2018年に発表した短編のリメイク作品第二弾。クロードとバイオレッタの短いお話。
 

 
「姫……、姫?」
 後宮書庫の一角で、クロードはソファーでうたた寝をしているバイオレッタを見つけて声をかけた。
 ため息まじりに手を伸ばしかけて、やめる。
(……困りましたね。このような場所でおやすみとは)
 クロードが惹かれてやまないすみれ色の双眸は今は閉ざされ、代わりに長い銀のまつげが頬に影を落としている。
 こてで巻かれた白銀の髪は樫の机の上で緩やかな弧を描いていた。
 
 ――薔薇後宮の東棟に位置する後宮付属図書室、通称「後宮書庫」。
 ここは王室の女性たちが教養と知識を深めるための場所だ。
 後宮に住まう籠の鳥たちが集い、勉学に励み、時折とりとめのないおしゃべりをして愉しむところである。
 続きの間には飲食のための場所である≪叡智の間≫が設けられ、読書や勉強に疲れた際に紅茶や茶菓子をつまんで一休みすることができるようになっている。
 
 クロードはこの後宮書庫に出入りを許されている唯一の男性だ。
 頻繁にというわけではないが、国王リシャールの命を受けてたまにここの蔵書を借りに来ることがある。
 そのため、バイオレッタとも時々ここでばったりと出くわすことがあった。
 
 バイオレッタは普段はここでピヴォワンヌやクララと一緒に勉強やおしゃべりを愉しんでいるのだが、周囲に彼女たちの姿はない。
 ということは、恐らく一人で勉強していたのだろう。
 
 紅の布張りのソファーに座り、歴史の本の上に身をもたせかけて眠っているバイオレッタを無言で見やる。
 すうすうと寝息を立てる彼女はいかにも無防備で、普段のように気安くちょっかいを出すのははばかられた。
 
(それにしても……)
 
 嘆息すると、クロードはむき出しになったバイオレッタの肩に目をやった。
 スフェーンの冬はさほど厳しいものではないのだが、この時季肩やうなじを出すドレスはいかにも寒々しい。
 確かに、きらびやかに装うことも姫君の義務の一つだろう。
 しかし、想い人であるバイオレッタが風邪でも引いたらと思うとクロードとしては気が気ではなかった。
 
「……仕方ありませんね」
 漆黒の上着を脱ぎ、最愛の姫の背にふわりとかけてやる。
 自らも隣に浅く腰かけると、クロードはバイオレッタの寝顔を見つめた。
 わずかに開いた淡紅の唇から、小さな吐息が漏れている。白い頬は幾分紅潮しているように思えた。
 あどけなくて幸せそうな、年頃の少女らしい寝顔だ。
「……なんとお可愛らしい」
 つぶやくと、クロードは青みがかった白銀の髪を一房指に絡めとった。毛先まで丁寧に巻かれている。
 クロードの上着の下に隠れたドレスの色は、バイオレッタにしては珍しく甘いピンクだった。
 普段ならめったに着ようとはしない女性らしいパステルピンクに、クロードの目は自然と釘付けになってしまう。
「これが私のための装いなのだとしたら嬉しいのですがね……」
 巻かれた毛先に口づけると、クロードはそっと手を放した。
(早くお目覚めになって下さい、姫……。貴女の声を、お聞きしたい……)
 クロードは心の裡でそう唱えながら、物憂げに指を組む。
 そして、自らを包み込むえもいわれぬ充足感に小さく息をついた。
 
 バイオレッタと一緒にいると、この男らしさの全く感じられない容貌も悪くないと思えてくるから不思議だ。
 ずっと、自分は非力な人間だと思ってきた。誰のことも救えないのだと。
 けれど、バイオレッタはそれを否定した。それどころか、頼もしいとさえ言ってくれる。
 クロードとしてはそうして頼られれば悪い気はしなかったし、それどころかもっと彼女の力になってやりたいとさえ考えていた。
 
 バイオレッタは時折、恥ずかしそうに、けれども必死な様子でクロードを褒める。
『クロード様は……素敵な方です』
 正直、褒め言葉としては平凡極まりない台詞だ。
 何度も宮廷の貴婦人たちの相手を務めてきたクロードに言わせるなら、口説き文句としてはつたなすぎる。つたなすぎて、心揺さぶられるはずもない。
 
 しかし。
 潤んだ瞳か、恥じらいの表情か。
 彼女の何がそうさせるのかわからないが、そうやって褒められるたび、何か得体のしれない感情が胸を満たす。
 
 最初は「惹かれるはずのない相手だ」とたかをくくっていた。
 なのに今では、薔薇後宮で彼女に出逢うたび……、見つめられてその手で触れられるたびに、「至福」とはこのような時間のことを指すのだろうか、とクロードは思ってしまう。
 そして、一体何が自分をここまで変えたのだろうかと不思議に思いつつも、やはり「悪くない」、と感じるのだった。
 
(このような年下の少女に……。私も相当……ですね)
 
『わたくしにとっては、あなたほど頼りになる殿方はほかにいませんわ』
 そう言ってはにかみながら控えめに寄り添ってくるバイオレッタが愛おしい。
 引き寄せて抱きしめると、まるで春の陽だまりに包まれているかのようで安堵する。
 嬉しそうに頬を擦りつけてくるのはいつも彼女の方なのに、抱き合っているうちにいつの間にか自分の方が彼女にあやされているような心地になってくる。
 そんな温かなぬくもりを持つ彼女を、クロードは知らず知らずのうちに「守らなければならない存在もの」として認識するようになっていた。
 このぬくもりは何物にも代えがたいものだ、とも。
 
 今までどんな女にも心を許さずにいたのに、一体なぜここまで彼女に惹かれてしまうのだろう。どうして、ここまで彼女の笑顔が見たくなってしまうのだろう。
 けれど、彼女といるともう一度取り戻せるような気がしてしまう。
 ……誰かを求める心を。狂おしいほどの情熱を。
 そして……。
 
「……姫、叶うのならば、私は貴女に……」
「ん……」
 小さな声に、クロードはわずかに首を傾げてそちらを見た。その拍子に束ねた漆黒の髪が帳のようにさらさらと背を流れてゆく。
 ちょうど傍らのバイオレッタが起き上がってまぶたを擦ったところだった。
「……あれ、わたくし……。……え、このコート……は……」
 そうつぶやくと、寝ぼけ眼で肩にかかったクロードのコートを引き寄せる。
 ついからかってみたくなって、クロードは彼女の細い顎を捉えた。
「え……」
 顔を仰向かせると、バイオレッタが声を上げた。
「え、あっ……!? クロード……様……!?」
「お目覚めですか、姫」
 クロードは余裕たっぷりに微笑み、すみれ色の双眸を覗き込んでやる。
 案の定、バイオレッタは瞳を見開いて慌てふためいた。紅潮していた頬がさらに赤く染まっていく。
「あ、あの……! わたくし……!」
「とてもよく眠っていらっしゃいましたよ。随分気持ちよさそうでしたが、一体どのような夢をご覧になっておいでだったのでしょう」
「え……」
「私には教えられないような夢なのですか?」
「ち、違っ……、もう!」
 満足したクロードは指を放した。
 
 バイオレッタは狼狽したり混乱したりするとすぐに「もう」と言う。
 また、動揺しているときにはせわしなく指先が動くということも、クロードはよく理解していた。
 彼女の指先は先ほどから、何かをごまかすように頻繁に動いている。やはり図星のようだ。
 
 クロードは頬杖をつくと、慌てる彼女を横目で見やる。
「……妬けますね。夢の中でまで貴女に会える男のことが、私には少々恨めしいですよ」
 伏し目がちに艶っぽく微笑んでやると、バイオレッタが真っ赤になった。
 くすくすと軽やかに笑っていたクロードだったが、次の瞬間バイオレッタにそっとシャツの袖を掴まれて瞳を瞬く。
「そんな意地悪をおっしゃらないでください……。だって……、わたくしが見ていたのは、く、クロード様の夢なのです……」
 バイオレッタの声はとても小さかったが、クロードの耳にやたらよく響いた。
 普段から彼女の声を聞き逃さないようにしているせいかもしれない。
 ぽつぽつと話し出すバイオレッタの声に、クロードは黙って聞き入った。
「……二人で薔薇園にたたずんでいる夢でしたわ。金色のお月様を見上げながら……。薔薇は今にも香ってきそうでしたし、何よりお月様の金色がクロード様の瞳の色みたいで……綺麗で。わたくし、クロード様とは夜にお会いしたことがありませんけれど、あなたとならきっと素敵な時間が過ごせると思います。クロード様とならいくらでもおしゃべりしていられそうですもの」
 バイオレッタは緩やかに両手を組み合わせ、ほうっと息をつく。
「わたくし、クロード様のお話がいつも興味深くて、楽しみで……、あ、わたくし変なお話ばっかりで……ごめんなさい」
 はっとしたように口をつぐむバイオレッタに、クロードは微笑して続きを促す。
「……続けて、姫……。貴女のお話を、私はもっと聞きたいのです」
 彼女は息をのんだが、また小さな声で話し出した。
「……それで……。夢の中のクロード様が、わたくしの髪を撫でて、薔薇を飾って下さって……。黒のインクを一滴落としたような、不思議な色合いの紅薔薇でした。露をたたえていて、花びらにはしっとりした光沢があって……」
 バイオレッタは恥じらいながらも笑顔になる。彼女は薔薇が大好きなのだ。
「ごめんなさい、ここまでしか覚えていなくて……。でも、なんだか優しくて、甘い雰囲気で……。ずっと揺蕩っていたいような夢でしたわ」
 すみれ色の瞳が幸せそうに潤むのを見て、クロードは知らず知らずのうちに微笑んでいた。
「……ふふ。甘い、という表現はある意味正しいのでは……? 夜の空気とは甘いものです」
 口ではそう言いながらも、クロードは少し冷めた目で自分自身を見つめていた。
(……本当の「甘さ」など久しく味わっていない私が、このようなことを口にして……)
 本音を言えば、クロードは夜の雰囲気を「甘い」と感じたことは一度もなかった。
 ひとときの戯れに身をゆだね、さも相手の女に本気であるかのようなふりをする。そんな自分が嫌だった。
 けれど、今は少しだけ変わりつつある。深更に一人バイオレッタを想うとき、ほんの少しの寂しさを感じる。
 自分でも信じられないほど彼女が恋しくなる夜がある。声を聴きたい。あるいは、その手で触れてほしいと。
 そして、寂寞を味わえば味わうほど、この恋情は募ってゆく。
 ……愚かしいほどあっさりと燃え上がる。
「姫……」
「……はい?」
 きょとんと首を傾げたバイオレッタに、クロードは問いかける。
「……お目覚めになるのを、待ちわびていました。貴女に触れても……?」
 クロードの瞳の奥に何を感じ取ったのかはわからない。
 が、バイオレッタは穏やかに笑んだ。
「……ええ。どうぞ」
 そっと抱き寄せて白銀の髪に顔を埋める。やはり「春の香りがする」、と思った。
「……クロード様……」
 バイオレッタは息をつめていたが、やがてそろそろと手を伸ばしてきた。
 背に下りた漆黒の髪をなだめるように撫でられて、クロードは少しばかり目を見張った。
「……あ。……あの、他意はないのです。ただ、なんとなく……」
「……“なんとなく”?」
「はい……。……駄目、ですか?」
 バイオレッタらしい言葉に、クロードは微笑んだ。
「いいえ……。もっと私に触れて下さい……。私を愛して……、姫……。貴女のその優しい手が、私には愛おしい……」
 小さく笑ってから、バイオレッタはゆっくりとクロードの黒髪に手を滑らせる。
 柔らかな手が背や髪を撫でるたび、クロードは少しだけ切なくなった。
「実は、ずっと触ってみたかったのです……。クロード様の髪は艶があって綺麗ですもの。それから、わたくしが起きるまで待っていて下さって、ありがとうございました」
「いいえ……。姫をお待ちするのは、私にとっては全く苦痛ではないのですよ。……ただ、お風邪を召されたらと、それだけが気がかりで……」
「あ……、それで上着をかけてくださったのですか……? ふふ……。やっぱりお優しいのですね……」
 どこか気恥ずかしそうに、バイオレッタは言う。
「いつか……、クロード様と夜を過ごしてみたいです。……たった一晩だけでも、あなたといられたら……」
 うっとりとつぶやいてから、バイオレッタは付け加えた。
「あ、あの、深い意味はなくて……。つまり……」
「ええ、わかっています……。貴女のお気持ちは、すべて……」
 彼女が望んでいるのはそういったことではない。
 恐らく、人目を気にせずにいつでもクロードと会えるような、そんな関係になりたいのだろう。
 クロードは苦笑してから、腕の中のバイオレッタの髪に触れた。
「……慎ましやかでお可愛らしい姫。そのような簡単なことで本当によろしいのですか?」
「ええ……。わたくしにはそんな願い事でも贅沢すぎるほどですわ」
「では、私が貴女に教えて差し上げましょう。夜の美しさ、夜の静けさ……、夜の秘めやかな甘さまで。そして塗り替えて差し上げます……、今貴女が感じている夜の色を、どこまでも優しいものへと……」
「はい……。今は、お約束して頂けるだけでじゅうぶんです……」
 
 
(……そんな日がもし来るというなら)
 クロードは一人、夢想に浸る。
 残酷で、滑稽で。
 そしてこの上なく幸福な夢を、思い描く。
(……予感がする。私の心は、貴女によって甦るのだろう。そして私は、きっと貴女を手放せなくなる。貴女から……逃げられなくなる)
 
「……忘れないでくださいね、今日の約束……」
 しがみついてくる細い両腕が、まるでしなやかな鎖のように思える。
 この手に命を握られるなら、それも苦痛ではないのかもしれない。
 そう思いついて、彼はうっとりと瞳を細める。
 
 ――この小さな白い手が、永遠に自分一人だけを求めてくれるのならば、もう何も言うことはない。
 それこそが、クロードが真に求め続けてきた「幸福な夢」だった。
 
「ええ……。私はずっと、忘れません……。姫……」
 自身の言葉を噛みしめながら、クロードは彼女をきつく抱き寄せて瞳を閉ざした。
 

 
クロード×バイオレッタの冬のお話(初出は2018年冬)。
本編では時系列がまた違っているので完全に「番外編」の扱いです。こちらに投稿するにあたって少しだけ加筆修正しています。
かなり短いお話の割には二人の関係性がよく表現できたような気がしてます。
(「未来」の話も少しだけ出てきてますし)
 
 

 

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