『バイオレッタ』
混濁した意識の中、自分を呼ぶ声が聞こえる。
『バイオレッタ。バイオレッタ、起きてちょうだい』
そうして何度か名前を呼ばれる。
バイオレッタは未だ覚醒しきらない霞がかった頭でぼんやりとその響きを聞いていた。
(ああ、バイオレッタって、わたくしのことだわ……)
目覚めを急かす声はしだいに大きなものとなってバイオレッタの鼓膜を震わせた。
『……バイオレッタ!』
幾度目かの強い呼びかけで、バイオレッタは完全に目を覚ました。
「うう……ん……」
未だだるさの残る身体に鞭打って、なんとか半身を起こす。
すると、自分を介抱してくれていたらしい人物がほっとしたように息をついた。
『よかった、バイオレッタ。目を覚ましたのね』
バイオレッタは薄目を開けてその人物を見た。その拍子に、もつれた白銀の髪がはらりと顔の縁にかかった。
……こんなに親しげに自分の名前を呼ぶなんて、この声の主は一体誰なのだろう。
まさか異母妹のピヴォワンヌだろうか。
とっさにそう思ったのは、こんな風に自分の名を呼ぶのは彼女以外にいないからだ。
けれども視界に映り込んできたのは穏やかな青紫色で、明らかにピヴォワンヌの髪の色ではなかった。
のろのろと身を起こしたバイオレッタは、彼女の姿にひゅっと息をのんだ。
見上げた少女の結い髪がとても珍しい色をしていたからだ。
菖蒲色とでもいえばいいのだろうか、純粋な紫にわずかに青を混ぜ合わせたような落ち着きのある色合いをしている。
そして何より、もう一つバイオレッタの視線を釘付けにしたものがあった。
(……え? わ、わたくしが、もう一人……?)
思わずそうして目を見張ってしまうほどに、目の前の少女の顔の造作はバイオレッタに瓜二つだった。
バイオレッタはそこで無意識のうちに自らの頬に手を当てていた。
髪型は違っているし、纏う空気は少女のそれの方がずっと大人びてはいるのだが、顔の一つ一つの部位はどう見ても自分のそれで困惑する。
目を凝らして全体的に見てみても、少女の顔立ちはバイオレッタのそれと全く同じだった。
まるで鏡を覗き込んでいるかのような光景に、バイオレッタは声を上げる。
「ど、どういうこと……? 貴女は誰なの……?」
身を乗り出すと、途端にこめかみがきりりと痛む。
バイオレッタはそこで深く身体を折り曲げた。
「頭が、痛い……!」
恐らくあの時口にした眠り薬がまだ作用しているのだろう、バイオレッタのこめかみはじくじくと絶え間なく痛みを訴え続けていた。
思わず奥歯を噛みしめて耐える。
睡魔はもう一切残っていなかったが、とにもかくにも頭が猛烈に痛かった。差し込むような強く鋭い痛みだ。
どれくらい眠らされていたのかはわからない。
だが、相当に強い薬であったことは確かだった。
そこで少女が手を伸ばしてそっとバイオレッタの肩に触れた。
『バイオレッタ、大丈夫……?』
ふわりとした温かさが肌に触れ、その箇所から彼女の優しさが伝わってくるような気がした。彼女はそのまま、さするようにバイオレッタの肩を撫でる。
驚くべきことに、少女には実体というものがなかった。
彼女は肉体らしき肉体を持っておらず、ぼやけた輪郭とほのかな温かさとを持ち合わせながらふわふわと儚げに漂っている。
人の手のひらの感触こそ訪れなかったが、少女がそうして手を動かすたび、バイオレッタの肌はしだいに温もっていった。
(あったかい……)
まるで少し年の離れた姉にそうされているような気分になって、バイオレッタはほうっと息をついた。
自分には血の繋がった姉などいないというのに、なぜだかこの少女のことが他人のように思えないのだ。
実体がないところから考えても、彼女は恐らく人間ではないのだろう。
だが、不思議と恐怖や嫌悪は感じなかった。
むしろ昔ながらの知己に再会したかのような妙な懐かしさがある。
「ありがとう……。あの、貴女はどなたですか……?」
バイオレッタの問いに、少女はゆっくりと首を横に振った。
答えられない、答えてはいけないのだとでもいうように。
「そう……。わかりました。それならばお聞きしないでおきます」
少女は言いにくそうに告げる。
『わたくしのことは、アイリスとだけお呼びになって。そして、わたくしについて何も知ろうとしないでください。それは、貴女が知ってはいけないことだから』
「……」
強い拒絶の言葉に、バイオレッタは息をつめる。
だが、彼女が――アイリスがそう言うと、本当に何も知ってはいけないのではないかという気がしてくる。彼女の正体を知ってしまったら、自分は恐らくもう後には退けないのではないか。そんな気がしてしまう……。
「わたくしをここまで運んできたのは、もしかして貴女ですか?」
『ええ。貴女はあの温室で眠り薬を口にして倒れていたの。わたくしはとっさに、どこか別のところへ逃がさなければと思った。だからここに連れてきたのよ』
アイリスは語った。
『貴女のいた場所というのは魔導士クロードが作り出した一風特殊な世界なの。あの人の精神世界と繋がっているところ。あの人が道を繋ぎさえすれば、どこへでも自由に移動させることができる世界……』
彼女はバイオレッタの顔を覗き込みながらすらすらと続けた。
『貴女の閉じ込められていた寝室というのは、言ってしまえば単なる箱のようなものでしかないの。あの人がその箱を自分の邸に置きたいと思えばそこに移動させることができるし、逆に邸から切り離してしまいたいと思った時には容易に取り除けることができる。そんな空間なのよ』
「それが、魔術……?」
『ええ。魔導士というのはもともとそうした術を得意とするわ。何もないところから物質を生成したり、あるいはそこにあったはずのものを一瞬で消し去ったり。だからこそ甘く見てはいけないのよ』
そこでアイリスは告げた。あの場所は『絵画の世界』と呼ばれるところで、クロードはそこにバイオレッタを封じ込めてしまったのだと。
『あの肖像画は貴女と外界とを繋ぐ唯一のものなの。そして、あの絵画を魔導士クロードが所有している限り、貴女はそう簡単には逃げられない。仮に運よく逃げられたとしてもすぐに捕まってしまうのが関の山よ』
「でも、あの時わたくしは寝室を出られましたわ。あの外はクロード様のお邸に繋がっているようでしたし、あのまま玄関ホールを出れば……」
『いいえ……、残念だけれどそれはできないのよ。貴女という存在はすでにあの肖像画に取り込まれてしまっているの。あれはほんの一時あの人が道を繋いだから外に出られただけで、それ以外の時には他の人には貴女の姿を見つけ出すことすら困難なはずよ』
「そんな……」
バイオレッタはうつむく。
それではまるで正真正銘の囚われの身ではないか。
常識も観念もまるで通用しない場所だというのに、一体どうすれば『絵画の世界』の外へ抜けられるというのだろう……。
「……わたくしは、無事に城に帰れるのでしょうか」
そこでアイリスはバイオレッタを励ますように力強い笑みを浮かべた。
『ええ。大丈夫、わたくしがきちんと帰してあげる。だからこの場所に連れてきたのよ』
彼女は真剣な面持ちで続ける。
『だけど、生憎ここはまだ出口に至る道の途中でしかないの。この世界の出口まで逃げきることができれば貴女は元いたところに帰れるわ。問題はその出口まで無事進めるかどうかよ。この空間を抜けて出口に近いところまでたどり着ければ、わたくしがなんとか――』
と、途端に頭が割れるように痛み始めて、バイオレッタは身体を折り曲げる。
「痛……!」
『大変、早くここを出ましょう。ここはあの人の領域。生身の人間には毒なのよ』
バイオレッタは思わずアイリスを見上げた。
出るといったって、一体どうやって脱出するというのだろう。
辺りには濃い闇が充満していて、進むべき道などとてもわからない。
しかし、アイリスは一刻も早く外界へ出るよう促した。
『あの人に囚われてからというもの、貴女の身体には少しずつよくない力が蓄積し始めている……。純粋な人の子である貴女にあの人の力は強力すぎる。これ以上悪しき者の力を浴び続けるのは致命的だわ』
「よくわかりませんが、ここに留まっていてはいけないと……?」
『ええ。早くこの世界を抜け出さなくては。あの人は本気だわ。本気で計画を実行に移そうとしている……』
「どういう、ことです……? けい、かく……?」
だが、アイリスは有無を言わさずバイオレッタを立ち上がらせようとする。
『話はあとよ。バイオレッタ、起き上がれる……?』
「ごめんなさい、身体の調子が悪くて……」
そう言ってうなだれるバイオレッタの額に、アイリスはつと手を翳した。
『――力を貸して、あなたたち』
アイリスのたなうらから、色とりどりの蝶が生まれる。
虹色にさんざめく蝶はバイオレッタの周囲に集い、光を振りまきながらひらひらと飛んだ。
数匹の蝶々が一斉に弾けたかと思うと、バイオレッタを責め苛んでいたこめかみの痛みがゆっくりと消えていった。
驚きのあまりぱちぱちと瞬きを繰り返していると、アイリスが言った。
『少しだけ治癒の術式を施したわ。今のわたくしにはほんの気休め程度のものしか使えないのだけれど……』
「あ、ありがとうございます……」
そこでアイリスは微笑した。
『……さあ、ついてきて。わたくしが道を拓くわ』
アイリスに導かれ、バイオレッタは怯えながらも先へ進んだ。
すると、そこには入り組んだ迷路があった。
濃密な影と闇とで織り上げられた、漆黒の迷宮だ。
バイオレッタが止める間もなく、アイリスは彼女を連れて迷うことなく迷路の中へ踏み込んだ。
『これ以上こんなところにいては駄目。ここは貴女が住む世界ではないわ』
アイリスの言葉通り、闇の迷路には無数の影がざわざわと蠢いていた。
彼らは時折二人の脚に纏わりついて進行を邪魔しようとした。その都度、アイリスが不可思議な能力を用いて振り払ってくれる。
バイオレッタはこみ上げる恐怖と不安を堪え、懸命に足を動かした。
闇の中、蛍のようにぼんやりと光り輝くアイリスの背中に必死でついていく。
「あの……アイリス様。ここは一体どこなのですか。どうしてこんなに暗い空気が充満しているのでしょうか……」
そう訊ねると、アイリスは言った。
『ここは魔導士クロードの精神世界。『絵画の世界』から繋がっている領域で、あの人の抱える負の感情がすべて蓄積された場所……』
「え……」
バイオレッタは絶句した。まさかこれがクロードの心象風景だとでもいうのだろうか?
(そんな、嘘……。こんなに暗くて寂しいところが、クロード様の心の中だというの?)
あんなに華やかなクロードが、まさかこんなに退廃しきって裏ぶれた世界を抱えているなんて。
にわかには信じられず、バイオレッタはついきょろきょろと辺りを見回してしまう。
すると、アイリスがつぶやくように言った。
『人間というものはね、バイオレッタ。どんなにきらびやかな称号や身分を授かっていても、必ずどこかに空虚で孤独な部分を抱えているものなの。そして、与えられている称号や身分が素晴らしければ素晴らしいほど、心の奥に隠した闇の深さに苦しむ羽目になる……』
アイリスの言葉に、バイオレッタはいつか彼が口にしたある言葉を思い出した。
『……華やか、ですか。いいえ、そのような……。それはうわべだけです。真の私はひどく薄汚くて滑稽な男なのですよ』
彼はそう言って、今はバイオレッタがいてくれるから平気だと語った。
バイオレッタがいてくれれば痛みにも飢えにも耐えられると。バイオレッタだけが自分の虚ろな心を癒してくれるのだと。
その言葉がまるで真実だったことに、バイオレッタは慄かされる。
クロードはけして華やかな人間などではなかった。
どんなに立派な存在に見えても、彼だってただの一人の男性でしかなかったのだ。
バイオレッタはきゅっと手のひらを握りしめた。
「……クロード様も、そうだったのでしょうか。本当は、ただ綺麗なところだけを見てほしかったわけじゃなくて、こうした澱んだ部分や暗い部分も誰かに知ってほしかったのでしょうか……」
『……バイオレッタ』
アイリスはちらとバイオレッタを振り仰ぎ、どこかいたわしそうに言った。
『……いいのよ、そんなことを考えなくても。だって貴女はあの人に傷つけられたのだから』
「ですが……」
『迷いは捨てて、先を急ぎましょう。この闇に足を取られてはいけないわ』
「え、ええ……」
アイリスにそう言い諭されても、バイオレッタの衝撃は大きかった。
(わたくしはこれまであの方の一体何を見ていたのかしら……)
アイリスは傷つけられた側の人間がそんなことを考えなくてもいいと言った。
しかし今、バイオレッタの心には確実に得体のしれない何かがわだかまっていた。
彼に傷つけられたことよりも、その内面すら見てやれていなかったことの方が遥かに苦しい。
真っ黒に染まったいびつな世界を見渡すだけで息が詰まりそうだった。
足元では未だ漆黒の異形の姿がざわめいていたが、アイリスの放つ不可思議な光を受けると彼らはたちまちおとなしくなった。
彼女が足を踏み出すたび、驚くほど素直に彼らは道を開ける。
まるでアイリスの持つ力には敵わないとでもいうように。
「……アイリス様。貴女は、クロード様のことをご存じなのですか」
恐る恐る訊ねたバイオレッタに、アイリスは悲しげに微笑んでみせる。
『ええ……。とてもよく知っているわ。とてもね……』
寂寞の滲む微笑に、バイオレッタは胸が刺されるように痛むのを感じた。
何故だろう。アイリスの笑みが、何かとてつもなく深い意味を持っているような気がしてしまうのは。
しかもそれは、ありきたりな一言では容易に片づけられないほどの重大な何かを孕んでいた。
そこでやおら二人の前に巨大な闇の壁が立ちふさがった。
それは覆いかぶさるようにしてこちらに迫ってきた。
「きゃっ……!」
『お願い、邪魔しないで……!』
声を上げるバイオレッタを背に庇い、アイリスは掌を闇の壁に向かって突き出した。青い光が沸き出でる。
すると、キン、と音を立てて行く手を阻む壁が崩れた。
アイリスは何度かそうやって特殊な能力を用いて異形たちに道を開けさせた。
バイオレッタは思わずその後ろ姿に向けて問いかける。
「アイリス様。貴女はもしかして魔導士なのですか?」
『いいえ……。わたくしはただの術者よ。少しだけ力の強い……ね』
なんとかして闇の迷宮を抜けると、先ほどよりも開けた広々とした空間へと出た。
「もしかして、抜けられた……?」
バイオレッタのつぶやきに、アイリスはうなずく。
『ええ。この先に貴女の目指す出口があるわ。あともう少しだけ頑張れる? バイオレッタ』
「はい。案内をお願いします、アイリス様」
……二人が微笑んで顔を見合わせた、その時。
「おや……これはこれは。驚きましたよ。まさかあの温室を抜け出してしまわれるとはね」
聞き慣れた声に、ぎくりと足がすくんだ。
二人の前に立ちはだかったのはクロードだった。
波打つ黒髪の美しい女を連れて、二人の進路を阻むかのごとくその正面にたたずんでいる。
声を上げかけるバイオレッタを手で制し、アイリスは彼らの前に歩み出た。
『……この子に手を出してはなりません。この子のことは、わたくしが守ります』
「はは……! これは傑作ですね。なんと美しい愛の形なのでしょう。昨今流行りのナルシシズムのようだ」
そう言ってクロードは高らかな笑い声を上げたが、バイオレッタは初めて目の当たりにするクロードの一面に動揺を隠せなかった。
皮肉げな笑みを浮かべ、アイリスを言葉で嬲るのを愉しんでいる。その瞳にはまぎれもない愉悦の色が浮かんでいた。
(嘘。クロード様、こんな笑い方をする方だった?)
非力なアイリスを痛めつけるような言動と、人を小ばかにしたような仄暗い笑み。
くつくつと嗤いながら距離を詰めてくるその姿は、ただの温和な魔導士のそれなどではなかった。
クロードはその本性と征服欲を剥き出しにして二人に近づいてくる。
その姿に彼の残忍な仕打ちのすべてをまざまざと思い出してしまい、バイオレッタは震えた。
(これが、クロード様の本来の顔だったのね……)
アイリスが牽制するように声を張り上げる。
『魔導士クロード。そこを退きなさい』
「ふふ。退きません、と申し上げたら……?」
『あなたを傷つけてでも、この子を……バイオレッタを元の場所へ帰すわ。それがわたくしに課せられた使命』
「面白い……。ならばこちらも容赦はしませんよ」
彼が何事か詠唱すると、時空の狭間から一振りのフランブルジュが現れる。
それを手に取ったクロードは、迷うことなくアイリスに狙いを定めた。
闇の領域を、菖蒲色の髪の少女は縦横無尽に駆けた。
クロードから逃げ、時折ほっそりとした腕をひらめかせて術を放つ。
『巡れ、風よ。永久を駆け巡り、万物に吹きわたれ。我は大気を統べし者なり……!』
クロードは、それを防ぐべく術式を展開させた。
「……我は焼き尽くす者、終焉へと導く者。集え、火炎。わが命に応えて滅せよ!」
疾風と火炎がごう、とぶつかり合い、二人のあわいで力の飛沫を盛大に散らす。
紅い焔の波を完全に押しのけてしまうと、アイリスは身を翻して素早くクロードから距離を取った。
その華奢な背を追いかけながらクロードは嘲笑した。
「ふふ……、追いかけっこですか? アイリス」
恐らくクロードに距離を詰められるのを防ごうとしているのだろう。
だが、所詮は女の足だ。逃げまわったところでたかが知れている。
フランブルジュを手に、すかさず間合いを詰める。
『……くっ……!』
アイリスが苦し紛れに放った魔力を、クロードは刀身で一閃した。
勢いをつけて懐に踏み込もうとすると、彼女は腕を掲げて応戦してくる。
手のひらから張り巡らされた魔術壁は、クロードの侵入を許さなかった。その圧力に、思わず押しのけられそうになる。
「そろそろ攻撃なさってはいかがですか。私ばかり踊っていたのでは疲れてしまいますよ」
『……』
「だんまりですか。では、もっと愛らしくさえずれるようにして差し上げましょうか」
クロードはたなうらに魔力を集中させた。耳元に飾ったアメジストのピアスが輝きを帯びて鋭い光を放つ。
「出でよ、紅蓮。業火よ、我の意のままに吼えよ。赤星の輝きをわが手に……!」
クロードの生み出した猛火が、アイリスめがけてまっすぐに紅炎の触手を伸ばす。
燃え盛る焔がその肢体めがけて大きく咢を開ける寸前、彼女は口早に文言を唱えた。
『来たれ烈風! 風の眷属の名において、わが宿敵を退けよ……!』
クロードの放った火炎と、アイリスの撃ち出した疾風。
全く属性の異なる二つの魔力は、対抗し合う二人の術者の間でせめぎ合った。
アイリスの風は空間全体に激しく吹き荒れた。
クロードの火炎はそれに煽られて細かな火の粉を散らす。
同時に、闇の凝った空間全体に二人の力によって生み出された熱風が勢いよく充満していく。
澱んだ漆黒に染められていた空間はその影響を受けてたちまち明るい緋色に変わっていった。術者二人の姿が闇の中でうっすらと赤く浮かび上がる。
そこでアイリスがやおら自らの風の力を強めた。
火炎の術式が突風を受けてぱちぱちと爆ぜる。クロードはとっさに灼熱の風からその身をかばった。
「くっ……!」
なんという力だ。
こんなに力の強い術者と相まみえるのは、宮廷魔導士となってから初めてのことだ。強力な光の術者であったあのエリザベスでさえ最後にはクロードの魔力の前に屈服したというのに――。
そこでクロードは、自らの隠し持つ嗜虐心さえ煽り立てられているような気がして口角をいびつに歪めた。
バイオレッタを守るために身を挺してクロードに立ち向かうというこの懸命さが、クロードの加虐性愛にますます火をつける。
そして、こちらがどんなに追い詰めても負けじと応戦してくるところがまたたまらない。
アイリスのこの気迫と勢いを根こそぎ削いでやれたらどんなにか楽しいだろうとクロードは思った。
彼女の絶望する顔が見たい、とも。
「ふふ、貴女の風の魔術では分が悪いでしょう。私の炎を煽るだけなのですから」
『いいえ、風は火によってさらに強い力を生み出せるわ。まだ勝敗もついていないのに早とちりがすぎるのではありませんか?』
「では続けましょう。どちらかが倒れるまで……、いいえ、貴女が負けを認めるまで!」
『……!』
激しく魔力を撃ち合っているにも関わらず、アイリスは一向に疲弊した様子を見せない。
クロードは余裕あるそぶりを見せながらも、彼女の底力に慄かされていた。
(さすがにアイリス相手では勝ち目が薄い……)
アイリスの方が術者としては上手だ。彼女はクロードよりも先に風神イスファートと契約を結んだ契約者。さらに言うなら、もともと有している魔力が桁違いに強い。クロードでは歯が立たないのも道理だ。
何しろ邪神ジンは――アインは、まだ完全には復活していない。
今の彼女は依代から精力と気力を吸い上げて実体化している状態で、未ださほどの力を蓄えてはいないのだ。
それに、元はといえば先に魔術を会得していたのはアイリスの方だ。彼女の強大な魔力が過去のクロードを支えていたといっても過言ではない。彼女はその稀有な能力で国を支え、民を支えたのだ。
恩を仇で返すような真似をしているとわかっていても、クロードは興奮を抑えきれなかった。
あのアイリスが――一度はとこしえの別れによって引き裂かれたはずの彼女が、今はクロードただ一人にぶつかってくる。
今はクロードただ一人を見つめてくれている――。
かつての皇妃と激しく魔力をぶつけ合いながら、クロードはたまらず乾いた唇を舌先で湿らせた。
「嬉しいですよ、アイリス。やっと本気を出してくださって」
『質の悪い冗談を言うのはやめて!』
「いいえ、本当にそう思っています。そうやって私に敵意を剥き出しにしてくる貴女が、何よりも愛おしい……」
アイリスの敵意さえ、クロードは自らへの興味と捉えてしまう。まだ自分に関心があるから食ってかかってくるのだと、そんないびつな解釈に置き換えてしまう――。
(いいや、たとえそうでなくてもかまわない。全身全霊で私にぶつかってくる貴女の姿が、嬉しい。嬉しくてたまらない……!!)
離別の苦しみ。絶え間なく襲い掛かる後悔。見捨てられたという事実。
千年の間に蓄積したすべての感情でもって、クロードはアイリスを傷つけ続ける。
このまま彼女と戦い続けていたら、どうなってしまうのだろう。
ああ、この上ない昂ぶりで身が焼けそうだ。
その時、傍観を決め込んでいたアインが鋭い一声を発した。
『……何を遊んでいる、クロード。あのような目障りな女、さっさと倒してしまえ!!』
『邪神ジン……!』
アイリスが憎悪を滾らせた瞳でアインをねめつける。
その目つきさえ、今のクロードには甘美な劇薬だった。
彼女が油断している隙に、クロードは深々と斬り込んだ。
とっさのことに動けずにいるアイリスめがけて、勢いよく刀身を振り下ろす。
『あっ……!?』
突然のことに、アイリスがすみれ色の双眸を大きく見開く。
ロイヤルブルーのドレスの袖がぱっくりと裂け、光の粒子がこぼれ出る。
『痛ぅっ……!』
腕を押さえてアイリスはくずおれた。
「さて……。まだ続けますか? それとも……投了なさいますか?」
クロードはじりじりと距離を詰める。やっと追い詰めた獲物を仕留めるように、ゆっくりと。
投了してしまえ。さっさと私の手中に落ちてしまえ。
せせら笑いながら、しゃがみ込む彼女を見下ろす。
……だが、アイリスはそこで不敵な笑みを浮かべた。
『いいえ……、反則の手よ』
アイリスの周囲から、錦の蝶が浮かび上がる。
さんざめく光の奔流が、彼女の後方に立ちすくむバイオレッタの肌にまとわりつく。
「えっ……?」
狼狽する彼女の身体に、光はするすると溶け込んでいった。
光り輝く蝶の輪郭が、バイオレッタの全身を覆いつくす。
彼女の身体はそのまま霧散するように消えてしまった。跡形もなく空間の狭間へ連れ去られてしまう。
クロードはその光景にちっ、と舌打ちした。
「……! 精神を、切り離しましたか……!」
アイリスはバイオレッタの肉体だけをこの空間から離脱させたのだ。一時的に自らの精神をそこから切り離すという形で。
アイリスは元は霊魂……いわゆる精神体だ。
バイオレッタという娘の一部であるとはいえ、彼女の身体から離れるのは全く問題ない。
「なるほど……。ひとまず彼女を私の精神世界の出口近辺まで誘導し、折を見てその肉体を外界へ逃がす。そういう作戦だったというわけですね」
『そう。残りの魔力を使ってあなたの精神世界の外へ逃がしたのよ。ここに居続けるのは人間にとっては毒だから』
アイリスはクロードの注意を引き付けながら彼女をこの世界から逃がす算段を立てていたのだ。
自分がクロードの囮となることによってバイオレッタから注意を逸らし、隙をうかがってうまく彼女を外の世界へ逃がす。
それがアイリスの目論見だったのだ――。
「はっ……、随分勝手な真似をしてくださいますね。あの鳥はほかでもないこの私の愛玩物だというのに」
クロードが悔しげに顔を歪めると、アイリスはきっぱりと言い放つ。
『あの子だけは巻き込むわけにはいかなかったの。何せあの子はわたくしたちとは全く無関係な人間なのだから』
「おやおや、それはもしや嫉妬なのですか? 私をひたむきに愛する彼女への……?」
これ見よがしに薄ら笑いを浮かべると、アイリスは柳眉を逆立てた。
『ふざけないで!! あなたがこんなことをしなければ、わたくしは出てこなくて済んだのよ!!』
アイリスは腕を押さえたまま悲痛な声を上げる。
『わたくしは、残念でならないわ……! まさかあなたと、こんな形で再会することになるなんて……!』
それはクロードがこの世に存在していることを婉曲に批難する台詞だった。
思わず沈黙するクロードをよそに、彼女はなおも言い募る。
『この世の理を捻じ曲げてまで、生き続けてほしくなんかなかったの……! あなたにはあなたの生き方を、もっとちゃんと選んでほしかった……! わたくしなんかのためにそんな身体になるんじゃなくて、もっと自由になってほしかったの……!』
アイリスはくしゃりと美しいおもてを歪めた。
『わたくしは、別にあなたが新しい人生を歩んでくれても全くかまわなかったわ。新しい伴侶を見つけることがあなたの幸せだというなら、別にそれでもよかった。だって、わたくしはもうあなたのそばにいられない。あなたと一緒には生きられない。だから、もうわたくしから解放しなくちゃいけないって思ったの。だって、そうしなければあなたがあまりにも可哀想だから』
クロードは剣を捨てた。
そのまま、しゃがみ込むアイリスの傍らに跪く。
「私の人生とは、そもそも貴女ありきのものです」
『やめて!!』
こんな結末など望んでいなかったのにと、アイリスは全身で訴えた。触れようとするクロードの手を頑として突っぱねる。
涙をにじませてクロードを見上げるその瞳に、一瞬バイオレッタと同じ魂の色が映り込む。
クロードは強引に言葉を継いだ。
「いいえ。私を絶望から救い出したのは、まぎれもなく貴女だ。私は貴女によって命を吹き込まれたも同じ……。貴女なしの生などありえない。貴女に隷属することが私の存在意義で――」
『おかしなことを言うのもたいがいにして』
見れば、アイリスが凍てつくような目でこちらをねめつけていた。
まただ。また拒絶された――。
クロードは小さく呻く。痛みではなく、不可解さで。
なぜ。なぜわかってもらえないのだろう。
アイリスだけを想って過ごせるなら、それだけでよかった。ずっとあの幸福に身を浸していたかった。
なのに、彼女は自分と同じではない。同じ感情の中で融合することを望んでいない。
……腹立たしかった、この上なく。
「そうやって、私を否定なさるのですね……。私を、置いていくのですね……!」
クロードは積年の激情を次々と吐き出した。
「貴女は違うと思っていた。貴女だけは、私を理解し、受け入れてくださると……。ずっとそう夢見てきた。この千年の間、ずっと……!!」
クロードはかすれた声を張り上げた。
「本当に可哀想なのは、私ではない!! むしろ貴女だ!! 私ごときの妃になってしまったせいで、貴女は……!!」
しかし、アイリスはどこか憐れんだような表情でクロードを見上げるばかりだった。
そこでクロードは悟った。
どうあってもアイリスは自分から逃げ続けるつもりなのだと。
……ならば、用はない。
いかな愛しい皇妃であるとはいえ、邪魔になるなら消すまでだ。
「――いいでしょう。ならば、しばらく消えておいでなさい」
クロードは冷たい声音で言い放つ。
そして拾い上げたフランブルジュを構えなおすと、アイリスめがけて一息に振り下ろした。
『――っ!!』
ざしゅり、という裂くような音と衝撃のあと、アイリスの幽体は跡形もなく砕け散った。
クロードはせわしなく肩で呼吸をした。白い額にはうっすらと汗がにじんでいる。
彼は舌打ちとともにフランブルジュを放り投げた。
「くっ……」
……幻影とはいえ、最愛のアイリスをこの手で切り裂いたという事実が、クロードの心をじわじわと痛めつける。
アインの気配が遠ざかるにつれ、クロードはしだいにひとときの興奮から醒めていった。
火の邪神をその身に降ろすとき、クロードの精神状態は異様なまでに昂ってしまう。
それもそのはずだ。邪神ジンとはもともと破壊と殺戮を司る神である。めらめらと燃え上がる火炎のように、彼女は万物を焼き尽くす。跡形もなく壊しつくしてしまう。
火の力が四大元素の中で最も狂暴なものとされるのはひとえにそのためだ。
「ぐっ……!」
クロードは酷い憔悴を覚えてがくりと膝をついた。額から幾筋も汗をしたたらせながら、己の右手を凝視する。
そこにはまだアイリスを斬りつけたときの生々しい感触が残っていた。
(やはり私は誰かを傷つけることしかできない人間なのか。誰のことも愛せず、受け入れられず……できることといえば壊すことだけ……。そんな男なのか……)
契約を結んだ夜、邪神ジン――アインは、これまでずっとクロードのことを見ていたと言った。絶望するクロードの姿を見て、自分の器にふさわしいと感じたのだと。
もしそれが事実なら、クロードは最初から邪神の器に適した人間だったということになる。
嗜虐を好む残忍な心に、凶悪なまでの破壊衝動。
たとえ邪神を下ろした影響でそれらの傾向が顕著に現れているのだとしても、クロードにそうした一面があるというのはまぎれもない事実だ。
そこでクロードは力なく笑う。
(ならば……、私とアイリスはきっと最初から相容れない存在だったのだろう)
可哀想なアイリス。わが最愛の皇妃。
伴侶となる男が悪鬼だったために、彼女はその命を奪われることになった。
冷血な皇帝の愛した国を守り、その発展を望み、けれども最後には何もかもを奪われて。
彼はそこで乾いた空笑いをする。
そして汗で湿った漆黒の髪を振り乱しながらくずおれた。
「……やはり駄目だ。私たちの歯車は……けして噛み合わない……!」