第五章 子羊と気弱な料理人(前編)

「ううっ……、坊っちゃああん……!」
「ネイサン!?」

 首筋に齧りついておいおいと泣きつく赤毛の青年に、エドワードはぎょっとした面持ちでのけぞる。

「エドー、その人だあれ〜?」
 背後から聞こえてきたマーガレットの声に、我に返った彼は大慌てで説明しようとした。
「こいつは俺の――」
「?」
 きょとんと首を傾げるマーガレット。
 そこでエドワードは、一行の周囲に黒山の人だかりができてしまっていることに気づく。
「……ここは見物人が多すぎる。一旦帰って話そう」
 そう言うと、彼は二人を素早く路面電車トラムの車両へと押し込んだ。
 
 
***
 
 
『子羊亭』のリビングに案内されたネイサンは、中折れ帽片手にきょろきょろと室内を見渡した。
「こ、これは掃除のし甲斐がありそうないいお宅ですねぇ……! モダンで、なおかつ優美で……! もしや一昔前に流行したクイーン・アルバータ様式でしょうか?」
「ああ、当たりだ。築二百年でそれなりに古い家なんだけど、水回りもそんなに傷んでないし、値段のわりにはいい物件だったと思ってるぜ」
 むろん、「幽霊付き」という条件を除いては、だが――。
 
 アカンサス模様のレリーフが彫り込まれた天井に、色とりどりのステンドグラスを嵌め込んだ、まるで万華鏡のような窓。そしてクラシカルな装飾の施されたマントルピース……。
 まだ家具は少ないながら、ゆったりとして居心地のいい部屋だ。
 温かみのある室内装飾を眺めながら、ネイサンはしみじみと言った。
「エピドート人は古いものをとにかく大事にしますからねぇ。新しいものをどんどん使い捨てていくより、使い古されたものや昔からあるものの方を愛用したがるんですよね」
「そもそも建築物自体が煉瓦でできてて結構頑丈だしなぁ。水回りのメンテナンスさえこまめにやっとけば、改築や外壁の張替えもほとんどいらないし。ま、お国柄だよな」
 茶を運ぶよう言いつけられ、マーガレットはトレイに乗せた熱いアールグレイ・ティーをネイサンのところへ持っていった。
「お茶をどうぞっ!」
「ああ、これはどうも」
 柑橘の香りが漂う湯気の向こう、彼は眼鏡の奥の双眸を柔らかく細める。
 
 マーガレットはトレイの影から彼の身につけているものをつぶさに観察した。
 ……薄手のトレンチコートに中折れ帽。品のいいシルクのシャツに千鳥格子のベスト、ウール地のスラックス。足元は上質な焦茶の革靴といった出で立ちだ。
(うーん。おどおどビクビクしてるけど、お洋服はかなりいいもの着てるのよね。靴もボロボロじゃないし、清潔感には気を配ってそうな感じ。おまけに今の時代でもまだそこそこ高価な眼鏡をかけてる)
 と、そこで彼女はふるふるとかぶりを振った。
 
(って、いけないいけない。つい娼館時代の悪い癖が出ちゃったわ)
 
 娼館の主、マダム・アルフォンシーヌは守銭奴で有名で、「男に出くわしたらまず着ているものと爪と靴を見ろ」というほど男性きゃくを見る目はシビアだった。
 その理屈にのっとって推測するなら、この青年は気弱そうな見た目のわりにはそこそこ「できる」部類なのかもしれないとマーガレットは思った。
 
「あ、申し遅れました。わたくし、ネイサン・ウォルコットと申します。アディンセル家にお仕えしていた元執事です」
「は、はあ……、どうも……、って、えっ、執事!?」
 狼狽するマーガレットをよそに、ネイサンはこちらに向かってぺこりと頭を下げる。
 マーガレットはひええ、と目を見開いた。
(エドのおうちって本当にすごいお貴族様なのね……)
 執事を雇っているなんて、きっとエドワードの家はよほどの名家に違いない。きっとメイドや使用人が何人もいる広いお邸なのだろう。
 人に茶菓を運ばせたり、支度を手伝わせたり、はたまた靴ひもを結ばせたり……。彼は大勢の使用人にかしずかれて生きてきた本物のお坊ちゃまなのだ……。
 
 と、そこまで思い描いたとき、ティースペースに立つエドワードがつまらなさそうに鼻を鳴らした。
「何考えてるんだか知らないけど、俺んちなんて別に大した家柄じゃないぞ。貴族は貴族だけど、上には上がいるもんだしな」
「ですがエドワード様。旦那様は代々続く名門・アディンセル侯爵家の当主、しかも貴族院に名を連ねる保守党のトップですよ? それを『大したことはない』の一言で片づけてしまってよいものでしょうか」
「確かに俺の父さんは政治家だ。けど、別に貴族院そのものの代表トップってわけじゃないし、そもそも爵位を持つ貴族なら議席自体は誰でも持てるものだからな」
 エドワードはそっけなく言い、そこでようやく自らもソファーに腰を落ち着けた。
 熱い紅茶で唇を湿らせると、彼はゆったりと脚を組み替えながら問いかける。
「で? 何があったんだ? こうして俺んとこに来るくらいだからよほどのことがあったんだろ?」
「それが……。先日、旦那様が大切にしていらしたアガーフィアン・グラスのゴブレットを、不注意で割ってしまいまして……」
「? アガーフィアン・グラス?」
 
 
 アガーフィアン・グラスとは、アガーフィア半島に伝わる秘伝の製法を用いて作られた特別なガラス細工のことである。
 アガーフィアはクラッセル公国近海に浮かぶ小さな島国であり、独自の文化が根付いているとされる幻の小国だ。クラッセル公国の庇護下に置かれた土地で、四方を紺碧の海に囲まれた自然豊かな保養リゾート地である。
 しかし、数年前に起きた内乱により、アガーフィアン・グラスの製造法を知るものは淘汰されて久しい。今はごく一部の生き残りだけがその製造法を細々と守り抜いている程度だという。
 エドワードの父、ローレンス・アディンセルは、妻マデラインとのアガーフィア旅行の際にこれを買い求め、これまで後生大事に保管していた。その執心ぶりときたら相当なもので、滅多なことがなければキャビネットから取り出さず、使わず、むろん他人にも使わせないという姿勢を徹底していたのだという。
 文字通りまるで「宝物のように」丁重に扱っていたのだそうだ。
 
 
 説明されたマーガレットは思わずのけぞってしまった。
「ええっ!? そ、それはまずいんじゃ……!?」
「はい。私は邸をクビになってここへ来たのです……」
 ネイサンはしょんぼりと背を丸めた。
「なるほどね……、うっかりミスが原因で仕事をやめさせられたってことかぁ……」
「まあ、大体のところは理解した。要するに不手際から職を失ったわけだな」
 言いつつ、エドワードはそこでふとおとがいに指先を持っていった。軽く首を捻りながらつぶやく。
「……けど、あの切れ者の父さんが、粗相を働いたくらいで執事をクビにしたりするか……? 昔から損切りはうまい人だったけど、それにしたってネイサンみたいな有能な執事をわざわざ解雇処分にする必要は……」
 彼は渋面のまましばらく考え込んでいたが、やがてゆるりとおもてを上げた。
「……まあいい。今日のところはお前の話を信じよう」
「本当ですかっ?」
「ああ。だが、生憎俺は今店の開店準備で忙しくてな。大して相手はできないかもしれないけど、まあくつろいでいってくれよ」
「あう……、あの……そのっ……」
 まだ何か言いたげなネイサンに、エドワードはにこりと笑ってみせる。
 話がまとまったことを理解したマーガレットは、ネイサンに向けて屈託のない笑みを浮かべた。
「大したおもてなしはできないけど、どうぞゆっくりしていってね、執事さん!」
「こら、お前が言うなっての!」
 こまっしゃくれるマーガレットの頭をこつりと小突くと、エドワードははあ……と盛大なため息をついた。
 
「そういえば坊ちゃん、こちらのお嬢さんは……」
「あ、ああ……、困ってるみたいだから雇った」
 エドワードの言葉に、ネイサンは目を剥いた。
「も、もう従業員がいらっしゃるのですか!? さすがはエドワード坊ちゃん、仕事が速いですね!」
「えへへ。それだけじゃなくて、ここで一緒に暮らしてたりもするのよ!」
「ばっ……! お前何余計なこと――!」
「あの坊っちゃんが、知り合ったばかりの御婦人と同居……? こんなにも早く意気投合して……?」
 ネイサンはとんでもないことを聞いてしまったとでもいうように口に手を当てた。
 口元を手で覆って、ぶつぶつと独りごちる。
「御婦人に縁はあっても、大抵が一時の戯れか退屈しのぎだったあの坊っちゃんが……? フレデリク地区の娼婦たちからラブ・コールを受けても、まるで応じようとはしなかったあの坊っちゃんが……、出会ったばかりの見知らぬ御婦人と同、居……?」
「いや、御婦人っつうより女児だろ、こいつは……」
 ごくり、と喉を鳴らしたかと思うと、次の瞬間、ネイサンはテーブル越しに勢いよくマーガレットの手を掴んだ。
「素晴らしいっ!! マーガレットさん、貴女には坊っちゃんを理解するだけの素質があるのですねぇ!! まだお若いのに大したものだ、私もぜひ見習いたいです!!」
 たじろぐマーガレットをよそに、彼はジャスパーグリーンの瞳を細め、やんわり肩をすくめる。
「いやぁ、これまで坊っちゃんとお付き合いされてきた御婦人方というのは、皆貴女のように理解の深い方ばかりではなくてですね。趣味や勉強一筋の坊っちゃんを応援するどころか、『私と趣味と一体どっちが大事なのッ!?』なぁんて詰め寄ったりされる方が圧倒的に多かったんですよ〜」
 ネイサンはマーガレットの手を大きな掌にすっぽりと包み込んだかと思うと、そのままぎゅう、と握りしめた。
「ですがマーガレットさん、貴女になら安心して坊っちゃんを任せられます。坊っちゃんがこんなにも心を開いておいでなのですから、貴女はきっと素敵な女性なのでしょう」
「え? ええっと、あたしは別にそんな……」
「今後とも坊ちゃんのことをよろしくお願いいたします。少々お口の悪い方ではありますが、どうか末永く仲良くしてあげてくださいね」
「は、はぁ……」
 握りしめた手をぶんぶんと勢いよく振られ、マーガレットは瞳をぱちぱちさせた。
「――盛り上がってるとこ悪いんだが、お前今夜行くあてはあるのか?」
 興奮気味のネイサンを見やり、エドワードは冷ややかに問いかける。
 すると、案の定彼はがっくりと肩を落とした。
「あぅ……。ないです……」
「俺のことをマッジにお願いするより先にすることがあるだろ……。っていうか、そのつもりで追っかけてきたんじゃないのか?」
「はい、まさしくおっしゃる通りです……。さすがは坊ちゃん、大変聡明でいらっしゃる……」
「聡明も何も、状況を少し考えればわかることだろ!」
 冷静に突っ込みを入れ、エドワードはやれやれとでもいう風に黒髪を掻き上げる。
「ったく……、どうせそんなことだろうと思ったよ……。んー……、そうだな……。この小路のそばに安いアパルトマンがいくつかあるから、そこを借りて住むとか……」
 が、エドワードのその提案にも、ネイサンは沈黙を貫く。
 不審に思ったエドワードは、そこでエメラルドの双眸をすいと眇めた。
「お前、金は?」
「……その、旦那様にいただいた退職金はあるのですが、正直に言うと雀の涙ほどの額でして」
 答えながら、彼は叱られた子供のように身を縮こまらせた。
 その頬を見えない汗がだらだらと伝い流れるのが目に浮かぶようだ。
 嘆息すると、エドワードはやれやれとでもいうように肩をすくめた。
「わかったわかった。しょうがない、しばらくうちに置いてやるよ」
「本当ですかっ!?」
「ああ。曲がりなりにも俺とお前は昔馴染みだしな。これまで父さんとアディンセル家のために身を粉にして働いてもらったわけだし、その恩は息子の俺が返そうと思う」
「ありがとうございます……! 一生恩に着ます、坊ちゃん!」
「その代わり、家事はやってもらうぞ。うちでは『働かざる者食うべからず』だからな、働かないなら出てってもらう。それと、できたら生活費は少し出してくれ。俺の開業資金だけじゃ二人はとても養えそうにない」
「お任せください! 料理も掃除も洗濯も大得意です! 生活費の件に関しても了解いたしました!」
 
 ネイサンがうなずいたのを見届けると、エドワードはマーガレットめがけてぴしりと指を突きつけた。
「マッジ、お前はネイサンについて少しでも多く家事を習え。誰かが家事をこなしているところをそばで眺めているだけでも少しは勉強になるはずだ」
「わかったわ!」
 はりきるマーガレットに、エドワードは意地悪くにやりと口角を上げる。
「何しろネイサンは上流階級の暮らしに慣れた男だからな、がさつなお前にはいい刺激になるだろう。少しでも淑女レディらしさが身に着くといいな?」
「何よぅ! あたしは今のままでもじゅうぶん立派なレディなんだからっ! エドったらどこに目ぇつけてんのよ、サイッテー!」
「痛っ!」
 エドワードの脛にげしん!と大きな蹴りを一発お見舞いすると、マーガレットはネイサンに向き直る。
「えっと……じゃあ、よろしくね、執事さん!」
「はい! よろしくお願いいたします、マーガレットさん!」
 和やかに握手を交わし合う二人の足元で、エドワードは「覚えてろよ、畜生……」とつぶやきながら靴底の跡がくっきりと残る脛を押さえた。
 
 
***
 
 
「えーっと……、寝起きする部屋は二階だから。荷物持ってついてきてくれ」
「はい」
 痛む脛を庇いながら、エドワードはネイサンを連れて二階へ上がった。彼は革のトランクを手に一生懸命後ろをついてくる。
 エドワードは自室の右隣にある部屋の扉を開けると、ネイサンの方を振り返りながら言った。
「ひとまずこの部屋を使ってくれ。トイレと洗面所は廊下の向こう側な。食事は一階のダイニングで。自分で作ってもいいけど、俺やマッジと同じものでよければ提供できるぜ。バスについてはマッジが上がったあとに案内してやる」
「承知しました」
 とはいえ、ここはもともとエドワードが書庫兼趣味部屋として使おうとしていた空き部屋だ。当然家具らしい家具などあるはずもない。
 エドワードは前髪をがりがりと掻きやりながら、背後に立っているネイサンに声をかけた。
「まさかお前が転がり込んでくるなんて夢にも思わなかったからなぁ……。申し訳ないけど、しばらくは床の上に簡易ベッドを作って寝てくれるか」
「いえっ! とんでもない! 置いていただけるだけでじゅうぶんありがたいです! どうぞお気遣いなく、坊ちゃん」
 そうか、とつぶやいてから、エドワードは自室のドアをコン、と叩いた。
「俺の部屋はここ。お前の隣の部屋だから、何かあったら呼んでくれ」
「あ、はい……、ありがとうございま――」
 半開きになったドアの隙間から部屋の中をちらりと覗き込むなり、ネイサンは口を魚のようにぱくぱくさせる。
「? どうした。何か気にかかることでもあるのか?」
「あああ、あの、坊ちゃん、ベッドは……? まさか地べたで寝ていらっしゃるのですか?」
 ネイサンの指先が気まずそうに床と宙とを行ったり来たりする。
 
(なるほど、気にしてんのはそこか……)
 
 ネイサンが驚くのも無理もない。
 何せエドワードはれっきとしたアディンセル家の嫡男であり、本来であれば父ローレンスの跡を継いで家長になるはずだった人物だ。それがこんな風に怠惰な生活を送っているともなれば、やはり使用人としては心配になってしまうのだろう。
 
 しかし、これにはやむを得ない事情と経緯がある。
 黒髪をぐしゃぐしゃと掻きやると、エドワードは仕方なしに説明を始めた。
「あー、いや……、今はそこのソファーで。俺のベッドは今マッジに貸してるからな、あいつの家具が届くまではしばらくこのままだ」
 淡々と説明すると、ネイサンは「ヒィッ!」と奇声を上げる。
「ま、まさかあの坊ちゃんをソファーで寝かせるなんて……! あわわわわ、やはりお二人はただならぬご関係なのでは……!?」
 暗に男女の関係なのかと問いかけるネイサンを、エドワードは冷ややかに一蹴した。
「アホかお前。本当に‟ただならぬご関係”だったらわざわざ部屋を分けたりするかよ。むしろ同じベッドで一緒に寝てると思うけど? っていうか俺はそうしたい。ソファーで寝ると明け方節々が痛くなって辛いんだ」
「! それはそうですね……! では、本当にただのご友人なのですね……」
「がっかりさせて悪かったな」
 
 期待が外れたおかげか、ネイサンはどこか落胆している様子だ。「あんなに可愛らしいお嬢さんなのに……」とか「坊ちゃんとはとってもお似合いなのに……」などと言いつつ、しょんぼりと肩を丸めている。
 
 これは放っておいたらいらぬ詮索をされそうだ。もしかしたら勝手に二人の恋のキューピッド役を買って出ようとするかもしれない。
 
 先手を打つべく、エドワードはすげなく言い放った。
「生憎だけど、俺、子供は趣味じゃないから。十も年下のガキに欲情するほど飢えてないしな」
「いや、あの、でも、女性は女性で……」
「ない。あんなつるぺたの子供に女を感じるとか絶対ないから」
「ですが、一つ屋根の下でともに生活するとなれば、やはりそれなりに気になるものでは――」
「いや、お前な……十二の子供に手なんか出してみろよ、一歩間違えたら俺は刑務所行きだぞ? 何が悲しくて若い身空で実名報道なんかされなきゃならないんだ? 冗談も休み休み言えよ、ったく……」
 そこでネイサンは打たれたようにがばりと顔を上げた。
「はっ……! た、確かに、これまで坊ちゃんがお付き合いされていた御婦人はみなグラマーな方ばかりでしたね! 胸と臀部がとても豊かな方ばかりでしたし、中には御夫君のいらっしゃる大人の女性も……。なるほど……、坊ちゃんは肉感的な大人の女性が好み、ということですねっ……!?」
「いや体型は関係ないだろ、問題は年齢だろ……」と突っ込みたくなるのをすんでのところで堪える。
「はぁ……」
 
 ……面倒くさいがここはとりあえずそういうことにしておくか。
 適当に話を合わせつつ、エドワードは彼が簡易ベッドをこしらえるのを黙々と手伝った。
 
 
***
 
 
 一方その頃、自分が陰で「つるぺた」と呼ばれていることなど露ほども知らないマーガレットはといえば――
 
「ふわぁ……。今日は色々ありすぎてなんだか疲れちゃったなあ」
 新湯を使うことを特別に許可されたマーガレットは、『子羊亭』一階にあるバスルームへ向かっていた。
 手には買ったばかりのネグリジェと肌着。腰まである長い髪は、入浴時に邪魔にならないよう、後ろでざっくりとまとめてある。
 大粒の模造宝石ビジューがあしらわれたスリッポンをつっかけながら、彼女は単身とてとてと廊下を進んだ。
 
「うう、さむ……」
 早春とはいえ夜はまだ冷える。寒々とした薄闇に身を浸せば、凍てつく夜気で胃のあたりがぎゅっと縮こまるような気がした。
「お風呂場、遠いなぁ……。いっそバスタブの方から迎えに来てくれたらいいのに……」
 想像するとそれはそれでホラーなのだが、何せ目的地までこんなに距離があるのだ、わがままの一つも言いたくなってくる。
 
 普段は一階奥にあるバスルームを使用することになっている。
 トイレやバスはどちらの階にもついているが、エドワードいわく一階のバスの方が若干広くて使い勝手がいいのだそうだ。確かに、二階のバスは小ぢんまりしていて客人用といった趣が強いように思えたし、広い浴室でゆったり入浴する方が一日の疲れも取れそうだ。
 
 長大な廊下を歩きながら、マーガレットはつい先ほどまでのエドワードとのやり取りを思い出していた。
 
『風呂のことだけど、今日から毎日お前が先に入れ。男のだし汁に浸かるのなんか嫌だろ』
 別にいい、居候なのだからだし汁でもかまわないと辞退しようとすると、「いや、女性が先の方が絶対にいい」と押し切られてしまった。
『俺はレディファーストな男だからな、新風呂くらい女に譲るさ。ついでに風呂に入れる入浴剤もお前が選んでいいぞ』
『え? いいの?』
『ああ。脱衣所の棚に揃えておいたから好きな香りの入れろよ。俺は花の香りにはそんなに詳しくないしな、それはお前に任せる』
『わーい!』
 
 回想を終えたマーガレットは、そこで小さく噴き出した。
「あはは。なんだかおかしい。あたしとエドって、入浴剤も石鹸もみんなお揃いなのね。二人並んだら身体からおんなじ香りがしそうだわ」
 ……とはいえ、二人はただの同居人であり、けして色っぽい関係などではないのだが――。
 
 
 ようやくたどり着いた脱衣所の中は広々としていた。
 
 正面には洗面台があり、エドワードのお気に入りらしいアフターシェーブローションやヘアクリーム、歯ブラシセットなどがぽつぽつと置かれている。
 バスルームに通じる扉のそばにはタオルやバスグッズを収納するための小さなキャビネットがあり、てっぺんには籐を編んで作った小さな脱衣かごが乗せられている。
 壁には木製のラックが設えてあり、中には予備の石鹸やタオル、バスタブ用の洗剤などが雑然と置かれていた。
 引っ越してきたばかりで余裕がなかったのだろう、整理整頓もほとんどされず、所狭しと並べられている。
 
「んしょ……」
 マーガレットは背伸びをしてラックの中を覗き込んだ。
「入浴剤、入浴剤……、あっ、これかな?」
 街の薬局で売られているものらしく、パッケージには店名の入ったビニールシールがべたりと貼られている。岩塩にアロマオイルで自然な色味と香りを付けた、手作りのバスソルトだった。
 
(うわぁ、可愛い)
 
 ころんとしたガラスポットの中には、淡い色の付いた半透明の結晶がぎっしりと詰まっている。中には乾燥させたハーブや薔薇のつぼみを封じ込めたものもあり、眺めているだけでも胸が躍った。
 
 小首を傾げつつ、マーガレットはガラスポットを手に取ってめつすがめつした。
 ローズ、ラベンダー、オレンジにチェリーブロッサム。どうやら色々な香りのものがあるらしい。珍しいところでは白檀サンダルウッドがあり、鼻先を近づけると神秘的で落ち着きのあるオリエンタルな香りがした。
「花の香りには詳しくない、なんて言ってたけど、そのわりにあれこれ揃えてあるのね。ま、毎日使うものだからたくさんあった方がいいけど」
 
 しばらく迷った末、マーガレットは薄紫のバスソルトを手に取った。
「よし、今日はぐっすり寝たいからラベンダーにしよ」
 結晶状のバスソルトをバスタブめがけてさらさらと振りかけ、手でざっとかき混ぜる。
 水面に細かなあぶくがぷくぷくと浮かび上がってくるのを眺めながら、マーガレットはおもむろに着ていたワンピースに手をかけた。
 
 ワンピースも肌着もすっかり脱ぎ去ってしまうと、いよいよバスルームの中へ足を踏み入れる。
 最初に軽くシャワーを浴びてから、彼女はこわごわバスタブの中に身を沈めた。
 肌にピリッとした刺激を感じた次の瞬間、じんわりとした温かさが全身へ広がってゆく。
 瞬く間に張り詰めていた緊張の糸が切れ、マーガレットははふ……と息を吐いてバスタブの縁にもたれた。
「はあぁ……、気持ちいい~……。やっぱり一日の締めくくりはお風呂よねぇ……」
 一日中外を歩き回ったせいか、こうして湯につかると冷え切っていた身体がほぐれてとてもいい心地がする。硬く強張っていた手足に血がめぐり始め、肌が赤味を帯びて瞬く間にぽかぽかしてくる。
 バスタブには思いきり手足を伸ばせるだけのゆとりがあり、小柄なマーガレットなどはともすれば溺れてしまいそうなほどだ。
 浴槽全体にはなみなみと熱い湯が張ってあって、蛇口をひねれば惜しげもなく新しい湯が出てくる。改めてものすごく優秀な熱水機関だと思った。
 
 
 すっかり身体が温まったところで、マーガレットはバスタブを出てシャンプーに取り掛かった。
 エドワードが買いそろえてくれた薄ピンク色のシャンプーを手に取り、地肌につけてわしゃわしゃと泡立てる。
 すると、湯気に混じって薔薇とジャスミンのブレンドされた甘く爽やかな香気が辺りに立ち上り始めた。
「ふわぁ……、いい香り~……」
 いかにも女性らしい華やいだ香りに、マーガレットの瞳がうっとりと蕩ける。
 かつて働いていた娼館の共同浴場には、無香料の固形石鹸しかなかった。おまけに全身をすべて一つの石鹸で洗ってしまうという荒っぽさで、当然こんな風に髪だけを洗う液体石鹸などありはしなかった。
 貴族の令嬢たちは薔薇やすずらんやフリージアの香りのついた瀟洒な固形石鹸を使っていたようだが、そんなものはもちろんマーガレットのような「娼婦の卵」には到底手の届かない代物だ。街ですれ違う彼女たちの芳香を羨ましいと思いこそすれ、それがこんな風に自分のものになるなどとは夢にも思ってもいなかった。
 それがまさか、こんなことになるだなんて……。
「えっと……仕上げはこれ?」
「トリートメント」と書かれたボトルから中身を手のひらににゅっと出し、軽く伸ばしてから髪になじませる。
 すると、シャンプーと同じ甘やかな香りが鼻腔をくすぐり、疲弊していた心がゆっくりとほどけるのを感じた。
 
 
 すっかり全身を洗い清めてしまうと、マーガレットは再びバスタブに浸かった。
「あー……。久しぶりのお風呂、気持ちいいなぁ……」
 バスタブの中でめいっぱい両手足を伸ばすと、マーガレットはすっかりつるつるになった頬を誇らしげに撫でた。
「はぁ……。広いお風呂場に猫足のバスタブ……、なんて贅沢なんだろ……」
 湯でほぐれた身体からだらりと力を抜き、全身に行き渡る温かさと気持ちよさにうっとり目を閉じる。
(ああ……、あったかい……。久しぶりのお風呂、幸せすぎるぅ……)
 こんな風にバスタブを使うのは初めてだが、共同浴場でざっと済ませるよりよほど快適だし、満足度も上だ。辺りに漂うラベンダーの優しい香りも心地よくて、マーガレットはふにゃりと笑み崩れる。
「うぅん……」
 マーガレットがバスタブの縁に頭を預け、こっくりこっくり舟をこぎ始めた……まさにその時。
 
「……マッジ?」
「ひゃあああっ!?」
 
 突然背後から聞こえてきた声にマーガレットは飛び起きた。そのはずみで計らずもばしゃん!と大きな水音を立ててしまう。
 すると、声の主は案じるように言った。
「ど、どうした!? まさか滑ったのか!?」
 声はエドワードのものだった。
 扉の向こうでこちらの様子を案じているらしい彼に、マーガレットは声を張り上げた。
「あ、だ、大丈夫! ちょっとびっくりしちゃって……!」
「悪い、風呂入ってる時に驚かせたな」
 きまり悪そうに言って、エドワードは大きな咳払いをひとつした。
「その……タオルがないと困るかと思って持ってきたんだ。ここ置いとくから」
「あ……、わざわざありがと」
 
 マーガレットが落ち着いたのを悟ると、エドワードはドア越しに問いかけた。
「湯加減はどうだ?」
「うんっ、久しぶりのお風呂でとっても気持ちいいわ!」
「そりゃあよかったな」
「あんまりあったかくて居眠りしかけてたくらい」
「気持ちはわかるけど、本当に寝るなよ?」
「わかってるわよぅ」と言い、マーガレットは湯の中で華奢な両脚をばたばたさせた。
 
「それにしても、今日はびっくりしちゃったわ。まさか執事さんが追いかけてくるなんて」
「いやぁ……俺の方がびっくりだぜ。大方母さんか従僕に居所を聞いたんだろうが、まさか俺を追ってくるとはな……」
「あたし本物の執事さんって初めて見た。ヨボヨボのおじいさんかと思ったら案外若いのねぇ」
「ま、執事ってのは本来であれば叩き上げの職業だからな。そのイメージであながち間違ってない。ネイサンの年齢で執事に昇格するってのがそもそも珍しいケースなんだよ」
「そうなの?」
「実際、執事になれるまでには何年もかかるからな。二十八で執事やってるってのはつまり『ものすごく優秀』ってことだ」
 
 マーガレットはごくりと喉を鳴らした。
 ぼやぼやっとしている青年に見えたが、実はすごい人だったのか……。
 
「でも、悪い人じゃなさそうね」
「まあ、確かに人当たりはいいし能力も高いな。あの天然ボケが発動しなければ、だが」
「あはは、手厳しいわねぇ」
 二人はしばし浴室のドア越しにくすくすと笑い合った。
 
 
「……そういえば、ずっと聞こうと思ってたんだけど」
「ん?」
「エドのこのお店、『子羊亭』っていうのよね? どういう意味なの?」
 突然のマーガレットの問いかけに、エドワードはそれでも至極真面目に答えてくれた。
「んー……。実はそんなに大した意味はないんだ。子羊は‟迷える子羊”のこと。時間に追われて疲れている人たちに、束の間の休息時間を提供できればいいなと思って」
「なるほど。迷える子羊に温かな救いの手を、ってことかぁ。その救いの手はエドのお茶だったりお菓子だったりするわけね」
「ま、そこまでうぬぼれるつもりはないけどな。ただ、うまいものを食べているうちにおのずと解決策が見つかるパターンってのも案外多かったりするからさ」
「うん……、おいしいもので人を勇気づけられたら、それはとっても素敵なことよね」
 
 マーガレットはしみじみと言った。
「おいしいご飯やお茶って、誰のことも傷つけないし、脅かさないでしょ? むしろその逆で、親しい人と食卓を囲めばあっという間に前向きな気持ちになれちゃうくらい。お腹が空いてるときって、なんでか無性に悲しい気分になったりするけど、あったかいご飯を食べればまたすぐに前を向けるわ。温かくて、平和で……そして確実に元気になれる手段よね」
 思ったままを口にすると、なぜか扉の向こうでエドワードがうろたえる気配がした。
「あの……あたし、なんか変なこと言っちゃった?」
「いや……、そんなにストレートに褒められると、かえって気恥ずかしいなと思って」
「だって、今朝作ってくれた朝ごはん、すっごくおいしかったもん! それまでの不安も寂しさも、全部どこかへ吹き飛んでくみたいな感じがしたわ!」
「そうか……」
 エドワードはくすりと笑って、言う。
「じゃあ、お前がどうしようもなく落ち込んでる時は、俺がお前の好物作って励ましてやるよ。迷える子羊を救うのが俺の役割だからな」
「うーん……。でも、それだとあたしばっかり励ましてもらうみたいで申し訳ないし、あたしも早いとこ料理を覚えることにするわ。そしたらエドが打ちのめされてる時、あたしが元気づけてあげられるでしょ?」
「そりゃいいな。楽しみにしてる」
 
 そんな飾らないやり取りを交わしたあと、エドワードは軽やかに言った。
「悪い、邪魔したな」
「あっ、ううん」
「じゃ、タオルここに置いとくから。好きなだけ入ってていいけど、くれぐれものぼせるなよ」
「大丈夫よ、もう」
 
 脱衣所のドアが開かれる気配がして、閉扉の音ともにエドワードの足音が廊下の向こうへと遠ざかってゆく。
 だんだん小さくなってゆくその音を聴きながら、マーガレットは満足の笑みをこぼす。
 
(色々あったけど、いい一日だったなぁ)
 
 人間になって初めての一日にしては上出来だ。むしろとても幸先のよいスタートと言えるだろう。
 しなやかな両腕を持ち上げると、マーガレットは湯船の中で大きな伸びを一つした。
 
 
***
 
 
 翌朝。
 
「あああっ!?」
 姿見の前でマーガレットはぴょんぴょんと飛び跳ねた自身の髪を手で押さえた。
 
 どうやら乾燥のさせ方が甘かったようで、腰まである長い金の髪は所々に強い癖がついてしまっている。
 もともと軽いウェーブのかかった髪ではあるが、今朝は艶を欠いてぱさつき、鳥の巣のようにみっともなく跳ねてしまっていた。
 
「やだ、寝相が悪くて跳ねちゃったんだわ。何か、何か直せるもの……!」
 わたわたと部屋中を漁るが、身一つでこの家の厄介になっているマーガレットにもちろん直せるものなどあるはずもない。
「あああっ、どうしよう!」
 とりあえずエドワードに整髪料を借りようと、彼女はドアノブに手をかけた。
 扉を開けた刹那、部屋の前を通りかかった一人の青年と視線がかち合う。
「……おや?」
「あっ、あなたは昨日の……」
「おはようございます、小さなお嬢さんリトル・レディ。いいお天気ですねぇ」
 ネイサンはそのまま廊下の向こうまでとことこと歩いていき、廊下の端にある花台に花瓶を置くと、悠々とした足取りで戻ってきた。
「お花?」
「はい。お邸の中が少々殺風景ですので、せめて花を飾ろうと思いまして。許可を頂いたので、お庭のものを何本か切ってきました」
「お庭……?」
 そこでマーガレットはあっ、と声を上げた。
『子羊亭』の一階には手入れのよく行き届いた小さな庭園があるのだ。
 昨日の外出の時にちらりと覗いた程度だが、薔薇や沈丁花、カモミールやクリスマスローズなどが植えられていて、素朴ながらとても素敵な庭だった。
 なんでも、この一軒家デタッチド・ハウスにおける最大のセールスポイントだからと、不動産屋がぎりぎりまではりきって手入れをしていたのだそうだ。
 
 と、そこでネイサンはやおら長駆を屈め、マーガレットに目線を合わせながらやんわりと問うた。
「随分慌てているご様子でしたが、何かお困りですか、レディ?」
「あ、っと……、あの、その……」
 ぐるぐる跳ねた髪を手で押さえつけ、マーガレットはぼそぼそと言った。
「じ、実は……」
 事情を説明すると、ネイサンはうんうんとうなずいた。
「そういうことだったんですね。なるほどなるほど。では、ここは一つ私めにお任せいただけないでしょうか?」
「へっ?」
「私についてきてください。三分で直して差し上げますから」
 
 連れて行かれたのは廊下の隅にある洗面所だ。そこで彼は手にした霧吹きを水道水で満たしていった。
「それは……?」
「即席の寝癖直しです。でも、できればちゃんとした整髪料やヘアウォーターを使った方が髪のためにはいいですね。薬局に行けば大体六百ユークレースから販売していますから、今度エドに買ってもらってくださいね」
「はあい」
 マーガレットの返事にうんうんといった風にうなずくと、彼はおもむろに金属の板が二枚噛み合った摩訶不思議な道具を取り出した。
「それ、何?」
こてです。これで髪を挟み、熱を加えてカールを施したり、寝癖のついた部分を伸ばしたりします」
 よくよく見れば、確かに昔娼婦あねたちが身づくろいに使っていたものによく似ている気がする。
 いや、それよりも――
「あなた、よくそんなもの持ってるわねぇ」
「それが、どうも前の住人の忘れ物みたいで。さっき洗面台の下から出てきたんです。せっかくですから使っちゃいましょう」
 
 ネイサンは部屋から椅子を持ってくると、そこにマーガレットを座らせた。
 ボトルに詰めた水をたっぷりと髪に吹きかけると、彼は手にした鏝で湿ったマーガレットの髪を挟み、ゆっくりと下方へ滑らせていった。
「こうして、跳ねてしまった毛を伸ばして、と……」
 そうした作業を地道に繰り返しているうちに、四方八方に跳ねていた髪が少しずつおとなしくなってくる。
 差し出された手鏡を覗き込むなり、マーガレットははしゃいだ声を上げた。
「わあっ! 直った!」
 鏡の前で癖の取れた金の髪をさらさらと梳く。
 あんなに酷かった寝癖は、今やすっかり洗いたての状態に戻っていた。「さっきお風呂に入ったばかりです」と言っても通ってしまいそうな、完璧な出来栄えである。
「あなたすごいわ! 男の人なのにとっても器用なのね!」
「ありがとうございます。お役に立てて嬉しいですよ、小さなお嬢さん」
 ネイサンはとても嬉しそうににこりと笑った。
 
 マーガレットはすっかり元通りになった髪に上機嫌で手ぐしを通しつつ、鏡越しに彼に笑いかける。
「エドも手先の器用な人だけど、あなたも相当器用ね。こんな風にあっという間に女の子の髪を直しちゃうなんて、なんだかかっこいい。まるで魔法使いみたい」
「いやあ、魔法使いですか。これはもったいないお言葉です。これからもぜひそうありたいものですねぇ」
 
 しばしそうやってうきうきと髪を指で梳いていると、ネイサンはやおら身を屈め、マーガレットにじっと顔を近づけてくる。
「……」
「……? な、何……?」
 その熱っぽい視線にたじろぎ、マーガレットは椅子の上でじりじりと後ずさる。
 次の瞬間、彼は両手を組み合わせて拝むようなしぐさをした。
「マーガレットさん」
「は、はい?」
「貴女の髪……少しだけくしけずらせていただいても?」
「え? い、いいけど……?」
「ああ、ありがとうございます! では、失礼します!」
 許可を得るなり、ネイサンは手にしたブラシをマーガレットの髪に当て始めた。
 人形遊びでもするように、波打つ金の髪に楽しそうにブラシをかける。
 彼の手つきは最初こそ遠慮がちだったが、しだいに大胆かつ本格的なものになっていった。
「ああ、思った通り素晴らしい髪質ですねえ! 量が多くてたっぷりとしていて……!」
 下から手を入れて大きくすくったり、持ち上げた髪を宙でやおらぱっと放したり……。
 そのあまりの熱心さに、マーガレットはぱちぱちと瞬きをした。
「……あなた、もしかして髪結いが趣味なの?」
「いえいえ、そんな、恐れ多い。私ごときが女性の髪に触れることなんてめったにありません。こんな美しくて神々しいもの、男が気安く触れていいものではありませんから」
 その言葉に、マーガレットは照れながらも妙に納得した。
 昔から人の髪には魂が宿るというから、そうした解釈もあながち間違いではなさそうだ。
 
(そうでなきゃ『髪は女の命』なんて言われるはずないわよね)
 
 だが、あまりに称賛されるとなんだかくすぐったい気持ちになってくる。
 こんな風に崇拝するような眼差しを向けられていればなおさらだ。
 
「なんてなめらかで櫛通りのいい髪なんでしょう。ああ、すごいですねえ、綺麗ですねえ……」
 酩酊したような口調で言って、ネイサンは櫛を下まで滑らせる。
 櫛は少しの引っ掛かりもなくするすると毛先まで抜けてゆき、ネイサンはまたうっとりしたため息をついた。
 
 
「あ、そうだ……、少し待っていていただけますか。貴女にぴったりな髪飾りがあるんですよ」
 言い置いてから、ネイサンは早足で自室へ向かう。
 ようやく戻ってきたかと思うと、彼は小ぶりのヘアアクセサリーを二つ、マーガレットに差し出した。
「これは……?」
「昔姉が使っていたものなのですが……よかったら貴女にあげましょう」
 一つはアクアマリンのように透き通る大粒のガラス玉を使った、一揃いのヘアゴム。
 もう一つは小粒のコットンパールを行儀よく並べた華奢なヘアコームだ。
「え……あ、あたしなんかがもらっていいの? 大事なものなんでしょう?」
「貴女に使っていただければ、姉も喜びます。きっとお似合いになると思いますよ」
 彼はヘアブラシを手に窺うように言う。
「あのぅ、よかったら、試しに結わせていただいても……?」
「もう……。あなた、単にあたしの髪を弄りたいだけでしょ……。いいわ、任せる。あなたが似合うと思う形に結って」
 嬉しそうにうなずき、ネイサンはマーガレットの髪を両耳の真上で二つに結い上げた。いわゆるツインテールである。
「ああ、うさぎの耳のようで大変お可愛らしいです! ヘアゴムはもう少し派手なものの方が似合いそうですねぇ!」
「あ、そうね。お花の形の髪留めとかもいいかも……」
「それはいい! 今度買い出しの時に買ってきましょう!」
「え、ちょっ……いいってば、そこまでしてくれなくてもっ!」
 
 すっかり打ち解けた二人は、その後も鏡の前で様々な髪型を試して愉しんだ。
 最初に作ったツインテールをはじめとし、可憐な三つ編み、大人っぽいまとめ髪など、ネイサンは実にたくさんの髪型を作ってくれた。
 どうやらこの時代には随分色んな髪型があるらしい。聞けば件の鏝という道具でさらに強いカールをつけることもできるのだそうだが、カールローションを使わないと髪が傷むからという理由でやんわり却下されてしまった。
 
 ご機嫌なマーガレットはスツールの上でばたばたと両足をばたつかせる。
「ねえねえ、さっき言ってたネイサンのお姉さんってどんな人? あなたに似てる?」
「気が強くてしっかり者で、けれども根っこの部分はとても優しい……そんな人ですよ。ただし、姉の方が私より遥かに器量よしですけどね」
 ブラシを置くと、ネイサンは静かにまつげを伏せた。
 そのジャスパーグリーンの瞳がゆっくりと追想の狭間を漂い始める。
「……私と姉は、元々は孤児でしてね。早くに親を亡くし、このピスタサイトの下町で物乞いのような真似をして暮らしていたんです。ですがある時、私はウォルコット家に引き取られて養子となり、姉はとある資産家の邸に後妻として迎えられることになりました」
「そんな! 別れて暮らすだなんて心配じゃなかったの?」
「心配ですよ。ですが、姉には姉の生き方がある。弟の私がいつまでも頼りきりにしていては、姉は幸せになれない。私がいたら、姉の女性としての幸福を邪魔することになる。だから違う道を選んだのです」
 きっぱり言い切り、彼は小さな苦笑いをこぼす。
「最初こそ頻繁に仕送りをしてもらっていましたが、執事として独り立ちしたのをきっかけに、一切の援助をやめてもらうことにしたんです。いつまでも姉に頼りっぱなしでは、男として情けないですからね」
「……寂しくないの?」
「今はただ、生きていてくれさえすればいい、と思うようになりました。昔は二人生きていくのでさえもやっとでしたから」
 彼は胸に手をあてがうと、鏡越しににこりとした。
「ありがたいことに、手紙だけは毎年届くんですよ。それを読めば姉の様子や暮らしぶりもわかる。だから、離れていても寂しくなどないんです」
「執事さん……」
 マーガレットはきゅっと唇を噛みしめた。
 
(まるであたしとヒースみたい)
 
 マーガレットには、弟を想うネイサンの姉の気持ちがよくわかる気がした。
 離れていても幸せであってほしい。たった一人のきょうだいに、少しでも楽な思いをさせてやりたい。
 ……たとえ二度と一緒に笑い合うことができないのだとしても、弟のためにできることは何でもしてやりたい。
 そういった切なる想いがひしひしと伝わってくるのだ。
 
「……ねえ、執事さん。執事さんは、お姉さんのこと好きだった?」
「え……」
「たとえ離れて暮らしていても、自分のそばにいてくれなくても、大切だって思う?」
 マーガレットの問いかけに、ネイサンは躊躇なくうなずいた。
「もちろんですよ。たった二人の姉弟きょうだいですから」
 
(……ヒースもあたしのこと、そう思ってくれてたのかな)
 
 マーガレットからの仕送りを、ヒースは果たしてありがたいと思っただろうか。
 自分は少しでも彼の支えになってやれていただろうか。
 ――便りがなくても、月日とともに二人の絆が少しずつ薄れていってしまっても。
 ヒースは自分を「かけがえのない姉」と思ってくれていただろうか……。
 
 黙り込むマーガレットの肩に、ネイサンは優しく手を置いた。
「何があったのかは存じませんが、マーガレットさんにも大切に思う家族がいらっしゃるのですね」
 マーガレットはこくりとうなずく。
 するとネイサンは長躯を屈め、横から彼女とゆっくり視線を合わせた。
「家族というものはね、よくも悪くもなかなか縁が切れないものなんです。たとえ離れていても、見えない糸のようなものでしっかりと繋がっている。それが血というものです」
 マーガレットのペリドットの瞳を覗き込み、彼はいたわるようにささやいた。
「貴女の優しさと真心は、きっとその方に伝わっていたと思いますよ」
「そうね……、そうだったらいいなぁ……」
 鏡越しにそっと微笑まれ、マーガレットは泣きそうにくしゃりと顔を歪めた。
 
 

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