第二章 刹那の邂逅

 
 
 華奢な王女の身体が、とさりと寝台に沈み込む。
「ああ……!」
 意識を失ったバイオレッタをしっかりと胸に抱き、クロードは感極まったようにささやきかけた。
 
「貴女をこうしてまたこの腕に抱く日が来ようとは……」
 抱きしめるたびに温かい、柔らかいと思っていた肢体は、確かな重みとぬくもりをもってクロードの心を慰撫する。
 逸る胸を抑えきれぬまま、とうとうクロードはその名を呼んだ。
「ああ……、ああ……! アイリス……!」
 千年前に死別した恋人の名を、彼は口にした。
「貴女に会うために今日まで生きてきました。ずっと私は貴女に謝りたかった……。貴女を独りきりで逝かせたこと、貴女の背負っていた重荷を何一つとして分け持って差し上げられなかったこと……。すべて私の弱さが引き起こしたことです」
 
 今日という日を迎えるまで、一体何度諦めかけたかわからない。
 無為に日々を過ごし続けることに抵抗を覚え、命を絶とうとしたことさえあった。
 朝陽が昇り、月が顔をのぞかせ、そうしてまた空が白けてゆく。
 一体何度そんな日々を繰り返しただろう。一体、何度絶望しただろう。
 日々は機械的に、そして無意味に過ぎていった。そこにかつて愛した恋人の姿はなかった。クロード一人がただ息をしているだけだった。
 ……そう、ただ呼吸をしていただけだ。
 傍目には生きているように見えても、彼の時計の針は確かに止まったままだったのだ。
 
 だが、そんな日々もじきに終わりを迎えるだろう。
 もうじき彼女は帰ってくる。
 今こうして抱き上げている王女の内部なかから、唯一の伴侶であるクロードのもとへと還りつく。
 
「さあ、目を開けて、アイリス……。貴女とこうして触れ合える一瞬が待ち遠しかった。この日のために生きてきた。貴女が目を覚ましてくださるなら、私はもう、何もかもを犠牲にしてもかまわない。貴女が欲しい……」
 唸るようにつぶやきながら、クロードはその頬に何度も唇を押しあてた。
「……今度こそ結ばれましょう、私のアイリス。もう誰にも、邪魔はさせません」
 
 ……刹那、青白い光が彼の視界を覆った。
 無数の蝶が、バイオレッタの身体からひらひらと飛散する。
 目もあやなそれは、この世のものとも思えぬきらめきを纏って部屋中を行き交った。
 クロードは歓喜の声を上げる。
「アイリス……!!」
『エヴラール様……』
 バイオレッタの中から陽炎のように立ち上った、もう一つの影。
 それは見る見るうちに美しい人間の娘となってクロードの前に降り立つ。
 ……菖蒲色の長い髪。バイオレッタと同じ薄紫の瞳。従えるは七彩の蝶。
 金や銀の細かな粒子を振りまきながら、彼女はゆっくりとクロードの眼前へ降り立った。
「アイリス……、ああ……!!」
 クロードは思わず両手を広げて彼女を迎えた。
「お会いしたかった……、私の、私だけのアイリス……!」
 アイリスが千年ぶりに言葉を発するのを待ちわびるクロードに、彼女は沈痛な面持ちでつぶやく。
『――久しいですわね、エヴラール様。いいえ……、今は魔導士クロードでしたわね』
 アイリスの手が、つとクロードの頬に添えられる。いたわしげに、彼女はクロードを見つめた。
『……あんなに神々しかったあなたが、まさかこんなお姿になってしまわれるなんて』
 今にも泣きそうな声で、彼女はクロードの姿を見やる。
 だが、クロードは顔を上げ、きっぱりと言い切った。
「いいえ。貴女にお会いできるなら、私はいくらでも生まれ変わる。姿とて、いくらでも変えます。貴女がまた私を愛してくださるなら、どんなことでもいたします」
 
 クロードはそこで、アイリスを抱き寄せようとした。恋人の纏うかすかなぬくもりを、その胸で感じようとした。
 だが――。
 
『……もうこれ以上、わたくしに固執するのはおやめください』
 冷たい声音で拒絶され、クロードは伸ばした手をぴたりと止める。
『わたくしはもう貴女のアイリスではありません。単なる死者の霊魂です。そうやってわたくしを現世に繋ぎとめようとするのはおやめになって』
「ですが、私を現世に留めているのは他の誰でもない貴女ですよ。その貴女に私を止める権利などないはずだ」
 クロードは訥々と語りだす。
「人間はひとたび死を迎えると生前の記憶を抹消される……。そして魂は次の生へと引き継がれてゆく。それがこの世界の掟」
『ええ。そしてわたくしは、あなたと愛し合った記憶をすべて消されてスフェーンの第三王女バイオレッタになった。バイオレッタの一部に……。まさかあなたがここまでわたくしを追いかけてくるなんて思いもしなかったけれど……』
 クロードはじっと、実体のないその娘を見つめる。ふわふわと曖昧なその輪郭は、今にも溶けて消えてしまいそうなほどだ。
 だが、この一瞬を逃すわけにはいかないとでもいうように、二人は強く視線を交わし合った。
「ふふ……。私はもとより貴女とすべてを共にする気でいましたよ。だから待ったのです……、貴女が転生して生まれ変わる一瞬を。このような娘の器に取り込まれてさぞやお辛いでしょう。すぐに出してあげますよ」
 アイリスはその言葉に眉根を寄せた。
 そして、悲しげに肩を落とす。
『……あなたは何もわかっていらっしゃらないのですね。わたくしはもはや転生を果たした身。今のわたくしはバイオレッタの一部にすぎません。彼女と記憶と精神の一部を分け合ってはいるけれど、わたくしはすでにバイオレッタそのもの。魔導士となったあなたが、まさか生まれ変わりの定義を知らぬはずがないでしょう。何度引き継がれても、魂の本質そのものは変わらない。言うなれば、わたくしと彼女は同一の存在です。引き離すことなどできないわ』
「……いいえ、できますよ。邪神の力を持ってさえすれば、じゅうぶんに可能なことです。貴女の魂はこの娘の内部にきちんと存在しているのだから」
 
 そう。クロードはこの世の理を捻じ曲げようとしている。
 バイオレッタの中……、これまで連綿と継承されてきた命の記録から、アイリスの魂だけを抜き出そうとしている。
 そしてそれは『神』と呼ばれる存在だけが行える秘法でもあった。
 
 アイリスが必死で声を張り上げる。
『そんなことをすれば、この子はただではすまないわ! 人の生の記憶……、それは変えることのできない大切な証のようなもの。今の生を享ける前に歩んだ“魂の道のり”がすべて刻まれている特殊な領域です。そこに手を加えるということは、この子がこの子である証を汚すということ。この子の存在そのものを否定するということですわ……!』
 だが、そうして批判されるのを覚悟していたクロードは顔色一つ変えなかった。
「ええ。そうですね。魂の領域を踏み荒らすということは、その人間の本質を書き換えてしまうということだ。この姫の魂、ひいては精神までも破壊することとなるでしょう」
 アイリスが絶句したのがわかったが、今のクロードにとってはそれさえ快かった。
『そんなことはやめて……! お願い……! この子にはこの子の人生があるのです。そして、わたくしももう、あなたとの日々を取り戻そうとは思っていない……。わたくしをもう、自由にしてください。そしてあなたも自由になって。そう、申し上げたはずです』
「それはできません。私はそんな言葉が欲しいわけではなかった。いっそ責められた方がましだとさえ思ったのです。あなたのせいで私は死ぬのだと、そうなじられた方が遥かによかった……」
 
 クロードは、彼女と同じ荷を背負うことさえ許してもらえなかった。そして、忘却と新しい日々を望まれた。
 責められず、なじられもせず、ただ解き放たれた心は、しだいに鬱屈した感情を宿していった。毒薬が身体を蝕むように、ゆっくりと。
 
 同じ国を統べる者として。運命を共にするつがいとして。
 彼はアイリスを愛していた。片時も離れたくないと思ってしまうほど、彼女との生活に耽溺していた。
 彼女の幸せは自分の幸せ。そして、彼女の咎は自分の咎だ。
 自分たちはもはや離れられない――。
 そんな強迫観念めいた感情が、クロードを駆り立て、心地よく高揚させていた。
 愛しい女性と心身ともに融けあい、同化してしまうこと。それこそが彼の望みだったのだ。
 
「――なのに、貴女はそうしませんでしたね。悪いのはすべて自分だと……、自由に生きてくれと。あまつさえ『こんな女のことは早く忘れろ』などとおっしゃいました。……許せるわけがない」
『だからといって、関係のないこの子を巻き込んでいいのですか!? この子の身体には、確かにわたくしの魂が眠っている。けれど、肝心のこの子は何も知らない無関係な人間なのですよ!?』
 あの日々と全く同じ烈しさで、彼女は彼を叱る。
 だが、クロードは聞き流した。
「……ええ。だからこそ、篭絡するのは簡単だった。すぐにでも身体を明け渡してくれるに違いありません。待っていてください。すぐに貴女をよみがえらせて差し上げます」
『待っ――……!』
 クロードが手を翳すと同時に、アイリスの幻影はふっと遠のく。
 そしてそのまま薄闇の中に溶けるようにして消えていった。
 
 ……あれは単なる精神体。いわゆる『霊体』だ。
 過去の記憶をすべて所持する代わりに肉体を持たない、いわば魂だけの存在なのだ。
 もともと力の弱いアイリスの霊魂はその姿かたちを保つだけでも限界のはずである。クロードの力で霧散させるのはたやすかった。
 
(この精神世界はもとより私の力が濃い領域だ。アイリスが思い通りに振舞うには限度がある……)
 
 魔術の世界において、霊体というのは存在する力が弱いといわれている。
 肉体に宿る一部分として、そして過去の記憶をすべて継承する存在として語られることが多い。
 その一方で、バイオレッタの方は一度アイリスとしての記憶を消されてしまっている。
 ……否、創造神が封じてしまうのだ。
 新しい生をけると、神は生前の記憶を魂の奥底へ封じ込めてしまう。
 これは、前世で起こった出来事を今世に持ち越さないため、そして人が自らの過去に絶望しないための創造神による配慮だといわれている。
 創世記から脈々と続いている永久不変の掟の一つだった。
 仮にバイオレッタがそうした過去の記憶を垣間見ることがあるとすれば、それはほかでもないアイリスの影響だろう。
 二つの魂を内包する肉体なら、そうした現象が起きていても何ら不思議はない。
 バイオレッタが時たまアイリスだった頃の記憶を揺蕩っているとしても全くおかしくないのだ。
 
 
 皇妃アイリスの蘇生について、邪神ジンことアインは言った。
 アイリスをよみがえらせるには、自分の復活と同時に魂の記憶を書き換えればいいのだと。
 バイオレッタの中に流れる『魂の記録庫』の流れを崩し、内包されたアイリスの魂だけを抜き出して空になった器に据えてしまえばいいと。
『皇妃を呼び戻す前に、この娘の心を破壊せねばならぬ』
 ……バイオレッタをこの『絵画の世界』へ監禁した日、アインは事もなげにそう言った。
『そもそも一つの器に二つの精神は不要だ。そしてお前がしようとしているのは魂から人間を蘇生させるという秘法。肉体も残っていない人間を蘇生させるのは難しい。魂を入れる容れ物がすでにないのだからな』
 さもありなん、とクロードはうなずいた。
 かつてアイリスの蘇生においてことごとく失敗したのはそのせいではないかと考えていたところだったからだ。
 器がなければ心は入れられない。肉体がなければ、精神は宿れない。
 アインはにっと笑い、猫のように鋭い瞳でクロードをうかがい見た。
『つまり、お前は皇妃の魂を抜き出してこの娘の身体に宿すしかない。この娘の器を一度空にするしか方法はない。ひいてはこの王女の魂を“なかったことにする”しかないのだ』
 そして、アイリスの器に最も適しているのはバイオレッタ自身であり、それ以上にぴたりと適合する器は他にないということだった。
 
 アイリスを生き返らせるためには、バイオレッタの中にある魂の領域――『魂の記録庫』を、一度大きく書き換えねばならない。
 これを「アカシックレコード」などと呼ぶ人間もいるようだが、それはごく最近になって伝わった便宜上の呼び名だ。
 そうした仰々しい名称はもともとクロードには馴染みが薄く、魔導士である彼にしてみれば「魂の眠る領域」、「過去の生をすべて記録した保管庫」のような認識でしかない。
 そして書き換えるといっても実際に手で何かを書きつけるわけではない。単にバイオレッタの精神を破壊するというだけのことだ。
 『魂の記録庫』の最も新しい箇所に連ねられたバイオレッタの記録を、すべて消してしまえばいいのだ。
 それは彼女の人間としての理が大きく覆されることを意味した。
 
 転生した人間は、前世と全く同じ気質を受け継ぐ。歩む道こそ違えど、その精神こころは基本的に前世と酷似したものとなる。
 バイオレッタを壊すということは、最愛のアイリスさえ壊すということ。
 美しい生の記憶を、いびつな形に捻じ曲げてしまうということだ。
 
「だが、それでいい。それでかまわないでしょう? アイリス……。私は今でも、貴女を壊してしまいたいくらい愛しているのだから……」
 バイオレッタはアイリスそのものなのだ。となれば、このままクロードと結ばれるのは必至。別の人生など歩みようがないはずである。
 彼女にはもう、クロードから逃れるすべは残されていないのだ。
「……すぐに生き返らせて差し上げる。今度こそ完璧な世界を目指しましょう」
 白くすべらかな頬に音を立ててキスし、クロードは彼女を寝台に横たえた。
 
 
 そこでふいにクロードの背後から紅い影が立ち上る。
 ……クロードを従えて己の完全なる復活を目論む火炎の邪神ジンだ。
 
 彼女は女神としての真名まなをアインといい、依代であるクロードに自らをそう呼ばせたがった。
 だからクロードも彼女をアインと呼ぶ。これは千年前に契りを交わした時からずっと変わらない。
 四大神には皆こうした真名が存在する。
 そしてそれは契約を交わした人間にしか明かさないものであり、その神の内部に刻まれた印のようなものなのだと、いつか彼女は皮肉交じりにクロードに教えてくれた。
 だからわたくしもお前にだけこう呼ばせてやるのだと言って、うっそりと笑ってみせた。
 
 ……あの運命の夜、確かにクロードは生まれ変わった。
 非力なスフェーン皇帝エヴラールではなく、火の邪神ジンにかしずく『火の依代』として新たによみがえったのだ。
 
『さあ、今度こそお前の領域で自由にできそうだな』
 クロードは微笑し、主人である火の邪神にうなずいてみせた。
「ええ、アイン様」
『さて……。人の精神を破壊するなど造作もないが……どうせなら少しくらい愉しめる方がよかろう。この穢れのない肉体をことごとく蹂躙しつくすか、あるいは断続的な恐怖を与え続けて心を壊してしまうというのもよいな。くく……、それにしてもお前は趣味がよい。この拘束具など、人間を痛めつけるにはまさしくうってつけではないか』
 ちろりと舌なめずりをしたアインから、クロードは無意識のうちに顔を背けていた。
 
 そう。人間の心を壊すなど造作もないことだ。
 その人間を深く絶望させればいい。人として何かを想う心を殺し、もうこの世界にいる理由はないと思い込ませればいいのだ。
 とはいえ、身体は残しておかなくてはならない。巧妙に心だけを破壊しなければ。
 
 ふと、そこでクロードはそんなことをしてしまっていいのだろうか、と考える。
 彼は静かに煩悶した。
 バイオレッタは悪くない。なのに、彼女の心をずたずたに傷つけなければアイリスは戻ってこない……。
 彼女は利害関係など一切ない、言ってみればただクロードとつかの間の恋を愉しんでいただけの少女だ。
 このバイオレッタという姫は狡猾なクロードとはいたって真逆の性格をしていた。
 いつも幸福そうに笑み崩れてクロードにもたれかかり、彼を疑うようなそぶりは微塵も見せなかった。
 
(それは私が貴女を騙したからだ)
 
 ひたひたと胸に迫ってくるのは、たとえようのない罪悪感だった。
 クロードは己を叱咤した。そして次に、意識を手放したままのバイオレッタを恨めしく見やる。
 彼女が早々にこの本性に気づいてさえいればよかったのだ。
 クロードと距離を縮めたりしなければ、こんなことにはならなかった。クロードの方もこうして苦渋の決断を迫られることもなかった。
 少女らしい無邪気さでいたずらにこの心を求めたりするからこんなことになったのではないか――。
 
 彼女はいつだってそうだ。
 帝国が危機に陥ったときも、地族の侵攻を知ったときも。
 彼女は彼のあずかり知らぬところで行動を起こし、彼に気づかれないうちに事態を収束させようとした。
 結果としてエヴラールは彼女を死なせることになったのだからお笑い種である。
 長い間行動を共にしていながら、エヴラールはとうとう彼女のことを何も理解することができなかった。
 彼女が――アイリスがどんなに自分の国を愛してくれていたか、そしていかにエヴラールを支えようとしてくれたかといったことに、まるで気づくことができなかったのだ。
 
 ……そして、そうした傾向は彼女が転生して『バイオレッタ』となってからも同じだった。
 彼女はピヴォワンヌが罰せられることを嫌がるあまり、あのリシャールの前に進み出ることさえした。
 クロードと口論をした時もそうだ。自分が悪いのだと……あなたを傷つけたのは自分だからと、クロードを責めることなく頭を下げた。
 
 彼女はいつも自分が盾になろうとした。犠牲になろうとした。
 他人のために自らを差し出すことに、少しの嫌悪も抱いていないのだ。
 仮に自分の魂が抹消されてしまったとしても、彼女は――バイオレッタはクロードを恨んだりしないだろう。
 それであなたが楽になるならと、彼に痛めつけられることさえ厭わないだろう。
 
 クロードは呻き、片手で顔を覆った。
(……それが、私には時々ひどく辛い。貴女は私などよりよほどお強い。貴女といると、私は自分の弱さや醜さを直視させられてしまう。自分が脆弱で欲深な男だと思い知らされてしまう……)
 
『さあ。やっと愛しの皇妃と相まみえたのだ、そろそろ昂ってきたであろう? お前も本来の仕事をせよ』
 甘く蕩けるような邪神の声に、クロードは我に返った。
 くっ、と嗤って昏い笑みを浮かべるアインに、クロードはなんとか作り笑いで応じた。
『簡単であろう? お前にならできるはずだ。千年の間、姦淫と殺戮に手を染めてきたお前になら』
「……ええ」
 クロードはあられもない姿でベッドに横たわるバイオレッタを見た。
 真珠色のふっくらとした胸。少年のようになだらかで平たい腹、すんなりと伸びた形のよい手足――。
 みずみずしく若い娘の肢体が、そこにはあった。
 歯を立てればあっけなく崩れそうな、柔らかな身体。
 それでいて噛みしめると快い弾力でもって応えてきそうな、健やかな張りを持った身体だ。
 ……この身体に、クロードはまだ溺れたことがない。
 いっそ罪なほどなめらかなこの肌の味を、彼はまだ知らなかった。
 バイオレッタ。
 彼はそうつぶやき、情欲の滲んだ瞳で彼女を見る。
 欲しい。
 それも、純粋に欲しいのだ。
 こんな感情は生まれて初めてだった。……女と「ただ」抱き合いたいなどと思ってしまったのは。
 気を抜けば惑わされてしまいそうで、ついクロードは目を背ける。
『呆けた顔だな、わが依代よ。一度愛した女を壊すのはそんなにも恐ろしいか? これまでお前は散々女の愛を裏切ってきただろう。親のない娼婦も、敬虔な聖女も、お前が愛を与えれば喜んで受け入れた。まるでお前こそが愛の道標であるかのような顔をした。……だが結局はお前にすべて奪われた。お前とのまぐわいがすべて邪神の糧になっているとも知らずに……』
 アインにそう揶揄された刹那、クロードは瞬く間に表情を凍らせる。次いで、眠るバイオレッタを睨むように見据えた。
 
 ……そうだ。今まで通り手を下せばいい。
 自分は破壊を躊躇するようなお人好しではない。女を犯し、人を殺し、そうやって生きてきた。否、それこそが存在意義だった。
 今更善人ぶるなと、クロードは何度も自身に言い聞かせる。
 
(この姫を私のものにし、ゆくゆくはその存在を抹消する。それが私のすべきことだ。アイリスとの日々を取り戻すには、そうするしかない。彼女を……痛めつけるしか)
 
『さあ、奪ってしまえ、依代よ。お前にはそれだけの力がある。わたくしの手駒であるお前には、確かにその素質があるのだ……』
 
 やがて、耳障りな嘲笑とともにアインの気配がゆっくりと薄れてゆく。
 それを確かめたクロードは、寝台の上で眠るバイオレッタの頬に触れた。
 衰弱しきった様子の王女を眺めていると、どうしても「あの日」のことを思い出す。
 ……千年前の、永久の別れを。
 
(なぜ私はこの姫を前にすると冷酷な男を演じられなくなるのだろう)
 
 アインの言うように、いつも通り手を下せばいいだけのことだ。簡単な話なのに。
 だが、そうするにはバイオレッタはあまりにも彼に色々なものを与えすぎていた。
 てらいのない笑顔、慣れない王宮で精一杯頑張る姿、クロードを振り仰ぐときの優しい瞳。
 クロードがこの千年の間に欲していたもののすべてを、彼女は持ち合わせていた。長い旅路で傷つき疲れたクロードの心を癒し、受け入れ、抱き留めてくれた。
 それはひとえに彼女が愛しい伴侶アイリスと同一の存在だからなのだろうか?
 
「貴女を、壊す……」
 バイオレッタの頬を指でするすると撫でながら、クロードは呻く。
 この娘はあんなにも自分を慕ってくれた。クロードの事情など知りもせずに、一生懸命彼に好意を表現してくれた。
 首を傾げ、頬を染め、時には愛らしく怒る。
 クロードもこの王女の前ではただの一人の青年のように振舞うことができた。
 邪神の手下などではなく、一人の男として純粋にバイオレッタを愛そうと思えた。
 
『クロード様』
 
 冷めた心を呼び覚ます、呼びかけとぬくもり。
 遠い彼方へ流されてゆくこの心を、バイオレッタはいつだって繋ぎとめてくれた。ここにいていいのだと、あなたが必要なのだと教えてくれた。
 いつしか、彼女が隣にいることが当たり前になっていたのだ。
 もうけして独りではいられない。バイオレッタと一緒に、この生をやり直したい。
 そう思ってしまうほど、クロードはバイオレッタを愛し始めていた。
 そして、彼女もまたクロードを愛していると言ってくれ、あなたのものになりたいとまで言ってくれた。
 それを全部、なかったことにする――?
 
「……くっ」
 クロードは整ったおもてを強張らせた。
 ばかげている。千年の時を生きる闇の罪人が、よもやこんな少女ごときに心乱されようとは。
 一度邪神の依代となったクロードに、まっとうな日々などもう与えられるはずもないというのに。
 なのに、脳裏に浮かんでくるのはバイオレッタの笑顔ばかりだ。
 自分の名を愛おしげに呼び、手を差し出し、温かい両腕で包み込む……、そんな彼女の姿ばかりが脳裏を駆け巡る。
 あの慈愛に満ちた笑顔も、優しく愛らしい声も、抱きしめた時の柔らかくどこか頼りない感触まで……。
 今となってはすべてが遠い日々の出来事のように思えてくる。
 すべて夢だったのかもしれない。心浮き立つような、あの日々は。
 運命の女神がいたずらに見せた、一時のまやかしだったのかもしれない――。
 
「……」
 横たわったバイオレッタの蒼白い顔は、いつかのアイリスの死に顔を連想させた。
 それが余計に現実を突きつける。
 バイオレッタを消せば、あの楽しかった日々はもう戻ってはこない。
 今度はアイリスの代わりにバイオレッタが死ぬのだ。最愛の皇妃アイリスの蘇生と引き換えに、自分は彼女との愛を失うことになるだろう。
 
 クロードは寝台の上で眠るバイオレッタの下に跪き、食い入るようにその寝顔を見つめる。
「……わかっていたことだろう、すべて……」
 つぶやきは、静寂の満ちた室内に空しく響いた。
 
 
 

 

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