雨の日の記憶

クロードとミュゲの「過去」を描いた短編。本編と少しだけリンクしています。
 

 
 
「クロード、遅いわ! 置いていきますわよ!」
 馬上のオルタンシアが声を張り上げる。
 列の最後尾についたクロードは、息を切らしつつそれに応えた。
「お好きなように、オルタンシア様。私めは妹君を休ませてから参ります。どうぞ先に行っていらしてください」
 オルタンシアは乗馬服姿で唇を尖らせた。
「……もう!」
 すぐに手綱を操り、馬を走らせ始める。愛馬はいななきとともに軽快に駆けだした。
 クロードはハンカチーフで額の汗をぬぐいながら、大きなため息をついた。
 
 ……今日は王女たちと一緒に王都郊外まで遠乗りに来ている。
「たまには城の外の空気を吸いたい」
 そんな娘達からの申し出に、国王リシャールの許可が出たのだ。
 第一王女オルタンシアは愛馬を駆り、身体の弱い第二王女のミュゲは侍女や青年貴族に伴われながら、思い思いに久しぶりの外を愉しんでいる。
 
 オルタンシアの毅然とした後ろ姿を、クロードはそっと目で追った。
 
(全く。妙齢の姫君がああして馬を駆るなど、私には何とも受け入れがたいことです……)
 
 ミュゲが徒歩で移動しているのに対し、オルタンシアは騎乗という形をとっている。
 これはクロードにしてみれば衝撃だった。
 別段手弱女たおやめが好みというわけではない。ただ、あまりに男性よりも秀ですぎているとそれはそれで気後れがしてしまうのである。
 クロード自身体格にも腕力にもまるきり自信がないので、できれば後ろからついてきてくれるような慎ましい女性の方が好きなのだが、オルタンシアにはそういった面がまるでない。そういう意味では理解に苦しむ存在でもあった。
 オルタンシアはなよやかな女性が多いスフェーン大国では異質なほうで、あの豪放磊落な性格は母であるシュザンヌよりもむしろ祖母のヴィルヘルミーネに近いものがあるような気がする。
 オルタンシアが女王になった場合、スフェーンは強国にはなるだろうが今一つ優雅さに欠ける国だと言われてしまうかもしれない。
 
 …クロードがため息をこぼした、その時。
 
「……クロード?」
 隣から小さな声で呼びかけるものがある。オルタンシアの異父妹、第二王女のミュゲ姫だ。
「お前、さっきから顔色が悪いわ。疲れているのではない?」
「ええ……、実は少々疲れました。そういうミュゲ様はお疲れではございませんか?」
「……わたくしもちょっぴり疲れた。それに、さっきから胸が苦しいの。薬は持ってきているのだけれど、なかなか飲む機会がなくて」
 クロードがそれに返事をしようとすると、背後からひそひそと男たちのささやき声がする。
 見れば、ミュゲの取り巻きの青年貴族たちがちらちらとこちらに視線を送ってきていた。
 彼らはみなミュゲに好意を寄せている。……正確に言えば、彼女の美貌と肩書に、だが。
 
 まずは若かりし頃のシュザンヌ妃に瓜二つという、この美しさ。
 香油で整えた翡翠色の波打つ髪は艶やかで、思わず触れてみたくなるほどの輝きを放っている。
 同じ色の双眸は冷たく研ぎ澄まされているけれども、時折愛らしく瞬かれたり、見開かれたりする。
 根が純真なミュゲは、万華鏡さながらに表情を変える。このくるくると変わる顔つきをずっと独占していたいという宮廷人は多いだろう。
 
 もう一つ彼らが惹かれてやまないものがあるとすれば、それは彼女の「第二王女」という肩書だろうと思われた。
 ミュゲは王位継承者であり、この国の継嗣の一人だ。
 うまく心をつかむことができれば、女王の婿として君臨できる可能性は十分に高い。
 もっともそれは、彼女の心を射止めることができ、なおかつ彼女が女王となった場合に限られる話だが――。
 それにしても、なんという隙の多さだろうか。彼らの下心に、果たしてミュゲは気づいているのかいないのか……。
 
「……」
 クロードは腕を伸ばして、彼らの粘ついた視線からミュゲを庇うようにした。
「クロード?」
「木陰へ参りましょうか、ミュゲ姫様。泉の水を汲んでまいりますので、どうぞお薬をお飲みになって下さい」
「……ありがとう! 実はちょっとだけ、そう言ってくれたらいいなって思っていたの」
 ぱっと笑顔になり、ミュゲは嬉しそうにクロードの腕を取った。
 
 
 大木の下に腰を下ろしたミュゲは、クロードが汲んできた水を受け取った。
 薬包を開き、粉薬を喉に流し込む。少しだけむせてしまったが、なんとか飲み下した。
「大丈夫ですか?」
「ええ。毎日のことだから慣れっこよ」
 本当はこの薬の味が独特すぎて嫌いなのだが、それは言わずにおいた。大好きなクロードに余計な心配はかけたくない。
「……ごめんなさい、クロード。気を遣わせてしまったわね。もう、戻る?」
「落ち着くまでおそばにおります。また発作が起きてはいけません」
「ありがとう。お前は優しいわね」
 クロードと自分は、どことなく同じ空気を纏っているような気がする、とミュゲは思う。悲しみの、あるいは、拒絶の。
 だからこそ、居心地よく感じる。自分自身を理解してもらえそうな気がするからだ。
「……ねえ。覚えている? わたくしたちが仲良くなってからもう二年も経つのよ」
「ええ。貴女と初めてお会いしたのは二年前の夏、でしたね……」
「そうよ。鈴蘭が盛りで美しかった。苦しくてしゃがみこんでいたらお前が見つけてくれて、宮廷医のところへ運んでくれたの。とても嬉しかったのよ。ずっと心細かったのに、それが一気にどこかへ吹き飛んでしまったくらい……。あれから鈴蘭の花が大好きになったわ。昔は毒花だと思って嫌っていたけれど、お前との思い出が詰まった花だって思ったら――」
「……ミュゲ様。そのようにおしゃべりなさっては御身体に障りますよ」
 低い声でたしなめられて、ミュゲはびくりとする。
(またしゃべりすぎてしまった?)
 ミュゲが饒舌になると、いつもクロードはそれを嫌がった。眉根を寄せて黙り込んでしまうのだ。それがミュゲには悲しかった。
「ごめんなさい。わたくしばかり勝手に……!」
「いいえ……。御気分が良くなったのでしたら、そろそろ姉君と合流いたしましょうか」
 ミュゲの胸がずきんと痛んだ。……発作ではなく、心の痛みで。
(わたくしは、またクロードに嫌われるようなことをしてしまったんだわ。だから合流を早めようとしているのね……)
 要するに、一緒にいたくないということなのだろう。恐らく、ミュゲと二人きりでいるのが不快なのだ――。
 ただの早合点かもしれない。だが、その可能性だって十分にある。
 そばにくっついているのが苦痛だと思われていれば。
 
 クロードに促されて、ミュゲは大人しく立ち上がった。すっと手を差し伸べるクロードに、そろそろと右手を預ける。
 手を引かれて歩き出そうとしたとき、ぱらぱらという何かを打つような音に気づいた。
 見上げれば、大樹の梢を水滴が叩いている。
「……雨?」
「そのようですね。恐らく驟雨しゅううかと。……仕方ありません、こちらでしばらく雨宿りいたしましょう」
 そう言うなり、クロードは羽織っていた漆黒のコートを脱ぎ、ミュゲの背にふわりと着せかけた。
 次いでミュゲの背に手を回し、大樹の真下へと導く。
「……あまりお召しものを濡らさないほうがよろしいでしょう」
「……!」
 ミュゲは突然の雨に感謝したい気分になった。
 ここでこうしている限りは、確かにクロードと二人きりでいられる。もうしばらく言葉を交わすことができるのだ。
「ありがとう、クロード。やっぱりお前は優しい殿方ね」
 
 二人はしばらく木陰で通り雨をしのいだ。
 雨の音はミュゲの耳にいたく静かに響いた。
 冷たい雨粒が葉末を打ちながら下へ下へと流れてゆく。辺りの空気はにわかに重みを増し、湿りけと生ぬるい風を伴ってミュゲの身体を包み込んだ。
 そこでミュゲはふと黙りこくるクロードに不安を覚えた。
 彼はまるで影のようにミュゲに付き従い、先ほどから一言も発していない。
 ……沈黙が怖い。
 とっさにそう思って、ミュゲはなんとか話を切り出した。
「……あのこと、迷惑だった?」
「あのこと、とは?」
 何のことかわからないといった表情で、クロードがミュゲを見やる。
 そのどこか疲弊したような顔つきに、ミュゲは図らずもどきりとした。
 
 クロードのこのどこか疲れたような様子がいつも気にかかっていた。
 彼はいつも弱々しくけだるげな、それでいてなんとも艶めいた表情をする。
 普通の男がそんなことをすればただくたびれて覇気のない印象になってしまうだけだが、クロードにはそれがない。
 彼は弱り切っている姿さえうまく魅力に変えてしまうのだ。
 ミュゲが強く惹かれたのは、クロードのそうした脆さだった。
 物憂げな姿を見せられるたび、ミュゲは、彼を守りたい、寄り添いたいと願ってしまう。
 自らも弱い人間でありながら、どうにかしてクロードを支えてやりたいと思ってしまうのだ。
 
 発言を待ちわびる様子のクロードに、ミュゲははにかみながらも答えた。
「お父様に、お前に姓を授けてくださるようお願いしたことよ。わたくし、余計なことをしたのではないかとずっと気になっていて……」
 
 ミュゲは長いことクロードに正式な姓がないのを気にしていた。
 元が浮浪者であるとはいえ、クロードのアルマンディン侵攻における戦功と実績は、もっと宮廷内で褒めたたえられるべきだとも感じていた。
 だから、父王リシャールにこっそり進言したのだ。クロードの働きぶりを認めてほしいと。どうか宮廷にあっても恥じることのないような身分を与えてやってほしいと。
 そうして生まれたのが今の彼――、宮廷人から畏れられる最高位の魔導士、クロード・シャヴァンヌである。
 今のクロードを作り上げたのはほかでもない自分自身だという自負と誇りがミュゲにはあった。
 
 彼は、ゆったりとかぶりを振った。
「いいえ。ありがたいと思いこそすれ、疎ましく思うようなことはございません。貴女の進言があったからこそ、私は今宮廷でこうして立ち回っていられるのでしょう。そのことに関しては感謝いたしております」
 ……そこで唐突に胸に落ちた、重い悲しみ。
 まただ。また一線を引かれてしまった……。
 ミュゲはありがたいなどと言われたいわけではなかった。
 自分のしたことを認めてほしい、喜んでほしいとは思ったものの、こんな風に他人行儀に礼を言われたいわけではなかったのだ。
「クロード……。お前はいつもそうね。自分の心にしっかりと線を引いて、そこから先へは他人を入り込ませないようにしてるんだわ」
「それはミュゲ様も同じでしょう。結局のところ、貴女も私と同じだ。むやみに他人を寄せつけぬよう、境界線をしっかりと設けていらっしゃいます」
「違うわ!! わたくしは……っ!!」
 ミュゲが瞳をつり上げると、クロードは冷静な態度を崩さぬまま、彼女の肩をなだめるように撫でる。
「ミュゲ様……。そのように激されますと、御身体に障りますよ」
 ミュゲはがむしゃらに首を打ち振った。
 
(違う……、違う……! わたくしはそうやって気遣われたいんじゃない。お前に、一人の人間として見てほしいだけなの……!)
 
 これ以上クロードの重荷でありたくない。ただ、彼と同じ目線で話したい。
 幼子のようにあやされるのではなくて、一人の女性として対等に見てもらいたいのだ。
 クロードはいつもミュゲの外面や肩書だけを見ていて、ミュゲの本質までは見てくれない。……否、見ようともしない。
 そんな相手との逢瀬など無意味だとわかっていても、結局ミュゲは期待する自分に負けてクロードを呼び出してしまう。
 言いたいこともろくに言えないまま――。
 
(だけど……、そんなのってあまりにも悲しいわ)
 
 逡巡ののち、ミュゲは漆黒の上着をそっと脱ぎ捨てた。
 厳格な雰囲気さえ漂うクロードの背に、両腕を回す。
 突然背後から伸ばされた腕に、クロードが息をのむ気配がする。かまわずミュゲは、か細い声を絞り出した。
「ずっとこうしていたい」
 雨で湿ったクロードの胸に、ミュゲは細い腕を添わせた。
「わたくしでは、駄目なの……?」
「何、を――」
「お前はいつもぎりぎりのところでわたくしを拒んでいる。わたくしに、その心を覗くことさえ許してはくれない。でも、わたくしはずっとお前が……!」
 十四の夏、発作で苦しんでいるところを助けてくれた『憧れの君』だ。
 年は離れているものの、ミュゲにとってクロードは兄のような存在ではなく、立派な恋の対象だった。
 しかし、クロードはそれをやんわりとはねつけた。
「……私は、ミュゲ姫様の恋のお相手にはふさわしくありません。ご存知でしょう? 私のことを宮廷の官僚たちがなんと呼んでいるのか」
「『年を取らない化け物』、でしょう? そんなの、わたくしは気にしてない。気にする理由がないもの」
 クロードに助けられたあの日から、ミュゲは確かに変わっていった。閉ざされていた道が、急に開けたような気がした。
 今にして思えば、あの日までずっとこの胸に巣食っていたのは恐らく一種の呪縛だったのだ。
 自分には助けてくれる人間などいない。だから誰にも期待なんてしない。ずっとそう思ってきた。
 けれど――
(お前がわたくしを変えたのよ)
 クロードと逢瀬を重ねるようになってから、しだいに宮廷での生活がそれほど苦痛ではなくなってきた。
 男性嫌いは相変わらずだったが、いつもクロードにしているように接すればいいのだと気づき、少しだけ気が楽になった。
 彼さえ見ていれば何も恐れるものなどないのだと、そう思ってきたのに――。
 
 クロードはゆっくりと振り向き、ミュゲの手をそっと引きはがした。
「ミュゲ姫様。手をお放しになって下さい。他の者に知れたら醜聞になってしまいますよ」
「構わないわ! お前がわたくしだけ見てくれるなら、貶められたっていい。そんなの、怖くない」
 ミュゲはより一層力を込めてクロードに抱きついた。
 クロードが優しい顔をするたびに辛くなってしまう。もっと期待してもいいのだろうかと。
 ここで手を離されれば、ミュゲはまた独りになってしまう。
 意固地で可愛げのない態度を取ることしかできない、昔のミュゲに戻ってしまう。
 雨音に急かされるままに、ミュゲはとうとう想いを告げた。
「お願い、そばにいて……! わたくしはお前が好き。お父様の臣下としてなんて見られない。だってわたくしは、殿方としてお前が好きなんだもの……!」
 クロードは前髪から大粒のしずくを滴らせたまま、何かを堪えるような顔をした。
「……ミュゲ姫様」
「お願いだから、わたくしにもっとお前の心を見せて。少しでもお前のことを知りたいの……、そう思ってはいけない? ねえ、クロード。そうやってわたくしを、遠ざけようとしないでっ……!」
 長すぎる沈黙を、ふいにクロードが破った。
「……申し訳、ありません」
 彼は黄金の瞳を伏せ、深々と頭を垂れる。
 ミュゲは美しいおもてに未だ烈しさを宿したまま、静かに彼を睨み据えた。
「それが、答え……?」
 クロードは肯定も否定もせず、ただ黙っている。ミュゲは密かに爪を手のひらに食い込ませた。
(そう……。そんなにわたくしを遠ざけたいの……)
 やはりこの想いは受け入れてもらえないものなのだ。
 クロードはこの感情を喜ばない。むしろ迷惑とさえ思っている。
(薄々わかっていたわ……、お前がわたくしと距離を詰めたいとは思っていないことくらい。一人の女である前に、わたくしは王女で……クロードにとってはお荷物でしかなくて……。お父様が養育なさっている娘のうちの一人でしかなくて。そして何より、自分が愛想をふりまいておかないと困る相手……)
 宮廷内で醜聞になって困るのは、きっと自分ではない。彼の方だ。
 ミュゲと噂になったら、きっとクロードの方が困るのだろう。
 うまく立ち回れなくなるのが嫌なのか、あるいは単に父王に咎められるのが迷惑だからなのか。それはわからない。
 だが、彼にミュゲを選ぶ気がないことは明らかだった。彼はミュゲを選ぶことになんの利益も感じていないのだ。
(でも……ずるい。寂しい。あんまりよ、クロード……)
 ミュゲは泣きだしたくなる気持ちをぐっと堪え、クロードを見上げる。
 口元を歪めた刹那、乾いた笑い声が唇から漏れた。
「雨がやまなかったら、ずっとお前をここに留めておけるのにね」
「……私を留めて、どうなさりたいのですか」
「お前とずっと一緒にいるわ。お前が悲しんでいたら涙を拭いてあげるし、凍えそうなときには温めてあげる。ねえ、どうしてわたくしにその役割を与えてくれないの? わたくし、切ないわ。切なくて、涙が出そうよ……。こんなに長く一緒にいるのに、お前はいつも遠いんだもの……!」
 涙を拭く役目も、ぬくもりを与える役目も、全部欲しかった。
 これまで与えられたものは全部返したかったし、姓を賜れるように取りはからったのも、少しでも彼の役に立てればいいと思ったからだ。
 なのに。なのに――
「あんまりだわ……! わたくしの何が駄目? 教えてよ。全部直すから……! だからお願い、このままずっと、わたくしのそばにいて……!」
「――誰にも、一人の人間の心を留めておくことなどできません。万物は移り変わるもの。人の心もまた同じです」
 クロードはもう何も言わず、ミュゲを横抱きにして木陰から出る。
「やっ……!?」
「……お召しものが汚れますので」
「……!」
 彼は何も聞かなかったかのように、これまでと同じ態度で接してくる。
 そんな状況に、ミュゲは申し訳なさと恥ずかしさでいっぱいになった。
 やはり想いを告げるべきではなかったのだ……。
「いや……っ! 自分で歩けるわ! 下ろして……!」
「……乗馬服姿の姉君と違ってドレスを着ていらっしゃるのに?」
「いや……。触らないで。今は触られたくないの!!」
 そう言って突っぱねれば、またため息をつかれる。
 ミュゲはやり場のない気持ちでいっぱいになった。
 幼稚なことをしているのはよくわかっている。
 強引にこちらを向かせようとし、自分のものにならないとわかった途端「触るな」と言い放つ。これでは完全に子供のわがままだ。
 ……けれど。
(お前がいてくれないと不安なんだもの。そして、お前にもっと心を開いてほしいの。それは無理なの?)
 相手に一方的に自己開示を求めるのではなく、自分からも心を開かなければうまくいかないのだということに、このときのミュゲはまだ気づいていなかった。
 
***
 
 やがて、二人の関係には転機が訪れる。
 行方不明になっていた第三王女バイオレッタが王城に戻ってきたのだ。
 クロードが彼女の保護のために城下へ降りたとき、嫌な予感がした。
 なぜだかはわからないが、クロードがその第三王女に心奪われてしまうのではないかというおかしな胸騒ぎがしたのである。
 そして、予感は見事に的中した。
 第三王女は大層な美姫だった。
 スフェーンでは稀有な色彩いろとされる白銀の髪に、国花であるすみれ色の双眸。少女らしくふっくらとした、丸みのある体つき。
 誰よりも人目を引く容貌を持ち合わせて生まれてきたのは確かで、ミュゲ自身その姿を初めて遠巻きに確かめた時には一抹の羨望を覚えた。
 たおやかで繊細な美貌と、壊れ物めいて儚げなたたずまい。穏やかで毒気のない微笑。
 こんな姫ならどうしたってクロードの視線を奪うに決まっているではないか。
 とっさにそう感じたのだ。
 彼女の帰還はミュゲの心を激しく脅かした。
 そのせいか、クロードとミュゲとの間には今まで以上の距離が生まれてしまい、今ではもう何をするにも互いにぎこちなくなってしまっている。
 それもそのはずだ。もう彼の気持ちが自分のところにはないということを、ミュゲは痛いくらい理解しているのだから。
 クロードの方も恐らく似たようなものだろう。
 彼はミュゲに罪悪感を覚えているのか、はたまたバイオレッタに対して申し訳なさを覚えるのか、もう必要以上にミュゲに優しくしたりはしない。
 頼めば会ってはくれるけれど、今までよりどこかよそよそしいのだ。
 ミュゲはなんだか切なかった。
 クロードが思うように愛を与えてくれないからではない。彼のもどかしさが手に取るようにわかるからだ。
 今のクロードには余裕というものがなくなっている。バイオレッタと慎重に距離を縮めようとするその姿には彼らしい貫禄など微塵もない。
 バイオレッタと話すとき、クロードは明らかな焦りの色をそのおもてに滲ませる。
 その姿に、ミュゲはまるでもう一人の自分を見ているようだと感じてしまうのだった。
 
 
 そして、イスキア歴三八〇八年の春。
 鈴蘭の花が咲く頃に十七の誕生日を迎えたミュゲは、他の三人の姫たちと次代の玉座をめぐって争うことになった。
 最たる敵は異父姉である第一王女のオルタンシアだった。
 彼女は剣技・美貌ともに優れた姫で、官僚たちからの人望も篤い。人前でも堂々と自らの意見を押し通そうとするし、人と対立することをも恐れない肝の太さがある。
 そして見るからに女王然とした貫禄とオーラがあり、自然と人の視線を惹きつけてしまうような魅力と輝きとを兼ね備えている。
 その溌溂とした雰囲気に、ミュゲはいつも怯んでしまう。
 どうあっても姉には敵わないと感じてしまい、同時に自分の後ろ向きな思考を強く意識させられてしまう。
 
 第四王女ピヴォワンヌは一見王位に関心がないようだが、その心中はわからない。
 機会をうかがってこちらを出し抜こうと画策しているかもしれないし、何よりあのたくましさでは他の姫よりも優位に立つことなど本当はたやすいはずだ。
 面倒くさがって本気を出さないだけで、彼女は別に無能な姫ではない。むしろ強靭さや行動力といった点においてはあのオルタンシアをも遥かにしのぐはずだ。
 その力量が発揮されたときが厄介だとミュゲは密かに考えていた。
 
 ……そして、ミュゲが恋敵として敵視する第三王女バイオレッタ。
 ピヴォワンヌとともに王城に戻ってきたばかりの彼女は、つたないながらも自分の才覚だけで戦おうとしている。
 しかも、その健気な態度がどうやらクロードの関心を引いているようなのだ。
 普段は冷淡なクロードのあまりの変わりようにも驚かされたが、ミュゲが一番恐れをなしているのはバイオレッタのそのたたずまいだった。
 白銀の髪にすみれ色の瞳をした、優しげな王女。
 芯の強さと可愛らしさとを併せ持ち、周囲に絶えず人が集まってくるような、そんな姫だ。
 ミュゲのようにうわべだけを取り繕わずとも、彼女はじゅうぶん魅力的な少女だった。人懐こくて愛嬌があり、言葉遣いも柔らかい。
 また、激しい本性を内に秘めるミュゲとは異なり、裏表もなさそうだ。
 しかもそれで問題なく生きていけるのだから、ミュゲにとっては驚き以外の何物でもない。
 感情を素直に表に出せるなんて、驚嘆に値する。ミュゲはそんな生き方ができるほど強くはないというのに。
 
(わたくしには無理……、あんなに完璧な王女を超えるなんて――)
 
 バイオレッタは正当な継嗣の姫である。
 母親のエリザベスは第二王妃であったとはいえ、バイオレッタは確かに彼女とリシャールとの子だ。まかり間違ってもミュゲのような不義の姫ではない。
 しかも、病がちのミュゲとは異なり、バイオレッタは身体も至って健康そうだ。たったそれだけでもうじゅうぶんうらやましくてしょうがなかった。
 バイオレッタを見ていると、ミュゲはありとあらゆる劣等感を刺激されてしまう。
 どうあっても敵わないと感じてしまい、醜く歪んだ感情に支配されてしまうのだ。
(だって、あの子はわたくしとは『違う』……!)
 ……何もかもが違うのだ。
 
 ――先日、連れ立って歩くクロードとバイオレッタを追いかけたミュゲが見てしまったもの。
 それは庭園で抱き合う二人の姿だった。
  二人は指を絡ませ合いながら庭園を歩き、愛を語らい合い、挙句の果てにはキスまで交わしていた。
 ミュゲはそんな二人の様子に思わず固まってしまった。同時に、うっかり盗み見などしてしまった自分を激しく責めた。
 あんな口づけを、ミュゲはもらったことがない。
 クロードがするのはいつも挨拶のような軽いキスだけで、互いを求めあうような深いキスなど彼はこれまで一度たりともしてはくれなかったのだ。
 
 ミュゲは泣きながらいやいやと首を振る。
「ふっ、うう……!」
 このままではクロードが遠くへ行ってしまう。
 ミュゲが追い付けないくらい遠い所へ去っていってしまう。
 そしてその時彼の隣に寄り添っているのがバイオレッタだということはすぐに想像がつく。
 ミュゲでは駄目なのだ。
 ミュゲにはクロードの欲しがっているものは与えられない。
 自分の愛し方はクロードを窮屈にするだけだということに、もう彼女は気づき始めていた。
 クロードはミュゲに慕われることを迷惑とさえ思っている。
 だからあの空虚で寂しげな表情を楽しげなものに変えてやることはできない。……どうしても。
 
「でも、譲れないの……! わたくしはやっと、本当に欲しいものを見つけたのだもの……!」
 子鹿色フォーンの絨毯にへたり込んだミュゲは、細い背を震わせた。
 
 ミュゲは、クロードの前では強がりしか言えなかった。
「辛くない」、「痛くない」、「大丈夫」。
 クロードに嫌われたくなくて、ついそんな言葉ばかり使っていた。
 本当は意地を張るより甘えたかったのに。
 
 バイオレッタは違うのだろうか。
 クロードに対して、何も恐れることなく本音をぶつけているのだろうか。
 だとしたらやはり敵わないと、ミュゲは唇を噛みしめた。
 
 窓の外を見やり、ミュゲは力なく笑った。
「ふふっ……、あの日と同じ、雨ね……」
 

 
 
本編の「第二十九章 逢瀬」と少しだけリンクしたお話です。
この二人は似すぎているだけに仲良くなれないようなところがあって、ミュゲにはちょっと可哀想ですね。
心が閉じているのと警戒心が強いのとが仇になっていて、お互い本音で話をすることができません。
ただし蓋を開ければどちらも依存心が強くて愛情に貪欲……という。
 
クロードは自分が信用できると思わなければ相手を頼ったり依存したりしないので、ミュゲには結構酷な相手だと思います。
ミュゲ本人は「支えたい、頼られたい」と思って口添えをし、進言をし……と必死なのですが、クロードにはそれが重荷だったり。
本編でも「自分たちはただ利用しあっていただけの関係だったはず」という表現が出てきますが、まさにそういう感じです。
 
ミュゲ本人の「罪の共有」に関しては、クロード的には「一緒に同じ罪に浸っている」というよりは「これまでの借りを返した」くらいの気持ちでしかなく、ここも大きくずれているポイントです。

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