春の夢

「春の宵」をテーマに書き上げた短編です。主役はクロード×バイオレッタ。
気楽にお楽しみいただければ幸いです。


 
 白木蓮の花の下、バイオレッタが思いを寄せる男はうっそりと笑った。
「……春の宵はとても儚い。金貨では到底あがなえないほどに」
 天上には乳白色の月が浮かび、見つめ合う二人をしらじらと照らし出している。
 クロードによってエテ宮の庭園にいざなわれたバイオレッタは、白木蓮と月に見守られながら彼と向かい合っていた。
「貴女と今宵ご一緒できたことが……何よりの幸福です」
 クロードはそう言って、レースの手袋にくるまれたバイオレッタの手を取って唇をつける。
 バイオレッタはしたり顔の彼にため息をついた。
「舞踏会の席から無理やり連れだしたのはあなたではありませんか。まだダンスの順番をお待ちになっている殿方が大勢いらしたのに……」
「おや。踊りたかったのですか、彼らと?」
 その言葉にはまぎれもない含みがあった。もはや問いかけるまでもない、クロードは嫉妬しているのだ。
 同時に、そのおもてには実力に裏打ちされた傲慢さが滲んだ。皮肉げに眉をひそめ、口元を歪めて、彼はバイオレッタの反応をうかがっている。
 バイオレッタは苦笑した。
「……一体どうお答えすれば満足して頂けますの?」
「訊いているのは私ですよ、姫。貴女は本当に困った方だ。私を裏切ることに少しのためらいもないのですから……」
「裏切りだなんて」
 しばし二人は夜風に身を任せてたたずんでいた。
 春の夜は金で買えるものではないと、クロードは言う。それは確かかもしれないと、バイオレッタは風に頬を撫でられながら思った。
 この一瞬は今しかなく、今ここでしか語れない言葉というのも確かに存在しているのだろう。
 年若い娘が抱くにはやや刹那的な感傷だが、事実、春はいつもどこか侘しい。陽光も空気も極めて朗らかなのに、どこかに危うさを感じさせるのだ。
 平穏な日常の裏で、人知れずひっそりと何かが崩壊してゆくような……。
(……馬鹿みたい。どうしてこんな考えに耽ってしまうの?)
 庭園の花々は美しく、空に咲く月の色だって穏やかだ。春風は何も心配することなどないとでもいうように、優しく通り過ぎてゆく。
 それでも胸がざわめいてしまうのは、真向かいに立つクロードがなんだか寂しそうな顔をしているからかもしれない……。
 やっぱり≪舞踏の間≫を出てくるべきではなかったと、バイオレッタは唇を噛みしめる。
(クロード様……。あなたと一緒にいると、わたくしは楽しいのに怖いのです。あなたがわたくしを萎縮させたことなんて、これまでただの一度もないのに)
 彼がどこまでも自分に甘いからなのか、それともそのまなざしが熱すぎるほど熱いせいなのか。
 バイオレッタにはわからなかった。
 ただ感じるのは、静かに押し寄せてくる彼の想いとその圧倒的な熱量だった。
 時折バイオレッタは、クロードの纏う雰囲気に気圧される。生半な覚悟で彼を愛するわけにはいかないような気がして、恐ろしくなる。
 クロードは静かに微笑み、バイオレッタの背に手を回してそばに来させる。彼女がおずおずと身を寄り添わせると、今度こそ満足げに笑んだ。
「ふふ……。これで貴女も共犯ですね、姫。舞踏会場から逃げて、あろうことか寵臣の男と語らっているなど……。陛下のお耳に入ったらどうなることやら……」
「そんな。い、意地悪をおっしゃらないでください……!」
「大丈夫ですよ。陛下は気まぐれな御方。そして大の舞踏嫌いだ。知り及ぶはずもない……。しかし、今はエテ宮のあちこちを散策なさっている頃かもしれませんから、逢瀬は密やかに行いましょう」
 こくんとうなずき、バイオレッタはその腕にすがる。粉白粉を思わせる匂い菖蒲の香りが、優しく彼女を包んだ。
 クロードは愛おしくてたまらないといった様子で、白銀の髪を丹念に撫でてくる。
「……初めてお会いした時のことを、覚えていらっしゃる? 姫……」
「ええ。まだわたくしは城下にいて……、町娘で。みすぼらしいところを見られてしまったと思って、すごく恥ずかしくなって……」
「いいえ。さながらおとぎ話のサンドリヨンのようでした……。荒れた手を必死で隠し、私の接吻にうろたえて……。失礼ながら、貴女の置かれている状況に同情せざるを得ませんでした」
「アルバ座の零落ぶりを考えれば、仕方がなかったのです。わたくしは歌も踊りも演技も全くだめ。なら、ほかの方法で役に立つしかなくて……」
「その志が、私は好きなのです。花の盛りの乙女ならもっと楽しいことに時間を費やしているでしょうに、貴女はそうなさらない。それどころか、愉しみや享楽からあえて逃げようとしている節さえある」
「そんなことはない」、とバイオレッタは反論しかける。
 バイオレッタだって人並みの欲くらいはあるし、クロードが思うような崇高な女性ではないのだ。あまり神聖視されすぎても居心地が悪くなってしまう。
「……わたくしは、そのような人間ではありませんわ。クロード様が考えていらっしゃるような、非の打ちどころのない女などでは……」
「じきにそうおなりですよ。女神もかくやというほどの、素晴らしい女性に」
 瞳を細めながら言われ、バイオレッタはふいと顔を背ける。
 こんな風に、時折クロードの視線が辛くなる時がある。真剣すぎて視線を受け止めきれないと思うことがあるのだ。
(好きなのに見つめ合うのが恐ろしいだなんて、わたくしはおかしいのかもしれないわ)
 至極軽やかに紡がれる愛の言葉とは裏腹に、その瞳は真摯そのものだった。
 赤の染料をひとしずく落としこんだような、黄金の双眸。
 そこにふとのぞく力強い光に、バイオレッタは容易に捕らわれてしまう。
 そして本能的に恐ろしくなるのだ……一匹の美しい獣を見ているようで。
「……クロード様。わたくしは、本当は少しだけ、あなたが怖いですわ」
「困りましたね……。貴女にまで厭われては、私は今度こそ打ちのめされてしまう」
「あ……、例の噂のことではなくて、その……」
 出仕当時から見た目が一切変化しないクロードは、「年を取らない化け物」呼ばわりされて、スフェーン宮廷では嘲笑と嫌悪の的になっている。
 だからこそバイオレッタは彼を安易に拒絶するわけにはいかないのだが、バイオレッタが言わんとしているのはむろんそういったことではなかった。
「……わたくしは、あなたに見つめられると心臓が止まりそうになるのです。クロード様の瞳、優しいのに怖くて……。自分のすべてを見抜かれてしまうのではないかと、わたくしは時々怯えてしまうのですわ……」
 クロードは夜風に漆黒の髪を嬲らせたまま、バイオレッタの両肩に手を添えた。
 そのままゆるりと顔を近づけてくる。吐息がかかるほどの距離で、彼はバイオレッタの顔を覗き込み、ふっと笑った。
「……おかしなことを。いかな貴女を愛しているとはいえ、貴女のすべてを見抜くことなどできませんよ」
「それは、そうですけれど……、喩えるとそういう感じで……!」
 刹那、小さな音とともに白い頬に唇がつけられる。
 それは頬の皮膚を滑ったあと、名残惜しげに離れていった。
「……こうして肌と肌とを触れ合わせれば、貴女の御心が読めるでしょうか。貴女の気持ちを知りたい、見抜けるものなら見抜きたいと思っているのは、いつも私の方だというのに。残酷な方だ……」
 穏やかな低音が耳朶を打つ。
 遠方で、夜の十二時を知らせる鐘の音が響き渡っていた。
「――姫。私が恐ろしいというなら、とっておきの秘策を授けて差し上げましょうか」
「え?」
 あまりに細いクロードの声に、バイオレッタは思わず訊き返した。何を言っているのだろう。
 クロードはきょとんとしているバイオレッタの手を取り、自身の左胸に導いた。
「……私のここを、けして動かないようにすればいい」
「や、……どういう、意味ですか……?」
「人は誰かを愛することで、その心を拍動させていられる。ならば、貴女がすべきことはただ一つ……。私から貴女を想う感情を取り上げればいい。……私の心を、殺せばいい」
 何を言っているのだろう。……大好きなクロードの心を、殺す?
 そんなことができるわけがないというのに、クロードはバイオレッタの腰を強く引き寄せ、さらにしっかりと胸に手を当てさせた。
「……どうぞ、姫? 愛することを投げ出した人間の心は脆い……。私などすぐに残骸となってしまうでしょう」
「いや……! いやです、そんな……、心の動きを止めるだなんて――」
 たとえ冗談でもやめてもらいたいと、バイオレッタは身を捩る。
「私が恐ろしいのでしょう? 貴女がこの想いの息の根を止めない限り、私はこの先もずっと貴女を脅かし続ける。過ちを犯す前に、貴女が手を下して……。私を、心の底から憎んで、嫌いになって……?」
 あまりにも質の悪い冗談に、バイオレッタはクロードの手を突っぱねた。
 そろそろと右手を握りしめ、甲高く叫ぶ。
「……クロード様の馬鹿! あなたと一緒に過ごした日々は、わたくしにとっては宝物です! 全部なかったことになんて、もうできないのに……! あなたはそこまでわかっていてそのようなことをおっしゃるんだわ……!」
 幼子のように、バイオレッタはわめいた。
「ひどい、ひどい……っ!!」
 しまいには眦から涙があふれてきて、みっともなさから顔を覆って泣く。
「あなたのことは好きですわ……、でも、そんな意地悪を言うあなたは嫌い……!」
 ……どうして嫌いになどなれるだろう。なれるはずがないではないか。
 バイオレッタにとってクロードは恩人であり、初めて自らとまっすぐに向き合ってくれた男性だった。
 城下に迎えに来てくれた日のことは、今でもはっきりと覚えている。
 よく眠れないのだと打ち明ければ相談に乗ってくれ、カモミールティーやラベンダーのポプリなどを贈ってくれた。
 宴の席で酔客に絡まれれば助けてくれ、気分がよくなるようにとバイオレッタを庭園に連れ出すことさえした。
 宮廷にたむろする貴族の青年たちとは違った落ち着きのある態度は、いつだってバイオレッタを安心させる。
 時には冷酷な言動や華やかな噂話でバイオレッタの心中を掻き乱すこともあるけれど、それでもクロードは大切な存在なのだ。
(なのに、嫌いになれだなんて……、心を殺せばいいだなんて……!)
 バイオレッタは嗚咽しながらも、途切れ途切れに訴える。
「わたくしにだって、あるのです……! あなたを想う心が……。クロード様こそ、今まさにわたくしの心を殺そうとしている……。わたくしにあなたを嫌いになれだなんて、絶対に無理な話なのに……! あなたを想うことで、わたくしは王宮で生きていられる。あなたがいてくれるから、辛くても頑張りたいって、思って……!」
 陰謀渦巻く王宮でもなんとかやってこられたのは、クロードがいたからだ。
 彼に認められたい、その期待に応えたいと願うこと。
 それこそが今のバイオレッタを突き動かす原動力だ。
 恩人のクロードが見込んでくれたのだから、もっとしっかりしなくては。
 いつもそう自らに言い聞かせながら、バイオレッタは「今」を生きている。
(……だからこそ、そんなこと、言ってほしくなかったの……! たとえこの恋が叶わなくてもいいから、あなたを慕う気持ちだけは取り上げないで……!)
 この感情だけが、今のバイオレッタを生かすのだから――。
 背を丸めてしゃくり上げていると、ふいにクロードが唇を開いた。
「……申し訳、ございません。どうか、お許しを……。春の儚さに、少々当てられてしまったようです」
 クロードは淡々と謝罪し、整った眉を切なげに寄せた。
「許してください、姫。貴女を試すようなことばかり申しました。挙句の果てにはそうして涙まで流させて……。私は確かに酷い男でしょう。ただ愛の度合いを図りたいがために、貴女をいたずらに傷つけてしまったのですから……」
 本当に悪いと思っているのか、クロードはバイオレッタから音もなく離れていった。数歩進んだところで立ちすくみ、こちらに背を向けたままうつむいてしまう。
 安堵できるぬくもりが離れていったこと、そしてわずかにのぞくあまりにも寂しげな横顔に、バイオレッタは狼狽する。
(わたくし、責めすぎてしまったのね……)
 バイオレッタはしばし考え込んだ。背に触れて慰めるか、無難に声をかけるだけに留めるかで悩む。
 そして、しばらく逡巡したのち、バイオレッタはクロードの背に触れながらねだってみた。
「……キスをしてくれたら、許しますわ」
「……!」
 その背がわずかに震えるのがわかって、バイオレッタは途端にいけない要求をしてしまったのではないかと不安になった。
 スフェーン宮廷ではキスは挨拶代わりに気軽に交わされるものだから、特に変わった要求ではない。
 が、バイオレッタ本人は男性相手にキスをねだることを少しばかり恥じてもいた。
(勢いでつい言ってしまったけれど……、結構恥ずかしいかもしれない……)
 けれど、一度言葉にしてしまったものはもう撤回できない。
 そして何より、落ち込んでいるクロードを勇気づけるにはそれしかないような気がした。
 バイオレッタはいささか強い口調で繰り返す。
「わ、わたくしを愛しているというなら、キスをして、クロード様。あなたのお好きなところに……」
「……何を」
「それでは駄目、ですか……?」
 何も言わずに、クロードは振り向く。そして小柄なバイオレッタを引き寄せて、強く抱きしめた。
「そのように無防備なことをおっしゃって。――どうなっても知りませんよ、姫」
 うなずいたバイオレッタの耳朶に、唇が落ちてくる。柔らかく耳朶を食まれて、バイオレッタの身体からくたりと力が抜けた。
 クロードが唇を移動させるたび、身体に力が入らなくなる。そのくせ、思いがけない悪戯をされると全身が慄いたように痙攣した。
 陶器めいて白い首筋、形のよい鎖骨。髪を結いあげたためにあらわになっているうなじ……。
 頬や額のみならず、いたるところに唇を押し当てられる。
 自分の唇から漏れる切なげな声に、バイオレッタは耳を塞ぎたくなった。
 ――普段は取り乱したところなど微塵も見せないクロードが、今夜に限って豹変している。嬉しいような、逃げ出したくなるような、不思議な気分だった。
「あ……、クロード、さま……」
「私だって、本当は貴女を愛したい……。豪奢な鉄の檻の中に閉じ込めて、日ごと夜ごと、愛を囁いて……!」
 愛したいなら愛してほしい。
 そう言いかけて、バイオレッタははっとして口をつぐんだ。
(駄目……。この先の言葉を口にしたら、わたくしは後戻りできなくなってしまう……)
 それは女王選抜試験のただ中で口にしてよい言葉ではない……。
 自分の浅慮は悲劇の元だと、バイオレッタは己の心を律した。
「……愛の言葉を、返してはくださらないのですか。私がこうして、愛を乞うても?」
 クロードは指先でわずかにドレスの胸元をくつろげてきた。
 むき出しになったデコルテの柔肌にキスをされ、バイオレッタは身じろぐ。
「……だめ、です……。わたくしは、王女として……まだ、なすべきことが……!」
 そう言いながらも、バイオレッタが広い背にしっかりと両腕を絡ませるのでクロードは満足したようだ。
「酷い方だ……、自分から誘っておきながら、私を求めることはなさらないのですね」
「それ、は……っ」
 ただでさえ頭が沸騰しそうなのに、クロードはデコルテに手を這わせてくる。そして、嘲るように低く笑った。
「温室の薔薇はそこから出すべきではない……。薔薇にとって過ごしやすい環境を与え続け、守ること。それこそが、育てる人間が真っ先に考えるべきことなのですから……」
 先ほどからなんの喩えなのだろうと、バイオレッタは訝しむ。一体何の話をしているのだろうか。
(鉄の、檻……? 薔薇……?)
 何かの喩えにしては変わっている……。
 が、思考に霞がかかっていたのもそこまでだった。
「――さて。……今宵はそろそろお別れしましょうか」
「えっ……」
 ことのほか不満そうな声が出てしまい、バイオレッタは焦る。
 クロードは、手を繋ぎながら回廊をやってくる男女を視線で示した。身なりから察するに、騎士と女官のようだ。
 二人は派手な笑い声を上げながら、花壇の植え込みでぴたりと身を寄せ合う。
「……ここに私たちがいては、彼らの邪魔になります。それに……彼らに私たちのことを知られるわけにもいかないでしょう?」
 ひそひそとささやかれて、バイオレッタはようやく現実に引き戻された。
「ええ……、そうですわね」
 虚栄と倦怠に満ちた社交界では、色恋の話はうってつけの娯楽となる。そんな軽薄なところに、自分たちの話を持ち出されたくはなかった。
「……行きましょうか」
「ええ……」
 気になってちらりと振り向くと、騎士と女官は相変わらず仲睦まじく指先を絡ませ合っていた。
 ……あの二人はきっと、人前で誰にはばかることなく手を繋げる仲なのだ。
 それを思うと、クロードと堂々と手を繋げないのがもどかしくなったが、バイオレッタはできるだけ平静を装って彼についていった。
 
 
「ねえ、バイオレッタ。……なにかあったの?」
「え?」
 その日。バイオレッタは異母妹のピヴォワンヌとともに午後のお茶を愉しんでいた。
 新鮮なミルクをたっぷりと溶かした紅茶はなみなみとカップに注がれ、ソーサーには小ぶりのマカロンが載っている。
 バイオレッタはその歯ごたえを愉しみながら、同時にミルクティーを堪能した。
「まあ、おいしい。木苺のクリームね。どこのパティスリーかしら……?」
「どこのパティスリーかしら、じゃなくて! なんなのよ、それ」
「……えっ?」
 ピヴォワンヌに金の手鏡を差し出され、バイオレッタは彼女が指さす場所――首のあたりだ――を眺めた。
 その途端、瞠目する。
「いやっ……!? 何……っ!?」
 そこには点々と紅い花が咲いていた。単なる虫刺されでないことは容易にわかる。
 適切な表現をするなら、それは鬱血の痕だった。……まるで、意図的に肌を吸って傷つけたかのような。
「……なんで、こんな――」
 そこでバイオレッタは、数日前の夜の出来事を鮮明に思い出した。
 あの時、確かクロードは首筋に顔を埋めてはいなかったか。
(……まさか、そんな。あの時の……?)
 つまりこれは、クロードの所有の証ということになる。
「あんた、もしやとは思うけど、あの魔導士と――」
「ち、違うから!! そういうのじゃないから……!!」
 ピヴォワンヌがすべてを言いきる前に、素早くバイオレッタは否定した。
 話を遮られた格好になったピヴォワンヌは、はあ、と息をつき、肩をすくめた。
「……とにかく、ちゃんと隠したほうがいいかもしれないわよ。他の奴らに知られたら、なんて言われるか……」
 王妃や王太后はふしだらだと嗤うかもしれないし、オルタンシアやミュゲたちもいい笑いものにするだけだろう。
 こんなにたくさんつけられていたのでは、さすがに父王でも訝しむはずだ。
「どうしたら……」
「消えるまではチョーカーなりリボンなりを巻くしかないわね。あとは化粧で隠すとか」
「そう、ね……。そうしてみる……」
 まさか異母妹にこんなみっともない姿を見られてしまうとは……。
 ピヴォワンヌの私室を出、とぼとぼと居住棟である菫青棟に帰る。
 すると、玄関ホールから侍女たちがわらわらと飛び出してきた。
「お帰りなさいませ、バイオレッタ様!」
 弾けるような侍女の声に、バイオレッタはつい怪訝な顔になる。
「なあに、どうしたの……?」
「それが、来ておられますのよ、今! 私どもは控えの間に下がらせていただきますので、どうぞごゆっくり!」
 ぽかんとして侍女たちをうかがい見る。
 が、彼女たちのはしゃいだ様子から、中の客人はすぐに特定できてしまった。
「ちょ、ちょっと待って……! サラはどこなの!?」
 筆頭侍女であるサラは、菫青棟に出仕する侍女たちを取りまとめるリーダー役だ。彼女の許可なしに勝手な真似はさせられない。
 だが、「サラ様でしたら女官長のところですので」と訳知り顔で返されては、もう扉を開けるよりほかなかった。
(そんな……。いつもならサラが間に入ってくれるのに……)
 仕方なしに、バイオレッタはドローイングルームに踏み込んだ。
 すると――
「――ごきげんよう、姫。お邪魔しておりますよ」
「……こんにちは、クロード様」
 ソファーに身を落ち着けたクロードが、やや首を傾げてバイオレッタを迎える。次いで、彼は手にしていたティーカップをソーサーに戻した。
 ……クロードがくつろいでいるのはその雰囲気だけですぐにわかった。身に纏う空気は優しく、茶器を置く所作には微塵も荒っぽさがない。心の底からこの訪問を愉しんでいるといった様子が伝わってくる。
 もともと世話焼きのきらいがあるバイオレッタは、すぐにお茶菓子の支度を始めた。
「いらっしゃるとわかっていたら、もっと何かご用意できましたのに」
 そう言いつつも、バイオレッタは前の日に焼いたマドレーヌの包みを広げて、薄い皿に行儀よく並べた。
 紅茶は侍女らによってすでに供されており、まだ温かな湯気を上げている。
 焼き菓子の載った皿をそっと差し出すと、クロードが相好を崩した。
「……姫の手作りですか?」
「あ、ええ。ほんの手慰みですけれど」
「そのように卑下なさってはいけませんよ。形といい色といい、完璧な出来栄えではありませんか。それに、貴女の作るお茶菓子はとても好みです……。けして気取らない、優しい味がする……」
 それはいくらなんでも褒めすぎだと、バイオレッタは複雑な気分になった。だが、クロードが実においしそうにマドレーヌを味わっているので何も言えなくなる。
 手持ち無沙汰になってしまったバイオレッタは、ひとまずクロードの隣に腰を下ろした。
 本当においしくできているかどうか不安になり、皿の上のマドレーヌを取ってひとくち齧る。
 そこでクロードがはっとしたように顔を上げた。
「ああ……、私ばかり味わっていては失礼ですね。さあ、どうぞ。お注ぎいたしましょう」
「あ、ありがとうございます。だけど、そんなに気を遣っていただかなくても……」
「自分で淹れられます」、と言いかけたバイオレッタを、クロードが笑みで制した。
 バイオレッタのためのカップを用意し、二人の前に置かれたティーポットを取り上げると、優雅な手つきでそれを傾ける。
「姫に尽くすのは私にとってこの上ない喜びなのです。どうか、その楽しみを取り上げないでください」
 歌うような調子で言い、クロードはてきぱきと紅茶をサーブしてくれた。
 さすがに父王相手にあれこれと世話を焼いている男は手際の良さが違った。
 茶葉を紅茶の中にまき散らすような真似はしないし、必要以上にテーブルを汚すこともない。ポットの中身は“ゴールデン・ドロップ”と称される最後の一滴まで注ぎ切る。
 何より指先のしぐさが上品で、思わず見とれてしまった。
 なんとも奇妙なものだ。自分の部屋にいながらにして、客であるクロードに給仕をされてしまうなんて。
 しかも淹れてもらった紅茶がやけに美味しく感じられ、バイオレッタは唸る。
(どうしてかしら。砂糖もミルクも必要ないほど、まろやかで飲みやすい味がする……。自分で淹れたときより格段においしい)
 それがただ単に親しい人間に淹れてもらったせいだということにも気づけぬまま、バイオレッタは思案顔でカップを傾けていたが。
「……お会いするのは先日の舞踏会ぶりですね、姫」
 微笑しながら言われ、バイオレッタははっとして首筋に手をやった。
 ……そうだ、あのキスマークのことを問いたださなくては。
「……あの、クロード様?」
「はい?」
「わ、わたくしのここに……、たくさん……、その……」
 しどろもどろになっていると、クロードがくつくつ笑った。
「……ええ。何をおっしゃりたいのか、薄々気づいておりますよ。貴女の肌に残した所有印のことでしょう?」
 開き直った態度に絶句するが、言いたいことは言っておかねばと、バイオレッタは身を乗り出した。
「あ……。あの……、こういうことをされると困るのですわ……。もし誰かに指摘されたら、わたくしは一体どうすれば……」
 しかし、クロードはあくまで品よく紅茶を啜った。
「私を誘ったご自分にも非があるかもしれないとお考えになったことは?」
「え……、そ、そんな」
「貴女はあの夜、どこでも好きなところにキスをしてくれとおっしゃいましたよ。そうまで言われて、この私が何もしないとでも?」
 ゆっくりとカップを置き、クロードは妖艶に微笑む。
「……私とて男ですよ、姫。貴女を好きにしたいと思う心くらいはありますし、目の前にいらっしゃれば貪りたくなる。そういう人間なのです」
「……!!」
 大胆すぎる発言に、さあっと青ざめる。
「嫌いになれだなんて、嘘でしたのね……。ただの演技だったのですね……」
「さあ? それは貴女の受け止め方次第でしょうが……」
 バイオレッタは飲みかけの紅茶もそのままに、勢いよくソファーから立ち上がる。
 そして訝しげな表情をするクロードからじりじりと距離を取った。
「……姫?」
「そ、そんなことをおっしゃるような方と、平然とお茶なんてできませんわ!」
 好きにしたいだの、貪るだの、一体なんなのだ。
 想いを寄せている――しかも齢十七の――少女に向かって恥ずかしげもなく言うことではない。
「わたくしはそんないやらしいことをおっしゃる殿方とは一緒にいたくありません!」
「またそうやって、私を遠ざけようとなさるのですね……」
 クロードはあの夜と同じ寂しそうな顔を、一瞬だけした。
 だが、それは本当に一瞬のことで、彼はすぐに傲慢極まりない微笑を浮かべた。
 余裕ある態度のままゆっくりと立ち上がると、無言でバイオレッタを追いかける。
「……!」
 逃げ惑うバイオレッタの様子を、クロードはまるでいたぶるように眺めている。その堂々とした態度は、さながら獲物を前にした大型の獣のようだった。
「追いかけっこですか、姫? ふふ……」
「や……、来ないで!」
 客間ドローイングルームの外にだって逃げようと思えば逃げられたのだが、もともと足が遅いせいもあって、バイオレッタはすぐに窓際まで追いつめられてしまった。
 さらに後ずさろうとした途端、背がこつりと窓硝子に触れた。
「どうして追いかけてくるのですか!」
「貴女がお逃げになるからです」
「に、逃げますわ……、むしろこの状況で逃げないなんて、どうかしています……!」
 何せここは密室である。おまけに眼前のクロードが凄みのある目をするものだから、どうしたって逃げたくなるのだ。
 サラが女官長のところから戻ってくるまで、なんとかやり過ごさなければ――。
 そう思った矢先、クロードがやおら片腕を窓硝子についた。
 クロードの身体がぐっとのしかかってきて、彼と窓硝子とのあわいに閉じ込められる格好になって焦る。
「ふふ……。あの時私を本気で拒絶しておけば、このようにドローイングルームで迫られることもなかったでしょうに」
 言って、クロードはちらと入口の方を振り返った。
 バイオレッタは思わずあっと声を上げる。……扉の隙間から侍女たちの顔がのぞいたからだ。
「う、嘘……、侍女が……っ! お、お願いです、離れてください……!」
「可愛らしい女性たちだ……。私たちのことが気になって気になって仕方がないという顔をしている」
 かまわずクロードは、バイオレッタの額にキスをした。
「や……!」
 侍女たちの黄色い声に、バイオレッタは泣きたくなった。
 同じ居住棟で生活する者同士なのに、こんなおかしな場面を見られてはこの先やりづらい。互いに気まずくなりそうで恐ろしくなる。
「いや……。クロード様なんか、嫌いですわ……」
 泣き言を言うと、背けた顔を指先で持ち上げられ、上向かされる。
「本当に?」
「わたくしをいつも苦しめてばかりで……。いつも、ご自分のなさりたいようになさってばかりで……、嫌い……」
 ぎゅっと身を縮こまらせるバイオレッタに、クロードは恭しく顔を近づけた。
 侍女たちに悟られぬよう、密やかにその唇を奪う。
「……!」
「……いじめるのはこれくらいにしてあげましょう。私は貴女に怯えられるのは本意ではないのです」
 手を引かれて渋々ソファーに身を落ち着けると、クロードが首筋のキスマークに熱っぽい視線を注いだ。細く長い指先で、そっとなぞられる。
「貴女を愛するのは私一人だけでじゅうぶんです。誰かに愛を乞われた時には、しっかりと拒んでくださいね。これはそのためのまじないのようなもの……」
 確かに、彼にはそうするよりほかないのだろう。……バイオレッタへの独占欲をどうにかして満たすためには。
「また……夜会の席でお話してもよろしいですか?」
「貴女が望むなら、私はそれに従うまで……」
「……また、苦手な殿方から守ってほしいですわ」
 男性たちから守ってもらうというのは建前だ。そうしていれば、宴の間だけはクロードのそばにいられるし、父王に咎められることもほとんどない。
 だからつい「守ってほしい」などと口走ってしまったのだ。
(わたくし……、なんて浅ましい……)
 
 バイオレッタは手を伸ばすと、クロードのそれにぎゅっと絡めた。
 驚いたように瞳を瞬かせるクロードに、弁明するように言う。
「そ、外では手を繋ぐなんて滅多にできないから……。今だけ、こうさせていただけませんか……?」
「ええ、どうぞ……」
 返答に安堵したバイオレッタは、ことりと頭をクロードの肩にもたせかけた。
 クロードの手が、ドレスと共布のリボンを大きくすくいあげ、腰をしっかりと抱く。手のひらはしっかりしていて大きく、少女のバイオレッタのそれよりもはるかに熱かった。
 バイオレッタはそこで瞬時に悟った。自分はクロードを恐れているのではなく、彼の一挙一動に胸を高鳴らせてしまっているのだと。
 瞳を見つめるのが怖いのは、クロードのまなざしが真剣だから。
 そして、つい逃げたくなるのはこの想いを否定されることへの恐怖の表れであり、一種の防衛本能なのだろう。となれば、クロードばかりを責められない。
(わたくしは、そんな簡単なことにも気づけずにきたのね)
 ……これからはできる限り、彼と向き合っていかなくては。
 現にクロードはバイオレッタから逃げてはいない。バイオレッタをからかったり、反応を愉しんだりすることこそあるものの、いつも態度は泰然として大らかだ。
(それは、少しでもわたくしのことを知りたいと思って下さっているからなのね……)
 バイオレッタはクロードの鼓動を間近で感じながら、そっと唇を開く。
「……クロード様。わたくし、これからもこの王宮で頑張っていきますわ。ですからどうか、いつもこうしてそばで見守っていてくださいませ」
「ええ……。ずっとこうしていますよ、姫。それが貴女のお願いなら……」
「嬉しい、ありがとうございます……」
 ぼんやりした頭で返答すると、クロードが恭しく髪に口づけてくる。
「私はもはや、貴女の奴隷も同然です。ご命令に従うことはあっても、はねつけることなどできません」
 不思議な言い回しに、バイオレッタは思わずクロードを見上げる。
「それは、わたくしがお父様の娘だから?」
 クロードはくすりと笑みをこぼし、「いいえ」と答える。
「……貴女という女性の囚人めしうどだからですよ」
 指の背で頬を撫でられたと思った矢先、淡い口づけが降ってきた。
 合わせる唇は薔薇の花弁にも似てしっとりと冷たかった。
 寵臣の腕に抱かれた王女は夢うつつで思う。
(……どうか、終わらないで)
 一瞬で過ぎ去る春の夢が、どうか永遠のものとなりますように――。
 そう祈りながら、バイオレッタはゆっくりとまぶたを下ろした。
 

前作の「夢」とほとんど似ているタイトルではありますが、関連性はありません。
シリアス路線を目指したはずが、結局カップル二人がいちゃついてるだけのお話に。
が、現在、本編では二人ともややどんよりムードなので、久々に明るい二人が書けてほのぼのしました。
楽しんでいただければ幸いです。

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