第二章 目覚め

 
 
 ――時は数刻前にさかのぼる。
 日のうっすらと沈み始めた黄昏時。
 リュミエール宮の一室で、ミュゲは昏々こんこんと眠り続ける異父姉オルタンシアと向き合っていた。
「本当にいいんだな?」
「ええ、お願い」
 ミュゲの言葉にアベルはうなずき、オルタンシアの身体の上にすっと手をかざした。
「命の輝きよ、巡れ。命の灯火よ、今ここによみがえれ――」
 低く深いささやき声が、ミュゲの耳朶をくすぐる。
 きつく瞳を閉ざしたまま、アベルは詠唱を続けた。
「――光の針よ、進め。その時間ときを取り戻せ」
 やがて、オルタンシアの身体に鮮烈なまでの光が浮かび上がり始める。
 次の瞬間、ミュゲははっと目を見張った。
 オルタンシアの肌で蠢いていた闇の茨が、次々と焼き切れてゆく。
 クロードによって施された闇の魔術が、アベルの放つ光によって瞬く間に解呪されてゆく……。
 ミュゲはその光景を固唾を呑んで見つめた。
 ……この先に待ち受けているのは、姉の覚醒だ。
 それを果たして自分は喜べるのだろうか――。
(だけど、もう後戻りはできない。お姉様とちゃんと向き合うって決めたのだから)
 ゆったりとしたアベルの詠唱が、しだいにか細いものに変わってゆく。
 それがほとんどささやきと化した頃、彼は空に指先を掲げてぱちんと鳴らした。
 辺りに漂っていた黄金こがね色の光の粒子がきらきらと弾け飛ぶ。
 次の瞬間、寝台の上の眠り姫――否、姉オルタンシアは、そろそろと目を開けた。
 そのふっくらとした唇から、あえかな吐息が漏れる。拍動を取り戻した身体がゆっくりと呼吸を繰り返し、侍女たちが着つけたペールブルーの夜着が上下する。
 紫陽花色のまつげに縁どられた瑠璃の瞳を、ミュゲは覗き込んだ。
「……お姉様っ!!」
 オルタンシアは幾度かまばたきをし、自らを見下ろすミュゲの瞳を見つめ返した。
「ミュ、ゲ……?」
 彼女は未だ焦点の合わない瞳で、けれども懸命にミュゲを捉えようとする。
 すんなりとした腕が、異父妹いもうとのありかを探るように持ち上げられる。
 ミュゲは思わずその手を取っておずおずと握りしめた。
「……ごめんなさい。ごめんなさい、お姉様……!」
「……泣いているの? なぜ……?」
「わたくしは、わたくしは……!!」
 喉の辺りで声がつかえてつい舌足らずな口調になってしまう。
 あんなに憎く思っていた姉。自らの敵と定め、その存在を抹消したいとさえ思っていた相手。
 なのに、こうしてまた言葉を交わせたことにどうしようもなくほっとしてしまう。
 繋いだ手のぬくもりが、ミュゲの頑なな心を少しずつ解きほぐし、融かしてゆく。
 最初は違和感しか覚えなかったその温度は、しだいにミュゲの皮膚にすんなりと馴染んでいった。
 ミュゲは姉をベッドの上に起き上がらせ、乾いた唇に吸飲みの水を含ませる。
 オルタンシアはぼうっとした顔つきのまま、それをおとなしく嚥下した。
 ミュゲが寝台脇の椅子に腰を下ろしたのを見届けるなり、彼女はおもむろに訊ねた。
「ミュゲ……、ここは一体どこなの? わたくし、なんだか随分長いこと夢を見ていたような気がするわ……」
 ミュゲは意を決して告げた。
「お姉様は、これまで深い昏睡状態にありました。貴女は女王選抜試験からの離脱を余儀なくされ、半年近くもの間眠らされていた。そして、お姉様をこんな目に遭わせたのはわたくしです。わたくしが、すべてを仕組みました」
「な……」
 姉が言葉をなくすのも無理はない。
 彼女は何も知らないまま妹に牙を剥かれ、その生命を一方的に脅かされたのだ。
 約半年という年月の経過、そして勝手に女王選抜試験から離脱させられたという事実を知らされ、オルタンシアは呆然としている。
 今更ながら随分と卑怯な真似をしていたのだと気づかされ、ミュゲはぎり、と手のひらに爪を食い込ませる。
「……許してほしいとは言いません。わたくしは、このままお父様のところへすべてを告白しにいくつもりです。女王選抜試験を中断させたのは、他の誰でもないこのわたくしです。お姉様の昏睡によってこの宮廷は大きく揺らぎました。わたくしは、この試験を降ります。あとは姉殺しを目論んだ罪人として生きてゆくつもりで――」
「この……馬鹿!!」
 伸びてきた両腕に全身を力いっぱいがくがくと揺さぶられ、ミュゲは動揺する。
 オルタンシアは燃えるような目でミュゲを睨みつけた。
「許してほしいとは言わない、ですって!? お前、一体何様のつもりよ!! 一人だけ勝手に覚悟を決めたりして、お前は一体何を気取っているの!!」
「ご、ごめんなさ――」
「だからお前は馬鹿だというのよ!! わたくしが今まで一体どんな思いでいたと思うの!?」
 今度はミュゲが言葉をなくす番だった。
 オルタンシアの言うことももっともだろう。
 女王候補として精一杯戦っていた彼女の未来を、ミュゲは無理やり奪おうとしたのだ。
 そんな相手のことを、許す、許さないの基準で測れるわけがない……。
 けれど、オルタンシアは思いもよらない一言でミュゲの沈黙を破った。
「……お前にとって、わたくしはそんなにも頼りがいのない姉なの!?」
「え――」
「お前がわたくしを敵視したいというなら好きにすればいい。それはお前の勝手よ。わたくしを嫌うことでお前が強くなれるというなら好きなだけ嫌えばいい。たとえ憎まれたってかまわないわ。だけど、こんな形で除け者にされるのは嫌よ。どうして? どうしてわたくしには何も言ってくれないの? お前とわたくしは血を分けた姉妹じゃない。なのにどうしてそうやって心をひた隠しにしようとするの? どうして何も打ち明けてくれないのよ……!!」
「お姉様……!」
「お前はいつもそうだったわ。外で遊びましょうと言うと、いつも首を横に振る。乗馬を教えてあげると誘っても困った顔をするばかり。わたくしがどんなに寄り添おうとしても、いつも拒む。そんなお前のこと、わたくしははっきり言って持て余していたの。お前にどうやって歩み寄ればいいかさえわからなかった」
 もどかしげに姉はつぶやき、長きにわたる昏睡によって血色をなくした唇を軽く噛みしめる。
(お姉様)
 ……打ち明けるなら、今だろう。
 いいや、今しかない。今しか、姉に本当のことを打ち明ける機会はないような気がする。
 ためらいののち、ミュゲは重たい唇をやっとの思いで開いた。
「……お姉様。わたくしが高熱を出したときのこと、覚えている?」
「え? ええ……、確か五つか六つの時ではなかった? ごく子供の頃でしょう? わたくしに教師がつけられたばかりの頃だった気がするけれど……あったわね、そんなことも」
「わたくしね、あの時病気を完全に治すことができなかったのよ」
 そこでオルタンシアはわずかにたじろぐ。
 不穏な言葉の続きを待ちわびるかのように、彼女は視線でミュゲを促した。
「後になってわかったの……、あの流行り病の後遺症のこと。お母様は『すぐに治るでしょう』と言っていたし、宮廷医たちもきちんと治療をしてくれた。だけど……治らなかったの」
「……どういうことなの?」
 眉根を寄せて訝る姉姫に、ミュゲは告げた。
「わたくしね、運動ができないの。身体を動かしすぎると、息が切れて苦しくなってしまうの。あの流行り病を完治させられなかったせいよ。だから度々肺炎めいた症状を繰り返すの」
「では、お前がいつも部屋の中でばかり遊んでいたのは……」
「そうよ。病気のせい。お姉様みたいに活発に動けないから部屋の中にいるしかなかったの」
 オルタンシアは訳がわからないといった風に軽く眉根を寄せる。
 彼女は先ほどよりもいささか身を乗り出し、ミュゲの表情を確かめるようにその翠の瞳を捉える。
「……だけど、お前はそれでも女王選抜試験に臨んだわよね。剣技ができないから試験を降りるなんて一言も言わなかった。それどころか、わたくしに対して宣戦布告してみせることさえしたわ」
「ええ。病のことを誰にも言わずにきたからよ。だって、そんなことを誰かに打ち明けてしまえば、わたくしは不利になるでしょう。女王候補としてみなされなくなるかもしれないし、少なくともお母様の期待は失われるでしょうね」
「そんな……そんな理由で?」
「……そんな理由、って随分簡単に言ってくれるけれど、わたくしには大事なことだったわ。だって、わたくしが不義の姫の蔑称を返上するためには、女王になるのが第一条件。そこで初めてわたくしの立場は強固なものとなる。なのに、その女王になれない身体だと知られれば、わたくしは王位継承争いから強制的に除外させられてしまうわ。そんなことをされるわけにはいかなかったの」
 ただでさえ薄い母妃の興味と期待が完全に失われてしまうのが嫌だった。それは、ミュゲにとっては恐怖だった。
 病弱であることを知られれば「役立たず」とそしられるかもしれないし、「恩知らず」と罵倒されるかもしれない。
 母妃に用なしと判断されること。それは彼女にすがって生きていくしかないミュゲにとっては何よりも恐ろしいことだった。
 ある時、あまりに長引く咳と喘鳴に、年配の女官が「一度宮廷医に診せてみては」と提案してくれた。
 そうしてミュゲの状態を診た宮廷医は、苦い顔で「恐らく疫病の後遺症でしょう」と告げた。
 ……無慈悲に、そしてどこか他人事のように。
 やがて教師らの講義を受けてゆくにつれ、身体に疾患のある王位継承者というのは国を継承するには絶対的に不利なのだということを知った。
 それを知ったミュゲは、女王候補として病の話を完全に隠し通すことに決めた。
 母妃からの期待に応えるため、そして完璧な身分を得るために。
 筆頭侍女には口の堅いカサンドルを選んだ。
 ミュゲよりもやや年上の彼女には医術の心得があり、ミュゲはそうした部分も気に入っていた。
 筆頭侍女として彼女を選んでおけば――そしてこの秘密を共有しさえすれば――、ミュゲはどんな時でも平静を保てる。彼女の医術の腕さえあれば、発作が起こったときでも慌てずにいられる。
 そうやって幼いミュゲは「自分」というものを隠蔽いんぺいするすべを覚えていった。
「もちろん、勝てるなんて思ってなかったし、隠しおおせるとも思っていなかったわ。だけど、わたくしは自分の蔑称が嫌いだった。『アウグスタスの姫』、『不義の姫』。そんな呼び名で呼ばれ続けるくらいなら、何が何でもまっとうな身分を手に入れてやろうと思った。身体に巣食った欠陥は治らなくとも、呼び名くらいは変えられるはずだと」
 そう告白した刹那、オルタンシアの平手が飛んできた。
 左頬がじんと痛み、ミュゲは何が起こったのかわからず首を傾げる。
 すると。
「馬鹿!! どうして……どうしてもっと早く言ってくれなかったの!? わたくしはそんなにも頼りない姉だった!?」
「……!」
「それくらい、打ち明けてほしかったわ……! ああ、ミュゲ。まさか、お前がそんな身体で試験に臨んでいただなんて……!」
 姉の声はかすれ、最後の方はほとんど言葉になっていなかった。
 ミュゲはそのままオルタンシアにゆるゆると引き寄せられ、強く抱きしめられた。
「お前と争うの、本当は嫌だった……! 宮廷では次の王は女になるだろうと噂されていたし、実際お父様もそうした姿勢を崩さなかったけれど……でも、そんなことのためにお前と戦うのなんか、わたくしは嫌だったのよ……!」
「お姉様……」
「お母様の態度にしたってそう。どうしてこんな時ばかり娘を利用したがるのか、まるで理解できなかったわ。普段はわたくしたちのことなんかまるで顧みないくせに、利用価値があるというだけですぐあんなことを言う。いくら母親とはいえ、そんな人間のことをわたくしは信じられないの」
 嗚咽交じりに言葉を紡ぎ、オルタンシアはミュゲを抱きしめる腕に力を込める。
「……わたくしだってお前と同じよ。周囲からの重圧がいつもいつも苦痛でたまらなかったわ。同時に、奔放で気ままなお母様を激しく憎みもした。だって、好きで不義の子に生まれたわけじゃないのに、わたくしたちにはずっとこの呼び名がついて回る。努力しなければ白い目で見られるし、まるで生まれてきてはいけない子供であったかのように扱われる。それが苦しかったの」
 ミュゲはそこで翡翠の双眸を見開いた。
 これまで自分一人が可哀想な目に遭っているのだと信じ込んできた。
 だが、違ったのだ。
 オルタンシアも同じだったのだ。
 彼女もまた軽蔑の目と母妃によって与えられる重圧に苦しんできた。
 それを、ミュゲは欠片も理解していなかった。
 不幸なのは自分一人。他の人間のことなどどうでもいい。
 そんな顔をし続けて、姉の密かな苦悩に一切気づかないふりをしてきたのだ。
「……わたくし……! ごめんなさい……、ごめんなさい、お姉様……!」
 ミュゲは姉の胸に顔を埋め、頑是ない子供のように泣きじゃくった。
 ミュゲがようやく落ち着きを取り戻した頃、事件は思いもよらない形で収束する形となった。
 オルタンシアが、自分がすべての責任を取ると言い放ったのだ。
『お前一人の責任にはさせないわ。だって、この件に関してはわたくしにも非があるのだから』
 オルタンシアは気丈にそう言い、この昏睡の一件を秘密裏に揉み消すことを妹に約束した。
『な……! どうしてお姉様がそんなことまでしなければならないの!? 悪いのは全部わたくしで――』
 絶句するミュゲに、彼女はこれまでと何ら変わらぬ強靭さで言ってのけた。
『あら。だって、妹の荷は姉が背負うものでしょう?』
 その言葉に、ミュゲは真の意味で打ちのめされた。
 同時に、姉を姦計に陥れようとしたかつての自分を激しく憎んだ。
 お姉様、ごめんなさい。
 どうか、わたくしを許してください。
 ミュゲはその言葉をかろうじて呑み込んだ。
 代わりに、姉への感謝の言葉を弱々しくつぶやき、もう二度とこんなことはしないと涙ながらに彼女に誓ったのだった。
 
***
 
「一件落着、だな」
「ええ……ありがとう、アベル」
 アベルと肩を並べてリュミエール宮のギャラリーを行きながら、ミュゲはぼそぼそとお礼を言った。
 あかあかと照りつける夕映えのおかげで、辺りはほんのりとした薄紅に染まっている。
 元々淡い色合いを持つアベルの長い銀髪は、今や得も言われぬ美しい鴇色ときいろに光り輝いていた。
 その隣に並ぶミュゲの頬もまた同じ色合いに染まっていたが、ギャラリーの空間全体を鮮烈な紅に染め上げている夕焼けのおかげで、にわかにはわからない。そのことにミュゲは密かに安堵していた。
「それにしても、お前の姉姫って本当にすごい女だよなー。解呪を請け負ったはいいけど、まさかこんな展開になるとは思ってもみなかった」
「……」
 思えば、オルタンシアは昔からミュゲには優しかった。
 時に比較の対象とされることもあったけれど、それでも根底の部分は優しさと温かさに満ちていた。激昂したシュザンヌから庇ってくれたこともあるし、女王選抜試験が開始される前には彼女に向けてはっきり「妹と争うのは嫌だ」と主張してくれた。
 もしかしたらミュゲにはそれが嫌だったのかもしれない。
 自分の中にじゅうぶんな余裕がないからこそ、何もかもうまくいっている人間のことが憎たらしく見えて仕方なかったのかもしれない。
 いざ蓋を開けてみれば、オルタンシアもバイオレッタもさほど「余裕ある」人間ではないということがわかったし、ミュゲが思うほど順風満帆な生き方をしているわけでもないということがわかった。
 彼女たちは自身を阻む障害を持ち前の大らかさと柔軟さで乗り越えているだけなのだ。
 二人ともミュゲと「同じ」だ。同じように、現実と戦っている。
 その姿は、こうしてもがいているミュゲとほとんど何も変わらない。
(……わたくし、何も見えてなかった)
 もっと早く姉に病のことを告げていればよかった。
 そうすれば、こんな風に一人で抱え込まずにすんだ。
 そうしなかったのは、ひとえにミュゲの中に強い劣等感があったからだ。
 完璧な姉に自分の事情などわかるわけがない。自分の辛さなど理解してくれるわけがない。
 そう疑ってかかって、心をさらけ出すことを避けてきたから。
 だからあんなことになってしまった。
(わたくしが罪を犯した事実はこの先もずっと変わらないし、変えられない。だけど……)
 その先にたった少しでも光が――光明があるのなら。
 自分はこの現実を、乗り越えていけるのではないかと思うのだ。
 黙りこくるミュゲを気遣ってか、アベルはそっとその手を取って握りしめた。
 絹の手袋越しに伝わる彼の熱が、ミュゲの鼓動をとくとくと高鳴らせてゆく。
 しっかりと繋がれた指先が、男性らしく骨ばった感触、そして女性のものとは明らかに異なった不思議な温かさをもたらす。
 だが意外なことに、そうされてももうあまり不快感はなかった。
(この人は、わたくしの光……)
 それも、けして手放してはいけない光だ。
 誤った道に迷い込んでしまったミュゲを、アベルはこれまで何度も助け出してくれた。
 揺れるミュゲの心を懸命に正し、時に勇気づけて前を向くための力を与えてくれた。
 そして、「お前はお前らしくいればいい」とミュゲのありのままの姿を認めてくれたのだ。
 ……誰にも見せたくなどなかった、影の部分。
 ミュゲのそんな醜い部分さえ、アベルは受け入れてくれた。
 これまでミュゲは自分を取り繕う術しか知らなかった。オルタンシアの言う通り、すべてを「ひた隠し」てきたし、さらけ出そうとも思っていなかった。
 だが、アベルにすべてを赦されたあの夜から、ミュゲの心は少しずつ変わっていった。
 宮廷で華やかに振舞っている偽りの自分の姿だけではなく、ちっぽけで弱い実像の自分さえ慈しもうという気になれたのだ。
(今のわたくしにはそれだけでじゅうぶんよ。だって、この人が支えてくれるなら、わたくしはどんな時でもわたくしらしくいられる気がするんだもの……)
 整ったおもてを花のようにほころばせ、ミュゲは隣を行くアベルの横顔をちらと見上げた。
 これまで散々軽薄だと思い込んできたその顔つきに、ミュゲはもう嫌悪感を抱かなかった。
 だって、彼の瞳はこんなにも澄んでいる。そしてまっすぐに前を見据えている。
 これまでにミュゲに対してとった数々の行動からもわかる通り、彼はけしてただ浮ついているだけの青年ではなかった。もちろん「汚らわしい」存在などでもなかった。
 彼は自分の人生を堂々と生きている立派な一人の男性だ。
 女主人や友をまるで自分の一部のように大切にしているところなどはほとんど尊敬の一言に尽きるし、いざという時の行動力には舌を巻くものがある。
 そして何より度量が大きい。宮廷においてこんな不祥事を起こしたミュゲのことでさえ、彼は否定せずに受け入れてくれる。その存在を認めてくれる。
 そのことについてミュゲはなんとも言えない安心感を抱いた。
 アベルの凛とした横顔を、そっと盗み見る。
 そこにそれまでになかった男らしさが滲んでいるような気がして、ミュゲは妙にどぎまぎしてしまう。
 その弾みに繋がれた手のひらに力が籠り、傍らのアベルがはっとしたように振り向いた。
「……なんだよ?」
 ミュゲは慌ててかぶりを振る。
「いいえ。あなたには本当にお世話になりっぱなしだなと思って……」
 アベルはそこでつと歩みを止めた。
 それにつられてミュゲも立ち止まる。
 改めて正面からアベルの顔を見上げると、彼はミュゲの頬を手のひらでするりと撫でながら言った。
「そう思うなら褒美が欲しい」
「褒美……? まあ、何が欲しいの?」
「白くて甘い香りのする花のつぼみが」
 アベルの指先がなぞるようにゆっくりと唇の輪郭を辿っていることに気づき、ミュゲは白磁の頬を染めた。
「ま、待って、アベル……」
「嫌か?」
「いやじゃないけど……ここで?」
 アベルはわずかに唇を尖らせる。
 が、何を思ったか彼はそのままミュゲをギャラリーの隅へと連れて行った。
 女神像の陰に引っ張り込まれたかと思うと、窓を覆う深紅のカーテンを身体全体にふわりとかけられる。
 カーテンの内側に身体ごとすっぽりくるみ込まれてしまうと、世界にはもはやアベルと自分の二人だけしか存在しなくなった。
「これなら雰囲気出るだろ」
「もう……せっかちなんだから」
 ――窓の外、暮れなずむ夕空と茜色に輝く王都の街並みが二人を見守っている。
 薄い窓硝子を通して入り込んでくる夕陽が、紅潮したミュゲの頬をさらに赤く染めてゆく。
 おずおずとアベルのアイスブルーの瞳を見上げれば、すぐさま腰から抱き寄せられた。
 均衡をなくした身体が、アベルの胸へと倒れ込む。隆起した胸板にきつく――そしてすっぽりと抱かれ、熱を孕んで赤らんだ首筋や耳たぶの皮膚を揶揄するように食まれる。
「や……っ」
「俺が怖い?」
「いいえ、怖くないわ……」
 とっさにそう答えてしまったのは、彼と素肌を触れ合わせるのが思ったより嫌ではなかったからだ。
 力強いぬくもりに包み込まれると、もはや何も言葉が継げなくなる。大きな手のひらで髪や背中を撫でられ、柔肌に点る熱を確かめるように唇を寄せられると、もう微塵も動けなくなってしまう。
 間近に聞こえるアベルの心音に耳をそばだて、ミュゲは翡翠の瞳を潤ませた。
「……わたくし、馬鹿だったわ。あなたがこんなにもすぐ近くにいるということに、まるで気づけなかった。あなたの言葉なんて、まるで信じてなかった。だけど、今は……」
「何? もっと早く俺の手を取ればよかったって後悔してる?」
 その問いかけに、ミュゲはなんとも言えなくなって口をつぐむ。
 答える代わりに、アベルの背に手を回してしっかりと抱きついた。
「……お前が俺を選んでくれてよかったって、今少しだけほっとしてるんだ。クロードなんかに渡したくなかったし、何よりずっと振り向いてくれたらなって思ってたから」
 ミュゲはアベルにしがみついたまま、ゆっくりと顔を上げた。
「ねえ。どうしてそんなにわたくしを好きでいてくれるの? だってわたくし、そんな大したことはしていないでしょう? あなたにそこまで想われるようなこと、わたくしは何一つしていないはずだけど」
「前にも言ったけど、お前、昔俺のことを庇ってくれただろ。あれだけで俺にはじゅうぶんだったんだ」
「……そんな理由で?」
 首を傾げると、肩をすくめて小さく笑われる。
「いや……、俺にとってはじゅうぶん大した出来事だったんだよ。あの頃、俺はこの宮廷にやってきたばかりで周りには敵だらけだった。アルマンディンの出身ってだけで馬鹿にされたし、魔導士館の人間たちだってみんな俺に差別的だった。そんな時に手を差し伸べられて惚れないわけがないだろ。俺とお前の間には大層な身分差があるってわかってたけど、それでも諦められなかった」
 そこでアベルは胸の隠しを探り、一枚の薄いハンカチーフを取り出した。
 真っ白い生地に鈴蘭の花とミュゲのイニシャルが刺されたハンカチーフは、まぎれもなく母妃シュザンヌが娘のために作らせたものだ。
 あの時庇った少女がまさかアベルだったとは思いもよらなかったが、こうして実際に自分のハンカチーフを見せられてミュゲは深い感慨を覚えた。
「……本当にこんなことってあるのね。もしかして、七年の間ずっと持っていてくれたの?」
 アベルはためらうことなくうなずき、手の中のハンカチーフに視線を落とす。
「一体何度このハンカチに救われたかわからない。お前がくれたこの鈴蘭のハンカチが、この七年の間ずっと俺の支えだった。このハンカチを取り出して眺めるたびに、けして触れられないお前のことを想った。お前のことを思い出して自分を励ました。俺にかけてくれた温かい声の調子や、傷の手当てをしてくれたときの些細なしぐさまで、全部……」
 言って、アベルは鼻先にハンカチーフを押し当てて瞼を閉じる。
 眉間には切なく甘い皺を刻み、白銀のまつげはしっとりと伏せて、あたかもこれまでの七年間を追想しているかのような表情だ。
 だが、それになんとも言えないむずがゆさを感じて、ミュゲは逡巡の末唇を開いた。
「……そんなに好きになってもらえて嬉しいけど、あなたは誤解してるわ」
「何を?」
「わたくしは、そんなにすごい人間じゃないの。あなたも知っての通り、わたくしは後ろ向きで卑屈で、おまけに気位だけは高い、そんな人間なの。それに、わたくしの方こそあなたに何度助けてもらったかわからないわ」
 アベルはかつて、暴挙に及んだミュゲを必死で止めようとした。
他人ひとを蹴落とせば自分の輝きが曇るだけだ」といってミュゲの凶行をなんとかやめさせようとした。
 その時のやり取りを、ミュゲはわずかな胸の痛みとともに回想する。
『なんとでも好きに言えばいいでしょう!? あなたが惚れているのはどうせわたくしのうわべだけよ!! 中身まで見ていないからこんなことになったんじゃない!! 勝手に期待して勝手に幻滅しないで!! そんなのはもううんざりだわ……!!』
『知ってるから言うんだ……! お願いだから、もうこんな悪事に手を染めるのはやめてくれ。姉殺しの烙印を捺されたいのか!?』
 今ならわかる。
 あれは、本当にミュゲのことを知っていたからこその発言だったのだ。
 ミュゲの本質を、アベルは最初から見抜いていた。ミュゲがあんな卑劣な行いに及ぶような姫ではないと信じていた。
 だからこそ止めようとしたのだ。
 アベルの顔をしっかりと見据え、ミュゲは淡い笑みを浮かべてみせた。
「あなたが信じていてくれたから、わたくしはこうして戻ってくることができたんだと思うの。あなたがずっと照らしていてくれたから、道を誤らずにすんだのよ」
「ミュゲ」
「それに……わたくしは今ちゃんとあなたの腕の中にいるでしょう? もう『けして触れられない相手』ではなくなったのだから、これまでの感情を全部ぶつけてくれたって恨まないわ。だって……わ、わたくしもあなたのことが、好きだから」
 震える声でなんとか言い切り、赤くなったおもてを隠すようにアベルの胸に顔を埋める。
 つたなくぎこちない告白ではあったものの、なんとか好意を打ち明けられたことに安堵する。
 が、何を思ったかアベルはミュゲの頭上で「はあ……」と派手にため息をついた。
「……お前、本気でたちが悪いな。よりによって今そういうこと言うか?」
「な、何よ。何も酷いことなんか言ってないのに……!」
 アベルは自身を見上げるミュゲからそろりと視線を外し、前髪をかきやって呻く。
「……やめてくれ、心臓に悪い。やっと念願叶ったと思った矢先に天に召されるのはお断りだ」
「え……。ど、どういう意味……?」
 本当に訳がわからなくて訊ねただけなのに、アベルは舌打ちをするとミュゲを恨めしそうに睨んだ。
「あのな、俺だって緊張してんだよ。なのにそんな俺の息の根を止めるようなこと、軽々しく言わないでくれ。こっちの心臓がどうにかなるだろ、馬鹿」
 その言葉に、ミュゲはぽかんとする。
 態度が大きいだけの青年かと思っていれば、なかなかどうして繊細らしい。
 アベルの心底困ったような顔つきと彼らしくもない台詞に、ミュゲはとうとう噴き出してしまう。予想だにしない答えに、思わずくすくすと肩を震わせて笑った。
「あなたって、思ったよりも可愛いのね」
「笑うなよ。ほんっとお前って意地が悪いな。よりによって男に『可愛い』とか言うか?」
「あら、そんな意地悪な女を好きになったのはあなたでしょ?」
 アベルはそこでうっと詰まった。
 笑い声を上げるミュゲを尻目に、髪をぐしゃぐしゃとかきやって苦悶する。
「確かこの前も聞き捨てならないこと言ってたよな。昔の俺のこと、女の子だと思ったとかなんとか……」
「だってあなた、綺麗なんだもの」
 さらりと言ってしまってから、ミュゲは慌てて口元を手で覆う。
 とっさに逃げようと後ずさったところを、アベルはすかさず引き寄せてきた。
「……俺をその気にさせた責任は取ってもらうからな」
 アベルの吐息が羽根のように頬や耳朶をくすぐってくる。
 ミュゲは気恥ずかしさからそっぽを向いたが、伸びてきた手にすぐさま両頬を捕らえられ、無理やりアベルの方を向かされてしまう。
 ミュゲはゆるゆるとアベルを仰ぎ見た。
 穏やかな――けれどもどこか狂おしげな視線の交わり。それが口づけの始まりの合図となった。
 顎に指をかけて軽く持ち上げると、アベルはそのままミュゲの唇に自身のそれを重ねる。
 淡く夕陽の射しこむ黄昏時のギャラリーで、二人は出会って初めての口づけを交わした。
 逸る胸、せわしなく脈を打つ鼓動とは裏腹に、それはどこまでも優しく温かなキスだった。
 手繰り寄せた指先に自身のそれを深く絡め、羽根のように触れては離れてゆくアベルの唇を、ためらいながらも一心に追いかける。
 うっすらと開いた紅唇に幾度も幾度も口づけられながら、ミュゲは懸命にアベルという一条の光に取りすがる。
 自らの身体を強くかき抱くその腕の中で、ミュゲは静かに一筋の涙を流した。
 
 
 

 

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