第十四章 ふたりの女王

 
 
 国王リシャール崩御のしらせは、瞬く間に大陸中に広まった。
 残された王子王女たちは父王の弔いの儀を執り行い、そして次期女王の選出を急いだ。
 
 リシャールが守り抜いた黄金の玉座に座したのは、バイオレッタ・エオストル・フォン・スフェーン。彼の愛したエリザベスの産んだ第三王女であった。
 彼女は四人の王女の中で最も人望に篤く、政務に対する姿勢も真摯そのものだった。
 南の領地レベイユにおける統治能力、そして廷臣たちからの高い支持率を評価され、彼女は他の三人の女王候補たちと大きく差をつける形で玉座を継承する運びとなった。
 大罪を犯し、一時は宮廷を大きな混乱状態に陥れた第二王女ミュゲ、そして妹姫をそんな状況へと追い込んでしまった第一王女オルタンシアの二人を除外し、あとに残ったのは第三王女バイオレッタと第四王女ピヴォワンヌの二人だけとなっていた。
 早々に王位継承争いからの離脱を宣告した妹のピヴォワンヌに代わり、バイオレッタは自ら女王となる道を選ぶ。
 亡きリシャールの遺志を引き継ぎ、彼の残したスフェーン大国を君主として統治してゆく未来を選んだのである。
 
 ――イスキア歴三八〇九年、初春。
 バイオレッタ・エオストル・フォン・スフェーン、即位。
 齢十七の新女王の誕生である。
 
 
***
 
 即位の儀も間近に迫ろうかという早春のとある日、バイオレッタは捕虜の姫君であるアルマンディン王女クララを≪星の間≫に呼び出した。
 従者二人に付き従われながら、クララはしずしずと大広間に姿を現した。
 相も変わらず美しい少女だ、とバイオレッタはつぶさに彼女の麗姿を見つめた。
 クララは初めてオトンヌ宮の晩餐の席で顔を合わせた夜から全く変わっていなかった。
 美しく聡明で、それでいて謙虚で。
 そして一度信じた人をまっすぐに愛しぬく強さをも兼ね備えている。
 その大らかな優しさや愛情深さといったものは、もしかすると彼女の知性がもたらす産物であるのかもしれなかった。
「女王陛下に拝謁つかまつります」
「おもてをお上げなさい」
「はい」
 すっと顔を上げてサファイアブルーの瞳を晒したクララに、バイオレッタは自身も深いすみれ色の双眸でもって応えた。
「アルマンディン第一王女、クララ・リブロ・フォン・アルマンディン。貴女をスフェーン女王バイオレッタ・エオストル・フォン・スフェーンの名において、今後自由の身とします」
 バイオレッタが発言を終えるや否や、≪星の間≫がざわざわとざわめく。
 だが、この場で最も衝撃を受けていたのはやはりクララ本人だろう。彼女は跪く姿勢を取ったまま、驚愕の面持ちでバイオレッタを見上げた。
「バ、バイオレッタ様……!?」
 官僚の一人が「敬称をつけてお呼びするように」とたしなめる。
 そこで彼女は「バイオレッタ女王陛下」と発言しなおした。
「畏れながら女王陛下。わたくしは何故なにゆえ解放していただけるのでしょうか」
 バイオレッタは深く息を吸い、広間全体によく通る声で朗々と話し出した。
「まず第一に、スフェーンの情勢に変化があったこと。わたくしが即位したことによって、スフェーンの形態は大きく様変わりしています。貴女は確かにお父様の捕虜でした。薔薇後宮に囚われた、異国の姫。そして滅びた南の大国の民を鎮圧するための重要な手札でした」
 言葉の続きを待ちわびる様子のクララに向けて、バイオレッタはきっぱりと言い放った。
「ですが、わたくしはもうそうした形で貴女を利用しようとは思いません。わたくしは確かにお父様の血を引く女王ですが、お父様とは違う人間です。女王としてわたくしが貴女を捕虜の身分に落としておきたいかと言えば、それはいなですわ」
「バイオレッタ様……」
「そしてもう一つ、貴女には感謝しなければいけないことがあります。わたくしが魔導士クロードによって軟禁されていた時、貴女はわたくしを救い出すための力を第四王女ピヴォワンヌに与えましたね」
「ええ……。ですが、あれはわたくしがしたことではございません。従者たちがしたことですわ」
「いいえ、それだけでじゅうぶんです。それだけで、貴女をこの国から解放するにはじゅうぶんな理由になり得ます」
 クララとその従者たちは、謀反を起こすどころかまるで真逆の行動に出たのだ。
 あまつさえ、彼らは此度の邪神討伐における一番の功労者でもある。
 そんな彼らをこれ以上この逆境に置き続けるという考えは、バイオレッタには端からなかった。
 むしろこれからは同じ五大国の人間として互いに協力し合ってゆくのが自分たちの正しい在り方なのではないかと思っていた。
「で、では……、わたくしは――」
「クララ・リブロ・フォン・アルマンディン。本日をもって、貴女を自由の身とします。あとは貴女の好きなようになさい」
「そ、そん、な――……!」
 
 がくがくと総身を震わせるクララに、バイオレッタは同情を隠しきれなかった。
 何せ生まれてから十七年もの間故郷を離れた遠い異国の地で育ち、何かにつけて「敵国から生け捕られてきた捕虜の姫」とそしられてきたクララだ。いきなり捕虜の身分から解放されてもそれを素直に喜べないのは無理からぬことである。
 
「……クララ。貴女に一つだけ約束してほしいことがあるの」
「なんでしょう、陛下」
「協定を結びましょう。貴女とわたくしの国……、すなわち、アルマンディンとスフェーンとの間に。スフェーンがアルマンディン側に再興のための援助をする代わり、アルマンディンもこの先何があってもこのスフェーンの地を侵してはならない。そういう取り決めよ」
「それは、つまり――」
「そう。つまり、貴女がかの国の王位を継承することを認めると言っているのよ」
 再興を認めるとはすなわち、彼女が統率者として国を建て直すのを認める、ということだ。
 そして、クララが一国の女王として立つことを容認するという意味でもある。
 しかしバイオレッタとて、一度王位に就いた彼女がスフェーン側に対して反乱を起こすかもしれないということはよく理解していた。
 だからこそ、クララに手を貸して自由の身にしてやる代わりに、彼女の国の残党たちをむやみやたらにのさばらせないよう工夫しておく必要があった。
「クララ。貴女は残党たちからの支持が今なお高いそうね。労役のさなかに暴動を起こした兵士たちの中には、貴女の名を出せばおとなしく引き下がる者もいたとか」
「は、はい……、聞き及んでおります」
「つまり、貴女には今なお彼らを統率するだけの能力が備わっているということでしょう。そして貴女は正統なるアルマンディン王家の血を引く姫。自由の身になった貴女がこのままかの国の復興を目指そうとするのはごく自然な流れではなくて?」
「それは、そうですが……」
 クララはそこでちらと後方のアベルに目をやった。
 思わぬ形で転がり込んできた王位継承の話、そして和平協定の提案に、二人はしばし無言で視線を交わし合う。
 口角を上げて力強く微笑んでみせるアベルに、クララはとうとう意思を固めたようだった。
「ありがとう存じます、女王陛下。その協定、締結したいと思います」
 この時、二人は初めて二国の女王として視線をぶつけ合った。
「アルマンディン国家の再興に向けて、わがスフェーンは貴女の国に助力と支援を惜しみません。曖昧になっていた二国の領土は、内乱が起こらないよう再度境界を設けることにしましょう。貴女の国が所有していた鉱山のいくつかも、そちらの領土に返還します。それでどうかしら」
「はい。ぜひ女王陛下の御力を賜りとう存じます」
 
 スフェーンはかの戦争で「捕虜」と「鉱山」という二つの戦利品を手に入れている。
 本来であれば、スフェーン側はアルマンディンに対してもっと戦の対価を支払うべきなのだろう。
 しかし、そこは鉱山の返還という形で承諾してもらうことにした。
 戦で得た数々の鉱山をアルマンディン側に返還し、そこで得た資源を国の復興に回させれば、アルマンディンはまた以前のような活気を取り戻せるのではないかと踏んだのだ。
 最初は敵国との協定ということで反発もあるだろうが、君主であるクララが民の手綱を握っていてくれさえすれば問題はないだろう。
 そして何より、このスフェーンはもともと大国だ。
 ここで強奪した鉱山をアルマンディン側に返したとして、何らデメリットはない。
 
 そこで広間の隅に控えていたスピネルがつんと唇を尖らせる。
「あーあ、つまんないの。クララ姫が謀反を起こしちゃうっていう筋書きでも面白そうだったのにぃ」
「こら、スピネル! 不謹慎だろ……!」
 ラズワルドが小声でたしなめるが、スピネルはどこ吹く風だ。
「だってそうでしょ? ただおとなしくお城に捕まってるだけのお姫様なんてつまんないじゃない。いくら女の子だからっておとなしすぎるのは味気ないわー。こっそりお城を抜け出しちゃうくらいが可愛いのよ」
 力説するスピネルに、クララはたじろぐ。
「ま、まあ……」
 根が真面目なクララが切り返しに困惑しているのを見て取り、バイオレッタはくすりと笑みをこぼしてしまう。
 それをいいことに、スピネルはつかつかとクララに歩み寄り、尖った犬歯をのぞかせてにぱっと笑った。
「よかったわね。これで貴女は自由の身よ。どこへでも好きなところにお行きなさいな。あ、なんだったらまずは一緒に城下にでも行く? 新しいお洋服でも見繕ってあげましょうか?」
「え、ええと……!」
「やめなよ、スピネル。クララ様が困ってるじゃないか」
「もーう! ラズったらお堅いんだからぁ~」
 ラズワルドとスピネルは顔を見合わせ、緋色の絨毯を静かに踏みしめて玉座の前まで歩み出た。
「女王陛下。此度の御即位、誠におめでとうございます。心よりお慶び申し上げます」
「このイスキアに属する国家の君主として、貴女様の御代にたくさんの幸福が降り注ぎますようお祈りいたします」
「ありがとう。宗教騎士スピネル、そしてラズワルド」
 完璧な所作で祝辞を述べた二人に、バイオレッタはおっとりと笑んでみせた。
 と、そこでラズワルドの首筋に巻かれた痛々しい白の包帯が目に留まり、思わず問いかける。
「ラズワルド。怪我の具合はどう?」
「あ……、ええと……、すっかりよくなりました。とりあえず生活に支障がない程度まで回復しました。こちらの宮廷医の方々のおかげですね」
 毎晩彼の包帯を取り換える役割を担っているスピネルは、面白くなさそうにぷいとそっぽを向く。
 が、ラズワルドが熟れた林檎のように頬を赤くしているのを悟るや否や、すかさず身を乗り出した。
「あらあら、ラズぅ~? ほっぺが真っ赤になってるわよぉ? もしかしてキレーな女王陛下ににっこり微笑みかけられて興奮しちゃった?」
 紅潮した頬を脇からつんつんと指先でつつかれて、ラズワルドは傍で見ていていっそ哀れになるくらい派手にうろたえた。
「ばっ、馬鹿なことを言わないでくれ……! 僕はいつだって君一筋なんだから――って……あ……」
「まあ。≪星の間≫で愛の告白だなんて大したものね、ラズワルド。お姉さん気質なスピネルとは本当によくお似合いだわ」
 バイオレッタはそう言ってくすくすと笑った。
 
 クララは仲睦まじい二人の様子をもの言いたげな目で見つめていたが、ややあってから意を決したように口を開いた。
「……女王陛下。わたくしのお願いを、聞いていただけないでしょうか」
 バイオレッタには彼女が何を言おうとしているのかすでに察しがついていたが、あえて素知らぬふりをして発言を促す。
「アルマンディン王女クララ。言ってごらんなさい」
≪星の間≫に控える大勢の重鎮たちに、クララは一瞬だけ怯んだ様子を見せた。
 彼女の緊張がこちらにまで伝わってくるようで、バイオレッタは思わず肘掛けの上に置いた手を握りしめる。
(……どうか、負けないで。貴女の想いは誰かに咎められるようなものじゃないもの)
 居並ぶ官僚たちがひそひそとささやきを交わし合う中、クララはすっと立ち上がった。
 自らを射抜く無数の視線、不躾に投げかけられる好奇の眼差しに、彼女は四肢を震わせてわずかに後ずさる。
「あ……」
 彼女がスフェーン側の人間たちから与えられる重圧に今にも押しつぶされそうになっているのは想像に難くない。
 バイオレッタはそこで黄金きんの王笏を床に打ち付けて臣下たちを牽制した。
 若き女王の無言の威圧に、彼らは水を打ったように押し黙る。
 そこでバイオレッタは怯えるクララからその発言・・・・を引き出すべく唇を開いた。
「……いいのよ、クララ。言ってごらんなさい」
 さらに大きくざわめき出す≪星の間≫にたじろぎながらも、彼女はバイオレッタの顔をまっすぐに見つめてとうとうその思いの丈を吐露した。
「わ、わたくしは、スフェーンの第一王子アスター・ミハイル・フォン・スフェーン殿下を心よりお慕いしております……! わたくしを解放してくださるというなら、どうか、あの方も自由の身にして差し上げてくださいませ……!」
 天井の高い≪星の間≫に、クララの凛として澄んだ声が響き渡る。
 呆気にとられる官僚たちを尻目に、バイオレッタはその薔薇色の唇をわずかに持ち上げて彼女を見た。
「……そう。そんなにお兄様を愛しているの」
「はい……! わたくしはこのスフェーンに連れてこられてからというもの、ずっとあの御方との交流を心の支えとしてきました。非才の身ながら、いつかあの方をこの逆境から救って差し上げたい、自由にして差し上げたいとずっと願ってきました。ですからどうか、あの御方にもお慈悲を。わたくしだけが自由の身になるのは耐えられません……!」
 クララのその主張を受け、広間の面々は目を剥いた。
「スフェーン王子とアルマンディン王女が密会を重ねていただと!? 信じられん、まさか殿下はかの国と秘密裏に結託していたのではあるまいな!?」
「世俗を知らぬあの御方ならば、クララ姫の妄言にやすやすと振り回されてしまうのも無理からぬこと。それにしてもなんということでございましょう、よもや敵国の捕虜ごときに絆されようとは……」
 ≪星の間≫の随所で「だからあの御方は愚直だというのだ」、「我々に隠れてこの王女と何をしていたかわかったものではない」などといった罵声が飛び交う。
 バイオレッタはそこで再度王笏の先を大理石の床に打ち付けた。
「皆さん、どうか静粛に!」
 女王の鶴の一声を受けて、≪星の間≫は再度しんと静まり返る。
「わたくしは、彼女の願いを聞き入れたいと思います」
「な……、へ、陛下!?」
「皆さん、もうお忘れになりましたの? 二人はお父様の代に婚姻を約束されたれっきとした許婚同士よ。こうして二国の関係が修復されようとしている今、二人がそうした結びつきをもう一度望むのはさほどおかしなことではないでしょう?」
「それは――!」
「元はといえば、あの方はこの城に囚われて一生を終えるはずだった忌み子の王子です。異教徒たちが崇めていた邪神ジンも討伐された今、彼を解放したとして一体なんの不都合があるでしょう?」
「ですが……!」
「異論があるなら聞きますわ。我こそはと思う方からどうぞ順番にお話しになって」
「……!」
 官吏たちが呻くのを小気味よく思いながら、バイオレッタは玉座からすっと立ち上がった。そのままクララのところへ歩いていき、跪く姿勢を取っている彼女をやんわりと抱きしめる。
「……クララ。お兄様を、幸せにして差し上げてね」
「バイオレッタ、さま……」
「お兄様には貴女しかいないの。だから……今度こそ二人で、幸せになって」
 その言葉に、クララはわっと泣き崩れた。
 いつか黄昏時の蓮花園でそうしたように、バイオレッタはその想いのしずくを静かにハンカチーフに吸い取らせた。
 
***
 
 
「寒くはない? クララ」
「ええ。ショールもありますし、大丈夫ですわ」
 一通り謁見の儀を終えたバイオレッタたちは、薔薇後宮の北にある広大な人工池にやってきていた。
 人工池は冬の降雪によって水面が凍てつき、周囲の植え込みにもうっすらと霜が降りている。
 だが、きっとすぐにこの薄氷は融けるだろう。
 春はもうじきに訪れる。いつまでも冷たく凍えた季節のままというわけではないのだから。
 長大かつ重厚な造りの石橋をゆったりと踏みしめながら、バイオレッタは彼女に微笑みかける。
「懐かしいわ。初めて貴女とお茶をしたときのこと、覚えてる?」
「ええ。もちろんですわ。あの時は本当に楽しかったですわね」
「ふふ。確か、あの日初めてプリュンヌ様に引き合わせてもらったのよね。あの眺めのいい場所に座って、お菓子を食べたり、手仕事を教えて頂いたりして……」
 そう言って背後を指し示す。
 そこにはなめらかな光沢を放つ大理石のテーブルとチェアがある。
 もう一年も前のことなのに、バイオレッタには今でもまだあの頃の四人がそこに座っているような気がした。
「……女王陛下。この度は御即位おめでとうございます」
「……クララ」
「貴女様の御代に、たくさんの幸福が降り注ぎますようお祈り申し上げます」
「やめて……!」
 クララの祝辞を素早く拒み、バイオレッタは彼女の手を下からすくい上げるようにして取った。
「わたくしと貴女は二国の王族である以前に親友同士なのよ。さっきは臣下の手前あんな態度を取ってしまったけれど、どうか今までみたいに接してちょうだい。こんなことがきっかけで貴女との間に溝ができるなんて絶対にいやなの」
「……バイオレッタ様」
 クララはしばしサファイアブルーの瞳を見開いていたが、やがてバイオレッタの手に自らの手を重ねてふっと笑った。
「……ええ。わかりました。では、二人きりの時には今まで通りお名前でお呼びしますわね」
「そうしてもらえると嬉しい。……ありがとう、クララ」
 石橋の上を並んで歩きながら、二人は互いの未来について語り合った。
「バイオレッタ様は、これからこのスフェーンの君主としてまつりごとをなさるのですね」
「ええ。何せ政務なんてしたことがないのだから、難航するのは目に見えているけれどね。だけど、お父様の残してくださったこの国を、どうしても守りたいの」
 そののちに続く「かつてこの国を統治していたあの方・・・の意志も」という言葉を、バイオレッタはあえて呑み込む。
 ため息とともに白い吐息を吐き、クララはふっと微笑んだ。
「前々から思っていましたが、バイオレッタ様はとてもお強い方ですのね。この一年で本当に色々なことがあったというのに、貴女はいつも前を向いている。現実と向き合い、戦っている。心折られるような出来事があっても、いくら非道な裏切りを受けたとしても。貴女は前を向いて、戦い続ける。その強さが、わたくしには時々とても眩しく思えますわ……」
「まあ。それは褒めすぎよ、クララ。それに、貴女だってこれから女王として政をこなさなければいけなくなるのよ? そこはお互い様でしょう」
「いいえ。バイオレッタ様。貴女の真心と優しさは、何よりの武器ですわ。わたくしは、そう思います」
 二人はしばし黙したまま早春の空気を味わった。
 庭園の花々はまだほとんどがつぼみの状態だったが、水仙やヒヤシンス、パンジーやプリムラなどはもうぽつぽつと開花し始めている。
 とはいえ、辺りの空気はしんと凍えており、そこかしこに春の息吹は感じられるものの、吹きつける風はまだ刺すように冷たい。
 カシミアのショールを纏っているとはいえ、守るもののない二人の顔は瞬く間に硬く強張った。
 ややあってから、クララはおずおずと口を開く。
「……あの、わたくし、そろそろ失礼しますわ。少しずつ青玉サファイア棟を引き上げるための段取りも整えなくてはなりませんし……」
 そんな彼女を、バイオレッタはやんわりと引き留めた。
「――お願い、もう少しだけ待って。そろそろいらっしゃる頃だと思うから」
「え……?」
 
「――クララ!」
 
 呼びかけに、クララははっと瞠目した。
 そこには、息を切らせたアスターがたたずんでいた。
 後宮奥地にそびえる例の尖塔から走ってきたらしく、簡素な仕立てのジレには緑の迷路に植えられているツゲの葉っぱが無数にくっついている。
「ア、アスター様? 一体どうなさったのです……?」
「バイオレッタに……女王陛下に召し出しを受けた」
「え……?」
「尖塔まで報せが届いた。僕は、今日から自由の身になったのだと……」
 言い終わるや否や、彼はクララに腕を伸ばす。
 アスターの長い腕に包み込まれたクララは、身じろぎながらもその抱擁を受け入れた。
「……まだ、信じられないんだ。これまで軟禁状態にあったこの僕が、まさか城の外に出られる日が来るなんて思ってもみなくて……!」
「アスター様……」
 バイオレッタは自身も泣きそうになりつつも抱きしめ合う二人を見守った。
(アスターお兄様)
 あのアスターが、泣いている。
 クララをめいっぱい抱きしめながら、彼はなだらかな頬をびっしょりと涙で濡らしていた。
 涙が溢れてくるのに合わせて、堅強な両肩が上下にせわしなく揺れ動く。噛みしめた唇の隙間から、堪えきれない嗚咽がひっきりなしに漏れ聞こえる。
 平素であればありえないアスターの顔つきに、バイオレッタは胸が締め付けられそうになった。
「クララ、クララ……! ああ、夢のようだ……! まさか貴女とこうして自由になれる日が来るなんて……!」
「大丈夫……、これからは、ずっと一緒です。楽しいことも辛いことも、二人で等しく分け合いながら生きていきましょう。わたくしたちなら絶対に大丈夫ですから」
 なだめるように言い、クララは長躯を屈めて自らにしがみつくアスターの背を優しく叩いた。
 アスターはそこでようやく顔を上げ、クララのこめかみに触れるだけの口づけを落とす。
「ああ……そうだな。きっと大丈夫だろう。ここまで辛苦に耐え続けてきた僕らになら、どんなことでも乗り越えていける」
 早春の花々が祝福する中、二人はしっかりと身を寄せあった。
 淡いピンク色をした寒桜の花弁が風に乗ってひらひらと舞い踊り、固く抱きしめ合う二人の髪を彩る。
 クララはアスターのジレに鼻先を埋め、こみ上げる愛おしさを伝えるようにそっと頬を擦りつけた。
「……クララ。改めて貴女に言いたいことがある」
「まあ、なんでしょう」
 にこやかに顔を上げたクララに、アスターは一瞬唇を強く引き結ぶ。
 そして次の瞬間、彼女の腰を抱く力を一層強くしてささやいた。
「僕と、結婚してほしい」
「……は?」
 アスター決死のプロポーズは、今のクララにはどうやら容易には理解できなかったらしい。
 彼女はアスターの腕の中で口をぽかんと開けて固まっていた。
 サファイアブルーの瞳は困惑に揺れ動き、桜桃を思わせる薄紅色の唇は何かを乞うようにうっすらと開かれている。
 恋人の愛らしくも艶めいた表情に目を奪われていたアスターは、無言を貫き通す彼女に業を煮やし、震える声で叫んだ。
「だ、だから……! 僕と結婚してほしいと言ったんだ!」
「アスター、様……」
 クララはうつむき、口元に手をあてがった。
 そのまま眉根を寄せて黙り込んでしまう彼女の顔を、アスターは不安げに覗き込んだ。
「……嫌、なのか?」
「……いいえ、そういうことではなく――」
 うかがうような口調とは裏腹に、アスターの手は逃すまいとでもいうようにしっかりとクララの柳腰を捕らえていた。
 もはや後ずさることさえ許されなくなったクララは、恋人のおもてをもじもじと見上げながら弁明した。
「す、すみません、びっくりして言葉が出てこないのです。アスター様が、まさかそこまでお考えになっていたなんて……」
「か、考えたらいけないのか。僕だって人並みに夢くらいは持つ。恋情だって抱く。愛しい貴女と一緒になりたいと、これでもずっと思っていたんだ。なのに貴女ときたら――」
 腕の中でくすくすと弾けた笑い声に、アスターはしかめ面を解いてたちまち困惑顔になる。
「ど、どうしたというんだ……!?」
「いいえ……。嬉しくて……。こんな僥倖もあるのですね」
「ああ……、時代は変わったんだ。父上の遺言通り、これからは子である僕たちが担っていく時代だ。確かに未だ両国の間の確執は消えない。先代の過ちや戦によって引き起こされた数々の悲劇やその爪痕も……。だが、僕たちが変えていけばいい。もう二度とああした争いが起きないよう、精一杯努力しよう。そして証明しよう……、僕たちの国の平和と安寧を」
 抱擁を緩めてクララの手を取った彼は、そのまま互いの指先をしっかりと絡め合わせた。
「むろん、先代の犯した罪が消えることはない。死んだ人々が生き返ることもない。けれど、僕たちはもう敵国の人間同士ではなくなったんだ。僕は貴女を愛している。今も昔も、僕が未来を共に歩きたいと思う相手は貴女だけだ。クララ……、今度こそ、あの約束を果たそう」
「その求婚、お受けします。その代わり、ずっとわたくしのそばにいて、ずっとわたくしを支えてください。わたくしが笑っている時も泣いている時も……いつでも変わらない愛をわたくしに注いでください」
「ああ。これからはアルマンディン女王である貴女の剣となり盾となろう。存分に僕を使ってくれ」
 ずっと二人の成り行きを見守っていたバイオレッタは、そこで静かにこいねがう。
「お二人の結びつきは、一度関係が破綻した二国が歩み寄るための最初の架け橋となるでしょう。そして、お二人にはどうか証明してほしいのです。忌み子は悪の象徴などではないと。邪神の災いをもたらす“悪しき存在”などではけしてないのだと」
「ああ、もちろんだ」
「ええ……、わたくしたちがこの大陸における最初の証人になります……!」
 互いの身体を強く抱きしめ合い、二人は和やかに笑みを交わし合う。
「まずは貴女の国の建て直しだな。アルマンディンの王女である貴女が故郷の地を何も知らないというのはよくない。一緒に両国のさらなる繁栄と和解を目指して再建を急ごう」
「ええ!」
 そっとその様子を見守っていたバイオレッタは、二人の相変わらずの仲の良さに小さく微笑した。
 同時に、胸を襲う一抹の虚無感に悲しくなる。
(……あの方が生きてさえいらしたら、わたくしも今頃――)
 その言葉の続きを考えないよう努め、ふるりと首を振ってその思考から逃れる。
 するとその時、緑の迷路の向こうから甲高い少女の声が聞こえてきた。
「お、お姉様。いやです、プリュンヌのことも連れて行ってください!」
「プリュンヌ様!?」
 大木の陰からひょっこりと姿を現した第五王女プリュンヌの姿に、クララがうろたえる。
 プリュンヌはばつが悪そうにうつむくと、コーラルピンクのドレスのスカートをぎゅう、と握りしめて唇を震わせた。
「う……、プリュンヌは、クララお姉様とだったら遠い所へ行ってしまってもいいと思ってます。砂漠を超えたところにあるその国がお姉様のいるべきところだというなら、どうかプリュンヌのことも連れて行ってください。プリュンヌは……、プリュンヌはそれくらいお姉様のこと……」
「……!」
「プリュンヌ様。どうぞこちらに」
 バイオレッタが声をかけてやると、彼女はしおしおと石橋の方へ進み出てきた。
「……ごめんなさい、バイオレッタお姉様。いえ……女王陛下。プリュンヌ、とうとうわがままを言ってしまいました。女王陛下が困るようなことを言ってしまいました」
 バイオレッタはふるふると首を横に振る。
「いいえ。プリュンヌ様のわがままがようやく聞けて、わたくしとっても嬉しいですわ」
「お姉様……」
「もうジンの影響がなくなったとはいえ、シエロ砂漠を超えるのは並大抵のことではありません。野盗も出れば魔物も出ます。それでもクララについていけますか?」
 そう訊ねながらも、バイオレッタはこの姫が絶対に首を縦に振るであろうことを確信していた。
 プリュンヌは外の世界というものを何一つ知らない姫だ。恐らく今の彼女の中では恐怖よりも好奇心が勝っているのだろう。
 そして、外の危険性をいくら説いたところで、今の彼女には全く響かないであろうこともバイオレッタにはよくわかっていた。
 案の定、プリュンヌはぱあっと顔を輝かせ、両手のこぶしを握りしめてこくこくと何度もうなずく。
「大丈夫です! プリュンヌ、クララお姉様たちから絶対にはぐれないようにするし、いざとなったら戦います! ちゃんとお姉様たちを守るし、役に立てるように頑張ります。だから、だから……!」
 そこでバイオレッタはくすりと笑ってアスターとクララを振り仰いだ。
「……こう言っていらっしゃるけれど、どう思う?」
 二人は顔を見合わせ、肩を揺らしながら小さく笑った。
「こうも熱心にねだられてはな」
「……ええ。アルマンディンまでの道のりは確かに危険ですが、護衛の者もいれば侍女や従者もおりますし、よいのではないかしら」
 それに、とクララは続ける。
「わたくしも少しだけ、プリュンヌ様にそう言ってもらえたらって思っていましたの。このままお別れするなんて、とても寂しくて耐えられそうにないから……」
「お姉様、それじゃ……」
「ええ。一緒にアルマンディンへ行きましょう」
「わああっ……!」
 プリュンヌは三人の間をぐるぐると走り回り、両手を広げてぽすんとクララの腰に抱き着いた。
「ちょ、ちょっと……、プリュンヌ様っ!?」
「だって、嬉しいんです! お姉様たちがプリュンヌのことも連れて行ってくれるって言うから……必要としてくれるから!」
 プリュンヌは波打つ紅い髪を揺らしてクララの背に嬉しそうに頬ずりをする。
 そのあどけない笑い顔に、バイオレッタとクララは顔を見合わせて淡い笑みを浮かべた。
 
 
***
 
 その日、バイオレッタのもとにもう一組の客人がやってきた。
 アベル、そして第二王女のミュゲである。
 女王執務室に入ってきた二人は、バイオレッタが手配した数々の女性らしい調度品の数々を興味深げに眺めまわし、感嘆の吐息を漏らした。
「まあ。すっかり貴女仕様になっているわね」
「ええ。お父様が使っていらした国王執務室を、即位の儀に合わせて大幅に改築する予定なんです」
「なるほどね。では、わたくしやお姉様はここで貴女の政務の手伝いをすればいいのね」
「急な選出で申し訳ありませんが、どうかよろしくお願いします」
 ミュゲはくすっと笑うと「いいのよ」と言った。
「うーん、さすがに趣味がいいな。へー、続き部屋もこんなにあるのか。さすが王の仕事部屋だけあって贅沢だなー」
 ちゃっかり続きの間を覗き込み、アベルが言う。
 その”王の仕事部屋”でも尊大かつ自由気ままな態度を崩そうとしない彼に、バイオレッタはつい苦笑してしまった。
「あとは王配と過ごすための寝室ベッドルームが執務室の隣に一部屋追加されるとかで……」
「ふーん……」
 そう説明しながらもなんとも浮かない面持ちのバイオレッタに、アベルは小さなため息をついた。
 腕組みをしながらしばらく何事か考え込んでいたが、ややあってから彼女の肩に優しく手を置く。
「まあ、今は王配むこになる男のことなんか考えられないよな。あんなことがあった後だし」
「……」
 慰めるように大きな手のひらでぽんぽんと頭を叩かれ、バイオレッタは黙り込んだ。
「あんまり無理するなよ、バイオレッタ」
「ええ……」
「っと……。今は“女王陛下”だったな」
 おどけるように言って、アベルはミュゲを伴ってようやくソファーに腰を下ろした。
 女王付きの女官として華やかにめかし込んだサラが、客人用のティーセットで手際よくお茶をサーブしてくれる。
 温かな紅茶を堪能するなり、アベルは大きく息をついた。
「いやー、落ち着くな。ここ」
「そう、ですか……?」
 バイオレッタの問いかけに、彼はこっくりとうなずく。
「ああ。今の青玉サファイア棟にはとてもじゃないけどいられないカンジでさ。三人とも浮かれてはしゃいでもう大変だよ。俺はまだあいつのことなんざ認めてないっつーのに」
「……あら。もしかしてずっと兄君としてアスター様のことを観察していたのですか?」
「当たり前だろ。これでも俺は妹想いなんだ、いい加減なクズ男なんかにクララを渡せるか」
 紅茶の満たされたカップをくるくると回しながら、アベルはそこでふと苦い笑みを浮かべる。
「……けど、あいつが思ったより真面目な男で安心したよ。俺がいくらそそのかしても、わざと二人きりになる機会を作ってやっても……。あいつはクララの嫌がるようなことなんかただの一度もしなかった。悔しいけど、あいつが俺の代わりに兄貴の役を務めてくれてたような部分もあるんだよな」
「ええ。幼い頃はアスター様のことを兄のように慕っていたと話してくれましたわ」
「……はは。なんかやりきれねえけど……、これはこれでアリなんだろうな。それでクララが幸せなら、今の俺にどうこう言う権利はないよな」
「……」
 アベルとしては、支えるべき時期に妹を支えてやれなかったのがもどかしいのだろう。
 バイオレッタには彼のその心情がよくわかるような気がした。
 
「……それで、お話というのは?」
「ああ、そうだったな。じゃあ本題に入るとするか」
 アベルは居住まいを正すと、カップをソーサーに置き、きりりと表情を引き締めた。
「バイオレッタ。お前はミュゲのことを女王補佐官に任命したんだよな」
「ええ」
「単刀直入に言う。俺はこいつを愛してる。だから、俺はこいつをアルマンディンへ連れていきたいと思ってる」
「えっ!?」
 まさに「寝耳に水」だった。
(ええ……っ、こ、この二人ってそういう仲だったの……!?)
 だが、二人が連れ立って女王執務室にやってきたことといい、アベルが素のざっくばらんな口調で話してもミュゲがまるで動じていないことといい、ただの親密な間柄などではなさそうである。
 こほんと咳払いをし、バイオレッタはおたおたと問いかける。
「え、ええと……、よく事情が呑み込めないのですが……つまり、お二人はそういう関係にあった、と……?」
「ええ。実はね――」
 ミュゲによって二人の馴れ初め、そしてこうして仲を深めるに至った経緯を事細かに説明され、バイオレッタは驚きを隠しきれなかった。
「そう、だったのですか……。つまり、傷心のところを慰められているうちに本気で好きになってしまったと……。しかも、アベル様の方はもう七年も前からミュゲ様のことを慕っていた、ということなのですね……」
「あ、改めて説明すると少し恥ずかしいわね……」
「うわ、ひでぇ。俺ってお前にとって“恥ずかしい”認識をされるような男なのかよ」
「違……っ、そこまで言ってないわよ、馬鹿!! ただ、自分の口から解説するのが気恥ずかしいって言っただけで、別にあなたのことをどうこう言ったわけじゃ――」
 とはいえ、バイオレッタ相手に色恋の話をするのはどうにも抵抗があるようだ。ミュゲはスカートの上で両手を組んでもじもじしている。
「なるほど。おおよその事情はわかりました。それでミュゲ様を伴侶にしたいということなのですね?」
「ああ。俺はこいつを花嫁として迎えることを望んでる。だが、今の俺にはスフェーンの姫をもらい受けるだけの地位や権力がない。アルマンディンも復興の目処すら立たない状況だ」
「ええ……。まずは国の再興、そしてスフェーン側が捕らえているかの国の民を解放することが肝要でしょう。けれど、だからといってすぐに元の形態を取り戻せるとは限りません。彼らがスフェーン側に牙を剥く可能性もありますし、解放に乗じてさらなるクーデターを起こそうとするかもしれない。二国の君主たちが非常に親密な仲であるとはいえ、民の心までそれと同じように動くかどうかは全くもって未知数です」
「ああ。むしろここからが本番だ。お前やクララの政務しごとはこれからが正念場になる。宝冠を戴いたというだけで気を抜かない方がいいだろうな」
「ええ、そうですね」
 緩やかに腕を組むと、アベルはいつも通りの自信に満ちた笑みをそのおもてに浮かべた。
「俺はこれからユーグと一緒にクララの補佐と身辺警護を務めようと思ってる。あくまでアルマンディンの正統なる第一王子だということは伏せてな」
「アベル様ってなんだかんだクララ思いですわよね。こんな風に妹君に玉座を譲り渡すなんて、並大抵の王族男性にはできないことだと思います」
「別にそんなんじゃない。一度死んだ・・・人間が王位を継ぐのは真っ当じゃないと思ってるだけだ。宝冠はクララの頭上にこそふさわしい。俺はあくまで黒子でいいんだ」
 そこでアベルはここぞとばかりに身を乗り出す。
「それでだ。両国の情勢が落ち着いて、俺がクララの懐刀ふところがたなとしてその地位を盤石なものにできた時。その時、改めてこいつを花嫁として迎えに来たいと思う」
「それ、は……。わたくしはかまいませんが、お二人はそれでいいのですか? だって、アルマンディンが国として元の形態を取り戻すまでにはまだかなりの時間が必要でしょう。それに、スフェーンとアルマンディンの間には容易に行き来できないほど大きな距離がありますわ。会いたいときに会えないというのは、苦痛なのではありませんか?」
 すると、ミュゲは「いいの」と言った。
「わたくしは、アベルが好き。だけど、もちろんこの国のことだって大好きよ。だから、女王補佐官として精一杯貴女の役に立ってからこの人のところへ行こうと思う」
「わかりました。ありがとう、ミュゲ様」
「ミュゲ様だなんて。やっと打ち解けられたのだから、わたくしのことはどうかミュゲと呼んで。その方が嬉しいわ」
「ええ。わかったわ、ミュゲ」
 照れくささに、二人は茶器を挟んで小さくはにかむ。
 恥ずかしさからかつんとそっぽを向いている彼女に、バイオレッタは穏やかに微笑みかけた。
「それではミュゲ。改めてこれからもわたくしのサポートをよろしくね」
「ええ。わたくしが女王補佐官に就任したからには全力で貴女を支援するわ。改めてよろしく、バイオレッタ」
「……今日は、当てられてばっかりね」
 
 
 二人が帰った女王執務室。
 バイオレッタはガラス窓の向こうに広がる茜色の夕暮れを眺めていた。
 クララもミュゲも、恋人とともに“自分の幸せ”を選び取って生きてゆこうとしている。
 時代の流れが急速に変化する中、恋人の手を取ってともに新たな未来を歩んでいこうとしている。
 なのに今、バイオレッタの隣にだけ「彼」の姿がない。
 あんなに深く想いを通わせ合い、一時は彼との「未来」を色鮮やかに胸に思い描いていたというのに、今のバイオレッタにはその夢さえない。
「あの方が今もわたくしの隣にいてくださったなら、どんなにか――……」
 そこでバイオレッタはふるふると首を振った。
 自分にもうあの頃のような幸福は訪れないのだ。
 バイオレッタは唇を痛いくらいに噛みしめると、静寂の下りた部屋の中で一人瞳を閉ざした。
 

error: Content is protected !!
inserted by FC2 system