アスターは、柔らかな微笑を浮かべて眼前の建物を見上げた。 アルマンディンの王都にそびえるこのランバルディス城は、数か月前にようやく本格的な再建を終えたばかりだ。 廃墟と化していた城に手を入れて整え、国民たちと協力し合って清掃や改築をし、やっと国政や神事が行える程度にまで修復させることができた。 上階にある女王執務室へ向かって歩を進めながら、アスターは携えた薔薇の花束をぎゅっと握りしめた。 薔薇の色は目の覚めるようなサファイアブルーで、花弁の縁に向けてうっすらとレモンイエローのグラデーションがかかっている。 これは大陸でようやく開発され始めた青薔薇だ。この薔薇の花は王配であるアスターが新妻の瞳の色に合わせて用意した特注品だった。 そればかりではない。彼は王城修復の折、王宮の中庭に選りすぐりの青薔薇だけを集めた小さな四阿を造らせている。義兄に剣の稽古をつけてもらったのち、そこで政務を終えたクララとお茶をするのが日課だった。 ”夢叶う”という花言葉を持つ青薔薇の花は、二人の門出――そしてこれまで培ってきた情愛にひどくふさわしいような気がした。 結婚式当日、新女王として即位したばかりのクララは、プリュンヌが刺繍を施したヴェールとドレスを身に纏って大聖堂に姿を現した。 品のよい光沢を帯びる純白の花嫁衣装は裾に向かってふんわりと花開くクリノリンスタイルで、クララの華奢なウエストラインをよりほっそりと蠱惑的に見せていた。目深にかぶった同色のヴェールと相まって、気安く手を取るのすらためらわれるほどの美しさだった。 そして何より素晴らしかったのは、生地全体にびっしりと入れられた細かな刺繍だ。プリュンヌが愛する姉のために刺したそれは、ステンドグラス越しに差し込む陽光を受けてさざなみのようなきらめきを放った。 同盟国であるスフェーンから送り届けられた美酒と食材、選りすぐりの高価な香辛料。そこかしこで甘い香りを漂わせる蜜蝋のキャンドルと、閨に置かれた濃厚な蜂蜜酒……。 国の再興のさなかであるにも関わらず、夢のような一日だった。 新女王として故郷の地に舞い戻ったクララを、民たちは温かく祝福した。 そんな彼女の隣に立てるという事実が、アスターにはただただ誇らしかった。 同時に、かつてのような戦禍が再び起こらぬよう心を砕いていかねばならないと、彼は密かに意志を固めたのだった。 「よお。何してるんだ、こんなところで」 「……!」 背後から聞こえてきた男の声に、アスターはぎくりと身をすくめる。 声の主はアベルだった。 トレードマークの長い銀髪を靡かせ、こちらに向かって颯爽と歩を進めてくる。 ドアノブに手をかけたまま微動だにしないアスターを見やり、彼は一瞬怪訝そうな顔をした。 「入るなら入れよ。クララなら中にいると思うけど?」 「い、いや、僕は別にそんな――」 「あー……、そういや書きものが一段落したからカウチでやすむってさっき言ってたっけな。今日は特に大きな予定も入ってないし、夫婦二人で『仲良く』するにはちょうどいいんじゃね? このまま寝込みを襲ってイチャイチャしてくれば?」 にやにやしながらアベルが言う。 妹婿の行いにはとりわけ厳しい義兄が、直々に共寝を勧めてくる。これは本来であれば喜ぶべき場面だ。 しかし―― 「なっ……、何を下劣な! 勘違いしないでくれ、僕は別にそんなふしだらな目的のためにここに来たわけじゃないっ!」 むきになって反論するアスターに、アベルはきょとんとした。 「は……? いやいや、ふしだらって……れっきとした婿殿が何言っちゃってんの……?」 「……っ」 アベルが狼狽するのも無理はない。 新婚真っ只中であるはずの入り婿が、どういうわけか閨事に消極的な態度を示す。それどころか、夫婦二人の愛の営みを「下劣」「ふしだら」と一刀両断する――。 不審すぎる義弟の態度に、麗しの懐刀は形のよい眉をひそめた。 ――若き王配アスターの悩み。 それは、式を挙げてから半月が経過した今でもまだクララとの初夜が済んでいないということだった。 *** 「あり得ねえ……。おいお前、この半月の間何してた!? あの天使のごとき美貌のクララを前に、ただ指咥えてぼーっとしてただけか!?」 「違う!! 僕だって何度か試してはみたんだ!! だが、どうしてもそういう色っぽい気分になれなくてだな……!!」 「なるほど。友達でいる期間が長すぎたがゆえに、身体がそうしたことに一切反応しなくなってしまったと……」 他人事のように言い、クロードは淹れたての紅茶を品よく啜った。 男三人は、ランバルディス城の中庭で優雅に茶会を愉しんでいた。 ……というのは表向き。実際はアスターとクララの夜のあれこれについて熱く議論を交わしていたのである。 クロードはカップをソーサーに乗せると、長い指先をゆったりと組み合わせた。 「まあ、あなた方の場合は恋人同士というより家族に近い間柄でしたからね。肉体的な接触に抵抗があるのもわかりますが」 「つかさあ、お前、閨事の指導とか受けてないのかよ。王族男子は必修だろ? そこんとこどうなんだよ」 リキュールのソーダ割が入ったグラスをカラカラと回し、アベルがびしりと指を突きつける。 彼の指摘通り、閨事の指導は王族男子にとって欠かせないものだ。 「閨房術の授業」と称して座学で女の抱き方を教わることもあれば、夫のいる年配の貴婦人から直に手ほどきを受けることもある。 次期国王と目される王太子はもちろん、序列の低い男子達も将来伴侶の相手をする時のために一通り教え込まれるものだ。 だが―― 「……いや、ない。僕の場合は俗世と切り離された場所で育ってきたからな、そういう機会には一度たりとも恵まれなかったんだ……」 「はあ!? ……うわぁ……、なんつうか……悪ぃ、余計なこと聞いたな、俺……」 「ふふ……、まだ身も心も清らかということですか。いかにも純朴なアスター殿下らしいことで」 楽しげに含み笑いをするクロードに、アスターは恨めしげな視線を向ける。 「そういう貴殿はどうなんだ」 「私の場合は七皇妃を迎える際に半ば強引に教え込まれましたね。今にして思えば別に楽しくもなんともありませんでしたが……」 「そりゃ、義務的にさせられりゃあなー。ま、そういう意味ではお前は正真正銘の“初めて”をクララに捧げられるんだから幸せかもしれないぞ? こいつの場合は女百人斬りどころか千人斬りの爛れた男だからなー」 「……おや。これは聞き捨てなりませんね。あなたとて同じ穴の狢でしょうに」 「俺はお前ほど腐ってないからな。女たちの恋の相手なら数えきれないくらいしてきたけど、お前と違って誰彼構わず関係持ってたワケじゃねーし」 「……」 クロードとアベル、二人のあわいでばちばちと見えない火花が散る。
(き、狐と狸……!)
途端に背筋がひやりと冷たくなるのを感じ、アスターは慌てて仲裁に入った。 「お、おい! お互い気に食わないのはよくわかったから、こんなところで揉めるな!」 二人は四大元素の中でも特に強力な「火」と「水」の依代だった人物。クロードの方はとうにその魔力を失っているとはいえ、仲の悪さは未だ健在である。いつかのように大規模な諍いが起これば、このランバルディス城とて無事ではすむまい。 必死で仲裁に入るアスターに、アベルは唇を尖らせる。 「ちぇっ。王配殿下のご命令だしなあ、ここは従うしかないか……」 「よければ場所を変えてお相手いたしましょうか? いつかの決着もまだついておりませんし」 「へー。お前、この期に及んでまだそんなこと言う? 俺の主に蘇生させてもらっておきながら、ちょっと態度デカすぎるんじゃねーの?」 「だからやめないかっ……!!」 アスターがたしなめると、二人は至極つまらなさそうに互いから視線を逸らした。 アベルは酒で満たされたグラスを手に、幾分行儀悪く足を組み直す。 「どーでもいいけど、何がネックで初夜完遂できないんだよ」 「何、とは……」 「色々あるだろ。男として機能しないとか、そもそも欲情しないとか」 「もし欲情しないのだとすればそれはクララ様がお可哀想ですね。ちょうど色事にも興味関心を持ち始めるお年頃だというのに」 クロードの揶揄に、アスターはわずかに頬を赤らめる。そして絞り出すように言った。 「……ふ、触れるのが、怖い」 「は?」 「僕が触れたら壊れるんじゃないかと思うと、とても怖くて触れないんだ……!」 クロードとアベルは思わず互いに顔を見合わせる。 なんとも言えない苦い表情を浮かべると、二人は同情の眼をアスターに向けた。 「それは、まあ……むくつけき大男に触れるのとはわけが違うのですから、ある意味まっとうな考え方でしょうが……」 「けどお前、一晩中触れずになんていられないだろ。そんなんで初夜完遂しようとか甘いんだよ。お前も男ならもっとガツガツ行けっての」 アスターは思いつめた顔のまま、ぶんぶん首を横に振った。 「……いや、無理だ。大体、これまで羊だと思っていた男が初夜を理由にいきなり狼に変貌するんだぞ? あの繊細かつ真面目なクララが、僕のそんな部分を目の当たりにして幻滅しないわけがないだろう。無理だ……、そんな野蛮な真似は僕にはできそうにない」 「いやあ……むしろ早く襲ってくれって思われてるんじゃね?」 「ええ、あなた方の場合はもう十年以上も清い関係なわけですから、むしろ遅すぎるくらいかと……」 男二人の意見に、アスターはまたしても大きくかぶりを振った。 「いいや……僕はここにきてようやくわかったんだ。クララと僕はあまりにも違う生き物だということが」 ごくりと喉を鳴らすと、彼は大きな手のひらをテーブルの上でぎゅっと握り込む。 「肌は柔らかいし、声音はまるで鈴を転がすようだし、触れたら触れたで折れそうに細い。そんなやわな生き物を前にして、自分の欲望だけを優先させるような真似をして本当にいいのだろうかと……」 「ふむ……なんといいますか、まるで年頃の乙女の思考回路ですね。御年二十三の偉丈夫が口にするセリフとはとても思えません」 「それはわかってるんだ……! だが、僕は別に偉丈夫でもなんでもない、妻と向き合うのを極端に恐れているただの腰抜けだ……!」 もちろん心配事はそればかりではないが、まず第一にクララの前ですべての欲望を曝け出さなければならないというのがひどく気恥ずかしく、同時に何かとても汚らわしい行いであるような気がしてしまう。 うつむくアスターに、アベルはやれやれとかぶりを振った。 「はー。お前、相変わらず自分に自信がないのな。下劣でも野蛮でもいいじゃねえか。クララはむしろお前のそういうところを見たいと思ってるんじゃないか?」 「そ、そういうもの、なのか……?」 「当たり前だろ。お前はあいつが好きで、あいつもお前が好き。となれば、男女の仲になるのなんかごく普通のことだろ。クララが怖がってるから手が出せないっていうんなら話は別だけど、聞いてる限りじゃ尻込みしてるのってお前の方みたいだしな」 「アベルに同意します。幻滅どころか、クララ様は喜ばれると思いますよ。そういうだらしなくてみっともない顔も余すことなく見せ合うのが恋人同士というものです。そもそも、相手が獣になったからといって嫌いになるようなら、それはすなわち最初から愛してなどいなかったということでしょうしね」 (……だらしのない顔を、見せ合う?) ……ふいにアスターの脳裏に、しどけない表情で嬌声を上げるクララの艶姿が浮かぶ。 フリージアの甘い香りを振りまき、白く艶めかしい裸体を敷布の上で扇情的にくねらせながら、妄想の中のクララは鼻にかかった声音でアスターの名を呼ぶ。 『アスター様……、アスター様ぁっ……』 そしてしなやかな腕をアスターの首に巻き付け、もっともっととねだるようにその体躯を引き寄せる――。 そこまで思い描いた時点で彼女の肌の柔らかさや慣れ親しんだトワレの香り、よく通る澄んだソプラノの声などを事細かに思い出してしまい、アスターはいてもたってもいられない心地になった。 「っ……!!」 途端に、全身を烈しい疼きが駆け巡る。単なる妄想ごときでその気になってしまう自分自身の浅ましさを、アスターは責めた。 (僕は一体何を考えているんだ!? クララを相手にこんな淫らな妄想に耽るなど……っ!!) 真っ赤な顔でぎりぎりと歯を食いしばるアスターに、アベルとクロードは顔を見合わせてにやにやする。 「あーらら……、茹で蛸みたいに真っ赤になっちゃって。しっかし、そういう妄想ができるのに、なんで本人の前ではヘタレになるんだかねぇ……。俺わかんねぇわ……」 「いや、なかなかにお若いですね。ふふ……」 クロードはさも愉快そうにくつくつと笑った。 「まあ、せっかくの新婚生活なのですから、そんなふしだらな妄想もひっくるめて愉しまれてはいかがでしょう? どうせ幸せな時期など長くは続かないのです、愛情が熱く滾っているうちにできるだけ満喫しておいた方がよろしいですよ」 うろたえるアスターを眺めながら、彼はくすくすと意地の悪い笑い声をこぼし続ける。 その様子を一瞥し、向かいのアベルがちっと舌打ちをした。 「お前相変わらずの変態紳士っぷりだなー……。タチ悪すぎ。あの純粋無垢なバイオレッタが毎晩こんなんの相手してるなんてマジで信じられんねえんだけど」 「おや、そうですか? あの方もなかなかに大胆な女性ですよ? この前などはご自分から迫ってきて私の上に……」 「うわ……、ヤバいな……。隣国の女王夫妻の夜の事情か……。聞きたいような聞きたくないような……」 「……いや、頼むからやめてくれ。妹の名誉のためにも、ここで洗いざらい語るのだけはよしてほしい……」 げんなりした顔で主張すると、二人はいかにもおかしそうに笑った。 「いや、それにしても……。全く……難しいものですね、色恋というのは」 「本当だよなあ……」 「ああ……。女心はこの世における最大にして究極の謎だ……」 「まあ、御婦人方も我々に対して全く同じことを考えているのかもしれませんがね……」 さらりと締めくくると、クロードはティーソーサーに置かれたマカロンをひとかじりした。 「あー……俺もミュゲに会いたいなあ……。久しぶりに声が聞きたい。あと思いっきり抱きしめたい」 テーブルの上に突っ伏しながらアベルが言う。彼は拗ねたようにグラスの水滴を指で弄った。 アベルとアスターの異父妹・ミュゲは恋人同士だ。 ミュゲはすずらんの名を冠する才気煥発な姫君で、今はスフェーン女王バイオレッタの補佐官としてかの国の宮廷で働いている。 アルマンディンの情勢が落ち着き次第、アベルはスフェーンまで彼女を迎えに行くつもりらしい。その時には彼女を自分の花嫁として迎えるのだと息巻いていた。 のっそりと身を起こしたアベルは、クロードを恨めしげにねめつけた。 「おいお前、俺のいない間にあいつにちょっかい出すなよ? もしあいつを困らせるようなことしたら、今度こそ殺すぞ?」 「ええ、ええ。わかっていますよ。もうあの頃のような真似はいたしません。何せ今の私はれっきとした妻帯者ですので」 「ったく……嬉しそうな顔しやがって……。つか、何気に『妻帯者』のとこ強調して言うなよなー。マジで腹立つんだけどー」 (そういえば、ミュゲは昔クロードに片思いをしていたんだったな) 初めてその話を聞いたときには驚いたものだ。 しかし結局、クロードはバイオレッタの婿となり、ミュゲはアベルの手を取った。色恋、そして男女の仲というのはわからないものだ、と思う。 自分とクララも状況が違えば今とは全く異なる「未来」を選び取っていたのだろうか。そう考えると少しだけ不思議な感じがした。 「それにしても、実に趣味のよい青薔薇ですね。わが女王陛下のお庭にも一輪植えて差し上げたいほどです」 「あ、ああ……よければあちらでも植えるといい。これはまだ国外に持ち出していない希少な品種だからな、うまく育てられればスフェーン宮廷でも注目されることだろう」 「では、お言葉に甘えます。帰国する際に苗を持ち帰らせていただきますね」 穏やかな笑みを浮かべるクロード。また一つ新妻への手土産が増えたことを喜ばしいと感じているらしく、その表情は毒気がなく爽やかだった。 「あー、帰ったらミュゲに伝えといてくれるか。俺が『愛してる』って言ってたって」 アベルからの言伝に、クロードは呆れ顔で肩をすくめる。 「全く……それくらい手紙で伝えればいいでしょうに。わかりました。必ず伝えます」 「サンキュ。愛してるぜ、クロード」 「!」 ちゅっと音を立てて奪われた唇に、クロードは固まった。 「あれ? そんなに嬉しかった? 俺のキス」 「な、な……、よりによって男に接吻されるとは……」 しばしの間わなわな震えていたかと思うと、クロードはさーっと蒼褪めた。 ナフキンを取り上げると、アベルの唇が触れた箇所を猛烈な勢いで拭き清め始める。 「ぐっ……、なんと汚らわしいっ……! この私が、まさかアベルごときに不意を衝かれるとは――!」 「まーまー、いいじゃんいいじゃん、減るもんじゃなし!」 「いいえ、減ります!! ああっ……、わが愛しの女王陛下に捧げるための唇が、穢されてしまった……。もう……、もうバイオレッタに顔向けできそうにありません……。私は一体どうしたらっ……!」 「……」 妹が男性同士の禁じられた愛を題材にした流行小説に夢中であるということ、そして密かにそれを周りの男性陣に当てはめて悶える遊びをしているということは、さすがに黙っておくことにした。 ***
その日の黄昏時、クララは私室で悶々と悩んでいた。 「……ああ、どうしましょう。悩んでいるうちにとうとう半月も経ってしまったわ」 かしりと人差し指を噛みながら、一人ドレッサーの前を行ったり来たりする。 刻一刻と迫りくる夜の空気が、クララをじわじわ重たい気分にさせた。 クララの悩み。 それは、夫にまだ一度も愛されたことがない手つかずの処女妻であるということだった。 長い付き合いである彼と未だに肉体的な交わりがないという事実は、クララを不安な気持ちにさせていた。
何せ幼少期からの付き合いであるにもかかわらず、十八になった今でもまだ彼と身体を繋げたことがないのである。 友人であるスフェーン女王バイオレッタに手紙で相談してみたのだが、「貴女の方から合図を送ってみるしかないわね」というなんとも抽象的な意見しかもらえずがっかりした。 「……合図って、一体なんのことなのでしょう。閨で使う何かの暗号とか……?」 「――そんなの決まってんだろ。『いつでも触っていいですよ』っていう合図だよ」 ひっと息を呑み、声のした方を振り仰ぐ。 すると、そこにはアベルが立っていた。 「お兄様!」 思わず駆け寄るクララに、彼はふっと笑みをこぼす。 「今まで通りの対応の仕方でいいって言っただろ。律儀なヤツだな」 「だって……」 「ま、お前のそういう真面目なところ、俺は結構気に入ってるけどな。お前はホント、この国を統べるにふさわしい才媛だよ」 妹の薄茶の髪を慈しむように撫でると、アベルはそこでにわかに厳しい顔つきになる。 「その様子じゃ、またアスターの野郎につれなくされてしょげてるんだろ」 「お兄様、どうしてそれを――」 ちっちっと何度か人差し指を振ると、彼はそのまま指先でクララを呼び寄せる。 「ちょっと耳貸せ」 「……?」 クララの耳朶めがけてアベルが密やかに吹き込んだもの。それは―― 「はあっ!?」 ――実兄であるアベルの「助言」。 それは、「いっそお前の方から仕掛けてみろ」ということだった。 「そ、そんな……無理ですわ! そんなはしたない真似、わたくしにできるわけがありません!」 「いいや、できる。っていうか、できるようになれ。そうしなきゃあの朴念仁と結ばれる日なんざ永遠に来ねえぞ」 「お、お兄様! 後生ですからあんまりそんなあけすけなことをおっしゃらないでくださいませ……! わたくし、どうにも気恥ずかしくて……!」 それでなくともアスターとの夜のことは今一番持ち出されたくない話題なのだ。いくら実兄であろうともみだりに口にしてほしくない。 しかし、アベルは容赦なく二人の夜の事情について言及してくる。 「いいか。お前らの短所はお互いに奥手すぎるところだ。言い換えれば初心ともいうな。けど、男女のことはそれだけじゃ進展しない。わかってるんだろ、クララ」 「で、ですが――」 「お前に魅力がないんじゃない、あいつに度胸がないだけだ。大体、この俺の妹に女としての色香がないわけないだろ。お前はもっと堂々としてりゃいいんだよ」 「でも……」 アスターはバイオレッタの許しを得てスフェーンを後にしてからも相変わらずだった。 初めて目にする砂漠、数々の鉱山都市に見たこともないような巨大な山脈。不思議な蜜色の肌をした異国の民たち……。 にわかに現実味を帯び始めた二人の「これから」に、クララの心は浮き立っていた。 しかし、アスターは従者二人と男同士の付き合いを愉しむばかりで、クララにはそっけなかった。 求婚してくれた時のあの情熱的な台詞は嘘だったのかと思うくらい淡泊だったのだ。 クララが砂漠のオアシスで水浴びをした時も、野営で無防備な寝顔を晒した時も。 彼は食いつくどころか至って泰然としていた。 そしてそれはアルマンディンの地に到着してからも同じだった。 まず、寝所は分けたいと言い出す。そして、必要以上の肉体的接触を避ける。 まるで自分との触れ合いを丸ごと拒絶されているかのようで、クララはどっと落胆してしまった。 (落ち込む……、落ち込むわ……。だってこれじゃ、まるでわたくしが嫌われているみたいなんだもの……) クララとて花の盛りの乙女だから、どうしたって恋人との共寝やらスキンシップやらに憧れてしまうし、それが叶わないと知れば落ち込んでしまう。これはむしろ嫌われているのではないかと邪推するし、求婚の言葉などただの偽りだったのではないかと疑ったりもする。 ――叶うものなら、一日も早くアスターに抱かれたい。 日ごと夜ごとその想いだけが先走り、そして見事に空回っている。まるで勝てる見込みのない戦を独り延々と続けているかのようで、クララは早くもこの状況に疲弊し始めていた。 (あまり考えたくないけれど、もしかしてわたくし、積極的過ぎて逆に引かれているのでは――) 逸る気持ちが伝わりすぎて、かえって嫌悪感を持たれているのだろうか。 それとも、あまりにも長い間隣にいすぎて、クララのことはもう抱きたいとは思えなくなってしまったのだろうか……。 そこまで考えて、クララはふるふるかぶりを振った。 (ああ、駄目だわ。わたくし、また深読みしすぎてしまっている……) 長年の後宮暮らしで染み付いてしまった悪癖を、クララはなんとか頭の隅に押しやった。 兎にも角にも、アスターがクララとの触れ合いを避けているのは間違いない。クララの閨を訪わないようにしていることも、艶めいた話題が出ないように注意していることも、紛れもない事実だ。 けれど、クララは共寝もスキンシップもアスターとだけしたいのだ。他の誰かで胸の空虚を埋めることなど考えられない。他の誰でもなく、アスターだけに振り向いてほしい。だからこそ余計辛いのだった。 「お兄様……。わたくし、アスター様のことがとても信じられません。殿方の気持ちもさっぱりわかりませんわ。もしかすると、わたくしには女性的な魅力どころか人間的な魅力すらないのかもしれません……。どうしたらいいのでしょうか……」 「馬鹿野郎! お前みたいないい女の誘いを断るアホの方が頭どうかしてんだよ! そこでぐじぐじとめげるんじゃねえ!」 (ひいっ!) 鬼だ。鬼がいる――。 クララはついぞ聞いたことのないアベルの剣幕に涙目になったが、彼は構わず妹姫の腕を引っ張った。 そのまま耳元でぼそぼそと何事かつぶやく。 「え……ええええっ……!?」 「ふん、騙されたと思って試してみろ。これで大抵の男はお前の前に跪くぞ」 「い、いやです! そんな……色仕掛けでその気にさせるなんて――」 アベルは王子らしからぬしぐさでちっ、と舌打ちをした。 「アホかお前。あいつがお前に惚れてることなんか誰が見たってわかる。なら、ここはお前が先に仕掛けるしかないんだ」 「だって! そんな大胆なことをして今度こそ本当に嫌われてしまったら――」 「大丈夫だ。あいつはそもそもお前のことしか眼中にないし、今だってお前への欲望で頭がいっぱいになってるはずだ。ただ未知の領域に対して腰が引けてるだけなんだよ。だから、俺を信じてまずはやってみろ」 強引な提案に怯んだものの、クララはこくんと一つうなずいた。 「……わ、わかりました。それであの方と共寝ができるというのであれば……」 「よし、さすがは俺の妹。いい返事だ! じゃあ早速だけど、これに袖を通してみてくれるか?」 どこに隠していたのか、アベルはごそごそと薄型の箱を取り出す。光沢のあるシルキーピンクの包装紙は、どうやらどこかの洋装店のものらしい。 次の瞬間、兄王子が満面の笑みで広げてみせたそれに、クララは唖然とした。 「……は?」