第三十二章 決着をつけるとき(後編)

 
 ――その日、玉蘭は中庭で花を眺めている姉に声をかけた。
「姉様」
「あら、玉蘭。どうしたの?」
 ふわりと笑う宝蘭に、玉蘭は鋭い視線をぶつける。
「玉、蘭……?」
 姉がたじろいだのを尻目に、玉蘭はその足元に長剣を鞘ごと放り投げた。
「玉蘭!? 何を……」
「……剣を取って、姉様。決着をつけましょう。次期女王になるのはどちらなのか」
「な、何を言って……! わらわは貴女と争いたくは――」
 玉蘭は硬い一声で姉の発言を制した。
「わらわ、ようやくわかったの。自分の闘志を削いでいたものの正体が」
「闘志を削いでいたものの、正体……?」
 訝しげに問い返してくる宝蘭に、玉蘭はきっぱりと言い放つ。
「それは、わらわを取り巻くこの世界よ。この、まるでぬるま湯のように生温かくて怠惰な世界。それこそがわらわの心を弱らせくたらせるものだった。姉様や母様、父様に臣下たち。そして香緋も……。みんなが鷹揚に許してくれるから好きなように振舞えていただけだったのに、わらわはそれを全部自分の実力だと思ってきたわ。愚かな自分の姿にも気づけずに」
 自分と同じ翠玉の瞳を、玉蘭は真っ向から見据えた。
「わらわの牙を折ってきたのは、他でもないこの状況よ。これまで散々甘やかされてきたわらわは、真の意味で戦ってこなかった。だけど、今度こそわらわは強くなる。誰かの手を借りなくても、誰かに擁護してもらわなくても。わらわはわらわの意志で立つ。だから……姉様、最初に貴女を乗り越えさせて」
 玉蘭が剣を取るよう視線で促すと、宝蘭は案の定かぶりを振った。
「そんな、玉蘭! わらわはいやよ! どうして大好きな貴女とそんなこと……!」
「姉様。また逃げるの? またそうやって自分だけ一段高いところに逃げるつもり? そうやってわらわの面倒を見ていればみんなからいい子だって言われるから?」
「な、そんなつもりは――!」
 姉の言葉を遮るように、玉蘭は鞘から刀身をすらりと引き抜く。
「……手加減はしないわよ。嫌なら今のうちに逃げればいいわ。そうやって逃げまわっていたってどうせわらわたちの運命は変えられないけどね」
「……!」
 姉はごくりと喉を鳴らすと、急いで長剣を拾い上げた。玉蘭に倣って鞘から抜き、構える。
 そこで宝蘭はくしゃりとおもてを歪める。
「貴女がその気なら、わらわだって負けないわ」
「姉様こそ覚悟してよね。何せ剣術ではわらわに勝てたためしがないのだから」
 視線の交わし合いののち、鋭い剣戟が響き渡った。
 
 
 
「ふあああ……」
 甘い香の煙がもうもうと立ち上る部屋の中、芙蓉はのんびりとあくびをした。
 寝椅子に寝そべって煙管を咥え、深々と吸う。
 琅玕公の持つ灰入れに、芙蓉は煙管の雁首をトン、と打ち付けた。
「……おいしい?」
「うむ……」
「お菓子は? 食べる?」
「いらぬ……」
 琅玕公の差し出す朱塗りの菓子入れを手で退け、芙蓉はごろりと寝椅子に横たわる。煙管を咥えたまま器用に煙草を喫い、時折紅い唇からけだるげに煙を吐く。
 ゆったりとした襦裙の裳裾からは、よく手入れされたふくらはぎがちらりと見え隠れしている。絹の靴が脱げて露わになったつま先は、爪紅つまべにで鮮やかな緋色に彩られていた。
 琅玕公はその様子を面白そうに見ていたが、やがて自らも寝椅子の縁にすとんと腰を下ろした。
 芙蓉の頭を軽く持ち上げると、自らの膝に乗せて器用に膝枕をしてやる。
 芙蓉は一瞬だけ怪訝そうな顔をしたものの、すぐに夫のされるがままになった。
「公主たちはどうしておる」
「なんだか塞いでたよ、あっちで何かあったみたいだ」
「全く……、あとおよそ三月で勝敗を決めねばならぬというに。あちらによほどいい男でもおったのかの」
 からかいまじりにぼやけば、琅玕公は噴き出した。
「まさか! 君じゃないんだから、そんなによそ見ばっかりしないだろう」
「何……? そちはわらわを馬鹿にしておるのかえ?」
「してないしてない。ちょっとつまらないなーとは思ってるけどね」
 琅玕公のこのいやみっぽい物言いと批判精神は、あろうことかそっくりそのまま娘の宝蘭へと受け継がれてしまった。
 そのどこか湿っぽい皮肉には実の母親である芙蓉でさえどきりとさせられるほどだ。
「……ならば、玉蘭のあの猪突猛進なところはわらわ似か」
 独りごちると、まるで心を読んだように琅玕公がからから笑う。
「そうかもねえ。君はもともとなりふり構わず突っ走るところがあるしねえ……。玉蘭の『当たって砕けろ』な精神はまさしく君譲りなんだろうね。素直といえば聞こえはいいけど、暑苦しいというか、正直すぎるというか……」
 芙蓉はがばと起き上がる。
「なんじゃなんじゃ、さっきからねちねちいやみばかり言いおって……! 締め出されたいのかえ!」
「ほらほら、そういうところがそっくりなんだよ、芙蓉」
「!」
「君って昔と全然変わらないよね。もうじき不惑を迎えるっていうのに、今でもまだ二十歳はたちの女の子を相手にしてるような気がするよ」
「ええい、うるさいうるさい! 黙って菓子でも食ろうておれ! 今はそちの相手はできぬ!」
 菓子の詰まった盆を琅玕公に押し付けると、芙蓉は憤然と立ち上がる。
 そのまま机に向かい、そこに置かれた書状をめくる。
 そこにはスフェーンについての報告がまとめられていた。要するにかの国の見聞録である。
 スフェーンの成り立ちについては、他の五大国のそれと何ら変わらない。ヴァーテル女神の亡骸を継承する者たちが建国し、それ以降も彼らの血族が変わらず統治をしている、といったものだ。
 芙蓉は順繰りに報告に目を通す。
 そこにはまだ見ぬ西国さいごくの様子が事細かに記録されていた。
 イスキア大陸の北に位置している国だということ。
 北の大国であるとはいえ、冬の寒さや降雪量といったものは島国エピドートよりもいくらかましであるということ。
 通貨単位は「ユークレース」であるということ、国花はにおいすみれであるということ……。
 そこでふと、書状をめくっていた芙蓉の手が止まる。
 そこには、「スフェーンには花の名を冠した四人の世継ぎの姫がいる」、と書かれていた。
 紫陽花、鈴蘭、菫、芍薬。
 四人の姫たちはまさしく「花を愛でるように」父王に愛され、次期女王として期待されているのだそうだ。
「なるほどのう……」
 背後から書状を覗き込み、琅玕公が唸る。
「しかし、かの国においては後宮という概念はやや特殊なようだね。今は妻妾として後宮入りする女性は一人もいないのだとある。そして今この『薔薇後宮そうびこうきゅう』と呼ばれる建物に住んでいるのは、王の妃と母后、そして王の血を引く娘たちだけだと……」
「かの国では後宮制度があったのは先代国王の御代までじゃ。とはいえ、その頃から姫君を後宮で養育するという習慣はあったようじゃな。王子は成人すれば親元を離れて宮殿や住まいを持つが、姫たちは輿入れするまで厳重に後宮で守られるのだそうじゃ」
「……じゃあ、香緋がこの国にいたのは本当はあまりいいことではなかったんだね」
「むろんそうなるの。後宮で庇護されるべき王女が姿を消したのだから、国王としては当然許せなかったであろうな」
「なんとも奇妙なえにしだ……」
 芙蓉はそこで切れ長の双眸をやんわりと細めた。
「香緋の姉姫は菫の姫というのか。ふふ、かわゆい名前じゃのう。菫は劉には咲かぬ花じゃが、昔で見たことがある。あれは薄紫のなんとも愛らしい花を咲かせるのじゃ。わらわはあの花が好きでのう」
「名前が気に入ったのなら案外その姫のことも気に入るかもしれないね」
「ほほ、そうだとよいがの。何はともあれ、かの国の新女王とはうまくやっていきたいものじゃな」
 かの国の新女王擁立の瞬間はすぐそこまで迫っている。
 この劉の伝統を踏襲し、スフェーンは「第二の劉国」になろうとしているのだと報告で知った。
 なんでも、魔導士の予言が原因らしい。王はその予言とやらを頭から信じ込み、次代ではそれを実現させると息巻いているのだそうだ。
(……随分と思い切ったことをするものじゃ。今まで女子おなごが政に携わったことなどないというに)
 スフェーンのどの王女が玉座に就こうが、芙蓉にとっては些末事でしかない。気に入れば味方につけるし、そうでなければ干渉しないだけだ。
 実際、スフェーンとの間に特別な友好関係を築かなくとも、劉は劉でじゅうぶんやっていける。
 古の時代に竜神が築いたとされる山海の砦、優秀な部族長たち、豊富に採れる食物や資源。
 そうしたものがあれば、他国の援助がなくともひとまずは安泰なのだ。
 あとは芙蓉が無数に存在する部族の民たちの統率を間違わなければいい。
 だが、四人の姫たちのうち一体誰が次の王になるのか、芙蓉は単純に気になってもいた。
 芙蓉としては香緋にもその素質はあるのではないかと思う。
 しかし、こればかりはなんとも度し難いものがあり、こと王位ともなればどの王子王女に転がり込んでくるかわからないというのが世の常である。
 予想だにしていなかった者が王位に就くこともあれば、近臣たちの策謀によって最も玉座から遠いはずの人物が宝冠をかぶってしまうこともある。
 そこが王位継承争いの面白いところだが、巻き込まれる本人たちにしてみればたまったものではないだろう。
 その時、女王執務室の扉が大きな音を立てて開いた。
「ふ、芙蓉様!!」
「なんじゃ、静凱せいがい
 側仕えの少年宦官が、慌ただしく部屋に入ってくる。
 琅玕公がやれやれとでもいうように肩をすくめているのがわかる。
 芙蓉は少年宦官に毅然と発言を促した。
「どうしたのじゃ」
「こっ……、公主様が、中庭で闘っておられます!!」
「……なんじゃと? わらわの公主たちがか」
 宦官はこくこくとうなずいた。
 ありえない事態に、琅玕公がぽかんとする。
「そんな馬鹿な」
「じゃが、この部屋までわざわざ報せにくるということはまことなのじゃな?」
 少年宦官はうなずく。
「とにかく早くいらしてください! お二人がいきなり得物を振り回し始めたのでみな驚いているのです!」
「ふむ……。しかし、武芸の試験にはまだちと早いのではないかえ」
「お願いです、芙蓉様!! 今すぐお越しください!!」
 こうまで言われてしまっては赴かないわけにはいかない。
 のろのろと起き上がって衣の乱れを直す。
 そして芙蓉は琅玕公とともに歩き出した。
 私室のある殿舎を出、足早に宮城の中庭に向かう。
 すると、回廊を行き交う臣下たちがぎょっとした面持ちで平伏した。
「こ、これは女王様――」
「よい」
 挨拶を寄越す女官や官吏を手で制し、芙蓉は琅玕公や少年宦官とともに外に出た。
 中庭を一望できる高楼を選んで駆けあがり、瞳を細めて愛娘たちの姿を探す。
 刹那、芙蓉は翠玉の瞳を見開いた。
「あれは――」
 小ぢんまりした中庭を舞台に、二人の娘が得物を打ち合っていた。
 一人は驚くほど俊敏に動き回る勝ち気そうな娘。もう一人はおたおたと逃げ惑いながらもその切っ先を懸命に受け止めようとするいかにも優しげな娘……。
 芙蓉はすぐにそれが自分の公主たちだということに気づく。
 二人が手にしているのは鋭くきらめく大刀だった。それは年頃の娘たちが扱うにはおよそ不釣り合いなほど立派な代物で、赤銅色をした絢爛なつかの部分では翡翠の玉飾りが揺れ動いている。
 あれは確かに芙蓉が与えた刀だ。二人が十四になる年、「そろそろ必要な時期だろう」と判断して二人の公主それぞれに持たせたものだ。
「なんと。確かにわが娘達じゃのう」
「ですが……、よろしいのですか? まだ女王選出の時期ではございませんし、何より観衆があのように」
「……む?」
 芙蓉は中庭をもう一度見やった。
 確かに、争い合う公主たちのまわりには黒山の人だかりができている。
 皆が皆、公主二人の様子を固唾を呑んで見守っている。
 衣は破れ、結った髻は大きく乱れ。
 それでも公主たちは争い合うのをやめようとはしない。
 こうして嫌でも人目を引いてしまう娘たちの姿に、芙蓉は深く満足した。
 眼差し、太刀筋、発する言葉。
 二人の一挙一動に、臣下たちは目を逸らせずにいる。
 目を背けることも仲裁に入ることも叶わずに、ただ黙ってその様子に見入っている。
 芙蓉はそこで深紅の唇をつと持ち上げた。
(ああ)
 この、嫌でも人の関心を惹きつけずにはおれないオーラ。
 これこそが天子の持つべき素質だ。
 ――天性の魅了の素質カリスマだ。
「は……、はははははっ!!」
「芙蓉様!?」
 うろたえる琅玕公や静凱を尻目に、芙蓉は呵々と笑う。
 そして高楼から身を乗り出すと、公主たちに向かって声を張り上げた。
「わが公主たちよ!! わらわが許す!! 存分に闘え!! 今こそそなたたちの成果を見せる時じゃ!!」
 
 
 
「か、母様!? あっ……!」
 攻め入ってくる刀身を、宝蘭はすんでのところで受け止めた。
 鍔迫り合いの姿勢のまま、玉蘭は刃先にぐぐ、と体重をかけながら声を張り上げる。
「姉様はいつもそう! 誰からも認められる『いい子』の顔を崩さない。けど、わらわは知ってる。姉様のその顔が、全部偽りのものだってこと」
「なっ……! 玉蘭!? 酷いわ、どうしてそんなことを――」
「そうじゃないっていうなら、どうしてわらわに何もしてこないの!? 今すぐにでも斬りかかってくればいいじゃない! こうやって、ね……!!」
 挑発し、白刃を大きく薙ぐ。
 宝蘭はたたらを踏んだが、すぐに体勢を立て直した。
 玉蘭はそんな姉に向けて激情をぶつける。
「いっつもそうよ!! 母様の宝物は姉様で、父様に褒められるのも、臣下に慕われるのもいっつも姉様!! わらわは一年遅く生まれたというだけで、随分損したわ!! 姉様はすごい、姉様のようにならないとって」
「そ、それを言うならわらわだって……! 玉蘭は妹だから、ちゃんと可愛がってあげなきゃって! 欲しいものはみんな貴女にあげていたし、玉蘭はわらわの妹だから、わからないことはなんでも教えようと思って――」
「それが余計なお世話だって、何度言えばわかるのよ!? 姉様のは単なる愛情の押し付けよ!! 大体、妹をそんなに格下に見るのはやめてよね!!」
 はっと息をのんだ宝蘭の懐に、玉蘭は素早く飛び込んだ。
 二人のあわいで刀身がせめぎ合い、ぎぃん、と硬質な音を上げる。
 玉蘭が踊るような足取りで間合いを取れば、宝蘭も負けじとそこへ攻め込んできた。
 繰り出される刃を次々とかわしながら、玉蘭はこれ見よがしに唇の端を持ち上げた。
「……あら、大したものじゃない、姉様。弓しかできないかと思っていれば、まんまと騙されたわ。普段は逃げ回ってばっかりいたくせに、案外強いのね」
 そう揶揄してやれば、宝蘭のおもてに怒りの色が浮かぶ。
 彼女の太刀筋はそこで明らかに変化した。
「……ッ!!」
 振りかざされた白刃を、すんでのところで避ける。
 まかり間違えば頬に刀傷をつけられるというぎりぎりの状況に、背後の観衆たちが甲高い悲鳴を上げる。
 しかし玉蘭は小柄な体躯をしなやかに翻して姉から距離を取った。
 威嚇がてら、刀剣の切っ先を姉に向かって突きつける。
「そうよ、その顔の方がお似合いだわ。いつもの姉様はいい子ぶってて薄気味悪いんだもの」
「なんですって……!」
 刹那、宝蘭は普段の楚々とした様子からは想像もつかないほどの敏捷な動きで斬りかかってきた。
 彼女の剣さばきは目に見えて荒々しく鋭いものとなっていた。
 玉蘭はそれを巧妙にかわしながら反撃の機会をうかがう。
 乾いた唇を舌で湿らせ、それまでとは打って変わって凄まじいものとなった姉の戦いぶりを注視する。
 これは生まれつき彼女が隠し持つ苛烈さなのだと、玉蘭はもう知っている。
 玉蘭の手前封じ込めていただけなのだと。何事も妹に譲歩することが彼女のプライドであり誇りだったのだと。
(だけど、それじゃわらわは前へ進めない。互いに寄りかかって庇い合っているだけじゃ、わらわは強くなれないの)
 玉蘭の魂は、この閉鎖的な国と全く同じ状況にある。
 丁重に庇護され、外界との接触を断たれ、平穏と安寧の保たれた世界でぬくぬくと守り育てられている。
 香緋はそんな玉蘭の世界を塗り替えてくれたただ一人の人物だった。
 彼女はまだ見ぬ広い世界へと玉蘭を導き、玉蘭がそれまで知らなかった「自由」と「強さ」を教えてくれた。
 彼女のようになりたい。姉や周囲にあやされてばかりの弱い自分から脱したい。
 自分の意思で運命を切り拓く力が欲しい。
 玉蘭の胸の奥、そんな闘志めいた願望が燃えたぎる。
(貴女こそがわらわの道標よ、香緋)
 そう。まず乗り越えるべきは姉だ。
 彼女の庇護をはねつける勇気を持つこと。一人きりでも前へ進む努力をすること。現実を受け止め、実像の自分と戦うこと。
 それこそが、今の玉蘭に課せられた使命だ。
 ならば……
「はあああああッ!!」
 勢いよくその懐に踏み込むと、玉蘭は気の緩んだ姉の手から刀を弾き飛ばした。
「……っ!!」
 力強く弾かれた刀剣が、からんと音を立てて石畳の上に転がる。
 女官たちの悲鳴とは対照的に、当の宝蘭はどこまでも呆然とした顔つきをしていた。
「勝負あったわ、姉様。わらわの勝ちよ」
「玉蘭……」
 宝蘭はそこで全身の力をふっと抜く。
 そしてそのまま石畳の上にがっくりと膝をついた。
 彼女はまるで迷い子のような瞳で玉蘭を見上げる。
「わ、わらわは……、ただ貴女が大事で――!」
「そう。姉様はわらわが大事。それは事実なのでしょう。でもね、その気持ちは、時に人の判断力を鈍らせるの」
「でも! わらわの本心に嘘なんてないわ! 貴女が愛おしいという気持ちに変わりはないもの! だから、考えが鈍ることなんて――」
「……姉様。わらわはもう子供じゃない。姉様の後ろにくっついてまわっていた、幼い子供じゃなくなったの。だからもう、わらわのことを一人の人間として見てほしい。手加減はいらない。なんでもぶつけてくれていいし、むしろそうしてほしい」
「玉、蘭……」
 ささやくように名を呼ぶ宝蘭に、玉蘭はわずかに表情を和らげる。
「……姉様がいつもわらわの知らないところで立ち回っていたこと、本当は全部知ってた。けど、わらわはそんなこと望んでない。恋敵とは正々堂々戦えるし、幸せだって自分の手で掴みたいわ」
「……わらわのしたことは、全部余計なことだったのね」
「でも」
 玉蘭は姉の傍らに膝をついた。自分よりも遥かになよやかな肩をぎゅっと抱きしめてやり、自らと同じ色の紅い髪を指先で梳く。
「……でもね、姉様。わらわはそれでも姉様が大好き。いくら喧嘩したって、どんなにすれ違ったって、姉様はわらわの大事な姉様だもの……」
 宝蘭は泣き笑いの表情で、玉蘭の胸に顔を埋めた。
「ずるい……。ずるいわ、宝蘭。今そんなことを言われたら、怒れなくなってしまうじゃない……」
「怒ればいいわ。大体、姉様は心の中に色々溜め込みすぎなのよ」
 二人はそのままゆっくりと抱きしめ合う。
 未だ興奮で滾る鼓動をなだめるように、玉蘭はしばしそうして姉と身体を添わせていた。
 すると。
「……そなたら。どうやら決着が着いたようじゃの」
 低く艶のある独特の女の声に、二人はぱっと顔を上げる。
「母様!」
 琅玕公や宦官を伴って二人の前に姿を現した芙蓉は、扇の陰で懐かしそうに瞳を細める。
「ほほ、桃花とうかと戦った時のことを思い出すのう。あの時は互いに手加減などしなかったが」
 桃花は芙蓉の姉で、玉蘭たちにとっては伯母に当たる女性だ。今は夫を持ち、宮廷を離れて暮らしている。
 芙蓉は未だぼうっとしたままの二人を交互に見つめて呵々と笑った。
「なんじゃなんじゃ。血を分けた姉妹に剣を向けるのは嫌だと抜かしておったが、二人とも大した健闘ぶりではないか。髷も衣も……ほれ、そのように崩れきって」
「……!」
 二人ははっとして結い髪に手を伸ばす。
 髪も衣服もこれ以上ないほど崩れている。髷はほつれているし、衣は所々裂けて中の素肌がのぞいてしまっている。
 女官の差し出す手鏡を受け取ると、二人は慌てて身なりを整えた。いくら母親とはいえ、芙蓉はこの国の主なのだ。
「よいよい。そなたらの戦うところを見られて、わらわはすでに感無量じゃ。あれほど姉妹で戦うのは嫌だと主張しておったそなたたちがのう。姉妹喧嘩にしては少々派手じゃが、二人ともようやったのう」
 芙蓉はそこでやおら居住まいを正した。
「……して、勝敗は決まったのかえ?」
 彼女は不思議そうに愛娘たちを見やり、次いで沈黙を守っている周囲の臣下たちに目をやる。
 そして不機嫌そうに紅い唇を捻じ曲げた。
「なんじゃなんじゃ。まさかとは思うが、そなたらは公主二人のうちどちらが勝ったか見ていなかったのかえ?」
 またしても沈黙が下り、芙蓉はとうとう肩をすくめる。
「全く……。これは笑止じゃ。では二人に訊ねる。勝ったのはどちらじゃ?」
 二人はおずおずと唇を開いた。
「勝ったのは……」
「……玉蘭ですわ」
 宝蘭がぼそりと告げると、芙蓉は自慢げな様子で笑う。
「ほほ、やはりそうか。そなたの太刀筋は香緋のそれをそっくりそのまま踏襲しておるし、何より踏み込むときの姿勢が潔い。身のこなしも素早く、自分の懐に相手を潜り込ませない俊敏さがある」
 芙蓉はそこで衣の裾が汚れるのもかまわずしゃがみこんだ。
 意気消沈している宝蘭の顔を覗き込み、いたわるように言う。
「それに比べれば、宝蘭の太刀さばきはまだ少々未熟なようじゃな。そちは守りは完璧じゃが攻めの姿勢が甘い。剣のふるい方も、攻撃のためのものにしては優しすぎる」
「優し、すぎる……」
「うむ。玉蘭と戦ってみてわかったはずじゃ。そなたの姿勢はそもそも戦うためのものではない。どちらかといえば守るためのものじゃ。そなたは攻めに転じることもなく、ただひたすら刀身を受けて守りに徹しておるだけじゃったな。しかし、それでは一向に勝ちは取れぬ。そなたの戦い方では、勇猛果敢な妹を凌ぐことなど不可能じゃ」
「ですが、わらわは――!」
 反論しかけた宝蘭の唇を、芙蓉はそっと指先で塞いだ。
「じゃが……宝蘭。そなたのその慈しみ深さも、立派な強さであるとわらわは思う。他者を蹴落とすばかりが君主の才能ではない。玉蘭はその感情が判断力を鈍らせると言うたが、わらわはそうとも限らないのではないかと思うのじゃ」
「え……?」
「人を思いやる気持ち。相手の意思を汲もうとする優しさ。それもまた君主にとって大切な要素の一つじゃ。いかな名君であっても中身が伴わなければ虚ろであろう。たとえ的確な統治ができたとして、そこに心がなければ木偶でくも同じよ。わらわが民なら、そんな王に好んでついてゆこうとは思わぬ」
 翠玉の瞳を潤ませる宝蘭に、芙蓉はゆっくりと告げた。
「そなたは優しい。他者を傷つけぬよう、いかなるときも慎重にふるまっておる。そこがまた勤勉なそなたから人間味や温かさといったものをうまい具合に引き出しておるのじゃろうな。それを思えば、そなたもまた君主にふさわしい才覚の持ち主じゃろう」
「いいえ、母様……。だって、わらわは負けてしまいました。母様の期待にお応えできなかったこと、お詫びいたします」
 宝蘭は襦裙の裾を握りしめてうつむいた。
「……わらわは、本当は全部どうでもよかったのです。一国の主になど、なりたくはなかった」
「それはまたなぜじゃ」
「わらわは、妹が……玉蘭が楽しそうにしていてくれれば、それでよかった。妹と争ってまで女王になりたくなどなかったのです。そして、それと同じくらいこの城を出てゆくのも嫌でした。だって、わらわがここを離れてしまったら玉蘭のことは一体誰が守ってくれるの? わらわの後に宮廷入りした入り婿とやらが、本当に玉蘭を守ってくれるでしょうか。この子は自分で思っている以上に自分のことに無頓着ですわ。相手を愛することはしても自分を顧みることはしない。そんな子なんですもの……!」
 玉蘭はその言い分にまたしてもはあ、とため息をつく。
「姉様。そういうところが嫌がられてるんだっていい加減気づいてちょうだい」
「わかってる……! だけど、わらわにとって貴女は誰よりもかけがえのない人なの。たとえ貴女が香緋を好きだとしても、かまわない。わらわは貴女が大切よ。血を分けた貴女が、誰よりも」
 芙蓉は立ち上がり、先ほどよりもやや冷淡な面持ちで宝蘭を見下ろした。
「とはいえ、女王にならぬというのであればここに留まることなど不可能じゃ。それはわかっているのであろう?」
「はい、母様……」
 臣籍降嫁によって跡目争いから離脱したという意思表示をすること。それもまた劉の女王家に生まれた娘の使命である。
 こうして勝敗がついてしまった今、敗北者である宝蘭にはもう宮廷を出ていくという選択肢しか残されていない。
 一人は新たな女王として。
 そしてもう一人は長公主として。
 今後、姉妹二人は全く別の人生を歩むことになるのである。
「敗北した公主は臣下の男のもとへ嫁すのが慣例じゃ。しかし、そちは随分妹公主に入れ込んでおるようじゃな」
「……」
 沈黙を貫く宝蘭に、芙蓉はふ、と息をつく。
「あいわかった。そちがこの宮廷に留まることを特別に許そう」
「な……!」
「母様!?」
「ただし慣例通り夫は持ってもらう。玉蘭が立派に独り立ちできるまで、そちはこれまで通りこの城で夫とともに暮らすがよい。なれど、夫を持った時点で自分はもう王室の人間ではないと心得よ」
「……!」
 それはある意味残酷な提案でもあった。
 宝蘭にとって、そして入り婿となる男にとっても。
 それをわかっていて芙蓉はこんな提案をしているのだ……。
「玉蘭のためだけに『わらわは結婚をしない』などと言われても面倒じゃからの」
「……はい、わかりました」
 うなだれる宝蘭をよそに、芙蓉は先ほどよりもやや厳しい声音で玉蘭を呼ぶ。
「玉蘭」
「は……はい!」
「そちにはまだ教えておかねばならないことが山ほどある。これからはこの母がみっちり講義をしてくれようぞ。むろん、一対一でな」
「ううっ……!」
 玉蘭が呻くと、芙蓉は楽しげに笑った。
「はは! 次代の女王ともあろう者が、これはまた随分と弱気じゃな。母手ずからビシバシしごいてやるゆえ、引き続き心してかかるがよい。もしわらわの講義から逃げ出したりしたら……わかっておるな?」
「はいぃ……」
 ああ、相変わらず母様は鬼だ……。
 そう感じながら、玉蘭ははああ……、と盛大なため息をついた。
 
***
 
 ――次期女王の選出、決定から数日後。
 宮廷では早くも“継承の儀”が執り行われる運びとなった。
 臣下たちは人づてに聞いた玉蘭の健闘ぶりを褒め称え、「玉蘭様ならばお母上に似たよい政をなさるだろう」と噂した。
「全く。なんなのよ。わらわと母様は全く別の人間だっていうのに」
「まあまあ。母様と貴女がそっくりだからついそんなことを言いたくなってしまうのでしょう。気持ちはわかるわ」
 お付きの者たちによって立派な紅い輿に乗せられた二人は、そのまま王都郊外にある祭儀のやしろまで連れていかれた。
 隣の輿には女王夫妻と女官が同乗しており、時々楽しそうに声をかけてよこす。
 二台の輿の周囲は武官が固めており、背後からは真紅の傘を広げた女官や楽器を抱えた宮廷楽師、芙蓉に重用されている官吏たちがぞろぞろと列をなしてついてくる。
「随分と大掛かりなのね」
「当然じゃ。なんといっても新女王の即位なのじゃ、これくらいぱあっと派手に祝わずしてどうする」
「母様の時もこうだったの?」
「むろん。乳母めのとや女官がおいおい大泣きして大変じゃった」
「そ、それはまたなんというか……」
 やがて御輿の列は勾配のきつい山道に差し掛かる。
 輿が山道をゆっくり上り始めた頃、護衛官として輿の前方についていた彩月が揶揄するように言った。
「はー。まさか玉蘭サンが次期女王になるたぁ、世の中っつうもんはわからねえなァ」
「ほう。その口ぶりではまるで宝蘭の方が女王に向いていると言わんばかりじゃな、彩月」
「いやー、だってそうでしょう、芙蓉様。普通こんなじゃじゃ馬が女王になるとか思わないですよ。行き当たりばったりだし、何かにつけてすぐキレるし」
 芙蓉は楽しそうにぱんと両手を打ち合わせる。
「ほほ! 確かに確かに。それは言い得て妙じゃのう。確かにわが娘はじゃじゃ馬で考えなし、おまけにびっくりするくらい短気じゃ」
 嬉しそうに言うと、芙蓉はそこでやおら態度を改めた。
「玉蘭の時代になっても、変わらずこなたを守ってやってくりゃれ。期待しておるぞ、彩月」
「御意っす~」
 なんとも気の抜けただらしのない口ぶりだが、玉蘭だけは知っていた。
 彩月のこの「御意」が正真正銘の「御意」であるということを。
「いやー、それにしてもビビるよなァ。そう思わねェ? だって俺におしめを換えてもらってたあの姫さんが女王サマだぜェ?」
 そんなことを言って隣の武官に絡む彩月に、玉蘭はぴしゃりと言った。
「ちょっと彩月ッ!! そこまで古い知り合いでもないくせに、勝手なことを言わないでちょうだい!! っていうか、換えてもらってないわよ、そんなものっ!!」
「おーおー、またヒス起こしてやんの。おっかねえ女王陛下だぜェ」
「こンの……っ」
 普段と何ら変わらぬ主従二人のやり取りに、輿の周囲でたちまち朗らかな笑い声が弾けた。
 
 やがて一行は輿に乗せられたまま山の中腹にある朱塗りの櫓へ連れていかれた。
「わあ……!」
 寄棟造の立派な櫓はどこもかしこもくっきりと濃い真紅に塗られており、内部には柱廊があった。
 背後には巨大な滝が流れており、ちょうど櫓の最深部から一望できるようになっている。
 瀑布の裏側には小さな洞窟のようなものが確認できた。そこだけぽっかりと暗闇があぎとを開けているさまがどことなく神秘的だ。
「ここは……」
「ここは“龍穴りゅうけつ”という神域じゃ。伝説によれば、この奥に我らが祖先である水の神が眠っておられるという。そちにはここで儀式を受けてもらう」
「何をすればいいの?」
「何、どうということはない。単なる祭儀の一種よ。そちはただそこに立って巫女たちの踊りと祝福を受ける。そして、そののちはわらわより宝冠を授かる。どうじゃ、簡単であろ?」
「何よ、儀式なんていうから、どれだけ大掛かりなものなのかと……」
 玉蘭が唇を尖らせると、芙蓉はほほ、と笑った。策略家めいた、どこか老獪な笑みだ。
「むしろこの後が難儀じゃな。今日の継承の儀など、ただの前置きのようなもの。何せ女王となる者が決まったのじゃ、忙しくなるのはこれからじゃぞ」
「わかっているわ、母様」
 玉蘭たちはそのまま櫓の上へと案内された。
 柱廊を進み、二人は母女王に導かれるまま櫓の奥へ足を踏み入れる。
 一等見晴らしのいい場所に、金の豪奢な座椅子が設けてある。
 彼女は母女王と並んでそこに腰を下ろした。
 するとそこへ真紅の衣を翻しながら八人の巫女たちが現れる。手には丈長の錫杖を持ち、衣の裾から伸びるすんなりと形のよいつま先は白い足袋で覆われていた。
 どの娘もびっくりするほど肌の色が白い。そして人間味を一切感じさせない不思議な無機質さを有している。
 目の覚めるような真紅の装束を纏った巫女たちは、そのまま玉蘭の前で舞を披露し始めた。
 携えた錫杖をひらめかせ、足首につけた大ぶりの鈴を鳴らして軽やかに舞う。
 腹の底に轟くような太鼓の音。それに合わせてさえずるのは横笛や笙で、合間につま弾かれる琵琶や琴の音色が舞曲に彩りを添える。
 目の前で繰り広げられる流麗な舞楽に、玉蘭は目を輝かせた。
「すごい……」
 母女王の言いつけに従い、玉蘭は臣下の差し出す小ぶりの盃を受け取った。
 真紅の盃に酒を受け、芙蓉に促されるまま口に含む。
 透き通った酒はぴりりと辛く、舌の上で転がすだけで顔をしかめてしまいそうになる。
 玉蘭は含んだ酒をそのままこくりと干した。
 こうした祭儀の席で盃を干すのは、竜神の水の加護をその身に受けるのと同義だとされている。
 玉蘭は双肩にのしかかる重責を思い出し、そこでぎゅっと両目をつぶった。
(……どうか、わらわの御代がよいものとなりますように)
 すると、背後を流れ落ちる滝の音がそこで心なしかごう、と勢いづいた気がした。
(わらわの即位を、喜んでくれてるのかしら)
 玉蘭は神妙な気持ちで滝の水音に耳を傾ける。彼女は時折臣下たちからの酒杯を受けながら、妙齢の巫女たちの崇高かつ艶麗な舞をことごとく堪能した。
 やがて舞を終えた巫女たちが声を揃えて告げる。
「我らが主に、竜神様のご加護があらんことを」
 慎ましく瞳を伏せ、巫女たちはしずしずと下がってゆく。
 そこでいよいよ芙蓉が立ち上がった。
「……これより、継承の儀を執り行う」
 思わずごくりと喉を鳴らす。
 芙蓉は紅い唇で微笑み、立ち上がった玉蘭と視線を合わせた。
「わが娘、神玉蘭。次なる劉の担い手として、わが宝冠を受けよ」
「はい、女王陛下」
 跪いて頭を垂れると、芙蓉が金の宝冠をそっと乗せた。
 そのずしりとした重量に、玉蘭はなんともいえない気持ちになる。
 大粒の紅玉に翡翠、宝冠の周囲にまるで簾のごとく垂れ下がる黄金の珠飾り……。
 歴代の為政者たちが戴いてきた黄金の冠は得も言われぬ重さを有しており、その不思議な重みたるやつい腰が引けてしまうほどだった。
 この重みが君主としての重みなのだ。
 そして一度宝冠を戴いた玉蘭に、もう後戻りは許されない。ならば、この運命さだめに身を任せて進むだけだ。
 玉蘭はそこで一瞬、香緋との日々を反芻する。
(香緋。貴女といられた毎日、とても楽しかった。貴女からもらった強さ、あなたが味わわせてくれた日々。全部忘れないわ)
「……劉国第二公主、神玉蘭。そなたを次代の女王として擁立する。新たな劉の女王としてわが国を継承せよ」
「はい」
「そなたに我らが竜神の加護があらんことを」
 玉蘭は緋色の衣装を払ってさらに深々と平伏した。
 
 ――その時。
「きゃああああっ!?」
「姉様っ!?」
 玉蘭たちの真下で、大地が低い音を立てて唸り声を上げた。
 櫓が滑稽なほどぐらぐらと揺れ、控えていた巫女や官吏たちが小さく叫んで逃げ惑う。
「なに、これっ……!?」
 玉蘭はとっさに椅子の背にしがみついた。
 反射的に宝蘭の手を手繰り寄せて握りしめる。
「二人とも伏せるんだ!!」
 琅玕公にぐいと背を押され、玉蘭たちは慌てて身を屈める。 
「なんなの、これは……どうなってるの!?」
「おかしい……。ここ数年かように大きな地震は起こっていなかったはずじゃ。まして、この龍穴で天災が起こったなどという話も聞いたことがない」
 芙蓉の言葉に、琅玕公は苦々しい顔つきのままでうなずく。
「それはそうだよ。だってここは気の集中している“砦”だ。ここがこうも派手に揺れるなんてめったにないことのはずだ」
「……じゃが、先だって魔導士たちから妙な報告があったじゃろう。南の“砦”で竜巻が起こったと」
「ああ……、風の気が集まっているところだろう? 確かにあったね、そんなことも」
「あの時は話半分にしか聞いておらなんだが……こうして実際に目の当たりにすれば納得じゃな。何かがわが国に忍び寄ってきているのは確かなようじゃ」
 そこで玉蘭は切れ長の瞳をすいと細める。
「……一体何が起こっているっていうの」
 どうか何事も起こらないでほしい。
 そう願いながら、玉蘭は奇怪な天変地異に身を震わせたのだった。
 

 

 
 
 
 

 

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