第十二章 追憶と淡き慕情

  
 ピヴォワンヌはゆっくりと瞳を開けた。
 頬や髪を撫でる温い微風が、穏やかに意識の覚醒を促す。
(ここは、どこなの?)
 未だおぼろげな意識を叱咤し、ピヴォワンヌは自分が今どこにいるのかを確かめようとした。
 さり、と音を立てて一歩を踏み出し、きょろきょろと辺りを眺めまわす。
 
 ……そこは美しい庭園だった。
 大樹からすくすくと伸び広がる幾重もの梢。合間には色とりどりの小さな花が今を盛りと咲き揃っている。
 そこかしこに咲き乱れる世にも珍しい色合いの花々からはむせ返るような花香かきょうが漂う。
 まるで夢のような色彩の渦、枝条に遊ぶさまざまな姿の飛鳥。
 奢侈を尽くしたモニュメントの数々に、緑のあわいに遊ぶ精緻な造りの白亜の天使像。
 遥か遠方に見受けられる、古代風のパゴダに城館。
 視界に映るものすべてに感嘆のため息を漏らしながら、ピヴォワンヌは庭園をさまよう。
 石造りの階段を上り、毛氈のようにたっぷりと生い茂った芝の園路を抜け、さらに奥深くへと歩を進める。
 
 そこで彼女は、どうやら庭園の奥にもう一人客人がいるらしいことに気づいた。
 真っ先に視界に飛び込んできたのは、風にそよぐ菖蒲あやめ色の髪だ。
 芝生の向こう……大樹の陰に、誰かが座っている。
(誰?)
 ピヴォワンヌは思わず生垣を抜けてその人物に近づいた。
 色とりどりの野花が咲き乱れる花筵の中、小柄なシルエットが浮かび上がっている。
 
 ……そこにいたのはほっそりと華奢で色白な娘だった。
 金糸銀糸で蝶の文様が縫い取られた露草色のドレス。
 結い髪の上にちょこんと乗せられた、サファイアと黄金でできた華奢なティアラ。
 蝶の翅を模した意匠の絢爛豪華なレースのショールに、肌を飾る数々の宝飾品。
 そして、どこか懐かしいとさえ感じる薄紫の瞳……。
 
 少女はピヴォワンヌの視線に気づく様子もなく、黒のグローブに覆われた腕をやおらすっと宙に差し伸べた。
 瞬く間に小鳥や蝶が集まってきて、少女のすんなりした手に競うように群がる。
 少女は屈託なく笑い、羽根を持つ生き物たちと和やかに戯れ始めた。
 どういうわけか、少女には彼らの言葉がわかるようだった。
 少女が何も言わずとも、鳥や蝶たちはその肩や腕に止まっておとなしくしている。彼女が手をひらめかせても、大して警戒する風でもなくされるがままになっている。
 まるで意思の疎通ができているかのようだ、とピヴォワンヌはしばし呆然とその光景を眺めた。
 すると、少女を見つめるピヴォワンヌの唇からふいに言葉が零れ落ちた。
『相変わらずその子たちとおしゃべりするのが好きなのね』
 ピヴォワンヌははっとして口元を押さえようとしたが、どういうわけか身体が言うことを聞かない。
 それどころかピヴォワンヌの身体は植え込みをかき分けてその少女のもとへ向かおうとさえする。
 すると、菖蒲色の髪の少女がピヴォワンヌに気づき、皓歯をのぞかせてにっこりと笑った。
『ふふ。わたくしの大事なお友達ですもの』
 ……それははっとするほど通った美声だった。
 それでいて浮ついた響きがなく温かな声だった。
 ピヴォワンヌの唇は本人の意思に逆らい、少女に呼応するように次々と言葉を紡ぎ始める。
『他の七皇妃しちこうひたちの前では控えた方がいいわよ。また出自についてとやかく言われちゃうわ』
『心配してくれるの?』
『当たり前でしょ。この前ダリア妃に責め立てられてたの、あたし知ってるんだからね』
 ピヴォワンヌの頭は突然の展開についてゆけず、しだいにごちゃごちゃと混乱し始めた。
 ピヴォワンヌはとっさに、これは自分ではない「誰か」の記憶だ、と悟る。
 その「誰か」が自分の身体を借りて一時の追想をしているだけなのだろうと。
 ピヴォワンヌの心を置き去りに、二人の唇からは『七皇妃』、『皇帝』、『帝国』などという言葉が次々に飛び出す。
 そして、目の前にいるこの娘がどうやら新皇帝の妃となったらしいことをピヴォワンヌは知った。
『あんたが皇帝の正妃になってもう三月みつきかぁ。陛下はあんたに優しくしてくれてる?』
 少女の傍らに腰を下ろし、ピヴォワンヌはそう問いかけた。
 すると、少女はおっとりと微笑む。
『ええ。早くお世継ぎをという声には閉口するけれど……陛下はわたくしを傷つけるようなことなんて何一つなさらないわ。あの方はとても温和で穏やかな殿方よ』
『へえ……。噂と随分違うのね。残虐帝とか冷徹帝っていうよくない評判ばっかり聞いてたから、あたしにはにわかには信じがたいけど……』
 自らの唇が次々に紡ぎ出す言葉の羅列に、ピヴォワンヌは慄く。
 ……残虐帝、冷徹帝。なんて物騒な響きなのだろう。
 まさかそんな男にこの少女は嫁いだというのだろうか。
 だが、少女はふるふると首を横に振った。
 そしてきわめて幸福そうに言った。
『思い切って求婚をお受けしてよかったわ。わたくし、毎日とても満ち足りているの。あの方をお支えできて、おそばにいられて……本当に幸せ』
 幸せそうにはにかむ彼女を見ていると、胸のどこかがぎゅっと縮み上がるような感覚に襲われた。
 心臓の辺りに締め付けられるような痛みを覚えて、ピヴォワンヌは動けなくなる。
 この恥じらいの表情も、隠し通せない甘ったるい空気も。自分の前で恋い慕う男の話をしようとする罪のない無邪気さも。
 そして、「この痛みを自分は知っている」、と思う。
 この疼痛はこれまでに何度も味わわされてきたものだ、と。
(この感情は……あたしがいつもあの子バイオレッタに対して抱いているものと同じ――)
 揺れるピヴォワンヌの視線は少女の薄紫の瞳の上でぴたりと止まった。
 同時に、「痛い」、と思う。
 彼女はこのままその皇帝とやらのもとへ行こうとしている。
 たった一人の親友である自分を捨て、身も心も愛する男のものになろうとしている……。
 毅然としたその表情が、「もう後には退けないのだ」と語る。
 薄紫の澄んだ瞳はピヴォワンヌの視線を受けても全く揺れ動かなかった。
 そこには愛する男と生涯を共にすると誓った女の強い意志が滲んでいた。
 少女はその皇帝とやらのために自らの人生を捧げようとしているのだ。
 感嘆すると同時に、胸の中がひりひりと痛んだ。この少女はピヴォワンヌが知らない世界を知っているのだ。
 男のそばで生きるということ。一国の皇妃として国の頂点に立つということ。
 愛のために自らの一生を懸けるということ――。
 途端に激しい憧憬と羨望が渦巻いた。
 彼女のようになりたい。彼女のように生きてみたい。
 そう願ってしまった。
 そして次に訪れたのは、自分でもうろたえるほどの独占欲だった。
 ピヴォワンヌの胸は叫んだ。
 ……彼女をどこへもやりたくない、ずっと自分だけのものでいてほしい、と。
 だが、その苛烈な感情はふいに鳴りを潜めた。
 少女がこちらに向けてにっこりと笑ったからだ。
『でもね、忘れないで。わたくしは貴女のことも大事なの。欲張りだって呆れるかもしれないけれど、わたくしは陛下と同じくらい貴女のことも愛しているわ。どちらがより大切かなんて到底決められない……』
 少女はそこでピヴォワンヌに向けて両腕を伸ばす。
 鳥や蝶が一斉に飛び立つのと同時に、少女の柔らかな腕がピヴォワンヌの背にしっかりと巻き付いた。
『……約束して。貴女だけはいつでもわたくしの隣にいてくれなきゃだめよ?』
 ……ああ、懐かしい声だ。懐かしくて、優しくて、それでいてどこか残酷な声――。
 この声、言葉。そして、この腕のぬくもりも。
 残酷だと思うのに抗えない。
 それどころか、この心はもっともっととばかりにその温度を貪ろうとする。
 近づけば近づくほど苦しむ羽目になるとわかっているのに、それでもなお彼女を求めようとする……。
 気づけばピヴォワンヌはその身体をしっかりと抱きしめ返していた。
『ええ。どこにも行かないわ。だからあんたもあたしのそばにいるのよ、いい?』
 こくりとうなずく少女を、ピヴォワンヌはますます強く抱きしめる。
『大好きよ、リナリア。わたくしの一の騎士。わたくしのたった一人の親友――……』
 その言葉に、ピヴォワンヌの胸がどくんと脈を打った。
『あんたのことはあたしが絶対に守るわ、アイリス……! この先も、ずっと。あんたとこの帝国が滅びるその日まで、あたしはずっとあんたを守り続ける。最後までちゃんとあんたを支えるから……!』
 ピヴォワンヌの唇は夢中で誓いの言葉を紡ぎ続けた。
 
 ――この命に代えても、あたしはあんたを守る。だからどうか、あたしをそばに置いて、アイリス。愛してくれなくてもいいから、そばにいさせて。
 
 今にも消え入りそうなか細いつぶやきは、ピヴォワンヌの鼓膜を静かに震わせた。
 
 
 
 そこでスピネルがぱんぱん、と何度か手を叩いた。同時にピヴォワンヌの意識も勢いよく覚醒する。
「さて……。ここからは宗教騎士としてあなたたちに大切なことを告げるわね。まず、王様」
「ま、前から思っていたのだが、その王様というのは僕のこと……なのか?」
「そうよぉ。このスフェーンの王様はあなた以外にいないでしょ? さて、リシャール王。あなたに訊きたいのだけれど、箝口令が敷かれた続きの一節のこと、あなたは覚えているかしら」
 リシャールはおずおずと訊き返す。
「……例のあの不吉な一節のことか。聖なる御印を持つ娘が闇に覆い隠されるという……」
「そう。それよ。そこで、あなたは何か気にならなかった?」
「……っ」
 リシャールはごくりとつばを飲み込み、例の予言を静かに暗唱した。
 
 ……“次代のスフェーンを統べしもの。其はただひとりの娘なり。娘はその身に聖なる御印を持って生まれ出で、王家の血脈に連なる者。類まれなる武力、美貌、信頼をもってして、国をとこしえの繁栄へ導くものなり”
 “聖なる御印の女王。その姿は闇によって覆い隠されん。しかしもう一人の女王、これを憂いて闇を打ち払わんとす。黎明が広がり、二人の女王、君主として大陸を繁栄に導きたもう”
 
≪星の間≫がしんと静まり返る。
 この後半の文言はつまり、女王として即位する王女が何らかの形で傷つけられるということを指しているのだ。
 そして実際に二人の王女がただならぬ事態に陥ってしまっている。
 この予言の中でもスピネルが後半部分の話だけを持ち出したがるのも至極当然のことかもしれなかった。
 
「……僕が不吉だと思ったのは後半の闇というくだりだ。これは王女が秘密裏にさらわれるという意味にも取れたが、魔導士によっては、王女が害される……すなわち、その純潔を失うことを指しているのではないかと踏んだものもいたのだ」
「まあっ、まるでいばら姫ね。随分ロマンティックな解釈をする魔導士がいたものだわ。糸繰車の錘で指を刺すという部分を、姫が生娘でなくなったことを意味しているという者もいるくらいなのよ。ふふ……怖いくらい淫靡な話でしょ?」
 スピネルの比喩に、リシャールが顔色を変えた。
「冗談はよせ……! あやつらをそんな目に遭わせるわけにはゆかぬ!」
「王様、怒らない怒らない。バンパイアの女の単なる戯言なんだから、ねっ?」
 ラズワルドがやれやれと首を振ったが、スピネルは全く意に介さない様子だ。
 
 だが、ピヴォワンヌは改めて明かされた予言の全貌に首を傾げていた。
(……「もう一人の女王」?)
 
 それはすなわち、スフェーンではないどこか別の国の女王を指しているのだろうが、生憎今のイスキア大陸に女王を擁立するような酔狂な国はほとんどない。
 反射的に劉の公主である玉蘭の姿が脳裏に浮かぶ。彼女なら誕生したばかりのスフェーン女王と肩を並べて政を行うこともあるかもしれない。
 スフェーンが女王国になるとすれば、それはごく自然な流れといえるだろう。
 しかし、「闇を打ち払う」、「黎明が広がる」といったくだりにはどうしても当てはまらないような気がしてしまう。
 というのも、ここでいう「もう一人の女王」というのはスフェーンにゆかりのある人物のような気がしたからだ。
(というよりは、闇に覆い隠されたその女王と何かしらの縁がある人物なんじゃないかしら)
 だが、それは一体誰のことを指しているのだろうか。
 まさか、エピドートやクラッセルにそうした動きがあるということなのだろうか、と考えたが、当然ながら答えなど出てはこない。
「二国の王子を王配候補としてみなす」、「試験で敗けた姫を二国へ嫁がせる」などという取り決めは交わされているものの、彼らの国が女王を擁立したがっているなどという話はこれまで一度も聞いたことがなかった。
 これは一体何を意味する予言なのか……。
 ピヴォワンヌはどくどくと脈打つ胸に手を添えた。
 なんとも妙な予言だと思っていたが、こうして改めて聞かされると不思議と血が沸き立ってしまう。
 この「黎明」というのは一体どういう意味なのだろうか。そして、二人の女王が大陸を繁栄に導くというのは一体……。
 
 スピネルは小気味よい音をさせて階を上りきる。
 そして玉座に腰かけているリシャールに近寄ると、肘掛けに置かれた彼の手に触れた。
「さて、王様。あなたたちが今すべきことは、ここでこうして顔と顔を突き合わせて考え込んでいることじゃない。複雑に絡まりあった糸をほぐして、王女二人に今何が起きているのか暴き出すことよ。予言が直接関わっているにしろそうでないにしろ、オルタンシア姫に手を下した人間が誰なのか、バイオレッタ姫をさらったのが何者なのか。すべては行動してみないとわからないわ」
「とはいえ、害されている王女は二人だ。真実を暴き出すにしても、圧倒的に力が足りぬ。オルタンシアの件は宮廷医に任せておるが、未だ昏睡の原因ははっきりせぬのだ」
「……魔導士を使うことは考えてみた?」
 スピネルが静かな声音で問いかける。思わずぞくりとするほど落ち着き払った声だった。
「魔導士だと?」
「ええ。昏睡状態だからってただ宮廷医に見せるだけじゃいつまで経っても解決しないわよ。知ってる? この世界には人を害するための魔術だって山ほどあるんだから」
「まさか。そんなことができるはず――」
「じゃあ王様。あなたのその身体はなあに? あなたに施された呪いは、けして人を幸福にする類の術式じゃないわよね? 世界のすべてが自分に好意的だなんて思わない方がいいわよ。あなたはそれを誰よりもわかってると思ってたけど」
 スピネルの指摘に、リシャールはぐっと唇を噛んだ。
「……わかった。魔導士にもあやつの状態を見せてみよう。何か解決の糸口が見つかるやもしれぬ」
「まあ、そのオルタンシア姫とやらが人の恨みを買うような子じゃないって思いたいのはわかるけどね。けど、世の中何があるかわからないでしょ。本人のあずかり知らぬところで恨みを買ってる可能性もあるしねー」
「そうだな……」
 リシャールはうなずき、スピネルの言葉に賛同を示した。
 そのしぐさを確かめたスピネルは、「うーん」とつぶやいて話題を切り替える。
「残るはバイオレッタ姫だけど……。そうねえ……、後宮に居ながらにして忽然と姿を消すなんて尋常じゃないわよね」
「それが、いくら騎士たちを遣わしても一向に情報が得られぬのだ。城の周辺、狩猟場、後宮の中まで、ありとあらゆる場所に人を遣った。しかし、あやつの足取りどころか手がかりすら掴めぬのだ」
「困ったわねえ。誰か自由に動かせそうな人はいないの?」
「そうは言っても、僕とて手は尽くしたのだ。しかしながら、此度の一件は公にするわけにはゆかぬものだ。民たちはみな女王選抜試験について聞き及んでおるというのに、王女二人が戦えない状況にあることなど絶対に勘付かれるわけにはゆかぬ。ゆえに、これ以上事を荒立てるわけには……」
 リシャールはこれまで、秘密裏に人を遣り、事情を聴き出し、騎士を動かし……といったさまざまな手段に出てきている。
 だが、それでも手がかりすら掴めていないのだ。しかも、国民の前で大々的に女王選抜試験の開始を宣言したにもかかわらず、継嗣の王女はすでに二人失われ、彼女たちに一任していた領地の形態にもすでに揺らぎが見え始めている。
 バイオレッタの失踪の要因がどのようなものであるにせよ、これが一国を揺るがす非常事態であることは間違いない。
 それも、公務における訪問先で行方をくらませたのでもなければ賊にさらわれたわけでもない。王女を守るための「箱庭」――薔薇後宮から、ある日いきなり姿を消してしまったのである。
 リシャールの中には今まさに不安と焦りが同時に渦巻いている状態なのだ。
「くっ……、こうしている間にもあやつが酷い目に遭わされているのではないかと考えたら腹立たしくてならぬ……!! 国王であるがゆえに愛娘を助けに行くこともできぬなど、僕は父親失格だ……!!」
 心底悔しそうにリシャールが唸る。
 きりきりと爪を噛みしめていた彼は、そこでやおら顔を上げた。
「……いや。いっそ、本当に僕が探しに行けばよいのではないか。いつかの行幸の時のように身分を偽って、城下に下りて。そうすれば――」
 そこで唯一残って話を聞いていた宰相が険しい形相で言った。
「なりません、陛下。陛下が今城外へお出でになれば、民たちはみなあなた様への怒りや鬱憤を爆発させようとするでしょう。城下町アガスターシェは未だ大半の区域が焼失している状態です。住処を失った者もいれば重度のやけどを負わされた者もおります。平然と城へ出仕してゆく王侯貴族相手に不信感を露わにする者も少なくありません。そのためか、国民の中には早く王の首を挿げ替えよと叫ぶ指導者たちもいるようです。そのような気運が高まっている中で陛下が城の外へ出てゆかれるのは自殺行為です。まだお世継ぎも決まらぬうちからあなた様を失うわけにはまいりません」
「何……!? では、僕にはただ手をこまねいて見ていることしかできぬというのか!?」
「そうは申しておりませぬ。ですが、どうか単身城の外へお出でになるのはおやめくださいませ。エリザベス様がお亡くなりになられてからというもの、このスフェーンの国力には明らかな衰退がみられ、陛下のお立場は以前よりずっと危ういものとなっておられます。そんな状況下で単独行動を取ろうとするのは無謀でございます」
「無謀だと!? 何を言うか、貴様!! 娘が窮地に陥っているかもしれないという時に、この僕がただ黙って玉座に座っているとでも思うのか!? そなたの方こそ冗談は休み休み言え!!」
 リシャールは息を切らして宰相と言い争っている。
 堪忍袋の緒を切らして激昂したリシャールに、スピネルが肩をすくめた。
 そこでピヴォワンヌは声を上げた。
「……あたしにやらせて」
「ピヴォワンヌ!? 何を……!」
 ピヴォワンヌは鈴の音のように澄んだ声音で淡々と続けた。
「あたしはあの子の異母妹いもうとよ。あの子には何度も助けられてきたし、恩もある。そして何より、他の誰よりもあの子のことを大事に思っているわ。だから、あたしがあの子を見つけ出す」
「何を……!」
 ピヴォワンヌは初めて父王と真正面から向き合った。
「あたしにバイオレッタを探し出す権利を与えて。あんたは何も力を貸してくれなくていい。最初から最後まであたし一人で片をつけるわ。だから……お願いします」
 ピヴォワンヌは父王に向かって深々と頭を下げた。
 リシャールとまともに口を利いたのも、彼に頭を下げたのも。どちらもこの王宮にやってきて初めてのことだ。
 案の定、リシャールはさっと血相を変えた。
「馬鹿なことを申すでない!! そなたまでよからぬことに巻き込まれたらどうするのだ!? 僕は王女を三人も失うことになるではないか!!」
 そう言って喚くリシャールはもうすでに泣きそうな顔をしていた。
 その表情に、プリュンヌの言葉がこだまする。
『お父様……、昔見た時よりなんだか小さくなってました。寂しそうで、辛そうで……。それで、もしかしたらお父様はプリュンヌとおんなじなのかもしれないって思ったのです』
 リシャールに対する恨みつらみが綺麗さっぱり消え去ってしまったわけではない。
 許そうなどとも到底思えない。
 しかし、このプリュンヌの言葉にひどく胸打たれたのも事実だ。
 この王は、プリュンヌとはまた違った種類の寂しさや孤独と戦っている。
 彼は肉親から真の愛情を受けられずに育ってきた。
 王太后ヴィルヘルミーネの偏愛を押し付けられ、まさしく傀儡や人形のような冷たい扱いをされてきたのだ。
 正妃シュザンヌとの間には呪いのせいで大きな隔たりができており、二人の間には互いに理解し合うとか共感し合うといった概念はまるでないように思える。
「国王夫妻」などと立派な呼び方をされてはいるが、それだけだ。まっとうな生き方をしてきたシュザンヌにリシャールの苦しみなどわかるはずもないのだ。
 だからこそリシャールは不完全で屈折したその思いを歪んだ形で表に出してしまう。臣下に当たり散らし、気に入らなければ見せしめに刑罰を与えるといった具合に。
 そして、乱暴な振る舞いや傲慢な仕打ちはただ単に寂しさや孤独の裏返しでしかない。
 ただ必死で虚勢を張って自我を保とうとしているだけなのだ。
 それをプリュンヌは本能的に察したのだろう。
 ピヴォワンヌはいささかの憐憫を込めてリシャールを見た。
 この王は見た目や振る舞いとは裏腹に孤独なのだ。
 だからこそ、その隙間を誰かの存在で埋めようとする。たとえ細く儚い繋がりであってもなんとかして相手を引き留めておこうと躍起になる。
 しかし、王女を思うその心は本物だ。オルタンシアの昏睡をなんとかして解こうと必死になる姿も、バイオレッタのために単身城下へ下りようとするその姿勢も、まぎれもなく一人の父親のそれだった。
 最初は自分たちのことなど単なる道具のようにしか見ていないのだとばかり思っていた。自分にとって都合よく動く手駒のようにしか捉えていないのだと。
 だが、今日のリシャールを見ていてはっきりわかった。彼は王女たちを「家族」としてちゃんと大切にしていたのだと。
 だからこそピヴォワンヌは思ったのだ……、「自分が彼の手足かわりになろう」、と。
 心細そうにこちらを見つめるリシャールの姿に、ふいに自分の姿が重なる。
 ……そこでふと、「ああ、そっくりだ」とピヴォワンヌは感じた。
 熱い気性も、不器用さも、心の根底にあるその弱さまで。
 自分と彼は、嫌になるほどそっくりではないかと。
「やめてくれ、ピヴォワンヌ。そなたまで失ってしまったら、僕はもう生きてゆけぬ!」
「そんな失態は犯さないわ。だからお願い。あたしにバイオレッタを探させて」
 リシャールの心境はよくわかっていたが、それでもピヴォワンヌは譲れなかった。
 しつこく食い下がると、リシャールの表情がたちまち険しいものになる。
 そこでつと歩み出たのは、ずっとリシャールの背後に控えていたクロードだった。
 彼はうっすらと微笑み、リシャールの顔を横から覗き込んだ。
「よいではありませんか、陛下。ピヴォワンヌ様はきっと妹君として姉姫が大切なのでしょう。ここはいっそピヴォワンヌ様のお好きなように行動させてみては?」
「なっ……!! クロード、お前まで何を……!!」
 驚くべきことに、クロードはあっさりピヴォワンヌを擁護する側へ回った。
「ピヴォワンヌ様はバイオレッタ姫のれっきとした妹君に当たる方。姉姫の危機ともなればじっとしてなどいられないのでしょう。ここでむやみに行動を抑制してはかえって逆効果かと。加えて、人間というものは己の能力の限界を知ればおのずとおとなしくなるものです。もう限界だと悟ればピヴォワンヌ様も無茶はなさらないでしょう。ピヴォワンヌ様がどうしてもとおっしゃるなら、それにゆだねてみるのもよいのではないでしょうか」
「……なるほど。ここでピヴォワンヌをはねつければ、こやつはバイオレッタ救出のためにますます助長する。だからこそ好きに行動させた方がよいというのだな」
「はい」
「わかった。……ピヴォワンヌよ。そなたの好きにするがよい。バイオレッタの件はそなたに任せよう。一時的に薔薇後宮を出ることを許可する。……ただし、今まで通り王城の外へ出ることは許さぬ。城外へ出たいのなら僕に報告を済ませてからにしろ。よいな?」
「わかったわ。ありがとう」
 クロードの落ち着き払った態度に若干の違和感と疑念を抱きはしたが、ピヴォワンヌはおとなしくリシャールに礼を言った。
 
 
「……」
 スピネルはしばらくじっと三人のやり取りを傍観していたが、やがておもむろに口を開いた。
「ねえ、王様。この王宮には忌み子がいるそうね?」
「……!」
 ヴァーテル教会の人間に直々に糾弾されると思ったのか、リシャールがぎくりと固まる。
 そんな彼の様子を眺めやって、スピネルは苦笑した。
「別にあなたを責めてるわけじゃないのよ? ただ、あまりにも可哀想だなって思ってね。二人ともまだ随分と若いのに、よくもまあ軟禁なんていう措置を受け入れられたものだと思うわ。それで叛意を起こして王の首を討ち取った忌み子だっていっぱいいたのにねぇ……」
 スピネルは口をつぐむリシャールを見上げてやれやれと肩をすくめた。
「早く出しておあげなさい。これまで彼らがあなたたちに危害を加えたことがあった? 忌み子という呼び名に意味なんかないのに、一方的に悪者と決めつけるのはちょっと酷いんじゃないの?」
 確かにそうだ、とピヴォワンヌは思う。
 忌み子はしばし『邪神の生贄』、『殺戮の子』などと呼ばれて嫌厭されるが、その言い伝えに何も根拠などないのだ。
 ただ身体の一部が紅いというだけで、彼らは忌み嫌われる。邪神を呼び寄せる、災いをもたらすといって憎まれる。
 だが、一生異教徒たちに付け狙われるという意味では彼らだってれっきとした被害者なのである。
 スピネルはリシャールの顔を覗き込みながら告げた。
「王様がすべきことは、忌み子たちを軟禁してその存在を抹消することじゃないわ。彼らを庇護することよ」
「庇護?」
「ええ。あなたは異教徒たちの魔手から彼らを守ってあげなくちゃいけないわ。外見で差別されるだけならともかく、彼らはその命まで狙われる。邪神に捧げる供物として、一生命の危険に晒されながら生きていかなくちゃいけないの。なのに、庇護されるどころか逆に行動を制限されるなんて、あまりにも残酷すぎるわよ」
 正論で追い詰められたリシャールはなんともいえない顔つきになる。
「……だが、僕が二人を解き放てばかえって危険なのではないか。この宮廷に異教徒が潜んでいないとも限らぬであろう。そうした輩に付け狙われればあやつらが危ないのではないか」
「けど、塔に閉じ込めておくのはもっと可哀想でしょう。第一王子も第五王女も、別にあなたに酷いことなんか何もしていないんじゃないかと思うけど。それでもあなたは二人を軟禁し続けるつもりなの?」
「それは……」
 二人の軟禁にはもう一つ理由があった。彼らの母親であるシュザンヌが黙っていないからだ。
 二人を宮廷に出せば、シュザンヌは『忌み子を産んだ魔女』としてさらに批難されてしまう。
 だからこそ二人の存在は厳重に隠蔽しておかなくてはならない。正妃であるシュザンヌの立場を維持するためにも「なかったこと」にしておかねばならないのだ。
 スピネルは身をかがめ、まるで子供に教え諭すようにリシャールに言い聞かせる。
「……王様。あなたのそれはもっともらしい理由をつけて尖塔に閉じ込めようとしてるだけでしょ。そうやってあなたの都合に振り回される人間たちがどれだけ苦しい思いをしているか考えたことがある?」
「それ、は……」
「第一、瞳や髪の色が周囲と違っているからといって、そんなに簡単に迫害していいものなの? これまで彼らがあなたをそうやって傷つけたことなんかなかったでしょうに」
 整ったおもてに狼狽の色を浮かべたリシャールに、スピネルはわずかに表情を和らげた。
 リシャールと視線を合わせると、魔物バンパイアとは思えないほど温かな声で言う。
「あの塔に閉じ込められているのは人々に牙をむく獣なんかじゃないかもしれないわよ。案外本当に人々の救世主なのかもしれないじゃない」
「救世、主……?」
「そう。救世主」
 もっともらしくうなずいてみせたかと思うと、彼女はそこでふっと笑った。
「王侯貴族にはそうした感覚は希薄なものなのかもしれないけど……忌み子の二人だってれっきとしたあなたの家族なのよ。世継ぎの王女たちを優遇しているのと同じように、彼らに対してももっと親身になってあげて。そういうのは後で後悔しても遅いわよ」
「……一考してみよう」
 殊勝にうなずいたリシャールに、スピネルは端麗な笑みを見せた。
「ええ、ぜひそうしてちょうだい。そしてあなたと彼らが真の意味で理解し合えることを祈っているわ」
 
 

 

error: Content is protected !!
inserted by FC2 system