第二十二章 王城への帰還

 
 ……ここは、どこだろう。
 バイオレッタは静寂の下りた世界でぼんやりと考えた。
 辺りには薄闇が垂れこめているものの、上空を見上げればほんのりと明るい光が射している。
 もしかして、またあの闇の迷路の中へ放り出されてしまったのだろうか。
 
(だけど、ここはなんだか温かい……。わたくしに危害を加えるようなものは何もなさそうだわ)
 
 ……誰かが自分を案じている声がする。
 目覚めを待ちわびる声が、遠くから聞こえてくる。
 身体に降り注ぐ光はきわめて柔らかくバイオレッタを包み込んだ。
 早く目を覚ましてごらん、とでもいうように、頭上から射しこむ薄明かりがゆらゆらと揺れている。
 それになんだかとても安堵して、バイオレッタはしばらくその不思議な世界の中を揺蕩った。
 
 黒く塗りつぶされた世界で、自分が醜悪な怪物たちから必死で逃げ回っていたことはよく覚えている。
 途中でアイリスが力を貸してくれたことや、出口を探しながら導いてくれたことも。
 まるで鉛が詰められたように身体が重たくて、化け物たちが足に絡みついてくるたびに身も心もひどく疲弊していった。
 それでもなんとか振り切ろうと必死で動き回り、時折アイリスの異能の力を借りて彼らを撃退して先へ進んだ。
 しかし、そうやって異形たちから逃げているうち、バイオレッタはとうとうアイリスとはぐれてしまったのだった。
 
 がむしゃらに先を急ぎ、闇の世界を一目散に駆けた。
 だが、そこで待ち構えていたのは大きな亀裂だった。
 ……空間に走る、いびつな裂け目。
 その中では数多の影が蠢いていて、バイオレッタは本能的に恐怖を感じて後ずさった。
 とうとう化け物たちの手に捕まりそうになり、ぎゅっと両目をつぶったとき……。
 
(……ああ、そうだわ。あの時、びっくりするくらい強い光が射しこんできて……)
 
 闇の迷路で逃げ惑うバイオレッタをすくい上げてくれたもの。
 それは視界を覆いつくす燦燦たる純白の輝きだった。
 なんとか目を開けたバイオレッタは息をのんだ。
 眼前に真珠色のキトンを纏った世にも美しい女性がたたずんでいたからだ。 
 彼女は温かみのある声音で滔々と告げた。
『……人の子よ。わたくしのかけらをその身に受け継ぎし王女よ。今こそ貴女のために道を開きましょう』
 彼女はそう言って白いキトンの袖口からほっそりとした腕を伸ばす。
 視線で促され、バイオレッタは彼女の手を取った。
 刹那、身体中に強大な熱と光があふれた。
「……っ!」
 これは何だろう。
 肌の奥で血潮という血潮が一斉に沸き立ち、心臓はどくどくと何度も何度も大きく脈を打つ。
 自分の身体の奥に眠る何かが、女性の持つ熱と光に呼応している。
(なに、これ……)
 それは魂の根源を揺さぶり起こすような抗いがたい力だった。
 身をゆだねるのが恐ろしい。この力に流されたくない。
 とっさにそう思ったものの、バイオレッタの心身はすぐに彼女の放つ輝きに呑み込まれてしまった。
 女性はそこで腕を伸ばし、ぐらついたバイオレッタの身体を支える。
『さすがはわが末裔……、わたくしの力に容易に感応してしまうのですね』
「末、裔……、感応……? あ、貴女は一体――」
『わが名は水神ヴァーテル。創造神の愛娘にして、この大陸のすべての“清流”を統べし者……』
 嘘、とつぶやいたバイオレッタの唇を、彼女は指先で押さえた。
『本当よ。わが血肉を受け継ぐ王女を救い出すため、わたくしはここまで来たの』
「では、貴女がわたくしのご先祖様、ということ……ですか?」
 ――五大国の王族はみな「ヴァーテル女神の亡骸」から誕生している。だからこそ民草は彼らを敬うのだ。
 これは大陸全土に浸透している一般論である。
 だが、まさかそれをこんな形で証明されるとは思いもよらず、バイオレッタは口元を手で覆って絶句する。
 ヴァーテルはバイオレッタの手を引いて導きながら、険しい声で言った。
『急ぎなさい、人の子よ。その清きかけらをあの者の手に穢させてはなりません』
「それは、クロード様のことですか?」
 その問いかけに、ヴァーテルはかぶりを振る。
『……どんな存在であれ、人の子に罪はありません。むろん、神に加担した者にも。ですが、貴女が置かれていたのはその命をも脅かしかねない劣悪な環境でした。貴女は今後一切そうしたところに近づいてはいけません。貴女とあれは相反する存在です。ああした悪しき者というのは常に良き者の力を奪い取ろうと画策する。だからこそ心を許してはならないのです』
 バイオレッタの脳裏に次々と疑問符が浮かぶ。
 どう足掻いてもわからないことばかりで、ヴァーテルの言葉がろくに理解できなかった。
 すると、彼女は微笑んで「よいのです」と言った。
 そして、慈愛に満ちたアイスブルーの瞳でバイオレッタを見つめた。
 柔らかな光が溢れる銀白色の空間を、バイオレッタはヴァーテルに伴われながら進んだ。
 そうしている間にも温かな風が絶えず吹きわたり、凍えた心身をゆっくりと癒してゆく。 
 ヴァーテルは光り輝く道の彼方へとバイオレッタの背を押す。
『さあ、わたくしの役割はここまでです。……お行きなさい、人の子よ』
「ありがとうございます、女神様……!」
 そこで女神は柔らかく微笑んだ。
『……貴女はよき同胞はらからに恵まれたようね』
「……同胞って、それは一体どういう――」
 訊ねる前に、ふいに純白の道が途切れた。
 それから後のことはほとんど覚えていないが、遠くから自分の名を繰り返し呼び続ける懐かしい声が聞こえた気がした。
 
 
 まるで誘いかけるようにこちらへと降り注ぐ光を見つめて、バイオレッタは思う。
(……そうだわ。起きなくちゃ)
 色々な人に迷惑をかけてしまったし、随分心配もさせてしまったような気がする。
 たとえ目覚めた後に広がる世界が醜く歪んだものだったとしても、起きなければならない。
 起きて、自分の世界・・・・・を受け止めなければならない。
 
 バイオレッタはぼんやりとそう考え、自らの意識を覚醒させようと試みた。
 眠りの底に沈んでいたバイオレッタの意識が、ゆっくり水面へと浮かび上がる。
 瞼を開けた瞬間、視界一杯に眩しい光が目に飛び込んできた。
「……っ!」
 ぶれて一向に定まらない視界にもどかしさを覚え、バイオレッタはそこで何度か瞬きをした。
 瞼がどんよりと重たくて、手足すらうまく動かせない。
 背に触れるシーツや丁寧にかけられた羽毛布団の手触りなどから、どうやら自分が寝台に寝かせられているらしいことに気づく。
 とっさにクロードに監禁されたときのことを思い出して身を強張らせるが、駆け寄ってきたのは見慣れた顔だった。
「……バイオレッタ様!!」
「サラ……?」
 寝台を覆うレースの帳を開いてこちらの様子をうかがっているのは、まぎれもなく筆頭侍女のサラだった。
 彼女は寝台の帳を勢いよく全開にすると、ベッドに横たわるバイオレッタの顔を覗き込みながらわっと声を上げた。
「よかった、よかったです……、バイオレッタ様ぁ……っ!!」
「サラ……」
 何か言おうと頑張ってみたのだが、それ以上言葉にならなかった。
 会話の仕方すら忘れてしまっているような錯覚に陥り、仕方なしに掛布をぎゅうっと握りしめる。
「何もおっしゃらなくて大丈夫です。もう何も恐ろしいことはありませんからね」
 サラはそう言って慌てた様子で踵を返した。
 続きの間へ飛び込むと、中で待っていたらしい人物に大声で呼び掛ける。
 
 姿を現したのはピヴォワンヌだった。
 芍薬色の長い髪を揺らし、日中用のローズピンクのドレスの裾を持ち上げて駆け寄ってくる。
「バイオレッタ! よかった……、目を覚ましたのね!」
「ピヴォワンヌ……」
 こちらを覗き込むピヴォワンヌの紅い髪が、さらさらと頬を撫でる。
「よかった……! 何日も眠りっぱなしだったから、あたし、本当に心配で……!」
「わたくし、どうして……。何があったの……?」
 起き上がろうとするバイオレッタの背を支えながら、ピヴォワンヌはまずは水を飲ませてくれた。
 グラスに冷たい水をたっぷりと注いで手渡してくれる。
「ちゃんと全部飲んでよね。あんた、起き抜けなんだから」
「ありがとう」
 そう言ってすべて飲み干してしまってから、自分の喉がカラカラになっていたことにようやく気付く。
 こんな風に飲み物を口にするのはひどく久しぶりな気がした。
「……無茶しないで。今何か持ってこさせるから、もっとちゃんとやすんで」
「ええ……」
「しばらくこの居住棟に泊まるつもりだから、用事があったらなんでも言ってね。実はしばらくリシャールに許可をもらってるの。何かあると悪いからって」
「そうなの……? まあ、ありがとう」
 どこかぼんやりとして焦点の定まらない目をするバイオレッタに、ピヴォワンヌは強く抱きついた。
「……よかったわ、ちゃんと戻ってきてくれて」
 バイオレッタはその背を抱き返しながら、久方ぶりに彼女のぬくもりを味わった。
 
 
 バイオレッタは何日かそうやってピヴォワンヌに世話を焼かれた。
 サラと二人がかりで食事や湯浴みの面倒を見てもらい、時には菫青棟の庭先まで軽い散歩に連れ出してもらったりして、バイオレッタはなんとかこれまで通りの生活を取り戻そうとしていた。
 ……その日、バイオレッタとピヴォワンヌは菫青棟のドローイングルームでお茶を飲んでいた。
「思ったより回復が順調でよかったわ」
「色々心配してくれてありがとう。おかげでやっと落ち着いてきたわ」
 熱い紅茶を啜り、皿に盛られた丸いショコラを口に入れる。
 バイオレッタは温かい紅茶の味にいささかほっとしたが、そこであることに気づく。
 ……そういえば、もう秋も半ばなのだ。
 夏の暑さはとっくに過ぎ去り、ともすればもうじき冬も訪れようかという時季だった。
 つまり、それほどまでに長い間あの世界に囚われてしまっていたということになる。
「わたくし、随分長いことこのお城を離れていたのね……」
 表情を曇らせるバイオレッタに、ピヴォワンヌは案じるように言う。
「そんな。あんたのせいじゃないんだから、気にしなくていいのよ。あんたは被害者なんだから」
「……だけど」
 そうしてなおも自らを責めようとするバイオレッタに、ピヴォワンヌは全力で首を横に振った。
「あんたは何も悪くないわよ。悪いのはあの魔導士よ。あいつがあんたの好意を裏切るような真似をしたりしたからこんなことになったんじゃない」
「……」
 バイオレッタはうつむいた。
 あれは果たして裏切りだったのだろうか。ああした行為を人は裏切りと呼ぶのだろうか。
 思わずぱちぱちと白銀のまつげを瞬く。
 バイオレッタが彼の愛情に圧倒されていたこと、二人の感情の相違が生んだ凶行であるということ、彼に暴力的な行為を強いられそうになったこと。どれもまぎれもない事実だ。
 だが、それを「裏切り」という一言で片づけてよいのかどうか、バイオレッタには判別できなかった。
 
 あの邸で起こったことは単なる裏切りなどではなく、もっと複雑に絡み合った「何か」であるような気もするからだ。
(それが何なのか、わたくしにはちっともわからない。だからこそ怖い。そして、クロード様との間で頻繁に起こるあれはなんなの……?)
 クロードと出会ってから、バイオレッタの心身はおかしくなってしまっていた。
 今までなら男性に触れられれば嫌悪しか感じなかったくせに、クロード相手ではまるきり違う。
 むしろもっと触れていてほしいと感じるし、片時も離れたくないとさえ思ってしまう。
 そして、例の夢。
 最初はただの夢だと決めつけていた。何も恐れることなど何もないのだと。ただのおかしな夢にすぎないのだと。
 しかし、クロードといる時にまでああしたものを見るというのはやっぱり妙だ、と思う。
 あの夢を見るのは何も夜だけというわけではない。
 クロードと一緒にいる時に限り、バイオレッタはたとえ昼間であっても不思議な夢を見る。何かの断片を、ほんの一瞬だけ垣間見る。
 金の髪の青年と、彼に抱きしめられる絶命した娘。
 木漏れ日の下のささやき声、バルコニーでのいかにも親密そうな触れ合い。
 
 それはまぎれもなく何かのかけらだった。
 バイオレッタ自身が取り落としてしまったもの。そして、いつかどこかで記憶の狭間へと置いてきてしまったものだ。
 このことについてバイオレッタはざわざわとした嫌な胸騒ぎを感じていた。
 
 極めつけはアイリスだった。
 ――彼女の顔を、自分はよく知っている。この顔を、いつかどこかで見たことがある。
 クロードの精神世界で彼女と初めて顔を合わせた時、バイオレッタはなぜだかそんな風に感じてしまったのだ。
 ただ単に互いの造作が似通っているというばかりではなく、本当に「見たことがある」と感じた。
 それは単なる既視感デジャヴなどではなかった。
 血を分けた姉妹にもう一度巡り合ったような――あるいは喪ったはずの半身を再び取り戻したような――独特の感覚があった。
 
(何なの……? わたくしの身に一体何が起こっているというの……?)
 
 バイオレッタはそこで自らの唇にそっと触れてみた。
 クロードの唇を受け止めた刹那、ふいに頬を伝わった涙。
 あれは一体何だったのだろう。あの時、どうしてあんなに悲しかったのだろう。
 あの口づけ一つでもはや完全に彼のところへ繋ぎ留められてしまったような気さえした。
 クロードは「一度自分のものになってしまえば心など後からついてくる」とうそぶいていたが、本当にその通りになってしまった。しかもあんなキス一つで。
 だが、例の漆黒の迷路を見てしまったあとではどうしても彼を叱責するのはためらわれた。
 バイオレッタが「美しい」「綺麗」と誉めそやすたびに彼が謙遜していた理由。
 それはひとえに彼が自分の心の弱さを自覚していたからなのだ……。
 そんなクロードを、自分は果たして「裏切者」などと言ってそしれるだろうか。
 彼の取った行動の一つ一つを、本気で否定することができるのだろうか。
(むしろ、あの方のことをちっとも見ていなかったのはわたくしの方だったのかもしれない……)
 バイオレッタは背を丸め、重いため息をつく。
 すると、ピヴォワンヌが気遣わしげに声をかけてきた。
「……暗い顔させちゃったわね、ごめん」
「えっ……、あ、違うの。これは……」
 大急ぎで取り繕おうとすると、ピヴォワンヌが「いいのよ、あたしが悪いんだから」と苦笑する。
「けどね、バイオレッタ。今あんたが自分を責めるのは間違ってるわよ」
 ティーカップを手に、ピヴォワンヌはそう言った。
「え……」
「あんたは酷いことをされそうになったんだから、もっと怒っていいって言ってるのよ。王女をさらった末に自分の邸に閉じ込めるだなんて、正気の沙汰とも思えないわ。全く……」
 
 
 ……その時。
「香緋っ……!!」
 そう言って勢いよく扉を開けてドローイングルームに上がり込んできたのは、一人の小柄な少女だった。
 異国風のあしらいがなされたドレスに身を包み、赤紫の髪を複雑な髷に結い上げている。
(だ、誰……?)
 頭頂部で大胆な形に結われた赤紫の髪に小柄な身体、爪紅つまべにで染められたくっきりと赤く形のよい爪。
 その容姿や衣装からしてもスフェーンの女性でないことは明らかだった。
 髪の色は綺麗な赤紫――というよりはいっそマゼンタと呼んだ方がふさわしいだろう――で、当然のことながらスフェーンではめったにない色だ。これはむしろ劉の民たちが有する色彩に近い。
 やや吊り気味の瞳は猫のようにぱっちりと大きかった。赤紫の長いまつげの奥、一対のエメラルドのように燦然と輝く翠色の双眸がなんとも魅力的だ。
 年の頃はバイオレッタやピヴォワンヌとそう変わらないようにも見える。
 背は低く、表情もまだどこか幼い。敵愾心もあらわにこちらを睨みつけていることを除けば、いたって普通の少女だった。
 だが――。
 
(こ、ここはわたくしの居住棟なのだけれど、この女の子は一体誰なの……!?)
 突然の事態に、バイオレッタは完全に言葉をなくした。
 
 

 

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