第二章 魔王城での暮らし

 

 幻夢回廊を抜けて無事魔界に到着したロゼールは、アンフェール城の内部へと案内された。
 奈落都市アガルタと呼ばれる都の中心部に建てられたそれは、魔王グラシアンが活動拠点とする広大な古城である。
 窪地の中央に根を張るように建設されており、グラシアンは主にこの城で寝起きし、まつりごとを行うのだという。
 そして、この「偉大なる魔王様」こそがロゼールの夫となる人物なのだった。

 ワイバーンをあやしているグラシアンの背を見つめ、ロゼールはぎゅっと唇を引き結ぶ。

(は、早まった、かも……?)

 二人の結婚はいわばお試し婚であり、実際には偽装結婚も同然。
 彼の妻乞いを受け入れたとはいえ、これは嘘の結婚だ。魔王やその臣下を謀っているという意味では魔族全体を敵に回す行為でもある。
 しかも本当に魔王のお手つきにされてしまう危険性も孕んでいる。

 最も厄介なのは、この地には自分の味方になってくれる人物が一人もいないということだろう。
 魔王に狼藉を働かれようがその姑にいびられようが、ロゼールの身の安全は保証されないのだ。むろん、心の安寧さえ……。

(ああ……。侍女も連れずにこんなに遠いところまで……わたくしって思ったより大胆――いえ、馬鹿だったのね……)

 父王や神官たちは水晶球を通して様子を見守っていてくれるだろうが、かといってすぐに助けを求められるわけでもない。
 ロゼールはきゅっと唇を引き結んだ。

 ワイバーンを厩舎に繋ぎ終えたグラシアンは、そこでようやくロゼールの方を向いた。

「さてと……では行くか」
「へっ? い、行くってどこへ――きゃああ!?」

 そのまま強く腕を引かれる。
 そしてあれよあれよという間に華燭の典のための身づくろいをさせられたのだった。

 

「ようこそおいでくださいました」
「魔王城へようこそ、お妃様」

 グラシアンは廷臣たちの声掛けにもかまわず、ずんずん回廊を進んでいく。

 臣下たちにはあらかじめ話を通してあったらしく、ロゼールを奇異な目で見る者は一人もいなかった。むしろ歓迎の微笑みを向けられているような気さえする。

 回廊を進んだ後は、最奥の一室に押し込まれて着付けと化粧をされる。
 まるで喪服モーニングのような漆黒の花嫁衣装に身を包んだロゼールは、グラシアンのおもてを見上げながら問うた。

「そういえば、わたくし、まだあなたのお母様にご挨拶していないわ。どちらにいらっしゃるの?」
「母はいない」
「へっ?」
 さらりと返されて目が点になる。
 が、グラシアンはどうということはないとでもいう風に続けた。
「私の両親はとっくの昔に隠居している。息子に城と王位を継がせてからは、二人揃って悠々自適な放蕩三昧だ」
「まあ、お二人で? 仲が良くていらっしゃるのね」
 すると、グラシアンは緩くかぶりを振る。
「違う。互いに別の相手と火遊びをしているのだ。男も女も、恋愛は結婚してからが本番……魔界ではそれが常識だからな」
 苛々したように言い、「父上も母上も今頃どこで何をしているのやら……」と荒っぽいため息をつく。

 ロゼールは聞いてはいけないことを聞いてしまったような気がしてたらりと冷や汗をかいた。
 ……不倫三昧。それも、両親揃って。
 いくら息子が成人したとはいえ、それはあんまりではなかろうか。
 ロゼールの父王のように、最愛の伴侶つまが死別してからも家族団欒のひとときを大事にする親もいるというのに、これではあまりに情がない。

 いや、それよりも。
 結婚してからも放蕩するのが常識。ということは――

(……じゃあ、わたくしも結婚したあとはろくに省みられずに放っておかれるかもしれないということ?)

 好意を示すだけ示した後は、ロゼールも同じようにほったらかしにされるのかもしれない。
 グラシアンの母妃のように自分も火遊びに走れるくらいならまだましだろうが、生憎そこまでうまく割り切れそうもない。
 この先のことを思うとずうんと胸の裡が重たくなるのを感じた。

「なんだ、百面相か?」
「……ううん、ちょっと気が重くて」
 何を勘違いしたか、グラシアンはぽんと肩に手を置いた。
「お前はただ私の指示通りに動いてくれればいい。そうすれば、かりそめの夫婦であることは誰にも悟られん」
「うう、なんだか騙しているみたいで気が引けるわね……」
「お前が私を好きになればいいだけだ。嘘も貫き通せば誠になる。罪悪感があるというなら名実共に私の妻になればいいだけのことだろう」
「ぐっ……!」
 しゃあしゃあと言ってのける図太さに腹が立つ。
「あ、あのね! そんなに簡単に誰かを好きになれるなら、わたくしだってとっくに恋人の一人や二人できているわよ! それができないから悩んでるんでしょ!?」
「そうか? 巫女姫という肩書があったからこそ手出しできなかった男もいるだろう。私はその点遠慮しないつもりだがな。お前の口から言質も取れていることだし……」
「げ、言質?」
「言っただろう、恋がしてみたいと。ならば私のすべてをかけて惚れさせるまで……違うか?」

 顎を上げて傲慢に言い切るそのしぐさに、ロゼールはぐっと詰まる。
 やはりこの男は食えない男だ――。

 

 やがて花婿側の支度が整い、華燭の典が厳かに始まる。
 漆黒のフェロン祭服とペストマスクを身につけた司祭の前、二人は向き合って誓いの文言を交わした。

「――あなた方は愛と忠誠を偉大なる始祖サタナースに誓いますか」
「誓います」
「ち、誓い……ます」
「花嫁ロゼール・ラインハイト・フォン・エレシウス。汝は魔王グラシアン・サタナキア・ド・アンフェールへの永劫の愛を誓いますか」
 そこでロゼールははっとする。
 そうだった。
 自分が嫁ぐべきはもはや人間の男性ではなく、誓いを立てるのも神ではなく魔王なのだ……。
「誓い、ます……」
 こうべを垂れつつ、おずおずと言葉を紡ぐ。

 同様の問いかけをグラシアンにもしたのち、司祭は硬質な声色で促した。
「――では、誓いの口づけを」

(!)

 そうだった。婚儀を上げるということは、大衆の前で口づけをしてみせなければならないということだ。しかも誓いのキスが一番の見せ場なのはどうやら人間界のそれと全く同じであるらしかった。

(なんでこんな恥ずかしいしきたりがあるのよ、もうっ!)

 これではいい見世物ではないか……とロゼールが真っ赤になったとき、向かいのグラシアンがにやにやしながら言った。
「お前のことだ、どうせ口づけのことまでは考えていなかったとでもいうのだろう?」
「うっ……!」
 図星を指され、ロゼールはたじろぐ。
「そ、そうよ……。だってまさか、魔界にも同じ風習があるなんて思わないじゃない!」
「残念だったな。華燭の典の進め方に関しては人間界と全く同じだ。何せ神界、魔界、人間界の三界はかつて地続きだったこともあるくらいだからな」
 ロゼールの柳腰を引き寄せ、グラシアンは低く艶のある声で問うた。
「お前、男とキスをしたことは?」
「な、ない……わよ……!」
 返答を聞き、グラシアンはぷっと小さく吹き出した。
「つくづくいやつだな、お前は」
「……っ!」
 これは絶対に褒められたのではない、からかわれたのだ。

 ロゼールはむくれた。
 確かに男性経験はない。だが、笑うほどのことではないのではないだろうか。第一、ロゼールは故国エレシウスでは巫女姫だったのだ。そんな女に経験の豊富さを期待するほうがどうかしている。

(あんまりだわ、こんな風に小ばかにするなんて!)

 やはり伴侶選びを誤ったかもしれないと頬を膨らませていると、グラシアンはあたかも詫びるように頭を撫でてくる。

「安心しろ、これはただの芝居だ。技巧など端から期待しておらぬ」
「わ、わかってるわよ! けどっ……」
「――では、誓いの口づけを」
 淡々とキスの催促をしてくる司祭を恨めしく思った、その刹那――
「ん……ッ!?」
 やおら抱きすくめられたかと思うと、グラシアンはためらうことなく唇を重ねてくる。
 押し付けられる唇は火酒のように熱く、懐からは汗と香水の混じった匂いがして、思わずくらりと眩暈がする。
 これ以上はないというほどに身体同士をぴったりと密着させられ、震える桜唇をしっとりと塞がれる。
 グラシアンの纏う熱に包み込まれ、まるで質の悪い魔術にでもかかってしまったかのように身動きが取れなくなる。
 それほどまでに生まれて初めての口づけは衝撃的なものだった。
「んっ……ふ……」
 薄暗い礼拝堂の中、二人の纏う漆黒が溶け合い、さらに濃い陰影を生み出す。
 花婿は花嫁の細い腰をしっかりと掻き抱き、情熱的に――そして丹念に接吻を繰り返した。
 最初は頑なに強張っていたロゼールの唇も、男のぬくもりを分け与えられることによってしだいに柔らかくほぐれ始め、やがてうっすらと開いてゆく。
 舌で唇を割られ、さらに深い口づけにいざなわれようという時、正気づいたロゼールは慌ててその強健な胸を手で押しやった。
「ちょ、ちょっと! ただの演技なんだから、そんなに一生懸命口づけしないで……!」
 すると、グラシアンははたと動きを止めた。
 柳腰を抱いていた手を放し、夢から醒めたばかりのようなぼんやりとした瞳でつぶやく。
「……そう、だな。確かにこれは形ばかりの婚姻にすぎぬ。お前が嫌がるのも無理はない、か……」
 グラシアンはそこで自嘲するような淡い笑みを浮かべる。
 そうすると、それまでの傲慢な雰囲気が幾分薄れ、どこか寂しそうな――それでいて皮肉げな――ものに変わる。

(……?)

 ロゼールは訝しみつつも彼に連れられて礼拝堂を後にした。

 

 

 トートの背で「魔界の食事など絶対に口にしない」と声高に宣言したロゼールだったが、当然空腹に勝てるはずもない。ゆったりとした化粧着に着替えた彼女は、侍女らに連れられて渋々食堂へと向かった。

 グラシアンが暮らすこのアンフェール城は通称「魔王城」と呼ばれており、その名の通り代々の魔王が継承するものなのだという。
 造りに関して言えば故郷であるエレシウスの城とさほど変わりはないようだったが、ところどころに飾られたドラゴンの像や見たこともないような柄のタペストリー、漆黒で統一された上品な内装が好奇心を煽った。黒と金の組み合わせがいかにも魔界らしく、どこか崇高な空気さえ漂う。

 次の瞬間、ロゼールはそれもそのはずだと納得した。
 ……ここは魔界。命あるものが旅の終わりにたどり着く場所だ。
 魔界に迎えられた命は、ここで自らの生前の罪を洗い清めながら輪廻転生の時を待つという。それはつまり、この場所が人の死と出生に大きな役割を持つことを意味した。

(ここで生前の罪に対する罰を受けなければ、魂は次の出生のチャンスを与えてもらえない。ずっと生前の罪や業に縛られ続けることになる。次の生に罪業を持ち越さないためにも、生まれ変わる前に一度すべてを贖う必要がある……)

 崇高だと感じたのは、この魔王城がそれだけ多くの命の重みを抱えているからなのだ……。

 やがて食堂に案内されたロゼールは、グラシアンとともに食卓に着いた。
 給仕係によってもてなされながら、料理が運ばれてくるのを今か今かとわくわくしながら待つ。
 空腹のせいもあるが、魔族たちが普段何を食べているのか単純に興味があったのだ。
 しかし、供されたのが人間界の食事と大して変わらないものであったことにロゼールは驚かされた。
 チーズソースをたっぷりとかけて焼いた去勢雄鶏シャポンのグラタン。雉のローストにこくのある魚介のブイヤベース、真鯛のポワレ。
 珍しいところではジビエがあり、クリーミーなベカスヤマシギの脳みそやヤマウズラのロースト、よく熟成フザンタージュさせた鹿肉のパテなどが絶品だった。

 そして、極めつけは舌を甘く蕩かす宮廷菓子の数々だった。
 テーブル中央には砂糖でできた儚く幻想的な食卓装飾品シャウエッセンが鎮座ましまし、うっとりため息をつく間もなく絢爛豪華なデセールの数々が侍従らによって次々と運び入れられてきた。

 華やかな婚礼の場に合わせてか、まずテーブルの中央に大きなシュガーケーキがでんと載せられた。
 ロゼールはその愛らしい作りに目を輝かせた。

(すごい……! なんて可愛らしいケーキ……!)

 真っ白なシュガーケーキは、シュガーペーストでできた薔薇やリボン、色とりどりのエディブルフラワー食用花などで綺麗にデコレーションされ、見るからに豪勢だった。
 側面に施されたレース模様のアイシングもまた可憐で、宮廷菓子など食べ慣れているはずなのに、早く味わってみたくてたまらなくなる。

 しかし、驚くにはまだ早かった。
 ミラベルすもものタルトやすみれ色のババロア。
 あつあつのチョコレートソースがかかったプロフィットロールや、小さな薄ピンクの薔薇を飾ったプリンセストータ、ぷるぷるの食感が楽しいベリーのブランマンジェ……。
 ろくに感嘆の声を上げる間もなく、ありとあらゆる種類の菓子がテーブルの上に勢ぞろいし、ロゼールは今度こそ本当に言葉を失くした。

 角や翼を生やした侍女たちがにっこり笑ってそれらをサーブしてくれ、ロゼールはおっかなびっくりシュガーケーキを口に運んだ。
 次の瞬間――
「……!」
 それまで魔王グラシアンに対して抱いていた強い警戒心は淡雪のように瞬く間に消え去り、濃厚かつ甘美な味わいが思考をとろりと蕩かせた。
「おいしい……」
「気に入ってもらえたようで何よりだ」
 葡萄酒の入ったグラスを緩慢な所作で回しながら、グラシアンはじっとロゼールを見つめる。
「お前、先ほどからなかなかうまそうに食べるではないか。澄ました王女の顔などより、その顔つきの方が年相応でよほどいい」
「そ、そうかしら?」
「ああ。まさに『恍惚』という言葉がふさわしい、いい表情をしていたぞ」
「そういうあなたはあんまり食べてないみたいだけど……」
「私は魔界の宮廷料理なぞ食べ飽きている。だが、よく食べる女は好みだ。もともと欲の強い女が好きなものでな」
 グラシアンの視線が、ケーキを咀嚼する口元をじっとりと嬲る。
 たちまち居心地が悪くなったロゼールは、懐から取り出した扇でさっと顔を隠した。
「そっ、そんなに見つめないでくださる? 食べづらいわ」
「美しい新妻を視線で愛でて何が悪い。私にとっては食べ慣れた魔界の馳走などよりお前の麗姿の方がよほどそそる……。食事や葡萄酒などより、お前の真っ白な柔肌の方が遥かにうまそうだからな」
「お……お上手ですこと。でも、あなたはきっと、自分に言い寄ってくる魔族の女性たち全員にそう言っているのでしょう? ふん、魔王ともなれば当然ね、何せ魔界を統べる王なのだから」
「いいや? 私は今、目の前にいるたった一人の女にだけ真摯そのものだ。先ほどから心の臓は苦しいほど脈打っているし、肌はまるで焼けるように熱い。気になるならお前のその手で確かめてみるか?」
 言うなり、グラシアンは漆黒のシャツの前を大胆にはだけた。
 よく鍛え上げられた左胸の中央には、大輪のあざみを模した紅い刺青が色鮮やかに彫り込まれている。彼はそこを指先でするりと撫で上げた。
 挑発するように笑って、艶然とのたまう。
「ここがわが急所だ。そして先ほどからお前を恋しがって強く脈打っている場所でもある……」
 ……なめらかな皮膚の上、くっきりと花開く一輪の薊。
 隆起した胸板のたくましさと彼の言葉の淫靡さにぎくりとする。
 刺激が強すぎて、ロゼールはふるりと赤くなった顔を背けた。
「なっ……なんてものを見せるの!? ここは夕餉の席なのよ!? 早く隠してっ……!」
「お前にならば、この命を奪われても悔いはない。私がこの急所を晒すのはお前にだけだ。覚えておけ、ロゼール。妻であるお前だけが、この心の臓に火を灯せるのだ」
「だ、誰が……!」
 芽生え始めた想いの種火に薪をくべようとするグラシアンを、ロゼールは突っぱねた。
 そこで側仕えの女官がくすくすと笑い出す。
「魔王様ったら残念ですわね。地上の初心な姫様はあなた様の色仕掛けでは落とせませんでしたわ」
「ああ。だが、じきに陥落するはずだ。私の技巧と愛で身も心も堕としてみせるさ」
 くっくっ……と底意地の悪い笑みをこぼすグラシアンに、ロゼールはぎゅっと身をすくめた。

 

***

 王妃のために用意された私室ブドワールの中、ロゼールは悶々とした顔つきで自身の下腹に手を当てていた。

「おいしかったけど、少し食べ過ぎてしまったわ……」
 化粧着にくるまれた腹は心なしか先ほどより膨らんでおり、ロゼールは歯止めの効かなかった数刻前の自分を密かになじる。
「うう、わたくしのバカ! こんなに食べたら太っちゃうでしょっ。すごく――ううん、ものすごーくおいしかったけど……」
 巫女姫ということもあってエレシウスでは粗食を心掛けていたロゼールだが、その反動か、今夜はいつにもまして食欲旺盛になってしまった。
 やはり過ぎた贅沢は身体に毒だ、とロゼールは嘆息する。
「駄目だわ、明日からは気をつけなければ……。このままではグラシアンの思惑通り、人間としてすっかり堕落してしまう……」
 ――否、ロゼールを身も心もすっかり堕落させることこそがグラシアンの思惑なのだろう。それに乗せられてしまえば、ロゼールはもはや清らかな巫女姫などではなくなってしまう。彼の供する快楽に溺れてしまえば、まさしく相手の思うつぼだ。
「それだけはいやっ……! 恋はしたいけど、あの人に弄ばれるのは御免だわ!」
 クッションを叩きながら一人悶えていると、ふいに叩扉の音がした。
 思わず「はい」と応じると、続きの間から数名の侍女がぞろぞろと入ってくる。
「――姫様。初夜のためのお支度をお手伝いいたしますわ」
 侍女の声に、ロゼールははたと動きを止めた。
「は……、しょ、しょや……ってあの初夜!?」
 確かに、婚儀を挙げたのだから結ばれるのは当然のことだ。
 だが、これはお試しの婚姻であって真の意味での結婚ではない。
 グラシアンが持ち掛けた妻乞いの話に、「恋人でいいなら」という条件付きで応じただけの話なのだ。

 どぎまぎするロゼールに、侍女は有無を言わさぬ態度で腕を引っ張る。
「さあ、お召替えをいたしましょう。支度を整えたら主寝室へお越しくださるようにと仰せです」
「ちょ、ちょっと待って! あっ……!」
 女官たちはロゼールの身体から化粧着を脱がせ、手際よく鴉の濡羽色のネグリジェを着せかける。
 総レース仕立てでほとんど透け透けのそれをてきぱきと着せ、首の後ろで細いリボンをきゅっと結ぶ。そして揃いのショーツとストッキングを穿かせ、靴下留めガーターで固定し、洗いたての黒髪に大輪の牡丹をあしらったコサージュを飾り付ける。
 すべてが終わると、筆頭格の侍女は悦に入ったようにうっとり両手を組み合わせた。
「まあ、素敵!」
「本当だわ。漆黒の夜着が雪のようなお肌に映えて、まるで夜の国の女王様みたい」
「頭からむしゃむしゃ食べてしまいたいくらいお可愛らしいですわあ!」
「うっ……! そ、それはもちろん褒めている、のよね……?」
 豹の頭部を持つ女官に詰め寄られ、ロゼールはぶるぶる震えた。このままでは本当に「頭からむしゃむしゃ食べられて」しまいそうである。

「さあさあ、お部屋へ参りましょう! 魔王様がお待ちかねです!」
「え、ちょ……、待ってっ!! わたくしまだ心の準備が……っ!!」
「あん、駄目ですわあ。きちんと貴女様をお連れしないと、側仕えのわたくしたちが罰せられてしまいます」
「まあ、魔王陛下のお手並みは素晴らしいから、本当は別に罰せられたってかまわないのですけどね。ウフフ!」

(それ、どういう意味よ……)

 ろくに抵抗する間もなく彼女たちに手を引かれ、ロゼールはあれよあれよという間に主寝室へと連れて行かれてしまった。

「魔王様。お妃様をお連れいたしました」
「ああ、入れ」
 中から聞こえてきた冷ややかな低音に、ロゼールはびくりとする。
 しかし、侍女らは訳知り顔で微笑むと、容赦なくロゼールの身体を主寝室に押し込んだ。
「きゃあっ……!?」
「では、明朝までたっぷりとお愉しみくださいませ。ウフフッ!」
 部屋に押し込まれるなり、背後でぱたんと扉が閉まる。
 恨めしげに背後の扉を見やり、ロゼールはため息をついた。

「……来たのか」
 ベッドに寝そべりながらこちらを見上げるグラシアンに、ロゼールは淡々と返した。
「じ、自分の意思で来たんじゃないわ。あなたの女官たちが無理やり引きずり出したのよ」
「当然だ。この魔界では魔王である私の命は絶対……。この魔王城で働く使用人たちにもそう厳しく言いつけてあるのだから」

 あろうことかグラシアンは半裸だった。
 なめした革のように引き締まった胸板と、その中央にたたずむ薄いココア色の二つの突起。そしてよく鍛えられた腹直筋のラインがなんとも妖艶で、ロゼールは思わず真っ赤になる。

(なんて格好をしてるのよ)

 サイドテーブルに置かれた葡萄酒を優雅にあおる彼に、ロゼールはぼそぼそした声で言った。
「あの……」
「? なんだ、わが妃よ」
「ふ……、服、着てもらえない? なんとなく目のやり場に困るんだけど……」
「ああ……、これか。酒を飲んで少々暑くなってしまったものでな。だが安心しろ、お前を悦ばせるだけの体力はちゃんと残してあるぞ」
「な、何よそのいかがわしい物言いはっ! っていうか、『よろこぶ』の字が違うっ!」

 が、グラシアンは子供の相手でもするようにくすくす笑っただけだった。
 神族、魔族の寿命は長く、その年の取り方は非常に特殊だ。そのため、彼らの実年齢は見た目からは容易には推し量れないものであるという。
 となれば、このグラシアンという男もまたロゼールが思っている以上に年配なのかもしれなかった。

 所在なく立ちすくむロゼールに、彼はじっと視線を注いだ。
 感情の一切こもらないその冷ややかな目つきに、全身を熱い焔でちりちりと炙られているような妙な気分になってくる。

(やだ、これじゃなんだか意識してるみたいだわ……)

 ロゼールが両腕で自らの身体を抱きしめるようにしてふいと顔を背けた、その刹那――

「きゃあっ……!?」

 突然の浮遊感に目を見開く。
 見れば、グラシアンがロゼールの肢体を抱き上げてベッドへ運ぼうとしているところだった。
 ろくに抗う間もなくリラの花が散ったシーツの上にころりと転がされ、大慌てでそのたくましい胸を押しやる。
「ま、待って! わたくしはあなたとそういうことをしてもいいなんて一言も……!」
「何を言う。わかっていてここへ来たのではないのか」
「そんなわけ……、あ、ちょ、ちょっと! やめてっ! ほどかないでっ!」
 デコルテを彩るリボンを唇で咥えてするするとほどかれ、ロゼールは狼狽してしまう。
 が、グラシアンは不服そうに片眉をはねあげた。
「ふん……。まさかとは思うがお前、身体も繋げずに夫婦になるつもりだったのか? それはどう考えても無理があろう。これは児戯ではないのだぞ」
「だ、だってあなたのこと何も知らないし、まだ全然好きじゃないし、とにかく無理っ!」
「ロゼール。お前はまるで毒婦だな。正式に私の求愛を受けたくせに、初夜の床で房事の誘いを拒もうというのだから……」
 グラシアンは深紅の瞳をわずかに細めた。
 ぎらついた鋭利な輝きに身がすくんでしまう。
 彼は不遜な笑みをその唇に載せた。
「ふん……。そんな調子で恋がしたいなどとよく言えるな。さすがは初心な巫女姫、男女の営みについては何も知らぬらしい」
「……!」
 恥辱に塗れるロゼールを見つめ、グラシアンはルビーのごとき赤い瞳を満足げに細める。
「まあいい。知らないというなら教えてやるまでだ。この無垢な身体にじっくりと……」
 清らな姫を堕落させるのが楽しいだけなのか、それとも本当に愛しているからこそ身体を繋げたがっているのか、ロゼールにはわからなかった。
 花嫁の肢体を組み敷いたまま頑として退こうとしないグラシアンに、こわごわ問いかける。
「あの……本当にするの?」
「当たり前だ」
 その有無を言わさぬ口調に、ロゼールは小さく息を呑んだ。

(嘘でしょう……、全部すっ飛ばしていきなり初夜だなんて――)

「あ……っ!?」
 伸びてきた指にネグリジェの前をすべてほどかれ、雪のように真っ白なロゼールの素肌が露わになる。
 漆黒の夜着の中から形のよい二つのふくらみがまろびでて、ロゼールの胸の高鳴りに合わせてふるふると震えた。
「……っ」
 たくましい長躯にのしかかられたまま、その灼けつくような視線を肌で受け止める。
 ロゼールはぎゅっと瞳を閉じた。

 閨事に関しては乳母や侍女から大まかに聞かされてはいるが、こんな風に裸同然の姿で男性と向き合うのは初めての経験で、緊張と混乱から心臓がうるさく鳴る。
 しかもこれからもっと大胆なことをするのだ、どうしたって怖気づいてしまう。
 閨事には痛みと苦しみがつきものだとは聞いている。女性側に負担が大きい行為だということも。
 だが、どうすればこの場を切り抜けられるのかがわからず、ロゼールは貝のように堅く口を閉ざし、じっと身を縮こまらせる。

 すると、ふいにグラシアンの武骨な手のひらが鎖骨の辺りをすっと撫で上げた。
「ひゃっ……!?」
 彼はそのままくっきりと浮き出た鎖骨を辿るようになぞり、陶器のごとき首筋に向けてつつっ……と指を這わせる。
「ん、んっ……!」
 長い指先が、まるでいらうように柔肌を掃きなぞってゆく。
 くすぐったさから、ロゼールは噛みしめていた唇からか細い吐息を漏らした。
「美しい肌だな……。どこもかしこも極上の絹のようだ……」
 つぶやき、グラシアンはゆっくりと半身を倒した。
 そのまま首筋にちゅう、と口づけられ、ロゼールは身体をびくんとのたうたせる。
「やあっ……!?」
「ああ……魔界の女などよりよほど美しい。こうしていると、お前の内側なかに内包されたその魂の清らかさがはっきりとわかる……」
 グラシアンはつぶやきながら、硬い手のひらをロゼールのもろ肌に滑らせていった。
 異性にこんな風に触れられるなど生まれて初めての経験で、その検分するような手つきに羞恥が高まる。

 全身に強い視線をじっとりと注がれ、節くれだった指先で素肌を隈なくなぞられて、ロゼールはとうとうかたかたと震え出した。蝶の標本のごとく敷布の上に縫い留められた身体が、せり上がる恐怖感で小刻みに痙攣する。
 そうしている間にもグラシアンの呼気がどんどん荒くなっているのを感じ取る。
 こちらの反応をけして見逃すまいとでもいうようにじっとりと注がれるグラシアンの視線、そして二人のあわいに振りまかれた壮絶な雄の色香に、ロゼールはどうしたってたじろいでしまう。

「ロゼール……」
「やっ――!」

 気づいた時にはぱっと手をかざして彼の愛撫を拒んでいた。

 ――恐ろしい。触れられるのが怖い。
 やはり安易に婚儀など挙げるのではなかった。たとえお試しでも結婚するなどと言わなければよかった――。

 そう考えて敷布の上できつく身を縮こまらせた刹那、身体の上にあった男の重みがふっと消えたのを感じ取る。
 ロゼールはそのあっけなさにぱちぱちと瞬きをした。
「え――」
「……興が削がれた。今夜は何もしないから、その怯えた顔をとっとと元に戻せ」
「へっ……?」

 気づけば全身ががくがくと小刻みに震えている。
 先ほどまで薔薇色だった頬からはすっかり血の気が引き、今や軽い寒気すら感じるほどだった。

 半身を起こしたグラシアンは艷やかな黒髪を手でざっとかきあげた。
「嫌がっている娘を無理やり手籠めにするのは好きではない。第一、お前にそんな下卑た男だと思われるのは心外なのでな」
「グラシアン……」
「お前は思っていた以上に怖がりなのだな。最初は威勢のいい女だと思ったが、やはり閨では年相応か……」
「だ、だって! そういうことは女にとっては一大事でっ……!」
 慌てふためくロゼールを興味深げに見下ろしたかと思うと、彼はくくっ、と低く笑った。
「まあよい。お前の覚悟が決まるまでいくらでも待とう。その頃にはお前の身体もすっかり熟れて、私のものを素直に欲しがるようになっていることだろう」
「ななな、何をいやらしいことを――!」
「女と果実は熟れきった頃に味わうのが一番うまい。それまで私もこのお預け地獄に耐えてみせようではないか」

 そこでグラシアンはぱちりと指を鳴らした。すると、漆黒のテーブルと椅子が瞬く間に現れる。
「そこに座れ。夜は長い……、今宵は魔界の遊びでも教えてやろう」
「えっと……、もしかして教えてくれるの?」
「ああ。でなければできんだろう」
 再度長い指を鳴らして、グラシアンはテーブルの上にゲーム用の駒を呼び出した。
 チェスにそっくりだが、最たる違いは傍らに小ぶりなカードが置かれているところだろう。
 駒は艶のある黒水晶でできており、カードの背には見たこともないような不思議な紋様が描き出されている。
「なあに、これ……? 駒とカードがセットになってる……?」
「何がしたい? 対戦もできるし占いもできるぞ」
「占い!?」
「ああ。これは元はといえば魔女たちが生業なりわいである占術に使っていたものだ。今では様々な遊戯が編み出され、ちょっとした勝負や賭け事にも使えるようになっているがな」
「わあ、楽しそう! ねえ、早く教えて!」
 口では「急かすな」と言いながらも、グラシアンのおもては柔らかくほころんでいる。

 ミルクを溶かしたナイトティーに、ラベンダーの香りがほのかに漂う蜜蠟のキャンドル。そして花嫁の肩には花婿の着せかけた厚手のガウン……。
 二人きりの初夜の寝室は、瞬く間に柔らかな空気に満たされていった。

 

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