「ふああ……」
ロゼールは羽根布団にくるまったまま大きな欠伸をした。
繊細なレース使いの寝間着を巻き込みながら、ごろりと寝返りを打つ。
昨夜遅くまでグラシアンと勝負をしていたせいか、どうにもまだ寝足りないような感じがする。
「もう……。覚えたてだからかもしれないけど、全然勝てなくてつまらないわ……」
父王が聞いたら苦笑するに違いない。何せ寝室にこもって熱中するのが閨事ではなくカードゲームだというのだから。
「せめてグラシアンがもう少し手加減してくれればいいんだけど……。でも、それじゃなんとなく癪だし……」
ゲームの進め方からしても、グラシアンが遊び慣れているのは明白だ。初夜の晩からすでに何度も勝負を挑んでいるが、未だ一度も勝てたためしがない。
一体どうすれば勝てるだろうかと、ロゼールはベッドの中でかしりと人差し指を噛んだ。
「ふああ……。それにしても、なんて気の長い殿方なの……。その気になれば初夜の床でわたくしを手籠めにすることだってできたでしょうに……」
魔界の王なのだからさぞやふしだらな生活を送っているのだろうと思っていたが、どうやら意外と忍耐強い男のようだ。
ゲームを終えた彼は、眠っているロゼールを起こすでもなく、夜明けとともにきっちり身支度を整えて主寝室を出ていく。日中は「魔王執務室」と呼ばれる仕事部屋に籠っており、仕事が一段落するまではけして外に出てこない。
秘書官によれば、執務室の中にはグラシアンが仕事を進めるために必要なものがすべて揃っているとのことだったが、それにしてもどうやらかなりの仕事人間のようだ。ばりばり執務をこなすその姿に憧れている者も多いようで、ロゼールの周りでも頻繁に彼の辣腕ぶりを誉めそやす声が聞こえてくる。
そればかりではない。人間界からこの魔界へやってくる際、彼は幻夢回廊に現れた魔のものたちから率先してロゼールのことを守ってくれた。部下とのやり取りや日頃の振る舞いを見るにつけ、そこまで悪辣な人物ではなさそうだ。
「なんにせよ、閨事を急かされないのはありがたいわね……。初めては辛いものだと聞いているし、できることならグラシアンのことを本当に好きになったタイミングで抱かれたいもの……」
言葉にしてしまってから、自分がいつの間にか彼に抱かれてしまってもいいと思い始めていることに気づく。
ロゼールは照れをごまかすようにぽすぽすと枕を叩いた。
「~~! もう! グラシアンのヘンタイッ! わたくしの身体がそんな風に淫らに変わってしまうことなんて絶対にないんだからっ。男の人のものを自分から欲しがるなんて、そんなはしたない真似できるわけな――」
そこで彼女ははたと顔を上げた。
「……あれ? そういえば、魔王の身体って作りは人間のものと全くおんなじなのかしら?」
神話や聖典に登場する魔のものたちはみな獰猛で乱暴だ。そして、どの絵画でもほとんど化物と呼んでいいようなおどろおどろしい体つきをしている。
普段はうまく人間に擬態しているだけで、ひとたび変化を解けばそこにあるのは紛れもない異形の姿だ。
もしグラシアンの本当の姿が、彼らと同じ、とんでもなく凶悪でいびつな化物の姿をしていたら――?
「……わ、わたくし、そんな人の相手をしなければいけない、の……? わたくしの身体、壊れてしまったりしないかしら……?」
わざわざ魔族と呼び習わすくらいだ、身体の仕組みが人間のそれと全く同じであるという保証はない。
最悪の場合、単なる人の娘に過ぎないロゼールの身体では彼の欲望を受け止めきれないという可能性だってあるのだ。
「や……やだやだ、わたくしの馬鹿っ……! 何をいやらしい妄想をしているの、こんなんじゃダメなのにっ……!」
思わず両頬に手をあてがってぶんぶんかぶりを振る。
――その時、鈴を転がすような可愛らしい声音がロゼールの耳朶を打った。
「うふふ。おはようございます、王妃様。よくおやすみになれました?」
声のした方を振り仰ぐ。
するとそこには、ストロベリーブロンドが印象的な一人の美少女が立っていた。
頭部には丸みを帯びた二つの角が生えており、内側に向かってくるりと弧を描いている。
比較的真っ直ぐなグラシアンの角とは違って、どことなく可愛らしい感じのする角だ。
「だれ……?」
「王妃様にはお初にお目にかかります。わたくし、魔王城に出仕しております、低級悪魔のイヴと申します」
少女は濃紺のスカートの裾をつまみ、深々と腰を折った。
「低級悪魔」という言葉に、ロゼールは目をぱちくりさせる。
だが、なるほどここは魔王城なのだから、悪魔の側仕えがいても何らおかしくはない。
「は……はじめまして」
「ええ。はじめまして、王妃様」
イヴは楚々と笑い、唇に指先をあてがって小さく笑った。
「ふふ。話には聞いていましたけれど、本当にお綺麗な方。夜闇を織り上げたような漆黒の髪、冴え冴えと凍てつく氷の瞳。お肌はまるで、薔薇の花弁をひとひら落とした作りたてのクリームのよう。まさに魔界の花嫁にふさわしいお姿ですわね」
こそばゆいような賛辞の数々に、ロゼールはうっとたじろいだ。
王女として称賛を受けることには慣れているものの、イヴの眼差しがあまりにも熱っぽくて圧倒されてしまったのだ。
「うふふ……昨夜はさぞやたっぷりと魔王様に愛されたのでしょうね。お顔の色つやがとてもよくていらっしゃいますわよ」
「え? えっと……その……どういう意味?」
「どういう意味って……ふふ、そんなの決まっているじゃありませんか。お肌をこんなにつやつやにして、本当にいけない方ね。魔王様と一晩中一体どのようにして愉しまれたのかしら……?」
至近距離で甘くささめかれ、その妖しい声音と言い回しに鼓動がとくりと跳ねる。
まさか「昨夜もゲーム三昧でした」などとは名状できず、ロゼールはうつむく。
「ああ……、うらやましいわ。あの方の寵を受けられるのはこの魔界でもほんの一握り。おまけにあの方と褥をともにした御婦人方はみな口をそろえて『素晴らしい夜だった』とおっしゃいます」
「まあ、そうなの……」
やっぱり遊び人なのだろうかと、ロゼールの中で不安が頭をもたげる。
するとイヴはなだめるようにロゼールの頬を撫でた。
「あ……、ご安心なさって。魔王様が浮名を流していたのは即位する前のことですわ。今は貴女様の地位を脅かす者は誰一人おりません。あの方と心ゆくまで情事をお楽しみくださってかまわないのですよ」
「え、ええ……」
(情事を愉しむ、かぁ……。そもそも全然そういう雰囲気にならないんだけどね……)
「さて……では、お召し替えをいたしましょうか」
「えっ? 今日は貴女が着せてくれるの?」
「ええ、そうですが?」
昨日までは専属侍女の仕事だったはずなのに、とロゼールが首を傾げると、イヴは艶やかに微笑んで自らも寝台の縁に腰を下ろした。
「あ、ちょ、ちょっと……!? 着替えをするんじゃなかったの!?」
「王妃様があんまりお可愛らしいから、つい」
「い、いくらなんでも近すぎるわ。こんなに近づかなくたっていいじゃない」
「少しくらいいいじゃありませんか。だってわたくしたち女の子同士でしょう?」
スキンシップが過剰すぎるから離れてほしいと言ったつもりだったのに、イヴは離れるどころかますます強く身を寄せてくる。
そしてあろうことかロゼールの二つのふくらみを後ろからゆったりとすくい上げ、感触を確かめるようにふにっ、と揉んだ。
「やっ!? ちょ、ちょっと……!」
そのまま少女の細い指先で柔らかな乳房をふにふにと揉みしだかれ、ロゼールは身を捩った。
「や、やめてっ、こんなことするなんて、聞いてないっ!」
「うふふ……、人間の肌ってとーっても綺麗ですわね……。柔らかくて甘い匂いがして……このままかぶりついてむしゃむしゃ食べちゃいたいくらい」
ロゼールはあまりの強引さに泣きたくなった。
何せ夜着の下には何もつけていないのだ。こんな風に弄ばれたら身体の反応がすべてばれてしまう。
イヴの指が胸の頂に触れないよう祈りながら、ロゼールはきつく唇を噛みしめる。
「ふふ……、緊張してらっしゃるの? 可愛い……」
「いやぁ……、やだ、やだってば……、ちょっと……!」
耳朶を齧られ、ロゼールは涙目になる。
同性に身体をまさぐられるなど初めての経験で、どうしていいかわからなくなる。イヴの手つきはそれほどまでに倒錯的なものだった。
イヴはそのままロゼールの柳腰を抱きかかえ、もう片方の手をするりと夜着の下に忍ばせた。その指が、夜着に隠されたロゼールの素肌をごそごそと探り始める。
(えっ……)
細い指先で中のドロワーズにつと触れられたとき、ロゼールは彼女を突き飛ばして悲鳴を上げていた。
「きゃああああああーーっ!!」
そのまま私室を飛び出し、一直線にグラシアンのいる魔王執務室へと全力疾走する。
扉を開けて中に入ると、そこではグラシアンが秘書官とともに執務をこなしているところだった。
「……む? ロゼール?」
「あれー、王妃様だー。まだ寝てていい時間帯なのに、どうかされたんですかぁ?」
能天気な秘書官の声を無視し、ロゼールはグラシアンに走り寄る。
「グラシアン!! グラシアンッ……助けて、女の子の姿をした変質者が出たのっ!!」
「……はあ?」
インク壺から引き上げた鵞ペンを壺の縁で幾度かしごき、グラシアンは素っ頓狂な声を上げる。
「ほ、本当なの!! 侍女のお仕着せを着ていて、ストロベリーブロンドをこう、頬の辺りでくるくる巻いていて……」
「そんな抽象的なことを言われても対処のしようがないな。名前くらいわからんのか」
……名前。彼女の名前は――
「確か……イヴ、って名乗ってた気がする」
「……イヴだと?」
「え、ええ……」
その単語を聞いて、グラシアンは盛大なため息をついた。
鵞ペンを置くと、指で眉間を押さえるようなしぐさをする。
「はあ……、早々に奴に目をつけられたか。これは厄介だな」
グラシアンは立ち上がり、再びため息を吐きながら凝り固まった肩の筋肉を揉みほぐす。
そしてロゼールをさしまねくと、未だぶるぶる震えている彼女を執務室中央に置かれたティーテーブルへといざなった。
流れるような所作でティーセットを取り出し、手ずから香草茶を淹れながらグラシアンは滔々と言う。
「あいつは低級悪魔の中でも特に珍しいといわれる両性具有型なんだ。しかも、月に二度の発情期には見境なく同僚を襲って再起不能にしてしまうほどの絶倫でな……」
「は、はい!?」
……あんなに可愛くて華奢な女の子が、絶倫?
(待って待って……、両性具有型、ってことは、当然下半身には男性のそれがついて――)
「う、嘘……。だって、すごく可愛い子だったわよ? あんな可憐な美少女にそんな野蛮な真似ができるわけが――」
「イヴの中には『アダム』というもう一つの人格が眠っているのだ。そう……、つまり、創世記に初めてつがいとなった男女の名だな。このアダムというのが意外と曲者でな。男としての理性的な性のほかに、誘惑者としての性――すなわち女の性も兼ね備えているから、閨事には非常に積極的なのだ」
目をぱちくりさせるロゼールに、彼はさらに噛み砕いて説明してくれた。
「つまりあいつは、雄としての生殖本能、そして雌としての色香の両方を有しているということだ。お前もやつの前では全く抗えなかっただろう?」
「……確かに」
「あれが究極の雌の誘惑だ。蠱惑的な肢体と積極性、そしていつでも色事を愉しめる身体とくれば……」
「ちょ、ちょっと! まだ昼間だっていうのにあんまりふしだらなことを言わないでっ……!」
「おや、これは失礼。王城育ちの箱入り娘には刺激が強すぎたか」
「あ、当たり前でしょ!? っていうか、そんなすごい生き物は人間界にはいないからっ!!」
熱い香草茶を啜り、グラシアンは長い脚をゆったりと組み替える。
「いやしかし、あのなりで男の役が果たせるというのだから大したものだ。しかもアダムの場合、一見すると相当な美少女だから、ひとたび発情した際には男も女もそれは無残に食い散らかされてしまってな……」
「ひえっ……!」
「私としても奴の淫行にはほとほと手を焼いているところだ……」
あんなに美少女なのに、身体は両性――。
「し、信じられない……。そんな子がわたくしの寝室に入ってきただなんて……」
「まあ、『味見』をされないよう、せいぜい気を付けるんだな」
ロゼールは、そこでふとある疑問を抱いた。
……男も女も容赦なく魅了してしまう両性具有型の悪魔。月に二回の発情期。
となれば、やはりこのグラシアンも「食い散らかされた」経験があるのではないか?と。
「あ、あの……」
「なんだ」
「その、グラシアンも彼女と夜を過ごしたことがあるの?」
「ぶっ……!?」
グラシアンは飲みかけの香草茶を盛大に噴いた。
「ばっ、馬鹿者!! 誇り高き魔王であるこの私が、よもやあのようなゲテモノを抱くわけがなかろう!! 冗談も休み休み言えっ!!」
「……あ、ごめんなさい、もしかしてされる側だった?」
「ええい、うるさいうるさい!! 私の花嫁の分際で、夫をからかって遊ぶんじゃない!!」
「ただの冗談だから」となだめたりすかしたりしたものの、グラシアンは不機嫌そうな顔つきのまま全く取り合わない。
しかも、顔を歪めて「ちっ」と舌打ちまでする始末だ。
ただのジョークなのに……としょげていると、ふいに視界に影が差した。
「……おい」
「は、はい?」
「どこに触れられた。消毒してやるからこっちへ来い」
……「消毒」?
ロゼールの頭が疑問符でいっぱいになる。
すると、グラシアンはいささか乱暴な手つきでカップをソーサーに置いた。
「あいつの痕跡を清めてやると言っているんだ、おとなしく私の言うことを聞け」
「そ、そんな。ただ戯れ程度に触られただけだし、別にそんなことをしてもらうほどのことじゃ――」
「いいから来いと言っている」
ロゼールの腕を引くと、執務室の隣に設えられた休憩室へと彼女を引き入れる。
そして天蓋付きベッドの中央へその肢体をどさりと放り投げた。
「きゃっ……!」
「……全く。迂闊にもほどがあるぞ。よりにもよってアダムごときに触れさせるとはな」
「だ、だって! 突然すぎて抵抗する時間もなくて!」
「私の花嫁の身体を許可なく触れまわすとは……さすがは低級悪魔だ。頭の中が爛れているな。次からしっかり灸をすえておかねばならん」
四肢を縫い留めながら乗り上がってくるグラシアンに、ロゼールは目をぱちくりさせた。
消毒をするというなら応接間でもできるだろうに、何故ベッドなどに転がすのだろう。というか、何故彼は自分の身体の上にのしかかっているのだろうか。
「あの……薬は?」
「……は? 薬?」
「だ、だから! 消毒するんでしょ? 消毒薬は使わないの?」
「……」
二人の間に奇妙な沈黙が下りる。
ロゼールのきょとんとした顔をしばらくの間凝視していたかと思うと、グラシアンはふいに高らかな笑い声をあげた。
「はっ……、はははははは……! 全く……消毒薬だと? まさかお前、この言葉の意味がわからんのか?」
「し、知らないわよ、そんなことっ!」
すると、彼は得たりとばかりに妖しく微笑んだ。
「……この場合の消毒というのはな、私の口づけで上書きするという意味だ」
「ひっ……!?」
明らかに淫靡な空気を孕んだ言葉に、ロゼールは慌てて寝台をずり上がる。
「や、やだっ……!」
が、瞬く間にヘッドボードの際まで追い込まれ、改めて彼との体格差に愕然とする。
どっしりとして恰幅のいいグラシアンに比べれば、ロゼールの身体はまるで子供のように小さく軽い。逃げようともがいたところをたやすく押さえ込まれ、敷布の上にころりと転がされて、ロゼールは軽いパニック状態に陥った。
「や、やめて……! こんなの卑怯よっ……! 何も知らないと思って馬鹿にしてっ……!」
「一つ賢くなってよかったではないか。これからもっとたくさんのことを教えてやるぞ」
「ふ、ふざけないで、誰がそんな――」
しかし、彼は長い指を閃かせてロゼールの抵抗をいなした。
「んぅうっ……!」
「おやおや、夜着の上から軽く触れただけなのに、随分と愛らしい声を出すな。私の指がそんなに気に入ったか?」
「だ、だってあなたの手、爪が長くて鋭いじゃない……! そんなもので撫でられたら嫌でも声が出るわよ……っ!」
グラシアンは面白そうに片眉をはねあげる。
「なるほど。愛撫には不向きだから爪は引っ込めてくれというわけだな」
「そういう意味じゃないってばぁ!」
何がおかしいのか、グラシアンは軽快な笑い声を上げ続ける。
笑いを収めた彼は、ロゼールのおとがいに手をかけてついと上向かせた。
「ほら、どこに触れられたのか言ってみろ」
「う……」
観念したロゼールは消え入りそうな声音でぽつりと言った。
「む、胸……。それと……ド、ドロワーズのところを、指で……」
「おっと、これは残念だな。そこを『消毒』することができれば、今ここでお前をものにすることもできたというのに」
「……!」
……まずい。
自分は夜着のままだし、ここはベッドの上だ。どう考えてもおあつらえ向きすぎる。非常によろしくない事態だ。
おまけに目の前の相手はすでに「悪戯」を仕掛ける気満々ときている。ロゼールは戦慄した。
「お、お願い……、それだけは許してっ……! そういうのはまだ怖いのっ……!」
「お前は阿呆か。閨で『許して』は悪手だろう。それが男の劣情を煽るだけだとなぜわからん」
「そ、それは……!」
頭上のグラシアンが「相手が私でよかったな……」などとつぶやいているような気がしたものの、羞恥に茹だった頭ではろくにものを考えられず、ただベッドの上で小さくなっていることしかできない。
ぎしりと寝台が軋む音がして、ロゼールは反射的にぎゅっと身をすくめ、きつくまぶたを閉ざした。
(そりゃあ夜着一枚で駆け込んできたわたくしも悪かったけど、でもまだ早すぎるってば――!)
今のこの事態をどう切り抜けるべきか逡巡していると、ふいにばさりと乾いた音がした。
「……?」
こわごわ目を開けたロゼールの視界に飛び込んできたのは、紳士もののコートだった。たっぷりと長さのあるそれは、ロゼールの肢体を覆うように投げかけられている。
恐る恐るコートを手で手繰り寄せ、ロゼールはぱちぱちと瞬きをした。
(……な、なんで紳士もののコートがこんなところに?)
状況が呑み込めずきょとんとしていると、グラシアンは事もなげに言った。
「私の服だ。ブドワールへはそれを来て帰れ。今のお前の格好は臣下たちには目の毒だからな」
「……!」
淡々と諭され、ロゼールは大急ぎでグラシアンのコートを羽織った。
彼の言葉通り、今の自分は薄手の夜着一枚というものすごい格好だ。これで城内を闊歩された日にはさすがの臣下たちも迷惑千万だろう。
「あ、ありがとう……。ごめんなさい……」
グラシアンのコートは小柄なロゼールには袖が余るほど大きかった。
何気なく袖口に鼻を寄せると、樹皮と香辛料が混じったような複雑な香りが鼻腔を掠める。いかにも男性的なその香りに、なぜだか鼓動がうるさく騒ぎ出す。
「あ、あんなこと言うから、てっきりここでわたくしを手篭めにするつもりなのかと……」
「ふん、お前が私をからかったから軽い仕置きをしたまでだ。第一、執務中に女を抱くのは私の主義に反するのでな」
きっぱりと言い切り、グラシアンはロゼールを気遣うように視線を逸らす。
その横顔を見つめていたロゼールは、じんわりとした熱が胸の裡に点るのを感じた。
(あれ……、あれ……?)
胸にわだかまったのは、父王に対する敬愛ともエルベールに抱く親近感とも違う「何か」だ。
まだ小さな火種は、けれども確かな熱量を持ってロゼールの胸を焼き焦がす。
(あんなにいやだったのに、怖かったのに……なのに、どうして? 離れていかれて寂しいと感じるなんて――)
こんなの絶対におかしい、変だ。
ロゼールは騒がしく脈打つ心臓をなだめるのに必死になる。
コートからかすかに漂うグラシアンの香水の匂いが、胸の高鳴りに拍車をかけた。
「お前付きの侍女はすぐに別の者に変えさせる。それと、アダムをけして部屋に入れさせないよう言いつけておこう。もし他に何か不都合があれば言うがいい。……ロゼール?」
ぼうっとしていたロゼールは、グラシアンの呼びかけに慌てて顔を上げた。
「は、はいっ!」
「なんだ、どうした。呆けたような顔をして……。ほら、立てるか。部屋まで送っていく」
「う、うん……」
グラシアンに手を引かれ、ロゼールはのろのろと寝台を降りる。
気丈に振る舞いながらも、身体はすでに膝からくずおれそうになっていた。
手を繋ぐなど、たかが皮膚同士の接触でしかない。なのに、彼の体温はロゼールの中で確かな意味を持ち始めている。
(な、なに……? わたくし、どうしちゃったの……?)
ただからかわれただけ、それはわかっている。けれど、かき乱された胸の裡が切なく疼いてたまらない。
芽吹き始めたばかりの淡い想いを胸に、ロゼールは熱を帯びた瞳で伴侶の背を見つめた。