アイリスは、喘鳴を漏らしながらも夫に向かって唇を開いた。
「……エヴラール様、早くここを離れましょう」
「な……、アイリス、何を……」
「このままでは、わたくしたちの国は――スフェーンは、落下してしまいます。わたくしの内側にあった風の神による術式は、あの男にとってすべて解かれました。どうかお許しください……!」
エヴラールは目を剥いた。
「アイリス!? 何を馬鹿な――」
「……無駄だ、エヴラール。術が破られたことによって、その娘の命は風前の灯火になっている」
ゴーチェはにやにやと笑いながら、うずくまる二人を見下ろした。
「まだ気づかぬのか? その娘はお前を守るために自分の命を捧げたのだ」
とうとう知られてしまったと、アイリスは息も絶え絶えになりながら唇を噛みしめる。
「どういうことです……!? アイリスが、私のために……!?」
観念したアイリスは、途切れ途切れに言葉を紡ぎ出した。
「……申し訳、ございません。イスファート様にお願いして、わたくしの命と国の守護の力を繋げる術式を使っていたのです」
「どういう、ことなのです……!?」
「防護壁の力を強化するには、一つずつ段階を踏んで術者の魔力を注いでゆく必要があります。ですが、地族の侵攻が一向に止まないという話を聞いて、わたくしは焦ってしまった。そこでイスファート様にお願いしたのです」
契約の主である風神イスファートにアイリスが願ったこと。
それはスフェーンが本来持つ浮遊と防御の力を自らの命で強化するというものだった。
アイリスは天族の地が侵食されてゆくのを黙って見ていることができなかった。
侵攻が止まないのはひとえに自分の力が弱いせいだと思っていたし、これ以上天族と地族が争い合うのを見ているのは耐えられなかった。
だから自分の命を差し出したのだ。
国をさらに上空へと浮上させ、地族たちの蛮行から民や領土を守る。
国の防護壁を自らの命、そして持てるすべての魔力で強化し、決して破られることのない砦を作る。
それがアイリスの策だった。
「ですが……予想外、でした。まさか、あなたの御父上が地族と通じていたなんて……!」
歯を食いしばり、アイリスは悔しさとやりきれなさに耐える。
まさか内通者が内側から国を揺るがしていたとは露ほども知らなかった。否、気づけなかった。
道理で防護壁の強化が役に立たなかったわけだ。
だが――
「では……先ほどあの術者が破壊したのは」
「そうです。あれはわたくしの守りの力……。スフェーンの浮遊力や防護壁と通じている魔力の環です。彼はすべての術式を力ずくで破った。その衝撃が、今わたくしの身体にはね返ってきているのです」
アイリスが用いていたのは、自らの命とスフェーンの守護の力を魔力で繋げる特殊な術式だ。術を施した時点で術者と国は一心同体となり、術式の環がすべて破壊されれば双方の命がいっぺんに奪われる。
つまり、術式が破られればスフェーンの強固な守護の力は失われる――浮遊と防御の力を失い、地上へ向かって落ちてゆく。
「エヴラール様、申し訳ございません……!! あなたの国は、これから地上に――」
「喋ってはいけません! どうにかして私たちだけでも生き延びなくては」
「ですが、民たちが……!」
「貴女の命には代えられません!!」
その時、大陸が地中深くからぐらぐらと揺れ始め、港の管制塔が音を立てて崩れた。
停止している飛行戦艦めがけて倒れてきたそれは、道を塞ぐようにアイリスたちの前に立ちはだかる。
管制塔の向こう側に取り残されている友に向かって、アイリスは必死で腕を伸ばした。
「リナリアッ!!」
「イジーク!! 戦艦に皆を誘導してください!! 残っている人間たちを一人でも多く国の外へ避難させるのです!!」
エヴラールの言葉にイジークはうなずき、足元にうずくまっているリナリアの手を引く。
「あっ……!?」
「陛下のご命令だ!! ここを離れるぞ、リナリア」
「そんな、嫌!! だって、アイリスが――」
「俺の言うことを聞け!! 今は私情に流されている場合じゃないだろうが!!」
イジークの罵声が轟いたのと港が崩れるのとはほぼ同時だった。
びきびきと床に走った亀裂、ごうと音を立てて崩壊してゆく足場に、反射的にアイリスはエヴラールをその胸にかき抱いた。
「アイリス……ッ!?」
「あなただけは……死なせない……!」
しっかりとエヴラールの身体を抱きしめたまま、最後の魔力を振り絞って風の術式を展開させる。
アイリスの背から広がった魔力の波動は二人を音もなく包み込んだ。
落下の衝撃を和らげるための浮遊の術式を、アイリスはなけなしの力でなんとか維持し続ける。
気を抜けば正気を失ってしまいそうな状況に怯えながら、彼女は落下の恐怖にただ歯を食いしばっていた。
アイリスの涙のしずくに混じって、瓦礫やかつて建物であったものの残骸が真っ逆さまに墜落していく。
停止していた戦艦や、ゴーチェの纏う鮮烈な深紅のマント、小銃を抱えたまま逃げ出そうとしていた騎士たち。
……落ちてゆく。何もかもが。
七大陸は空中でその形を失い、ただの土塊となって地上へ降り注ぐ。
豪華絢爛だった数々の建造物は大陸の崩落によってばらばらに砕け散り、崩落の事実など知りもしない天族の民たちは、声にならない悲鳴を上げながら大地めがけて逆しまに落ちてゆく。
いかな天族の民であろうとも不死身ではない。
彼らは天上で生きる術を与えられた特殊な種族だが、こうして七大陸の守護の力も失われた今、彼らはただただ無力だった。
(ごめんなさい……、ごめんなさい……!)
アイリスは身の毛もよだつような落下感に襲われながら、すうっと一筋の涙を流した。
天空神の怒りのごとき雷鳴が、陥没した地の国に容赦なく降り注ぐ。
かつて帝国であったものの残骸は、木々という木々をなぎ倒し、地上の都に半ば食い込む形で地の国の領土へと沈み込んでいた。
灰色の空の下、アイリスはゆっくりと目を開けた。
頬の辺りにぽつりと当たったのは、雨だろうか。それとも誰かの涙だろうか……。
大地に投げ出されたままの手を動かし、アイリスは無意識に伴侶のぬくもりを探した。
と、そこでぬるりとしたものに指先が触れる。
その正体を確かめて、アイリスはひっと息を呑んだ。
アイリスの周囲には無数の亡骸がうず高く積み上がっていた。
今や辺りに残っているのは翼や羽根を背に持つ有翼人、そして戦艦や飛行艇に乗って逃げてきた一部の者たちだけだ。
ほとんどの民は地上へと至るまでの間に絶命していた。
(わたくしは一体、なんてことを――)
自分はエヴラールが慈しんでいた民たちの命を殺してしまった。
余計な策を巡らせて、帝国の輝かしい未来を奪ってしまった……。
アイリスはそこで余力を振り絞って頭を持ち上げ、周囲に広がる無数の屍を見つめた。
(わたくしは、こんなにも多くの人を殺してしまった)
絶望に打ちひしがれると同時に、ゴーチェによって散々痛めつけられた身体が最後の生気をなくす。
今のアイリスにはもう泣いて民たちの死を悼む力さえ残っていなかった。
「ん……!」
傍らで身じろいだのはエヴラールだった。
アイリスは彼が息をしているのに気づいて全身からふっと力を抜いた。
……これでいい。エヴラールさえ生きていてくれれば、それで。
「う……っ!」
エヴラールはよろめきながらもおもむろに起き上がった。恐らく背を強打したのだろう、痛みに顔をしかめている。
だが、次の瞬間、息も絶え絶えになっているアイリスの姿を視界に捉え、悲痛な叫び声を上げた。
「アイリス!! アイリス……!!」
虫の息の妻を抱き起こすと、エヴラールは力いっぱいその身体を揺さぶった。
あたかも「死」という眠りからアイリスを遠ざけようとしているかのように。
「アイリス!! 嫌です……、アイリス!!」
「……エヴ、ラール、さま……。ごめんなさい……、わたくしは、もう……」
「嫌です……、私を……私を置いて行かないでください!!」
アイリスはすっかり青ざめた手をエヴラールの頬にそっと伸ばした。滴り落ちる涙のしずくを、ぬぐおうとした。
しかし、その指先は震えるばかりで一向に動かない。
(……ああ、わたくしは本当に駄目な妃ね)
エヴラールをなんとかして慰めてやりたいのに、先ほど目に飛び込んできた光景、そして自身を貫く激しい衝撃のせいで指先すらまともに動かせない。
最期に一度、触れたかった。そのぬくもりを、確かめたかった。
なのに、もう――
「……おゆるし、ください……。わたくしは、またあなたを……、ひとりにしてしまいます」
「お願いだ……!! そう思うのなら、生きてください!! 私は、もう一人になどなりたくないのです!! 貴女がいなければ、私は……!!」
「わたくしが死ぬことで、あなたがご自分を責めることのないように、願っています。どうか、あなたは、生きてください。女神さまは……、ヴァーテル、様は……、すべてを……ご覧になっていますわ」
自らの胸が苦しそうに上下するのを、アイリスは半ば他人事のように眺めた。
……愛する国のために、そして愛する皇帝のために、アイリスはすべてを「捧げた」。
愛情も、力も。……その命さえも。
だが、それすらも惜しくないほど、アイリスは夫を――エヴラールを愛していた。
彼を支え、力になってやることこそがアイリスの喜びであり生きる意味だった。
けれど、もうそれは叶わない。
アイリスの命は、ここで終わる。もう二度とエヴラールを励ましてやることはできない。
もう二度とあの幸福に包み込まれることはないのだ。
「エヴラール様……。あなたが悪いのではないということを、女神様はご存知、です。どうか地上で、健やかにお過ごしください。スフェーンのことも、皇帝であるということも、すべてを忘れて……。そして……わたくしのことも、お忘れください。こんな風に、あなたの御心をいたずらに傷つけることしかできない女のことなど……、一刻も早く……」
言葉を紡ぐアイリスの瞳から、静かに涙が溢れだした。
……本当は、エヴラールを忘れたくなかった。
「永遠」など叶わないものと知っていてなお、今この瞬間、二人はそれに強く焦がれている。互いを何よりも、必要としあっている。
なのに、無情にもこの命の炎は消えかかっている。二度と再燃させられないところまで尽きかけている。
アイリスは、エヴラールの腕の中で小さくしゃくり上げた。
「……お許しを……! あなたを置いて、いけません……!」
「……っ!!」
はらはらと涙をこぼすアイリスを、エヴラールは呻きながらも懸命に抱きしめた。
その弾みで、アイリスの身体が不気味にしなる。
(嫌。わたくしは、あなたを置いていけない。本当はずっとここにいたい、のに……)
エヴラールは抱擁の力を強めると、泣き濡れた顔を上げてわずかに微笑む。
「私も、死にます……。貴女のいない世界など、私は欲しくない」
もうほとんど糸の切れた人形のようになっていたアイリスは、その言葉にはっと目を見開いた。
「いけません。それだけは……!」
「なぜ……!!」
「あなたには、生きてほしいから……! っ……!」
アイリスはごほごほと咳き込む。刹那、唇からおびただしいほど大量の鮮血が流れ出た。
「……ごめんなさい。わたくしは、最期まで至らない皇妃でした……。エヴラール様、お慕いしています」
「嫌です!! アイリス……!!」
「すべて、忘れてください。あなたはもう、すべてのしがらみから解放されたのです……。今度は……、自由に……。空をゆく鳥のように……」
「アイリス……!!」
言葉になったのは、そこまでだった。
アイリスの身体は、そこでがくん、とくずおれる。
最愛の人の姿を眼裏にしっかりと焼き付け、アイリスはとうとうその瞳を閉じた。
「!! 嫌だ……、嫌だ……っ!! アイリス――!!」
エヴラールは、彼女の亡骸を抱いたまま慟哭した。
***
エヴラールは、降りしきる雨の中、ずっとその亡骸を抱きしめていた。
置いていかれてしまったという悲しみと、どうして自分に事の真相を打ち明けてはくれなかったのかという恨みが、エヴラールの脳裏に同時に押し寄せてくる。
だん、と大地を拳で殴りつけ、エヴラールは血の気を失った顔のままで吐き捨てる。
「貴女さえいれば、他の民たちなどどうでもよかったのに……」
最愛の皇妃さえいれば、そして彼女とともにあのまどろむような幸福の中に揺蕩ってさえいられれば。
エヴラールにはただそれだけでよかった。
他の誰を失っても、アイリスだけは失いたくなかった。
なのに、どうして。
「……っ、うう……!」
もう彼女は、戻ってはこない。
もう彼女が自分の傍らで微笑みかけてくれることはないのだ。
その事実が、鋭い刃となってエヴラールの身体を刺し貫く。
抱きかかえる屍は冷たく、彼女という存在の「死」を、冷酷に彼の掌に伝えてくる。
エヴラールは完全にその温かさを失ったつがいの亡骸を抱きしめて痛哭した。
「……陛下。いいえ……、皇帝エヴラール!!」
「……」
聞き慣れた声に、エヴラールはゆっくりと振り返る。
そこにいたのはリナリアだった。
飛行戦艦に乗ってなんとか逃げおおせてきたのだろう、あちこちに細かな擦り傷や切り傷を作ってはいるが、少なくとも無事だったようだ。
そのことにふっと肩の力を抜いたのも束の間、憔悴しきったエヴラールの胸倉を、彼女は容赦なく掴み上げた。そのまま平手でぴしゃりと彼の頬を打つ。
「この……ッ、裏切者!!」
「リナリア、やめろ!!」
駆け寄ってきたイジークが、なおも打擲しようとする彼女の腕を掴んだ。
「イジーク、放して!! こいつはアイリスを殺したのよ!!」
「馬鹿なことを言うのはやめるんだ!! 陛下のせいじゃないことくらい、お前もよくわかっているはずだ!! アイリス様を殺したのは陛下じゃない、先代皇帝だろうが!!」
「でも……!! アイリスが……!!」
わあっと泣き崩れるリナリアに、イジークが寄り添う。リナリアは彼の胸に顔を埋めて泣き叫んだ。
「アイリス……、アイリス……!! あたしのアイリスが……!! イジーク……!!」
「リナ、リア……、違います、私は――!」
「うるさいうるさいうるさい!! 裏切者!! あんたにもっと力があれば……あの子にすべてを押し付けたりしていなければ助けられたのよ!! あんたを信じたあたしが馬鹿だった……!! あんたに、あの子を任せたりするんじゃなかった……!!」
リナリアはイジークにしがみついたまま身も世もなく泣きわめいた。
エヴラールは何か言おうと唇を動かしたが、喉からこぼれてくるのはかすれた声だけだ。
彼は、リナリアに向けて伸ばしていた手を力なく下ろした。
そして、血が滲むほど強く手のひらをきつく握りしめた。
やがて、リナリアはイジークに連れられてエヴラールのもとを去った。
あまりに泣きわめくリナリアを、イジークはしばらくの間懸命にあやしていたが、彼女がアイリスの死をどうあっても受け入れられそうにないことを悟るや否や、すぐに彼女を連れてエヴラールのもとを離れようとした。
リナリアはイジークに半ば引きずられるような形でエヴラールと別れた。
独り取り残されたエヴラールは、アイリスの亡骸を抱きしめたまま、リナリアの激昂する姿を思い出していた。
その時彼女が投げつけた呪いの言葉も。
『アイリスを殺したのはあんたよ、皇帝エヴラール。この罪人。あたしはあんたを許さない。最後の最後までその子を守り切れなかった男のことなんか、あたしは絶対に許さない。……認めない』
そうは言いながらも、彼女はすでに地上での新しい暮らしを選び取ろうとしている。イジークとともにこの地族の国で生き永らえようとしている。
それこそアイリスに対する裏切りではないのか。華やかなりし天の都を棄てて、こんな土地で生きてゆくことを選択したお前の方こそ「許されざる人間」なのではないか。
そんな恨み言が胸の奥でわだかまる。
(……アイリスが死んだというのに、ろくに弔うこともせずに自分一人だけ新たな生を選び取るなど……。何が罪人だ、何が許さないだ。私たちの辛苦もろくに知らないくせに)
アイリスの亡骸を小高い丘の地中へ埋葬したエヴラールは、その墓標に彼女が愛していた野花を一輪添えた。
すみれの花。
踏まれれば踏まれるほどよりよい芳香を辺りに放つという、薄紫の野花。……アイリスの瞳と全く同じ色をした花だ。
本当は薔薇の花を供えたかったが、憔悴した今のエヴラールにはどうしても探し出すことができなかった。
分け入った野山でようやく見つけたのがこのすみれだった。
祈りの文言をつぶやいたのち、エヴラールはずるずると墓の上にへたり込んだ。
「……殺してやる」
すみれの茎を手にしっかりと握りしめ、エヴラールは乾いた空笑いをした。
「みんなみんな、殺してやる……!! 私のアイリスをこんな目に遭わせた者は、一人残らず葬り去ってやる……!!」
ぎりぎりと土を指で掻きながら、エヴラールはかすれた声で嗤った。
「……待っていてください、アイリス。貴女を必ず生き返らせて差し上げる。どんな手を使ってでも、貴女の命をこの世によみがえらせて差し上げます。そして今度こそ、とこしえに続く二人だけの楽園を作りましょう」
――次の世では、もうけして貴女を手放したりはしない。
その声は、静寂の充ち満ちた丘の上に重たく響き渡った。
***
――これは、悪い夢?
いいや、違う。
これは、自分の――
『バイオレッタ……』
その声に、暗闇の中にうずくまっていたバイオレッタははっと我に返った。
濃い闇の中をふわふわと漂ってくるのは、いつか『絵画の世界』で出会った少女・アイリスだ。
バイオレッタは両手で頭を抱え込むと、がくがくと身を震わせた。
無意識のうちに、頬を幾筋も涙が伝う。
「……クロード、さま……? あれは……、わたくし、は……」
『バイオレッタ……。ごめんなさい。辛くなるものを見せてしまったわね……』
傍らのアイリスの手が、泣きじゃくるバイオレッタの目元をぬぐう。
自分と同じ温かさを持つその手に、バイオレッタはまたしてもしゃくり上げる。
「そんな……。あれが、わたくしの、過去……?」
つぶやくなり、胸に様々な感情が押し寄せてくる。
溢れんばかりの喜び、束の間味わった幸福。
そして絶命した瞬間の痛みや苦しみ、自らを責め苛む圧倒的な虚無感まで……。
『ここは現在と過去との間にある時空の狭間。貴女の精神が逃げ場を求めて入り込んだ、一つのシェルターのようなもの……。覚えている? バイオレッタ。貴女がついさっきまでどこにいたのか。何をされそうになったのか』
「そう、だったわ……、わたくしはあの時、クロード様に無理やり手籠めにされそうになって……」
しかし、バイオレッタの心は今までとは全く違う感情で沸き立っていた。
(……この過去の回想がすべて事実なら、あの人は)
そして、このアイリスという少女は……。
『そう……、思い出したのね』
アイリスは寂しそうに微笑んでこちらに漂ってくる。
バイオレッタはその腕に取りすがった。
「……じゃあ、あの人は……。クロード、様は」
『ええ。貴女の想像通りよ。邪神ジンと禁断の契約を結び、不老不死の肉体を得た皇帝エヴラールの、現在の姿……』
「邪神、ジン……」
バイオレッタはその邪神の名を耳にして思わず震えた。
火の邪神ジン。業火より生まれ出でし殺戮の女神。
まさかクロードがそんなものに魅入られていたなんて――。
そして、アイリスの話が本当なら、彼は千年もの間生き続けていたことになる。
この世にそんな奇跡があるのかと、バイオレッタは一瞬深い混乱に陥った。
『落下した帝国スフェーンは地上の大陸と融合し、その一部となって地上で繁栄を続けた。貴女のいる大国スフェーンは、元をたどれば天族の末裔たちが興した国なの』
「そう、なのですか……?」
その言葉が真実なら、スフェーン帝国は細々とその名を継承しながら千年もの間地上で栄えてきたことになる。
落下した天族の民たちが興した国。
その一言に重みを感じると同時に、得も言われぬ郷愁のようなものを覚えた。
『帝都カリナンは、落下の衝撃によって二つに分かたれた。一つは大国スフェーンに、そしてもう一つは神聖王国オルレーアに。もともと一つだった帝都は、全く異なる二つの国として栄えていくことになった』
「……では、まさかオルレーアに神官や魔導士が多いのは」
『そう。天族の民の血を最も濃く受け継いでいるからよ』
いつかクララが話してくれた神聖王国オルレーアの話を、バイオレッタは思い出していた。
『不思議な伝統と文化が根付く国で、古代より魔導士や神官を多く大陸に送り出した土地だといいます』
クララのその言葉の意味を、バイオレッタはようやく悟った。
不思議な伝統と文化。魔力を持つものが多く生まれる土地……。
それはつまり、あの天の国の末裔たちが興した国だからなのだ。
ゆっくりとおもてを上げると、アイリスはなめらかに語りだした。
エヴラール、否、「魔導士クロード」の生のからくりを。
『あの人は、わたくしの蘇生をジンに願った。そしてジンは、彼が自分を復活させることを条件にその力を貸しているの。イスキア大陸にとっては脅威となる禍々しい力を』
「そんな! そんなことをしたら、またイスキアは神々の戦場になってしまいますわ!」
『……でも、あの人にはそうするしか手立てがなかった。あの人が再びわたくしに出逢うためには、わたくしがよみがえる時を待つ必要があったの』
アイリスは悲しげに続けた。
『彼は黒魔術に傾倒し、わたくしという伴侶を蘇生させるためにあらゆる秘法や蘇生法を学んだ。彼が邪神ジンと出会ってしまったのは、まさにそのさなかだった。彼女にそそのかされてしまったあの人は、わたくしをよみがえらせるために邪神ジンの依代となった。そして契約の代償にその肉体の時を止めることを選んだの』
言葉を継げなくなったバイオレッタの胸を、アイリスは人差し指ですっと指し示した。
『そうして彼はわたくしを探すための旅を始めたの。不老不死の代償に、様々な人間の痛みや苦しみを邪神に捧げながら。……そして、あの人が千年の時を経て再会したわたくしは、貴女だった』
「……!」
バイオレッタは、顔を覆ってまた静かに嗚咽した。
クロードは、そもそもバイオレッタのことなど見てもいないのだ。最初から伴侶であるアイリスを甦らせるのが目的だったのだから。
「では、リナリア様は……」
『そう。現在のピヴォワンヌ姫……貴女の妹姫よ。リナリアもまたずっと転生の時を待っていたわ。彼女は生まれ変わってもわたくしのそばにいたいと強く願っていた。そうしてやっと転生を果たしたとき、あの子はピヴォワンヌ姫になった』
「そんな……、では、アイリス様。貴女のお話やこの過去がすべて真実なら、クロード様ともピヴォワンヌともわたくしは深い因縁があるということなのですか!?」
アイリスはうなずく。
『因縁の鎖というのはそう容易に断ち切れるものではないわ。この世に生きるほとんどの人間は前世からの罪業を背負って生きている。人同士の繋がりもまた同じよ。今世での縁のほとんどが前世で結ばれたものなの』
アイリスは、輪郭のぼやけた指先でバイオレッタの肩にそっと触れた。
『バイオレッタ。一つだけ確かなことがあるの』
「なんですか……?」
『今のあの人は、もうわたくしに未練はないのよ。あの人の「クロード」としての心は今、すべて貴女に向けられている』
「え……」
『あの人をどう思うかは貴女の自由よ。あの人が貴女を愛したいと思っているのは事実だけれど、貴女がそれに必ずしも応えなければいけないということはないわ。こんなに酷いことばかりされて傷つかずにいられる方がおかしいもの』
「それ、は……」
言いよどむと、アイリスはふわりと微笑んだ。
『大丈夫。貴女のことはちゃんとわたくしが守ってあげる。だから、どうかすべて貴女の心のままに。貴女は確かにわたくしと同一の人間だけれど、千年前のわたくしの感情に貴女が無理に従う必要はないのよ』
「わかっています……。わかっているわ……、だけど……」
アイリスの言う通り、まだこの世に残る彼女の思念に引きずられてしまっただけなのかもしれない。
けれど、自分はまだ――
その時、空間にぴしりと細かな亀裂が走った。
空間を満たす暗闇の隙間から、わずかに純白の光が射しこみ始める。
『いけない……、シェルターが消滅するわ。貴女はもう、目覚めなくては――』
アイリスはこちらへ向けて手を伸ばすと、実体のない両手でそっとバイオレッタの手を握りしめた。
『――バイオレッタ。この先何があっても、貴女は貴女のままでいて。貴女自身の輝きを、どうか保ち続けて。それが、きっとこの惨禍を打ち破るための希望となるから……』
「アイリス様……っ」
暗闇は非情にも白々と明け始める。
バイオレッタはなすすべもなくその光の渦に呑み込まれていった。