第十二章 外れた歯車

 
「――火の神アイン! 絶対にお前を、仕留めてみせる!」
 スピネルのその宣告に、力強い声で応えるものがあった。
「よく言った、ルヴィ隊筆頭騎士スピネル」
「アベル君……」
「俺があいつの足止めをする。だからその間お前たちは少しでも多く時間を稼いでくれ。詠唱している俺に攻撃するタイミングをけして与えないようにな。これは大掛かりな術式だ、お前たちの援護が絶対に必要だ」
 その言葉に、アベルの傍らに立つユーグがはっと息をのんだ。
「お前まさか――」
「そのまさかだ」
 
 断言するアベル、険しい面持ちで黙してしまうユーグ。
 バイオレッタは緊迫した二人の様子に固唾を呑んだ。
 一体何が始まろうとしているというのか。
 アベルは一体何をしようとしているのだろうか。
 
 ユーグはしばし視線だけでアベルの瞳の色を探っていたが、ややあってからしっかりとうなずいた。
「……わかった」
「――スピネル! 話は聞いてたな? お前の騎士たちを術式の発動までめいっぱい働かせてくれ! けして邪魔を入れさせないように頼む!」
「わかった!」
 スピネルは乾いた唇をちろりと舐め、次の瞬間勢いよく片手を掲げて命令を下した。
「ルヴィ隊はワイバーンの討伐を! サフィール隊は槍と捕具ほぐで邪神を包囲して動きを封じて! 弓術師たちと魔導剣士たちは後方で支援を! あいつに肉体を蘇生させるわずかな時間も与えないで!」
 
 瀕死のラズワルドに代わり、スピネルは部下たちに素早く指示を出した。
 騎士たちはじりじりと間合いを取りながら邪神に狙いを定める。
 その間にもルヴィ隊の魔物たちは得物を手にワイバーンを追い詰めてゆく。
 
「――よし、仕切り直しだ、行くぞ、ユーグ!」
「ああ!」
 二人は正反対の方角へ駆け出した。
 すなわち、ユーグはまっすぐにアインのもとへ。
 そしてアベルは彼らから大きく距離を取った神殿の際へ。
 騎士たちとユーグがワイバーン相手に奮闘する中、アベルは自身の剣を引き抜いて詠唱を始めた。
「我は湧き出でる者、悠久を流れる者――」
 滔々と詠唱を続けるアベルの額に、大粒の脂汗が浮かぶ。
 時折呼吸を浅くしながらも、アベルは文言を唱え続ける。
銀波ぎんぱのきらめき、滝つ瀬の逸り。我はこの地を駆け巡るすべての奔流、魂の根源――」
 アベルは長剣の先をすっと掲げ、声高に叫んだ。
「わが契約の証において、その崇高なる姿をここに現せ。水の化身よ、顕現せよ。――出でよ、水神ヴァーテル!!」
 アベルの背が一瞬強く光り輝いたと思った、次の瞬間。
 彼の背から清澄までの純白の輝きが生まれる。
 広がった一対の両腕、そこに纏いつく穢れのない真珠色のキトン。
 まっすぐな銀の髪と、ゆっくりと開かれるアイスブルーの双眸。
 
(あれは――!)
 
 アベルの背から生まれた真白き光は、そのまま一人の女性の姿を取る。
 癖のない銀の髪とアクアマリンの瞳を持った、世にも美しき女性の姿を。
 女性はバイオレッタの方をちらと見て穏やかに笑んだ。
 
 ……水の女神ヴァーテル。
『絵画の世界』に閉じ込められたバイオレッタを、元の世界へと導いてくれた存在もの――。
 
『わたくしを召喚したのはあなたですね、我が依代よ』
 ジン神殿に降り立った女神ヴァーテルは、依代のおとがいをそっと持ち上げて言った。
「はい。水の女神ヴァーテル様。いいえ……エイレーネ様」
 真名を呼ばれ、ヴァーテルは一瞬柔らかい笑みを見せる。
 彼女は周囲の惨状に目を走らせるなり、硬い声音で告げた。
『――火の神による暴虐の地に、わが救いの手を差し伸べましょう』
 ヴァーテルが手をひらめかせるなり、祭壇の間に漂っていた陰鬱とした空気が瞬く間に和らいでゆく。
 同時に祭壇で燃え盛っていた炎の威力が明らかに弱まり、勢いを失くしてごく小さな種火に変わる。
 そして、広間の随所で暴れまわっていたワイバーンたちが見る見るうちに石化してゆき、ただの冷たい石像へと戻ってゆく。
 ヴァーテルの力の影響は、むろんこの神殿の主であるアインにまで及んだ。
「く……、エイレーネ……ッ!! わが火の気を弱めたか!!」
 そう悪罵するアインの様相はたちまち変化していった。
 見事な肢体が無惨にもどろどろと崩れ、醜く萎んだ小さな漆黒の炎へと変貌してゆく。
 美しい女の姿を取れなくなったアインに向けて、ヴァーテルは無機質な表情のまま淡々と訊ねる。
『哀れね、アイン。今の貴女にはもうその姿を保つことさえ困難なはず。それでもまだわたくしに歯向かうというの?』
「当然だ!! お前に勝つこと、それがわたくしの存在意義なのだから!!」
『そう。では此度もおとなしくわたくしに封印されるしかないわね。この大陸における“信仰の力”から鑑みれば、貴女とわたくしではわたくしの方が遥かに優位なのだから』
「どこまでも癇に障る女め……!!」
『原初の時代、貴女はまだただのわたくしの可愛い妹でしかなかった。なのに、貴女はこれまで散々道を違えてきた。その力を破壊と殺戮に用い、人の子との色欲に溺れ、ただの“創造神の娘”ではなくなってしまった。……ならば、貴女の裁きは姉であるわたくしが下しましょう。次なる火の神が現れるまで永久の眠りに就くがいいわ』
「この――!!」
「さてと……、もう一発だ!」
 アベルはそこでさらなる詠唱を始める。
 掌から伸び広がる薄水色の魔力の源を、アインの足元めがけてまっすぐに集結させてゆく。
 ほの青い魔力の軌跡が、ぐるりとアインの周囲を取り囲む。
 魔力が完全にアインの周囲を囲んだところで、アベルはぱちんと指を鳴らした。
「……魔力の環よ、閉じよ!」
 刹那、アイスブルーの魔法陣がアインの足元に綺麗な弧を描いて完成した。
 魔法陣の周囲には魔導士たちが用いる特殊な文言がびっしりと連なり、その合間には一風変わった造形の古代文字がぽつぽつと浮かび上がっている。
 アインはその鮮烈な輝きに顔を歪めた。
「く……、なんだ、これは――!?」
 狼狽するアインを一瞥するなり、アベルは宗教騎士たちに言い放つ。
「足止めの術式だ! 効力が切れるまで、そいつはその魔法陣から一歩も外に出られなくなる! 再生能力を使われる前に叩け!」
 叫び終えるなり、アベルはその場にがくりとくずおれた。
「アベル!!」
 クララはアスターとともに兄のところへ駆け出した。
 おろおろとその顔を覗き込む妹に、アベルは彼女を励ますかのようにごく小さく笑ってみせる。
「なんでもない……、ちょっと力を使いすぎただけだ。別にお前たちが心配するようなことじゃ……」
「アベル、アベル……ッ」
「ここで死んだら許さない。クララのためにも生きてくれ……!」
「はは……、これくらいで死ぬわけないだろ……、馬鹿だな……」
 アスターとクララは二人がかりでアベルの身体を支え、乱闘の繰り広げられている場所から彼を遠ざける。
 神殿の壁にアベルの身体をもたせかけると、二人は憔悴している彼を庇うようにその傍らに寄り添った。
 
 変貌したアインを前に困惑する騎士たちに向けて、アベルはぴしゃりと言い放つ。
「そいつは最後の魔力を振り絞って凶暴化しているだけだ!! 見かけ倒しなだけで、お前らをどうこうするだけの力はもう残ってない!! そのまま仕留めろ!!」
「邪神ジン! そろそろ片をつけさせてもらうわよ!」
 スピネルはそう宣言し、騎士たちの援護を受けながら異形化したアインと対峙した。
 アインはすっかり化物の姿となっていた。顔はいびつにひしゃげ、胴体からは無数のいびつな腕がいくつも生えている。
 漆黒の焔を纏ったそれは、幾本もの強靭な腕を大きく振り回しながら遮二無二騎士たちに襲いかかってきた。
「くっ……、人間の姿を取っていた時よりリーチが長くなってる……! これは迂闊に近づけそうにないわね……!」
 短剣が得物のスピネルでは、戦闘はどうしても相手との接近戦となる。
 槍や長剣の使い手である騎士たちに援護されながら、彼女は慎重に距離を詰めてゆく。
 なんとかヴェレーノの毒を見舞えればいいのだが、不気味に生えそろった腕が間合いを詰めさせるのを許さない。
 ようやくヴェレーノの切っ先がアインの胴に到達しようかという時、巨大な異形の腕がスピネルの細い身体を易々と弾き飛ばした。
「きゃああああっ――!!」
 スピネルが悲鳴とともにしりもちをついた矢先、紅髪の少女が颯爽とアインの前に躍り出た。
「あんたには世話になったからね、今度はあたしが助ける番よ!」
 ピヴォワンヌだ。
 彼女はアインのやみくもな斬撃を軽やかにかわし、今やただの醜悪な怪物となっているその肉体に鋭い一撃を叩きこむ。
 長剣の切っ先を小気味よくひらめかせ、アインに隙ができたタイミングを見計らって次々と攻撃を仕掛けてゆく。
 切れの良い剣さばきに翻弄され、アインの動きはしだいに鈍く弱々しいものとなっていった。
 夜陰の中、ピヴォワンヌの操る白刃のきらめきが星屑のようにちかちかと躍る。長い芍薬色の髪を靡かせ、時折アインの猛攻をかわしながら、彼女は勇猛果敢に立ち回った。
 
 スピネルは自らも彼女の反対側に回り込むと、紅い唇の端を不遜に持ち上げてみせた。
「……あら、光栄ね。まさかスフェーンの姫君に邪神討伐にご助力いただけるなんて」
「当たり前でしょ。こいつはあたしにとっての敵でもあるんだから」
「上等……、だからあたし貴女が好きなのよ」
 軽口を叩き合い、二人は凶暴化したアインを巧みに追い詰めてゆく。
 ピヴォワンヌの攻撃によってアインが大きくのけぞったところを、スピネルは連続して斬りつけた。
 ヴェレーノの猛毒によってアインの勢いが弱まったところで、スピネルは声を上げる。
「今よ!」
「はあああああっ!!」
 ヴァーテルの神力が宿った長剣を、ピヴォワンヌはアインの胴の中心部に突き立てた。
 身に纏う漆黒の炎がざわりと蠢き、彼女は声にならない声を上げる。
 ヴェレーノの毒、そして封じられていたヴァーテルの神力が致命打となり、アインの身体は黒い火の粉を散らして霧散した。
「……彩月。あたし、ちゃんと戦えたわよ」
 手首につけた翡翠の腕輪を指先でなぞり、ピヴォワンヌはほのかな笑みを浮かべた。
 
 
「ぐ……、あ、あああああ……ッ!!」
 アインは水の神力をその身に受けて激しく喚いた。
 低く呻きながら悶絶し、神殿の床の上を無様にのたうち回る。
 もはやその影はひどく薄いものになっており、見た目もかつての美しく凄艶な女性の姿とは似ても似つかないほど崩れてしまっている。
「ぐ……、なんたる様だ……! このわたくしが、人の子ごときに……!」
 精気を失って醜い老婆の姿となったアインは、床に転がっていた漆黒の長剣を支えに身を起こす。
 そこで彼女はにやりと笑った。
「死ねぇっ――!!」
「……バイオレッタッ!!」
 数々の陰惨な光景を目の当たりにしてすっかり憔悴しきっていたバイオレッタは、アインの魔手に気づくのが遅れた。
「――!」
 黒い剣の切っ先が眼前に迫る。
 アインは残忍な微笑とともにバイオレッタの懐へ飛び込んできた。
 
 ああ、もう駄目だ――。
 自分はこのままここで殺されるのだ。
 そう感じてバイオレッタがぎゅっと目をつぶったとき。
 
「……姫っ!!」
 刹那、アインの持つ長剣の先がクロードの胸を突き破った。
「ぐ、う……っ!!」
(え――)
 均衡を失ったクロードの身体、そして自身の頬に散った生温かい鮮血に、バイオレッタは硬直した。
 次の瞬間、背と後頭部をしたたかに打ち付け、めまいに顔をしかめる。
「ご無事、ですか……、姫……」
 恐る恐る視線を上げれば、そこには虫の息となったクロードがバイオレッタに覆いかぶさる形で倒れ込んでいた。
 あまりの事態に、もはや叫ぶこともできない。
「……クロード様っ! いや、どうして……っ!?」
 呼びかけると、クロードは荒い呼気のままふっと笑う。
「いけませんよ、姫。臣下に同情など……」
「どうして!? なんで……っ……」
「貴女は私とは違うのです……。生きねばならないお方だ……、私のような死人とは違うのですから……」
 倒れ込んでくるクロードの胸は鮮血でべったりと赤く染まっていた。
 そのぬるりとした嫌な感触にひっと息を呑み、次いでそんな自分を懸命に律する。
「なんで、なんで……こんな……」
「このッ……、最後の最後まで女を庇うか!!」
 アインは老婆の声で激昂し、倒れ伏すクロードを容赦なく足蹴にする。
 バイオレッタはとっさに彼に覆いかぶさり、アインの残虐な振る舞いから彼を庇った。
「もうやめて!! この方をこれ以上傷つけないで……!!」
「……何!?」
「この方は貴女の傀儡なんかじゃない……、れっきとした人間の男の人です!! この方に、もうこれ以上酷いことをしないで……!!」
 
 その時、ざしゅり、という音がして、アインの身体が背後から袈裟懸けに斬りつけられる。
 ……アベルだった。
 
「……よく言った、第三王女。お前もお前だ、火の邪神ジン。こいつらにこれ以上野暮な真似するんじゃねえ」
「アベル様……!」
『あああああああ――ッ……!!』
 アインは今度こそその姿を失った。
 老婆の枯れた肉体が燃え尽き、さらさらとした細かな灰燼と化す。そして神殿の天井へ溶けるように消えてゆく。
 “邪神”と呼ばれた火の神ジンの、完全なる消失だった。
 そのままどうと倒れ込んだアベルに、クララは赤い目で泣きついた。
「アベル、アベルッ……!!」
「……役目は果たした……、しばらく休ませてくれ……」
 クララはこくこくと何度もうなずき、床にうずくまるアベルの手を強く握りしめた。
 
 バイオレッタはクロードの身体を神殿の床に寝かせると、蒼褪めたそのおもてを覗き込んだ。
「クロード様……っ」
「姫……」
「今助けて差し上げます……! だから、諦めないで……!」
「姫……。もうよいのですよ。この身体はとうに終焉を迎えようとしています。どうか、泣かないでください。私の最後のお願いです」
 バイオレッタはふるふると何度もかぶりを振る。
 何せクロードはアインの魔の手から二度もバイオレッタを庇ったのだ。
 それを知っていて動じるなという方が無理な話だった。
「ごめんなさい……。ごめんなさい、クロード様……! わたくしが逃げなかったばっかりに……!」
 バイオレッタはあとからあとから溢れてくる涙を強引に手の甲で拭い、肩を揺らしてしゃくり上げた。
「姫、泣かないで……」
 クロードはかすれた声でつぶやき、瞳を閉ざしてごほごほと咳き込んだ。
 その唇から溢れたあけの色に、バイオレッタはぎゅっと身をすくませる。
 
 最愛の妃に先立たれてから、千年の間ずっと彼女の転生の時を待っていたクロード。
 彼の本当の望みは、アイリスとともに死の国へ召されることだったのだろう。
 だが、煮えたぎるような強い憎悪がその願いを上回ってしまった。
 ジンに手を貸し、ひとたび復讐という道を選んでしまった彼に、もはや「死ぬ」という選択肢は残されていなかった。
 そして今、彼は死ぬ。最愛の妃の生まれ変わりである少女を助けたことによって。
 
(……なんて皮肉な筋書きなの)
 
 クロードの――エヴラールの運命はあまりにも残酷すぎる。
 愛する皇妃アイリスと、ただ平穏に暮らすこと。彼女を愛し、二人だけの幸福の世界に揺蕩うこと。
 それがエヴラールの真の望みだったのだろう。それは、とてもささやかな、愛おしむべき願いだ。
 しかし、二人の宿命がそれを許さない。
 エヴラールとアイリスの世界は、一瞬いたずらに触れることはあってもけして一つにはならないものなのだ……。
 
 二人の別れを思い出してしまい、バイオレッタの頬を幾筋も涙が伝う。 
「……っ……!」
『泣かないで、バイオレッタ……』
 悲しみに打ちひしがれるバイオレッタに、アイリスの声が静かに語り掛ける。
「アイリス様……」
『彼はまた生まれ変わるの。転生したわたくしが貴女になったように……。だから、今度は彼ではなく貴女が待つ番よ。エヴラール様……いいえ、魔導士クロードが生まれ変わってまた貴女と出会える日を』
 そうだ。クロードはずっとバイオレッタが生まれてくるのを待っていた。それはきっと、孤独で誰にも理解されない、永遠にも等しい時間だったはずだ。
 だから、待ち続けられる、と思った。彼が帰ってくるというのなら、そんな時間だって苦痛ではないだろうと思えるから。
 けれど――
 バイオレッタはふるふると首を横に振った。
「駄目……! だって、わたくしが好きなのは、クロード様なの……!」
 バイオレッタはだらりと横たえられたクロードの手に、自身のそれをそっと乗せた。
「転生した『誰か』じゃいや! だってわたくしは、ここにいるクロード様を愛しているのですもの……!」
 そう泣き叫んだバイオレッタは、そこでやっとこれまでのクロードの気持ちがわかった気がした。
(あなたもそうだったのでしょう? アイリス様が転生によって記憶をなくすのは耐えられなかったはず……。ううん、きっとそうなんだわ……)
 待ち続ければ確かにいつかきっとまた出会えるだろう。
 けれど、それは恐らく「クロード」ではない。「クロード」と同じ魂を持った「別の誰か」だ。
 バイオレッタのことも、二人で過ごした時間も、交わしたいくつもの愛のささやきも。バイオレッタとのすべてを綺麗に忘れた「別人」なのだ。
 バイオレッタは涙で濡れた顔をくしゃりと歪めた。
「いや、クロード様……! 行かないで……! わたくしを、置いていかないで……っ!」
 うなだれてクロードの手をそっと握りしめるバイオレッタに、アイリスは優しくささやきかける。
『それほどまでに、この方が好きなのね……。きっと、彼も同じだわ。もうこの人はエヴラール様ではなくて、ただの“クロード”なのでしょう。ねえ、そうなのでしょう……、愛しい方……?』
 
 
 アイリスの語り掛けに、クロードは荒い息のまま反応する。
「……アイ、リス……」
 クロードの手が、目に見えないアイリスの姿を追うようにふらふらと宙をさまよう。
 バイオレッタはその手を取ってきつく握りしめた。
 すると、彼はそこでほのかに自嘲する。
「『依代』は、その神の消滅によってすべての契約が無に帰されるという……。私はもう、終わりなのですね……」
「終わりなんかじゃありません……! だって、わたくしたちはやっとお互いをわかり合えたのに……! やっと、あなたの本当の顔に触れられたのに……!」
 泣きじゃくるバイオレッタの頭を、クロードはなだめるように撫でた。
「いいえ……。ひとたびアイン様と契約を交わした私に、もはやただの人に戻るという選択肢は残されていません……。これが、邪神と呼ばれる存在に加担した私の末路なのでしょう……」
「そんな……!」
 は……と荒い息をつき、クロードは虚空をぼんやりと見つめる。
 切羽詰まったような吐息に混じって聞こえてきたのは、信じられない一言だった。
「……バイオレッタ。私は、貴女のことを心の底から愛していました」
「え……? だって、あなたはアイリス様のことを――」
 クロードは、そこでやんわりと首を振る。
「ふふ……。白状しましょう、姫……。いつからか、アイリスではなく貴女という女性そのものを好きになっている自分がいたのです……。最初に惹かれたのは、アイリスと同じ輝きを持った、その瞳……。ですが段々と、『バイオレッタ』という少女から目が離せなくなっていきました」
 彼は激痛に顔をしかめながらも、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「私の想いは、とうの昔に貴女へのものに変わっていた。それを、私は貴女に告げられずにいた。想いを告げて自分に正直になってしまったら、きっとこの復讐は果たせなくなると……。貴女を愛しすぎてしまえば、きっと私はこれまで生き永らえてきた意味を失うと……」
「クロード様」
「苦しかった……。本当は、貴女を素直に愛したくて……、貴女を私だけのものにしたくて……」
 バイオレッタはすみれ色の瞳に涙を溜め、クロードの手の甲に頬ずりをした。
 彼の素肌はとうにぬくもりを失っていた。
 そこに熱を点すように、バイオレッタは必死で肌を触れ合わせる。
 手を握り、頬を擦りつけて熱を分け与えようとする。
「……最初に見た貴女は、まだ赤子でした。それも、憎い王妃エリザベスの娘。その中にアイリスの魂を見つけたときは、なんという皮肉だろうと思ったものです。ですが、次にアルバ座で再会した時には戦慄が走りました。とても美しく成長していた上、内包されたアイリスの魂がより強く感じられるようになっていたからです」
 喘鳴とともに告白し、クロードはバイオレッタの頬に触れた。
「ですが、貴女はアイリスのようなしっかり者ではありませんでした。どこか夢見がちで、春の陽だまりのように優しくて。そして己の価値というものにまるで無頓着な方だった。だからこそ、私が守って差し上げなくてはと思ったのです」
 ごほ、と咳き込み、クロードは空笑いする。
「はは……守るなどと、どう考えてもおこがましいですね。私は所詮、貴女を傷つけることしかできない存在だったというのに」
「そんなこと……!」
 首を打ち振るバイオレッタの頬を撫で、クロードは黄金の双眸でしっかりとバイオレッタを捉えた。
「ねえ、姫……。私は、貴女を待っていてよかったと思います……。今を生きる貴女の懸命さと力強さが……、私に生きることの素晴らしさを、もう一度味わわせてくれたから……。死人であるはずの、私に……」
「クロード様……」
 バイオレッタの乱れた銀髪に優しく手櫛を通しながら、クロードは瞳を細めてささやいた。
「私の、私だけのバイオレッタ。次の生でも貴女とともにありたい……。たとえ名もない花に生まれるのでもかまわない、貴女がその手で摘んで、ずっとそばにおいてくれるなら。たおやかな笑顔を見せてくれるのなら。私は、貴女といられるなら、復讐も宮廷での駆け引きも……本当は全部、どうでもよかった」
 彼の唇がゆっくりと笑みを形作るのを、バイオレッタは息が詰まるような思いで見つめた。
 
 それは、あまりにも安らかすぎる笑顔だった。
 この世のしがらみから解き放たれた者特有の、安らかで儚げな笑顔だった。
 
 淡雪が融けるような微笑みを浮かべ、クロードは余力を振り絞ってバイオレッタの指先を握りしめる。
「バイオレッタ。私を、待っていて下さい……。次にお会いできたら、また一緒に色々なものを見ましょう。今度は、間違えません。貴女とずっと、幸せに……。ずっと……」
「いや、いやです……、いやぁ……、クロード様っ……」
「さようなら、私の姫。バイオレッタ。貴女のおかげで、私は最期まで幸せでした」
 絡んだ指先が、するりとほどける。
 クロードは、そのまま静かにまぶたを下ろした。
「いやあっ!! クロード様ぁっ……!!」
 バイオレッタは、動かなくなったクロードの身体にしがみついて嗚咽した。
「なんで! なんでこの方が死ななくちゃいけないの!? どうして……っ!」
「バイオレッタ……!」
 ピヴォワンヌが静かに背をさすってくれているのがわかったが、今のバイオレッタにはそれに応えるだけの気力がなかった。
「クロード様……っ!」
 
 クロードと重ねてきたこれまでの思い出が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
 アルバ座で初めて出会ったときのこと。彼と初めて口論をしたときのこと。
 舞踏会での親密な触れ合いと、胸躍るようなダンスの手ほどき。人目を忍んで交わしたいくつものキス。
 強すぎる愛が引き起こしたすれ違いと、彼がずっと胸の裡に秘めてきた闇。
 そして、千年前の彼とのあの幸福な日々――……。
 ようやくすべてが理解できたというのに、まさかこんな形で別れを迎えるとは思いもよらなくて、バイオレッタはぽろぽろと涙をこぼした。
 
 そこでバイオレッタは、いつかピヴォワンヌに言われた言葉を思い出した。
 
『泣けるならたくさん泣いていいと思うわ。その方が死んだ人だって喜んでくれるわよ』
 
(今は、泣いている場合じゃない。でも、きっと、今しかこんな風には泣けない……)
 
 バイオレッタはクロードの胸に顔を埋め、静かに涙を流した。
 クロードの上着からは、鉄錆の匂いに混じって相変わらずあの匂い菖蒲の芳香が漂っていた。
 むせるように甘く、それでいてどこまでも繊細な香りが。
 それに郷愁を掻き立てられると同時に、千年という途方もない年月を旅してきたクロードのことを思う。
 たった一人で空白の時を生き続けてきた彼のことを。
 
 バイオレッタはそろそろと顔を上げ、人としてのぬくもりを完全に失ったクロードの頬に触れた。
「ありがとう……クロード様。わたくしの、初恋の人。あなたが守ってくださったから、わたくしはここまでやってこられました……。あなたからいただいたすべてのものが、わたくしの宝物です。生涯忘れがたい、大切な記憶……」
 死という事実から目を背けたくなるのを堪え、バイオレッタはその生涯を終えたクロードの頬に別れの口づけを落とした。
「わたくし……、待ちます。あなたがわたくしのところへ戻ってきてくださる日を。あなたがかつてそうしたように。できるはずですわ、今のわたくしなら……。どんなに姿が変わってしまったとしても……、わたくしは必ずあなたを見つけ出します」
 顔を上げると、バイオレッタはいつもそうしていたように、そっとクロードに微笑みかけた。
「だから今は、安心して眠ってください、クロード様。もう誰も、あなたの眠りを邪魔しませんわ。どうか、安らかに……。次に目覚める日が来るまで……」
 今度こそ、天の国で彼が安らかに眠れますように。
 そんな思いを込めて、バイオレッタは動かなくなったクロードの骸を力いっぱい抱きしめた。
 
 

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