第二十章 魔導士との対峙

 
 クロードはその朝、若干のけだるさとともに目を覚ました。
 城へ向かう支度を整えながら息をつく。
 あの後、アイリスによって逃されたバイオレッタを見つけることはとうとうできなかった。
 背に流したままの黒髪を手で梳き下ろし、クロードは苛々と両目をつぶる。
「あの様子なら恐らく『絵画の世界』の外へ逃がしたのでしょうが……。一体どこへ……」
 
 余力を振り絞ったアイリスの目論見によって、最愛の姫バイオレッタは外の世界へ逃れた。
 ……否、正確にはそのはずだ。
 しかし、そうしてクロードの精神世界の外へ逃れたことは確かだが、依然として彼女の行方は掴めないままだった。
 恐らくは精神世界と外界との狭間をさまよっているのだろう。
 だが、万一闇の異形がはびこっている場所に落ちてしまえば、彼女はそれに取り込まれるかもしれない。……すなわち、クロードが生んだ負の感情に。
 あの精神世界の化け物たちというのはすべてクロードの心が生みだした産物だった。
 あれらは千年の間に積もり積もった彼の怨嗟や憤怒、悲しみの感情といったものが実体を得たものなのだ。
 それに呑み込まれてしまえば、単なる生身の人間にすぎないバイオレッタは無事では済まされないだろう。
 
(いや……杞憂か。例の肖像画が私のもとにある限り、あの姫は私のそばを完全に離れることはできない。アイリスの幽体が彼女の元へと還った今、狭間の領域を彷徨した末に戻ってくるのがせいぜいだろう)
 
 クロードとしては不本意なことだが、アイリスさえついていればバイオレッタは無事でいられるのだ。
 アイリスはバイオレッタがクロードに利用されることを望んでいない。バイオレッタが窮地に陥れば、数日前のように身を挺して庇うに決まっている。
 しかもアイリスには強大な魔術の才もある。彼女たちが手を取り合えばどんな苦境からも脱することができるだろう。
 そこを待てばいいだけのことだ。
 
「旦那様……」
 主人の蛮行にほとほと狼狽しきっている様子のクレメンスを視線で制し、食事を終えたクロードは宮廷服に着替えるべく立ち上がる。
 衣装棚の取っ手に手をかけた彼は、何気なく窓の外へ目をやって小さく息をのんだ。次いで、眉間の皺を深くする。
 
 ……つる薔薇を絡ませたアーチの向こう。
 邸の門扉の前に、質素な辻馬車フィアークルが止まっている。
 クロードはすっと瞳を眇めた。
(あれは王家の――)
 紋章や装飾は一切ないものだったが、それはどこからどう見てもスフェーン王家のものだった。
 王家の印など刻まれていなくとも、何度も行幸や式典の供をしてきたクロードには一目瞭然だ。
 あれは王家の者が外へ出るときに用いる一等下級の箱馬車だ。
 何より、御者の身なりを見ればわかる。辻馬車の御者があんなに高価な衣を纏っているわけがない。
 
 そこでクロードは微笑とともにそっと瞳を伏せた。
「……なるほど。ようやくご到着というわけですか。思ったより早かったですね」
  クロードは身を翻すとくすりと笑った。
 ピヴォワンヌがここへやってくるということは、十中八九リシャールにも事件の詳細は知られてしまっているに違いない。
 昨日の段階ではリシャールがこちらの思惑に気づいている様子はなかったから、恐らく二人は秘密裏に結託して事を進めていたのだろう。
 それにしても大した行動力だ、と思う。
 彼女が姉姫を――バイオレッタを助け出すと宣言したのは知っている。何せクロードもその場にいたのだから。
 だが、このたくましさはいっそ驚嘆に値する。
 柔な娘なら、こうして目星をつけて実際に邸まで乗り込んでくるというのはまずできないだろう。これは宮廷屈指の寵臣を敵に回す行為だ。
 仮にこれがバイオレッタならここまで大胆なことはできなかったのではないかとさえ思う。それは彼女がクロードに対して恋愛感情を抱いているからではなく、単に二人の行動力が違うからだ。
 思慮深いバイオレッタとは異なり、ピヴォワンヌはまず行動ありきの少女だ。
 むしろ行動で心情を表現しているような節さえある。バイオレッタと決定的に違うのはそこだろう。
 
 そしてもう一つ。
 クロードは王城のどこにも大した証拠は残していない。
 自分が犯人であることを裏付けるような手がかりは何一つとして与えていないし、『絵画の世界』へバイオレッタを封じ込めた折にも魔力の残滓はきわめて丹念に握りつぶしておいた。
 それでもここまでたどり着けたのだから、ピヴォワンヌという少女は相当運の強い娘なのだろう。
 それにしても……。
「……貴女は本当に威勢のいい方ですね、ピヴォワンヌ様。その度胸と底力、とても気に入ってしまいました」
 なんと強靭な精神なのだろうか。バイオレッタもなかなかに肝の据わった娘だが、ピヴォワンヌのそれは彼女のそれを遥かに上回っている。
 大胆で、怖いもの知らずで、己の立場が危うくなることを欠片も恐れないこのしなやかな精神力――。
 実にいい、と思った。
 
 クロードは着替えを済ませると、手早く階下へ降りる。
 そして邸の内部に自らの術式を張り巡らせて満足げな笑みを浮かべた。
 手のひらから放たれた魔力が、まるで蜘蛛の糸さながらに空間を彩る。
 光が細い線となって室内を駆け巡り、美しい曲線を描きながら金色の文様を浮かび上がらせる。
 そこで私邸内部と玄関ホールは完全に切り離され遮断された。これならピヴォワンヌを迎え入れることはできても、使用人の邪魔はけして入らないだろう。
「ふふ……。これでいい。これで貴女との時間を思う存分愉しめます」
 そこで彼はある妙案を思いついて、掌に魔力を集中させる。
「では、せっかくの再会ですから貴女の絵はこちらに飾っておくとしましょうか」
 クロードはそう言って、正面階段の踊り場にバイオレッタの肖像画を据えた。
 瞬く間に彼女を封じ込めた黄金の額縁が現れ、T字を描く両階段の中央の壁にキン、と音を立てて固定される。  
 口元に手をあてがい、彼は愉快そうに含み笑いをした。
「……舞踏会は楽しくなくてはいけません。私も、貴女も……力尽きるまで踊りましょう? 我らが愛しの姫のために……!」
 
***
 
 ピヴォワンヌよりも一足先にクロードの邸の前に下り立った彩月は、ヒュウ、と口笛を吹いてみせた。
「わお。ここがあのクロードってヤツのお邸かよ。すげェな」
「……」
 ピヴォワンヌは馬車の中からその邸宅をちらりと盗み見た。
 ……百花に彩られたアプローチの奥にたたずむ、暗緑色と象牙色を基調とした背の高い城館。
 北区の一等地にそびえるこの建物こそが、これまで何度かバイオレッタが訪れていたというクロードの邸だった。
 優美な曲線を描くアイアン製の装飾に、庭に咲きこぼれる無数の薔薇。城館の外装とよく調和のとれた美しい庭園。
 男の住む邸宅とは到底思えないほど優婉閑雅なところだった。
 ここにバイオレッタは何回か招待されていたという。
 珍しい異国の茶菓を口にし、広大な庭園を彩る薔薇を満喫し、時には密やかにキスを交わし合って。二人ともきっとそうやって束の間の恋人らしいひとときを愉しんでいたのだろう。
 だが、恐らくその時からクロードはすでに何もかもを計画していたに違いない。バイオレッタをおびき寄せること。そして、彼女を閉じ込めてしまうことも。
 そこでピヴォワンヌは脚衣に包まれた膝頭を握りこぶしで強く叩いた。
「馬鹿。バイオレッタの馬鹿……っ!! だからあんたは馬鹿だっていうのよ!! あんな男に簡単に騙されてっ……!!」
 何度も何度もそうやって脚を叩く。やりきれなさをぶつけるように……、そしてクロードへの怒りの感情を発散させるように。
 彩月は、そんなピヴォワンヌをただじっと見つめている。
 彼は静かに目線を合わせると、ピヴォワンヌの髪を手のひらでくしゃくしゃとかき乱した。
「なーに泣きそうな顔してンだよ」
「えっ……」
 ピヴォワンヌは慌てて目元に手をやった。眦がわずかに濡れていることに慌てふためき、急いで目元を擦る。
 身を乗り出すと、彩月は馬車から降りようともしないピヴォワンヌの顔を覗き込んだ。
「お前なぁ。なんのために俺様が力貸してやると思ってンだよ? お前の姉さんを助けるため、だろ? できなかったことはもう忘れちまえよ。前を向くのが先決だ」
「あっ……! ちょ、ちょっと……!」
 ぽんと頭を撫でたかと思うと、彩月はやおらピヴォワンヌの腕を引いた。
 つられて足が前に出てしまい、ピヴォワンヌはそこでようやく馬車を降りた。
 彩月はコートの裾を勢いよくさばきながらピヴォワンヌに笑いかける。
「さぁてと。助けに行くとしようぜ! お前のお姫さんをよ」
「……!」
 ピヴォワンヌはめそめそしていた自分を強く叱咤した。
 次いで、自らの戦意をしっかりと奮い立たせる。
「……うん。力を貸して、彩月」
 彩月は、何も言わずにピヴォワンヌと視線を合わせた。
 こちらを鼓舞するような力強いまなざしに、闘志がむくむくと湧き上がってくる。
 彼はそこで形のよい唇をくいと持ち上げ、ほのかに笑った。
「おう、任しとけ!」
(彩月。今この場にあんたがいてくれることが、こんなにも心強いなんて……)
 胸がとくとくと鳴り、劉の宮城でともに働いていた頃にはけして感じえなかった何かがせり上がってくる。
 こんなにもこの青年が頼りになる存在だということに、今までピヴォワンヌは気づかずにきた。ただのお調子者だと思っていたし、戦力としてみなしたことは一度もなかった。
 今まで自分は一体彼の何を見ていたのだろう……。
(いいえ。今はバイオレッタを助け出すのが先よ)
 ピヴォワンヌは涙をぬぐうと、彩月とともに歩き出した。
 
 
 邸の中は驚くほど静かだった。使用人の気配もまるでなく、入口の扉は容易に開いて二人を迎え入れた。
 ……濃紫と黒橡色を大胆に使った邸内。迎えに出る使用人は一人もいない。
 人の気配や生活感といったものもまた皆無だ。本当にこんなひっそりとした場所にクロードが住んでいるというのだろうか?
 朽ちる一歩手前で時を止めた深紅の薔薇。磨き抜かれた楕円の姿見。天井から床へ向かってなだれ落ち、たっぷりとした優美なドレープを描くダークグリーンのカーテン。
 柱には年季の入った黒塗りの大時計がかけられ、今も穏やかに時を刻んでいる。
 現実離れした美しさの玄関ホールを見渡し、ピヴォワンヌはどこか慣れないひんやりとした空気に身を縮こまらせる。
 と、彼女はそこであるものに気づいて瞳を見開いた。
「あれは――」
 ……ピヴォワンヌの視線を強烈に捕らえたもの。
 それは、両階段の中央部にかけられた一枚の絵画だった。
 古風な彫刻が施された、黄金の額縁。
 その中に、薄紅の扇を手におっとりと微笑む白銀の髪の美姫がいる。
 今にも笑い声をこぼしそうな紅い唇。こちらを見つめる優しげなすみれ色の瞳。
 静寂に包まれすべてが死んだ邸の中、彼女の姿だけがまるで本当に息づいているかのように生々しい。
 ピヴォワンヌは肖像画を見上げて思わず叫んだ。
「バイオレッタ――!!」
 次の瞬間、上階から悠々と声をかけてくるものがある。
「――ようこそ、ピヴォワンヌ様。私の城へ」
「……! 魔導士、クロード……!!」
 上階の踊り場にたたずんでいたクロードは、小気味よい音をさせて正面階段を降りてきた。普段はきっちりと一つにまとめている黒髪は、今日はまっすぐに背に流されていた。
 彼はダークグレーのブラウスに濃紫のジレという出で立ちだった。光沢のある黒のクラヴァットに強く輝く紫の石があしらわれたタイピンを留めつけ、長い両脚は漆黒のトラウザースで包んでいる。
 バイオレッタの肖像画を背に、クロードはわざとらしく片眉をはねあげてみせた。
「……手始めに、どこに落ち度があったのか教えてくださいませんか。これでも随分苦労したのですよ……、この方をこちらに招待して差し上げるのに」
「やっぱりあんただったのね! 信じられない……、こんな、こんな――」
 怒りで二の句が継げなくなるピヴォワンヌを鼻で笑い、クロードはしなやかに二人の前に下り立つ。
「いかがですか? とても美しいでしょう、私の姫は。この邸にお招きしてからというもの、いつもこうして私に微笑んでくださるのですよ」
「何が素敵よ!! 本物のバイオレッタはどこなの!? まさか本当に絵画に変えてしまったっていうんじゃないでしょうね!?」
 肩をそびやかして笑い、クロードは大仰なしぐさで両手を広げる。
「そのような無粋なこと、私はいたしませんよ。絵画になどしてしまったら姫のなめらかな肌に触れられなくなる。あの小鳥のようなお声も聴けなくなりますし、姫と口づけを交わすことすら難しくなってしまう……」
 ピヴォワンヌのルビーレッドの双眸をしっかりと捉えた彼は、口角を持ち上げていけしゃあしゃあとのたまった。
「どうぞご安心ください。今は私の用意した場所でくつろいでいただいています。絶対に無粋な真似をなさらないというのなら会わせて差し上げましょう」
「何をほざいているのよ!! あの子はあんたのものなんかじゃないでしょ!? どうしてそんなに偉そうなことが言えるのよ!!」
 二人は無言のまま激しく視線を交差させた。
 互いに一歩も退かないし、譲ることもない。怒りと厭悪の感情を立ち上らせながら、相手を威圧するべく視線を注ぎ合う。
 すると、そこで今まで沈黙を貫いていた彩月がハッ、と笑った。
「――やっぱりあんた、相当な策士だなァ」
 その声に、クロードはちらりと彩月に一瞥をくれた。
「は……、誰かと思えばあなたですか。これはこれは……。無知な第四王女殿下に戯言を吹き込んでそそのかすとは、劉の宮廷魔導士もなかなか大したものですね」
 対する彩月は肩のあたりをトントンと片手で叩き、へらへらと笑った。
「へえー、髪下ろすとそんな風になんのか。やっぱ美人さんだな、クロードちゃんよぉ」
「……!」
「俺様ソッチの趣味はないんだけど、あんたみたいなキレーな男だったらいっぺんくらい経験してみてもいいかもなァ。服の下まですべすべしてそーでマジたまんねェわ」
「……生憎ですが、私は男に欲情する趣味はありませんので」
「つれねーこと言うなって。せっかくお前んちまで来てやったんだから、男同士仲良くしようぜ?」
「一人で遊んでいらっしゃればよろしいでしょう。ピヴォワンヌ様に用はありますが、あなたに用はありませんよ。喬彩月」
「へえ……、そりゃ残念……!」
 言い終わるや否や、彩月が右手を素早くひらめかせた。
 ビュッ、と音を立てて繰り出された護符が、クロードの周囲でぴたりと制止する。
「な――」
 とっさのことに身じろぐクロードの足元がぐらりと揺れる。
 床を破って飛び出してきたのは無数の蔓――否、茨だった。
 ビュッ、と音を立てて、微細な棘を有したそれがクロードの全身に巻き付く。
 彩月はすかさず詠唱を始めた。
「――我は留まる者、戒める者。汝が肉体を束縛し、その自由と意思を奪う者なり」
 クロードの体躯を茨が締め上げるのと彩月が文言を唱え終わるのはほぼ同時だった。
 全身を茨に締め付けられたクロードは、棘の刺さる痛みと肉を絞られる感触とに悲鳴を上げた。
「ぐあああああっ……!!」
 彼はもがきながらもなんとか一矢報いようとする。
 とはいえ、こうして拘束された状態では手も足も出ない。
 術の詠唱をしようにも唇すらうまく動かせないようで、彼は悔しげに彩月をねめつけている。
「土の魔術のお味はどうだァ? クロードちゃんよぉ」
「劉の魔導士ごときが、このような……、ぐうっ……!!」
「おおっと、無理に動かねえ方がいいぜェ。今あんたの周りは俺様の魔力がビンビンに働いてる状態だからなァ。下手に動くとあんた、すぐに使い物にならなくなっちまうぜ?」
「小癪、な……っ!」
「はは、苦しそーなクロードちゃんも色っぽいねえ。どうせならもうちょっと遊んでみるかァ?」
 彩月は瞳を細めて護符を構える。
 クロードは息も絶え絶えに吐き捨てた。
「は、お断り、します……!」
「まーそう言いなさんなって。案外病みつきになるかもしれねェしよ」
 彩月はそこで護符を広げて構えなおした。
「……さーて、こっからは俺様が相手だぜ。せいぜい覚悟しな、クロード・シャヴァンヌ!!」
 刹那、彼が繰り出そうとした護符が勢いよく燃えた。
「っ……!? なんだ……ッ!?」
 突然のことに目を剥く彩月に向けて、上階から冷ややかな女の声が降り注ぐ。
『わが依代に手を出すでない』
「お前は……!」
 ……そこには黒髪の美しい女がいた。
 黒曜石のごとき長い髪、そして熟成されたシェリー酒を思わせる二粒の琥珀の双眸。
 驚くほど形よくくびれた腰と、豊かに膨らみきった胸と臀部。
 彼女は王宮の女たちなど比べ物にならないほど凄艶な美貌の持ち主だった。
 女は主階段の手すりにゆったりと手を預けると、ピヴォワンヌたちに向かってぞっとするほど艶めかしい微笑を湛えてみせる。
 それを訝しんだ彩月が声高に誰何した。
「は……、誰だよあんた。クロードちゃんのお友達かァ?」
『お前ごときに名乗る名は持ち合わせておらぬ。そこを退け、魔導士。逆らうなら次はお前の心の臓を燃やしてやろう』
 黒髪の女は長い爪の載った指先をついと彩月に向ける。
「……っ!」
 足元に降り注いでくる猛火を、二人は慌てて避ける。
 からからとけたたましく哄笑する女をねめつけ、彩月は吐き捨てた。
「ぐっ……! これは、火の……ッ! チッ、異教徒か……!」
『“異教徒”? このわたくしがか。は……、愚か者めが。地べたを這いつくばるしか能のない人の子ごときが、わたくし相手に不遜な口を利くでないわ』
「……っ!!」
 すんでのところで女の火炎をかわし、彩月はそれでもなお好戦的な笑みを浮かべた。
「色っぽいくせにひでぇおっかねー女だな……、ぐっ……!」
 二の腕にまともに火の粉を受けた彩月は低い声で呻く。
 ピヴォワンヌは慌てて彼に駆け寄った。
「彩月!!」
 黒髪の女は傲然と顎を上げ、クロードに命じた。
『何を遊んでいる。さっさと殺せ』
「御意」
 ようやく茨から解き放たれたクロードは、右手を高々と空に掲げ、ぱちんと指を鳴らした。
 その音を合図に、クロードの背後から音もなく黒い影が伸び広がる。
 そして邸宅の空気が瞬く間に一変した。
 空気がぐにゃりと歪み、二人を取り巻く薄闇が一段と濃く深くなる。
 ざわざわと何かが這うような音がしたかと思うと、ピヴォワンヌたちの周りには無数の漆黒の怪物が姿を現していた。
 ……立派な巨躯を持った夢馬ナイトメアに、おどろおどろしい表情のガーゴイル。鋭く高い角を戴く一角獣。蛇の下半身を持ったラミア。
 二人の周囲に、世にも恐ろしげな魔性たちが次々と現れる。
 瞠目するピヴォワンヌに、クロードはさも愉快そうに告げた。
「さて……、ここから先は私の生み出した闇の領域にご招待させていただきましょう。たかだか貴女たちごときに打ち破れるはずもありませんが……せいぜい愉しませてくださいね?」
 ピヴォワンヌはそこで自らの足元がぐらつくのを感じた。
「……!」
 眠気を誘うような、どこかとろりとした空気。
 その威力は凄まじく、気を抜けば思考さえ根こそぎ持っていかれそうなほどだ。
(く……、早く片をつけないと、ここでこのまま倒れ込んでしまいそう……!)
 ……闇は「眠り」や「安寧」、「沈黙」といったものを人にもたらすもの。
「目覚め」や「進化」、「躍動」といったものを司る光の力とは対をなす存在だ。
 ピヴォワンヌはここに来て初めてクロードの魔力の真髄を見せつけられたような気がして唇を噛む。
「なんて力なの……、これがあいつの魔力……!?」
「いいや、こりゃどう考えても闇の力じゃねえ……、明らかに闇の術式だけじゃねぇ何かが混じってやがる……!!」
 彩月の言葉に、ピヴォワンヌははっとする。
「じゃあやっぱり、こいつは火の術者だったってこと!?」
「いや……、力の源はコイツじゃねえ。俺様のカンが当たりなら、この力を使ってんのは――」
 彩月がそう言って上階を振り仰ぐ。
 だが、その視線の行く先を完全に追いかける前にクロードが耳障りな声で哄笑した。
「おやおや、随分余裕がおありなのですね。この私を除け者にして、お二人で仲良くおしゃべりですか。ふふ、これはこれは……」
 皮肉げな笑みを浮かべていたかと思うと、彼はそこでくるりと二人に背を向ける。
「さあ、姫。貴女の騎士ナイトが到着しましたよ。あの方の勇姿とその散り際を、こちらで心ゆくまでご覧になっていてください。そしてこの私の健闘ぶりも。ふふ……」
 これみよがしに肖像画に向かって一礼するクロードを前に、ピヴォワンヌは声を張り上げた。
「あんたの好きになんか絶対にさせないわ!! 絶対にバイオレッタを連れて帰るんだから!!」
「その心意気は評価しますが、貴女ごときに何ができます? 痛い目に遭う前にお帰りになった方がよろしいのではありませんか?」
「この……ッ、ぬけぬけと……!! 許さない……、あんただけは絶対にこのままにしておくわけにはいかない……!!」
 声高に宣戦布告するピヴォワンヌの隣で、彩月もまた声を張り上げる。
「面白くなってきやがったじゃねェか。俺様も本気でいくから覚悟しな、クロード・シャヴァンヌ!!」
 
 
 
 

 

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