少女――ロゼールは、幻想のあわいをゆらゆらと揺蕩っていた。
ここは無意識と自我の狭間。人と人ならざるものを繋ぐ場所。そして――人と‟異界の者”が交わる場所だ。
人間たちには単なる夢であっても、彼女にとっては違う。
神の器であるロゼールの夢は、時に戦禍や厄災を告げる予知夢の役割を果たした。
ロゼールはゆっくりと瞬きをした。
闇の彼方から自分を呼ぶか細い声が聞こえる。
『ルー……チェ……、ヴィ……オ……』
(……だれ?)
繭のように全身に纏わりついていた光明がざわめき出し、心の奥底がぐらぐらと揺れる。
――その名前を呼ばないで。……いいえ、もっと呼んで。
相反する二つの感情が、容赦なくロゼールの魂を揺さぶりだす。
顔を上げた刹那、ヴェールのように周囲を取り巻いていた微光がぱっと霧散する。幻の消滅とともに現れたのは、勇壮な体躯の一人の青年だった。
背の中ほどまで伸びた黒髪に、どこか傲慢さを滲ませる柘榴色の双眸。冥府の王のごとき裾長の黒衣……。
闇の権化のような漆黒の立ち姿に、思わず目を奪われる。
ふっと笑うと、男はロゼールのおとがいをゆっくりとすくい上げた。
「――時は来たれり。さあ、我がものとなれ、ロゼール姫よ。忌々しい古の盟約なぞ、この私が葬り去ってくれよう」
「な――」
ロゼールは闇が充満する空間の中をめちゃくちゃに駆け出した。
男の纏う魔力と威圧感に気圧されつつも、なんとか彼から距離を取る。
「はあっ……はあっ……」
「この期に及んで抵抗か? 無駄なことを……」
「わ、わたくしの身はヴィシェル神への捧げもの……、あなたのような男のものになんて、ならない……っ!」
そこで男は細く小さく笑みをこぼす。小ばかにしたような薄ら笑いの後、彼は逃げ惑うロゼールに向けて傲然と言い放った。
――追いかけっこか。よい、しばしの間付き合ってやろう。
そんなささめきがロゼールの耳朶を不気味にくすぐる。
捕まるものか。絶対に逃げ切ってみせる。
そう息巻いて、ロゼールは暗闇の中を遮二無二疾走した。
けれど、黒衣の美丈夫は逃げても逃げても追ってくる。
彼は残酷な微笑をその薄い唇に載せ、背に広がる漆黒の大きな翼をはためかせながら、逃げ惑うロゼールを睥睨していた。
「あっ――」
脚が大きくもつれた隙を見計らって、男の腕がロゼールの肢体を背後から羽交い絞めにする。
彼はその耳元で色香たっぷりにささやいた。
「……迎えに来たぞ、わが花嫁」
「……い、」
「いやあああああ――っ!!」
絶叫とともにロゼールは飛び起きた。
羽毛の詰まった上掛けを勢いよくはねのけて、寝台の上にがばりと身を起こす。
全身に驚くほどびっしょりと汗をかいている。
やや癖のある漆黒の髪は湿りけを帯びて首筋に張り付き、長いまつげの奥ではアイスブルーの双眸が心細さに揺れ動いている。
「あ……、わ、わたくし……っ」
ごくりとつばを飲み込み、ロゼールは寝台の上で身じろぎした。
外では可憐な声を響かせて駒鳥が鳴いている。不吉な夢に似合わずなんとも平和な朝だった。
「ゆ、ゆめ……」
なんて生々しくてリアルな夢だったのだろう。男の腕や胸板の感触が――そして熱が――まだ全身に残っているような気さえする。
未だばくばくと音を立てる心臓をなんとかなだめ、寝室中央に置かれたテーブルまで歩いて行って水差しを傾ける。
玻璃のグラスになみなみと水を注ぐと、ロゼールはそれを一息に飲み干した。
口元を拭い、憔悴した頭をふるりと振って呼び鈴を鳴らす。
すると、控えの間から数人の侍女が現れて深々と腰を折った。
「おはようございます、ロゼール姫様」
「ええ、おはよう」
彼女たちはみなロゼール付きの侍女だ。大半はこのブランカ城へ行儀見習い目的で出仕させられている名門貴族の令嬢たちである。
お仕着せを纏った少女たちはロゼールの顔を見上げてほうっとため息をつく。
何が彼女たちの視線を釘づけにしているのかよく理解しているロゼールは、そこでにっこりと笑ってみせた。
「……貴女たちに、今日もヴィシェル神のご加護があらんことを」
そのたった一言で、年若い侍女たちは一斉に声を上げた。
「きゃあっ、ロゼール姫様! もったいのうございます!」
「ああでも、姫様にそう言っていただけると、なんだか本当にいい一日になりそうですわ!」
手を取り合ってはしゃぐ侍女らを尻目に、ロゼールは部屋の隅に置かれた書きもの机へ向かった。
寝間着のまま椅子に腰かけ、机の上に置かれた革の手帳を広げて今日一日の予定を再確認する。
「うーん……恒例の日に三度の祈祷のほかには何もないわね。本当はもう少しだけ寝ていたいけれど、そういうわけにもいかないし……」
大掛かりな式典は先日済ませたばかり、孤児院や治療院への慰問といった行事も当面の間ない。
「今日は何をしようかしら……」
その時、侍女の一人がロゼールにうきうきと提案した。
「姫様、今朝はお天気が大変ようございますわ。お支度を済ませたら、少しばかり朝のお散歩に出ていらしては?」
「あ……そうね。いいかもしれないわ。そうしようかしら」
ロゼールはすっくと立ちあがった。
そして運ばれてきた朝餉を淡々と平らげてしまうと、素早く朝の身づくろいに取りかかった。
「本日のお召し物はいかがなさいますか?」
「そうね……、瞳の色に合わせたペールブルーのドレスにして」
「かしこまりました」
まずは鏡台の前に腰かけて侍女たちに起き抜けの髪を梳いてもらう。
たっぷりと長い黒髪にすずらんと薔薇がふんだんに使われたヘアコロンを吹きつけ、綺麗な形のシニヨンに結い、真珠をはめ込んだピンをいくつも挿して飾る。
そして、完璧に結いあがったところでもう一度コロンを軽く振りかけて最後の香りづけをする。
(……どうしてかしら。今日はなんだかいいことがありそうな気がするわ)
あんなに怖い夢を見た後だというのに、心はいたってのんきなものだった。身支度をしているうちに余裕が生まれ、先ほどまでの悪夢のことなど綺麗さっぱり忘れ去ってしまう。
ドレスを着終えたロゼールに、侍女たちはてきぱき化粧を施していった。
まず卵型の顔全体に軽く白粉をはたき、白磁の頬に咲き初めの薔薇を思わせる薄紅色のパウダーチークをふんわりと乗せる。
次にすみれ色のアイシャドウでまぶたをうっすらと染め、化粧料を塗ってまつげを上向きにカールさせる。
そしてお気に入りのローズピンクの紅を唇全体に丁寧に刷き、もちをよくする仕上げ用の化粧水を何度か肌に吹きつけたところで、ロゼールは身づくろいを終えた。
侍女が下がったのを見届けると、彼女は鏡に映る自らの姿をそっと見つめた。
ロゼールの瞳は澄み渡るアイスブルーをしている。
これはエレシウス王家に伝わる水神の神力の証だ。青い瞳というのは、もともとエレシウスの守護獣たる竜神ヴィシェルの力が具現化された者にだけ与えられるものである。
そして、当代で唯一それを持って生まれたのがロゼールだった。
そのためロゼールは幼少の頃から「エレシウスの巫女」として貴ばれ、王家の他の姫たちとは格段に異なる暮らしを強いられてきた。
日に三度の祈祷に、式典での神舞の披露。
そして月に数回治療院へ赴いて怪我を負った人々の慰問をする。
請われれば王都郊外の孤児院や戦地へ足を運ぶこともある。
竜神の巫女として大勢の人々から敬愛されている代わり、ロゼールの仕事は他の王女たちより遥かにたくさんあった。
「さて……少しの間散歩をしてきます。支度を手伝ってくれてありがとう」
「姫様、今日の供はどの者にいたしますか?」
「……」
居並ぶ侍女たちがわくわくした目でこちらを見つめてくる。
が、ロゼールはちょっと首を傾げたのちに言った。
「うーん。今朝はわたくし一人でいいわ。みんな控えの間でやすんでいていいわよ」
「かしこまりました」
頭を垂れる侍女たちに淡い微笑みを残し、ロゼールは静かに私室を出た。
***
「うーん、いいお天気!」
ロゼールは大きく伸びをすると、肘にぶら下げた花籠を揺らしながら歩き出した。
「ついこの前まで春の嵐っていう感じだったのに、今日は気持ちのいい快晴ね。きっとこれからだんだんあったかくなってくるんだわ」
先週まで意地悪くはびこっていた冬の厳しさはどこへやら、今はすっかりのどかな春の気候だ。
嬉しくなったロゼールは、春に咲く野花を気ままに摘んで愉しんだ。香草や薬草は左肘にかけた籠に放り込み、特に気に入った花はブーケ代わりに手に携えて歩く。
王城を取り囲む緑豊かな庭園に差し掛かったところで、ロゼールは前方からやってくる父の姿に気づいた。
「おはようございます、お父様」
ドレスの裾をつまみ、ちょこんと愛らしいお辞儀をする。
それだけで父王の顔は瞬く間にほころんだ。ロゼールの手の中にある即席のブーケを見やって、彼はにこにこと言った。
「おお、ロゼール。おはよう。今朝はまた随分とたくさん花を摘んだな」
「はい。わたくしは春の花がことのほか好きなのです。可愛らしいでしょう?」
「ああ、なんとも可憐なものばかりだ。そちらはすみれ、その隣は雛菊か。そなたにぴったりな花ばかりだな」
「お父様。野の花を甘く見てはいけません。こう見えて春の野花は生命力にあふれたとても強靭な植物ばかりなんですよ。すみれは道端でも花を咲かせることができますし、雛菊の葉っぱは血止め薬になります。タンポポは花をお酒に加工することができますし、葉っぱのところはおひたしや揚げ物にして食べても……」
熱心に力説するロゼールに、父王は高らかな笑い声を上げる。
「ははははは……! これは一本取られたようだなあ。まこと、お前の植物に対する知識は素晴らしい。久方ぶりに聞いたがやはり舌を巻いてしまうな」
「あ、ありがとうございます。……別にお父様を言い負かそうとしたわけではなくて、お花にはお花のすごいところがあるって言いたかっただけなのですけれど」
「よいよい。いや、結構なことだ。わが国の巫女は人だけではなく花さえも大事にする。これは並大抵の者にはできまいよ」
「そう……でしょうか。褒めすぎではありませんか?」
「何を言う。人が人を大事にできるのは当たり前のことだろう。それよりも、意思を持たない動物や植物、ひいては国の環境といったものに対しても意識を向けられるかどうかというのは実に大切なことだぞ。我々の血肉は彼らの犠牲によって成り立っているも同義。人ばかりではなく、獣や花、草木の一本に対しても感謝の気持ちを忘れてはならぬ」
ロゼールはそこでふっと笑みをこぼした。
「わたくし、お父様のそうしたお考えが大好きですわ。お父様の方こそ、凡人にはけして持ちえない発想の持ち主だと思います」
「むう……、これは君主の常識でもあるのだがなあ……。いや、だが、娘に褒められて悪い気はせぬ。ありがとう、ロゼール」
王妃は流行り病で急逝してしまったものの、二人の仲はおしなべて良好だ。
末姫であるロゼールの上にはもうすでに数人の兄弟姉妹たちがおり、父王自身も再婚を望まなかったために、今でもエレシウス王妃の座は亡き母のものだ。
そのため、新しい妃の登場によって親子の関係におかしな亀裂が入ることもなく今に至っている。
次期王位継承者も決まり、あとは王女数名がそれぞれ婿を取るだけとなっている。
婿取りをするのはロゼールも同じだ。成人の儀を終えたのちは、しかるべき家柄の男を配偶者に迎えて生涯を共にすることとなっていた。
今から数えておよそ一年後のことになるが、王族女性としては避けられないさだめでもある。これはもはや受け入れるしかないのだろう。
だが。
(……わたくしだって、婿を取る前に恋というものがしてみたかった)
齢十六の娘が願うにはごく当たり前の願いだ。
しかし、ロゼールにその機会はとうとう訪れなかった。
理由は単純明快で、それは彼女がこのエレシウスの巫女だからだ。
巫女とはいえ、恋をしてはいけないわけではない。単純に国の象徴として「巫女」という名誉職があるだけで、別にロゼールが恋をしたって神力が消えてなくなるわけではないのだ。
しかし、巫女だからこそ並の男は近寄れないという現実があった。巫女が式典や行事に参加する折には神殿に所属する神官たちが率先して身辺警護に当たってくれるのだが、これが案外曲者で、彼らの監視の目があるばかりに男性たちと話ができないということも多い。
それに加えて巫女の純潔を散らす者にはそれ相応の覚悟が要求される。すなわち、国の象徴たる女性を穢す覚悟があるかどうかということだ。
大抵の男はそこで尻込みしてしまう。巫女の神聖なる肉体を穢すなんてと、軽々しくロゼールに近づくのを嫌がる。
だから今でもロゼールは男女の交わりはおろか、キスすらしたことのない清らかな乙女のままだった。
(もうっ。神官長の馬鹿っ。守ってくれるのはいいけど、あんなに距離を詰められちゃ殿方とお近づきになんて絶対なれないわよ)
神官長の名はエルベールといい、癖のない銀髪と澄んだエメラルドグリーンの双眸を持ち合わせた大層な美丈夫だ。
だが、その思考回路が強敵だった。
彼は神官たちを集めて一種の「ロゼール親衛隊」のようなものを構成してしまっている。それがロゼールにとって唯一にして最大の障害だった。
まず、式典では必ずロゼールの隣を陣取る。そしてロゼールが巫女として活躍すれば真っ先に反応し、「さすがは私の姫様だッ!!」と泣いて喜ぶ。
そんな男がいつも傍らに侍っていたのでは、当然思うように恋などできない。恐らく国中のほとんどの人間は彼がロゼールの婿候補だと思っているだろうし、彼自身もそうした態度を崩さない。
これはもはやエルベールが無理やり捏造した既成事実のようなものだった。
「はあ……」
「……どうしたのだ、ロゼール。今日は随分元気がないではないか」
「いえ、なんでもないのです、お父様……。少し夢見が悪かっただけですわ」
まさか父王に向かって「恋というものがしてみたいのです」などと名状できるわけもなく、ロゼールは渋々現実に意識を向ける。
やがて本城中心部にある玉座の間にたどり着いた二人は、騎士らに促されるまま緋色の絨毯の上を進んだ。
「やあ、お前もあと三月でデビュタントか。もう立派な淑女になるのだと思うと何やら感慨深いな」
「そ、そうですか?」
「ああ。月日が経つのは早いものだなあ。だが、こうして見るとお前は随分と大人になった。今のお前はどこからどう見ても年頃の貴婦人だ。ふむ……この分だと社交界では引く手数多かもしれぬな?」
「まあ、お父様ったら……」
ロゼールははにかむ。
年老いた父王が玉座にゆっくりと腰を下ろすのを見届けたロゼールは、一人玉座の間を歩き回った。
玉座の間には大陸でもまだ高価な鏡がふんだんに張り巡らされている。総クリスタルのシャンデリアや黄金の燭台、宮廷画家の描いた荘厳な宗教画に、名匠が手がけた豊麗な彫像の数々……。エレシウス王国の権威と財力を見せつけるにはじゅうぶんな設えだ。
ロゼールは、鏡張りになっている壁面に自らの姿を映し、ほうっとため息をついた。
壁面に白い手を滑らせながら、柔らかな笑顔を浮かべ、ドレスの皺を直し、時折軽く前髪の乱れを直してみたりもする。
(ああ……あと三月でわたくしもいよいよ社交界デビューをするのね……)
三月後、王室ではロゼールの十七歳の誕生日を祝う式典が執り行われることになっている。式典の後には「デビュタントボール」と呼ばれる乙女たちの社交界デビューの場が設けられており、今年成人を迎える貴族の令嬢たちが一堂に会することになっていた。
十七になった娘たちはこの謁見式に出席して初めて淑女として認められる。エレシウスでは女は十七歳になってようやく一人前だ。十七になれば酒も社交も解禁となり、あれよあれよという間に婿探しが始まる。評判のいい娘は引く手数多だから、何度かパーティに足を運んでいるうちに自然と縁談が持ち上がることも珍しくない。
「なのにわたくしは、顔も名前もろくに知らない殿方と伴侶にさせられるんだわ。これではロマンも情緒もあったものではないわね……」
相手の条件にさほどのこだわりはないけれど、もし父王の選んだ婿がひどい浮気者だったりしたらどうすればいいのだろう。女として大事にされるどころか見向きもされなかったら? 巫女姫をしていた方がまだましだったと思えるような乱暴者だったら?
「はぁ……。嫌だわ……、結婚なんてしたくない……」
ロゼールはぼやき、桜桃の唇からそっと吐息を漏らす。
――その時。
触れていた鏡面がぐにゃりと歪んだ。
「え……っ?」
ロゼールのアイスブルーの瞳に、強い戸惑いの色が揺れる。
恐怖にじりじりと後ずさった刹那、いびつに歪んだ鏡面の向こうから地に轟くような低音が聞こえてきた。
「――そんなに下界が煩わしいのならば、私が娶ってやろうか?」
揶揄するような声音に息を呑み、ロゼールは薄水色の双眸でじっと鏡を見つめる。
次の瞬間、はっと息を詰めた。
鏡の中――不敵に笑ってこちらを見つめる、黒衣の男の姿があったのだ。
「きゃああああっ……!?」
黒衣に包まれた男の腕が、こちらに向かってまっすぐに伸ばされる。
ロゼールは遮二無二その魔手を振り払った。
「! ロゼール! 近寄ってはならぬ、早く私のもとへ……!」
「お父様っ……!」
逃げ惑うロゼールを尻目に、男は長いマントの裾を翻して颯爽と玉座の間に降り立った。
「……ふん。随分とザルな結界だな。私の侵入をこうも易々と許してしまうとは。一度術式を練り直した方がよいのではないか?」
くっくっ……と嗤い、男は肩に下りた長い黒髪を傲然と手で払う。熟れた柘榴を思わせる深いルビーレッドの瞳が、挑むようにロゼールを射抜いた。
(ただ立っているだけなのに、なんて威圧感なの。まるで死神ね……。目を合わせているだけで、魂をやすやすと掠め取られてしまいそう……)
……眼差しは研ぎ澄まされた刃のように鋭く、肉厚の唇には酷薄で冷ややかな笑みが浮かんでいる。上背のある体躯には獅子のような勇壮さがあり、広間の近衛騎士たちですら気圧されてしまっているほどだ。
長躯に纏うのは鴉の濡れ羽色の軍服で、腰には全長が子供の背丈ほどもある立派な長剣を佩いている。
その重厚で猛々しい独特の雰囲気に、ロゼールはこくりと喉を鳴らした。
こんな男はエレシウスの宮廷にはいない。……こんな、獰猛でありながらもどこか落ち着いた麗姿を持つ男は。
「何者だ!」
誰何する父王を鋭い視線でいなし、男は怯むでもなく至って堂々と二人の前へ歩み出た。
「……お前がエレシウスの王だな」
父王が反射的にマントの陰にロゼールを庇う。
「私の名はグラシアン。ここへは謁見のために参った次第だ」
「何……!?」
「その娘を私に寄越せ。二度は言わんぞ、エレシウス王よ」
顎をしゃくってロゼールを指すグラシアンに、父王は険しい瞳を向けた。
「ロゼール、下がっていなさい」
「だけどお父様……っ」
親子二人はいきなりの事態におろおろしつつも必死で互いを庇い合う。
と、そこで男はいきなり思案顔になった。
「いや待てよ……、確か、こちらの言葉では『娘さんを僕にください』というのだったか。しかも頭を下げるのが礼儀だと書いてあったな。ううむ……、ここはひとまずそのようにするか……」
グラシアンと名乗った男は、マントの裾を払うなり突如すっと膝をついた。
長い脚を折りたたんできっちり土下座をすると、深々と頭を垂れる。
「……娘さんを、私にください」
玉座の間は水を打ったようにしん……と静まり返った。
ロゼールも思わず口を開けてぽかんとする。
軍服の大男が、あろうことか玉座の間で土下座をして求婚の申し込みをしている。武装した長躯を窮屈そうに折り曲げ、これ以上ないくらい深く頭を下げて。
しかも娶ろうとしているのはロゼール本人だ。
(な……!)
ロゼールは口をぱくぱくさせ、男に指を突きつけた。
「ちょっ……な、なんなのよあなたっ!? いきなり現れてヘンなこと言わないでっ!」
「変ではない。これはまっとうな手続きだ。私はお前が生まれた時から自分の花嫁にすると決めていたのだから」
「……!」
紅と蒼、二人の視線が交差する。
そこでロゼールはアイスブルーの瞳を眇めた。その虹彩がきらりと光り輝く。
「……あなた、少なくとも人間じゃないわね?」
グラシアンがにやりと笑って切り返してくる。
「ほう……さすがはエレシウスの姫。神力を宿しているだけあって読みが鋭いな。そうだ、私は人間ではない。‟奈落”と‟混沌”を統べる魔界の王……『魔王』だ」
グラシアンはそこで何事か文言を唱えた。
すると、瞬く間にその背には漆黒の翼がはためき、頭部には山羊のそれにも似た角が現れる。
ばさり、と音を立てて広がった蝙蝠の翼に、ロゼールの目は釘付けになった。
(山羊の角に蝙蝠の翼……、聖典にあった古の魔王の姿にそっくりだわ……!)
立ち上がるや否や、グラシアンは両翼を大きく翻して空に飛翔した。
「これが私の本来の姿だ。気に入ったか、花嫁殿?」
「き、気に入るわけないでしょう……! 気持ち悪いわ……、は、早くしまってちょうだい、そんなもの!」
「くっ……! ははははは……! 怯えと怒りが同時に伝わってくるぞ。そのくせ瞳だけは爛々と輝かせて……ふふ、やはりいい女だな、お前は」
彼は柘榴色の瞳をうっそりと細め、形のよい唇を傲慢につり上げる。
「私に興味があるのだろう? お前の瞳がそう語っている……」
「嘘……、そんなこと――」
「嘘ではない。お前は私に興味を抱いているのだ。頬は紅潮し、瞳は甘く潤み、唇は接吻をねだるようにうっすらと開いている……。認めろ。私に心奪われたと」
「そんな……っ」
(わ、わたくしがこんな勘違い男に興味なんか抱くはず――)
だが、ロゼールの胸はとくとくと高鳴り、思いがけない形で訪れた彼との出会いに躍っていた。
何せ普段は巫女姫として若い異性との接触をほとんど断っているロゼールである。グラシアンが揶揄する通り、彼との出会いに少なからず高揚してしまっているのは間違いなかった。
ひとしきりロゼール父娘を睥睨すると、グラシアンは軽やかな音をさせて床の上に降り立った。
「……ふふ、好都合だな。作法はよくわからなかったが、ひとまず花嫁殿の歓心を買うことはできたようだ」
「さ、さっきから一体なんなのよ!! 誰がいつあなたの花嫁になるなんて言ったの!?」
「言っただろう。お前が生まれた時から目をつけていたのだと」
「そんなでたらめ、通用するわけないでしょ!?」
「いいや、でたらめなどではない。私はお前がこの世に生まれ落ちた瞬間からその成長を見守り続けてきた。お前のその輝きが私を呼んだのだ」
「……それでわたくしを見初めたと?」
怪訝な顔で問い詰めるロゼールに、グラシアンはきっぱりと言った。
「そうだ。これはいわゆる‟妻乞い”だ」
「つまごい……?」
男は語った。人と人ならざる者との間でしばしば交わされるその盟約の話を。
神界のものや魔界のものが人の娘を娶る時、彼らは直々に娘をもらい受けに行く。
ここで選ばれるのは決まって国の末姫であり、異界の男は国の繁栄や存続といったそれらしい取引を持ちかけて娘を娶ろうとする。
国王や末姫が輿入れを拒めば、男は国に大きな災いをもたらして見せしめとする。自らの異能を見せつけるため、そして娘の父親たる国王に恐怖と焦燥を与えるために。
「しかしながら、私の曾祖父の代にはこの習わしはきわめて穏やかなものになっていてな。人間たちとの間に要らぬ軋轢を生まないためにも、腰を低くして『お願い』する手法に変わっていたのだ」
(そ、それは果たして穏やかと言えるのかしら……)
グラシアンの曾祖父ということはやはり魔族なのだろうが、いきなりこんな異形の大男が現れて末姫にプロポーズしたりしたら、王は腰を抜かすに違いない。
「ヒィィィ!」と叫んで玉座から転がり落ちる三代前の王の姿が目に浮かぶようだ。
「ロマンティックな話だと思わないか? 色恋のために互いの領土を賭して争い合うとは。そうまでして愛しい娘と添い遂げたかったのであろうな……。これぞまさしく純愛だ……」
「いや、待って……、そういうのは人間側にしてみれば単なる傍迷惑だからっ。自分のために国を滅ぼされるなんて、恐怖以外の何物でもないわよ! わたくしがその娘なら舌嚙み切って自害するレベルよ!」
「何を言う。魔王の伴侶になれるなど、魔界においてもめったにない名誉なのだぞ? これだから無知な人の娘は困るのだ。お前はこの情緒溢れるしきたりを全くもって理解していない。種族が違うもの同士の恋、二つの世界をまたいだ婚姻……これほどまでにロマンに満ちた風習があるものか」
小馬鹿にするようにふんと鼻を鳴らされ、ロゼールは彼に指を突きつける。
「いやいや、あなたにロマンを説かれたくないんですけど!?」
「なんだ、お前が言ったのだろう? ロマンも情緒もない結婚などしたくないと。ならば私は適任ではないのか。夢見がちでふわふわしたお前にはおあつらえ向きの男だと思うが?」
「そうね……。あなたが魔族――それも魔王でさえなかったらね……」
ロゼールはやれやれと首を打ち振った。
どうやら話が通じない男のようだ。いや、もしかしたらこちらの常識が通じないのだろうか。
いずれにせよ非常に面倒くさそうな相手であることは間違いない。
(こういう手合いって、一体どうしたらお帰りいただけるのかしら)
いきなり現れて居丈高にプロポーズし、ロゼールの性格を決めつけ、おまけに言動はいちいち上から目線――。
あまりのワンマンぶりに、ロゼールは至近距離で男の顔を睨みつけた。
「なんだ」
「いえ……」
ロゼールがじと目で目の前の大男を睨み据えていると、突如バン!と音を立てて、玉座の間の扉が開かれた。
「――何をしているんだ、貴様ッ!!」
そこに立っていたのは、純白の神官服を着込んだ細身の青年だった。纏う衣服に負けず劣らず白い髪、穏やかで思慮深げな緑柱石の双眸が魅惑的な、大層な美青年である。
が、今やその端整な美貌は恐ろしげな形に歪んでいた。
彼ははっ、はっ……と肩で息をしながら、寄り添い合う二人を見つめている。……否、正確に言うならば「凝視して」いた。
次の瞬間、彼は二人に向かってびしりと指を突きつけた。
「ああっ……、なんということだッ!! この私が目を離したばっかりに、穢れた‟異界の住人”が姫様を誘惑しようとしている……ッ!! おまけに男ッ!!」
ずかずかと歩み寄ってくるなり、エルベールはぐわし、とロゼールの肩を掴んだ。
「ああ、ああ、姫様……なりません、このような汚らわしい魔族などに心奪われては!! 見てください、この邪悪なオーラを!! こやつはどう考えても姫様にとっての害悪ですよ!! こんなゴキブリのような黒ずくめ男、せせら笑って足蹴にしてやるくらいでじゅうぶんです!!」
エルベールはそのままグラシアンの長躯をべりっと引きはがす。
だが、ロゼールは反射的にそれを止めていた。
「ま、待ってエルベール。この人は別に悪い人じゃないわ。だってわたくし、まだ何もされていないし……」
「なな、何をおっしゃいますか! 国の巫女たる貴女様が、このような魔族の男をかばう理由などないではありませんか! 魔族といえば、残虐非道の限りを尽くす野蛮な一族! 人を虐殺し、魔界に連れ去っていたずらに拷問にかける卑劣な輩です! そんな男を貴女が庇うことは――」
「だけど、中には神族の暴動を止めてくれた魔族だっていたし、仲間の神族に裏切られたばっかりに堕天の道を選んだ者だっていたでしょう。それを考えれば、何もわたくしだけが‟正義”とは限らないわ」
これまで巫女姫という名誉職に対して思っていたことのすべてを、ロゼールはぽつぽつと吐き出した。
エルベールが驚愕の面持ちでこちらに見入っているのにもかまわず、彼女は勢いのまま続けた。
「それに……巫女なんて別に大した存在じゃないのよ、エルベール。だって、仮にわたくしがこの国を滅ぼしましょうと提案すれば、民たちはみな何も考えずにそれを実行に移してしまうでしょう。それって、本当に正しい力なのかしら。むしろ盲目的で危ないものだと解釈した方がいいのではない?」
「それは……」
エルベールが返答に窮したのをいいことに、ロゼールは畳みかけた。
「前から思っていたわ、あなたはわたくしのことをあまりにも持ち上げすぎだって」
「ひ、姫様――」
「でもね、エルベール。結局のところ、あなたはわたくしを敬っているんじゃない、巫女姫というわたくしの肩書を敬っているのよ。そんな人の言うことなんか、わたくしは聞かないわ」
エルベールはぐぬぬ、と唸る。
「この……ッ!! 魔族の若造が、私の大事な姫様を誑かしおってぇええええ!!」
「……待て。誤解だ、神官。私は何もしていない」
「嘘をつけ、この……ッ! 大方、姫様をその気にさせるような術でもかけたのだろう!? 許さん……許さんぞ、この悪党めがあああ!!」
「待てと言っているのに聞こえんのか、こやつ。ただ喚いているだけで仕事になるとは、エレシウスの神官長とは随分と楽な役職だな」
「ぐうう……ッ!」
純白の神官服の袖をひらりとはためかせ、エルベールは声高に命じた。
「神官長エルベール・アルベルト・フォン・クラインが命ずる!! 皆の者、この魔族を射て!!」
エルベールの命を受けて周囲の神殿騎士たちが一斉に矢をつがえた、その時――。
「――これ、やめぬかエルベール」
声を上げたのは、なんと父王だった。その凛とした声音に、広間は一瞬しん……と静まり返った。
「な……ッ、へ、陛下まで何をおっしゃるのですか! 大切な御息女が魔のものに誑かされようという時に……!」
「ロゼールの言う通りだ、エルベール。この男は我が娘に対してまだ何もしておらぬ。ただ言葉を交わし、身を寄せあっていただけだ。そなたの思っているようなことは何も起こっておらぬ」
「ですがっ……!」
「そもそも魔族に対しての攻撃行為は魔界への宣戦布告と同義であるぞ。私は今それを望んでおらぬ。わかったら無実の者に対して軽々しく戦を仕掛けるのはやめよ。争いの火種はむやみやたらと撒くべきではない」
「くっ……!」
唇を噛みしめるエルベールに、グラシアンは幾分ほっとした風に表情を緩めた。
「さすがは大陸一の大国であるエレシウスの王、話がわかるな」
「私としてもこれまで続いてきた平穏をこんなところでふいにしたくはないのだ。それも、たかだか末娘への求婚の話ごときで」
「求婚――!?」
エルベールがまたしても素っ頓狂な声を上げたが、父王は構わず続けた。
「勘違いしないでくれ、ロゼール。私は別にそなたを軽んじて言っているわけではない。そなたに巫女という使命を課し、他の姫たちとは異なる貞淑な暮らしを強いたのはほかならぬ私なのだからな」
「お父様」
「そなたも今年で十七だ。そろそろ女としての幸せを考えてみてもよいのではないか」
「……女としての、幸せ?」
「うむ。日に三度の祈禱をし、慰問へ赴き、純潔を守りながら‟国の象徴”として生きる。それがそなたに課せられたさだめだ、ロゼール。だが、私はここのところしばしば考えるようになった。そなたはそれで本当に幸せだろうか。そなたは本当にそんな生き方を望んでいるのだろうか、と……」
「それ、は……」
まるで恋をしてみたいと願っている自分の心を見透かされているようで、頬が熱くなる。
「私はずっと疑問に思っていた。この国の巫女という制度は、果たして本当に正しいものなのだろうかと……」
「お父様……」
父王に柔らかな微笑で促され、ロゼールはゆっくり唇を開く。
「わ、わたくしは、ずっと恋というものがしてみたいと思ってきました。子供の頃より、もうずっとです。お姉様がたが御夫君に優しくして頂いていると聞いては恋に憧れ、令嬢たちが意中の殿方と睦みあっている姿を見ては羨ましくなり……。恥ずかしいことに、わたくしは巫女姫の身でありながら、恋に憧れる気持ちは誰より強かったように思います」
「では、その心に従え。そなたの母も、そなたが‟国の象徴”という役割に縛られることは望んでおらぬだろう。これからは年頃の娘として、思いのままに花の盛りを愉しむがよい」
「ですが、婚約のお話は……! 後任の巫女もまだ決まっておりませんし――」
「よい。私が許す」
鷹揚に言い、父王はグラシアンに向き直る。
「魔王グラシアン。もしロゼールがお前を好いているというならば、私は娘をお前に輿入れさせることも考えよう。娘とよく話し合え」
グラシアンは父王に向けて軽く会釈をすると、ロゼールの前に進み出た。
「……では、ここは一つ姫本人に訊ねよう。お前は、私と来るつもりがあるか?」
「わたくしを生まれた時から見ていたと言ったわね。出生したその瞬間に見初めたのだと……」
「ああ」
「……つまり、それほどわたくしが好きで、気に入ってくれているということ?」
「そうなるな」
ロゼールはぽっと頬を染めてグラシアンを見上げた。
(結婚……はいやだけど、ここまで言ってくれる情熱は評価できるわね。初めての恋の相手にはいいかもしれない……)
結局、強すぎる好奇心がロゼールの自制心を上回った。
「……いいわ。結婚はまだ考えられないけれど、あなたの恋人にならなってみる」
「本当か!?」
「え、ええ……」
答えるや否や、グラシアンはロゼールに駆け寄り、その脇に手を差し入れて勢いよく上空へと持ち上げた。
「……っ!?」
つま先が軽々と宙に浮き、ロゼールは急な浮遊感に目を見張る。
が、グラシアンは構わずロゼールの身体を抱き上げ、まるで童女にするように上下に揺さぶった。いわゆる「高い高い」である。
「求婚を受け入れてくれて、感謝する。嬉しいぞ、ロゼール姫!」
そのおもてには弾けるような笑みが浮かべられており、その様子は決して「魔界からやってきた野蛮な略奪者」といった風情ではない。
しかし、不安定な体勢、そして空中でぶらぶらと揺らされる感覚に恐れをなしたロゼールは、身をすくめて悲鳴を上げた。
「いやああああっ、高いっ、怖いっ……! お、下ろしてえっ……!」
「なんだ、これくらいそこのボンクラ王にされたことがあるだろう。何を大げさな」
「だだだ、だってあなた、お父様よりうんと背が高いじゃない! ととと、とにかく下ろしてっ!」
「魔王グラシアン。そなたは随分口が悪いなあ……」
父王は背を丸め、「よりにもよってボンクラと呼ばれる日が来るとは……」としょんぼりしている。
「これ、魔王。そろそろロゼールを下ろしてやりたまえ。怯えているではないか」
「む……?」
ようやく床の上に下ろされ、ほっと息をつく。
ばくばくする心臓を懸命になだめているロゼールに、グラシアンはまたしても横柄に言った。
「巫女姫。私はお前に多くを望まない。ただ私の妃となり、魔界の女王として最低限の公務を果たしてくれればそれでいい。お前の安全と衣食住については、魔族の長であるこの私が保証しよう。だから安心してわが魔界へ嫁いでくるがいい」
「だ、だから結婚なんかまだ考えられないって言って……!」
視線で父王に助けを求めてみるも、彼はからからと笑うだけだ。
「まあ、やれるところまでやってみなさい。結婚生活というのも一種の社会勉強のようなものだろう。嫌になったら戻ってくればいいのだし」
あっけらかんとのたまう父王に、ロゼールはあんぐりと口を開けた。
「お、お父様、そんな……」
「人間というものは実際に接してみなければわからないものだが、これは魔族相手でも同じだろうよ。そなたがこの男に心突き動かされるものがあるというなら、そうした直感に従ってみるのも悪くないのではないか。実際に話してみて、触れ合ってみて……そうしなければ生まれない絆というものも確かにあるのだから」
「……」
確かにそうかもしれない。
出会い頭の印象が最悪だったせいで、とっさに彼を「悪人」と決めつけてしまったが、これでは巫女姫失格だ。
「……そう、ですね。わたくしはどうも相手を見かけで判断してしまうところがあるようです。今度からは気をつけたいと思います」
その言葉に、腕組みをしたグラシアンはもっともだとでもいうようにうんうんとうなずいた。
「そうだな。人を外見で判断するというのはきわめて幼稚な所業だ。お前はもう少し頭を使った方がいい」
「な、何よ偉そうにっ! っていうか、そもそもの元凶が説教なんてしないでくれる!?」
「なんだ、事実だろう」
「さっきから思ってたけど、あなたって随分態度が大きいわよね!? わたくしたちは初対面でしょう!? なのにそんな風に上から目線でお説教するとか、一体どういう神経してるのよ!!」
近衛騎士たちが困惑の声を上げるのにもかまわず、ロゼールはグラシアンに食ってかかる。
「全く……何やかやですっかり意気投合しておるではないか」
父王は呆れたように肩をすくめ、そこで「うおっほん!」と大きな咳払いをした。
「魔界の王グラシアンよ。末姫ロゼール・ラインハイト・フォン・エレシウスとの婚姻を認める。……娘をよろしく頼む」
「その言葉、確かに聞いたぞ。エレシウス王」
「だが、もしそなたがロゼールに酷いことをするようなら即刻連れ戻させてもらうぞ。神殿には魔界の様子を確認するための水晶球が眠っておるからな、そなたの行動は私がその気になればいつでも把握できるのだと心得よ」
「相分かった」
父王に、跪いたグラシアンは深々と頭を垂れた。
顔を上げたグラシアンはにやりと笑い、意気揚々とロゼールの腕を引いた。
「では、花嫁はいただいてゆくぞ! 愚かな人間どもよ、せいぜい自らの無力と浅慮を呪うがいい! はーははははは……!」
ロゼールはつい「いやいや、同意の上なんだからその捨て台詞はいらないのでは……」とツッコミを入れかけたが、上機嫌のグラシアンにぐいぐい背を押されてとうとう口にすることはかなわなかった。
***
漆黒のワイバーンの背に乗せられたロゼールは、満点の星々を見上げてため息を漏らした。
魔界へと至る道はとっぷりと濃い宵闇で覆われ、ところどころに七色に光り輝く水晶の柱がそびえ立っている。その合間にまるで箔を細かくすりつぶしたような金や銀の星屑がちらちらときらめいているのだが、これがまたひどく幻想的で美しいのである。
辺りを飛び交う色鮮やかなピーコックグリーンの蝶や蜻蛉のシルエットに、ロゼールは惚れ惚れした。
(綺麗……。グラシアンが連れ出してくれなかったら、わたくしはこんなに綺麗な光景は一生見られなかったかもしれないわ)
金の鱗粉を散らして舞う蝶の姿をうっとりと見つめていると、ふいに後ろからぐいと腰を抱かれた。
「おい、あまり身を乗り出すな。落ちたらどうする」
「だって綺麗なんだもの」
「星空くらい見たことがあるだろう」
「こんなにロマンティックな夜空を見るのは初めてよ。ワイバーンの背中に乗るのもね」
手を伸ばしてすりすりと頭を撫でる。すると、ワイバーンは「キュイ!」と鳴いた。
「まあ、可愛い! 想像していたのと随分違うわ!」
「それはそうだろう。こいつは二百年前に孵ったばかりの幼体だ。ゆえに、身体は小さいし翼もまだ完全には成熟しておらぬ。ワイバーンとしてはまだまだひよっこなのだ」
厳めしい大男の口から「ひよっこ」などという言葉が飛び出したのがおかしくて、ロゼールはくすくす笑った。
「気に入ったのならお前にやるが?」
「えっ……、で、でも、多分お世話できないし……」
「私が教えてやる」
ひどく熱心な口調で言われ、その勢いに押されたロゼールは、「じゃ、じゃあ……お願いします」とうなずいた。
グラシアンは満足げに軽やかな笑い声を立てる。
「はは、よかったな、トート。新王妃への最初の贈り物に選ばれるとは」
グラシアンの言葉を受け、ワイバーンは誇らしげに「キュイイ〜!」と鳴いた。
この道は「幻夢回廊」と呼ぶらしい。
人間界と魔界を繋ぐ唯一の径で、グラシアンもここを通ってブランカ城へやってきたのだそうだ。
「それにしても、魔界には随分と面白い習慣があるのね。気に入った娘を娶るために妻乞いに赴くだなんて……」
「いや、厳密に言うとない」
「はあっ!?」
あっけらかんとのたまうグラシアンに、ロゼールは目を剥いた。
「私は、妻乞いの伝統にずっと興味があったのだ。曽祖父の語る妻乞いの話に幼い時分から憧れていたものでな……。今の魔界ではとっくに廃れている風習だが、自分が嫁を迎えるときにはぜひともやってみようと思っていた」
「そ……、そんな傍迷惑な理由で、わたくしはあなたの妻に……?」
「傍迷惑とはなんだ。お前はもっと喜んでもいいくらいだぞ、ロゼール。魔王の伴侶は大抵の場合、同郷――つまり魔界の女が選ばれる。それをわざわざ人間の女にしてやったのだから、ここは誇らしく思って当然だろう」
「嘘つき!! あなた、騙したわね!?」
思わずグラシアンの頬をぎゅっとつねる。しかし、彼は嬉しそうににやにやするばかりで一向に悪びれない。
「はは、怒るな怒るな。謀るのはある意味妻乞いの基本だぞ。冥界の王の話は知っているか? 柘榴の実を食べさせて娘を無理やり冥府へ繋ぎとめてしまったというあれだ。私はあれも一種の妻乞いの形ではないかと思っていてな」
「……知ってるけど、あの話は嫌いだわ。冥王の執念みたいなものを感じて怖いんだもの」
知略を巡らせて地上の娘をさらってしまった冥王の話はあまりに有名だ。
そのためか、「異界の食べ物を口にした者は二度と元いた場所に帰れなくなる」というのは、古よりまことしやかにささやかれる伝承の一つだった。
思わず身構えるロゼールに、グラシアンは笑ってうそぶく。
「ふふ、お前にも柘榴を食べさせてみようか。本当に二度と人間界へは帰れなくなるかもしれんな……?」
「なっ……!?」
老獪な顔つきでくっくっ……と肩を揺らして笑うグラシアン。
からかわれたのだと知り、ロゼールは白い頬に朱を上らせた。
「わ、わたくし、魔界のご馳走なんて、ぜーったいに食べないからっ! あなたの知略に嵌まって人間界に戻ってこられなくなったりしたら悲劇だもの!」
長い指先で風に遊ぶロゼールの髪をゆったりと梳き、グラシアンは楽しげに彼女の膨れっ面を見つめた。
「……ふっ。せいぜい気を付けるのだな」
ラストの二人の会話は「黄泉戸喫」を意識しています。イザナギとイザナミのお話や、ハデスとペルセポネのお話などが有名ですね。あの世の穢れた食べ物を食べると、二度と現世には戻ってこられなくなる……というコワイ言い伝えのようです。さて、ロゼールは一体どうなってしまうのやら。
今回は中編なので、大体五、六話書いておしまいの予定です。
よろしければ最後までお付き合いください。