最終章 ただひとりの愛する人よ

 
 
 即位式から数か月が経過した。
 バイオレッタはプランタン宮の廊下にたたずみ、ぼんやりと夏の青空を見上げていた。
 
 数日降り続いていた雨がやみ、雲間からは太陽の煌めきがこぼれている。宮殿の周りに植えられたたくさんの樹木が、眩しいほどの青色に彩を添えていた。
 
(もう、夏……)
 
 それを心の内でつぶやいただけで「もう駄目だ」、と思った。雨上がりの庭園で彼と語らったときのことが、どうしても思い起こされてしまうから。
 あの時もクロードはバイオレッタにひどく優しく接してくれ、美しい言葉で愛を語ってくれた。
 
(ああ……、そういえば、お茶を買っていただいたわ)
 
 王室御用達の商人たちが中庭にやってきたとき、クロードはバイオレッタに穏やかな香りのカモミールティーを贈ってくれた。
 王宮に来てから寝つきがあまりよくないのだと打ち明けたら、少しでも毎日を安らいだ気持ちで過ごせるようにとプレゼントしてくれたのだ。
 それからしばらくの間は、その茶葉でこしらえた蜂蜜入りのミルクティーを飲んで夜を過ごすのが習慣になっていた。
 本当は、そんなもので寝つきがよくなるとは思っていなかった。ただ、彼からの好意がとても嬉しくて、それで……。
 
(そう。本当は、あなたとの思い出に浸りながらお茶を頂くのが、幸せだっただけ……)
 
 もう済んだ話を蒸し返しても仕方がない、と、バイオレッタはきつく唇を噛みしめた。
 
 今、バイオレッタのところには他の五大国から次々に縁談の話がやってきていた。
 筆頭はエピドートとクラッセルだ。この二国はリシャールの代に結んだ約束を果たそうと、バイオレッタのもとに度々肖像画や使者を送ってよこす。
 端的に言えば圧をかけているのだ。
 自国の入り婿をあてがうことで二国の関係をより強固なものにできる――さらに言えばスフェーン側をコントロールすることが可能になる――のだから。
(わたくし一人では、この国を背負えない……、未だ女王国への風当たりは強いし、第一わたくし一人ではすべてをこなせない。いずれはどなたか力のある殿方に身を任せることも考えなくては)
 何とも不甲斐ない話ではあるが、バイオレッタの今の状態では数々の公務をこなすのが精いっぱいで、政務を全うするだけの実力が圧倒的に足りないのだ。
 レベイユを統治した程度で舞い上がっていたのが恥ずかしくなるほど、国政というのは難しいものだった。
 宰相や女王補佐官たちはよく助けてくれているが、それでも己の力不足は認めざるを得ない。
 
 同時に、宮廷の人間たちというのも思ったより曲者揃いだということに気づかされた。
 臣下たちは女というだけでバイオレッタを下に見るし、宮廷の派閥は絶えず主導権争いとつまらぬいざこざを繰り返す。
 父王の代から宮廷に蔓延はびこっている猛者もさもおり、齢十八とまだ年若いバイオレッタにはとても彼らをまとめられそうになかった。
 こんな時、助けてくれる誰かがいたら。強くそう思うけれど、今現在頼れそうな人物は思い当たらない。
 
(みんな、自分の道を進んでいる……。未だに役割を果たせていないのはわたくしくらいのものね……)
 
 第四王女であり異母妹いもうとでもあるピヴォワンヌはスフェーン大使となっていた。
 大陸語、スフェーン語、そして劉語の三つの言語を解する彼女は、現在はその能力を生かして他国との橋渡し役を担ってくれている。
 今は大陸中をせわしく駆け回る日々を送っており、とても姉女王の支援ができるような状況ではなさそうだ。
 実の姉妹のように仲が良かったクララは、アスターとプリュンヌを伴ってアルマンディンの再興を始めつつある。
 将来アスターと式を挙げる際には妹のように可愛がっているプリュンヌに婚礼衣装を仕立ててもらいたいと考えているようだ。
 クララに仕える二人の従者たちも彼女に付き従う形でスフェーン宮廷を出て行った。
 オルタンシアとミュゲは女王補佐官として非常によくやってくれているが、彼女たち二人はあのシュザンヌの娘ということもあり、一時期は大臣たちからこっぴどく糾弾された。
 アウグスタス家は先代国王であるリシャールの死に密接に関係している。
 廷臣たちによれば、その血を濃く引くオルタンシアとミュゲは、王太后やシュザンヌの所業を考えれば処罰の対象になり得るのだという。
 ヴィルヘルミーネの兄であるアウグスタス家の当主が処刑によって断罪されたため、ある大臣からは「オルタンシアたちを宮廷から追放することも考えては」という意見も出た。
 だが、バイオレッタはその意見に反対した。
 確かにオルタンシアたちは不貞の妃だったシュザンヌの姫だ。だが、子供たちには生まれてくる場所は選べないのだ。
 どんなに親が酷い人間であろうとも、子はその現実を受け入れなければならない。時には親の悪行を見て見ぬふりをしなければならないことだってあるのだ。
 ただそうして生きてきただけなのに、いきなり住む場所も身分も剥奪されるなんてあまりにも惨すぎる。
 切々とそう説くと大臣たちは押し黙り、渋々と言った体で彼女たちの補佐官就任を認めた。
 
 廊下の出窓に肘をつき、バイオレッタは嘆息した。
「……女王になったっていうのに、わたくしはなんて弱い人間なのかしら」
 つぶやきと同時に自嘲めいた笑い声が唇から漏れる。
 さすがに、女王になれば強くなれるとは思っていなかった。
 しかし、スフェーンの国力を盤石なものにするためにはバイオレッタは強くあらねばならない。父王が過去に行ったアルマンディン侵略も、すべては国のためだったのだ。
 以前だったらその意味すら理解できなかった。なんと無慈悲な王なのかと、眉をひそめていた。
 けれど、国を強くして民の暮らしをより良いものにするためにはああいった政略も必要不可欠だったのだ。
 ふいにバイオレッタは、クララからの手紙にあったある一文を思い出した。
『貴女の国スフェーンには今後ろ盾がありませんわ。やはりここは力のある国の支援を受けることも考えては?』
 スフェーンは大国だが、今の君主であるバイオレッタに民を戦争や天災から守るだけの力はない。
 今のスフェーンはようやく統治の体制が整いだした程度で、敵襲や飢饉といった緊急事態に対応できるだけの国力はほぼ皆無だ。
 そして、いつ何時そうした事態が起きても不思議がないことを、バイオレッタはよく理解していた。
(やはりクラッセルかエピドートのどちらかと……?)
 バイオレッタは打ちひしがれながらもプランタン宮の廊下を歩き始める。
 クラッセルの公子か、エピドートの王子。取り決め通り、入り婿として早くどちらか一方を選ばなければ。
 だが、もちろんクロードへの未練を残したままで彼以外の男の妻になどなれるはずもない。
(クロード様以外の殿方に身をゆだねるなんて、いや……!)
 何も知らない他の人間はこの話を耳にしたらきっと笑うのだろう……、死人に恋をし続けている愚かな女王だと。
 だが、バイオレッタはどうしてもクロード以外の男に肌を差し出す気にはなれなかった。
 あの優しさやぬくもりを覚えている以上、そんな浮薄な真似はしたくなかった。
(……馬鹿みたい。わたくし、一生こうして死んだ殿方に操を立てて生きていくつもりなのかしら)
 そう考えて彼女はまたほのかに自嘲した。
 
 
 重い足取りで玉座のある≪星の間≫へたどり着くと、かつて父王が腰かけていた金の鋲の打たれた玉座が目に飛び込んできた。
 玉座の肘掛けにそっと触れ、バイオレッタはぽつりと独りごちる。
「やはりわたくしでは無理なのでしょうか、お父様……」
 親しい友人たちはみなとっくに自分のなすべきことを見つけているというのに、自分は何もできない。それは荷が勝ちすぎているからだとわかってはいるのだが、焦燥感は収まらない。
 何の気なしにちらと玉座の隣の空間に目をやったバイオレッタは、思わず息を詰まらせた。
 そこはかつてクロードがいた場所だった。
 けれど、もうここに彼はいないのだ。
 こうやって事実を噛みしめるのはこれで一体何度目になるのだろう。過ぎ去った恋に胸を痛めるよりも先に、まずするべきことがあるというのに。
「……っ……、どうして……!」
 バイオレッタはずるずるとその場にへたり込んだ。クロードの死を受け入れなくてはならないのに、まだそうできずにいる自分が恨めしかった。
 
 
***
 
『バイオレッタ様』
(――この声は)
 耳にするだけでひどく切なくなる、懐かしい声。しっとりと落ち着いた、「彼」の声……。
『クロード様……?』
 いつかクロードとともに歩いた、菫青アイオラ棟の庭園。
 薔薇の絡むアーチの向こうから、その声は聞こえてきた。
(……行かなきゃ)
 朝もやのかかった庭園を、バイオレッタは駆ける。脚にまとわりつく夜着をつまんでたくしあげ、声のする方へ向かう。
『クロード様!!』
(どこに。どこにいるの)
 茂みをかき分けるバイオレッタの手に応えるかのように、薔薇の蔓や足元の花々がするすると道を開ける。
 目も眩むような色とりどりの花々。朝露の下りたみずみずしい新緑と、所々に設えられた優美なつる薔薇のアーチ。
 よく見知ったはずの庭園をがむしゃらに駆け抜けて、たどり着いた場所。そこに彼はいた。
『……ごきげんよう、バイオレッタ様』
 ゆったりと腰を折り、クロードはしめやかに黄金きんの瞳を伏せた。
『お元気でしたか?』
『……っ!』
 懐かしいクロードの声に、バイオレッタはへたり込んだ。
 彼の足元にくずおれ、身も世もなく泣きわめく。
『クロード、さま……っ!』
 バイオレッタは両手で顔を覆い、もののわからない子供のようにただただ泣いた。
 激しくしゃくり上げると、閉ざされた視界の向こう、クロードがわずかに動揺したのがわかる。
『バイオレッタ様……』
『寂しかったの……! あなたがいなくて、わたくし、どうにかなりそうだった……! あんな別れ方なんか、したくなくて……!』
 クロードは自らもその場にしゃがみこむと、バイオレッタの白銀の髪を慰めるように幾度か撫でた。
 どうせ離れていくのなら、こんな下手な慰めなんて欲しくない。
 そう思うのに、なぜか今だけはこの体温に揺さぶられていたいと思う。永久にここにあってほしいと願ってしまう。
 
 クロードの腕にすがりついて、バイオレッタは必死で訴えた。
『お願い……、ひとりに、しないで……! だってクロード様、ずっと一緒にいるって言ったではありませんか……! あの時、確かにそう約束したのに……!』
『バイオレッタ……』
 残酷なまでに優しいクロードの声。
 もう二度と会えないとわかっているのに、それでも彼はバイオレッタに寄り添おうとする。その悲しみを汲もうとする。
 それは、彼が先に置いて行かれた側の人間だからだ。一度アイリスを喪っているからだ。 
 そして、この逢瀬が終われば彼は消える。跡形もなく、夢幻のように消え失せてしまう。
 それに気づいたバイオレッタは、自身の肩を包み込もうとするクロードの腕を振り払った。
『優しく、しないで……っ! またどこかへ行ってしまうのでしょう!? 目が覚めたら、わたくしはまた一人ぼっちなんだわ……、あなたのいない一人きりの世界に……!』
 そこでバイオレッタははっと目を見張る。
 そうか。クロードも同じだったのだ。こんな切ない日々を、千年もの間ずっと繰り返してきたのだ……。
 バイオレッタは何とか泣くのをやめた。
 泣いてはいけない。クロードが耐えた悲しみから、目を背けてはいけないのだ。
『ごめん、なさい……。ごめんなさい、わたくし……』
『――人の子よ』
 穏やかな声音で語りかけられ、バイオレッタは顔を上げる。
 背を覆うは白銀の長い髪。清らかに澄み渡った白い肌と、こちらを見つめる一対のアクアマリンのごとき双眸……。
 この世のものとも思えぬような美しい女性が、そこにはたたずんでいた。
『ヴァーテル様……』
 大陸のすべての生命を司る水の女神は、そこでたおやかに笑んだ。
『聖なる御印を持つ女王よ。わたくしは貴女に問います。……貴女は、この男を愛していますか?』
『……ええ。何物にも代えがたいくらい、お慕いしています』
 本当は今すぐにでも帰ってきてほしい。
 いつものように自分の隣で笑ってほしいし、ずっとそのぬくもりを感じていたい。
 クロードの犯した罪や過ちを知っていてなお、バイオレッタは彼に焦がれていた。
 ヴァーテルは寄り添い合う二人を静かに見つめた。
『貴女の気持ちは、この男の過去をすべて知っても揺るぐことのないものなのね。そして、貴女はこの男をゆるそうとしている。たとえそばにいられなくても、その心が手に入らないとしても。貴女の想いは変わらないのね……』
 バイオレッタは泣き笑いの顔で唇を開いた。
『……女神様。わたくしは、そんなに立派な人間ではないのです。わたくしを一人ぼっちにしたクロード様を恨む気持ち、アイリス様に嫉妬する気持ち……、もっと欲張りな感情だってありますもの。でも、忘れられないのです。クロード様のすべてが。ただそれだけなのです……』
 
 クロードに優しく気遣われた時には胸が温かくなったし、自分もまた彼に何かをしてあげられるのだと思ったときには嬉しかった。
 クロードと出会ってから、人と想いを通わせ合うのはこんなにも幸福で満ち足りた行為なのだと知った。
 たとえ罪人であってもいい、そばにいたいし、そばにいてほしい。
 これからも、クロードと同じ時間を共有し、同じ感情を分け合いながら生きていきたい。
 名状すればただそれだけのことなのに、今の二人には到底叶えられない――そして強欲な――望みだった。
 
(だけど、わたくしとクロード様はもう死に別れてしまった。もう二度と同じ時間を生きることはない……)
 
 胸の中を、後悔ばかりが行き過ぎる。
 バイオレッタはぽろぽろと涙をこぼしながらうなだれた。
 
 しかし次の瞬間、ヴァーテルは事もなげに言った。
『貴女の願い、わたくしが叶えましょう』
『え――』
『あなたたちはわたくしに人の想いの強さを教えてくれたわ。たとえどれだけ月日が過ぎようとも変わらぬ恋情があるのだと、その身をもってわたくしに示してくれた。だから、わたくしはそんなあなたたちの願いを聞き入れようと思います』
 思わず食い入るようにその顔を見つめると、ヴァーテルはそこで携えていた銀の錫杖を軽く大地に押し付けた。
『ただし、一つだけ条件があります』
『条、件……?』
 バイオレッタがつぶやくと、ヴァーテルはうなずく。
『貴女が終生この男を愛し続けると誓うなら、わたくしは彼の命を特別にこの世によみがえらせてあげましょう。けれど、それはつまり貴女の愛にすべてが懸かっているということよ。貴女の想いが底をつき、その愛が完全に枯渇した時。それがこの男の真の終焉となるの。……女王バイオレッタ。そういう約束が、貴女にできる?』
『できます……!』
 思わず口を突いて出た強い言葉に、バイオレッタは自分でも驚かざるを得なかった。
 こちらを試すような厳しい眼差しを向けるヴァーテルに、バイオレッタは懸命に主張する。
『わたくし、クロード様のことを今度こそ最期まで大切にします! だから、どうかわたくしにもう一度この方を与えてください……!』
 それは、バイオレッタが生まれて初めて口にした望みだった。
 これまでただ流されるまま、守られるままに生きてきた彼女が、自らの生で初めて言い放った強い願望の言葉だった。
 そこでヴァーテルは薄水色の瞳を細めてふっと微笑する。
『……いいわ。その代わり、貴女たち二人の愛が終末の瞬間まで永続されるかどうか、わたくしはしっかりと見せてもらうわ。人の子の愛を、貴女たちがわたくしに教えなさい。その身をもって示しなさい……、永劫に変わらぬ“愛”を――』
『わかりました、女神様』
 
 さざめく光の渦の中、バイオレッタはクロードに向けて手を伸ばす。
 ……夢の終わり、二人は硬く手を繋ぎ合った。
 
***
 
 スフェーン大国に本格的な夏が訪れた。
 綺麗に整えられた女王執務室。
 バイオレッタはうだるような熱気と戦いながら政務を片付けていた。
「はい。これが芙蓉様からの書状よ」
 執務室で書類に鵞ペンを走らせていると、先ほど外交を終えて劉から帰還したばかりのピヴォワンヌが巻子を差し出してきた。
 受け取る巻子の色は淡紅で、萌黄色の紐できちんと縛ってある。
 劉国では羊皮紙よりももっと薄い上質な紙が使われる。さすがは東の大国といったところか……とバイオレッタは妙なところで感心した。
「ありがとう。芙蓉様からということは劉語ね」
「ええ」
「ちょっと待って……、もうあと二枚なの。先にこっちを終わらせてしまうわ。わたくし、劉の言葉ってまだ苦手で、書物を調べながらじゃないと読めなくて……。……ああ、オルタンシア。右の本棚に劉語の辞典があるわよね? 出してくれる?」
 ラピスラズリ色のガウンで着飾ったオルタンシアがこっくりとうなずいたが、慌てたピヴォワンヌが急いで止めた。
「ちょっと! いいわよ、そこまでしなくても! これでも一応あっちでの朝議にも参加してきたんだから、あたしがかいつまんで説明だけさせてもらうわ。……あのね、芙蓉様はあんたの提案に賛成していらっしゃるの。あんたさえ良ければ、スフェーンの後ろ盾になってもいいそうよ。それであたしに、どうか菫の姫によろしくって」
「まあ、本当?」
「嘘なんか言わないわよ。玉蘭からも贈り物を預かっているんだけど……見る?」
 バイオレッタはにこやかに「見たいわ」と応じた。
 そこでピヴォワンヌは騎士に目配せをした。
 彼女は大使の身分になってから、いつもスフェーンの騎士を伴っている。言うなれば護衛官だ。 
 筆頭格の騎士は、大小さまざまの贈り物を恭しく机上に載せていった。すべて献上し終えると、軽く辞儀をしてピヴォワンヌの背後へと下がってゆく。
 バイオレッタは手近にあった大きな箱を開くなり歓声を上げた。
「わあ……!」
 柔らかく高価な劉の紙や、珍しい香、天然毛を使用した化粧筆一式。
 首に提げる陶器の香料入れや、珍しい貴石をあしらった金銀の歩揺……。
 実に様々な品物が出てきて驚かされた。
「……まあ、なんて素敵な……!」
「そういえば、これもね。劉を訪問するときはこの衣装がいいわね」
 ピヴォワンヌはにっこり笑って、劉の女性服を広げてみせた。薄紫と蜂蜜色を基調とした衣装だ。
「こ、こんなに頂いてしまっていいのかしら……」
「もうれっきとした友好国になったんだからいいのよ。これはみーんな玉蘭からの気持ちなんだから、受け取ってあげればいいわ」
「そうね……、わかった。そうするわ」 
 なんだか不思議だった。親友をめぐるライバル同士だった彼女とこんな仲になれたことが。
 だが、これもきっと天が定めたえにしだったのだろう。
 そう考えて、バイオレッタは無性に嬉しくなる。
 最後に、縦長の小さな黄金の箱を開く。
 すると……。
「あ……」
 納められていたのは雫型の大きな紅い宝石をあしらった首飾りだった。デザインは劉のそれだが、スフェーンの服にも合いそうなほど洗練されている。
 大ぶりなのでドレスの胸元につけるときっと映えるだろう。燃えたつような鮮烈な紅色が、なぜだか胸を惹きつけた。
「ルビーのネックレスね。あんた全然ピンクのドレス着たことないみたいだけど、たまには着てみたらいいんじゃない? それでこのネックレスをつけたら、きっとすごく似合うと思うけど」
「……今ピンクは滅多に着ないから、多分落ち着かないわよ。貴女じゃないんだから」
「あたしの方が柄じゃなかったんだけどね……、ピンクなんて。でもこの髪の色じゃ、着られるドレスは限られるのよね。今の方が気楽だわ」
 ピヴォワンヌは今は男装していることが多い。とはいえ劉の衣装ではなく、スフェーンの男物である。
 フリルの装飾がついた白シャツに、バイオレッタの名代としての意味を込めたすみれ色のクラヴァット。
 しなやかな両脚はオリーブグリーンの膝丈のズボンで覆われている。足元は白いタイツと低いヒールのついた焦げ茶の革靴だった。
「あら、でもわたくしは前のピヴォワンヌのドレス姿が大好きだったわ。すごく可愛かったもの」
「もうごめんだわ。たとえあんたにお金を積まれたって、もう絶対にやらないからね」
 二人は顔を見合わせてしばしくすくすと笑いあった。
 
「……ねえ、ピヴォワンヌ。お願いがあるの」
「なあに? 珍しいじゃない」
 バイオレッタは指先でしゃらりとネックレスの鎖を持ち上げた。
「これ、つけてくれる?」
 そう言って、バイオレッタは立ち上がった。机を挟んだ向こう側に立っているピヴォワンヌに近寄る。
「今日のガウンは蒼いから、あまり似合わないかもしれないけれど……。今日、どうしてもつけたいの」
「やだ、どういう風の吹き回し?」
「あのね……。ううん、なんでもないわ」
 バイオレッタは数日前に不思議な夢を見たことはピヴォワンヌには伏せておこうと思った。
 
(だって、笑われるもの。ううん、この子ならきっと笑わないのでしょう。でも、秘密にしておきたいわ……)
 
 ……夢の中で「彼」は微笑んでいた。いつか見せてくれたような、穏やかな顔で。
 ジン神殿での別れを思い出すとまだ切ないが、それ以上にバイオレッタは「彼」の心の安寧を願っていた。
 せめて女神の御許ではアイリスに会えただろうか。
 まだ彼のことを完全には忘れられないけれど、そうであればいい、とバイオレッタは思った。
 
(また、巡り合えたら……。次は、わたくしが見つける番……)
 二人の縁、そして夢で交わした約束を思い出し、バイオレッタは満ち足りた気持ちで微笑んだ。
 
「何よ、薄気味悪いわねぇ」
 呆れながらもピヴォワンヌはネックレスを受け取った。留め金を外し、バイオレッタの細い首にそっとかける。
 鎖を留め終えると、石の位置を鎖骨の辺りに調整してくれる。
「……あら、長さがちょうどいいじゃない」
「あ。本当」
 大きなルビーはデコルテの中央で燦然と輝きを放つ。鎖は長すぎもしなければ短すぎもせず、バランスがいい。
「蒼いガウンでも全然問題ないじゃない。すっごく素敵よ」
「……きれい」
 あまりの輝きに、バイオレッタは石の表面を撫でて息をつく。
 
 と、そこで叩扉の音がして侍従が入ってきた。
「女王陛下。クラッセル公国の公子様がお見えになっております」
 バイオレッタはびくりとした。
 慌てて緩みきった表情を引き締める。
 恐らく縁談の話でやってきたのだろう。バイオレッタが返事を寄越さなかったから業を煮やしたのかもしれない。
 たちまち強張るバイオレッタの両肩に、ピヴォワンヌは手を置いた。
「あの芙蓉様がお力添えくださるんだから、縁談なんか断っていいはずよ。そんなもの、行かなくていいわ」
「そうね。でも……」
「それでも王配むこは迎えなければならないのだ」という説明を呑み込み、バイオレッタは表情を曇らせる。
 先代からの約束ごとがあるとはいえ、クラッセルの公子は荒っぽく傲慢な性格でもともと苦手なのだ。
(わたくしが返事をしない限りはいつまでもこのままだわ。だけど、今はどうしても王配を決める気になれない……)
 迷った末、バイオレッタはガウンの裾を翻して扉へ向かった。
「……行ってくるわ。政務は戻ったらきちんとやりますから」
「陛下……、わたくしもお供いたしましょうか? なんだか心配ですわ」
 険しい顔のオルタンシアが申し出てくれたが、バイオレッタはそれを柔らかく断った。
「大丈夫よ。何かあっては大変だから、あなたたちはここにいてちょうだい」
 室内の面々に力強い笑みを残し、バイオレッタは女王執務室を後にした。
 
 
「――女王陛下のお出ましです!」
 白亜の大広間の天井に、侍従の一声が響き渡る。
 バイオレッタが玉座の置かれた≪星の間≫に入っていくと、金髪の青年が頭も垂れず不愉快そうに唇を捻じ曲げていた。
 クラッセル公国の公子ユリウスだ。後ろには大勢の従者を従えている。
 バイオレッタが玉座に腰を下ろすのも待たず、彼は居丈高に言った。
「女王陛下。待ちくたびれましたよ」
「申し訳ございません。ご用件はなんでしょうか? ユリウス様」
 訊ねれば、ユリウスは鼻先で笑った。
「僕と貴女の間で『用件』といえば一つしかないでしょう。わかっていらっしゃるくせに、これ以上僕を焦らしてどうなさるおつもりなのですか?」
 バイオレッタは下品な笑みを浮かべながら近づいてくる彼に強い嫌悪感を抱いた。
 一瞬「クロードとは比べ物にならないくらい粗野な男だ」、と考え、それでも懸命に女王としての顔を保つ。
 彼はじりじりとバイオレッタを追いつめると、抗わないのをいいことに強引に手首を掴んできた。
「や、何を……っ!?」
「女王陛下……、今の貴女には僕が必要なはずだ。僕にはわかっていますよ……、貴女の国が今どのような状況にあるのか」
「いやっ、放し――」
 ユリウスはバイオレッタを抱きすくめると、荒っぽくささやく。
「エピドートの王子などではなく僕を選んでください。僕を選ぶと今ここで誓ってくださるなら、僕とクラッセルはこの先貴女に助力を惜しみませんよ。……それに」
「!」
 武骨な手が腰を這い、思わず息をのむ。
「初夜では貴女を朝まで眠らせないとお約束します……。きっとご満足いただけると思いますよ、僕の愛し方は」
 どうにかして押しのけてしまいたいのに、右手が拘束されていてままならなかった。その間にも全身をまさぐられて泣きたくなる。
 恥辱と恐怖で頭がどうにかなりそうだ。
「誰か……、誰か早くこの方を……!!」
 蚊の泣くような声で命令したが、身辺警備を担ってくれるはずの近衛騎士に届かない。彼らはただ女王と公子が戯れているだけだと思っているらしかった。
(いや……っ!! 怖い……、誰か……!!)
 思わずぎゅっと目をつぶったとき、そこに聞き覚えのある柔らかな声が降ってきた。
「――手をお放しになってくださいませんか、ユリウス殿下」
 バイオレッタがこわごわ目を開けると、そこには見知らぬ青年の姿があった。
 長躯に絡みついて揺れる金の髪。双眸の色は蒼。
 いや、全く知らないわけではなかった。……彼は。
「あなたは……!」
 青年の立ち姿に、バイオレッタははっと目を見開いた。
(……ああ、そんな)
 驚きのあまり言葉が発せなくなるバイオレッタに、その青年は力づけるような頼もしい笑みを向ける。
 彼はそのままバイオレッタに嫌がらせをしていたユリウスの腕を掴み上げた。 
「誰だ、お前は! 邪魔をするな! 僕は陛下とお話をしている最中なんだ!」
 皆まで言わせず、青年はバイオレッタとユリウスの間に入ると、冷ややかに言い放つ。
「あなたはまだ単なる王配候補の一人にすぎません。そのような方が一国の主たる女王陛下に狼藉を働くのは無礼というものでは?」
「何……!?」
「まず手をお放しに。陛下が怯えていらっしゃいます」
「……っ!」
 神々しい美貌に気圧されたのか、ユリウスは一旦は手を引っ込めた。が、すぐに声高にやり返す。
「どこの馬の骨だ! クラッセル公国の公子であるこの僕に向かって命令するなんて、よほど育ちのいい人間らしいな!」
 ユリウスの侮蔑に、金の髪の青年は微塵も怯まなかった。
 それどころか優雅な微笑みすら湛えて言う。
「ええ……。私は女王陛下の正式な配偶者となる者。こちらへは求婚のために参った次第です」
「な……」
 唖然とする公子にどこまでも艶やかな眼差しを返し、青年はバイオレッタの前にすっと膝をついた。
 ……それは、「彼」が彼女を敬うときにいつも取っていた姿勢だった。
(クロード、様……!!)
 青年は跪く姿勢を取ったまま、バイオレッタの足元に頭を垂れた。
 蒼いガウンの裾を恭しく持ち上げると、忠誠の意を示すかの如くそこに口づけを落とす。
「――私の敬愛する女王陛下。私に貴女を支える権利をお与えになってください。生涯の伴侶として」
 思いがけない発言に≪星の間≫がさざめいたが、バイオレッタは愛しさからあふれてくる涙を堪えるので精いっぱいだった。
「っ……!」
 バイオレッタが嗚咽を漏らすと、彼は困ったようにその顔を見上げてくる。
「……私なら、貴女をじゅうぶん助けて差し上げられます。それは貴女もよくご存じでしょう?」
「はい……、はい……!!」
「バイオレッタ。どうか私を、貴女のものにしてください。未来永劫、その瞳で私を繋いで……。貴女が私を、赦してくださるというのなら」
 バイオレッタはうなずくと、のろのろとその場にしゃがみこんだ。
 高まる鼓動もそのままに、その顔に手を添え、そっと持ち上げる。
 彼の双眸は天空を映し出したような蒼。
 しかし、穏やかな笑み、バイオレッタへの賛美が滲む眼差し、繊細な顔立ち。その全てが恋しい男の……クロードのものだった。
(約束を、守って下さった……)
 その事実に、バイオレッタの頬を幾筋も涙が伝った。同時に、驚喜にがくがくと身体が震え、うまく息をすることすらままならなくなる。
 バイオレッタは喜びに掠れる声で彼に応えた。
「たとえ神が赦さずとも、わたくしはあなたを……赦します」
 膝をついて、青年の首に両腕を回す。そろそろと抱き締めると、こみ上げる安堵感に身体が溶けそうになった。
「……おかえりなさい、クロード様」
「ええ。バイオレッタ。この世で何よりも愛しい御方……。お慕いしています……」
 バイオレッタは瞳をきつく閉ざすと、彼にしがみつく。
「わたくしだけのクロード様……。お会いしたかった……」
 
 
 
***
 
 ――想いの結晶のような涙が、緋色の絨毯に静かに転がり落ちた。
 バイオレッタははっと瞳を見開く。
  ……春風で満ちる桜花園おうかえん。夫との散策中にふと昔のことを思い出したのだった。
「陛下? どうかなさいましたか」
 傍らのクロードが穏やかに訊ねる。
 かつて天空国家の皇帝と呼ばれた彼は、いたるところでバイオレッタを支え、助けてくれていた。女王としての政務も彼の働きによって円滑に進んでいると言っても過言ではない。
(クロード。あなたは約束を違えなかった)
 最期の言葉通り、彼はちゃんとバイオレッタのもとへ帰ってきたのだ……。
 犬がじゃれつくようなしぐさで、クロードはバイオレッタを抱き寄せる。
 たちまち彼の高い体温にくるみこまれ、バイオレッタはおとなしくその胸に頬を預けた。
 波打つ白銀の髪をくるくると指に絡めとりながら、クロードはやや首を傾げるようにした。
「何か考え事でもしていらしたのですか」
「……いいえ。あなたと出会ったばかりの頃のことを思い出していましたの」
「……もしや陛下は、今の私より昔の私の方がお好きだったのですか?」
 少しがっかりしたように彼は言うが、バイオレッタは顔を上げてふるふると首を振る。
「まさか。わたくしは今のあなたの方がずっと……。わたくしのそばで、わたくしと同じように年を重ねているあなたが好き」
「陛下……」
 彼はその場にすっと膝をつくと、金の髪を風に靡かせながらバイオレッタの手の甲に口づけを落とした。
「お慕いしています。私のただ一人の女王陛下……。ずっと、私の心は貴女とともに……」
「……陛下なんて他人行儀だわ。いつもみたいにただ“バイオレッタ”と呼んで」
 はにかんで言うと、クロードは微笑む。
「貴女がお許しくださるのでしたら」
「ええ、許すわ……」
 その蒼穹を映したような双眸と視線が交わると、胸の中になんともいえない温かさが生まれる。
 もう随分長いこと一緒にいるけれど、この感覚だけはいつになっても変わらなかった。
 クロードはゆっくりと立ち上がり、バイオレッタの手を引いて再びその腕の中に彼女を閉じ込めた。
「愛しています……私の、私だけのバイオレッタ」
「……クロード、わたくしも」
「私の愛に応えてくださる貴女が……、愛おしくて……。自分でもどうしようもないほどに……」
 バイオレッタはそっと彼にささやいた。
「わたくしはあなたにたくさんのものをもらったわ。あなたは、他人の愛を欲するばかりだったわたくしに、自ら人を愛することの素晴らしさを教えてくれた。真に誰かを求めるというのはどういうことなのか。わたくしはあなたがいてくれたから理解できたんだと思うの」
 
 互いに浅からぬ因縁から始まった恋だったと思う。
 バイオレッタは、最初はクロードからの好意を受け取るのが精いっぱいだった。
 少し強引な愛情表現には時にうろたえさせられたけれど、段々と愛情を「返す」こと、そして「与える」ことを覚えた。
 彼がいつもバイオレッタの気持ちを汲んでくれるように、バイオレッタもまた彼に寄り添いたかったのだ。
 そしてクロードもまた、しだいにバイオレッタ自身を見つめるようになっていった。
 過去の恋人の面影を見出そうとするのをやめ、バイオレッタという少女そのものを愛するようになったのだ。
 
 そこでクロードはやおら腕の力を強める。
 言葉で示さない代わりに抱擁で示しているつもりなのだろう。
 そんなところも彼らしいと感じてしまい、バイオレッタは彼の背をそっと抱きしめ返した。
「……わたくしはいつもあなたに与えられてばかりね。好意も、温かさも……」
「いいえ。貴女は昔から与えることのできる女性だったのですよ。最初に私に愛を教えたのは、まぎれもなく貴女だったのです」
 その言葉を聞いて、アイリスを思い出す。
 
 アイリスという少女の魂は、もうバイオレッタの中から綺麗に消え去っていた。
 けれど、今でも時折彼女とエヴラールの記憶が脳裏をかすめる。
 薔薇園で幸せそうに語らう二人の姿。エヴラールの頭を膝に載せて、優しい歌を歌うアイリスの姿。
 だが、不思議と嫌な感じはしなかった。むしろ、アイリスがやっと自分の一部になったような、妙な一体感があった。
 
「わたくしとあなたは、本当に前世から結ばれていたのね」
「バイオレッタ……」
 感極まって、バイオレッタは涙を流した。
「もう、放さないで、わたくしを……。わたくしには、あなたでなければだめなの」
「……ええ。私にも貴女でなければいけません……。貴女以外の女性など、私はもう欲しくない」
 唸るように言って、クロードはバイオレッタの唇を強引に奪った。
「バイオレッタ……。貴女は私がこの生で得た、たった一つの宝物です……」
 吐息の合間に何度も名前を呼ばれる。
 口づけなどもう幾度も交わしているというのに、唇を重ねられるたびにいつも甘やかな震えが全身に走ってしまう。
 折り重なる吐息のヴェール、そして柔らかく食まれる唇に、バイオレッタは陶然となった。
 
 ……と。
「ははうえ……」
「……ジル!」
 びっくりしたバイオレッタは思わずクロードの胸を押しやった。
 桜の木の下に、一人の男児がちょこんとたたずんでいる。
 黒髪をおかっぱに切りそろえたその少年は、あどけない薄紫の目で抱きしめ合う二人の姿をじっと見つめていた。
「いやだ、ジルベール。ずっと見ていたの……?」
 幼い王子は無言のままこくりとうなずいた。
 
(……いやだわ、まさか子供に見られてしまうなんて)
 
 赤面するバイオレッタだったが、クロードはますます強く抱き寄せてくる。
「全く。あなたも隅に置けませんね、ジル」
「……」
 ジルベールは大きな瞳で黙ってクロードを見上げた。
 それが気に食わないのか、クロードは挑むように眉を跳ね上げる。
「……今日の勉強はどうしました? 王子として、あなたにはまだまだたくさん学ばねばならないことがあるでしょう」
「ちょっと、クロード……! 可哀相だわ」
「ですが、学ぶことの大切さは教えておかなくてはいけません。ジルはゆくゆくは貴女の後を継ぐ存在なのですよ」
「だけど、あからさますぎるわ。本当にすぐこの子にやきもちを焼いて……もう……」
 たしなめてから、バイオレッタは息子を見る。
 髪の色は帰ってくる前のクロードのそれで、双眸はバイオレッタ譲りのすみれ色だ。
 
 レシュノルティア、シネラリア、イベリス、リラ。
 そしてこのジルベール……。
 五人いる子供たちの中でも、ジルベールの容姿は一際目立っていた。
「罪人」と呼ばれていた頃のクロードの色彩を、そっくりそのまま受け継いでいたからである。
 他の四人の姉妹たちはみな美しい金や銀の髪を持っているのに、このジルベールの髪色だけがどういうわけか夜闇のような漆黒だった。
 瞳の色だけはバイオレッタと同じだが、ジルベールのこの黒髪は宮廷では嫌でも目立つ。王配の犯した罪をまざまざと思い起こさせるといって、何人なんびとからも忌み嫌われる。
 そのせいか、ジルベールはまだ幼いながらも周囲に対してどこか萎縮した態度を取りがちだ。時折自らの髪をつまんで寂しそうな表情をすることもある。
 母女王であるバイオレッタはそんな息子のことを可哀想だと感じていた。
 
 バイオレッタは、クロードの腕からそろそろと抜けだした。
「……いらっしゃい」
 手を差し伸べてやると、ジルベールは嬉しそうにその手を握る。
 ずっと無表情だったジルベールは、そこでバイオレッタに花開くような無邪気な笑顔を見せた。
「クロード、行きましょう」
 呼びかけて、バイオレッタは空いた左の手で夫の右腕を取る。
 彼は虚を突かれたように瞳を瞬かせていたが、やがてふっと微笑した。
「――ええ。私だけの女王陛下……」
 
***
 
 スピネルは、北区にある小高い丘の上からスフェーンの王都を見下ろしていた。
 ……アガスターシェの街中に可憐な桜の花びらが舞い散る頃。
 空にはひばりと駒鳥が悠々と飛び交い、真っ青な空の下、時折幸せそうな声で歌を歌う。
 足元ではすみれやタンポポといった野花が咲き、鼻腔をかすめる風はすっかり爽やかな春の匂いだ。
 こうして見下ろす王都アガスターシェは件の大火以前の活気を取り戻しつつあり、今日は大勢の民たちで大いに賑わっていた。
 さしかけた漆黒の日傘をくるくると回しながら、スピネルはきゃはっと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「んー、今日は一年の収穫を祈願するお祭りらしいけど、人が多くて結構なことねぇ。あーん、正体がバレないならあたしも参加したーい。露天商で売ってたあのお花の形の飴菓子が欲しいー」
「ふふ、いいよ。国の視察がてら一緒に回ろうか」
「ほんと!? わーい! ラズ大好きっ!」
 隣のラズワルドの腕にしがみつき、スピネルはむふふっと笑う。
 ラズワルドは動じるでもなく赤くなるでもなく、ただ穏やかに恋人の頭を撫でた。
 
 教皇ベンジャミンに提出するための報告書に、スピネルはそっと視線を落とした。
「罪人を赦す『赦しの聖母』……。バイオレッタ女王、ね……」
「この国に来るのは久しぶりだけど、随分と発展しているようだね」
 傍らのラズワルドに微笑みかけ、彼女は風に遊ぶ黒髪を手で押さえた。
「ええ。さすがは『聖なる御印の女王』だわ。目覚ましい繁栄を遂げているわね」
 
 スピネルは小さく笑った。
 ……『赦しの聖母』。
 バイオレッタ女王のこの尊称は、後世でもきっとみなに称えられるのだろう。
 バイオレッタは配偶者である男の罪と過ちを受け入れ、寛容なる心でもって彼を赦した。
 普通の人間であれば「愚者」と一蹴されるであろうその大らかさも、バイオレッタの前ではただの美徳と化してしまう。そして、人々は彼女のおもてに慈悲と深い愛とを見出す。
 
 邪神ジン討伐の場に居合わせたという事実、そして王配である男の過去と相まって、即位から数年が経過した今でも、バイオレッタのその尊称はまことしやかに語り継がれていた。
 今でもしばしば『赦しの聖母』への面会を求める人間たちが王城を訪れるほどだ。
 そんなバイオレッタの話は教会内部でもちょっとした語り草になっており、ベンジャミンは彼女に“名誉君主”として宝冠を贈呈することも考えているようだ。
 
「彼の――王配クロードのしたことは確かに赦されることではない。だが、バイオレッタ女王はすべてを赦した。皇妃アイリスを忘れられなかった彼の弱さも、千年もの間多くの人間を殺めてきたという事実さえ……」
「全く、大した子だわ。普通の人間ならまずあの執念に気づいた時点で引くでしょうけどね」
「ふふ。そこはやはり因縁や絆のなせる業なのではないかな? ジルベール王子がどんな王になるのかも、僕は少し興味があるけどね」
「まあ、あの二人の血を引く王子という意味では確かに興味深いわね」
 スピネルはふっと息をつくと、再度丘陵地帯のふもとにある王都を眺めわたした。
「……この国は、きっと他に類を見ないほどの素晴らしい国になるでしょう」
「そうだね……」
 丘の中腹部分にそびえ立つ王城を見つめ、彼女は流れる春風に言の葉を託す。
「……あの二人が、今度こそ幸福を謳歌できますように。あたしはずっと、願っているわ……」
 
***
 
 
『レーヌ・デ・ビオレッツ』の愛称で呼ばれたすみれ色の瞳の女王。そして彼女を生涯支え続けた美貌の伴侶の話は、のちの世まで長く語り継がれることとなる。
 
 女王は善政をき、国をよく治めた。
 彼女は先代国王リシャールの時代の悪政・悪習を次々と改めてゆき、当時迫害されていた忌み子たちに積極的に手を差し伸べたことによって大陸の民たちから絶大な支持と信頼を得た。
 果敢に異国の使者とも渡り合うようになった女王の傍らには、いつも最愛の男の姿があった。
 一時は「罪人」と批判された彼は、配偶者となってからは心を入れ替え、国のためにより一層力を尽くしたという。
 時に泣き濡れる女王の心に寄り添ったのは、いつも彼だった。
 彼は王配として――そして何より女王の一番の理解者として、どんな時でも彼女のそばに侍り続けた。
 彼は女王との間に一男四女をもうけ、女王のため子らのため、日々その知性と知識を活かして外交や政務の補佐に励んだ。
 
 子供たちの中でも、長姉レシュノルティアの美貌は大陸中に広く知れ渡るほどのものであり、二人はそんな彼女をアルマンディン王子リアリトスの妻として輿入れさせた。
 リアリトス王とレシュノルティア王妃は大陸黎明期における変革者としても名高く、特にレシュノルティア王女はアルマンディンの王妃となってからは母女王譲りの目覚ましい辣腕ぶりを発揮する。
 夫となった国王リアリトスは、「アルマンディンの若獅子わかじし」と恐れられた父・アスターに似て、聡明かつ武道に秀でたかの国の英雄的存在であった。
 
 再興されたアルマンディンでは“女王の懐刀”と呼ばれる数名の騎士が常に女王の補佐と護衛を務めていたが、中でも特筆すべきはその功績を認められてラロシェ公爵位を授かったアベルという青年だろう。
 友好国であるスフェーンから第二王女ミュゲをもらい受けた彼は、その後も宮廷随一の騎士として女王のために尽力し続けた。そののちは与えられた公爵領でおよそ五十年という短いその生涯を終える。
 幸福の絶頂から一転して寡婦となったミュゲは、その後も亡き夫に代わり残された公爵領を一人守ってゆくこととなるのだが、それはまた別の物語である。
 
 アルマンディンとの関係も修復され、スフェーンは今まで以上の勢いで繁栄していった。
 バイオレッタ女王は、第一王子ジルベールにその座を譲り渡してからは、金の髪の伴侶と共に王都郊外で静かな暮らしを送ったという。
 
 
***
 
 ……時は流れ、数百年後のエピドート。
 金の髪の少女が元気よく声を上げた。
「ねー、ベアトー! バイオレッタ女王の話を聞かせてよ!」
 少女は溌溂とした声音で言い、携えた絵本を勢いよく上に掲げた。
 それに応えるのは黒髪の淑やかな娘だ。
「あら……また? ふふ。飽きないわねぇ、マッジ。そんなにあのお話が気に入ったの?」
「うんっ! だってロマンチックだもん。『しんでれらすとーりー』って、ある意味こういう感じなんじゃない?」
「そうね。でも、彼女はただ守られているだけの女の子じゃなかったのよ。たとえばね……」
 本を広げ、少女たちは物語に酔い痴れ始める。
 
 
 何年経過しても。たとえそこが異国の地であっても。
『彼女』の物語はとこしえに愛されつづけてゆく。
『彼女』の存在と努力を忘れない者たちが、そこにいる限り……。
 
 

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