細く震えている。
 その時、辺り一面に強烈な光が広がった。
 
 ……狭い裏庭。背の高い門扉を挟んで、金の髪の少女と一人の青年が向かい合っていた。
 少女は門扉の柵を握りしめ、力なくうなだれて泣きじゃくっていた。
「あたしはもう、こんな場所にいたくないの! 好きでもない相手に純潔を捧げるなんて、死んでもいやなの!」
 大きくしゃくり上げ、彼女は小さな背を丸めてしくしくと泣き始めた。
 声はあの幽霊の娘のものにそっくりだった。もしや自分は、彼女の過去の姿を見ているのだろうか?
 ややあってから、少女は泣き濡れた顔でおずおずと青年を見上げ、そのおもてを切なげにくしゃりと歪めた。
「だって、あたしが好きなのはあなたなの……、ジョゼフ。あなたがいるのに、あたし、お客さんなんて取りたくない……」
「……やっとお前の口からその言葉が聞けた。俺は今、これ以上ないくらい幸せだ」
 青年の言葉に、少女は激しく嗚咽した。
「ジョゼフ……。あたし、ここを出たい。村に帰りたい……。あの家に」
「俺が必ず、お前をここから出してやる。一緒に帰ろう、エーデルシュタインに」
 その言葉に、少女は涙を拭って薄く笑った。
「嬉しいけど無理よ……。一週間後に常連の相手をすることになったの。遅すぎたんだわ、あなたへの気持ちに気づくのが」
 肝心の相手の男の顔が見えない。けれど、二人が門扉越しに手を取り合っているのは確かだった。
「それまでに必ずお前をここから連れ出すよ。誰にも邪魔なんかさせるものか」
「ずっと素直になれなかったあたしを責めないの? ジョゼフ……」
「責められるわけないだろう。俺だって同じだったんだ。お前の力になってやりたかった。お前を自由にしてやりたかった。お前に年頃の娘らしい暮らしをさせてやりたかったんだ。身体を売る必要もなくて、辛い労働を強いられることもないような暮らしを。……今度こそお前を自由にしてみせる。俺がお前を、必ず――」
 男は教え諭すように続ける。
「だから今度は、お前が選べ。マーガレット。客に『選ばれる』のか、それとも俺を『選ぶ』のか」
 そこで少女は、門の柵を握りしめたままふわりと微笑んだ。
「あなたを選ぶに決まってるじゃない……」
「なら約束しよう。明後日の早朝、お前を迎えに来る。だからここで待っていてほしい。必ずこの娼館から出してやるから」
「嬉しい、絶対よ。きっとあたしを連れ出してね。あたし、待ってる。何があっても絶対待ってるから――」
 
「今のは――」
『え……? どうしたの?』
 顔を覗き込んでくる少女に、エドワードは首を横に振った。
「……いや、何でもないんだ……。ただちょっと、変なものが見えて」
『……そう、なの?』
「ああ……」
 ……今のがこの少女の「過去」?
 そうだとしたら、なんと哀れな一生だったのだろう。
 少女はきっと、約束を果たすことができないまま病で死んでしまったのだ。あのジョゼフという青年と結ばれることもなく――。
 それではさぞかし無念だろうと、エドワードはこぶしを握った。
 ふつふつと湧き上がってくる、「絶対にこの少女をここから出してやらなければ」という不思議な使命感に駆られて、彼は少女を強く見据えた。
「お前はここから出たいんだったな?」
『うん……、お願い。あたしに試させてほしいの』
 エドワードは黒髪をかきやった。
「……さっき、お前の蹴りが俺に直撃したってことは、俺は幽霊であるお前に触れるし、お前も俺に触れるってことらしいな」
『うん。エドワード」
 エドワードは手を差し出した。すぐに少女の手のひらが重ねられる。不思議なことに、その手は人間の娘のそれとほとんど変わらない感触をしていた。
 ゆっくりと少女の手を握ると、扉に近づく。
 ここまできたら賭けだ。
 関わり合ってしまった以上、少女をむげに扱えるわけがない。
 腹をくくると、エドワードはそっと、目の前にある扉を開けた。
「……どうだ?」
 手を引きながら、浮遊したままの少女を扉の外へと誘導する。
 そのまま廊下へ出てみたが、先ほどのような青白い抵抗の光は発せられない。扉はおとなしく少女の通過を認めたようだ。
 部屋をするりと抜け出し、少女は瞠目する。
『……エドワード。あたし、出られたの?』
「らしいな。もしかすると、俺がついていなきゃ駄目なのかもしれないが……」
『それでも嬉しい!! ありがとエドワードっ!!』
 はしゃぎ声とともに柔らかい二の腕が首に絡みつく。エドワードは赤面した。
「お、おい、くっつくなっ!!」
 宙に浮かんだままエドワードにしがみつく少女を、必死で引きはがそうとする。が、どういうわけなのか全く歯が立たず、エドワードはおとなしくしがみつかせてやることに決めた。
『あのね、あたしの名前はマーガレットっていうの! 愛称はマッジよ!』
 マーガレットは宙に浮かんだままとびきりの笑顔を浮かべている。
「マッジでもマギーでもなんでもいい。ほら、出してやったんだから好きにしろよ、もう……」
 苦笑しながら言ってやる。
「そうさせてもらうけど、でもでも……」
 エドワードの肩から手を離し、マーガレットはひょいっ、と床に着地する。
 すると、うっすらと透けていた輪郭がくっきりと色濃くなり、それまで引きずるほどに長かった髪が腰の辺りまでしゅるしゅると縮んで短くなっていく。
 今までは透明で見えなかった脚が現れ、すとんと床に着く。
 次の瞬間、はっきりと実体を持った幼い少女の姿がそこに完成した。
「な……!」
「こういうこともできるみたいなの、あたし!」
 目を覚ませとでもいうように下からぺちっと頬を叩かれる。彼女をまじまじと見つめて、ようやくエドワードはマーガレットが人間の姿になったことを理解した。
「魂の実体化……? 幽体が人間の姿に変化したとでもいうのか……?」
「よくわからないんだけど……ふふ! 久しぶりの外~っ!」
 周囲を嬉しそうにくるくると走り回られて、もはや咎めることもできない。
 古びたドレスの裾を上品につまむと、マーガレットはにっこりと微笑んだ。
「ねえ、エドワード。本当にありがとう。あたしを祓いたければ霊媒師に頼んでもいいわ。まだ未練はあるけど、あたしの声を聞いてくれる人に巡り合えただけで幸せだもの」
 心底嬉しそうな、花開くような満面の笑みだった。
「……」
 がりがりと、エドワードは頭をかく。
 ……愛着が、湧いてしまった。
 祓うなど、到底できそうにない。
「……お前はこれで、自由になれたんだな。それを思うと俺もなんだか嬉しい気持ちだ。けど、お前はこれからどうするんだ?」
 少し考え込んでからエドワードは続ける。
「仲間のところに行くって言っても、どうしたらいいのかわからないんだろ?」
 するとマーガレットは待ってましたとばかりにぴんと人差し指を立てた。
「あなた、この家の主になったのよね? じゃあもう一つお願いが。あたしの、この世界への未練を、なくしてほしいの……」
「つまり?」
「人間になって外の世界のことがもっと知りたい!!」
 マーガレットはここぞとばかりに笑顔を作って見せた。
「……はあ」
 真っ白な歯をのぞかせてにぱっと笑うそのおもてには邪気も打算もなく、ただひたすらに外の世界への好奇心だけが浮かんでいる。
(この笑顔が曲者だな……)
 エドワードは息をついてから口元を歪めた。
「……わかった。お前のことはよくわからないが、この家にいる以上は家族だろ? ここまで来た以上、とことん付き合ってやるよ」
「それって、あたしに外の世界を見せてくれるってこと?」
「ああ。その代わりと言っちゃなんだが、俺は今自分の店で働いてくれる従業員を募集しているところでな。お前、人の姿にもなれるみたいだし、給仕係は女の方がいいだろ。もしよかったらやってみないか」
「いいのっ!?」
「ああ」
 
 とんでもない拾いものをしてしまったと気付いたのは、言葉にした後だった。
 地縛霊のような不思議な少女。益をもたらすか害をもたらすか、全くもって予測不可能。
 それでも。
「わかったわ。あたし、立派な給仕係ウェイトレスになってみせる。よろしくお願いね、エド!」
 彼女の笑顔に、自分は弱いらしい。
 降参の白旗を心の中で掲げ、エドワードは差し出された少女の手を握りしめたのだった。
 
 
***
 
 時を同じくして、セナーテ地区中心部にそびえるヴァーテル教会本部。
 幹部たちにあてがわれる私室の中、スピネルはぴくりと長い耳を動かした。紅い瞳を見開くと、尖った牙を覗かせながら微笑する。
「“何か”が目覚めたわ。……うふふ」
 彼女はフリルを幾重にも連ねた漆黒の装束を翻すと、重厚な真紅のカーテンを開いて窓の外を見た。
「……さてと。約七百年ぶりに大物が目覚めた気配がするけれど……果たしてどんな獲物かしらねぇ」
 前回の大捕り物は胸が躍った。一世代前の邪神を仕留めたのだ。
 代替わりを経た今では大人しいもので、イスキア大陸の邪神崇拝者は当時に比べるとはるかに少なくなっている。
 しかし、当時のスピネルはその戦いぶりを評価されて大層もてはやされたものだ。
 今回はどんな魔物だろうか。感じられる力の気配はとても近い。エピドート国内、それも近隣の市街地のどこかだろう。
 ここまで強い波動を伝えてくるのだから、相当な魔力の持ち主であることは間違いなさそうだ。
 スピネルは尖った犬歯をのぞかせてくすくすと笑った。自らの身体を両腕で抱きしめ、恍惚とつぶやく。
「ああ、わくわくしちゃう。今回も愉しませてね? 魔物さん。うっふふ……!」
 
 

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