SequelⅠ 永遠に続く恋歌

 

 ――スフェーンの王都、黄金の都アガスターシェ。

 その北区に位置するリシャール城では、今宵大規模な仮装舞踏会が開かれていた。

 エテ宮の広間いっぱいに色とりどりの色彩が躍る。目にも鮮やかな仮面をつけた男女が舞踏の列をなし、楽師の奏でる激しい舞曲に合わせてくるりくるりと身を翻す。

 人々の合間を上品なお仕着せを纏った侍従が行き交い、時折恭しく微笑んで酒杯を渡す。

 

 そんな中、壁際で妙齢の女性たちに取り囲まれる金髪の男の姿があった。

 背の中ほどまである黄金色のまっすぐな髪。上質なサファイアを思わせる澄んだ双眸と、すらりとした長躯。
 纏っているのは光沢のあるミッドナイトブルーの燕尾服だ。襟元は白いシルクの蝶ネクタイとバイオレットサファイアのラペルピンで粋に飾っている。
 
 男は女性たちの纏う目もあやな綺羅に負けず劣らず見目麗しかった。
 ……いや、もしかすると広間の女性たちが束になって挑んでも容易には勝てないのではないか。
 思わずそう思ってしまうほど、男の外見は美しく人好きのするものだった。
 それに加え、当人から惜しげもなく放たれている幸福のオーラのようなものが、知らず知らずのうちに広間の人々の目を惹きつける。
 女性たちの視線はみな蜜に吸い寄せられる蝶のごとく男の顔の上で止まった。
 ……美しい。声をかけてみたい。さらに言うなら、一夜の恋の相手に選んでほしい。
 そうした赤裸々な欲望も露わに、女たちは熱心にその男を見つめ続けた。
 
「わたくしはクラッセルから来たのだけれど、正直あなたのような素敵な殿方にお会いするのは初めてよ」
「おや、そうなのですか? とてもそうは見えませんね。貴女くらい魅力的な御婦人ならば、男は放っておかないでしょう。私以上の色男にお目にかかる機会など数えきれないほどあるはずですが」
「ふふ……、どうかしら。ねえ、あなたならどうする?」
 女は挑発するように婀娜っぽく右手を彼の前に差し出した。
 金の髪を背に流したその男は、事もなげに彼女の手を取って言う。
「もちろん放ってなどおきません。この美しい素肌の隅々にまで唇をつけ、愛をささやき、貴女の口づけと抱擁を乞います。……むろん、貴女がお許しくださるなら、ですが」
 言って、彼は手袋越しに触れるだけの口づけを落とした。
 そこで一斉に女性たちが色めきたつ。きゃあああ!という黄色い歓声を上げてはしゃぎ、彼女たちはさらに男に詰め寄った。
「噂には聞いていたけれど、本当だったわ。スフェーンの殿方っていいわねえ」
「本当。物腰が柔らかくて素敵だわあ」
「ありがとうございます。恐悦至極に存じます」
 そこで彼はやおら自らの金髪を手で梳き下ろした。その拍子に持ち上がった左手――正確に言うならばその薬指――に、女性たちの視線が一斉に集中する。
 そこに金色にきらめく結婚指輪を発見した女性陣は落胆したように肩を落とした。
「まあ。奥様がいらっしゃるのね……」
 男はそこで困ったように微笑した。
「奥様、などと……。そのような呼び方をしてもよいものかどうか……」
「あら。今のお相手に満足していないということ?」
 待っていましたとばかりに身を乗り出す女たちに向けて、男はうっとりするような笑みを浮かべてみせる。
「いいえ……。そのような。むしろ逆なのです。あの方は素晴らしい方だ。私の支配者……、私の女神……、いえ、まさしく『私の女王陛下』と呼ぶにふさわしい御方です」
「は……?」
 するとその時、濃紫のドレスを纏った小柄な少女が≪舞踏の間≫の向こうからぱたぱたと駆けてきた。
「なんなの、クロード!? さっきから人をまるで鬼嫁みたいにっ……!」
「ああ……、お待ちしておりました、私の陛下。まずは一曲お相手願えますか。貴女の最初の相手が務められるのを心待ちにしていたのです」
「もうっ!! そうやってまたすぐ逃げようとして……、あっ……!?」
 少女の身体が大きく均衡を崩してぐらりと傾ぐ。
 その華奢な身体がタイルに叩きつけられる前に、クロードは長い腕を伸ばしてしっかりと彼女を抱きとめた。
「……お怪我は」
「だ、大丈夫……」
「全く……。バイオレッタ、ハイヒールで走るのはおやめくださいと一体何度申し上げればわかってくださるのです。その靴は危なっかしくて大変ひやひやします。たとえ公務の時であろうとももっと踵の低いものに変えるべきです」
「だ、だって……! これでも結構気を遣っているんだから。クロードと並んだ時に違和感がないかどうかとか、不釣り合いに見えないかとか……!」
「おや、これはまた健気な。寝室では夜ごと私をこき使っていらっしゃる貴女が、よもやそんな可愛らしいことをお考えになろうとは……」
「ちょ、ちょっと……! どうして今そんなことを……!」
 と、そこでバイオレッタはいつの間にか横抱きにされている自らの状況に気づき、慌てた様子でクロードの胸を押しやった。
「も、もういいでしょう? 下ろして……!」
「……それは、かまいませんが」
 渋々クロードは彼女をタイルの上に降ろしてやる。
 バイオレッタは居住まいを正すと照れ隠しのようにこほんと咳払いをした。
「え……、もしかして、クロード様の奥方様って――」
「ええ。私はスフェーン女王バイオレッタ様の王配です。ついでに申し上げますと、三月みつき前に式を挙げたばかりですよ」
 誇らしげに胸を張るクロードに、女性たちが目に見えてしょんぼりする。
「結婚して三月じゃ割り込む余地はなさそうねえ」、とか、「まさか女王陛下の入り婿だったなんて……」などといったいかにも物悲しいつぶやきが飛び交う。
 バイオレッタはそこで優雅なお辞儀をした。
「こんばんは、皆さん。今夜はお集まりいただきありがとうございます。今日はどうぞ最後まで楽しんでいってくださいね」
 ドレスの裾をつまみ、王室直伝の完璧な笑顔を浮かべてにっこりする。
 すると、女性たちはうっとたじろいだ。
 
 バイオレッタはそんな女性たちの様子をさほど気にも留めず、集団の中の一人に親しげに話しかける。
「そうそう。貴女、クラッセルからいらしたのよね?」
「え、ええ……」
「クラッセルといえばワインよね! 実は最近ではわが国スフェーンでもワインの醸造に力を入れているのよ。製造法はもちろんクラッセル公国から伝わったものだけれど、早くも味がいいと評判でね。よろしかったら一杯いかが? ぜひ出来栄えについて感想を聞かせてほしいわ」
「え……、わたくしは、その。ワインにはさほど興味がありませんので……」
 女性たちは気まずそうに顔を見合わせるばかりで、バイオレッタの話には乗ろうともしない。
 見るからに迷惑そうな素振りを見せる女性陣に、バイオレッタはおろおろと慌てふためく。
「あ、あの……っ」
「……仕方ありませんね」
 クロードは微笑とともにつぶやき、傍らを行く侍従の手から銀製のトレーを受け取った。
 ワインの杯の載ったそれを片手に持つと、女性たちの繊手に一杯ずつ手渡してゆく。
「こちらがただいま陛下のお話にあったワイン、『グラーツィア優美』です。どうぞお召し上がりください、御婦人方」
「ま、まあ。では、王配殿下のお言葉に甘えて。いただくわ」
 クロードは次々と女性たちにワインを配ってゆく。
 美貌の王配から恭しく扱われて、女性たちはまんざらでもなさそうに笑い合っている。
 バイオレッタは給仕を終えて戻ってきた彼の肘をこそこそと小突いた。
「……もう。変なところで気を利かせないでちょうだい。わたくしだって皆さんと仲良くなりたかったのに」
「そうは申されましても、やはり御婦人方には男が給仕をするのが筋というものでしょう。それに、私に給仕をしてもらえる方がこの方たちは嬉しいのですよ」
 どこまでも奉仕精神旺盛な夫に、バイオレッタは少しばかり呆れてしまう。
「べ、別に構わないけれど、そこまで気を遣ってくれなくてもいいわ。女は女同士っていう言葉があるじゃない」
「……おや、では彼女たちの間でねちねちと集中攻撃されている方がよかったですか?」
「そ、それは……!」
 鋭い指摘にバイオレッタは唇を捻じ曲げ、負けじと彼を睨みつけた。
「元はと言えばあなたがいけないんでしょう。必要以上に整った見た目をしているから女性が群がってくるのよ」
「これ以上一体どうしろと? この自慢の顔を崩せとでも言うおつもりですか?」
 ぬけぬけと言うクロードに、バイオレッタはむっとした。
 確かに、見た目がよければそれだけで一定の評価はもらえる。衣服や髪型に清潔感があって、なおかつ好感の持てる雰囲気を纏ってさえいれば、人間関係においてはそれだけでじゅうぶん有利だ。
 その点クロードは申し分ない。持ち前の端整な美貌を諸外国との外交の場でも遺憾なく発揮しているし、そのおかげで公務が円滑に進むこともあるほどだ。
(まあ、もちろんそれだけじゃないのだけれどね……)
 リシャールが存命だった頃から思っていたが、クロードは気配り上手だ。どちらかといえば冷静沈着で言動もひっそりとしているのに、相手の心を推し量ることにかけては一流で、相手が欲しがっているものを即座に察知して与えることができる……そんな男なのだ。
 今回の件も、女性たちの求めているものをうまく汲み取って与えただけにすぎないのだろう。
(……だけど、なんだか気に入らないわ。わたくしはクロードの奥さんなのに)
 賓客の女性たちをうまく話に乗せられなかったこと、おまけに男であるクロードにその尻拭いをさせる形になってしまったこと。
 そして何より、クロードが必要以上に彼女たちに親切にしているのが無性に腹立たしくて、バイオレッタはそこでふいと夫に背を向けた。
「お待ちください、バイオレッタ。せっかくの舞踏会だというのに、私と踊ってはくださらないのですか?」
 背に投げかけられた実に残念そうな言葉に、彼女はすげなく言い返す。
「ええ、踊りませんわ。生憎、意地悪でからかい上手な殿方とはくっついていたくありませんもの」
 にべもなくそう突っぱね、バイオレッタはクロードを置いて歩き出した。
 
 
***
 
 
 翌朝、リュミエール宮の女王執務室を出たバイオレッタは、廊下の途中でそっとあくびを噛み殺した。
「ふあぁ……」
 白銀のまつげをゆっくりと瞬かせると、指先で涙の浮かんだ目尻を拭う。
 こうしたやや行儀の悪いしぐさや言動は、基本的に女王執務室の外でしかできない。
 執務室の中でだらけていると、大抵クロードに叱られる。
 女王のくせに威厳がない、だとか、官僚たちに下に見られるからやめろ、などと怒られてしまうのである。
「……少しくらい許してくれてもいいのに」
 説教をする時の彼の厳めしい形相を思い浮かべ、バイオレッタは小さく笑った。
 
 東の翼棟にある大臣たちの執務部屋、プランタン宮、魔導士館と順繰りに回っていき、最後に魔導士館の長と軽い世間話をしてから本城であるリュミエール宮に戻る。
 早秋特有のからりと乾いた風を胸いっぱいに吸い込むと、彼女はふう、と息を吐いた。
「あーあ。昨夜、意地張らないでクロードと踊ればよかったなぁ……」
 穏やかなセルリアンブルーの秋空を見上げ、バイオレッタはため息まじりにこぼした。
 二人はもともと舞踏が好きだ。何せ王宮に帰還してきたばかりのバイオレッタに踊りの手ほどきをしたのは彼なのである。
 あの夜は素晴らしかった、とバイオレッタはうっとりした。
 絡め合った手と手がびっくりするくらい熱かったことを覚えている。そして、クロードのリードがとにかく絶品だったことも。
 まだダンスに慣れていなかったバイオレッタを、クロードは巧みに教え導いた。ステップの踏み方や相手との呼吸の合わせ方、身の翻し方などを事細かにその身体に叩きこんだ。
(あんなことをされたら好きになってしまうのは当たり前だと思うわ……。本当にすごい人……)
 たかだか一年前の話でしかないというのに、バイオレッタは未だに当時のことを振り返っては恍惚となっている。
 最初はいわゆる『憧れの君』でしかなかった。絶対に手の届かない男性だと思っていた。
 しかし。
「……まさか、本当に結ばれる日が来るなんて……」
 口に出してしまってから、バイオレッタはこそばゆさに身をすくめた。
「わ、わたくしは一体何を……! ダメダメ、これから政務があるんだからっ」
 必死で気持ちを切り替えようとするも、眼裏に浮かび上がる夫の麗姿にまたしても恋の熱が点る。
 日ごと夜ごと丁寧に愛されたバイオレッタの身体はまるで言うことを聞いてくれず、夫の顔見たさに一刻も早く彼の待つ女王執務室へ向かいたくなる。
 その時……。
「ごきげんよう、女王陛下」
「へ……?」
 見れば、バイオレッタの周囲にはいつの間にか年若い貴族の青年たちが集まってきていた。
 わけもわからずおどおどしていると、そのうちの一人が進み出て恭しくこいねがう。
「女王陛下。よろしければ夫婦の愛というものについて僕たちにご教授くださいませんか。僕たちは貴女の新婚生活について大変興味があるのです」
「え、ええ……。少しだけならかまいませんけれど……」
 きらきらした目で見つめられて、バイオレッタは渋々彼らの輪へ加わる。
 ほんの数十分だけのつもりが思いのほか盛り上がってしまい、バイオレッタは会話のやめどきを完全に逃してしまっていた。
(ああ……、早くこの場を抜け出さないと、政務が……)
 脳裏にクロードの鬼のような形相が浮かんでくる。
 生粋の仕事人間である彼の機嫌を損ねれば、たとえバイオレッタであろうとも手が付けられない状況になってしまう。ガミガミとねちっこく責め立てられ、王としての責任や時間の大切さといったものについて延々と説教をされてしまう。
 ……ああ、一刻も早く女王執務室へ戻らなくては。
 そう思うのに、異国の珍しい話や特産品の話を次々と聞かされてしまってはどうにも動けなかった。
「陛下は結婚されてからますますお美しくなられた。なあ、君たちもそう思うだろう?」
「ええ。王配を迎えられてから、陛下は以前にも増して素敵な女性になられました。こうしていると人妻の色香がひしひしと伝わってきますよ」
 バイオレッタはその衝撃的な言葉を胸の裡で反芻する。
(ひ、人妻の色香……)
 そこでようやくこれが彼らからの火遊びのお誘いであることに気づき始めたものの、うまく切り抜ける方法が思いつかず冷や汗をかく。
「そういえば……陛下は近頃乗馬を習っていらっしゃるとか?」
「え? ええ……」
「実は僕、王都郊外にとてもいい乗馬コースを知っているんですよ。よろしければぜひ今度招待させてください」
「それはいい。乗馬をなさる陛下のお姿はさぞや素敵だろうなあ」
「たどたどしく馬を駆る陛下のお姿はきっととてもお可愛らしいのでしょうね。これはぜひとも拝見したいものだ」
 どこかいやらしく下卑た笑い声が辺りに広がる。
 バイオレッタはぞっとして、絡みついてくる彼らの腕を振り払った。
「も、申し訳ないけれど、わたくしもう、この辺りで――」
 すると次の瞬間、回廊の向こうから一同を咎めるような鋭い一声が飛んだ。
「――女王陛下。このようなところで何をなさっておいでですか。政務が滞っております、早く執務室へお戻りください」
 言って、彼はバイオレッタの身体をさりげなく自分のそばへと引き寄せる。
「……クロード!」
 驚いてサファイアブルーの双眸を見上げると、彼は低い声で吐き捨てた。
「……このような見え透いた手口にまんまと乗せられて。貴女は本当に迂闊な女性だ。私と結ばれてまだ半年と経っていないというのに」
「迂闊な女性」という一言にいささかむっとして、バイオレッタはつい不満の声を上げてしまう。
「迂闊なんて、そんな――」
「いいえ。貴女には警戒心というものが圧倒的に不足しています。私のような前科者に指摘されるのは大変不本意でしょうが、人を疑わないその純真さと危うさは男どもにはかえって毒です。……さ、行きますよ」
 クロードが有無を言わさぬ力強さで背を押す。
 バイオレッタはそのままリュミエール宮にある女王執務室まで彼に連行される羽目になった。
「ま、待って……! もう少しゆっくり歩いて……、足が……!」
 足がもつれそうになる――と抗議しかけたバイオレッタを、無慈悲な王配は冷たい声で遮った。
「あのような品のない輩と一緒にいるべきではありません。貴女の女王としての格が下がりますよ、バイオレッタ」
「そんな……!」
 バイオレッタは「気に入らない」、と薄紅の唇を捻じ曲げる。
 昨夜は自分も女性たちに囲まれてへらへらしていたくせに、妻には偉そうに説教をするとは一体どういうことか。
 バイオレッタはそこでクロードの腕を強引に振り払った。
「……陛下?」
「……あなたっていっつもそうよね。わたくしがちょっと羽目を外してお酒を飲みすぎたり、寝不足で政務を片付ける速度が落ちたりすると、それだけでもう鬼の首を取ったみたいにガミガミ説教をしてきて……」
 クロードははあ……、とため息をついた。
「説教などしておりません。貴女が女王としてあまりにも自覚がないのでご忠告申し上げたまでです」
「女王としての自覚がないですって!? 悪かったわね、どうせまだ即位して半年しか経っていないわよ! どうせ、お父様の後継ぎとしてはまだまだ未熟よ……!」
「バイオレッタ――」
「触らないで!」
 クロードへの嫉妬心と自分自身のこれからを不安に思う気持ちがないまぜになり、透き通る涙の粒となってすみれ色の瞳からほろほろと零れ落ちる。
「……っく、うう……、ふ……っ!」
 廊下のど真ん中でさめざめと泣き出してしまったバイオレッタを前に、クロードはわずかに動揺したようだった。
「バ、バイオレッタ……」
「もういいわ……。どうせわたくしはあなたみたいな完璧な為政者じゃない……。どこかの誰かさんみたいに『賢王バイオレッタ』なんて呼ばれたこともないし、七つの大陸を統治した経験だってない。あなた相手じゃどうせ最初からお話にならないわよ……!」
 いきなり自分の過去の話を持ち出され、クロードは滑稽なくらい慌てふためいている。
「お、お待ちください。どうしてそこまで話が飛躍するのですか」
「何よ……、先に怒り出したのはそっちじゃない……! わ、わたくしの劣等感を逆なでするようなことばっかり言って……!」
 とはいえ、ここでクロードに「あなたが代わりに王をやってちょうだい」などと言うつもりはなかった。
 バイオレッタはただ、王配である彼と理解し合えないことが悲しいだけなのだ。
「さっきの男性たちが気に食わなかったのはわかるけど、あなただって結婚するまではわたくしに酷いことばっかりしたじゃない……! 意地悪したりからかったり、わたくしを無理やり自分の邸に監禁したり……!」
「……それは、そうですが」
「覚えてるんだからね、あなたのしたこと、全部。なかったことになんかしないわよ」
「申し訳、ありません……」
 ばつが悪そうに顔をうつむけるクロードに、バイオレッタは幾分強い口調で問いかける。
「……どうして? なんでおしゃべりが駄目なの? わたくしは他の男の人とは一切しゃべっちゃいけないってこと?」
「……」
「どうして何も言わないのよ! 前にも言ったと思うけど、わたくしはあなたのうわべが見たいんじゃないの、心が見たいの! ちゃんと本音で会話をしてくれないなら、あなたのこと嫌いになるから!」
 てっきり「それは困る」と返されるものと思っていたが、クロードは重いため息をつくと怒った風にまぶたを閉ざした。
「……ええ、どうぞ」
「……!」
 ゆっくり瞳を開けた彼は、呆然としている妻めがけて淡々と言い放った。
「私ごときのくだらない言い分で貴女を困らせるくらいなら、最初から言葉になどしない方がましです。私は、貴女を傷つけるくらいならいっそ何も言わない道を選ぶ」
 言い置いて、クロードはすたすたと歩き出す。
「あっ……」
「待って」と言いたかったけれど、今の自分にそれを口にする資格はないような気がして唇を噛む。
 二人の間にぽっかりと空いたいかにも空虚な隙間に、バイオレッタはまたぽろりと一粒の涙をこぼした。
 
 
***
 
 
「何よ何よ……、クロードだっていっつも女の人たちとイチャイチャしてるくせにっ!!」
 ばしん!と音を立てて、バイオレッタの放り投げたテディベアが壁にぶち当たる。
 苛々してしょうがないので、異母妹ピヴォワンヌを部屋に呼んで積もる話を聞いてもらっているところだった。
「ちょっと、やめなさいよ。女王としての威厳が台無しだわ」
 そう言って、ピヴォワンヌは壁に投げつけられた哀れなテディベアをいそいそと救出に向かう。
 その華奢な背に向けて、バイオレッタはぽつりと言った。
「威厳なんかなくていいもの……。だってわたくし、王位を継がなければただの十八歳の女の子だったのよ?」
 
 ……そう、宝冠ときらびやかな女王装束を取り去ってしまえば、バイオレッタとてただの普通の十八歳の少女でしかないのだ。
 時々、女王としての威厳やら矜持といったものが軒並みばかばかしく思えて仕方なくなる時がある。
 ここにいる自分は女王であって女王ではない。
 女王というのは単なる表向きの称号でしかなく、本来の自分はどこにでもいるようなごく普通の少女だ。そう強く思ってしまう時があるのだ。
 
「……わたくしは女王である以前にただの一人の女の子なの。恋もしたければおしゃれもしたい、そんなごく普通の十八歳なのよ。なのに……!」
「で、今はクロードとの恋が楽しくて楽しくてしょうがない。まさしく人生の春、と」
「違うわ! だってあの人、わたくしの言うことなんか聞いてくれないもの……。春だと思ってたら春じゃなかった……。さっきの口喧嘩はどちらかというと冬だったわ」
 ピヴォワンヌは「何よそれ」と言ってさもおかしそうに笑う。
「まあ、いくら結婚したからってそううまくいくことばっかりじゃないわよね。いくら四六時中一緒にいるとはいえ、結局は別々の人間なんだから」
「ええ……」
 
 この宮廷において入り婿クロードというのはちょっとした語り草になっている。
「スフェーン宮廷でクロードにキスをされたことがない貴婦人はいない」だとか、「宮廷に集う妙齢の女なら一度は彼に相手をしてもらったことがある」とかいった類のもので、こうした話を聞くたびバイオレッタは猛烈な怒りで胸を焦がす羽目になる。
 つまりそれだけクロードが浮名を流していたということなのだが、こういった過去の話は新妻にとっては一番聞きたくないものの一つだ。
 大半は作り話だとわかっていても、彼の人気ぶりに嫉妬してしまうし、何より新婚だというのにもう浮気が心配で仕方ない。
 
「けど、あんたが変な男たちに絡まれてた時、ものすごーく機嫌が悪かったんでしょ? つまりそれだけあんたのことを大事に想ってるってことだと思うけどね」
「だけど、あの言い方はないわ。言うに事を欠いて『女王としての自覚がない』、だなんて。それに、自分は好き放題女の人たちとイチャイチャしてるくせに、わたくしにばっかり制限をかけるなんておかしいわよ」
 ピヴォワンヌは大仰なため息をつくと、テディベアを拾い上げて埃をはたいた。
「まあ、気持ちはわかるわ。あんたはなかなか情が深いからねぇ」
「……別にいいわよ、嫉妬深いって言ってくれても」
 受け取ったテディベアをぎゅうっと抱きしめながら、バイオレッタはむくれた。
「……クロードはいつもそうなの。まっすぐ感情をぶつけてくれたことがない。いつも隠すの……、自分が我慢できなくなるまで、ずっと」
 テディベアの柔らかな背に鼻先を埋めたバイオレッタは、愛しい男にそうするように強く胸に抱き込んだ。
 
 たった数日仲違いをしているというだけで、びっくりするくらい心の中が荒んでしまう。
 ぽっかり空いた胸の空洞が、どうしても埋まらない。そこに絶えず冷たい隙間風が吹き込んで、ささくれた心の表面がかさかさと嫌な音を立てる。
(どうして……? わたくしたち、ほんの少し前まであんなに幸せだったのに……)
 たったひとさじの嫉妬が、自分たちをここまですれ違わせてしまった。
 その事実に、バイオレッタはまたくしゃりと顔を歪めた。
 
「きっとあんたを守ったつもりだったんでしょうね」
 異母妹のつぶやきに、バイオレッタは首を傾げる。
「……守る?」
「だって、それしか考えられないでしょ。仮装舞踏会で助け舟を出したのも、男たちから庇ったのも……あいつはあいつなりにあんたの恋人としての役目を果たしたに過ぎないわ。舞踏会での一件があったせいで、あんたがそれを素直に認められなかっただけよ」
 そこでバイオレッタはテディベアに埋めていた顔を上げた。
 
 ……彼はちゃんと自分のことを助けてくれたのに、自分はお礼すら言わなかった。それどころか彼を追い詰めるような物言いをし、彼のことを一方的に拒絶した。
 その事実を直視した途端、指先がひやりと冷たくなった。
(わたくし、なんて馬鹿なことを……!)
 きっとクロードはクロードなりに妻を守ったつもりだったのだろう。孤立しているところに助け舟を出す。下品な男たちから庇う。そうすることによって要領の悪い妻をさりげなくフォローしたつもりだったのだ。
 だが、おかしな方向に考えすぎてしまったせいで、バイオレッタはその好意を素直に受け止めることができなかった。
 彼はもしかしたら待っていたのかもしれない。バイオレッタがただ一言、「ありがとう」と言ってくれるのを。
(クロード……)
 その不器用さが無性に愛おしくて、バイオレッタは瞳にうっすらとしずくを浮かべた。
 
「……それで? あんたはどうしたいのよ」
「あのね、あんまりわたくしをやきもきさせるようなことをしないでほしいの。陰でこそこそ浮気をされるのも嫌だけど、あんな風に堂々と仲良くされるのもそれはそれで傷つくというか……」
「つまり、あんたはあいつによそ見をされるのが嫌ってこと?」
「……うん。嫌。悲しいわ、とても」
「だったら、それをそっくりそのままあいつに伝えた方がいいわね。ここであたし相手に発散しててもしょうがないわよ」
「それはそうだけど……。クロードに向かってそんなことを言うのは……」
 そこでピヴォワンヌはバイオレッタめがけてびしりと指を突きつけた。
「あんた、今のそれ、さっきの台詞と矛盾してない? あんただってそうやって自分の気持ちを隠しちゃってるじゃない。なのに、あいつにばっかり本音を打ち明けてほしいだなんて言える?」
「あっ……」
「そんな風にお互いに本音を隠しっぱなしじゃ状況は何もよくならないと思うわよ。言いたいことがあるならちゃんと言わなきゃ。そうしないとずっとそうやって拗らせたまんまになっちゃうわよ」
「で、でも、本音を洗いざらい話すわたくしのことなんか、クロードは嫌いかもしれないわ。言いたいことを言ったばっかりに幻滅されちゃったら……」
「あんた馬鹿なの? 何のために夫婦になったのよ? うだうだ考え込んでないで、さっさとあいつのとこ行ってきなさい。じゃないといつまで経っても解決しないわよ」
 異母妹の力強い言葉に勇気づけられたバイオレッタは、そこでこくりとうなずいた。
「……わかったわ。ちょっと怖いけど、頑張ってみる」
 そこでピヴォワンヌは励ますように笑った。
「そうよ。あんたはやればできる子なんだから、やる前から怖がってないでいくらでもぶつかっていった方がいいわ。その方があいつだって嬉しがると思うしね」
「ありがとう、ピヴォワンヌ。話を聞いてくれて」
「どういたしまして」
 バイオレッタは異母妹と温かな抱擁を交わし、その額に口づけを落として微笑んだ。
 
 
***
 
 
 その日、一日の公務を終えたバイオレッタは、クロードとともに馬車に乗り込んだ。そのまま北区にある彼の邸宅へと向かう。
「……き、今日も疲れたわね」
「ええ……」
「……」 
 もともと口数は少ない男だが、今日は輪をかけて酷い。窓枠に肘をついて箱馬車の外を眺めている彼は、バイオレッタのことなど気にも留めていないかのようだ。
 バイオレッタはしゅん……と縮こまった。
(……うう。気まずい。気まずすぎるわ……)
 何か話題を振ってみようかとも思ったが、なんとなく怖くなってやめる。
 本当に疲れているのかもしれないと思ったからだ。
(わたくしの補佐を喜んで引き受けてはくれるけれど、それが必ずしもクロードの本意かといえばそうでもないわよね……)
 本当は補佐役など嫌なのではないだろうか。こんなわがまま娘の手伝いなんかしたくないと思っているのではないだろうか。
 不安がどっと押し寄せてきて、バイオレッタはただうつむいた。
 いくら夫婦として認められた者同士であるとはいえ、それですべてが安泰になるわけではないのだ……。
 
 結局、バイオレッタは一言もクロードと話さないまま夕食を終えた。
 食事を終えた彼がそのまま食堂を出ていってしまったこともあって、とうとう話し合いの機会が訪れなかったのである。
 渋々自室に引き上げたバイオレッタは、湯浴みを終え、肌と髪の手入れをしてからベッドにもぐりこんだ。
 ほかほかの身体をシーツに横たえて掛布にくるまる。なんの気なしに柱時計に目をやると、己の不甲斐なさにはぁ……とため息がこぼれた。
「全然仲直りできなかった……」
 そう独りごち、冷たい敷布をぎゅっと握りしめる。
 普段なら、温かな褥の中で隙間なく身を寄せあっている頃だ。なのに、もう何日も彼のぬくもりに触れられていない。
 独り寝というのはこんなにも虚しく寂しいものだっただろうか。
 ……否、これまでは「彼」が埋めてくれていたのだ。絶えず「愛情」という名の水を注ぐことで、バイオレッタが孤独を感じないようにしてくれていたのだ……。
「……ちゃんと謝らないと」
 つぶやき、バイオレッタはむくりと起き上がった。
 浴室、そしてその先に続いている主寝室を通り抜け、その向こうにあるクロードの寝室へと向かう。
 ごくりとつばを飲み込むと、バイオレッタは部屋のドアをコンコン、とノックした。
「はい」
「クロード、あの……。入ってもいい?」
 おずおずと訊ねると、扉の向こうで物音がした。
 数拍置いて、クロードが扉の隙間からのっそりと顔を出す。
「いかがなさいましたか、このような夜更けに……」
「……あの。お部屋に入ってもいい? 話したいことがあるの」
 バイオレッタの言葉に、クロードは一瞬動揺したように見えた。
 が、すぐさま扉を開けて彼女を室内へ招き入れる。
「……ええ。少々散らかってはいますが、どうぞ」
 バイオレッタは小さく「お邪魔します」とつぶやいてから、彼の部屋に足を踏み入れた。
「散らかっている」と表現した割には、クロードの部屋は普段とほとんど変わりない様子だった。足の踏み場もないほど物が置かれているわけではないし、ここ数日で何かが大きく変わった風でもない。
「クロードったら、本当に綺麗好きね。別に散らかってなんかいないじゃない」
「いいえ。本は出しっぱなし、書類の束もまとまっておらず、筆記具も所定の位置にありません。これはどう考えても美しくありません」
(もう。相変わらず妙なところで細かいんだから……)
 ――部屋の乱れは心の乱れ。
 ついそんな言葉を思い出してしまう。
 だが、まさかクロードの心があんなことくらいで乱れるはずがないと思い直し、バイオレッタはおずおずとソファーに腰を下ろした。
「お、お邪魔します……」
 クロードは何も言わず真向かいに腰を下ろした。
 さながら彼と対峙しているかのようなポジションにうろたえ、バイオレッタはしどろもどろになる。
「……ご用件はなんでしょうか」
「……」
 どこか淡々とした声色に口をつぐむ。
 なんとか話を切り出したいのに、これではうまく切り出せない。むしろ何も言ってはいけないような気さえしてしまう。
 だが、ここでもったいぶっていては本末転倒である。何せバイオレッタは和解するためにこの部屋にやってきたのだから。
 それにピヴォワンヌだって言っていたではないか。夫婦になったのだから伝えるべきことは伝えた方がいいと。
 萎縮する己をなんとか奮い立たせると、バイオレッタはとうとう口を開いた。
「あ、あのね……! わたくし、あなたに謝りに来たの」
「謝る……?」
「い、嫌だったの。あなたが綺麗な女の人たちに囲まれてへらへらしてるって思ったら、腹が立ってきてしょうがなくて……。だからあの夜、つい意地を張ってあなたのダンスの誘いを断ってしまったのよ。本当は相手をしてほしくて仕方なかったのに……」
「なるほど。それで私への当てつけのために年若い男たちと戯れていたと……?」
「そ、そんな! それは違うわ! それとこれとは一切無関係よ」
 クロードはそこではあ……と一際大きなため息をつく。
「……ですが、私とて嫉妬くらいはしますよ。私だってそんなことをされれば面白くないのですから」
「し、知っているわ……、あなたのやきもちは、誰よりも」
 バイオレッタはそこではたと気づいた。
 ……自分たちは全く同じ理由で言い争いをして揉めているではないか、と。
(そうか……、わたくしと同じようにクロードだって嫌だったのね……)
 全く同じ理由で嫉妬し合い、互いに感情の刃を向け合っている。
 自分たちの関係はまるで鏡だ、と思った。
 なら、今ここで自分が彼に微笑みかけたらどうなるのだろう? 思い切って自分から謝罪をすれば、彼も快くそれを受け入れてくれるのだろうか?
 そんな奇妙な予感に駆られたバイオレッタは、気づけば夫に向けておずおずと切り出していた。
「本当にごめんなさい……! 当てつけるつもりはなかったの。あれは単純に話を切り上げるタイミングがわからなかったのよ。あなたを妬かせたくてあんなことをしたわけじゃないわ」
「……そうなのですか?」
「あ、当たり前でしょう……? あなたがいるのに、どうして他の男の人に目移りなんかしなくちゃならないの? あれは本当にただおしゃべりをしていただけよ。あんないやらしい流れになるなんて思ってもみなくて……」
 そこでクロードは大きく嘆息した。金の髪を大きくかきやり、先ほどよりも幾分怒気を和らげて言う。
「……なるほど。大体のところは理解しました。ですが、少々無防備が過ぎます。いつでも私が守って差し上げられるわけではないのですから、もう少し注意を払ってください。最終的に不快な目に遭うのは貴女なのですよ」
「ごめんなさい、気をつけるわ。……それから、守ってくれてありがとう」
 素直に謝り、バイオレッタはそこでクロードに向かって柔らかく微笑んでみた。
 あなたを信頼している。あなたを何よりも大切に思っている。……あなたを愛している。
 眼差しにそんな思いを込めて、微笑みを彼に送った。
 次の瞬間、はっと目を見張る。
 それを受け止めたクロードが、そっと口元をほころばせたからだ。
(……!)
 冷えていた心がたちまち温かく満たされてゆくのを感じ、バイオレッタはほうっと息をついた。
 笑顔は何よりの潤滑油だ。たった一つの微笑みが、こんなにもたやすく二人の間のわだかまりを解きほぐしてくれる。
 クロードの微笑みを感慨深く眺めながら、そこでようやくバイオレッタはこれまでの不安を吐露した。
「……でも、わたくしだって嫌だったのよ。あなたが素敵な女の人たちに囲まれてあまりにも楽しそうにしているから……」
「バイオレッタ、それは違います。あれは単なるサービスの一環です。本気ではないからこそあのような軽口を叩けるのですよ。それに、王配が異国からの客人につれなくしたとなれば、女王である貴女の評判まで下がるでしょう。貴女の夫として、それだけは絶対に避けたかったのです」
「それでも不安なのよ……! だって、もしあなたが本気になってしまったらどうすればいいの? そんなの、いや……。悲しいわ、とても……」
 うつむいて瞳を潤ませるバイオレッタに、クロードは小さく息を呑んだ。
「申し訳、ありません……」
「いいの……、謝らないで」
「お怒りを解くにはどうすればよいのでしょうか」
「……じゃあ、隣に来て。差し向かいはあなたが遠いからいやなの」
 クロードの瞳をまっすぐに見つめて言い、ねだるように手を伸ばす。彼はすぐにバイオレッタの傍らへやってきた。
 待ちわびていたぬくもりに、バイオレッタはしがみついた。
 硬い腕で抱きしめられ、あやされ、揺さぶられているうちに、張り詰めていた心が少しずつほぐれてゆく。
 背に流れ落ちる銀の髪を指先で丹念に梳かれ、耳朶に口づけられ、知らず知らずのうちにその胸に強く頬を擦りつけていた。
「……ずっとこうしてほしかったの。あなたと喧嘩している間中、ずっと寂しくて辛かったわ」
「申し訳ありません。ですがあの時『触らないで』とおっしゃったので、本気で嫌がっておられるものとばかり……」
「あ、あの時は頭の中が混乱してごちゃごちゃしていたから、単純にどうしていいかわからなくて……。でも、またこうして抱きしめてもらえて嬉しい……」
 クロードの胸からゆっくり顔を上げると、バイオレッタはそっと訊ねる。
「今夜は、一緒に寝てくれる?」
「今日はまた随分と甘えたですね」
「甘えたがりなわたくしは嫌い?」
「いいえ。好きですよ。理由も告げずにふてくされている貴女よりよほど魅力的です」
「もう……」
 そのままふわりと抱き上げられる。
 寝台の上にバイオレッタを下ろすと、クロードはその唇を指の腹でゆっくりと辿った。
「……正直、もう駄目かと思いました。私の何が貴女を不安にさせてしまったのか皆目見当もつきませんでしたし、謝罪をしようにもきっかけが掴めず……。貴女が直々にお出でになるとは思いませんでしたが……嬉しかったですよ、とても」
 言い終えるや否や、彼は触れるだけの口づけをバイオレッタの唇に施す。
 そのままとさっ、と音をさせて寝台に身を横たえられ、バイオレッタはいつものように彼の首に腕を回した。
 二人はそのままベッドの上で固く抱きしめ合った。
 バイオレッタの薄い肩に鼻先を埋めながら、クロードはしみじみとした声音でささめいた。
「……ひどく久しぶりに貴女に触れた気がする」
「もう……。そう思うなら早く謝りに来てほしかったわ」
「申し訳ありません。ですが、こうしてまた貴女と抱き合えて、本当に幸せです……」
「わたくしも……」
 覆いかぶさっていたクロードは、そこでやおら半身を起こした。
 室内履きから解放されてむき出しになったバイオレッタのつま先に口づけると、そのままふくらはぎに向かって一息に舐め上げる。夜着の裾をたくし上げて柔らかな太ももを露わにすると、じゅっと音をさせて所有の証を残した。
「あっ……!」
 その刺激にびくりと身を震わせると、クロードは窺うように言った。
「……もしお嫌ならば、今夜はやめておきましょうか」
「嫌だなんて、そんな……」
 そこで彼は自嘲するように淡く笑う。
「いえ……。貴女がご無理をなさっているのではないかと少々心配なのですよ。私たちは夫婦になってまだ日が浅いですし、先ほどのように貴女にばかり鬱憤を溜め込ませているのだとしたら忍びないですから」
「わ、わたくしは、好きよ……? クロードとするの……」
「全く……、可愛いことを言って煽らないでください……」
「煽ってないもの……」
 バイオレッタはそこで手を伸ばしてクロードの裸の胸に触れた。
「く、クロードだってさっきからずっとわたくしのことを煽っているじゃない。こんなに胸元をはだけさせたりして……」
「これは湯浴みをして暑いから致し方なくです。貴女のおかげでゆうに一時間近くも浴室に籠る羽目になってしまったもので」
「もう……」
 
 バイオレッタの傍らに滑り込むと、クロードは甘い声音でこいねがう。
「……バイオレッタ。私のいたいけな奥さん。どうか眠りにつくまでの間、貴女の歌を聞かせてはくださいませんか」
「いいけど、わたくしはアイリス様とは違って音痴よ。かえって眠れなくなってしまうんじゃ……」
「いいえ。貴女の歌声を聞きながら眠りたいのです」
「ええ……。あなたのためだけに歌ってあげる」
 ――だってわたくしは、あなただけの小夜啼鳥だから。
 そうささやき、バイオレッタは夫の隣へもぐりこんだ。
 

error: Content is protected !!
inserted by FC2 system