第三章 異変

 
 ……その夜、リュミエール宮のあちこちを当て所なく散策していたリシャールは、ふと歩みを止めた。
 冬の満月を見上げて息をつく。
「……あれからもうすぐ一年、か」
 再度嘆息し、ステッキに重心を預けたままうつむく。
 霞がかったような淡い色彩の朧月。
 その薄ぼんやりとした輪郭を捉えながら、白く凍えた息を吐く。
 もう、冬なのだ。バイオレッタやピヴォワンヌがこの宮殿に戻ってきてから早くも一年の時が経とうとしているのだ――。
 だが、そんな感傷は自らを食い締める茨のごとき焦燥と陰鬱に瞬く間に押し流されていった。
 
 ――謎の昏睡状態にあった第一王女オルタンシアが突如として目を覚ました。
 リシャールがその報せを聞いて彼女のいる部屋に飛び込んでいったのは言うまでもない。
 寝台の上に身を起こした彼女は、何事もなかったかのようにリシャールに向かって微笑んだ。
『ご心配をおかけいたしました、お父様』
 半年ぶりに目の当たりにするオルタンシアは血色こそ悪かったものの、言動そのものは最後に言葉を交わした時と何ら変わらないままだった。
『そなた……起き上がっていてよいのか!? 半年もの間眠っていたというのに、そのように動いて大丈夫なのか!?』
『はい。わたくしの身体はなんともありませんわ』
 リシャールは眉をひそめたが、オルタンシアの口からなんともないなどと言われてしまえば黙っているしかない。
 魔導士たちは仮死状態にあるとしか言わなかったし、こうして今まで通りに息をし、言葉を発しているオルタンシアの姿を見るにつけ、ひとまず身体に決定的な病や欠陥はなさそうだと感じる。
 しかし。
『わたくしなら大丈夫ですわ。ご心配には及びません』
 頑なにそう繰り返すオルタンシアの姿に、リシャールは狐につままれたような気分になった。
 半年もの間謎の昏睡状態にあって「何もない」とは一体どういうことなのだろう。
 こちらは陰謀か異端分子の仕業かと気をもんでいたというのに、本人は口を閉ざしたきりで、昏睡の発端となった出来事すら語ろうとしない。
 そのことを、リシャールは不審に思った。
『……何があった』
 痺れを切らしてとうとうそう訊ねたリシャールに、オルタンシアは「何も」と言った。
 どこまでも真相を語ろうとはしない彼女に、リシャールは声を荒げる。
『何もないとはどういうことだ! このように長い間意識を失っていたというのに、何事もなかったわけがあるまい!?』
 いきり立つリシャールを傍らの宮廷医がなだめる。
 オルタンシアは口をつぐんだが、やがてぽつぽつと話し出した。
『……ですが、本当に何もなかったのです。わたくし自身、陰謀に巻き込まれたのでもなければ死を望んだわけでもない……、本当にただ眠っていただけなのですから』
『そのようなおかしなことがあるものか!!』
 オルタンシアはそこでふいにリシャールの隣に立つ宮廷医を一瞥する。
『でも、実際にそうした症例はあると聞き及んでいますわ。ねえ、そうでしょう? 先生』
『確かにそうした症例もございます。オルタンシア姫の場合、こうして無事にお目覚めになられたこと自体が奇跡のようなものです』
『そう……なのか?』
『はい。このように長い期間昏睡状態にあっては、患者の意識を覚醒させること自体がそもそも難しい。身体に損傷もなく、言語機能にも障害がみられない。これはきわめて稀なケースですよ』
 だが、彼女が非常に長い間昏睡状態に陥っていたのは紛れもない事実である。
 一瞬、親としてはその原因を突き止めてやるべきなのではないかとも思ったが、彼女の恐縮しきった様子を見るにつけ、それは無意味だろうという結論に達した。
『……僕がそなたにしてやれることはないということか』
 おずおずと訊ねると、彼女は「とんでもございません」と首を緩く振る。
『お父様には大変よくして頂いています。これ以上望むことなどありませんわ』 
 だが、そののちに彼女は思いもよらないことを口にした。
 絶句するリシャールに、オルタンシアは恐縮した様子で何度も「ご期待に沿えず申し訳ございません」と頭を垂れた。
『……相分かった。よくよく養生せよ』
 言い置いて、リシャールは静かにオルタンシアの部屋を出た。
 
「……一体どういうつもりなのだ、オルタンシア……」
 リシャールは忌々しげに息を吐く。
 オルタンシアは、女王選抜試験を降りると言った。
 リシャールが何度説得しようとしても無駄だった。
 彼女は「わたくしのような者には女王候補でいる資格はありません」と言い切り、リシャールの期待にはもう応えられないといって唇を引き結んだ。
 自分の言うことを頑として聞き入れようとしないその態度に若干の違和感を覚えたリシャールだったが、その顔つきがいやに毅然としたものだったので追及するのはやめることにした。
 ――恐らく何かがあったのだ。
 女王候補として戦い続けられなくなるような、何らかの出来事が。
 その証拠に、ヘッドボードにもたれる彼女はどこか寂しげな顔をしていた。
 ……寂しげな、それでいてどこか吹っ切れたような顔。
 それが、リシャールの脳裏に強く焼き付いている。
 リシャールは朧月を見上げてふっ……と真白い吐息を吐いた。
「僕の身体は一体あとどれだけ今のままでいられるのだ……。次の女王を決める手立てもなく、王宮は荒れに荒れ、唯一心を許した寵臣は僕の王女と添い遂げたいなどと言う。僕は一体、どうすればよいというのだ……!」
 こんなつぶやきを聞けば、「やはり王は自分の身だけが可愛いのだろう」と言って嘲笑う者もいるのかもしれない。
 だが、未来がないというのはどうしたって怖いものだ。
 それはもはや本能的な恐怖といってよかった。
 リシャールの命はこのままでは死の神のものとなってしまう。
 クロードは死神があなたに手出しなどできるわけがない、あなたなら神の恩寵さえ受けられるはずだと言う。
 だが、もしもそれが真実ならば、リシャールは今頃とっくに成熟した身体を与えられているはずではないのか。とっくに呪いは解けて肉体の針が時を取り戻しているはずではないのか――……。
 
 リシャールは立ち止まると、端整なおもてに自嘲の笑みを刻んだ。
「ふふ……。僕は神に見放され、死神に好かれた王だ。こんな人間のことなど誰も尊敬してなどいまい。暗君などと呼ばれてしまうのも道理かもしれぬな……」
「――あら、あたしは結構王様のことが好きなんだけどなあ」
 そう言ってひょっこりと顔をのぞかせたのは、なんとスピネルだった。
 石柱の影でずっと聞き耳を立てていたらしい、彼女は闇に溶け込むような漆黒のショートドレスを翻すとリシャールの前にまろび出てきた。
「なっ、そなた……!」
「うふふ、王様の独り言って意外にカワイイのねー。お姉さんどきどきしちゃった」
「や、やめろ……。からかうのはよせ……!」
 つんつん、と頬のあたりをつつかれ、リシャールは彼女の手を振り払う。
「連れの若い騎士はどうした。今夜は一緒ではないのか」
「うん、ラズはあたしと違って昼型人間だからもう寝ちゃってるわ。こんないい月夜にもったいないけど、起こさないで置いてきちゃった」
「それがよかろう。しっかり寝かせてやれ」
 二人はそのまま宮殿の廊下をゆっくりと散策した。
 スピネルにリュミエール宮の名所をくまなく案内してやり、時折中庭やテラスといった外と通じる場所へ出たりしながら、リシャールはつかの間の自由を満喫した。
 夜闇に支配された宮殿の中は水を打ったようにしんとしていた。官吏や女官がひしめく昼の様相とは大分趣を異にしている。
 闇のヴェールが音もなく引かれた漆黒の世界の中、このバンパイアの少女とたった二人きりで閉じ込められてしまったような気さえする……。
 宮殿の中庭に面した回廊に差し掛かったとき、スピネルは真横からリシャールの顔を覗き込むようにして訊ねてきた。
「……王様は、エリザベス様が亡くなったとき悲しかった?」
 リシャールは思いがけない問いかけにぎくりとしたものの、すぐにふっと笑ってみせる。
「……ああ。伴侶が死んで悲しくない人間などおらぬ。この世で流す涙はあやつのためにすべて流しつくした。それくらい愛していた」
 そこでふと、リシャールは琥珀の双眸を細める。
「いや……、今にして思えば、僕は単純にあやつを失いたくなかっただけなのかもしれぬな。自分のことを理解し、無条件に許してくれる存在として、必死でしがみついていただけなのだろう。だから泣いてしまったのかもしれない。あれほどまでに自分を受け入れてくれる人間というのがそれまでいなかったから、あやつがもうそばにいないということが心細かっただけなのかもしれぬ……」
「……」
 スピネルはしばらく黙り込んでいたが、ややあってからぽつりと言った。
「あたしもずっと昔、大好きだった伴侶を亡くしたことがあるの。同じ一族の人だったけど、魔物狩りで命を落としたのよ」
 息をのむと、からりと笑い飛ばされる。
「まあ、よくある話よ。魔物にはそうした死がつきものだから。それから何度も何度も恋はしたけれど、やっぱり一生を誓い合った相手っていうのはなかなか忘れられないものでね。自分の半身が無理やりぎ取られたような気がして悲しかったっけ」
「その……ラズワルドとかいうあの騎士とはどうなのだ? 見たところ仲良くやっておるようだが……」
 気になって訊ねると、スピネルは小さく肩をすくめた。
「まあね、それなりにね。だけど、絶対に別れなんて来るからね。種族が違えば尚更よ」
 柘榴のような紅い双眸が、月明かりを受けて鈍く輝く。
 スピネルは前を向いたまま、夜闇に溶け入るような柔らかい声音で言葉を紡いだ。
「あの子があたしを好きだって言ってくれるのは嬉しいけどね。それでもあたしはいつかあの子を置いてかなきゃならないの。だからこそ踏み込めないのよ。だって、本気で情が湧いたら切ないわ。お互い深く苦しむことになる。だから、あたしはあの子の将来を尊重しようって決めているのよ」
「……恋人というよりは母親のような言い分だな」
「あら、忘れたの? あたし、これでも百五十年生きてるんだけどぉ」
 ブーツの踵をこつこつと鳴らし、スピネルは踊るような足取りでリシャールについてくる。
 そして先ほどまでとは打って変わった静かな調子で言った。
「人間関係ではね、王様。『見守る役割』を持った人っていうのも大事なのよ」
「見守る……役割?」
 スピネルはこくんとうなずく。
「そ。若い人たちはどんどん前に出ていけばいいし、主張できる人は主張すればいい。だけど、あえてそれをしない人っていうのも、集団の中では必ず必要になってくるの。まあ、言ってしまえば“裏方”ね。相手の未来と意思をおもんぱかってあげられる人ってこと」
「裏方……」
 慣れない言葉にそろりと彼女を振り仰げば、どこか寂しそうな顔で微笑まれた。
「……王様。ちょっと嫌なことを言うけど、あなたにはもうその役割を担う資格があるんじゃないかとあたしは思うの」
 彼女は流れるような口ぶりで続ける。
「あたしがラズの未来を大事にしているように、あなたも愛する人の未来のことを考えてみてもいいんじゃないかってこと。確かに今のあなたには余裕がない。身体が元通りになる見込みもなく、無事明日を迎えられるかどうも怪しい。それは事実よね。だけど、あなたを形作っているものって何もそれだけじゃないでしょう? 今の自分を悲観する心ばかりがあなたの素質じゃないはずよ。違う?」
「……」
「自分のことを可哀想だって言うのはとっても簡単よ。ただうつむいてふてくされた顔をしていればいいんだもの。だけど、あなたにはたくさんの守るべきものがある。そして、彼らも憎からずあなたのことを想ってくれている。なら、あなたも少しくらい彼らに優しくしてあげたっていいんじゃないの?」
「そなたに何がわかる」とはねつけてしまうのは簡単だ。
 だが、どういうわけかそうすることができない。
 リシャールは反射的に、自らを「父」と敬う王子王女たちのことを考えた。
 
 アスター、オルタンシア、ミュゲ。バイオレッタにピヴォワンヌ、そして末姫のプリュンヌも。
 確かに彼らはみなリシャールに好意的だ。
 しかも、王妃シュザンヌのようにリシャールのうわべだけを評価するような真似はしない。
 リシャールがどんなに辛く当たっても、その存在を蔑ろにしようとも。
 彼らは臆さずリシャールに愛情を向けてくれる。
 こんなに幼稚で未完成な王相手でも、「家族」としてきちんと親愛の情を示してくれるのだ。
 
 リシャールはふと、≪星の間≫で我を忘れて取り乱した日のことを思い出す。
『お父様、プリュンヌは――』
 あの時、プリュンヌは一体自分に何を言おうとしたのだろう。
 今となっては知る由もない。
 だが、彼女は明らかに自分に寄り添おうとしていた。リシャールによって尖塔に軟禁された事実を恨むこともせずに。
 思えば、オルタンシアやミュゲに対してもこれまで散々「期待」という名の重圧をかけてきたような気がする。一刻も早く女王を選び出さなければならないという焦りのせいで、あの二人とはまともに対話することすらしてこなかった。
 確かに生きるために必要な道具はすべて揃えてやったが、つまるところそれだけだ。
 少女らしい感傷や繊細さといったものは認めようともしなかったし、むしろそうした面は顧みずに「次期女王候補」として何度も何度も追い詰めるような真似をしてきた。
 もちろんバイオレッタやピヴォワンヌに関しても同じだ。
 王宮に帰還してきたばかりの二人に、リシャールは相当な無理を強いた。
 教師をつけ、作法を叩き込み、早く女王候補として「使える」ようになれと言わんばかりに武芸や教養を仕込んできた。
 もしかすると、リシャールは女王候補たちのことを知らず知らずのうちに急き立ててしまっていたのかもしれない。
 リシャールは「子」と見なした王子王女たちのことをあたかも自身の手駒であるかのように扱い、その心まで汲み取るようなことはしてこなかった。
 盤上で自分の言いように動かせる駒。あるいは憂さを晴らすため、感情をぶつけるために利用する都合のいい相手。
 そんな風にしか扱ってこなかった。
 今になって、リシャールはそれを反省した。
 スピネルの言葉がなければ、恐らくはこうして振り返ることもなかっただろう。
 今夜ばかりはこのバンパイアの少女の言葉が嫌に沁みて、リシャールは黄金の髪をくしゃりとかきやって嘆息する。
「そう、だな……。僕は、そなたの言う通り自分のことしか見ていなかったような気がする。自分さえよければいいと思ってきたし、自分だけが不幸で可哀想な人間なのだと信じ込んできた。だが、周りの者にしてみればそれは苦痛でしかなかったのだな。僕の都合や期待を押し付けられて、どれだけ周囲の者たちが振り回されていたことか……」
 スピネルはリシャールの鼻先をちょんとつつき、おどけたように笑った。
「少しでいいから、周りのことも見渡してみて。案外いつもと全然違った景色が見られるかもしれないわよ?」
「ああ……、そうしてみる」
 スピネルはふふ、と笑い、ゆったりとした足取りでリシャールのそばを離れる。
 そろそろ貴賓室へ戻るという彼女を、リシャールは立ち止まって見送った。
「王様とは気が合いそうだなーって思ってたけど、やっとあなたの本音が聞けて嬉しかったわ。……よい夜を」
「……ああ。よい夜を」
 
 ――そうしてスピネルと別れようとした矢先、リシャールは背後から近づいてくる無数の足音に気づいた。
 振り返れば、そこには王宮直属の近衛騎士たちの姿がある。
「陛下……、国王陛下!! 大変です!!」
「何事だ!」
 思わず大きな声で問い返す。
 すると、彼らは穏やかな月夜にはおよそ似つかわしくない物々しさで言い放った。
「魔導士たちがジン神殿の発現を確認いたしました!」
「なっ……、それはシエロ砂漠に眠るという古の神殿であろう!? なぜ今になって――」
「詳細は不明です! ですが、魔導士館の長によれば大陸のあちこちに明らかな異変が確認できるとのことでした! 陛下。散策の最中に申し訳ございませんが、急ぎ≪星の間≫までお越しいただければ……!」
「な――」
 精神年齢に衰えの見られるリシャールの頭はすぐに混乱を極めた。
 何が何やらさっぱりだ。騎士たちの言葉の半分も理解できない。
 ジン神殿の出現に、大陸各地で起きているという異変。
 一体何が起こったというのか。
「……とうとう恐れていたことが起こってしまったようね」
 スピネルはそう言ってゆったりと黒髪をかきやる。
 リシャールがすがるようにその瞳を見つめると、彼女は表情を鋭く引き締めて言った。
「王様。あなたに一つ、とても大事なことを告げなくては」
 なぜだかわからない。だが、嫌な予感がした。
 聞きたくない、逃げ出したい。
 そう思ってしまい、手のひらがじっとりと汗ばんでくる。
 リシャールのそんな動揺を知ってか知らずか、スピネルは事もなげに言い放った。
「――あなたのお妃様を殺したのはあのクロード・シャヴァンヌよ。エリザベス王妃の頓死の理由は、あなたの呪いを解くために彼と相討ちになったせいなの」
「なっ……何を言っておる……? そんな、はは。そなたはいつも冗談ばかり言って――」
「それだけじゃないわ。アルマンディン王妃レオノーラの毒殺、バイオレッタ姫の失踪事件。そして、あなたにかけられたその呪いまで。……すべてあの男が仕組んだことだったのよ」
「な、にを……」
 かすれる声をやっとの思いで絞り出す。
 リシャールはステッキの柄を痛いくらいに握り込んだ。
 ……何を言っているのだ、この娘は。
 エリザベスを殺したのがクロードで、しかもその原因は元をたどれば自分にあったなどという。
 あの突然死のもとになったのはほかならぬこの呪いにあったという。
 そればかりではない。スピネルはそのほかにも信じがたいことをいくつも口にした。
 捕虜として捕らえてきたアルマンディン王妃の死の真相、そして愛娘バイオレッタの失踪の訳。
 そして極めつけはこの身体にかけられた奇術だった。
 スピネルはあろうことかこの呪いまでクロードのせいだと……彼が仕組んだものだという。
 リシャールの唇はもはや乾いた笑いを漏らすことしかできなくなっていた。
「そんな……、何かの間違いだ! あのクロードが、僕に呪いをかけただと!? 嘘だ……、なぜならあやつはずっと僕の身体を調べてくれていた! 呪いの進み具合を、定期的に確認してくれていたのだぞ!?」
 そこまで言ってしまってから、はたとリシャールは動きを止めた。
 ……呪いの進行具合を、確かめる。
 それはつまり、自分のかけた呪いが正常に動作しているかどうか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・を確認するための行為だったのではないか、と。
 ふと、悪寒が背筋をじわじわと這い上ってくる。
(やめろ……、嘘だ……。僕にその先を、聞かせないでくれ……)
 反射的に身を縮こまらせると、スピネルは険しい顔つきのまま淡々と告げた。
「あれは五大国の転覆を目論む“火の依代よりしろ”。あのクロードという魔導士はね、あなたに付き従うふりをしてずっとこの国を欺いていたの」
「より、しろ……?」
 そこでスピネルは一枚の紙をリシャールに見せた。
「あたしが教皇様からの命を受けてこの城にやってきたのは、ひとえにこの依代クロードを討つためよ。ジン神殿が発現したということは、彼の主である邪神ジンがそこまで魔力を蓄えてしまったということ。そして、この大陸に『終わり』が近づいているということ……」
 紙面に描かれた絵姿に、リシャールの目は釘付けになった。
(そんな、まさか。クロードが、“火の依代”――?)
 悄然として言葉をなくすリシャールに、スピネルは釘を刺す。
「だけど王様、この城に彼を招いてしまったあなたにも非はあるわ。あの依代はこの宮殿で主への供物を集めた。姦淫と殺戮……、その異なる二つの悦楽と昂ぶりを、邪神ジンは何よりも好む。そして実体を得るための糧とするの」
 心臓がどくどくと嫌な音を立てるのがわかる。
 だが、無情にもスピネルは事の真相をゆっくりと語り出した。
 リシャールが知り及ぶことのなかったすべての事実を、彼に説いて聞かせる。
「王様。あたしはようやく突き止めたの。かつてエリザベス妃がシュザンヌ妃のもとへ遣わした一人の女官の話を。彼女は表向きはシュザンヌ妃の女官のように見せかけていたけれど、本当はエリザベス妃のもとからやってきた間諜だったの。彼女は女主人から託されたバイオレットサファイアのネックレスとともに、幼いバイオレッタ姫を城下へ置き去りにした。のちに訪れるであろう魔導士クロードとの邂逅、そしてその魔手から逃がすためにね」
「……邂逅と、魔手……」
「ええ。エリザベス妃は魔導士クロードの行動に、何らかの策謀の匂いを嗅ぎ取っていた。それは結局あたしにも掴めずじまいだったけれど、恐らくはバイオレッタ姫に関わる何かよ」
 スピネルは小刻みに痙攣するリシャールを尻目になおも言葉を継いだ。
「エリザベス妃によって宿敵であるシュザンヌ妃のもとへ差し向けられた彼女は、あくまでシュザンヌ妃側の女官として死んだ。とうとう誰にもその正体は明かさないまま、牢獄で舌を噛みきってね。だけど、彼女という存在とその死には大きな思惑があったのよ。安全なところへ娘を逃がし、長年の宿敵の地位をも揺るがすという、エリザベス妃の思惑がね」
「待て!! たとえそれが真実だったとして、何もシュザンヌに罪をなすりつける必要などないではないか!!」
「そうかしら? 次代の王は女だとささやかれているこの宮廷で、いきなりあなたの血を引く王女が失踪したらどうなるかしら? エリザベス妃はそこで次の国母となる資格を失うでしょう。それどころか、自分の娘を次期女王にするという目論見さえ断たれるの。シュザンヌ妃の……憎い宿敵の産んだ不義の姫なんかに玉座を譲り渡さなければならなくなるのよ。人の情としては、そこで一矢報いたいと思うのが普通じゃないの?」
「……だから女官を一人犠牲にしたと……? 自身に仇なす反第二王妃派の陰謀として事実を偽造させたというのか……!?」
 要約すれば、あの一件はクロードから愛娘を逃すための芝居、そして第一王妃シュザンヌを擁するアウグスタス派への意趣返しでもあったということになる。
 だが、にわかには信じがたい話だ。あの温厚なエリザベスが、まさかそんな計画を企てていたなんて。
「あなたが信じられないのも無理はないわね。だけど、昔の女官たちがすべて話してくれたわ。エリザベス妃がアウグスタス派の動向を密かに探っていたこと。あなたに呪いをかけた魔導士を突き止めるべく様々な手段を講じていたこと。そして、あなたの母后ヴィルヘルミーネの動きをずっと気にかけていたこともね」
 リシャールは乾いた唇を震わせる。
 確かに、エリザベスにはすべてを打ち明けていた。
 他の者たちには告白しないようなことも、彼女一人には全部話した。
 本当は母后を強く恐れているという話まで、全部。
「ねえ、王様。エリザベス妃はずっと魔導士クロードを警戒してはいなかった? あなたから何とかして遠ざけようとしているようなそぶりはなかった?」
「……!」
 どきり、とした。
 スピネルの言葉通り、エリザベスは何度も何度もリシャールに警告をしていた。
 あの男を自分たちに近づけるべきではないと。あれは『招かれざる客』なのだと。
 だが、まさか今になってそれが真実だったと知るなんて――。
「そんな……まさか……、エリザベスが……」
「もちろん、女官に宝飾品を託したのも彼女の計算のうちよ。計画を立てる一方で、彼女は愛娘との再会を望んでもいた。だから自分のネックレスを預けたのよ。ネックレスの導きによっていつかきっとまた娘に会えると信じていたから」
「……!」
 リシャールはその場にくずおれた。
「嘘、だろう……? では、僕を守るためにエリザベスは命を落としたというのか? そして、エリザベスはクロードの手からバイオレッタを守るために芝居を打ったと……?」
 がくがくと身を震わせ、リシャールは自身の両手に視線を落とす。
「では、僕はそんな罪人をずっと大事にしていたと? 自分に呪いをかけた張本人を、ずっと腹心として頼りにしていたというのか……?」
 次の瞬間、彼は力の限り叫んでいた。
「うわああああああーーっ!!」
 黄金色の髪を振り乱し、リシャールは何度も何度も激しくかぶりを振る。
「嫌だ、嫌だ……、信じたくないッ!! だ、誰か……、母上っ……!! 僕を助けてください、母上ぇっ……!!」
 小刻みに震えながら、虚空に向けて手を伸ばす。
 だが、当然そこに実母の姿などあるはずもなく、リシャールはまたしても激しく錯乱する。
「ははうえ……、僕は、僕は……、ああああああーー……っ!!」
 その時、その頬を平手で打った者がいた。……スピネルだ。
「しっかりしなさい!!」
「!」
 リシャールはそこでびくりと動きを止めた。
 
 ……一瞬視界に映り込んだのはあの悪鬼の顔だ。
 翡翠の髪と瞳を持ち、リシャールのことをいつもいつも操り人形のように扱おうとする「彼女」の。
 父のなかったリシャールは、幼い時分から「彼女」を頼りに生きてゆくしかなかった。
 帳の向こうから投げかけられる甘い声音。
 それだけがリシャールを支え、守ってくれるものだったからだ。
 しかし、「彼女」はもともとリシャールに対して情け容赦というものがなかった。
 日頃は彼の揚げ足を取るような言動を繰り返し、気に入らなければ手を上げる。
 やることなすことすべてに細かな文句をつけ、リシャールがそれを厭えば「わたくしはあなたの母なのに」といってさも悲しげな顔をしてみせる。
 リシャールとて幾度かこの城を抜け出そうと試みた。「彼女」に付き従う官僚や騎士といった者たちの監視の目を潜り抜けて逃げ出そうとした。
 だが、できなかったのだ。
 リシャールがそうすれば、その代償に必ず別の誰かが刑罰を受けることとなった。
 同じ年頃の侍従や小姓、時には女官や侍女といった非力な者まで。
「彼女」は――ヴィルヘルミーネはためらうことなく制裁を下した。
 そして、すごすごと自分のもとへ戻ってきたリシャールの頬に甘すぎるほど甘い接吻をくれるのだった。
 そう、母后こそがリシャールにとって唯一にして最大の味方であり敵だったのである。
 
「いやだ……、いやだ……ッ! ちがう……、僕は、僕は――!」
 ……ただ自由になりたかっただけなのに。
 絶え間なく迫りくる過去の残像が鋭い刃となって肺腑を抉る。
 がむしゃらに首を打ち振るリシャールの肩に、スピネルは手を置いた。
「……可哀想な子。あなたはそんな生き方しか知らないのね」
「さわ、るな……! 悪魔め……!」
「あたしはあなたの敵じゃないわ。それだけは信じて」
「ううっ……!」
 刹那、リシャールの耳に聞き慣れた声が届いた。
「父上!!」
「……!?」
 聞くはずもない息子の声を聞いた気がして、はっと目を見開く。
「……来たわね」
 スピネルの一言に、リシャールはのろのろと後ろを振り向いた。
 そこに立っていたのは――
 
「アスター!? それに、ピヴォワンヌも……!?」
 リシャールは弾かれたように立ち上がる。
「こんな深更に薔薇後宮を抜け出してくるとは一体何事だ」、と言いかけた矢先、ピヴォワンヌが金切り声でそれを遮った。
「大変よ、リシャール! バイオレッタがいなくなったの!」
「何!?」
 リシャールは掴みかからんばかりの勢いでピヴォワンヌに詰め寄った。
「どういうことだ、説明しろ!!」
 声を荒げると、ピヴォワンヌの隣に立っていたアスターがすかさず二人の間に割って入る。
「ピヴォワンヌ姫の言葉通りです。薔薇後宮にバイオレッタ姫の姿がありません。筆頭侍女からの報せによれば、しばらく前に居住棟を出ていったきり戻ってこないのだと」
「どういうことだ!?」
 アスターは一瞬だけ口をつぐんだが、やがてきっぱりと告げた。
「薔薇後宮の中でクロード・シャヴァンヌの姿を目撃した者がおります」
「な――」
「どうやらある女官が薔薇後宮の内部までシャヴァンヌを手引きしたようです。彼女はこれまでにも何度か夜半に後宮内に彼を誘導したことがあるようですね。此度の件も大方彼女の助力によるものでしょう」
「……!」
 リシャールはそこでふと、黒衣の魔導士の姿を脳裏に思い描く。
 ……クロード・シャヴァンヌ。
 リシャールが長年にわたって重用してきた、下層階級出身の宮廷魔導士の姿を。
 火の依代であるとはいえ、クロードが一体なぜそこまでバイオレッタに固執するのか、リシャールには全くわからなかった。というよりも、理解できなかった。
 確かにバイオレッタは見目麗しく愛らしい姫だが、だからといってこうもしつこく付け狙う理由がどこにあるというのだろうか。
 まさかこれも自分への意趣返しのつもりなのだろうかと思ったが、それにしてはやや異質な気もする。
 リシャールは形のよい爪をきりきりと噛んだ。
「クロード……! なぜこうもバイオレッタばかりを狙う……!? お前の本当の目的は一体なんなのだ!?」
 困惑するリシャールをよそに、アスターはすっと彼の前に歩み出る。
「父上」
「……なんだ」
「僕は以前、彼女を助け出すことができませんでした。すべてをピヴォワンヌに任せきりにして傍観していることしかできなかった。ですが、今度こそ異母兄あにとして彼女を救出したいと思います。どうか、僕とピヴォワンヌにバイオレッタ姫を探しに行く権限をお与えください」
 凛としたアスターの声に、リシャールは戸惑いつつもうなずいた。
「……ああ。頼む。僕に代わって必ずあやつを連れ戻してくれ」
 思えば息子に頭を下げるのは初めてだった。
 リシャールはいつもアスターのことを朴念仁だと――なんの力もなく当てにもならない青年だと思ってきた。
 しかし、こうして視線を合わせていればわかる。
 アスターはバイオレッタのことを大切な存在だと思ってくれているのだと。彼女に対して、リシャールと同じくらい強い親愛の念を感じているのだと。
(……いつの間にこやつらはこんなにも強くなったのか)
 自分一人が時の狭間に取り残されているような錯覚を覚え、リシャールは小さく笑う。
 だが、これでいいのだろう。
 彼らは、自分と同じような存在であってはならない。彼らは未来を目指して進んでいかなくてはならない。そして新たな時代の担い手としてリシャールを追い越していかなければならないのだ。
 そして彼らはリシャールが思っている以上に現実を見ている。先を見据え、自分たちが何をすべきかをよく理解し、実際に行動に移そうとしている。
 姉が窮地に陥っていれば救い出し、姉妹たちが怯えていればなだめるといった風に、彼らはそれぞれの受け持つべき役割をしっかりと把握しているのだ。
 そこでふと、「こやつらにはもう父親ぼくの手は必要ないのかもしれない」、とリシャールは思った。
 ここまで強固な絆で結ばれた彼らになら、もう次の時代を委ねてもよいのではないかと。
 
 と、そこでアスターの背後から背の高い娘が静かに歩み出る。
 薄茶の長い髪、淡い桜色をした質素なドレス。……クララ姫だ。
「――国王陛下。どうか、わたくしにもバイオレッタ様をお救いする資格をお与えください」
 そう言って、クララ姫はリシャールの瞳をひたと見据える。
「……わたくしは、バイオレッタ様のことを大切に思っております。わたくしがここまで生きてこられたのは、ひとえにエリザベス様の恩情があったからこそです。そのご恩を、今こそお返しします」
「……!」
 リシャールは逡巡した。
 今このタイミングでクララを城外へ逃がすわけにはいかない。この動乱に乗じて逃げ出すかもしれないし、今度こそ自国の民を集めて扇動を図るかもしれない。
 しかし――
「……いいだろう。許す」
「……!」
 ほっとしたように全身の緊張を解いたクララに、リシャールは念を押す。
「ただし、おのが役目を終えたら必ずこの城に戻ってこい。己の身分を忘れるな。よいな?」
「ありがとうございます……! 陛下のご芳情に感謝申し上げます!」
 安堵のあまり声を上ずらせるクララ。
 その姿に、リシャールはなんともいえない感懐を抱いた。
 このクララという姫はあのエリザベスが愛した娘だ。
 それも、二人の間にはリシャールでさえ割り込めないほど確かな愛情と絆があった。
 最初、リシャールには二人の結びつきが理解できなかった。なぜ捕虜にした王女にそこまで親切にしてやらなければならないのか不思議でたまらなかった。
 だが、今ならわかる気がする。
 エリザベスはきっと同じ敗戦国の女としてクララを慈しみ、可愛がっていたのだ。
 自分がこの宮廷に連れられてきたときと同じように、まだ幼いクララが一人ぼっちで心細い思いをしているのではないかと懸念したのだろう。
 そしてエリザベスもまた心の拠り所としてクララの存在を求めた。
 手放さなければならなかったバイオレッタにするように彼女の面倒を見、たくさんの時間を共有しようとした。
 もしもクララが孤独なエリザベスの寂寞を埋めてくれていたのだとしたら……。
 これもエリザベスの導きだろう。
 リシャールは腰に提げた彼女と揃いの香料入れポマンダーに手をやると、手のひらにぎゅっと握り込んだ。
 
 そこで一行のやり取りを傍観していたスピネルが、クララ姫に付き従っている長身の青年に向かって口を開く。
「アベル君……だっけ」
「はい?」
「もちろんあなたも行くんでしょ? ジン神殿に」
 スピネルの言葉にはまるで探るような響きがあった。
 アベルはぱちぱちと瞳を瞬いたのち、肩をすくめてふっと笑う。
「……ええ。僕はクララ様の従者ですから」
「あらぁ。じゃああたしもついていかなきゃね。ほかならぬあなたが行くっていうんだから、なおさら」
「……」
 二人はそのまま静かに視線を交錯させる。
 ややあってから、アベルが静かに唇を開いた。
「グロッシュラー宗教騎士団の筆頭騎士様にご同行いただけるとは光栄の至りですね」
「あたしの方こそ光栄だわ。まさかあなたのような魔導士に助力できるなんてね」
 軽快な笑い声を収めたのち、スピネルは挑戦的に――そしてひときわ妖艶に微笑んだ。
「……さあ、リシャール・リュカ・フォン・スフェーン。時は満ちたわ。どうかその怒りのままあたしに命じてちょうだい。罪人クロードを捕らえよと」
 涙をぬぐうと、リシャールはキッと顔を上げる。
「ああ……、命じる。スピネル・アントラクスよ、あやつを捕らえよ。そして必ずやこの城に引き立ててこい」
 スピネルはそこでちろりと自らの唇を舐め、短剣の柄に手をあてがって微笑んだ。
「御意、国王陛下。……なーんてねっ!」 
 自らの両頬をぴしゃりと手で打つと、リシャールは颯爽と声を上げた。
「伝令を出せ!! 罪人クロードを捕らえよ!! あやつからは宮廷魔導士の称号をはく奪する!! 五大国転覆を目論んだ謀反人を、断じて許すな!!」
 
 
 
 ……同じ頃、エピドートの王都ピスタサイトにあるヴァーテル教会本部ではベンジャミンが立ち上がっていた。
 大広間のバルコニーからぼんやり窓の向こうを眺めていた彼は、背後に宗教騎士の気配を感じてゆるりと振り返った。
「教皇様」
「……始まってしまったようだね。邪神による反乱が」
「はい。一の砦が陥落しました」
 この“砦”というのは教会内部における呼称の一つで、魔力の集うポイントという意味で使われている。
 創造神がイスキアを維持するために設けたもので、ここには水、風、土、光、闇、五つの属性による守りの力が封印されている。
 そしてこれらは邪神ジンが破壊すべき要所でもある。
 大陸全土に散らばるこれらの砦がすべて打ち壊されたとき。
 それがイスキア滅亡の幕開けとなるのだ。
 邪神ジンは長きにわたって続いてきたヴァーテルの時代を大きく覆そうとしている。
 五大国、ひいてはこのイスキア大陸までもを焼き尽くし、ヴァーテルへの積年の恨みを晴らそうとしている……。
 ベンジャミンは紅いカーテンをきつく握りしめると、感情の読み取れない瞳のまま静かにつぶやいた。
「急いでくれ、スピネル、ラズワルド。このままでは、本当にこの大陸は滅んでしまう。『終焉』に、呑み込まれる――」
 
 
 
 
 

 

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