その日、ピヴォワンヌとミュゲの二人は≪星の間≫へ呼び出され、女王選抜試験の一時中断を告げられた。
この状況下で試験を続行するのというのはもはや難しい話だろうというのが元老院の面々の意見だった。宰相も同じ意見らしく、彼は痛恨も露わに懸命に現状の厳しさを語った。
これにはさすがのクロードもうなずくしかなかったようで、すぐに彼らの意見に同意を示した。
オルタンシアとバイオレッタが治めていた二つの領地については、急遽新しい領主の赴任が決定した。
筆頭騎士や代表者といった一部の者を除き、王女二人が不在の間領地をまとめる代理の領主が一時的に領地へ派遣されることとなった。
……このままでは女王選抜試験は行えない。きちんと勝敗をつけるどころではない。
何せ今は二つの駒が失われている状況なのだ。
一人は不自然な昏睡状態に陥り、もう一人は安全なはずの「箱庭」からある日突然姿を消した。
物騒な出来事が相次いでいるこんな時期に平然と試験など進められるわけがないのだ。
リシャールは以前にも増して王城の警備や巡回に力を入れさせるようになっている。
今度はミュゲやピヴォワンヌ、プリュンヌといった別の姫が狙われるかもしれないという近臣もおり、リシャールは今まで以上に慎重に動くようになっていた。
≪星の間≫に集う高官たちはみな意気消沈の面持ちでリシャールのそばへ侍っている。
しかし、そのリシャールはといえば彼ら以上に気落ちしてしまっていた。
少女めいて端整な美貌には今や暗い影が落ち、細い眉を寄せて背を丸めるその様子からは王たる者の威厳など微塵も感じられなかった。
未だかつてないほどの沈鬱な表情が、より一層見る者の哀憐を誘う。
ひとしきり近臣たちの意見を聞いた後、彼はおもむろに彼らを下がらせた。
ぽつりと問いかける。
「……そなたら、本当は何か知っておるのではないか。バイオレッタの行方について」
王女二人はつと黙り込んだ。
失踪の一件からすっかり落ち込んでしまっているリシャールは、焦れたように二人を見やる。
「どうなのだ。順に答えてみよ」
そこでミュゲが桜唇を開いた。
「お父様。申し訳ございませんが、わたくしではご期待に添えないようです。わたくしはバイオレッタ姫が姿を消した日はずっと翡翠棟におりました。そしてそこから一歩も外へ出ていないのです。バイオレッタ姫を害するような余裕はありませんでしたわ」
「ではピヴォワンヌは何をしていた」
リシャールにねめつけられ、ピヴォワンヌは憤然と答えた。
「あたし……いえ、わたくしは、部屋にいました。その日は暑かったから、寝室で午睡をしたりして……。庭にも出たけど、別に大したことはしていません」
本当は庭先で剣の稽古もしたのだが、それを言うとリシャールが激昂しそうなので言わずにおいた。
もっとも、あれは練習用の剣だったから咎められる理由はないのだ。
極端な話、後宮で刃傷沙汰を起こしたりしなければ、シャルロット王妃の稽古場なども自由に利用してかまわないのだと聞いている。
仮にピヴォワンヌがリシャールに本当のことを打ち明けたとしても、彼はそこまで気に留めないだろう。
何しろバイオレッタの失踪を受けてここまで気落ちしてしまっているのだ、ピヴォワンヌが正直に当日のことを話したとしても何ら衝撃は受けないに違いない。
リシャールは神妙な面持ちで肘掛けを強く叩いた。
黄金色の髪をぐしゃぐしゃとかきやり、額に手をあてがってうなだれる。
「くっ……!! 一体どうなっておるのだ!! これも僕を憎む何者かの仕業なのか!? 僕が巷で暗君などと呼ばれるあまり、とうとう娘のバイオレッタまで犠牲になってしまったとでもいうのか……!?」
リシャールの言葉通り、彼は民からの評判があまりよくない。
王城にやってきた人間たちはリシャールの姿を「気味が悪い」といって嫌がるし、彼が年相応の壮健な姿をしていないことを訝しむ。
それもそのはずだ、リシャールは本来であれば成人した王子を持つにふさわしい年恰好なのだ。
不惑のシュザンヌよりは年下だと聞いているが、それでもそれなりに年を重ねた姿をしているはずなのである。
これもすべて彼を取り巻く呪いのせいだ。
そしてリシャールは自らの境遇が原因でバイオレッタがさらわれてしまったのではないかと危惧しているのだった。
「……」
一同はそこで黙り込んだ。
発言する者のいなくなった≪星の間≫は奇妙な沈黙で満たされる。
……と、そこに楽しそうに笑いながら入ってくる者がいた。
「あはっ、面白ーい。まるでアリバイの出し合いっこね」
ピヴォワンヌはそこで瞳を瞬かせた。
彼女は確か、スピネル・アントラクスといったか。
ヴァーテル教会本部からの客人で、教皇ベンジャミンに仕える宗教騎士だったと記憶している。
今日も今日とて随分風変わりな服装をしており、フリルとレースまみれのショート丈ドレスは驚くべきことに太ももを大きく露出させる意匠だ。
透ける黒レースの手袋は優美な薔薇模様を浮かび上がらせながら彼女の二の腕をしなやかに覆っている。
赤薔薇と歯車のモチーフを大胆にあしらったヘッドドレスや、太ももにぴたりと纏いつく漆黒のガーターリングとストッキング、日差し避けのためのバテンレースの日傘などが美しくも艶めかしい。
ピヴォワンヌはしばしじっとその立ち姿を見つめた。
このスピネルという少女騎士の格好は個性的を通り越していっそ奇抜である。
本人にその自覚が全くなさそうなところがかえって恐ろしく、それと同時にどこか小気味よくもあった。
彼女と同じ剣士であるピヴォワンヌなどは、こうした足さばきのよさそうな衣服は動きやすそうでうらやましいと感じてしまう。
(大陸で今一番幅を利かせているのがヴァーテル教で、そのトップに立つのが教皇ベンジャミンなのよね、確か)
それにしても、こんな時期にスフェーン来訪とは意味深である。単なる視察だと彼女は言ったが、それにしては大仰すぎやしないだろうか。
丹念すぎるほど丹念な視察の様子といい、この騎士の数といい、どう考えてもただの取り締まりとは思えない。何か隠れた目的がありそうだが……。
スピネルはラズワルドを引きつれて、ゆったりと≪星の間≫に踏み込んできた。
片手をひらひらさせてにぱっと笑う。
「なあにぃ? 続けていいわよ、皆さん。あたしは別にあなたたちの言い争いを咎めに来たんじゃないもの」
「今日も視察とやらをしておったのか」
「ええ。お城の中をぐるぐる見てまわってたの。どの宮殿もものすっごく広いから、とても一日じゃ終わらなさそうだけどね」
「それはそうであろうな。このリシャール城というのはそもそも六つの宮殿が点在している場所だ。本城であるここリュミエール宮に、政治や国交の舞台となる『四季宮』、王族女性たちの住まいである薔薇後宮。この六つの宮殿群から成っているのがリシャール城なのだから。……ああ、ついでに言うなら魔導士館も城の一部に含まれるな。もっとも、あれは宮殿と言うよりは館に近いのだが」
うんうん、とスピネルは相槌を打つ。
「道理で終わらないわけよね。六つの宮殿をぜーんぶ見てまわらなきゃいけないわけだから、そんなにすぐには任務完了にならなさそう。っていうか、魔導士館のことなんて今の今まで完全に頭になかったしね。はあ、大変だわ~」
口ぶりとは裏腹にスピネルは別段苦にしている風でもなかった。
その場で何度かくるくる回り、≪星の間≫の天窓から射しこむ陽光に手を翳す。
「このリュミエール宮っていうお城はどこもかしこも真っ白でとっても綺麗ね。けど、四季宮のカラフルな感じも捨てがたいわ」
「そうか?」
「ええ。プランタン宮は男性官僚のための宮殿だと聞いたけど、その割にピンクやイエローの内装で可愛いわよね。こんな可愛いところで官僚たちがあくせく仕事してるんだって思ったら、あたしちょっとだけおかしくなっちゃったわぁ」
「スピネル!」
ラズワルドが慌ててたしなめたが、リシャールは気分を害した風でもない。それどころかおかしそうに笑って騎士たちを見つめている。
「よい。あの宮殿のプランタンというのは“春”という意味を持っておるのだ。だから内装もそうした色合いにしておる。確かにそなたの言う通りやや愛らしすぎる色使いではあるな」
「でしょ? でも、あのピンクはいやらしくなくていいピンクね。温かみがあってほっこりしたわ」
「エテ宮はもう見てきたか? あそこは総クリスタルのシャンデリアが飾ってあるのが自慢でな。庭園やギャラリーなども国交のために最大限の工夫を凝らしているから、あとで見てくるといい」
「まあっ、そうなの? いいわねえ、夢があって!」
二人は和やかに会話を交わしている。
リュミエール宮の建設にかかった費用の話、エテ宮の中庭に置かれた珍妙なオブジェの話など、宮殿の話で盛り上がっている。
スピネルの快活さに、リシャールは幾分元気を取り戻した様子だった。
「あ、そうだ。王様、あとでオトンヌ宮やイヴェール宮も一通り見せていただけるかしら?」
スピネルの問いかけに、リシャールが瞠目する。
「……何?」
彼が驚くのも無理はない。異国の人間が立ち入りを許されるのはプランタン宮とエテ宮までだ。
対するオトンヌ宮やイヴェール宮は王族のための完全な私的空間となっているため、外部の者は立ち入らせないようにするのが慣例だった。
「秋の宮殿」と呼ばれるオトンヌ宮は王族のための団欒の場所として設けられた宮殿だ。
ここでは定例の食事会や演奏会などが行われることがあり、ピヴォワンヌもこれまでに何度か招待されている。言ってみれば王族の面々が一時集まって憩うための宮殿だ。
北に位置するイヴェール宮は代々国王が引き継ぐ宮殿で、現在はリシャールの居城として使われている建物だ。
「冬の宮殿」の名称通り建物全体に冷ややかなブルーが使われており、宮殿の内部は狩猟で得た動物の剥製や代々の国王に受け継がれる名品などで埋め尽くされていると聞く。
完全なる団欒の場として使われるオトンヌ宮はともかく、イヴェール宮にまで異国の使者を立ち入らせるというのは、リシャールの性格からしてなかなか難しいのではないかと思われた。
案の定、彼は玉座の肘掛けを指先で叩いて唸った。
「ふむ……どうしても見せなければならぬのか?」
「ええ。その方が効率的に視察を完遂できるでしょ。後でもう一度見せてって言ったらあなたたちの方が困るんじゃない? どうせなら一度で完璧に終わらせてしまった方がいいと思うけど」
「なるほど……」
リシャールは緋色の国王装束を優雅に払い、肘掛けに肘をついた。
しばらく考え込んだのち、おもむろに口を開く。
「いいだろう。僕の城を特別にそなたらに見せよう。ただし、条件がある」
「条件~?」
訝しむ体のスピネルに、リシャールはきっぱりと告げた。
「僕は今、スフェーン国王として窮地に立たされておる。このままでは予言の実現はもちろん、次期国王の擁立も困難という実に切迫した状況だ。そこで、そなたらの持っている宗教騎士としての知恵を少しばかり僕に授けてほしい。この苦境を無事抜け出すために」
騎士二人が一体どう答えるのか、固唾を呑んで見守っていた一行だったが――。
「なーんだ、そんなことぉ? 全然オッケーよ。好きなだけ利用してちょうだい。あ、でも教会の機密事項を引き出すのだけは勘弁してねっ」
「どうぞご随意に、国王陛下。僕らの知識が役に立つというのでしたら、いくらでもあなた様のお力になります」
スピネルとラズワルドはどうということはないとでもいうようににこにこと言った。
困っている者に助力したがるその姿勢がいかにも宗教騎士らしく、ピヴォワンヌは思わず二人の潔さに感心してしまう。
(ユニークな騎士が来たなあと思ってたけど、この二人って案外大らかなんだわ)
聖職者の中にも品行の悪い者は多いと聞いているが、この二人にそうした面は見受けられない。むしろ惜しみなく知識や情報を提供しようとしてくれる。
情報の代償として金品を要求するような真似もせず、ただ好きなように自分たちの知識を使えという。この辺りはさすが教皇直属の部下といったところか。
二人の返答を受け、リシャールは切り出した。
「実は今、このスフェーンでは女王候補二人が危機に陥っておる。第一王女オルタンシアは謎の昏睡状態に陥り、第三王女バイオレッタは先日いきなり薔薇後宮から姿を消した」
「ふんふん」
「オルタンシアは今も自室の寝台で眠り続けており、バイオレッタの行方も方々手を尽くして探したにもかかわらず未だ見つかってはおらぬ。したがって、この宮廷は現在揺れに揺れている状況だ」
何度かうなずいてみせるスピネルに、リシャールはたたみかけた。
「そなたらは宗教騎士であろう。そこで意見を聞かせてほしいのだが、この事態についてどう考える? やはり例の予言に関わる何かの前兆であると捉えるべきなのだろうか」
その問いには答えず、スピネルは靴の踵をこつこつと鳴らして玉座の前に歩み出た。
「王様。その前に……あなたはこれまで予言を頑なに信じてきたと聞いているわ」
「ああ。予言を絶対のものとし、実現を目指して行動してきたつもりだ」
「じゃあ、もちろんあの予言はすべて暗唱できるのよね?」
「それは、むろんだが……」
「――“闇に覆い隠されし王女”」
その一言に、リシャールがぎくりとして動きを止めた。
「それは……その一節は――」
スピネルはゆったりと腕を組み、挑むような眼差しをリシャールに向けた。
「例の予言がすべてを物語っているとしたら、あなたはどうする? 今回のそうした事件が、もしその予言に関係するものだとしたら?」
「なっ……!!」
スピネルの透き通るようなルビーの瞳が、探るようにリシャールに向けられる。
尖った犬歯を見せてニッと笑ったかと思うと、彼女はくるりと≪星の間≫全体を見渡した。
「聖なる御印の女王について、あなたたちはどこまで知っているのかしら?」
一行は顔を見合わせてうろたえた。
ややあってからリシャールが口を開く。
「いや……、実は僕自身はほとんど何も知らぬのだ。特殊な存在だということだけは知っているのだが」
スピネルは「なるほど」と相槌を打ち、玉座へ向かう階を軽やかに一段上った。
「……聖なる御印の女王っていうのはね、数百年に一度現れるかどうかの稀有な存在なの。闇を弾く御印をその身に秘めて生まれるからそう呼ばれるわ。この御印を秘めた女性が王位に就くと、その国は不思議なくらい豊かな繁栄を遂げることができるの」
なんでも、女王の持つ御印が国に忍び寄る闇――すなわち謀略や争いごと――をことごとく退けてくれるのだという。
そして、そうした御印を持つ女王たちというのは周囲があっと驚くほどの速さで自らの国を発展させてゆくのだそうだ。
「大陸が誕生したての頃は特にこうした女王の存在が喜ばれていたそうでね。あなたたちには馴染みがないかもしれないけど、そうした女性たちがこのイスキア大陸を作り上げていったようなものなのよ」
ラズワルドが静かにうなずいてスピネルの言葉を引き取る。
「……遥か昔から、女性は創造するものだといわれます。女性というのは生命を産むもの、そして育むものです。母が子を慈しむように、太古の女王たちが生まれたてのイスキアを育んだ。僕はそう考えています」
ピヴォワンヌはそこで思わずつぶやいた。
「劉の官僚たちが女子を王位に就けたがるのは、もしかしてそのせい……?」
スピネルはピヴォワンヌを見て屈託なく笑う。
「そうね。劉の女王制もここからきているのかもしれないわね。女性を王位に就けた方が大陸にとっては有益だときっとどこかでわかっているのよ」
彼女は王女二人の顔を順に見つめながら悠然と続けた。
「ただ、聖なる御印は目視できるようなものじゃないのよね。居並ぶ王女たちを見てすぐにそれと判別するのは難しいわ。まあ、あたしは単に魔力の有無のことを指してるんじゃないかと思ってるけど……」
「魔力……?」
「ええ。もしくは、何らかの加護を受けているとかね」
(そういえば……前にバイオレッタはアスターのいる尖塔のありかを一発で探し当てていた……。後で気づいたけど、あの塔って基本的には目くらましの術がかけられているから魔導士でもなければ存在自体見破れないのよね)
ピヴォワンヌは軽く唸り、口元を片手で覆って考え込む。
もしバイオレッタが魔力を有しているとすればじゅうぶんあり得る話だった。魔力がなければきっと尖塔の存在を探り当てることすら叶わなかっただろう。
だが……。
(だけどあの時、あたしにもアスターのいる塔は見えていたわ。これは一体――?)
その時、ピヴォワンヌの胸が締め付けられるようにひどく痛んだ。
「っ……!」
どくん、と心臓が脈打ち、胸の鼓動がふいに激しくなる。
ピヴォワンヌは視界がぐらぐらと傾ぐのを感じていた。
(何これ……、気持ち悪い……!)
――胸の奥底に厳重にしまい込まれていた深淵の箱が、ゆっくりと音を立てて開かれてゆく。
天窓から入り込む日の光に混じって、ピヴォワンヌの視界にもやもやとした薄明かりが射しこみ始める。
追憶を呼び覚ますような、懐かしい匂いと温もり。
自分を呼ぶ甘く人懐っこい少女の声。
彼女の意識はそのまま遠き忘我の彼方へと放り出された。