クロードの生み出した『絵画の世界』から助け出され、薔薇後宮の自室に戻ってきてひと月ほどが経過した。
だが、バイオレッタは終始浮かない顔つきで毎日を過ごしていた。
……その日、バイオレッタはドローイングルームのソファーの上で刺繍をしていた。
膝の上にはプリュンヌに借りた教本を広げ、手には刺繍枠と針を携えている。
枠に固定された生地の上には教本の図案と全く同じ具合で花々が刺されていた。
バイオレッタはぼんやりとした表情のままひたすらに手を動かす。
黙々と、ただ一心に。
……まるで刺繍枠の中にこそ自分の望む世界があるとでもいうように。
「痛っ……!」
誤って指先を突いてしまい、バイオレッタは浮かんだ血の珠を慌てて拭う。
なおも滲んでくるそれを、何の気なしに口に含む。舌に広がる鮮血は鉄錆の味がした。
開け放たれた出窓の向こうから冷たい秋風がびゅうびゅうと吹き込んでくるのに気づき、バイオレッタはその音に瞳を瞬かせる。
「……あの、そろそろお閉めいたしましょうか?」
窓に向けられた女主人の視線を自らへの非難と受け取ったのか、侍女の一人がおずおずと言う。
バイオレッタは刺繍の道具を手早く片付けると、「自分でやるからいいわ」と返した。
立ち上がり、出窓の方へと向かう。風に暴れる薄紫のカーテンを手でまとめ、しっかりと結わえる。
そのまま窓を閉ざそうとしたバイオレッタだったが。
「あっ……」
庭園に咲きこぼれる秋の薔薇に、思わず目が釘付けになる。
侍女たちが欠かさず手入れをしてくれている庭の薔薇は、どれも美しく可憐に花を咲かせていた。
赤、薄紅、クリーム色。薄紫にマゼンタ、オレンジにイエロー。
秋の乾いた風に吹かれながら、それらはどこか寂しげに揺れていた。
直に触れていない期間が長かったせいだろうか、どの花も心なしか哀愁を感じさせる風情だ。
そして、クロードに贈られた薔薇の鉢植えも、小ぶりながら精一杯花をつけていた。
その周囲に置かれているのは彼に挿し木をしてもらったまだ若い薔薇たちで、こちらも順調に葉を生い茂らせている。
風に揺られるそれらを見つめて、バイオレッタは落胆と愁嘆とが入り混じった深いため息を漏らした。
……こういう時、後々まで残るような贈り物は本当に困る。
不遜ながら、バイオレッタはふとそんなことを考えてしまう。
食べ物や紅茶の類ならばいい。ああしたものはすぐに消えてなくなるから、思い煩わされる心配はない。
けれど、こうやっていつまでも手元に残るような贈り物は駄目だ、と思う。
たとえ花に罪はなくとも見るのが辛い。
そしてもう一つ……、夏の薔薇園で起きたあの出来事を、まざまざと思い出してしまうから。
「クロード様……」
ぼそりとその名を口にし、バイオレッタはカーテンの生地を強く握りしめた。
およそ半月にも及ぶ蟄居を終え、クロードは王宮へ戻ってきていた。
官僚の中には半月などぬるい、いっそ監獄へ入れればいいと主張する者も数多くいたが、リシャールは取り合わなかった。これからも腹心として出仕させ続けると宣言したのだ。
驚いたのは王太后まで同意見だったことだ。
彼女は顔色一つ変えずにこう言った。
『リシャールも彼を信頼しているのだし、寵臣としての彼の手腕は誰よりも優れたものだわ。近臣としてはこの上なく優秀だし、きちんと功績も上げている。ゆえに、リシャールがこれからもシャヴァンヌを出仕させたいと望むのであれば、わたくしは反対などしませんよ。あの子はあれでも立派なスフェーン国王。その意思は尊重してあげなくてはね』
その一件を受けて、王宮は揺れに揺れた。
クロードのことを「卑劣漢」、「王の信頼を笠に着て罪を犯す謀反人」などといって批判する者が相次ぐようになり、宮廷内の派閥が大きく分裂したのだ。
アウグスタス家出身の官僚らはみなクロードを擁護したが、その一方で彼をよく思わない者たちというのも当然一定数おり、宮廷の随所でつまらない諍いがしばしば起こるようになった。
基本的に最初は「討論」という形で始まる元老院での議会も、気づけば互いの悪罵や中傷といったよくない方向に進み始めることが増えてきたという。
その影響はなんとバイオレッタ自身にまで及んだ。
例の一件があってから、バイオレッタ自身も不本意な噂を流されることが多くなってきたのだ。
バイオレッタ王女の方からクロードを誘惑したに決まっている、とか、やっぱり城下育ちの姫は淫奔でふしだらだ、などといった類のものだ。
それくらい二人の関係は面白おかしく取沙汰されていた。
そうして好き放題に好奇の視線を投げかけられた末、バイオレッタは「愛には罰がつきものなのだ」とようやく悟ったのだった。
バイオレッタの中ではもう済んだ話になってしまっているというのに、変わらず視線を送ってくるクロードが恨めしかった。
リシャールの傍らに控える彼を見上げると、どうしたって視線がかち合ってしまう。
それはバイオレッタに染みついてしまった癖のようなもので、もはや直しようがないものなのだった。
あちらから顔を背けてくれれば一番いいが、クロードはそうしない。これまでと何ら変わりない目でこちらを見つめ続ける。
そこで彼の中ではまだこの恋が終わっていないことに気づいてしまい、余計に胸が苦しくなった。
以前にも増して宴の席が苦痛になったバイオレッタは、時々父王に頼んで席を外すようになっていた。それくらい観衆の目が恐ろしかったのである。
クロードによって巧みに囲い込まれた心はもはや逃げ場がなく、ただひたすら空気を求めて喘いでいた。
こんなことなら恋などしなければよかった。
彼と気持ちを通わせ合ったりするのではなかった。
冬の到来を間近に控えた晩秋の庭園で、バイオレッタは幾度も幾度も涙で頬を濡らした。
王宮に滞在中のエピドートの第三王子カーティスとは、あれから何度か一緒に出掛けた。
どうにかしてクロードを忘れたかったのだ。忘れられるなら新しい恋もいいだろうと思ったし、自分にとっての運命の相手でなくても別にかまわないと思っていた。
彼が自分を求めてくれるのであれば、少しくらい時間を共有するのも悪くないのではないか。
そう思ったが故の行動だった。
カーティスはエピドート国の気風に似て穏やかで知的な青年だった。
温厚な性格で、身分をひけらかすような真似はけしてしない。
何かにつけて「自分は女性には不慣れだ」と口にしたものの、その反面触れ合いは甘く優しかった。
カーティスのささやきやキスは、彼自身の纏う雰囲気に似て軽やかでさりげない。
バイオレッタはそれを「まるでそよ風のような触れ合いだ」、と感じた。
女性側に無理強いをしないところや状況をよくわきまえられるところも好ましく、バイオレッタはすぐに彼が気に入った。
絵画と書物、星座をこよなく愛する彼を、バイオレッタはしばしばリュミエール宮へ連れ出した。滞在している間だけでも王城の案内ができればと思ったのだ。
最初こそ遠慮がちだったものの、カーティスはすぐに「では、お言葉に甘えます」と言い、バイオレッタの手を取った。
大ギャラリーや書庫、天文展示室といった部屋を見てまわり、最後には宮殿を出て小集落や小動物園などをゆったりと散策する。
それが二人にとってお定まりの逢瀬の仕方だったが、そうした時間を久しぶりにバイオレッタは「楽しい」と感じた。
そうして束の間の新しい恋に浸っていたバイオレッタだったが、ある時ふと自分の中の卑怯な部分に気づいてしまう。
それは、カーティスの一挙一動をクロードと比較してしまうということだった。
些細なしぐさ一つにクロードの面影を見出そうとしている自分が嫌で嫌でたまらなかった。
忘れたいと思っているにもかかわらず、何かにつけてクロードとの日々を思い出してしまう自分のことが。
しかも、カーティスとのひとときによってバイオレッタは自分がまだクロードに未練があるのだということを強く思い知らされてしまった。
……あれはいつだったか、石段を踏み外して大きくよろめいたバイオレッタをカーティスが支えてくれたことがあった。
『きゃっ……!!』
『大丈夫ですか、姫君……!』
その時、バイオレッタは腰に回された彼の手のひらになぜだか強烈な違和感を覚えた。
自分でもどうしてそんな行動に出たのかわからないが、バイオレッタは自分を抱きとめてくれたカーティスの手をやんわりと掴んで引きはがし、「わたくしなら大丈夫ですから」と虚勢を張ってしまった。
とっさのことに彼は首を傾げたものの、ほんのりと苦笑いをすると、何事もなかったかのように再びエスコートしてくれた。
カーティスの寛大さは、いつもバイオレッタの良心を痛めつける。
相手がこちらを向いてくれるまで焦れずにずっと待ち続けられるかどうかという一点において、カーティスはクロードと大きく違っていた。
それほどまでに彼は――カーティスは純情で辛抱強かったのだ。
『……僕じゃだめですか。僕じゃ、貴女を幸せにしてあげられませんか』
悲しげにそう言うカーティスに、バイオレッタは身をゆだねることも突き放すこともできずにただうつむいた。
『僕は貴女が――バイオレッタ姫のことが好きです。貴女は素直でとても心優しい女性だ。僕はいつも、バイオレッタ姫のような女性と毎日一緒にいられたらどんなに幸せだろうと夢見てしまうのです。僕みたいな気弱な男にもとても親切にしてくださる貴女のことが、僕にはとても眩しくて――』
聞くに堪えなくなったバイオレッタは、たまらず彼を遮った。
『……やめてください!』
『……姫君?』
困ったようにこちらをうかがうカーティスに、バイオレッタは必死で訴えた。
『わたくしは、そんな立派な女などではありません。お願いですから、今はわたくしをそんな風に褒めないでください。あなたの賛辞が……今はとても辛いの』
その悲痛な叫びをカーティスは黙って聞いていたが、やがて静かに一つうなずいた。
二人はそれからも度々散策へ出掛けたものの、その関係が「親しい友人」という域を出ることはなかった。
バイオレッタはそこで、カーティスに贈られた小さなブーケを見やった。
それは薄紫の小さな薔薇を束ねたもので、今は花瓶に生けて書きもの机の上に飾ってある。
カーティスは薄紫色の優しげな薔薇を好んでいるようで、よくバイオレッタにプレゼントしてくれる。
それは手紙に添えられていることもあれば花束として送られてくることもあった。
「そういえば……初めて一緒にお出かけした日、クロード様も薔薇を贈ってくださったわね」
純白の、甘く芳醇な香りのする薔薇だった。
寝室に飾って数日の間眺め、萎れてしまってからはクロードにもらったポプリの中に混ぜて愉しんだ。
それくらい大事だったからだ。萎れてしまっても慈しみ続けたいと思うくらい嬉しかったからだ。
――なのに……。
「……」
バイオレッタはうつむき、スカートの上に置いた手を強く握りしめた。
クロードのあの一連の行動を裏切りと呼ぶのかどうかは未だに判然としない。
世間知らずな王女を騙して私邸へ連れ去るというのはどう考えても褒められたことではないだろう。
しかし、バイオレッタにはそれよりももっと気になることがあった。
彼があんなことをするに至った動機は一体何だったのかということだ。
「……どうして? 本当に最初からわたくしを騙そうとしていたの……?」
そうつぶやいてから、バイオレッタは切なげに眉根を寄せた。
(……違うと思いたい。だって、あの方はこれまで何度もわたくしの心に寄り添おうとしてくださった。そして自分自身の心もわたくしに明かしてくれた。あの一挙一動が、全部嘘だったはずがないもの……)
いつかの舞踏会の夜、バルコニーで寄る辺ない生き物のように身を寄せ合ったときのことを思い出す。
クロードの肌は温かく、そのぬくもりに包まれていると安心した。
互いの身体に腕を回して抱きしめ合うと、自分のいるべき場所をようやく見つけられたようでほっとした。
少しのずれも隙間もなく重なり合う身体に、バイオレッタの胸はこの上なく熱くなった。
だが、バイオレッタの心は今やクロードへの不信感でいっぱいだった。
本当はまだ彼を信じたいと思っているし、できることならこの恋の種火を綺麗さっぱり消し去ってしまうような真似はしたくない。
まだ彼のことを想い続けていたいし、叶うことならその闇ごとこの手で融かしてしまいたいとさえ思う。
なのに、考えれば考えるほど胸がざわめく。喩えようのない恐怖で、満たされる。
同時に胸の奥がじくじくと疼いたような感じになって、バイオレッタはふるりとかぶりを振ってその感覚を打ち払った。
「……そういえば、公主様たちはもう劉へお帰りになったかしら」
静かに独りごち、バイオレッタはまだ見ぬ東の大国に思いを馳せた。
劉の公主二人はおよそ三月に及ぶ逗留期間を終え、自分たちの国へと帰っていった。
宝蘭か玉蘭、春にはどちらか一方がかの国の玉座にのぼることが決まっている。
母女王の前で武芸の腕前を競い合い、より優れていると判断された方の公主が次期女王として君臨するのである。
ピヴォワンヌの話によれば、芙蓉女王はまださほど高齢ではないものの、今後のためにも早々に世継ぎを決めておきたいと望んでいるのだという。
王が呪いによって奇異な身体となってしまっているスフェーンとは異なり、かの国の事情はややあっさりとしていた。
少なくともこちらのようにひどく切迫した状況にあるわけではなさそうだ。
しかし、劉の公主たちというのは代々苛烈な王位継承争いを繰り広げることで有名だという。
万が一敗北すれば、公主は手ごろな男性のもとへと嫁がされ、きらびやかな宮城を離れて暮らすこととなる。
婿を取るのは女王の特権で、それ以外の者たちには基本的に臣籍降嫁をさせる形をとっているらしい。
女王として君臨しない代わりに夫を迎え、宮廷から退いて生活するのがしきたりなのだという。
……ということは、彼女たちもやはり自分たちと同じような“籠の鳥”なのだ。
出立の朝、バイオレッタが薔薇後宮の入口まで彼女たちを見送りに行くと、二人のおもては思いがけず沈んでいた。
特に気にかかったのは玉蘭の悲しそうな面持ちだ。
彼女の整ったおもてには翳りがあり、今までのような威勢のよさは感じられなかった。
もういきなりバイオレッタに食ってかかるような真似もせず、玉蘭はただ淡々とピヴォワンヌに挨拶をした。
『……香緋、会えて嬉しかったわ。またいつか劉の宮城に来てちょうだいね。貴女ならいつだって歓迎するから』
『ええ……』
『約束よ? わらわのこと、忘れないでね』
二人はそんなやり取りを交わし、互いの身体を強く抱きしめ合った。
しかし、そのあわいにはどこかぎこちない空気が横たわっており、バイオレッタは身じろぎ一つできなくなってしまった。
しんみりした別れの空気に浸っていると、玉蘭はそこでふいにこちらに向き直った。
『バイオレッタ姫』
『は、はいっ!?』
『“ピヴォワンヌ姫”としてはどうか知らないけど、“香緋”の一番は今でもこのわらわなんだからねっ!! この子のこと、ちゃんと大事に扱わなかったらただじゃおかないわよ!! いいわね!?』
――ああ、やっぱりいつも通りの玉蘭だった。
冷や汗をかきつつも、バイオレッタは急いでうなずく。
『は、はい……、心得ました。姉として、友達として、きちんと大事にします』
考えてみれば玉蘭が心配するのも当たり前なのだ。
二人はバイオレッタが介入する以前からの知り合いで、それも強い絆で結ばれた親友同士。
遠い異国の宮廷で親友が心細い思いをしてはいないか、困った事態に陥っていないか。すぐに救いの手を差し伸べられない玉蘭としてはやきもきしてしまうのだろう。
玉蘭はそこでバイオレッタに小指を差し出した。
『……絶対よ。絶対香緋のこと大事にしてね。姉姫として……、そして何より、この子の一番身近にいる友達として、守ってあげてね』
『はい』
バイオレッタは答え、その小指に自らのそれを絡めた。
『約束よ。香緋は本当はとっても傷つきやすいんだから……』
二人の別れを見届けた宝蘭は、バイオレッタとピヴォワンヌに向けてそっと微笑を浮かべてみせた。
『スフェーンの皆様には本当にお世話になりました。女王試験の前に楽しいひとときを過ごせたこと、感謝いたします』
相変わらずのたおやかな笑みに目を奪われつつも、バイオレッタは彼女の言葉から女王候補としての決意と覚悟をひしひしと感じ取った。
バイオレッタたち同様、彼女たちにもこれから次期女王としての戦いが待っている。
その前にほんのひととき年頃の娘らしい時間を味わえたことを、純粋に感謝しているのだろうと思われた。
どこかぎくしゃくとした空気が流れる中、最後に挨拶をしたのは彩月だった。
旅装姿の彼はバイオレッタに向けてにやりとした。
『色々あったけど、なかなかに楽しかったぜ。姫さん、あんた可愛いんだから次は気をつけろよ』
『は、はい……、きゃっ……!?』
大きな手のひらでぐりぐりと白銀の髪を撫でまわされて、バイオレッタはその感触に慌てふためいた。
しかし、その手つきに気安さと親密さが滲んでいることに気づき、結局されるがままになる。
彩月のこれはきっと兄が妹にするような感覚なのだろう。だから今はただ身をゆだねていればいいのだ。
そう感じてバイオレッタは全身から力を抜いた。
思うさまバイオレッタの髪を撫でまわすと、彩月はつと身を放した。
『次は香緋ちゃんだなァ。……っと』
そこでおもむろに身をかがめたかと思うと、彼はピヴォワンヌの頬に触れるだけの口づけをした。
『……!?』
バイオレッタは呆気にとられてしまった。劉の人間というのはよほど親しくなければ口づけなどしないのだと聞いていたからだ。
それも、彩月はこんなに人目のある場所で堂々とやってのけた。
これは一体何を意味するものなのかと、バイオレッタはしばらく考え込んでしまった。
『な、な……っ!?』
突然の事態にぴしりと固まるピヴォワンヌめがけて彼は挑発的にささやいた。
『……お前、こないだの約束忘れんじゃねェぞ。言っただろ、一緒に飯食いに行くって。絶対また劉に来いよ』
『ちょ、ちょっと……彩月……!? あっ……!?』
勢いよく腕を引かれ、ピヴォワンヌは彩月の胸に収まった。
驚きのあまりのけぞる彼女の髪をさらさらと手で梳き、彩月はその一房に愛おしそうに口づける。
『やめてっ……!! あんた、何してんのよ……っ!!』
『別に、これくらいいいだろーが。接吻くらいでケチケチすんなよ、香緋ちゃん』
『な、な……、ケチケチとかそういう意味じゃなくてっ……!!』
『つれねえ奴だな、お前。俺様がちゃーんと約束したってのによォ。言っとくが、俺様が赤の他人を飯に誘うことなんかそうそうねェんだからな。わかったら素直にうなずいとけよ、香緋』
なおも食い下がる彩月に、ピヴォワンヌはいたって真面目に言った。
『……そんな、確約なんかできないわよ。女王選抜試験が再開されるにしろそうでないにしろ、もうそっちへ行く機会すらないかもしれないんだから』
現段階ではピヴォワンヌが女王となる可能性はきわめて低い。しかし、この先どうなるかなど全くもって予測不能だ。
第一王女オルタンシアは今もリュミエール宮の一室で眠り続けたままだ。
おまけに女王選抜試験そのものも再開されていない状態で、宮廷の重鎮たちは今後の舵取りにてんやわんやしている。
加えてリシャールもあんな状態で、魔導士たちが頑張っているにもかかわらずまだ解呪には至っていない。
そのため、四人の王女たちがこの先どんな未来を歩んでいくかは未だに予想がつかない部分があった。
つまり、一番玉座と縁遠いはずの彼女のところに王冠が転がり込んでくる可能性が全くないとは言い切れないのである。
それに、他国の王族と結婚してしまえば当然自由に出歩くことなどできなくなる。
他国の王室に輿入れした身で彩月に会いに行くことなどどう考えたって不可能だ。
女王になるにしろ、よその国へ嫁がされるにしろ、もう二人きりで会うことなどできない。
ピヴォワンヌが主張しているのはそういったことだろうと思われた。
が、何を思ったか彩月は小さく噴き出した。
『そうかそうか。そうだよなァ。お前はもうここで姫をやってくって決めたんだもんなァ』
感心した風に笑うと、彼はピヴォワンヌの芍薬色の髪を手でわしゃわしゃとかき乱した。
『ちょっ……、髪の毛がぐしゃぐしゃになっちゃうじゃない! 何すんのよ!』
『ははっ! 仕方ねえから、庶民の俺様は姫君をさらう盗賊の役でもやってみるわ。そん時ァお前もおとなしくさらわれろよな!』
からからとした彩月の笑い声に、ピヴォワンヌはくしゃりと相好を崩した。
『馬鹿なこと言わないでよ、もう……』
そう返しながらも、その頬はほんのりと紅く色づいていた。
ほころんだ口元からは白い歯がちらりと垣間見え、ただでさえ可憐な顔立ちをさらに愛らしく魅惑的なものにする。
ピヴォワンヌの困ったような――それでいてどこか嬉しそうな横顔に、バイオレッタは微笑ましい気持ちになった。
玉蘭は『約束ってなんなのよ』とか『彩月だけ抜け駆けするなんて許さない』などと大いにご立腹ではあったものの、やがてお付きの者たちに促されて薔薇後宮の門扉を抜けた。
『色々力になってくれて、ありがとう』
『いいのよ。また会いましょう、香緋』
『お二人ともどうかお元気で』
『ええ、バイオレッタ姫も……』
何度も何度もこちらに向けて手を振りながら、公主たちはプラタナスの遊歩道の向こうへと消えていった。
――劉の公主と、スフェーンの王女。
異なる二つの国の姫たちはこうして別れた。
ほんの三月、それも薔薇後宮を離れている時間の長かったバイオレッタにしてみればごくわずかな間でしかなかったものの、二人の纏う東国の風はバイオレッタたち二人の心に新たな変化をもたらした。
誰に対しても恐れることなく意見する玉蘭。
淑やかでありながら信念の強い宝蘭。
バイオレッタは二人の姿に少なからず感銘を受けていた。
二人は運命に流されているだけのやわな公主ではない。
二人とも自分のやりたいことや大事にしたいもの、掲げるべき目標といったものがはっきりしている。
そしてそれに向かって努力し、臆さず立ち向かっている。
そんな印象を受けた。
特に惹かれたのは妹の玉蘭だった。
彼女は周囲にただ流されるまま生きるのは嫌いだと言い、自分の意思を表に出そうとしないバイオレッタのことを厳しく批難した。
確かに、何も意見せずに現状を変えようという自分の姿勢は確かに甘いのだろう。
バイオレッタは常に相手の顔色をうかがってしまうし、一つ行動を起こすにもあれこれと考えすぎてしまう。
玉蘭のようにまず行動ありきの姫ではないし、物事に対する情熱もあれほどまでに強くはない。
そうしたことから考えても、彼女は明らかに自分にはないものを持った公主だった。
批難されたのは衝撃だったが、同時に「指摘してもらえてよかった」と思ったのもまた事実だ。
この出会いと縁は、確実に自分のあり方を変えてゆくだろう。
バイオレッタはなぜだかそんなふうに感じていた。
「……ふふ。またお会いすることがあれば嬉しいけれど……」
つぶやき、バイオレッタはほんのりと笑った。
***
晩餐のための場所である≪享楽の間≫。
ミュゲはいつものように優雅に食事を口に運んでいた。
今夜はこのオトンヌ宮で定例の晩餐会が開かれている。
国王リシャールをはじめとし、王太后ヴィルヘルミーネと王妃シュザンヌ、魔導士クロード、第三王女バイオレッタに第四王女のピヴォワンヌ、そして第二王女のミュゲといった面々が一堂に会している。
クロードを除く六人の男女は悠々とテーブルに就き、一点の曇りもなく磨き抜かれた銀器を手に黙々と食事を続けていた。
……そう。宮廷における主要人物は、第一王女のオルタンシアを除いてほぼ全員が席についている状態だ。
子牛のロースト・ビーフに鳩のグラタン、ブイヤベース、ベシャメルソースを添えた鶏肉料理。
そのほかにもラムのコロッケや鴨のグリル、エクルビスのブイヨン煮といった豪勢な品が並んでいる。
テーブルの中央にはよく冷やした山盛りの果実、そして彩りも鮮やかな菓子の皿が置かれ、シャンデリアの光を受けてつやつやと魅惑的に照り輝いている。
真っ白なテーブルクロスの随所にはらはらと散らされた薔薇の花弁、砂糖でこしらえた巨大な食卓装飾品の数々。
たかだか晩餐の場でしかないというのに、宮廷の権威を見せつけるかのようななんとも華麗な設えだ。
行儀よく食事を続けながら、ミュゲは密やかに想い人をうかがい見た。
クロードはリシャールの傍らに立ち、時折小声で彼に話しかけたり機嫌を取ったりしている。
だが、その視線の先を辿ってみて、ミュゲのカトラリーを動かす手つきが粗雑なものに早変わりした。
腹立たしさのあまり、鶏肉の煮込み料理を切り分ける手が荒っぽくなってしまう。
……またバイオレッタを見つめている。それも、あんなに狂おしげな目で……。
新緑のまつげの奥から、ミュゲは探るように二人を見つめた。
クロードは相も変わらず美しい男だった。
このひと月の間でやや痩せてしまったような気もしたが、リシャールのグラスに葡萄酒を注ぐその所作は完璧そのものだった。
まめまめしく王妃や王太后の要望を聞き、王女が水を欲しがっているとわかれば給仕係に指示を出す。
まさに王家に仕える寵臣としては理想的だ。
一方で、散々よからぬ噂を流布されたバイオレッタは見るからに意気消沈してしまっている。
食事をする意欲がそもそもないようで、どの皿にも全く手を付けていない。
それを「いい気味だ」と嘲笑ってから、彼女は再度クロードに目をやった。
今回の一件に関しては、ミュゲはクロードが犯人だなどとは思っていない。
むしろ父王におかしな進言をしたピヴォワンヌの方を責めたくなったし、当然ながらバイオレッタには憤りを覚えた。
第一、あの淡白極まりないクロードがそんな浮ついた真似をするはずがないではないか。
ミュゲの知るクロードはそんな馬鹿げた行動に出るような男ではない。
いくらバイオレッタのことを愛しているとしても、クロードが自らの地位を危うくしてまで監禁などというふざけた行動に出るはずがないのだ。
そのため、ミュゲにしてみれば今回の騒動はバイオレッタが自ら仕組んだ狂言のようにも取れた。何かの間違いに違いない、とも。
そもそもミュゲは、クロードが本気で恋情に身を焦がすような男だとは思っていない。
どの女相手でもけして燃え上がることのない冷めた態度。自らの領域に他人を寄せ付けようとしない頑なな言動。
そうしたものがミュゲにはどこか好ましかった。
このクロードという青年は、宮廷にあふれかえっている軟派な男たちとは明らかに違っていた。
常に他人を傍観者の目で見ている。女たち相手でも無駄に威張らず、それどころか彼女たちの機嫌を取ることさえ厭わない。
そして何より、ミュゲに必要以上の興味関心を示さない。
気安く触れたり構ったりせず、いつも一定の距離を保ってミュゲと接したがる。
これがミュゲには大層心地よかったのだ。
自分に言い寄ってくる男たちにはいつも一切興味を引かれないのに、なぜかクロードには惹きつけられてしまう。
澄ましたポーカーフェイスを崩して、その裏に隠れた素顔をすべて暴いてしまいたくなる。
だが、けして振り向いてなどもらえないのだから、一緒にいれば当然辛くなる。
要らぬやせ我慢をし、懸命にクロード好みの自分を作り上げ、無理をしてでも彼に気に入られようと心を砕く。
それは実質とても苦しい行為だった。
クロードがそっけない態度を取るたびに、ただでさえ弱い心の臓がさらにきつく締め付けられるような心地になる。
後ろ姿を追えば切なくなり、その視線の向かう先が自分ではないとわかればなおのこと胸が詰まる。
同時にミュゲは、「本当の自分の姿」というものを見失ってしまいそうになった。
これはクロードへの恋心が作り上げた彼好みの自分でしかない。……それもひどく中途半端な。
では、「本来の自分」というのは一体どのような姿かたちをしていたのだろう。
半ば恋心に押しのけられる形で心の奥底に沈んでしまったそれは、一体どんなものだったのだろう……。
「……」
ミュゲは周囲に悟られぬよう、そっと息をついた。
ああ、一体これはいつまで続くのだろう。いつ終わるのだろう。
……否、一体どこまで行けば自分は満たされるのだろう。
もしこれが勝負だとするなら、ミュゲはすでに敗けているのかもしれない。
クロードに何もかも差し出した時点で、この恋愛遊戯の行く末などとうに決まっているのかもしれない。
けれど、好きなものは好きなのだ。
この穢れのない純白の花を彼が染めたいというなら、いくらでも染め変えてほしいとさえ思う。
クロードの望むままに自分の身を差し出してもいいと思う程度には、ミュゲは彼に毒されてしまっていた。
ミュゲはそこでちらとバイオレッタを見やった。
バイオレッタはたどたどしい手つきで牛肉の煮込みを切り分け、じれったいほどのんびりしたしぐさで一口ずつ口へ運んでいる。
小さな顎を動かして料理を咀嚼するその姿に、ミュゲはなんともいえない苛立たしさを覚えた。
なんて能天気でふてぶてしい姫だろうか。こうしてクロードの立場が揺らいでいる時でも、この姫は自分の身だけが可愛いのだ。自分だけが安泰ならばそれでいいのだ。
クロードにすべてを押し付けて逃げる気なのだ――。
ミュゲはえもいわれぬ怒りと焦燥に、ぎり、と奥歯を噛みしめた。
(……ふしだらだと噂になっているような王女のことなんか、もう見ないで。わたくしならそんな失態は犯さない。お前が望む通りの女になるし、お前が困るような真似なんて絶対にしないわ。だから……!)
――しかし、そんな想いを知ってか知らずか、クロードは信じがたい行動に出る。
彼はやおらリシャールの足元に膝をつくと、朗々とその名を呼んだ。
「……わが最愛の主君リシャール様。どうか私めの話を聞いてはいただけないでしょうか」
クロードがリシャールを名前で呼ぶのは珍しい。
公の場では常に「陛下」だし、たとえ単なる主従関係以上の親密な仲であるとしても、この二人はけしてそれをひけらかしたりはしない。
宮廷で立ち回る者として、クロードが公私混同を何よりも嫌っているからだ。
突然名前を呼ばれ、リシャールは怪訝そうな顔になる。
「なんだ、クロード?」
リシャールはそう言ってぱちぱちと猫のような瞳を瞬いた。空になったワイングラスをテーブルの上にそっと置く。
クロードは、胸に手を当て頭を垂れた姿のままで、静かに唇を開いた。
「は。僭越ながら、陛下にお願いしたきことがございます」
「ふん……、お前が僕に頼み事とは、珍しいこともあるものだな。よい。申してみよ」
リシャールは鷹揚に笑い、クロードを促した。
発言を許されたクロードは、殊勝に顔をうつむけたまま言った。
「第三王女バイオレッタ姫との婚姻を、お許しいただけませんか」
(え――)
ミュゲは凍り付いた。
どうして。
どうしてこんな時に、そんな――
「なっ……!」
「あらあら……」
王と魔導士のやり取りを黙って見つめていたシュザンヌとヴィルヘルミーネが声を上げたが、ミュゲはそれどころではなかった。
(なんで……? どうしてバイオレッタと?)
クロードは自分を好きなのではなかったのか。
だから愛していると言ってくれたのではないのか。
(嘘。嘘よ、こんな――)
ミュゲは信じがたいクロードの発言に息を詰まらせた。
予想だにしなかった展開に身体が強張り、カトラリーを持つ手が動かせなくなる。
リシャールは眉間に皺を寄せると、肘掛に肘をついて足を組む。そしてクロードをぎろりと見下ろした。
「そなた、自分の申していることの意味がわかっておるのか? 今は王位継承争いの最中であるぞ。僕に仕えるそなたが今すべきことは色恋にかまけることではない。国と王を支えることであろう。第一王女オルタンシアは謎の昏睡状態、女王選抜試験はやむなく中断へと相成った。城下は荒れに荒れていて、過去の豊かさは今や微塵も感じられぬほど……。そんな状況下で女の話とは笑わせる」
ミュゲは父王の言葉に心の裡で賛同した。
(そうよ……。お願いだからそんなこと言わないで、クロード)
ミュゲはレースのテーブルクロスの影で震える両手を組み合わせた。
先ほどから嫌な震えが止まらない。
ともすれば膝までがくがくと笑いだしそうになって、ミュゲは堪えた。
しかし、そんな中クロードは正気の沙汰とも思えぬようなことを口にする。
「畏れながら、バイオレッタ様を娶ることをお許しいただけないのでしたら、私は栄えある宮廷魔導士の称号を陛下にお返しする覚悟です」
「何を言う、クロード……!」
リシャールは驚愕の表情で手の甲にもたせかけていた顔を上げた。
「私はバイオレッタ様をお慕い申し上げております。バイオレッタ様は私のすべてです。この方さえいらっしゃれば、私はもうそれだけで生きてゆける。この方の高雅な笑みと、たおやかな笑い声、そして私のような下賤の者にも惜しげなく投げかけられるいたわりのお言葉があれば、それだけで……」
寵臣の男は、必死な表情で主君にねだる。
彼女が得られないならばもうこの宮廷にいる意味はないとでもいうように。
だが、リシャールははあ、とため息をつくと、「お前の話はもうよい」と苛立たしげにクロードを突っぱねた。
彼はそのままバイオレッタに向き直り、その瞳を探るようにねめつける。
「バイオレッタよ。そなたはどうなのだ。クロードがこうも強く主張してくることなど、これまで一度もなかったぞ。まさかそなた、僕に黙ってそうした誓いを立ててしまったとでもいうのか? 将来を捧げてもよいと、こやつに約束してしまったとでもいうのか……!?」
バイオレッタはカトラリーを取り落とし、目に見えてがたがた震えだした。
「わ、わたくし、は……!!」
椅子に座したまま、彼女は真っ青になって小刻みに震える。
父王の叱責に、彼女は見ていて可哀想なくらい取り乱した。
やがて、愛娘の曖昧な態度に焦れたリシャールがぴしゃりと言う。
「なんとか言え。何もなかったというなら、そなたの口から否定してみせよ」
「ち、違います! わたくしはそんなこと、一度も――!」
……クロードが慄く彼女をちらりと見やってわずかに口元をほころばせたような気がしたのは、気のせいだったのだろうか。
リシャールは聞き分けのない子供でも見るように順繰りに二人を見やる。
「……お前たち。僕はこれまで散々釘を刺してきたはずだ。男女の仲になってはならぬと。一線を越えるような真似をしてはならぬと。だのに、お前たちは僕のその発言の意味をきちんと理解していなかったようだな」
リシャールの少女めいて整った美貌は、今や隠し通せない怒りに歪んでいた。
一番の片腕と認めたクロードがこうも簡単に女に傾いたのが許せないのだろう、彼は肘掛けの上でこぶしを小刻みに震わせている。
「クロード。僕はお前を信じていた。だから此度の一件において半月の蟄居という処分に留めておいたのだ。だが、こんな発言をされてはその信頼も揺らぐというものだ。お前は一度ならずか二度までも僕を裏切った。こうまでされて、僕がお前を見逃せるわけがない」
クロードの端整なおもてを高圧的に見下ろし、リシャールは心底不愉快そうに言った。
「お前は僕の王女をさらって自分の邸に閉じ込めた。僕のあずかり知らぬところで計画を立て、秘密裏にバイオレッタをかどわかした。これはきわめて残忍かつ狡猾な所業だ。そればかりか、今度は伴侶としてバイオレッタと添い遂げたいなどという。……は、笑わせるな。それはそなたのような男が口にしてよい台詞ではない」
リシャールはそう一蹴すると、再度二人を見た。
……いや、見るというよりは睨みつけるといった具合だ。
「バイオレッタが次期女王となるのなら、その時には婚姻を許してもよい。だが、それまでお前たちが必要以上に距離を詰めることは許さぬ。……いや、それだけではぬるいな。今後は二人きりで会うのを一切禁じる。これ以上僕の知り及ばぬところで仲を深めるな。周囲の者にはこれまで以上に厳しく監視に当たらせる。これを破ったら次こそただではおかぬぞ。よいな」
リシャールはそうやって幾度も念を押した。
父王の言葉にバイオレッタはなぜかほっとした様子だ。
大きく息をつき、クロスの上に散ったカトラリーを拾い上げて食事を再開する。
だが、ミュゲの心はすでに限界だった。