第二十五章 公主の秘め事

 
「……あの子もいい加減あいつクロードのことなんか忘れられればいいんでしょうけどね」
 廊下に立ち尽くしていたピヴォワンヌはぼそりと言い、二人の後ろ姿がすっかり見えなくなったところでその場を離れた。
 単身薔薇後宮に引き返すべく歩を進める。
 すると――
「香緋っ!」
「ひゃっ!?」
 いきなり両肩に回された腕に、ピヴォワンヌは声を上げた。
 振り返ると、そこには豪奢な劉装束を纏った玉蘭が立っていた。
 ……金糸で目も眩むほどの刺繍を施した、群青色の齊胸襦裙さいきょうじゅくん。胸には大粒の赤瑪瑙の首飾りをかけ、腰には漆黒の腰帯を締めている。
 裙の上できらめくのは翡翠の玉佩ぎょくはいだ。これは次期女王の証として彼女が常時身につけているもので、例の事件の後、城に戻ってきたピヴォワンヌによってきちんと彼女の手の中へ返還された。
 玉蘭はピヴォワンヌの首筋に両腕を絡ませると、拗ねたように訊いた。
「何よ、またあの子のお世話をしてたの?」
「別にそんなんじゃないわよ」
「そうよね。貴女はそんな子じゃないものね。香緋がわらわの期待を裏切ったことは一度もないもの」
 その言葉に、ピヴォワンヌはなぜだかぎくりとする。
 ……期待? 一体自分に何を期待しているというのだろう。
 だが、玉蘭はピヴォワンヌの動揺に気づく風でもなくきわめて明るく提案した。
「ねえ、今日はわらわとご飯を食べない?」
「……えっ?」
 いきなり話題を振られてびっくりしていると、彼女はぴんと人差し指を立てた。
「ふふ、実はスフェーン宮廷にいる劉出身の料理人と仲良くなってね。ここのところ毎日彼女にご飯を作ってもらっているのだけど、とってもおいしいの。どれも劉の味付けに忠実なんだもの、文句のつけようもないわ。貴女にもぜひ食べさせたいなって思って」
 なるほど、そういうことか、と思った。
(確かにもうちょっとでお昼の時間だものね……)
 特に断る理由もないので、素直にご相伴にあずかることにする。
「ええ、いいわよ」
「やった……! 決まりね、香緋!」
 言うが早いか、玉蘭はピヴォワンヌの腕を引っ張った。
 そのまま軽やかに廊下を駆けてゆく。
「あっ、ちょ、ちょっと……!?」
「もう、早くおいでなさいな。なんなら薔薇後宮まで駆けっこで勝負したっていいわよ」
「もうっ……!」
 苦笑いしつつその後ろを追いかけるピヴォワンヌに、玉蘭は裙の裾を翻しながらさも楽しげに笑った。
 
 
 ピヴォワンヌは玉蘭と差し向かいで座った。
 劉風の卓子の上には彼女の侍女たちが運んできたできたての料理が並べられ、まだほかほかと温かな湯気を上げている。
 冬瓜と鶏肉を出汁で煮込んだ熱い粥。つやつやした豚の煮込み料理。
 熱い餡を絡めた具だくさんの焼きそばに、胡麻油が香る卵のスープ。
 桃をかたどった小ぶりの饅頭、蜂蜜をたっぷりとかけた焼餅。
 翡翠餃子に餡を詰めたごま団子、蜜漬けにしたナッツと果実。てっぺんに枸杞くこの実を飾った濃厚な揚げ菓子……。
 これは劉出身の女料理人が公主である玉蘭のために腕によりをかけて作ったものだ。
 彼女のように劉から流れ着いてきてスフェーンに落ち着く人間というのは一定数いる。
 こうして自分の料理を公主に食べさせてやることができるのだから、本人としては感無量だろうと思われた。
 ピヴォワンヌは劉での暮らしを懐かしく思い出しながらもくもくと箸を動かした。
「久しぶりに食べたけどやっぱりおいしいわね、劉の料理は」
「でしょ? けど、地方によって全然味付けとかも違うからね、初めて食べる地方料理はちょっとした冒険よね」
 最後に山盛りの果実とそば粉の可麗餅クレープをご馳走になり、熱い茶を飲んで一息入れる。
「もう食べらんない……」
「わらわも……」
 卓子に突っ伏し、二人してくすくすと笑い合う。
 ピヴォワンヌはそこで思わず出会った当初の彼女の様子を思い出した。
(……あの頃はまだつんけんした感じで、全然あたしになんか懐いてくれなかったのにね……)
 鎖国状態になっている劉国に似て、玉蘭は少々世間知らずで箱入りなところがある。
 きつい物言いや好戦的な態度はうわべだけで、実際はかなり世俗に疎いようなところがあるのだ。
 棘のある態度はそれを隠すための武装でしかないのだと、ピヴォワンヌは彼女と知り合ってから三月ほど経ったところでようやく思い知らされた。
(それにしても……)
 
 十四の春、初めて玉蘭に対面した時は驚いた。
 拝謁を済ませるや否や、突然いやみを投げつけてきたからだ。
『まあ。どんな大人っぽい教師が来るのかと思っていれば、ただの子供じゃないの。がっかりだわ』
『……これでも公主様とは同い年なのですが』
『ふうん。でも貴女、随分と細いわねえ。そんな細っこい腕でほんとに剣なんか振るえるのかしら』
 馬鹿にされたと思ってむっとした香緋ピヴォワンヌは、次の瞬間勢いよくやり返していた。
『振るえますよ、剣くらい。公主様はどうですか? 聞けば勉学の類は大変お得意だそうですけど、剣術はいかがですか? お出来になります?』
 そう言ってたたみかけると、玉蘭は二の句が継げずにうっと詰まった。
 そこを香緋は集中攻撃してやったのだ。
『この劉の女王選抜試験においては武芸の要素は必須項目です。いやみを言っている暇がおありなら、まずは手を動かしてください。いくらお口の方が達者でも、二年後にきちんと成果を上げられなければ意味がありませんから』
『~~!!』
 玉蘭はさも悔しそうに口をつぐんだ。
 そして香緋に向けて人差し指を突きつけ、声高に宣言した。
『このっ……、見てなさい! 今に貴女をあっと言わせてあげるんだからっ!』
 
 玉蘭の闘争心をうまく駆り立てることに成功したピヴォワンヌは、それからというもの「剣など触ったことがない」という彼女に一生懸命剣術を叩き込んだ。
 まずは週に三度の稽古。そしてある程度腕が上がったところで実際に模擬刀を使った対面試合をする。
 やや内気な姉の宝蘭はひたすらおろおろと逃げ惑うばかりだったが、玉蘭は違った。
 踏み込み方や気迫、相手へ立ち向かってゆくときの態度といったものが姉よりも遥かに秀でているのだ。
 それは見る者が見ればはっきりそれとわかるもので、時には師匠であるピヴォワンヌすら圧倒してしまうことがあった。
 国を守る存在としてふさわしいだけの度胸が、最初から彼女には備わっていた。 
(……それにしても、本当にあっと言わせられるとは思ってもみなかったわね)
 この二年の間で玉蘭はこちらが思わず舌を巻いてしまうほど腕を上げていた。
 その技量はもはや姉の宝蘭のそれを遥かに上回るほどで、ともすれば指南役である自分をも打ち負かしてしまうのではないかと思うことも度々あった。
 同時に、彼女が時折口にする劉の王族としての決意の言葉がピヴォワンヌの心を震わせた。
『わらわはね。女王になったら母様のようにたくましく立派な女になりたい。外敵や天災、飢饉といったありとあらゆる障害から民たちを守ってやれるような、強くて誇り高い女王に』
 きっと玉蘭ならそうした女王になれるだろう。
 うわべだけを取り繕うような真似をせず、自分の目で確かめ、自分の頭で考えて実行に移すような、そんな女王に。
 玉蘭は芙蓉にそっくりだ。
 姉である宝蘭よりも精神的にしっかりしていて、他人と意見をぶつけ合うのをものともしない肝の太さがある。
 そのため、「こんな公主ならば次代を任せるのに最適なのではないか」という思いはピヴォワンヌの中にもあった。
 
 二人はしばらく卓子に肘をついてぼんやりしていたが、ややあってから玉蘭が唇を開いた。
「……ねえ、香緋。またわらわに稽古をつけてよ」
「え?」
「また、今までみたいに劉の宮城で稽古をつけてほしいって言ったの。だめ?」
 ピヴォワンヌは空笑いをする。
「あんな風に剣術指南役を務めるのはもう無理よ、できないわ。こんなことになっちゃったしね」
「そんなの関係ないわ! 香緋が劉に帰りたいって言いさえすれば、あの王様だって許してくれるはずよ」
 ピヴォワンヌはそこではたと動きを止めた。
 ……劉に帰る?
 一度はスフェーン王女として復権した自分が、今の暮らしをすべて捨ててかの国へと戻る……?
「ねっ……? だから、また宮城で今まで通り楽しい時間を過ごしましょう? わらわと姉様と、三人で」
 玉蘭は歌うような口調で言い、卓子の上に投げ出されたピヴォワンヌの手をぎゅっと握りしめた。
 そのどこか必死な様子にたじろぎながらも、ピヴォワンヌは緩くかぶりを振る。
「……ごめん、玉蘭。あたしはもう復権してしまったの。だから、あんたに稽古をつけてあげることはもうできないのよ」
「……そんな」
「だけど、二国の王女としてならこれまで通り仲良くできると思う。それで許して」
 良心が咎めて苦しくなってくるが、今はこう答えるよりほかなかった。
 ピヴォワンヌはすでに王女として復権してしまったし、女王選抜試験そのものは中断されてしまったとはいえ領主としてフレール領の統治も一任されている身だ。
 それを今更放棄することはできない。まして、すべてを投げ捨てて一人だけ故郷に帰るなんてことはどうしたって不可能だ。
 もしかしたらもう二度と劉の宮城へ足を運ぶことはないかもしれない。
 この先の見通しなど全く立たないが、今のままでは恐らくもう二度とあの場所を訪れることはないだろう。
 少なくとも「秦香緋しんこうひ」として訪れることはもう絶対にないはずだ。
 ピヴォワンヌは嘆息し、冷めきった茶をひとくち含む。
 こくりと嚥下して茶碗を卓子に置いてしまうと、そののちにはなんとも気まずい静寂が下りた。
「……」
 玉蘭はしばらくばつが悪そうにうつむいていたが、やがてぱっと顔を上げた。
「……ねえ、香緋。わらわのこと、どう思っている?」
 その質問の意図するところがわからず、思わず首を傾げる。
「どうって……」
「ねえ、答えてよ……!」
 赤紫の髪を揺らしてこちらを見つめる玉蘭の瞳はうっすら涙に濡れていた。
「……わらわは、香緋のためならなんだってするわ。だから彩月を連れて行ってもいいって言ったのよ。貴女が酷い目に遭わずに済むなら、それが一番いいと思ったの」
「うん。そのことについてはありがたかったと思ってるわ」
「玉佩を預けたのだって、香緋にならそうしてもいいと思ったからよ。貴女になら渡してもいいと思ったから渡したの。貴女さえ無事に帰ってきてくれるなら、あれくらい別になくされたってよかったわ。玉佩が貴女の命を救ったと思えばいいんだもの。万一それで王位に就けなくなったとしても、わらわに悔いなんてないの。だって、わらわは王位よりも親友の方が大事だもの」
 流れるようにするすると言葉を紡ぎきってしまうと、そこでふいに玉蘭は瞳を伏せた。
「わらわは……、香緋が喜んでくれるならそれでいいの。もともと好きで公主なんかに生まれたわけじゃないんだもの」
「そんな言い方をするものじゃないわ、玉蘭。あんたは立派な劉の継嗣なのよ。そんな風に自分を卑下したら芙蓉様が悲しまれるわ。これまであんたを世継ぎの姫として手塩にかけて育ててきたんだから」
 
 ……その時、玉蘭ががたんと席を立った。
 瞳に凄絶なまでの輝きを宿らせ、美しいおもてをくしゃくしゃにして叫ぶ。
「そんなの、別にわらわが望んだことじゃないっ……!!」
 玉蘭は卓子に視線を落とすと、眉根を寄せ、一言一言をじっくりと噛みしめるようにして言った。
「本当は香緋と同じ身分がよかった……。香緋と一緒に城下を歩けたらどんなに楽しいだろうって、いつも思ってた。普通の女の子みたいになりたかった……、貴女と同じ、十六歳の普通の平民の女の子みたいに」
 桜桃のような唇をぐっと噛みしめると、玉蘭は続けた。
「香緋が宮城に来てくれる日が待ち遠しかった。ほんとに指折り数えて待ってたくらい。そしてその時だけは、わらわも“ただの玉蘭”でいられたの。“公主様”なんて仰々しい呼ばれ方もされなくて、ただの平民の女の子みたいに扱ってもらえて……すごく嬉しかった。ずっと“劉の公主”っていう役柄だけを演じてきたけど、貴女といる時だけは普通の女の子に戻れる気がして」
「……」
 ピヴォワンヌは黙って玉蘭の言葉に耳を傾けていた。
「ただの平民の女の子みたいに」。
 それは玉蘭の隠し持つ少女としての願望なのだろう。
 劉という大国の公主に生まれてしまった以上、婚姻も生き方も自由には決められない。
 だからこそ平民の少女たちのような生き方に憧れてしまう。大らかで自由な空気を纏った同い年の少女に強く惹かれてしまう。
 それは至極当然のことだ。
 公主たちは生まれながらにして血を分けた姉妹と戦うことを運命づけられ、「女王候補」として厳しく養育され、外の世界はほとんど知らないまま大人になっていく。
 そのさなかに出会ったピヴォワンヌは、玉蘭が外の世界を知るためのたった一つのよすがだったのだ。 
「わらわね、どうしたら香緋みたいになれるんだろうってずっと思ってた。貴女みたいにいきいきと振舞うにはどうすればいいんだろうって。……ううん、貴女みたいな女の子になりたかったのね、きっと。貴女はいつでも堂々としていて、勇気もあって、相手が公主であっても怖気づかずにどんどん自分の意見を主張できるような子で……。わらわにはいつも貴女の姿が眩しかったの。だって、わらわ相手にも変に媚びへつらうような真似なんて全然しないんだもの、当たり前よね」
 確かに、彼女相手に終始自然体な態度で接することのできる娘というのは珍しかったのだろう。
 玉蘭はきっとそこからピヴォワンヌへの憧れや願望といったものを膨らませていったに違いない。
 彼女は公主としてちやほやされることには慣れているが、一人の少女として扱われることには全く耐性がない。
 その部分をピヴォワンヌは無意識のうちに刺激してしまっていたのだろう。
 だからこそ玉蘭はピヴォワンヌを慕い、心の拠り所として懐いた。
 ピヴォワンヌだけが自分を「ただの十六歳の少女」として扱ってくれる唯一の存在だったから。
 玉蘭は一瞬だけ端麗なおもてを歪める。
 そして勢いよく顔を上げて悲しそうに言った。
「ねえ。どうしてあんな子ばっかり贔屓するの? どうしてわらわのことは二の次なの? おかしいわ……、だって、貴女とずっと一緒にいたのはわらわの方なのに」
「玉蘭……」
 そこで玉蘭は意を決したように唇を開いた。
「貴女が好き……、大好きなの! わらわはもう、香緋しかいらない。婿取りなんて絶対にしないし、降嫁だってしたくない。貴女さえいればそれでいい……!」
「……!」
「あの子が大事ならそれでもいい。けど、ここにいるわらわのことも見て……! お願いよ、香緋……っ!」
 ピヴォワンヌはそこで手のひらに爪を深く食い込ませた。
 ようやく理解した。
 玉蘭は、自分のことを愛している。それも、立派な恋の対象として。
 
 ピヴォワンヌだって薄々は気づいていた。
 彼女が向けてくる、憧憬と親愛とが絶妙に混ざり合った独特の甘い匂いに。
 それは常にピヴォワンヌの辺り一面に惜しげもなく振りまかれていた。
 そして、玉蘭のどこかうっとりとした目つきやしぐさと相まって、ピヴォワンヌをどうにも落ち着かない気持ちにさせた。
 玉蘭に慕われるのは嫌ではない。
 しかし、彼女のこの気持ちにはどうしても応えられない。
 だからこそ、今自分は彼女の告白をはねつけなければならない。
 ここで受け入れてしまっては、この先お互いに辛くなってしまう。
 だから――
 
「……ごめん。本当にごめんね、玉蘭。あんたの気持ちは嬉しい。でも、あたしにはその気持ちは受け止められない」
 すると、玉蘭の翠玉の瞳がたちまち潤んだ。
 次から次へと涙が頬を伝わってゆく。
 彼女は大声を上げて泣いた。
「っふ、うう……っ、ど……して……。どうしてそんなに優しいの……!! もう、これ以上……優しくしないでよぉ……っ!!」
「……ごめん」
 とっさにそう謝ったピヴォワンヌを、玉蘭は泣きぬれた瞳で弱々しく睨みつけた。
「ごめんなんて言わないで……! 謝ってほしかったわけじゃないの……! わらわは貴女を困らせたかったわけじゃないのに……! なんで……っ」
「……困ってないわ。本当はすごく嬉しいわよ。……だけどね玉蘭。あたしの気持ちはあんたのそれとはちょっとだけ違うみたい……。あんたが嫌いなわけでも迷惑なわけでもなくて、単純に『違う』のよ」
 そう言うと、玉蘭はますます激しく泣きじゃくった。
 その手を下からそっとすくい上げるようにして、ピヴォワンヌは彼女に問いかける。
「……ねえ。それでもあたしは、あんたが大事よ。あんたの気持ちには応えてあげられそうにないけど、それでもこれからもずっとあたしと友達でいてくれる?」
 ……残酷なことを言っているのはわかっている。
 しかし、ピヴォワンヌはこんなすれ違いなどで玉蘭を失いたくはなかった。
 それは彼女が公主だからではない。ピヴォワンヌの……「香緋」の、とても大切な親友だからだ。
 玉蘭は涙のしずくにまみれたおもてをのろのろと持ち上げ、ぐっと唇を噛みしめる。
 そして衣の袖口で素早く涙を拭くと、ごく小さな声で「当たり前でしょ」と言った。
「……わらわだってもう子供じゃないもの、自分の気持ちを否定されたくらいで友達でいることをやめたりなんかしないわよ」
「うん。ありがとう」
 ピヴォワンヌはそっと席を立つと、静かに嗚咽する玉蘭の肩をしっかりと腕で包み込む。
 そして、精一杯の気持ちを込めて彼女の身体を抱きしめたのだった。
 
 

 

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