「あー!! もうっ、ホンットあの女ムカつくー!!」
女はドン!とこぶしでカウンターテーブルを叩く。
エドワードはその衝撃にびくりとしつつも、気を取り直して彼女にオーダーされたカクテルを黙々と作り始めた。
グラスの縁を軽くレモンの果汁で湿らせ、そこに塩のドレスをふんわりと纏わせる。
そうしてスノースタイルにしたグラスにクラックドアイスを放り込み、ウォッカとグレープフルーツジュースを注いでステアする。
できあがったそれを、エドワードは営業用のスマイルとともに女性客の前に差し出した。
「お待たせいたしました。ソルティ・ドッグでございます」
「……もういっそのこと髪型とか服装とか全部その子に寄せちゃえば? 彼の好みはそういう女の子なんでしょ? なら片っ端から真似するのが手っ取り早いと思う」
連れの女が、モヒート片手に喚く友人を慰めにかかる。
しかし、女はまたしてもテーブルをこぶしで殴りつけてキイキイとがなりたてた。
「そうしたいけど、あんな憎い女の真似をするなんてイヤッ! そんな惨めったらしいのはあたしのプライドが許さないのッ!」
言い終えるや否や、カウンターテーブルをダンダンと乱暴に叩く。
おいおい、うちのカウンターテーブルを壊す気か。俺のバーカウンターはお前のサンドバッグにされるためにあるんじゃないんだぞ……。
ついそんな悪態をつきたくなったエドワードだったが。
「――東の大陸には‟顰に倣う”っていうことわざがあってな」
「はあ? ひそみにならう~?」
「そ。要は、贋作は所詮どこまでいっても贋作でしかないって話。人の模倣をする女ってのはすぐに見抜かれる。そしてオリジナルに比べて底が浅いことが多いから、周りからは結構な確率で笑いものにされちまうんだな」
エドワードは化粧料で黒ずんだ女の目元を見つめて淡々と言ってやる。
「だから、あんたが目指すべきはオリジナルだよ。男にとって唯一無二の女になるんだ。個の確立は最大の武器になる。悪いことは言わないから、薄っぺらい二番煎じになるのだけはやめとけ」
「……ああ、わかった。要するにオンリーワンってやつね?」
「わかりやすく言うならな。けど、オンリーワンは難しいぜ。あんたにそれだけの底力があるかな、お嬢さん?」
「あるわよ! 彼を振り向かせるためならなんだってするわ!」
「じゃ頑張るこった。ほら、サービス」
言って、エドワードはウイスキーボンボンの包みを二つ彼女の前に差し出してやる。
女性客はそこでへらりと笑み崩れた。
「うふふ、だからエドワードは好きなのよぉ。話がわかるし、聞き上手だし、それに……イイ男だし?」
長いまつげの下からじっとりと秋波を送られ、エドワードははは、と愛想笑いをする。
(俺はこんなめんどくさい女に好かれるのは御免だけどなぁ……)
だが、どういうわけかエドワードは女に好かれる質だった。ランドルフのように雄々しい体つきをしているわけでも、アランのように知性が売りというわけでもないのに、どういうわけか女性たちから妙に慕われるのである。
(まあ、悪い気はしないけど)
理由はともかく、女にちやほやしてもらえるのはいいものだ。今は特定の恋人を作る気がないこともあって、こうした気楽な関係はことのほか心地いいと感じる。
自分のテリトリーに踏み込まれさえしなければ、女と冗談や軽口を交わし合うのは基本的には楽しいものだ。
時たまこうして下品な酔い方をする客も出てくるが、こちらがうまく一定の距離を保ちさえすれば特に問題はないのである。
「あー、おいしー……。随分いいチョコ出してくれるのね」
「とっておきだから味わって食えよ」
そこで女はテーブルに突っ伏しておいおいと泣きだした。
「あーん、エドワードが恋人だったらよかったのにぃー!! 実家はお金持ちだっていうし、頼めばなんでも買ってくれそうだし、背が高くてハンサムだから連れて歩くにもめちゃくちゃイイ感じだしー!!」
続けざま、「どうしていい男の恋人役はあたしのところには回ってこないのよぉぉぉー!!」と泣きわめく。
「……」
エドワードはげんなりした。
……前言撤回。
やはり女というのはろくでもない生き物だ。
***
「あー……、疲れた……」
件の女性客が退けたところで、エドワードは冷たい水をごくごくと飲み下す。
バーテンダーは立ち仕事なので疲れるうえ、客とのコミュニケーションにもある程度気を遣わなければならず、はっきり言って昼の仕事よりしんどいのである。
「昼間ならもっと簡単なんだけどなぁ……。なんで人間ってのは酒が入るとああもみっともなく管を巻くのか……」
正直、「どうしていい男は自分を恋人に選んでくれないのか」などと喚かれても、「いや、原因はそういうところだろう」としか返しようがない。おまけに指摘すれば怒るのだから、女というのは本当に厄介な生き物だ……。
気分転換に店の入り口まで出たエドワードは、あくびを噛み殺しながら大きな伸びをした。
とっぷりと暮れた空の下、ゆらゆらと瞬くオレンジ色の街灯がどこか楽しげで、エドワードは冷えた夜気を吸い込みながらその雰囲気に浸る。
「そういやもう秋なんだよな……。一年ってのは早いもんだ……」
何の気なしに庭の生垣に触れ、茂みに咲き誇る薄紫の薔薇に鼻を近づけて香りを嗅ぐ。
脳髄までも蕩かすような甘い芳香に、エドワードはめまいにも似た何かを覚えた。
十月も半ばを過ぎ、子羊亭の店先では薔薇の花が満開になっている。
秋の薔薇というのは春のそれに比べて格段に香りがよく、気温が安定しているから世話もしやすい。四季の中では秋こそが薔薇を愉しむのに最も最適な季節なのである。
どこか郷愁的な花香に、エドワードはつい大きく息を吸ってその甘やかで芳醇な香りを吸い込む。
いつか母の薔薇園で嗅いだものの香りにそっくりだ……と瞳を細めた刹那、背後で石畳を踏むこつりという音がした。
「……まあ。こんなところに薔薇の花が咲いているわ」
宵闇の中から現れたのは、長い銀の髪の少女だった。
肌も髪も抜けるように真っ白で、瞳は野に咲くすみれのような薄紫色をしている。
身に纏うのはクリーム色の小花模様が散るラベンダーブルーのドレスで、頭には古風なボンネットをかぶっている。
少女はこちらに気づいてきょとんと首を傾げた。
「あんたは――」
するとその時、エドワードの問いかけを遮るかのように硬質な男の声が響き渡った。
「――バイオレッタ。私を置いて先に行かないで下さいとあれほど申し上げたでしょう? 全く貴女は……」
「ごめんなさい、クロード」
駆け寄ってきたのはウールのコートを着込んだ長い金髪の男だ。肌も髪も全体的に色素が薄く、女性的で柔和な顔立ちをしている。男は少女の傍らに並ぶと、彼女の乱れた髪とずれたボネを丹念な手つきで元に戻した。
そこで少女は携えていた革のトランクをよいしょ、と持ち直した。
慌てて男が手を伸ばし、彼女の持つトランクを恭しく受け取る。
「ありがとう」
エドワードはしばし呆然と二人の姿に見とれた。
美男美女であるということも手伝って、やけに目立つ二人組だった。二人揃って夜の小路にたたずんでいると、そこだけまるで一幅の絵画のようだ。
その仲睦まじい様子は、少し年の離れた恋人同士、あるいは「執事とお嬢様」のような構図にも見える。
「それで、目当ての店は見つかりましたか」
「それがまだ……。それになんだかどこもどんちゃん騒ぎをしている店ばかりで、二人でゆっくり飲めそうな感じじゃないの」
「この辺りのパブは評判がよいと聞いていたのですが……申し訳ありません、私の落ち度ですね」
「ううん、わたくしもいけないのよ。下調べが足りなかったわね」
そこで少女は背を丸めて盛大なくしゃみをした。
「……くしゅんっ!」
「バイオレッタ、寒いのですか?」
「うう……実はかなり……」
「気候が似通っているとはいえ、こちらの方が緯度は上ですからね。こんなこともあろうかとショールを持ってきております。よろしければどうぞ」
「ありがとう……」
男は少女の肩に甲斐甲斐しくカシミアのショールを着せかける。前をしっかりと掻き合わせると、懐から取り出したピンで素早く留めた。
その親密さから察するに、二人は恋人同士で間違いないようだった。どうやらいいパブが見つからなくて困っているようだ。
だが、これはもしかすると客を呼び込む絶好のチャンスなのではないだろうか。
この繁華街エリアでは大っぴらな客引きは禁じられているが、どの店に入ろうか決めかねている者に軽く打診をするくらいなら問題はないはずだ。
エドワードは思い切って二人に声をかけた。
「なあ、もしよかったらうちで飲まないか?」
「え?」
こちらを振り返った少女がぱちぱちと瞬きをする。
「いや……、あの、もし目ぼしい店がなくて困ってるんならって話。まだオープンしたてだけど、うちも味にはそれなりに自信があるぜ」
「……クロード、どうしましょう?」
「よいのではありませんか。このまま夜霧の中を延々とさまよい続けるのは私は嫌です。気候の影響か、身体も段々と冷えてきましたし……」
そこで白銀の髪の少女はぽんと両手を打ち合わせた。
「決まりね! ふふ、じゃあ、早速案内してくださる?」
「ああ」
エドワードはドアを開けて二人を促す。そして自分はその後について店内に入った。
二人をバーカウンターに案内したエドワードは、ひとまずお冷と熱いおしぼりを出してやった。
「えーと、念のため言っておくけど、今の時間帯はうちはバーをやっていてな。一応酒とつまみがメインだからよろしく」
「はあい」
「承知しました」
……とはいえ、別に簡単な料理もできないことはないのだが。
「……で? あんたら、なんでこんなところに?」
「実はわたくしたち、旅行でこの国に来たの。最初はホテル周辺の地域をぶらぶらしていたのだけれど、どうせならこっちのお酒も飲んでみようという話になって……。それで有名なところに目星をつけて探し歩いていたのだけれど、いつの間にか迷ってしまって」
「んー……。この繁華街エリアは全部で五つの地区に分かれてるし、それでなくとも夜は霧が深いから、ガイドブックとかがないとちょっと難航するかもなぁ」
「そんなものがあるの?」
「ああ。本屋にでも行って探してみろよ。『ピスタサイトガイド』って名前で大抵どの店にもあるから」
「わかったわ。探してみる」
少女がこくりとうなずいたのを見届けてから、エドワードは生成りの冊子を二人に差し出す。
「えーっと、じゃあこれ、うちのメニュー表な」
「ありがとう」
少女は興味深げにメニューに見入る。しばらく首を傾げながら紙面とにらめっこをしていたが、やがてゆるゆると顔を上げ、案じるように隣の恋人に訊ねた。
「クロードもお酒にする? それともお酒を使っていないものをいただく?」
「いえ……、一杯くらいなら大丈夫です。私も酒にします」
外がよほど寒かったらしく、男の顔色はすっかり蒼褪めている。確かにこれでは酒が欲しくもなるだろう。
熱いおしぼりで冷えた手を温めながら、少女はそこでおもむろにエドワードを見上げた。
「あなたはここの店主さんなの?」
「ああ。一応、昼間はここで料理人として働いてて、夜になったらバーテンをやってる。ま、店自体は道楽で始めたようなものだけどな」
「まあ、そうなの? まだ若いのにすごいのね」
「そうか?」
「ええ。いくら趣味とはいえ、それを仕事……ひいては生業にしてしまうだなんて、なかなかできることじゃないわ。きっとよっぽどそういうのが好きなのね」
うっとりした目で見上げられ、エドワードは面食らう。
(うっ……、なんだ、このいやにうるうるした目つきは……)
聞き上手で、大らかで、そのくせどこか無防備で……。年若いながら、男の庇護欲を掻き立てるのがやけにうまい少女だ。
のほほんとした表情がまた妙に愛らしく、潤んだすみれ色の双眸と相まって小動物的な人懐っこさがある。
(こりゃ、男を無意識に手玉に取るタイプだな……)
バーテンダーとしての第六感で、エドワードはただちに居住まいを正す。
したたかな女や見栄っ張りな女よりも、こういう一見おっとりした手合いが男にとっては一番危ないのだ。
と、そこで傍らの男がいかにもつまらなさそうに唇を捻じ曲げた。
「……酷い方ですね。夫のいる前で他の男を褒めるなど」
眉をしょんぼりした風に八の字に下げ、子供のようにむくれている。その顔つきに、エドワードはつい噴き出しそうになった。
別段じめじめした感じではないのだが、とにかく面白くなさそうなのだ。
「なんということだ……、夫婦水入らずで旅行を愉しんでいる時にまで他の男に目移りとは……。夫である私の方がよほど貴女に尽くしているというのに……」
「もう。拗ねないで、クロードったら。せっかく二人きりで旅行に来たのに、そんな小さなことでへそを曲げるのはやめてちょうだい。あなたの働きぶりはちゃんとわかっているのだから」
クロードと呼ばれた男はむすっとした顔つきでそっぽを向く。少女はその大きな手の甲をさすったり握りしめたりしながら、一生懸命彼をなだめ始めた。
エドワードはそこですっと双眸を細める。
(こいつら、ただの旅行者じゃないな)
上質なウールやシルクをふんだんに使った高価そうな衣服に、誓いの文言が刻まれた純金のペアリング。そして、白銀の髪の少女の耳朶を飾るのは希少性の高い鉱石であるバイオレットサファイアを使ったイヤリング……。
いかにも上流階級の夫婦といった体だ。
(仮にも旅に出ようってんなら、もうちょっとばかし身なりに気を遣った方がいいと思うけどなあ……)
二人の装いはあまりにも洗練されすぎていて、これではまるで「どうぞ狙ってください」と宣言しているようなものだ。
旅に出るなら、せめて高価な宝飾品は外すべきだろう。名門出身のエドワードでもそれくらいのことは知っている。
おまけに男の方はお世辞にも頑強とはいえないひ弱そうな見た目をしている。もし大事な奥方に何かあったらどうするのだろうと、エドワードは他人事ながら少々心配になってしまった。
「えーっと……そんで、何にする? お二人さん」
「うーん……、実はカクテルってあんまり詳しくないから、すぐには決められそうになくて。ワインやブランデーならしょっちゅう飲むのだけれど……」
「そっちのあんたは?」
「私は酒の類は完全に門外漢なもので……。正直に申し上げますと決めかねています」
そこでエドワードは我が意を得たりとばかりに身を乗り出す。
「じゃあ、俺のおすすめでいいか? あんたらにぴったりのカクテルがあるんだけど」
「まあっ! すごいわ、そんなカクテルが?」
「こうして話してたら、あんたらのイメージにぴったりなのがいくつか思い浮かんだんだ。完全に個人的なイメージなんだけどな」
「すごいわ、バーテンダーさん。じゃあ、わたくしのお酒はそれにして。ぜひいただいてみたいわ」
「では、私もそれでお願いします」
と、そこで少女がすかさず口を挟む。
「あ、できればこの人のは弱めのにしてあげて。ここだけの話、この人はお酒があんまり強くないから」
「了解」
ニッと笑って、エドワードはすぐさま準備に取りかかった。
***
「……さてと。出来上がったぜ、お二人さん」
少女の拍手に迎えられながら、エドワードはまずは男の前にゴブレットを差し出す。
「このカクテルの名前は‟スコーピオン”。ホワイトラムとブランデーをベースに、三種の柑橘系ジュースをブレンドしたものだ」
「わあっ……! まるでお月様みたいに綺麗なトパーズイエローね! てっぺんのチェリーも可愛くておいしそうだわ」
「ああ、マラスキーノ・チェリーだな。砂糖漬けにしたやつだから甘くてうまいぞ」
そこでエドワードは男に向かって共犯者めいた笑みを浮かべてみせる。
「スコーピオンが意味するのは蠍。そしてカクテル言葉は‟瞳で酔わせて”だ。視線で絡めとって巧みな手管でとどめを刺す……、あんたみたいな罪な色男にはぴったりの一杯だぜ」
すると男はさも楽しげにくすくすと笑った。
「おや、なんという偶然でしょう。私は十月二十五日生まれの蠍座なのですよ。さすがはバーテンダー、人を見る目がありますね」
「おっと、『色男』って部分も合ってるはずだけど? あんた、奥さんに隠れてだいぶ女を泣かせてそうだしな」
「ふふ……これはこれは。一本取られてしまいましたね。ですが悪くない」
「そりゃどうも」
男は金のピックに刺されたマラスキーノ・チェリーを口に含み、次いでゴールデンイエローのカクテルを静かに嚥下する。次の瞬間、彼は大きく目を見張った。
「……! これは……」
「ラムとブランデーを使ってるわりには意外と飲みやすくできてるだろ?」
「ええ。柑橘系の果汁を混ぜているせいか、爽やかでなんとも美味ですね。酒は苦手ですが、これは気に入りました」
男が柔らかく微笑んだのを見届けると、エドワードは少女に向き直る。
そして彼女の前にカクテルで満たされたタンブラーを恭しく差し出した。
「お嬢さんには‟バイオレット・フィズ”を」
「きゃあっ……、素敵なすみれ色ね! まるでアメジストを溶かしこんだみたいな、透明感のある薄紫色……」
「においすみれのリキュールにレモンジュースを合わせた一杯だ。カクテル言葉は‟私を覚えていて”。貴女の可憐な瞳の色に合わせてみたんだが、お気に召すかな?」
「素晴らしいわ、バーテンダーさん。わたくし、こういう遊びは大好きよ」
少女は嬉しそうにタンブラーに口をつけ、「甘くておいしい」と満足げな笑みを浮かべる。
「それにしてもいい色合いね……。まるで夜明けの空みたいに透き通った綺麗な青紫で……」
「‟パルフェ・タムール”っていうすみれのリキュールを使ってるんだ。これにはいわゆる媚薬、惚れ薬と似たような効果があるって言われていてな」
「えっ……」
少女はカクテルグラスを手にしたままぴしりと固まった。次いで、白皙の頬を酔ったみたいに赤くする。
こんなセリフ一つで顔を赤らめるとは、なんとも初々しいことだ。
乙女らしく初心な反応にエドワードは思わず微笑ましくなる。先ほどのしたたかな女性客とは雲泥の差である。
「ちなみに、同じ‟パルフェ・タムール”を使ったカクテルに‟ブルー・ムーン”ってのがあるんだけどな。そのカクテル言葉が面白いんだ」
「どんな意味があるの?」
「‟できない相談”。ユニークだろ」
「まあ……」
そこでエドワードはパチンとウインクした。
「カクテル言葉は面白いぜ。今夜は絶対に十二時で帰るって日には‟シンデレラ”をオーダーする、なんて女もいるし、絶対に恋人をその気にさせたいって時に‟ニコラシカ”を飲ませるやつもいる。粋な駆け引きを愉しむためにも、覚えておいて損はないだろう」
「まあ。カクテルって随分奥が深い飲み物なのねえ……」
そこで隣の男がやおら彼女の肩を抱く。
「ふふ。バイオレッタ、まさかここまできて‟できない相談”などとはおっしゃいませんね?」
「……う、それは……!」
「せっかく遠い異国の地まで来たのです、今夜は満足いくまでたっぷり可愛がって差し上げましょう。夜景でも眺めながら、ゆっくりと、ね……」
「や、やだ、クロードったら……。本当にいやらしいんだから……」
「いやらしいのがお好きでしょう、バイオレッタは」
「やだ、変なこと言わないでっ……!」
バーのカウンター席で平然といちゃつく二人に、エドワードは呆れ顔で注意する。
「おいおい、お二人さん。ここは酒を飲むところだぞ。そういうのはホテルに帰ってからやってくれよ」
「おっと……、これは失礼」
「ご、ごめんなさい……!」
「しっかし仲がいいな、あんたら。どんだけ長く一緒にいるんだか知らないが、よくそこまでお互いにのめり込めるもんだぜ」
「それはそうでしょう。何せ私とバイオレッタは前世から繋がれた仲なのですから」
「……はあ?」
新手の新興宗教か?とエドワードは一瞬身構える。
しかし、男はそれ以上言及せず、黙ってスコーピオンのグラスを傾けた。
少女もまたこくこくと喉を鳴らしてバイオレット・フィズを嚥下する。
「ああ、おいしい……。この華やかなにおいすみれの香りが素晴らしいわ……」
「あまり飲みすぎないようにしてくださいね。酔いつぶれると貴女は酷いですから」
「うぅん……、だって、甘いお酒大好きなんだもの……」
「そういうところがやけにお父上にそっくりだ。美食家で、そのくせ子供舌で……」
「もう。クロードこそ飲みすぎちゃだめよ。あなたの場合は酷いなんてレベルじゃないんだから」
「大丈夫ですよ。いつものように貴女に優しく介抱していただくだけですから」
「それがいやだって言ってるのに……もう」
言葉とは裏腹に、少女はまんざらでもなさそうな顔をしている。きっとこれまで何度も彼の介抱をしてやったことがあるのだろう、そのおもては「いや」と言うわりにはどこか誇らしげだ。
(やれやれ……)
そののちも二人はおしゃべりを楽しみながら各々のペースでカクテルを味わった。時折互いのカクテルの飲み比べをしているところなどは傍から見ても大変微笑ましく、エドワードは「俗に言う“おしどり夫婦”というのはこんな感じなのかもしれないな」と思った。
スコーピオンのグラスが半分ほど空になったところで、男はおもむろに口を開いた。
「エピドートに来るのは久しぶりですが、しばらく見ないうちにここも随分発展を遂げたようですね」
「そうよね、わかるわ。わたくしもそう思っていたところよ。風光明媚なところは昔から変わらないけれど、街中を路面電車が走っているところなんて初めて見たわ」
「……? あんたたち、前にもこの国に来たことが?」
「ええ。だけど、もう気が遠くなるくらい昔の話よ。あの時はちょうど五大国同士の集まりがあってね。それも、たまたまエピドートが国主会談の場に選ばれたというだけのことだったから、こんな風にゆっくり観光をする暇もなかったし……」
エドワードは不思議な言い回しに首をひねる。
(‟国主会談”?)
疑問符で頭をいっぱいにするエドワードをよそに、少女はうきうきと言う。
「わたくしの息子がね、数代前の『聡明王』ギルバートとちょうど同じ名前なの。といっても、読み方は少しだけ違うのだけれど」
「ふーん……、って、え?」
「やだ、そんなにじろじろ見られると恥ずかしいわ、バーテンダーさん」
「いや、けど、あんたに子供がいるようにはとても見えないんだが……?」
見たところランドルフの妹であるベアトリクスと同い年くらいだろう。せいぜい十代後半くらいといったところか。
どう見てもようやく社交界にお披露目といった年恰好にしか見えないのに、もう子供がいるということだろうか。
もしや隣の男と何か醜聞でもあったのか……と胡乱な目を向けると、彼女は慌てて首を振った。
「あ、違うの。わたくしのジルはちゃんとみんなに祝福されてできた子よ。反抗的なところもあるし、わたくしの言うことなんか全然聞いてくれないのだけれど、それでもとっても立派な子で……」
「……なんだかよくわからないけど、幸せそうでいいな、あんたたち」
「そうでもないわ。ここへたどり着くまで、本当に色々あったわよ。ねえ?」
「ええ。それはもう」
少女のすみれ色の双眸は、そこで過ぎ去った日々を懐かしむようにやんわりと細められた。
「最初の頃は色々言われたのよ。咎人と生涯を共にすべきではないとか、貴女のような身分の女性とはどう考えても釣り合わないとか……。クロードの過去を知っている人たちからはとにかくしつこく攻撃されたわ。だけど、わたくしはこの人を愛していたから、それを貫くことに決めたの」
タンブラーの表面に浮かんだしずくを指先でなぞり、彼女は淡紅の唇をわずかにほころばせる。
「今にして思えば、『人を赦す』というのはわたくしに課せられた一つの天命だったように思うの。そしてこの人はただそれに甘んじているだけの殿方ではなかった。わたくしの婿として、ちゃんと改心して変わろうとしてくれた。これは本来であれば奇跡にも等しい出来事よ。だって、人が変わるって並大抵のことではないから……」
「いいえ……。貴女が教えたのです、バイオレッタ。誰かと寄り添い合って生きていくということの素晴らしさを。そして、ただ一人の女性を真摯に思いやるということの尊さを……」
二人はそこでぎゅっと指先を絡め合わせた。
「……わたくし、この人と結婚できて本当に幸せよ。周りの人から咎められることも多かったけれど、自分の人生で後悔していることは何一つないわ」
「私もですよ。貴女という女性を得られたこと、貴女と最期まで添い遂げられたこと、貴女とその子供たちが笑っている姿を見られたこと。すべて私の何物にも代えがたき宝物です……」
そこでふと、エドワードの視界がぐらりとぼやけた。
男の言葉を聞き終わるや否や、彼はバーカウンターめがけて緩やかに突っ伏してしまう。
(な……、んだ……? 身体が……)
倒れ伏すエドワードを尻目に、二人は密やかな笑い声をこぼした。
「ふふっ。わたくしたちの旅はまだまだこれからだけど、今夜はとっても楽しい夜になりそうね。早速こうしておいしいお酒もいただけたし……」
「ええ。ご覧ください、バイオレッタ。今夜は本当にいい月夜だ……。こうして私たちゆかりの地を見てまわるにはちょうどいい……」
男のささやき声が、どういうわけかひどく遠くで聞こえる。
(……どうなってる、身体、が……動かせない……)
浮遊感にも似た強烈なめまいと眠気を覚え、エドワードは耐え切れず瞳を閉じる。
そこで柔らかく温かい女の手が伸びてきて、彼の黒髪をゆっくりと梳き下ろした。
「かっこいいバーテンダーさん、素晴らしい一杯をありがとう」
少女のささめきとともに、エドワードの頬に聖母のごとく温かな口づけが落ちた。
***
「……!」
エドワードはそこでがばりと身を起こした。
そのままきょろきょろと辺りを見渡す。
「……あ、れ……? さっきの客、は……」
「あーっ!! エドってば、バーテンのくせにカウンター席なんかで寝てるっ!!」
エドワードはこちらに駆け寄ってくるマーガレットの姿を認めてぱちぱちと瞬きをする。
「あれ……、俺、なんでカウンターなんかに……?」
一体いつの間に自分はカウンター席に移動したのだろう。
さっきまであの二人にカクテルを作ってやっていたというのに、なぜこんなところにいるのだろう。
質の良い睡眠を取った後のように身も心も至極さっぱりとしているけれど、どこか腑に落ちない。恐らく部分的に記憶が飛んでしまっているせいだろう。
「全くもう。いくらロングスリーパーだからって客席なんかで寝ないでよね」
「いや……客が来てたんだよ。珍しい白銀の髪のお嬢さんと、金髪に蒼い目をした美男のカップルが」
「やだ、エドったら。寝ぼけてたんじゃないのぉ?」
「ホントだっつの! 酒を出してやりながら話だってしたし――」
「え? でも、お客さんはもう退けたみたいじゃない。あのぺちゃくちゃうるさい泣き上戸のお客さんで最後だったんでしょ。全くもう、二階でやすんでるあたしの身にもなってほしいわよねぇ……」
時計を見やれば、針はちょうど深夜一時を指していた。
そして、子羊亭のバーとしての営業時間は午前零時までだ。
ということは、あの恋愛相談を持ちかけてきた女性客で最後だったということなのだろうか?
いや、しかし、それにしては随分とリアルな夢だったような気がするが……。
そこでエドワードは、カウンターテーブルに置かれたあるものに気づいて首をひねる。
「……なんだ、これ?」
黒髪をかきやりながら、テーブルの上できらきらきらめくそれを摘まみ上げる。
隣からそれを覗き込んだマーガレットがわっと声を上げた。
「……! これ、ヴァイオレット金貨!?」
ヴァイオレット金貨とはかつて西の大国・スフェーンで流通していた貨幣である。七百年ほど前、「すみれ色の女王」の愛称で親しまれた新女王の即位に合わせて発行されたものだ。
現在スフェーンでは別の金貨が使用されているため、すでに通貨としての役割は果たしていない。けれども一部のコレクターからはアンティーク・コインとして非常に人気があるのだと聞いている。
「ちょ、待て待て……、なんでそんな希少品がこんなところに……!?」
「わからないわ。質屋に売ったらかなりの高値がつきそうなことは確かだけど……」
丸い金貨の中央では、頭上に宝冠を戴せた端整な面立ちの女性がこちらに向けて穏やかに微笑していた。
スフェーン初の女帝と呼ばれた数代前の国主・バイオレッタ女王である。
「……? この顔、どっかで見たような……?」
「そりゃそうでしょ、イスキア大陸きっての有名人なんだから」
「いや、そういうことじゃなくて……」
困惑するエドワードをよそに、マーガレットは金貨を掲げながらうっとりと言う。
「ああ~……、バイオレッタ女王、きれい~……。鎖をつけてこのままペンダントにしちゃいたいくらい……」
そこでエドワードはがたんと席を立った。
「あーもう……、一体何がどうなってるんだ……!!」
「あ、ちょ、ちょっと、エド!?」
そのまま店の奥へと進み、ホールと隣り合わせになっている子羊亭のキッチンへ足を踏み入れたエドワードは、オーブンの前で作業をしている赤毛の料理人めがけて声をかけた。
「ネイサンッ!」
「おやあ、エド? 血相変えてどうしました?」
糊のきいたシャツに着古したズボン、その上には群青色のエプロンという出で立ちのネイサンは、ただならぬ様子のエドワードに気づいてゆっくりと首を傾げた。
キッチンには何やら甘ったるい匂いが充満している。
こんな時間に一体何を作っているのかと不審に思いながらも、エドワードは件の二人組について彼に訊ねた。
「……えっ? 金髪の紳士と銀髪の貴婦人のカップル、ですか? 今夜はそんな目立つお客さんは来てなかったと思いますけどねえ……」
「ホントなんだって! お前も店にいたんだからわかるだろ? やたら妖艶な金髪の男と、ベアトリクスくらいの年の銀髪の女の子だよ!」
……人目も憚らずあれほど濃密にべたべたしていたのだから、いくら鈍いネイサンと言えどもすぐにわかるはず。
しかし、エドワードのその淡い期待は見事裏切られることになる。
「ううーん……、残念ながら来ていないようですね……。今夜はわりとおとなしいお客さんが多かったですから、そんな特徴的なカップルがいればすぐに気づくはずです。エドワード、あなたはきっと夢でも見ていたんでしょう」
「そんなはずは……」
「ふふ。もしかしたら、マッジの言う通り本当に幽霊を見たのかもしれませんねえ」
「や、やめろよ。お前までそんな薄気味悪い話をするなって」
「いえいえ。いくら幽霊だからって気味が悪いものとは限りません。魔物の中には人々に幸福や夢や希望を運んでくれる存在だっているんですよ。ちょうどマッジみたいなね」
ネイサンの目配せに、マーガレットは頬を掻いて照れくさそうに「えへへ」と笑う。
「それとおんなじです。私たちは彼らの努力と貢献の上に生かされているんですからね。死者への感謝の気持ちを忘れちゃいけません」
「それに」、とネイサンは続けた。
「今夜は秋の聖霊サムヘインが支配する特別な夜――ハロウィンですからね。何が起こっても別に不思議じゃありませんよ」
ネイサンはそこでにっこりと笑い、次いでオーブンの蓋をかぱりと開けた。
「というわけで、夜更けではありますがパンプキン・パイをどうぞ。ドリンクはエピドート屈指の林檎の産地・アンブル州で造られたシードルを。それと、こっちはアップル&オレンジ・クランブル。さあさあ、冷めないうちにどうぞ」
「わあああっ!!」
早速飛びつくマーガレットに、エドワードは渋い顔で忠告する。
「おい、やめとけよ……、こんな時間にパイなんか食ったら絶対太るぞ」
「もうっ。エドの野暮天! 年頃の女の子に向かってそんなこと言わないの! それに、甘いものが嫌いな女の子を探すのは、冒険譚が嫌いな男の子を探すのとおんなじくらい難しいんだからね?」
そこでマーガレットはパイの載った皿をずいと差し出す。
「はいっ! せっかくだからみんなで食べましょ!」
白い歯をのぞかせて悪戯っぽく笑うマーガレット。
エドワードはつられたように笑ってその手からパンプキン・パイの皿を受け取る。
「ったく、しょうがないな……」
「ふふ。二人とも、ハッピーハロウィン!」
「わーい、ハッピーハロウィ~ン!」
シードルのグラスを打ち付け合う二人の間に混じり、エドワードは自らもグラスを合わせる。
カチン、と澄んだ音がして、キッチンにはたちまち和気あいあいとしたムードが立ち込めた。
『……ふふっ。生者の世界に幸多からんことを』
鈴を転がすような声音で言い、白銀の髪の少女は金の髪の伴侶のもとへと駆けだす。
寄り添い合う二人の姿は濃厚なディムグレーの夜闇に溶けゆくように消えてゆき――後にはただ、薔薇とにおいすみれの甘やかな芳香だけが残された。