「――はあああああッ!!」
ピヴォワンヌは夢馬めがけて愛刀を打ち下ろした。
刹那、濃密な闇で生み出された黒馬のシルエットに亀裂が走り、音もなく消滅する。
息をついたのも束の間、足元に集った闇がまたしても不気味に蠢き出してピヴォワンヌは忌々しげに顔を歪める。
一旦は霧散するものの、異形たちはすぐさま形を取り戻してしまう。
(なんてことなの、これじゃきりがないわ……!)
何かが右足に纏わりつき、ピヴォワンヌは均衡を崩してぐらりとよろめいた。
「あっ……!?」
「香緋! 後ろだ!」
前方から投げかけられた彩月の声に背後を見やれば、そこには漆黒のガーゴイルがいる。
ガーゴイルはピヴォワンヌの右足にしがみつき、不気味な声でけたけたと嗤っている。
素早く刃を一閃させ、ピヴォワンヌはガーゴイルを袈裟懸けに斬りつけた。
闇色の靄が辺りに漂い、その姿はうっすらとぼやけて虚空の中へ溶け去ってゆく。
……これが闇の力なのか。
ピヴォワンヌは辺りを見渡した。
闇の領域というだけあって、視界が随分と暗い。
そして、意識を冷たい泥濘の中へと引っ張り込まれるような、嫌な空気が充ち満ちている。
(身体が重い……! 剣を持つ手も、踏み出そうとする足も……全部負の感情に絡めとられるみたいで……!)
ピヴォワンヌは気を抜けば意識を手放してしまいそうになる自分を強く叱咤した。
これが、クロードの操る闇の力なのだ。
そして魔導士たちの予感が正しければ、この中には火の魔力も混ざり合っていることになる。
恐らく長居は禁物だ。
「くそっ……、何度とどめを刺してもまたよみがえってきやがる! 主と同じで随分ねちっこい影どもだなァ!」
彩月はそう悪罵しながら眼前に迫ったラミアの胴体を叩き斬る。
主には手を出すなとばかりに襲いかかってくる化け物たちのおかげで、彼の太刀筋には早くもぶれが生じ始めていた。
空間全体に漂う不穏な空気のおかげで異形に狙いを定める手が大きく狂い、額には汗のしずくが浮かんでいる。
「“ねちっこい”? おやおや、そこは粘り強いと言ってくださらなくては」
クロードは時折そうした揶揄を投げかけながら、二人が苦戦する様子を優雅に眺めている。
「おや、これはどうしたのでしょう。動きが鈍っていますよ、喬彩月。そんなことでは、ほら……彼に追いつかれてしまう」
「!」
漆黒の角を構えて背後から勢いよく駆けてくる一角獣に気づき、彩月が舌打ちしつつ身を翻す。
そこを狙って急降下してくるガーゴイルを、彼は間髪入れずに斬り伏せた。
「くそっ……、多勢に無勢たァあんたもやるな」
「ふふ……、それほどでも……」
「こンの、腹黒策士がッ……!」
次々と刀身をひらめかせながら吐き捨てるも、戦況は一向によくならなかった。
いや、この状況はもはや熾烈を極めているといって差し支えない。敵の数が多いだけにどうしたって苦戦を強いられるし、戦力という意味ではじゅうぶん不利だ。
何せこちらは戦える人間が二人しかいないのだから。
しかも、術を操っているクロード本人にはまるで攻撃することができないのが口惜しかった。
彼に決定打を与えられなければ、この戦闘に蹴りがつくことはない。
機械仕掛けの人形か何かのように、延々とこうして踊り続けるしかないのだ。……その発条が切れるまで。
彩月の様子を気にしつつ、ピヴォワンヌもまた小さな身体で懸命に立ち回る。
怪物たちは倒すそばから次々に復活し、どんどん距離を詰めてくる。自分たちを構成する闇の中に、ピヴォワンヌたちを取り込もうとしているかのように。
刃を薙ぎ、ピヴォワンヌは自らに群がる異形の影に狙いを定める。
だが、こちらめがけて一斉にまとわりついてくる彼らを振り払うのは困難すぎた。
「くっ……!」
愛刀の切っ先で威嚇してみても、当然彼らは退ったりしない。むしろ不気味に笑いながら距離を詰めてくる。
眠気と倦怠感でぶれる視界に、魔性の生き物たちの姿がぐいぐいと迫る。
(だめ……、こんな状況じゃ絶対に不利だわ……!)
ピヴォワンヌが一瞬だけ戦意を失いかけた、その時――。
「……唸れ、迅雷!!」
詠唱とともに異形の群れめがけて稲妻が迸る。
異形は鋭い閃光に打たれてあっけなく散り散りになった。周囲の怪物たちも弾かれたように飛び退く。
彩月はそれを確かめるとピヴォワンヌの傍らに駆け寄ってきた。手には一枚の護符を挟んでいる。
「大丈夫か!?」
「ええ……!」
なんとか刀の柄を握り直し、体勢を立て直す。
するとやおら彩月が手を引いた。
「香緋、こっちだ! 俺の隣へ来い!」
有無を言わさぬ口調に、ピヴォワンヌは反射的に彼に従う。
そこで彩月は懐から新たな護符を取り出した。ピヴォワンヌをきつく抱き寄せて詠唱する。
「霹靂神の名において命ずる。神解けよ、来たれ。わが契約の証に応え、この地に汝が統べし雷光を降らせよ……!」
彩月の首にかかった貴石の首飾りが、目も眩むほどの輝きを帯びてちかちかと鋭く瞬く。
同時に、玄関ホールの四隅に燭光にも似たほのかな灯りが点り始める。
四つの輝きが、彩月の構えた一枚の護符めがけて不思議な文様を描き始める。
その図形が部屋の内部にすべて描き切られたことを悟った彼は、そこで素早く叫んだ。
「――招雷!!」
轟く雷鳴と、邸の上空から降り注ぐ幾筋もの稲光。
数多もの閃電をその身に受けて、魔性たちが声にならない悲鳴を上げて四方八方に散る。
彩月は散り散りになった彼らの残骸を見つめてふんと鼻を鳴らした。
「土と風の複合魔術だ。決定打は与えられねェけど、足止めにゃじゅうぶんだろ」
と、ふいに彼は腕の中のピヴォワンヌを見下ろしてどこか慌てたように弁明した。
「……と、悪ィ、お前が雷怖いんじゃねえかと思っただけだ」
彩月はぱっと身を放してピヴォワンヌを解放した。
ピヴォワンヌは彩月が意外にもすんなり手を放してくれたことに驚きつつも、紅い頬のまま答える。
「あ、ありがと……。大丈夫、そこまで怖くなかった」
そこで彼女はぐるりと玄関ホールを見渡した。
「それにしても、いつの間にこんな大掛かりな術……」
「広間の四隅に護符を仕掛けといたんだよ。俺様だって伊達に逃げ回ってたワケじゃねェ。反撃の機会くらいうかがっとかねえとな」
ピヴォワンヌは思わず口元を手で覆う。
「すごい、彩月……」
すると、彼はいつもと同じようにへらりと笑った。
「なんだなんだァ、惚れなおしたのかァ?」
「はあっ!? そんなわけないでしょ!? っていうか、そもそも惚れてないわよ!!」
「意地張りやがって素直じゃねえなァ」
「だから違うって言ってるでしょ!!」
押し問答をしながら、ピヴォワンヌは彩月の腕をばしんと叩く。
今は大事な戦いの場だというのに、この男はこんな状況で一体何をのたまっているのか。
(信じらんない、もう……っ!)
すると、階段の縁に腰かけて長い脚を組んでいたクロードがいきなりくすくすと笑いだす。
何度か小ばかにしたように笑ったあと、彼は艶を帯びた唇をゆっくりと開いた。
「おやおや、この期に及んでまだよそ見をなさるとは。では、お望み通り遊んで差し上げましょうか……!」
「何をする気なの」と問い返す間もなく、彩月の身体が宙に浮いた。
「……ッ!?」
クロードの掌から伸びた魔力によって捕らえられた彼は、玄関ホールの上空へと連れ去られ、幾重にも連なった黒い鎖で体躯を盛大に締め上げられた。
「ぐうっ……!?」
「彩月ッ!!」
闇の鎖にぎりぎりと四肢を絞られ、彩月が息も絶え絶えに呻く。
とっさに駆け寄ろうとした瞬間、いつの間にか後ろに立っていた黒髪の女に羽交い絞めにされる。
『ふふ……。健気なことだ。だが案ずるな。お前の相手はこのわたくしがしてやろう』
「やっ……!?」
耳朶を撫でる声と肌のあちこちを触れまわす手のひらに総毛だつ。
『おや……? よくよく目を凝らしてみれば、お前、随分と生きのいい魂を持っているようだな。これは好都合……、少しは愉しませてもらえそうだ……』
女はそう言って、背後からピヴォワンヌの頬をゆったりと撫ぜた。
腰の辺りをきつく抱くと、耳孔に熱く湿った吐息を吹きかけてくる。
「やめて……っ!」
『あの男が命を奪われる様を、ここでゆっくりと見ているがよい……。お前はこれからわたくしたちに歯向かった罰を受けるのだから』
「……!」
身体を魔力の鎖にきつく取り巻かれ、時折悪戯でもするように突然力を強められ、彩月の顔が赤黒く染まってゆく。
その精悍なおもてからはすっかり覇気や戦意といったものが失われていた。
四肢に絡む鎖を振りほどこうともがいてみるも、こうも厳重に捕縛されていては叶うはずもない。
両腕、両脚、挙句の果てには胸郭や首筋にまで漆黒の鎖は巻き付き、絶えずぎりぎりとその身体を締め上げている。
彼は苦しげに何度か喘ぎ、喉奥からかすれた声を絞り出した。
「拉致監禁に束縛とか、趣味悪ィ男だぜ、ったく……!」
「先ほどあなたが拘束してくださったのでほんのお返しですよ」
「はは……、そう慌てなくたってちゃんと相手してやるのによぉ……。せっかちな男はモテねえぞ?」
クロードはそこで琥珀の双眸をすっと細める。標的を追い詰める獅子の目で、彼は彩月をじっとりとねめつけた。
「どうやら詰めが甘かったようだ……。やはりとどめを刺そうという時に抜かりがあってはいけませんね」
「ふーん、お綺麗な顔して大層な鬼畜野郎だったんだなァ、あんた……。男に興味はないって言ってたくせによぉ……」
挑発する彩月に、クロードがとうとう激昂する。
「は……、そんなに死にたいのなら今すぐ――」
クロードはそうつぶやき、苛立ちも露わに手のひらに意識を集中させる。
刹那、彩月が大きな声で叫んだ。
「香緋ッ!! あの姫さんに借りた剣を、あそこにかかっている肖像画に突き立てるんだ!!」
「なっ……!!」
ピヴォワンヌはとっさに背にくくりつけたクララの宝剣に目をやった。
アルマンディン王家の宝物である長剣は、今は鞘ごと背に固定してある。
まさかこれをバイオレッタが描かれたあの肖像画に突き刺せというのだろうか?
「けど、そんなことをしたらバイオレッタが――」
「いいから早くしろ!! 迷うな、行け!!」
その言葉に、ピヴォワンヌの身体は素早く動いた。
自分に抱きついている女の腕を渾身の力で引きはがし、背に帯びた剣の柄をしっかりと握りしめる。
そうしてピヴォワンヌはとうとうクララに借りた長剣をすらりと鞘から引き抜いた。
……刀身には小粒のサファイアが輝き、柄にも同じ宝玉の房飾りが垂れ下がっている。
これはアルマンディン王家が滅亡するとき、クララが父王から託された宝剣だ。
今度はクララが、バイオレッタへの想いを込めてピヴォワンヌに託した。
『わたくしはバイオレッタ様に何度も勇気づけられました。今度はわたくしも、あの方を御救いしたいのです』
懸命な口調でそう言って、彼女はこの宝物をピヴォワンヌに預けてくれた。
「……」
ピヴォワンヌは沈黙し、引き抜いた刀身を見つめた。
抜き身の剣からはどこか重みのある波動が漂っている。
未だ迷いを捨てきれないピヴォワンヌの脳裏に、異母姉との日々が次々とよみがえった。
『私は貴女に助けられてばかりね』
『強くなくていいし、落ち込むときはうんと落ち込んでいいのよ。その弱さだって貴女の一部なの。でも、覚えていてね。わたくしは、いつも貴女の隣にいるんだから』
『泣きたいときは、わたくしが抱きしめてあげるから』
バイオレッタ。大好きな姉。
自分をいつも守ってくれていたバイオレッタ。
そうだ。本当はピヴォワンヌが彼女を助けていたのではなくて――
(本当は、あたしがあんたに助けられていたんだ)
バイオレッタがいたから、ここまで頑張れたのだ。
その笑顔がどんなに心強かったことだろう。どんなに大きな心の道標となっていたことだろう――。
「大切なものが何か、やっとわかったわ」
つぶやくなりピヴォワンヌは駆けだした。彩月に気を取られているクロードの脇を通り抜け、まっすぐに正面階段に向かう。
「行かせませんよ、ピヴォワンヌ様!」
取り巻くのは薄闇。けれど、熱を秘めた剣はすべての影を振り払うように明るく輝いていた。
『この小娘……っ!! わたくしたちの邪魔をするでない!!』
ピヴォワンヌを追ってきた黒髪の女は、しかし剣の輝きを身に受けた瞬間目に見えてうろたえ、かすれた声を上げる。
『なっ……! まさか、これはヴァーテルの――!!』
ピヴォワンヌはそれに取り合うことなく一直線に姉のもとへ向かった。
邸内の闇が霧散し、ピヴォワンヌのために道を開ける。
俊敏な身のこなしで階段を駆け上がると、彼女は大きく剣を振りかぶる。
「なっ……!? おやめなさい、ピヴォワンヌ様――!!」
「バイオレッタ!! 今、助けるから!!」
剣を振り上げ、ピヴォワンヌはその刀身を勢いよく絵画に突き立てた。
***
……闇で作られた『箱庭』が脆く崩れ落ちてゆく音を、クロードは呆然と聞いていた。
硝子の欠片が勢いよく飛散する。しかしそれは、床に触れる前に黒い霧となって跡形もなく消えていった。
半ばうなだれるようにして踊り場に倒れ込んできたのは、白銀の髪の姫だ。
「バイオレッタ!!」
緋色の絨毯めがけて倒れ伏すバイオレッタを、駆け寄ったピヴォワンヌが受け止めて支えた。
「バイオレッタ……、バイオレッタッ!!」
ピヴォワンヌはバイオレッタの細い肩を強く揺さぶり、その頬に手のひらを添えて上向かせた。
生気を失ったバイオレッタの白いおもてに息をのみ、それでも姉姫が小さく呻いたことに安堵の笑みを漏らす。
「……ピ、ヴォワン、ヌ……?」
「よかった……、バイオレッタ……!!」
蒼褪めた頬のバイオレッタは、震える唇で異母妹に何かを語り掛けようとした。
だが、すぐに固く瞼を閉ざしてしまう。力を失った肢体が、かくん……と崩れ落ちた。
時間の感覚すら曖昧になる世界に閉じ込められていたのだから、無理もない。
しかも、邪神の影響をあれだけ間近で強く受け続けることは、人間にとっては致命傷となる。クロードのように依代でもない限りは。
ピヴォワンヌはその身体をしっかりと抱きしめたまま、低い声で問うた。
「……ねえ、答えてくれない? この子に何をしたの」
「……何も」
「ああそう。じゃあ質問を変えるわ。あんたは何のためにこんなことをしたの? そんなにバイオレッタを傷つけたかった?」
クロードは静かに「いいえ」とだけ答える。
すると、彼女は今にも泣き出しそうに顔を歪めた。
「じゃあなんで……っ!! あんたはこの子にこの上なく慕われていたくせに!! 信頼も、愛情も、繋がりも……!! あたしがもらえないものを全部独り占めして……、恋人としてこの子の隣に立つ権利だって持っていたくせに!! なのになんで……、どうしてこんな酷いことするのよ!!」
ピヴォワンヌの憤りはもっともだろう。
クロードは初めから彼女がけして持ちえないすべてのものを与えられていた。
バイオレッタを支え、守り抜くだけの力も。男として彼女を喜ばせる術も。
……そして、「恋の対象」として彼女を愛する資格さえも。
クロードは最初から気づいていた。ピヴォワンヌがバイオレッタに対して抱いている淡い恋心のようなものに。
それは男女間で成り立つものとは全く種別の異なるものだったが、それでもその情熱はクロードのそれに匹敵するほど強く激しかった。
年端のいかない少女同士だからこそ生まれる絆、そして友情を超えた愛情のようなものが、この二人の間には確かに存在していたのだ。
ピヴォワンヌはバイオレッタを、愛している。
しかも、彼女が愛しているのはクロードとは全く異なる部分だ。
彼女は――ピヴォワンヌは、ほかでもないバイオレッタの「本質」に惹かれているのだ。
(……初めからわかっていましたよ、ピヴォワンヌ様。貴女の愛は本物だと。私と姫を繋ぐものが色恋からくる欲望であるとするなら、貴女のそれはまさしく無償の愛と呼べるものだ。姫が決して自分を見てくれなくても、たとえ何も話してくれなかったとしても、貴女はいつだってこの方を守ろうとしてきた。それは男女間で成立する愛などよりもよほど尊い愛の形だ)
だからこそ渡したくなかった。
男であることを武器にして、バイオレッタに無理やりこちらを向かせようと足掻いた。
彼女にとってはピヴォワンヌの手を取る方が幸せかもしれないなどということは一切考えずに。
……思えば、昔からそうだった。
自分たちはこうした愛の形しか知らない。
だから、因縁も愛憎も繰り返すのだ――。
「酷いことなど、私は何もしていません……。私はただ、その方が欲しかった。私はその方を、心の底から愛しているのです」
クロードはやっとの思いでそう言った。
だが、まるでそう言わせられているかのような平坦な口ぶりに、ピヴォワンヌがくいと眉を跳ね上げる。
「……愛している、ですって? こんなに憔悴させておいて、よくもそんなことが言えるわね!!」
見れば、バイオレッタはクロードの与えた薄手のシュミーズドレス一枚という格好でぐったりしていた。白くほっそりした両腕をだらりと下げ、力なくピヴォワンヌにしなだれかかっている。
彼女の蒼白のおもてを見れば、あらぬ嫌疑をかけられても仕方がない。
だが、本当に何もしていないのだ。
クロードはバイオレッタとの時間を過ごせるだけで満足だった。
彼女の眠る姿を眺め、弾力のある柔らかな皮膚に唇を這わせ、時にはどうということはない会話に興じながら夜を明かす。
そうしてひとときの蜜月を愉しんでいられれば、それだけでよかったのだ。
最終的にはアイリスに阻止されてしまったが、本当はあのままバイオレッタと二人きりの世界に揺蕩っていたかった。
いつか彼女がこちらを向いてくれるのではないかと、淡い期待を抱きもした。
大陸への復讐心を打ち消すくらいの愛情を、与えてほしかった。
自分にそうした強い感情を与えられるのはもはやバイオレッタしかいないのではないかと思ったのだ。
アイリスと同一の存在である彼女になら、自分の破壊衝動を止められるのではないか。
そう願ってしまったのだ――。
「……よくわかったわ。あんたはこの子を裏切った。もういい……、これ以上あんたをこの子に近づけさせるわけにはいかない」
噛みしめるようにつぶやき、ピヴォワンヌはバイオレッタの髪や肩を愛おしむように何度も撫でる。
「裏切り」という一言に、クロードはのろのろと弁明した。
「そんなつもりはなかった。私はただその方と……姫と、一緒にいたかったのです。それほどまでに私はその方を愛している。これ以上は抑えられないほどに、恋い焦がれているのです」
そうだ。ただそれだけだった。だから邪神の誘いに乗った。
邪神アインの支配下に置かれれば、少しでも彼女を独占することができると思ったのだ。
邪神への贄として利用するつもりは端からなかった。ただ一時でも長く、バイオレッタを自分の手の届く場所に留めておけたらと願った。
結ばれることなど叶わない相手だとわかっていても、その存在を自分一人だけのものにしておきたかったのだ。
(私のバイオレッタ。私は貴女を傷つけたいわけではなかった。貴女をただ、愛したかった)
それはクロードの本心だった。
あの笑顔を守りたかったし、ずっと見ていたかった。
彼女を満ち足りた気分にさせてやれるのは自分だけだと証明したかった。
その一方で、かつての日々をことごとく忘れ去ってしまっている彼女を恨みもした。
生命を奪われてのこととはいえ、自分との日々をすべてなかったことにされたのが許せなかった。
憎むくらい、愛している。
そしてそうした気持ちを持て余すあまり、バイオレッタをいたずらに傷つけてしまう。
未だにこの複雑な感情をなんと呼んだらいいのか、クロードにはわからない。
もしかしたら、これは「愛」などではなく単なるクロードの「執着」なのかもしれない。
けれどクロードにとって、バイオレッタという少女は憎い因縁の相手であるという以前に、自分の積年の闇を癒してくれる陽光のごとき存在でもあった。
もっと触れたい。もっと自分に熱を与えてほしい。
この闇も、この悲しみも。
ほかならぬバイオレッタにすべてを融かしてほしいのだ。
――だが、ピヴォワンヌは冷たく言い放った。
「勘違いしないでよ、クロード・シャヴァンヌ」
一気に気色ばんだ彼女は、クロードをきつく睨みながらまくしたてる。
「小鳥は誰か一人だけのためにさえずる生き物じゃないわ。ましてやあんただけの籠の鳥になんて絶対にならない。そうやって自分の感情をこの子に押し付けるのはやめて」
ルビーレッドの双眸が、クロードを憎むように……そしてどこか憐れむように眇められる。
「鳥が健気に見えるのは、籠に囚われているからじゃない。自由だからよ。生を享けたことを喜んで、精一杯羽ばたいているから愛らしく見えるの」
ピヴォワンヌはそこできっぱりと言い切った。
「――空をゆく鳥はね、誰か一人のものになった途端に輝きを失うわ。……そこには大好きな空がないから」
***
(なんて下劣な男なの)
ピヴォワンヌがひと睨みすると、クロードははっ、とせせら笑った。
「……私の腕の中こそが空なのだと言ったら? 私だけが、その方を守って差し上げられるのだと言ったら……?」
「は……。詭弁ね。誰かの腕の中に自由なんかないわよ。そこにあるのは依存だけ。そして、誰かに依存するということは、その相手を無意識のうちに支配してしまうということなの。あんたはバイオレッタを守っているんじゃない……、ただ寄りかかって甘えているだけよ」
……確かにクロードなら言葉通りにするのだろう。
彼なら、バイオレッタを庇護し、傷つかないよう懸命に守ってくれるのかもしれない。
だが、そこはもう彼の領域の中だ。
彼の定めたルールといびつな愛だけが存在する閉鎖的な世界。
盲目の愛に捕らわれたバイオレッタが、そこで飼い殺しにされることは間違いない。
重すぎる依存は時として毒となる。だからこそ、この男には渡せない。
ピヴォワンヌだけを見てほしいからではない。自由に羽ばたける鳥であってほしいからだ。
「……この子は連れて帰るわ。あんたのところになんかもう二度と来させるもんですか」
ピヴォワンヌはバイオレッタの身体をぎゅっと抱きしめ、歩み寄ってきた彩月の腕に彼女を預ける。
そのまま彩月とともに玄関ホールを出ていこうとしたピヴォワンヌだったが――。
「そうですね……、今度こそそうできればいいですね」
まるでこちらの過失を責めるかのような口ぶりに思わずかっとなる。
いきり立ったピヴォワンヌは彼を振り仰いで眦をつり上げた。
「つけあがるのもいい加減にして、魔導士クロード。あたしはこの国の王女よ。その気になればいつだってあんたからその位をはく奪してやれるの。だからあたしはあんたのことなんか少しも怖くない。またこの子にちょっかいを出すようなことがあれば、その時は確実にあんたをその高みから引きずりおろしてあげるわ」
「おや、これは恐ろしい……」
「あら、あたしの言ってることは全部真実だけど? あんたまさか、あたしがあのリシャールの血を引く王女だっていうことを忘れているんじゃないでしょうね?」
リシャールの実の娘であるということ、そして彼と同等の強情さを持つ少女であるということ。
二重の意味でもって、ピヴォワンヌはクロードに脅しをかける。
自分を軽んじることはけして許さない。バイオレッタをいいように扱うことも。
そんな意思を込めて、ピヴォワンヌはきつくそのおもてをにらみつける。
「今日のことは全部リシャールに報告させてもらうわよ。それがあいつとの約束だもの」
そこで一瞬クロードは形のよい眉を寄せた。次いで、男性とは思えないほど美しく整った顔から一切の感情が消え失せる。
仮面を思わせる作り物めいたポーカーフェイス。
それがかえって彼の感情の揺れをピヴォワンヌに知らしめる。
それを小気味よく感じながら、ピヴォワンヌはとどめを刺すように彼に言い放った。
「――安易に王女を敵に回したりするからこうなるのよ」
***
彩月は自身も相当疲弊している状況でありながら、二つ返事でバイオレッタを背負う役割を引き受けてくれた。
「ごめん、彩月」
「いーんだよ。つか、早くここを離れねえとまずいだろ。あいつが追っかけてきても厄介だ、とっととずらかろうぜ」
薔薇の茂みの脇をすり抜け、黒い鉄格子でできた門扉を目指す。
辻馬車はここにたどり着いた時と全く同じ場所で二人の帰りを待ち構えていた。
二人は急ぎ足で庭園を抜け、馬車の座席へと乗り込む。
「っと……」
慎重な手つきでバイオレッタを背から降ろし、彩月は座席の真ん中に彼女を乗せた。先に中へ乗り込んでいたピヴォワンヌは、手を伸ばしてその身体を支えてやる。
「……バイオレッタ」
未だ顔色は悪いものの、彼女は確かに息をしていた。
なだらかな曲線を描く肩と胸元が、彼女の呼吸に合わせてゆっくり上下に揺れ動いている。
それを確かめたピヴォワンヌは、彼女の手を取ってつぶやいた。
「バイオレッタ……、よかった……! バイオレッタ……ッ!」
バイオレッタを無事奪還したことによって一気に涙腺が緩んでしまい、ひっきりなしに涙が溢れる。
「あんたがいなくなってから、ずっとあたし、寂しくて……、ふ、うう……、っ……!」
愛らしい顔をぐしゃぐしゃにしているピヴォワンヌの頭を、彩月がぽんぽんと何度か叩く。
そしてバイオレッタの身体に自らのコートを着せかけると、ピヴォワンヌを励ますようにほんのりと笑った。
「……泣くなよ。ちゃんとお前のところに戻ってきただろうが」
「だって、あたし、あたし……っ」
それから先はどうしても言葉にならなくて、ただひたすら嗚咽を堪える。
彩月はそんなピヴォワンヌの頭をあやすように撫でる。
「……よしよし。ま、好きなだけそうしてろ。俺ァ今ここにゃいねえと思って、久しぶりの再会をじっくり味わっとけ」
その言葉に、ピヴォワンヌはとうとう大きな泣き声を上げた。
小粒の水晶を思わせる涙のしずくが、ぽろぽろと膝へ滑り落ちていく。
それはバイオレッタの白銀の髪にも数多の雨粒のように絶え間なく降り注いだ。
ピヴォワンヌはそこで眠るバイオレッタをかき抱いた。
片手で白銀の髪をまとめるようにしてかき集め、その肩に顔を擦りつける。
どうしてだかわからないが、今この腕の中にあるものがひどく愛おしい。
その不可思議な感傷を抱きしめながら、黙って涙を流し続けた。
***
『このうつけが!!』
派手な音とともに、クロードの頬は強く張られた。
『あの贄を逃がすとは! うまくゆけばあの力を喰らうこともできたかもしれぬというのに!』
……邸の私室で、クロードはアインに叱責されていた。
幾度も幾度も頬を打たれ、足蹴にされ、あらん限りの罵倒の言葉を投げつけられながら、それでも彼は黙って彼女の前に跪いていた。
苛立ちも露わに、アインはうなだれるクロードの肩を強く蹴り飛ばす。
「……っ!」
『もうよいわ。お前ごときに猶予を与えたわたくしが馬鹿だった。さっさとあの娘を覚醒させるぞ』
その言葉の意味するところがわからず、思わずその顔を振り仰ぐ。
すると彼女は淡々と告げた。
『ふん。お前に任せていても一向に事が進まぬからな。わたくしが手ずから儀式を行ってやる。まずはあの小娘から持てる魔力をすべて吸収してやろう。お前の皇妃アイリスが復活した際に邪魔をされては厄介だからな。先に魔術が一切使えない身体にしてやろうではないか』
クロードはすぐに彼女の真意を悟った。
アインはアイリスが蘇生を果たした際に自分を消そうとするのではないかと危惧しているのだ。
だからこそ彼女が「バイオレッタ」であるうちに魔力をすべて奪ってしまおうと考えたのだろう。
バイオレッタの持つ魔術の才。それはすなわちアイリスの持つ風の魔力のことだ。彼女が風神イスファートと契約して得たものが、まだバイオレッタの中に残留しているのである。
それを根こそぎ奪われてしまえば邪神に楯突くのは難しくなる。
いくらアイリスでも、一切魔力を持たずに邪神と対峙するのは自殺行為だ。
蛮行を阻止できる者が誰もいなくなってしまえば、あとはすべてがアインの支配下に置かれるのは目に見えている。
アイリスの復活と同時に、葬られたはずの邪神ジンが目を覚ます。
それはかつてクロードの望んだ「大陸に暮らす人間たちの死」が叶えられることを意味した。
クロードは人々が消滅したのちも「邪神の依代」として最愛の皇妃アイリスとともに生き永らえる。よみがえった空の帝国スフェーンの皇帝として。
そして、世界には再び混沌と戦乱が訪れるだろう……。
(……それが、私の望んだ未来なのか)
もはや自問自答するまでもなかった。クロードはあの契約の夜、確かにそれをアインに望んだ。
皇妃アイリスの命を奪った地上の民を皆殺しにしてくれと。どうにかして彼女の無念を晴らしてやってくれと。
なのに、バイオレッタという娘の存在はいつもその復讐心に歯止めをかける。
クロードの心を大きくかき乱し、本来の目的を忘れさせようとする。
うつむき、クロードは手のひらにきつく爪を食い込ませた。
アインはそこで悪戯を思いついた子供のように楽しげな笑い声を上げた。
『ああ……、どうせならいっそのこと、あの姫の魔力を糧に復活の儀を執り行うというのもよさそうだな。喜べ、クロード。お前の愛する娘はわたくしにとって最後の供物となるのだ。何せ火の神ジンの復活に協力できるのだ、これは人の子にとってはこの上ない誉れとなろう』
クロードは憔悴した頭のまま、アインの言葉にごくりと喉を鳴らす。
またしても終焉が訪れようとしている。
しかも、愛するバイオレッタを自らジンに捧げるという形で。
心の中、葛藤が渦巻く。
果たして本当にこれでいいのだろうか。本当に、これが自分の望む未来なのだろうか。
逡巡するクロードをねめつけ、アインがくいと顎を持ち上げた。
『ふん。愚か者めが。一体いつまでそこで呆けているつもりだ。さっさと次の手を考えぬか』
「……は。申し訳……」
「復活の儀」という言葉を、クロードは何度も頭の中で反芻した。
彼はアインから顔を背け、きつく瞼を閉じる。
ああ、やっと掴んだと思った陽光は、また消え失せるのだ。