貴女への贈り物

 
「わぁっ! これ可愛いわ。見てよバイオレッタ」
 ピヴォワンヌはそう言って、華奢な銀細工の指輪を持ち上げてみせた。小ぶりの花を連ねた意匠で、所々に色とりどりの宝石が嵌めこまれている。
「まあ、ジャルディネッティ・リングね。ルビー、サファイア……、茎の部分にはエメラルドも使われているわね。素敵」
「でしょ? この花びらの部分とか、すっごく綺麗よねぇ。よくこんなに細かい細工をしたものだわ」
 指につけたらその名の通り“小さな庭ジャルディネット”のようでさぞや愛らしいだろう。ピヴォワンヌの細い指先には絶対によく似合うはずだ。
 ピヴォワンヌの視線がきょろきょろとテーブルの上をさまよう。たくさんある中で自分に一番似合うものはどれか吟味しているらしかった。
 
(ふふ……。やっぱり女の子なのね、ピヴォワンヌは)
 
 くすっと小さな笑みをこぼし、バイオレッタは異母妹の横顔をなんとも微笑ましい気分で眺めた。
 
 
 今日は中庭に商人たちの露店が出る日だ。城下の女商人たちが小さな店をいくつも出している。
 仕立て上がった衣類やドレス生地などを売るドレスメーカーの店。王室御用達の紅茶専門店。
 盛装の名脇役とも呼べるアクセサリーを売る店。いかにも少女好みな雑貨の店……。
 珍しい所では錬金術や占術の店などもあった。
 今日は姉妹二人で見に来てみたのだが、ピヴォワンヌはとても楽しそうにしている。
 水を得た魚のようにはしゃいでいる姿を見ると、こちらまで気分が明るくなってきた。
 
(後宮ではつまらなさそうにしていることも多いけれど、楽しんでくれているみたいでよかった。それにしてもお店がいっぱいで、なんだか見ているだけでもわくわくするわね)
 
 
 バイオレッタはピヴォワンヌの後ろ姿を目で追いながら、劉の商人の店を覗き込んだ。
(わあ、ここだけ異国の匂いがする……)
 その店だけ紅くくっきりとしたカーテンと房飾りで飾られ、店先には甘い香の匂いが漂っている。バイオレッタは紅い帳をかき分けて中に入った。
「いらせられませ」
 褐色の肌の女商人が、赤い唇で微笑んだ。波打つ紅い髪を頭布で飾り、耳には重たげな耳飾りをぶら下げている。
 軽く会釈をすると、バイオレッタは身を屈めて卓子の上をのぞきこんだ。
 飛び交う胡蝶のかんざし。空に向かって伸びる、白木蓮の髪飾り。
 草木染のスカーフやストール、綺麗な焼き物の香炉まで置いてある。
 劉ではこんなものが流行しているのかと思うと、単純に興味深かった。
「その御髪……、三の姫様ですわね? ふふ、お気に召すものはございましたでしょうか?」
 三の姫、というのは単に「第三王女」のことを指しているようだ。
 バイオレッタは素直にうなずいた。
「ええ。劉の品物はどれも素晴らしいですね。このかんざしなんてとても美しいです。香炉も素敵だわ、これは伝説の生き物でしょうか」
「はい。そちらは竜神にございます。劉では王室の方のご衣裳によく刺繍される神獣ですよ」
「まあ……、そうなのですか。それにしても、少し驚きました。劉は今、国交を絶っていると聞いていましたから」
 商人は穏やかに笑んだ。
「芙蓉様はあれでいてなかなかしたたかな御方ですからねぇ。あの方なら、売り込めるものはなんでも売り込んでおけと申すでしょう。そうして劉側に近づいてきた国を見定めて引き入れるという戦法ですよ」
「へえ……。やり手な為政者でいらっしゃるのね。でも、失礼かもしれませんが、今日はよくお店を出せましたわね。その……」
「ああ、この髪ですか? 頭布でまとめてはいますけれど、やはり皆さまお珍しいのでしょうねぇ。先ほどから遠巻きにちらちらと……。うふふ」
 そう言って、ころころと笑う。
 劉は領土こそ広大だが、シエロ砂漠やジプサム山脈といった難所に隔てられており、他国との交流も少ない。
 山を越える、あるいは海上を通って向かうしかないのだが、どちらも旅慣れない者にとっては危ない道のりらしい。
 劉人は自国の言葉だけしか喋らないものと思い込んでいたが、女商人は綺麗なスフェーン語を会得していた。紅い髪や艶のある浅黒い肌も目を惹きつけるものがあり、とても蠱惑的だ。
(劉はピヴォワンヌのいた国なのよね。そういえば、料理人たちの中にもほんの少しだけ劉人がいた気がするわ。こういう人たちをまとめている『芙蓉女王』って、一体どんな方なのかしら……)
 まだ見ぬ異国に想いを馳せ、商人とひとしきり話をしてから、バイオレッタは露店を離れた。
 
 
「ピヴォワンヌ? ピヴォワンヌ! あら……、もういなくなっちゃったのかしら」
 ふう、と息をつき、バイオレッタは紅茶の専門店の店先を見やった。
「あ……、前にクロード様にお茶を買っていただいたお店だわ。今日もここに来ていたのね」
 そういえば、クロードは元気にしているのだろうか。
 しばらく顔を見ていないせいか、妙に心配になってきた。
 侍女に手紙を託してみようか、などと考えていると、不意に視界に影が差した。
「ごきげんよう、姫」
「まあ、クロード様!?」
 にこやかに辞儀をし、クロードは微笑む。
「よい日和で何よりですね。少々陽射しが強いのが気にかかりますが」
 言ってクロードは、額の汗をハンカチーフで拭った。白レースの縁取りがいかにもクロードらしい。
 やや参っている顔で、クロードは首筋の汗を拭き取った。
 漆黒の宮廷服のおかげか、はたまた襟元のクラヴァットの影響か、どうも暑さには弱いようだ。
「ここのところめっきり音沙汰がありませんでしたから、少し心配になっていましたわ。こんにちは、クロード様」
 そう言って挨拶をすれば、彼はため息まじりにこぼした。
「ここ数日忙しかったのです。全く……、陛下のわがままには付き合いきれません。毎回、国王執務室で政務への助言を求められるのです。ようやく暇になったかと思えばチェスの相手までさせられて……。だいぶ疲弊してしまいました」
「まあ」
 そのとき、ピヴォワンヌが軽快な足取りで戻ってきた。
「バイオレッタ! 待たせて悪かったわね」
「いいえ、ちょうどよかったわ。探していたのよ」
「あれ? 誰かと思えばクロードじゃない。仕事かと思ったら、また薔薇後宮に来てるのね。ふーん、まあいいけど」
「ごきげんよう、ピヴォワンヌ様」
 クロードはピヴォワンヌに向けて深々と腰を折った。
 が、ピヴォワンヌはさらりと無視をした。
「ねー、バイオレッター。ちょっと聞いてよ!」
 ピヴォワンヌはクロードを突き飛ばすようにしてバイオレッタに近寄ってきた。
「やっぱり犬猿の仲だわ」、と冷や汗をかきながらも、バイオレッタはピヴォワンヌに向き直る。
「どうしたの?」
「見て見て、これ。いっぱいお買い物しちゃったのよ。って言っても、度を超すような買い物はしてないから安心してね! これはペアのティーカップ! 今度あたしの部屋に来たら、これでお茶にしましょ。こっちは城下のお菓子! 今一番人気があるパティスリーなんですって!」
 言って、荷物をごそごそやる。小箱の中にはいかにも彼女の好きそうなデセールがたくさん収められていた。
「あんた、何か見てきた?」
「いいえ。まだきちんと回っていなくて」
「あ、そうよね……。あたし、あんたを置いてけぼりにしちゃったもんね。じゃあ、今度はバイオレッタが見てきて。あたしは一休みしてるから」
 すまなそうに言い、ピヴォワンヌは手を合わせる。
 と、そこでクロードが口を挟んだ。
「……ピヴォワンヌ様。姫を少々お借りしても?」
「は?」
「貴女のお買い物はもうお済みになったのでしょう? 私は姫のお買い物にぜひご一緒したいのですが」
 要するに「バイオレッタを貸し出せ」ということらしい。
 ピヴォワンヌは一瞬だけむくれたが、すぐに「いいわよ」と応じた。
「あたしはあたしでやすんでるから。それに、今日だけはこの子を置いていったあたしが悪いんだもんね」
「ありがとうございます。では、参りましょうか、姫」
 微笑み、クロードはバイオレッタの手を取った。
「いってらっしゃい、バイオレッタ。あとで戦利品見せてよねー」
 のんびりと手を振るピヴォワンヌに、バイオレッタも空いたほうの手で応える。
「ありがとう。お買い物が終わったらお茶にしましょうね」
 
 
「ごめんなさい、クロード様。なんだか気を遣っていただいて」
「謝罪などなさらないで、姫。せっかくですから愉しみましょう。今日は何をご覧になりたいですか?」
「ええと……」
 二人はたわいない会話をしながら順繰りに露店をのぞいた。
 隣にクロードがいるせいでやや緊張するものの、場の高揚感がそれさえ打ち消してしまう。
 中庭を行き交う女たちは皆楽しそうで、こちらまでわくわくした気分にさせられてしまうのだ。
「おや……、今日は珍しい店が来ているようですね」
 クロードの言葉に、バイオレッタは顔を上げた。
 次いで「ああ……」とつぶやく。
「王室御用達の化粧品店と香料屋ですわね。あのお店のマダムたちは滅多に登城しないことで有名ですわよね」
 王室御用達の証である獅子の紋章を確かめつつ答えると、クロードがうなずく。
「クラッセル公国で流行している白粉おしろいや口紅の製法を、スフェーンでいち早く取り入れた名店ですね。香料屋の調香師もサロンで度々話題に上る時の人です。あの店の香油や香水は注文を受けてから作り始めるので、手元に届くのは三月みつき後だとか」
「まあ! ということは、正真正銘のオートクチュールなのですね。なんて贅沢な……」
「ふふ……、欲しいのですか、姫?」
 バイオレッタははっとして手で口元を押さえた。
「あ、あの、いえ……。とても素敵だなぁって思っただけですわ。ほんの少し欲しくはなりましたけれど、わたくしではきっと似合いませんし……」
「消極的ですね」
「……だって」
「もっと自信をお持ちなさい。国庫を食いつぶしさえしなければ、オートクチュールの香水くらい纏ってもよいのですよ。過去にはそうして民たちの羨望の的となった王女もいます。姫君の華やかな暮らしぶりというのも、市井の娘たちにしてみればどうしても憧れてしまうものの一つなのですから」
 確かに、ほんの少し前のバイオレッタもそうだった。
 式典の日には馬車に乗ったお姫様が少しでも見えないかと胸を高鳴らせたし、装飾品の店先に並べられたロケットペンダントには王女たちの絵姿が嵌めこまれていてときめいたものだ。
「……では、今度余裕のある時にでも頼んでみようかしら」
 遠慮がちにそう言うと。
「いえ、今度などとおっしゃらず、ぜひ今日にいたしましょう」
「ええっ!? まさかそんな、今日……ですか!?」
「ええ、せっかくですし今日がよろしいでしょう」
 にこやかに提案し、クロードは化粧品店と香料屋が軒を連ねる場所へとバイオレッタを引っ張っていった。
 いかにも高級そうな店が連なる一角で、気後れする。
「あっ、あっ、あの!! クロード様……!!」
「第三王女殿下にぴったりの香りはございますか、マダム」
 そうこうしているうちに店の女主人から試香紙をいくつも差し出され、頭が真っ白になる。
(そんな……。こんな時に嗅いでも、全然わからないんじゃ……?)
 だが、女主人の差し出した試香紙の香りは上質で、どれもクリアに鼻腔に届く。そのことにびっくりしながらも、バイオレッタは慎重に香りを選んだ。
 涼やかなビターオレンジ。甘く濃厚なムスク。誘うような香りのチュベローズ。
 そして――。
「あっ……」
「……お気に召しまして? 王女様」
 バイオレッタはその試香紙をそっと抜き取った。華やかだがけして派手ではない、落ち着きのある香りがする。
「……この香りが好きですわ」
「ああ、アイリスですわね。まあ、お目が高い。この香料は採取に手間暇をかけていますからとても高価ですのよ」
「えっ? そうなのですか?」
「ええ。アイリスは植えてから七年の間は香料を採取できませんの。根をよく育て、熟成させ、スライスしたものをまたじっくりと乾燥させる。その工程があってこそよい芳香が生まれるのです。だからこそ高価なものになってしまうのですが、王女様には香りのイメージといい高貴さといい、まさにぴったりですわね」
 バイオレッタは「ええ……!?」と小さく叫んで後ずさる。
「わ、わたくしはそのようなつもりでは……!! どうしたらよいのでしょうか、クロード様。なんだかとっても高い香料を選んでしまったみたいで……!!」
 だが、クロードはにこりとした。
「このまま作って頂けばよろしいかと。姫にとてもお似合いの香料だと思いますが」
「で、でも、高価だというではありませんか。わたくしは王女です、度を越した振る舞いはできませんわ」
「スフェーンは名称にもある通り『大国』ですし、貴女のような方が少々行き過ぎた買い物をしたくらいでは痛手にもならないでしょう。それに、高価といってもアイリス香料のみで香水を作るわけではありません。トップノートには軽やかな柑橘を入れ、ラストノートには動物性香料を入れて重みを出します。あくまで主体であるミドルノートの香りを選べと言われているだけです。この程度で国庫の破綻にはつながりませんよ」
 クロードはなめらかに説いて聞かせたが、バイオレッタは少しばかりショックを受けていた。
(ああ……、そんな。前半のお言葉、まるでわたくしが貧乏性みたいなおっしゃりよう……! いいえ、確かに事実だけれど……!)
 バイオレッタだってたまには羽目を外して大きな買い物もしてみたいのだが、長年の劇場暮らしで染みついた金銭感覚は簡単には抜けてくれないのだ。
「で、でもわたくし……、いきなりそんな思い切ったお買い物は……」
 恐縮しきっていると、わが意を得たりとばかりにクロードが唇を開く。
「……では、私からということにしても?」
「えっ」
 彼はそこでとびきり蠱惑的な微笑を湛えてみせた。
「ふふ……、王女様のために香水をプレゼントして差し上げられるとは夢のようです。それもこのような特注品を……ああ、男冥利に尽きるとはまさにこのことですね」
「まっ、待って、クロード様! そんなことをされると罪悪感を抱いてしまいますわ……!」
「罪悪感? なるほど……。ではせいぜい見返りに期待させていただきましょうか」
 言うが早いか、クロードは女主人の差し出す紙にさらさらとサインをした。
「……お届けは第三王女殿下の私室へ。出来上がり次第、代金を私宛に請求して頂ければ」
「かしこまりました、シャヴァンヌ様」
(ええ……、嘘。そんな……!)
 クロードは女主人の差し出した調香のしおりに目を通しながら満足げに笑っている。
「トップノートにはベルガモット、ミドルノートにヴァイオレットとアイリス、ローズを。そしてラストノートにはムスク……。素晴らしい取り合わせだ。貴女の可憐な立ち姿に、さぞやお似合いになることでしょう」
「聞いていませんわ、クロード様がお支払いになるなんて!」
「いい加減男の下心くらい見抜けるようにおなりなさい。さて、お返しに何をして頂けるのか楽しみですね」
 そううそぶいて、くすりと笑う。
 バイオレッタは真っ赤になった。
「も、もう! 何もしませんわ! そ、そんな……クロード様がお望みになるようなことなんて、何一つ……!」
「そうですか? それは残念ですね……ふふ」
 クロードはさもおかしそうにくつくつと笑う。
 まるで話にならないと、バイオレッタは顔を背けた。
 こういうときのクロードは実に楽しげで、しかも巧妙な策士を思わせる顔つきをしているから相手をするのがためらわれるのである。
 
 バイオレッタが黙り込んだのをいいことに、クロードはさりげなく彼女の肩を引き寄せる。
「では、次はあちらの露店を見ましょうか、姫」
「……!」
 クロードの手によって互いの身体がぴたりと密着しあい、バイオレッタはいてもたってもいられなくなった。
 気まずさから蚊の鳴くような声で訴える。
「く、クロード様、そんなにくっつかれると、は、恥ずかしいです。もう、おやめになって下さい……」
「恥ずかしい? おや、そうなのですか、姫?」
 バイオレッタはこくりとうなずく。
(だって、まるで本物の恋人同士のようだから……)
 彼が単なる寵臣である以上、想いを告げるのは禁忌だ。
 女王選抜試験に敗北すれば、バイオレッタは政略結婚の手駒としてこの国を出てゆかねばならない。つまり、これはひとときの恋なのである。
 王女の純潔とはそもそも国や臣民のためにあるようなもの。誘惑に負けてふしだらなことに身を任せれば、それは王や民に対する裏切りとなる。
 それを思えば、いくら本心を告げたくとも告げられない。
 クロードはそんな初心なバイオレッタをからかい、言葉巧みに篭絡しようとするが、バイオレッタ本人としてはかなりの葛藤なのだった。
(わたくしはまるで、籠の鳥のよう……。どこへも行けないし、自由もない……)
 クロードが「逃げてしまおう」と言ってくれるのを、ただ待っている。時折、そんな錯覚に陥る。
 本当は、相手に選ばれるよりも相手を選び取りたい。
 だが、バイオレッタにはそうするだけの能力がないのだった。
 そこでバイオレッタは、自分の横顔をじっと見つめているクロードに気づく。
「あ、あの……?」
「なんと艶めいた憂い顔でしょう。夜風に散る花の心は、花自身にしかわからない。朝陽に照らされることなく散り急ぐ貴女は、今一体何を思っていらっしゃるのでしょうね……?」
「大したことは考えていませんの。ちょっぴり考え事を……」
 ふいにクロードが柳腰をしっかりと抱いた。見せつけるようなしぐさに鼓動が躍る。
「……正直、私は気が気でないのですよ。貴女はどんどん魅力的になってゆかれるから」
「あ、や……。クロード、さま……」
「なんとお可愛らしい反応でしょう。どこまでも初々しくていらっしゃる」
「だ、だって。う、噂になったら困るでしょう? もう会えなくなってしまうかも――」
「ならば貴女をさらうまでです。他の男が手出しできないように、私が用意した鳥籠の中でずっと守って差し上げる……。貴女はただ、一日中その啼き声を聴かせてくださればいい。私のためだけに……」
「……!」
 バイオレッタは思わず後ずさった。
(な、なに……? この、ただの「好き」とは全然違うような、変な感じは……)
 妖しい瞳か、はたまたどこか粘ついた口調になのか。
 なぜだかわからないが、バイオレッタはクロードの言動に一種の執着のようなものを感じ取っていた。
 怯えた瞳に気づいたらしく、クロードが名残惜しげに手を放す。
「……ああ、冗談ですよ。今のはほんの喩えです」
「あ……。ええ。そう、ですわよね。クロード様はそんな方じゃありませんものね!」
 だが、クロードは自嘲するように低く笑うと、素早く身をかがめ、耳元でささやいた。
「貴女をさらってしまいたいというのは本音ですよ? ふふ……」
 妖しい色香を漂わせる顔で言われれば、さすがのバイオレッタもたじろぐしかない。
(ど、どこまで冗談なの!?)
「さて、姫を怖がらせるのはここまでにして……」
 軽く指先で額の汗をぬぐい、クロードは一軒の露店へとバイオレッタをいざなった。
「こちらの店はなかなか質のいいものを置いているようですね」
 バイオレッタは声につられるまま、店のテーブルを覗き込んだ。
 すると――
「わぁ……っ!」
 ……オルゴール付きの宝石箱、陶製のボンボニエールに、水晶でできた一角獣の置物。愛らしいウサギの絵が嵌めこまれた黄金の額縁。薔薇の細工を施したデコレーションミラー。
 珍しい所では宝石をたっぷりとあしらった金属製の白粉入れなどもある。
 店先には夢のある商品が所狭しと並んでおり、思わず目を奪われた。
「姫はこうしたものはお好きですか?」
「ええ! わたくしは装飾的なものに目がなくて。このお店も可愛いものばかりですわね」
「ああ、嬉しい偶然ですね。私もこういった小物はとても好きなのです。こちらの商品も、スフェーンの流行デザインをほどよく取り入れたものばかりですね」
「あの折り畳み式の鏡なんて、まるでそうですわよね。教会の薔薇窓をそっくりそのままかたどっていますもの」
 バイオレッタが指さした小型の鏡には、ステンドグラスを小型にしたようなカバーがついている。色硝子の使い方は、まさに教会の薔薇窓のそれだった。
 他にも、レース使いの繊細な日傘やショール、柄のところに小さな色硝子をちりばめた化粧筆など、様々な商品が並んでいる。
 いかにも女性たちが好みそうな品物ばかりだ。
「……あ、あの宝石箱、綺麗ですわね」
 バイオレッタはそう言ってテーブルの上の一つの宝石箱を指さす。
 紫色のガラスでできた重厚な作りの宝石箱だ。金の顔料でレース模様が描かれ、蓋には鍵がついていた。
「……なるほど、クラッセル公国のガラス細工ですか。確かに美しい……。姫はこうしたものがお好みなのですね」
 噛みしめるように言い、クロードが軽く何度かうなずく。
「覚えておきましょう。今後贈り物をする際に参考になるやもしれません」
 値札を指で持ち上げて確認すると、三千ユークレースとある。
 異国の工芸品にしてはほどよい値段だと、バイオレッタは身を乗り出して宝石箱を見つめた。
「わたくし、買おうかしら。今を逃せば次はいつ買えるかわかりませんから」
 バイオレッタが商人を呼び留めようと身を乗り出したとき、クロードが動いた。
「……では、私から姫にお贈りしましょう」
 クロードは事もなげにそう言い、テーブルの上の紫色の宝石箱を取り上げる。
 バイオレッタは慌てて手で止めた。安易に綺麗だなどと言うべきではなかったと、少しばかり後悔する。
「あ、あの! クロード様! わたくしは自分の分は自分で払えますわ。ねだったつもりではないので、お気になさらないでくださいませ! この前もカモミールティーを贈って頂きましたし、今日はもう香水を買っていただいています。これ以上あなたに甘えるわけには――」
「つれない方だ。香水が届くのは三月みつき後ですよ。それまでお部屋で眺めていただけるようなものを贈って差し上げたいと思っただけです。それくらいかまわないでしょう。一体なぜそのように頑ななのです?」
 バイオレッタは一瞬口をつぐんだが、ややあってからおずおずと白状する。
「……慣れていないから、恥ずかしいのですわ。それに、クロード様のお気持ちを一体どこまで信じてよいのかわかりません」
 どこまで本気の言葉なのかがはっきりしない以上、とても甘えられない。クロードは人当たりがいい青年だから、普段の賛辞も単なる社交辞令かもしれない。
(わたくしだけが舞い上がっているのだとしたら、もう耐えられないわ……)
 しかし、クロードはなだめるように言った。
「姫。そのようなお顔はなさらないで……。私は貴女を困らせたいわけではないのですから」
「クロード様」
「……とはいえ、信じていただけないのは私に非があるからでしょうね。ではせめて、ここは態度で示させて下さい」
「え。あっ……」
 クロードは歩み出ると、勝手に宝石箱を買ってしまった。
 ぽっと顔を赤らめる商人から包みを受け取ると、バイオレッタに差し出す。
「ふふ。冷静と情熱を混ぜ合わせたような紫。まさしく姫のお色ですね」
「……クロード様、そんな、いけません。だってわたくし、あなたに何もお礼ができませんわ」
「貴女はただ笑って受け取るだけでよろしいのですよ。それだけで私の心はすっかり満たされてしまうのですから」
 バイオレッタは思案したが、やがてふっと可憐な顔をほころばせた。レースの手袋に覆われた両手を伸ばして、包みを受け取る。
「ありがとう、ございます……」
「そのお顔が見たいがために、私は貴女に贈り物をしているのです。やっと笑顔を見せていただけて、私も少々ほっといたしましたよ」
「あ……」
 顔を上げれば、視線が緩やかに絡みつく。
 静謐でありながらもどこか熱っぽいまなざしを、彼はバイオレッタに注いだ。
「王宮での暮らしが始まってから、姫は不安そうなお顔ばかりだったでしょう? これでも心配していたのです」
「クロード様……」
 バイオレッタは急速に熱を持ちだした頬に片手を添えた。
 ……そうか、そういうつもりであれこれ贈り物をしてくれていたのか。
(わたくしを、喜ばせようとしてくださった……)
 二人の恋の結末に不安はあれど、今はその気持ちだけで胸がいっぱいになってしまう。
 好きな男性に甲斐甲斐しく気遣ってもらえることが、こんなにも嬉しいだなんて……。
 宝石箱の包みを抱え、バイオレッタはふわりと笑う。
「ありがとうございます。大事にします」
「どうか、姫の宝物でいっぱいにして下さいね」
 白手袋に包まれたクロードの手を、バイオレッタはそっと握りしめた。
「ええ。帰ったら早速、そうしますわ……」
 
 
 数日後。
 バイオレッタは椅子に腰かけると、化粧台の上の宝石箱を開いた。
「ふふ……」
 頬杖をつき、中を眺める。
 そこにはたった一つ、すみれの造花が入れられていた。
 絹でこしらえたすみれをいくつか束ねてブーケにしてあって、花びらは繊細な青紫だ。花弁には水晶の粒が乗ってきらきらしている。
 これは以前クロードから送られてきた手紙に添えられていたものだ。
 彼曰く、最もバイオレッタのたたずまいに似ている花がすみれなのだという。
「姫はご存知でしょうか。すみれの花言葉は謙遜と誠実。そして紫のすみれの花言葉は貞節と愛です。この花は本当に貴女にふさわしい。控えめで、けれども愛情深くて。貴女こそが私の愛するすみれの女性ひとです」
 そんな賛辞の言葉を惜しげもなく書き綴り、クロードはこのすみれの花束とともに送ってよこした。
 文面からはクロードのつけている薄いコロンの匂いがしてますます愛おしさがあふれた。
 しばらく手紙を抱きしめてうっとりしていたくらいだ。
 すみれは女性の美徳を讃えるのに外せない花だ。
 薔薇や百合と並んで女性が兼ね備えるべき三要素を語るものだといわれている。
 薔薇は「美」、百合は「威厳」。
 そしてすみれは「謙虚」と「誠実」というわけだ。
 名前の元になった花だから、ではなく、自分の雰囲気に似ている花だから、と言われたのがどうしようもなく嬉しくて、受け取ったその日からずっと飽きずに眺めている。
 だから、クロードが贈ってくれた宝石箱に入れておくには一番ふさわしい気がしたのだ。
「きれい……」
 バイオレッタは小さくつぶやき、宝石箱の中のすみれをそっと持ち上げる。
 しなやかな素材でできたブーケは飾ろうとしてもうまくいかず、眺めた後は結局化粧台の抽斗にしまい込んでおくしかなかった。
 けれど、この宝石箱に入れておけばいつでも眺められる。お気に入りのジュエリーと一緒にしまっておけるし、好きな時に開いて触れることができる。
 クロードからの贈り物に。そして、彼の気持ちに。
 ……宝石よりも香水よりも、本当はこのたった一つの愛情が嬉しい。
 幸福な感情が込み上げてくるのを感じながら、バイオレッタは飽くことなく「宝物」を眺め続けた。
 

 
時系列的には本編の夏ごろでしょうか。商人たちに露天商を出させると決まってからやや後くらい。
なんの変哲もないお話……ではありますが、劉の設定、アイリス香料の話、クロードの意味深な発言など、何気に本編とリンクした部分がいっぱいあったり。
そしてクロードさん、「暑いんだね!? 暑くて倒れそうなんだね!?」とツッコミを入れたくなる登場の仕方。
まあ、さすがに夏場に黒い長袖コートは死にますよね……。足元も黒だし、必要以上に熱を集めそう(笑)
むしろ日傘がいるのは彼なのでは?とも思います(本編では姫にさしかけてあげてましたが、本当は自分がさしたかったに違いない)。
 
 

 

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