第五章 邂逅と初恋

 
 その日、アイリスはいつものように閨房術の講義を抜け出して後宮の庭園をさまよっていた。
 女官たちはかんかんに怒っているかもしれないが、嫌なものは嫌なのだからしょうがない。
 近衛騎士リナリアを連れて人気のない薔薇園へと忍び込んだアイリスは、あまりの美しさにきゃっきゃとはしゃいだ。
「まあっ、綺麗! どの薔薇も素敵ね……、少しだけいただいて帰ろうかしら」
「やめときなさいよ。後宮の庭ってことは、つまりは皇帝陛下のお庭じゃないの。たった一本薔薇を摘んだせいで罰を受けるようなことになったら悲劇だわ」
「あら、どうせ摘むからにはたくさん摘むわよ? 薔薇の花だってその方が嬉しいに決まってるわ」
 リナリアは「あのねえ……」と呆れたが、すぐに鋏と籠を取りに青金ラズライト棟へ急いだ。
 彼女からはさみを受け取るや否や、アイリスはぱちぱちと軽快な音を立てながら薔薇を摘み始める。
 念のため辺りを警戒しているというリナリアと別れ、アイリスは薔薇園のさらに奥へと分け入った。
「ふふ。薔薇の香料を取るために渓谷で働く娘たちって、きっとこういう心境なんじゃないかしら」
 アイリスは携えた薔薇の甘く爽やかな芳香を確かめて満面の笑みを浮かべた。
 山のようにこんもりと盛り上がった薔薇の花は今にも手の中からこぼれ落ちてしまいそうだ。
 花弁の濃淡が美しいピンクの薔薇に、透き通るような純白の薔薇。
 元気がもらえそうな黄色やオレンジ、どこか気高いオーラを纏うブルー。
 すでにその小さな手の中には収まりきらなくなった薔薇の束をなんとか握りしめ、アイリスは叫ぶ。
「リナリア? どこなの? そろそろ籠を……きゃあっ!?」
 きょろきょろとよそ見をしながら歩いていたアイリスの鼻先が、突如真っ白な何かに勢いよくぶつかる。
「きゃっ……!?」
 小さな悲鳴とともにしりもちをつく。
 アイリスの手中にあった薔薇の花が、かすかな音を立てて石畳の上に散った。
 鼻を押さえながらよろよろと顔を上げ、思わず瞠目する。
 そこにたたずんでいたのは、目の覚めるような美貌の青年だった。
 彼のその容貌に、アイリスは息を呑んだ。
 陽の光を集めて紡いだかのような見事な金の髪。美しい蒼の瞳には酷薄そうな輝き。
 純白の毛皮を贅沢に使用した装束に、揃いの色のトラウザース。
 そして、天族の皇帝のみに着用を許されたサファイアのブローチとカフスボタン。背になびくは蒼穹を表す瑠璃色の長く裾を引くマント。
 ……新皇帝、エヴラール・ルドヴィーク・フォン・スフェーンの姿がそこにあった。
 真っ白な何かだと思っていたものは、彼の皇帝装束だったようだ。
 アイリスは思わず膝をついた。ドレスが汚れるのもかまわず石畳にひれ伏す。
「申し訳ございません! 皇帝陛下がお出でになっていたとは露ほども存じませんでした。平にご容赦くださいませ」
「……拝礼は結構ですよ。どうせ私は皇帝の器ではありませんから」
 青年は長い金の髪を風に遊ばせながら、アイリスに昏い微笑みを向けた。
「残念ながら私には、女官たちの顏と名前が一致しないのです。わざとぶつかって名前を覚えてもらおうなどというおかしな期待をされていたのなら残念でしたね」
 口調こそ優しげで丁寧だが、その言葉には明らかに棘があった。
「わ、わたくしは女官では――」
「……違うのですか?」
 若き皇帝は眉根を寄せてアイリスを一瞥し、次いでさっと石畳の上の薔薇の花に目をくれた。
 皮肉げに唇を捻じ曲げて、言う。
「……は。まさか母上の薔薇園に忍び込んで花を盗み出そうとする不届き者がいるとは。大した女官だ。皇帝の処罰をも恐れないその態度、むしろ尊敬に値しますよ」
「本当に申し訳ございません……!」
 地面にこすりつけんばかりの勢いで頭を垂れ、アイリスは殊勝に恭順の意を示し続ける。
 しかし――
(嘘……、こんなに冷たくて気位の高そうな方がわたくしの夫だというの?)
 跪く姿勢を取ったまま、彼女は心の裡でそうつぶやいていた。
 ……他人をぴしゃりとはねつけるような、隙のない態度。
 どこまでも空虚で冷たい群青色の双眸、表情の乏しい白皙のおもて。
 エヴラールの姿は『七皇妃』として城に迎えられた日にも目の当たりにしていたが、いざこうして話してみると思いがけず印象が冷ややかなことに驚かされる。
 あの日はもっと如才ない態度を取っていたはずだが、今の彼はまるで別人のように冷淡だった。
「全く……。最近の女官は浮ついた女性ばかりで困ってしまいます。まさか皇帝わたしに対してこんな手管を用いるとは」
 独り言めいたエヴラールの皮肉を、アイリスは聞き逃さなかった。
 その高慢さにむっとし、立ち上がるや否や素早く反論する。
「陛下にぶつかってしまったのは単純にわたくしの不注意です。名前を覚えて頂きたくてしたことではありません。ですが、臣下の顔と名前を把握しておくのは帝冠を戴くお方として最低限の義務ではございませんか? これでは臣下が哀れです」
 すると彼はため息まじりに切り返してくる。
「単純に興味がないのですよ。ですから、覚える必要もありません。もともと皇帝になどなりたくてなったわけではないのですから」
 エヴラールは虚ろに言って、アイリスから目を逸らした。
(何なの、この男性ひと。偉そうなのか謙虚なのかわからないわ)
 身に纏う空気はどことなく儚げだった。おもてに浮かんだどこか疲れたような表情と相まって、ふとした拍子に遠いどこかへ消え去ってしまいそうな気さえする。
 柔和といえば聞こえはいいだろうが、男性としての貫禄にはやや欠ける青年だ。
 唯一貫禄めいたものがあるとすれば、それは彼の発する鋭く辛辣な言の葉だけだった。
 ……と、そこでエヴラールの顔がひどくやつれていることに気づき、アイリスは逡巡の末おずおずと言った。
「あの……、失礼ですが、毎日きちんと眠っていらっしゃいますか? 目の下にくまができているようですので。今日は天気がいいですし、政務を片づけたら午睡をなさるとよろしいですわ」
「……」
 皇帝は冷ややかにアイリスをねめつける。
「貴女は随分と口うるさい女官ですね。そんなに皇帝に取り入りたいのですか?」
 
 ぴしゃりと言われて、アイリスは口をつぐんだ。
「いいえ、その……すみません、出過ぎたことを申しました。お許しください。ところで、こんなところで陛下は一体何をなさっておいでなのですか?」
「ああ……、薔薇を眺めていたのですよ。母上の忌日だというのに、なぜこの花たちはこんなに楽しそうに咲き誇っているのだろうかと……。……本当に、恨めしくてなりません」
 刹那、アイリスは悲鳴を上げた。
 エヴラールが手にした鋏で、花園の薔薇の花を次々にいたぶったからだ。
 まだつぼみのものも、開きかけたものも、おかまいなしに。
 花びらが大ぶりの刃に挟まれてはらはらと無残に散っていく。
 エヴラールはうろのような双眸のまま、花の首を切り落とし、葉を刻み、ほころびかけたつぼみや新芽をも容赦なく痛めつけた。
 じゃきん、じゃきん……という音ともに、健気な薔薇の花たちが次々とその生命を奪われていく。
 命を命とも思わないその態度に震えが走り、アイリスは思わず声を荒げて懇願した。
「お、おやめください……! あなたは薔薇の花を一体なんだと思っていらっしゃるの!? 花にだって命があるのですよ!」
「花など、あっという間に萎れて枯れるだけのただの物にすぎないのでは? 永久にここに留まっていてくれないものになど、一体なんの意味がありましょう?」
 エヴラールは含み笑いをしたまま、大輪の薔薇の花びらを次々と切り刻んでゆく。
 まるで質の悪い子供のいたずらを見ているようで、行為の乱暴さと容赦のなさに胸が締め付けられそうになる。
 たまらなくなったアイリスはエヴラールの腕に取りすがった。
「――やめて!! どんなものにだって生まれてきた意味があるのよ、無駄なんかじゃないわ!!」
「放しなさい!!」
「いやです!!」
「……っ!」
 押し問答の末、エヴラールは荒い呼吸を繰り返したまま地面にがっくりと膝をついた。手からするりと鋏が滑り落ちる。
 そのまま石畳の上にうずくまり、彼は静かにすすり泣いた。
「……っ、うう……!!」
 彼の頬を伝った透き通る涙のしずくが、ゆっくりとタイルに吸い込まれてゆく。
 その光景に、アイリスの胸はひどく疼いた。
 そこに自らと同じ孤独の匂いを嗅ぎ取ったからだ。
 やがてエヴラールは大きな両手で顔を覆い、ぽつぽつと自らの思いを吐露し始めた。
「私は……! ……私はもう、何も失いたくないのです……! なのに、私が愛した人々は、いつも私を置いていく……。だから……だから、嫌いなのですよ……」
「どういう、ことですの?」
 アイリスはうなだれた皇帝の隣にしゃがみ込んだ。
 彼は緩やかに語りだす。
「私の母は無実の罪で処刑されたのです。不義密通を働いたと……父上の寵愛を裏切ったと。母上がそのような女性ではないことくらい、私が一番よくわかっています。なのに、私は母上を助けて差し上げることができなかった」
 エヴラールの母妃は酔った先帝の逆鱗に触れ、惨たらしく殺された。
 まだ幼かったエヴラールは、唯一の理解者があっけなく命を摘まれるのをただ震えながら見ているしかなかったという。
 しかし、先帝の暴挙はそれだけに止まらなかった。
「私の知己はみな父上に殺されました。友と慕っていた者たちはすべて……。なのに、こんな不出来な私ばかりが今ものうのうと生き延びて……! 大事な母や友を殺されたというのに、私だけがこのような……!」
 アイリスは何も言わずにただ彼の話に耳を傾ける。
 その沈黙に促されるかのように、エヴラールは激情を吐き出した。
「私はただ、父上に干渉されずに平穏な毎日を送りたかっただけなのです。それなのに、先帝の皇子は皮肉なことにこの私だけでした。このさだめを呪わずして、一体何を呪えというのですか……!!」
「陛下……」
 先帝はエヴラールのすべてに嫉妬していた。
 母妃の愛をほしいままにし、たくさんの友や従者に恵まれていた彼のことを、歪んだ形で強く憎んだ。自分とは異なる存在――そして自身の立場を脅かすものとして認識し、実の息子でありながら敵意という名の刃を向けた。
 幼いエヴラールを貶め、罵り、気まぐれに彼の持ち物や宝物を傷つけることもあったという。
 母妃や友人たちはいわばその犠牲者だった。
 残虐なのはエヴラール本人ではなく、むしろ先代皇帝であるゴーチェの方だったのだ。
「母上や友を殺されたというのに、私は父上の言いなりになるしか……即位するしかなかった。怖かったのです……、父上が。即位しなければ今度はお前を殺すと脅されて、仕方なく玉座にのぼっただけ。私はただの父上の傀儡かいらいにすぎない。みなの無念を晴らすこともせずに自分だけ生き延びるなど、どう考えても人の所業ではない。こんな私には、きっと人間の心などないのでしょう……」
 アイリスはエヴラールの肩に小さな手をそっと添えた。
「心なら、あるではないですか。皆様の死を悼むのは、心があるからでしょう? 本当に陛下がただの傀儡だというなら、そんな感情は抱かないはずです。その方々は、陛下にとってどんな存在だったのです? ただの都合のいい存在でしたか?」
「そんなことはありません……! そのように思ったことなど……!」
 エヴラールが首を振って否定したので、アイリスはにっこりした。
「それを聞いて安心しました。あなたは先代皇帝とは違います。皆様が安心できるように、陛下は立派な皇帝にならなくてはなりませんね」
 エヴラールはそこでやっと顔から手を外してアイリスを見た。
「なれるの、でしょうか……? このような、非才の身で」
「きっとおなりです。先代皇帝など比べようもないほどに、素晴らしい皇帝になられるかと。陛下は運命を呪いたいとおっしゃいましたが、わたくしは何も呪うことなどないと思います。そんなことをなさっては、あなたをこの世界に送り出してくださったお母様があまりにも可哀想です。これまでの人生や運命を呪ったりしてはいけませんわ。まして、無力な薔薇を痛めつけるなどとんでもないことです。せっかく陛下に命を与えて下さったお母様が悲しまれますわよ」
 アイリスは菖蒲色の瞳でまっすぐにエヴラールを見た。
 エヴラールは目を瞬いていたが、やがて静かな笑みを口元に刻んだ。
「そのようなことを言ってくださった女性は初めてです……。貴女は不思議な女官ですね。まるで私の行き先を指し示してくださるようだ……」
「そ、そんな。大げさですわ……!」
 アイリスの言葉に、エヴラールは静かに首を振る。
 そして引き寄せたアイリスの手をそっと握りしめながら訊ねた。
「正直貴女のような女官に出会ったのは初めてですよ。お名前をお聞きしても……?」
 アイリスは思わず苦笑してしまう。
(“女官”……)
 どうやら彼はまだアイリスのことを女官だと信じ込んでいるらしい。
 アイリスはしばし考え込んだものの、やがてひとつ息をつくと微笑んで言った。
「アイリスと申します」
 
***
 
 不思議な逢瀬は続いた。
 あるときは、王城の敷地内に造られた人工の丘の上で。
 あるときは、春の花がほころび始めたのどかな庭園で。
 エヴラールは次々とアイリスを密会に誘い出した。
 まだアイリスのことをただの女官だと信じてやまない彼は、いつも手紙を使ってアイリスを呼び出す。怪しまれぬよう臣下の名を使い、それを女官に預ける形で実にうまく逢瀬を行う。
 時には人を使うこともあった。
 最初こそ侍女らとともに怪しんだアイリスだったが、エヴラールの名前、そして相手の手のひらで輝く彼の印章指輪に、使いが間違いなくエヴラールの臣下であることを悟った。
「また例の殿方・・・・からお呼び出しですわ。今日こそうんとお美しくしなくちゃ、アイリス様が一日も早く皇帝陛下の御子を授かれるように」
 そんなことを言ってはしゃぐ侍女たちに、「誰にも喋っては駄目よ」と口止めをすると、彼女たちはぶつくさと文句を言った。
「まあ。どうしてですか? 主人が幸運にも皇帝陛下の寵愛を受けられそうだという時に、どうして大っぴらに喜んではいけないんですの?」
 アイリスは苦笑しながら「他の皇妃たちの手前、今は波風を立てたくないから黙っていてちょうだい」と何度も念押しした。
 薔薇後宮に集められた女たちは、何もアイリスのような薄ぼんやりとして野心のない女ばかりというわけではない。
 勝ち気で高飛車な皇妃もいれば、ねちねちといやみばかり言ってくる意地の悪い皇妃もいる。
 そんな中で自分一人が特別扱いされていると知られればそれこそ針のむしろだ。
 後宮入りしてまだ三月と経たないうちからそんな風に己の状況を悪くしたくはない。
 それを思えばこのままでいいのだ。
(それにしても、随分と回りくどいことをなさるわね……)
 アイリスとしては、皇帝である彼がただの逢引きに一体なぜそこまで手間をかけるのか理解できなかった。
 だが、よくよく考えてみれば彼はまだアイリスのことをどこかの宮殿に出仕しているただの女官だとしか認識していないのだ。
 だからこそ気を遣ってくれているのだろう。
 れっきとした皇妃であるアイリスとしてはもっと思い切った呼び出しをかけられても別にかまわないのだが、エヴラールにはエヴラールなりの考えというものがあるらしい。
 そこに水を差すのもどうかと思っているうちに、彼女はとうとう自分が『七皇妃』の一人であるということを告白しそびれてしまった。
 そして同様に、近衛騎士であるリナリアにも彼の正体を打ち明け損ねてしまった。
 彼女はまだアイリスの逢瀬の相手が皇帝だと気づいていない。ただの友達だとしか伝えていないのだから当然だが、どういうわけかアイリスはリナリアにエヴラールのことを話す気になれなかった。
 むろん、リナリアなら喜んでくれるのだろう。自分のことのように喜び、祝福してくれるのだろう。リナリアとはそういう少女だ。
 だが、それは彼女への裏切りのような気がした。否……正確には、彼女の抱くある感情への。
「アイリス様、お早く」
「え、ええ……!」
 アイリスの侍女たちはせかせかと女主人を飾り立てた。
 菖蒲の髪をより引き立たせてくれるローズピンクのドレスを着せ、長い髪を結ってまとめ、顔にはうっすらと化粧を施す。
 仕上げに薔薇を模した大輪の絹花を身体や髪のあちこちに飾られて、アイリスは困惑する。
「こ、これはいくらなんでもちょっと派手じゃ……」
「いいんです! 相手はあの皇帝陛下ですよ!? 御心を引き留めておくためにはこれくらいなさらないと!」
「そ、そういうものなの……?」
「ええ!」
 いやに自信たっぷりだと思ったが、せっかくの侍女たちの心配りなのだからと自らに言い聞かせ、アイリスはその格好のまま部屋を出た。
 
 
「急にお呼び立てして申し訳ありません」
「いいえ」
 エヴラールとアイリスは今、満開の桜の花の下にいた。
 ここは桜花園おうかえんと呼ばれる場所で、その名の通り桜の樹だけがみっしりと植えられた庭園である。
 アイリスは眩しい陽光にうっとりと瞳を細め、風に乱れた結い髪を手で優しく撫でつける。
 まだ風は冷たいものの、陽射しが温かくて気持ちがよかった。
 風とともに、淡紅色の愛らしい花弁がはらはらとタイルの上へ舞い落ちる。時には庭園に設えられた水盤の上にまでそれらは降り注ぎ、水面の上に小さな波紋をいくつもいくつも広げてゆく。
 その儚く刹那的な眺めを、アイリスはエヴラールの傍らで余すことなく堪能した。
 そこでふいに春の嵐のような一陣の強い風が吹き荒れてアイリスたちの髪をさらっていく。
 
 アイリスの髪にくっついた薄紅色の桜の花びらを指でつまんで剥がしてくれながら、エヴラールは不思議そうに訊ねた。
「アイリスはどこの宮殿に出仕しているのですか? 王城で貴女をお見かけしたことがありませんから、もしや薔薇後宮でしょうか。けれど、その服装……もしや、七皇妃のうちの誰かに仕えているのですか? とても立派なドレスですが……」
 ほら見たことか、とアイリスはうなだれた。
(うう……。侍女たちには悪いけど、もっともだわ。『ただの女官』がこんなに派手な格好をしているわけがないもの……)
「え、ええと……、じ、実は……」
 口ごもると、エヴラールは「ドレスの色合いが満開の桜に映えてとてもよくお似合いですよ」と褒めてくれた。
 そうしてさらりと賛辞を贈ってから、彼はふふ、と微苦笑する。
「もしも妃に仕える女官なのでしたら、女主人に妬まれてしまうかもしれませんね……。このように皇帝と逢瀬を重ねるなど……」
「わたくしはあなたの妃なのですけれど」と言い出せなくなったアイリスはうつむいた。
 この若き皇帝は未だにアイリスの身元を調べていないようだ。
(……はあ。花嫁の名前も覚えていらっしゃらないなんて、よほど七皇妃に興味がないのね)
 出会ったばかりの時、「私は他人に興味がない」と断言していたからそのせいだろう。
 だが、アイリスはがっかりしてしまった。
 いつか、エヴラールが自分の正体に気づいてくれるのではないかと淡く期待していたからだ。
 すぐ隣に自分の妃が立っているというのに、エヴラールは一向に気づく気配がない。それどころか、どこの宮殿に出仕しているのかなどと言う。皇帝の妃としてこんなに情けないことはない。
(……わたくしはあなたの皇妃なのに)
 いささかむっとしたアイリスは、エヴラールの左手を勢いよく掴んだ。
 力を籠めてぎゅう、と握りしめると、エヴラールが不思議そうに微笑む。
「……? いかがなさいましたか?」
 アイリスはエヴラールの大きな手を握ったままそっぽを向いた。
「……エヴラール様の馬鹿」
 鈍感で、淡白で、扱いにくいことこの上ない。
 なのに、日ごと夜ごとどうしようもないくらい彼に惹かれてゆく。
 歯止めの効かないその熱病じみた想いを、アイリスは自分でも持て余し始めていた。
 血なまぐさい噂の絶えない青年だとばかり思っていたのに、事実を知り、彼の人となりを理解するうちにアイリスの中の認識は大きく変わっていった。
 
 エヴラールはけして愚鈍な皇帝などではなかった。
 アイリスが観察している限りでは、彼は真面目すぎるほど真面目な為政者だった。
 浮ついた噂の一つも聞かず、政務を怠けて遊び惚けているなどという悪評もない。
 エヴラール・ルドヴィーク・フォン・スフェーンというこの青年は、己に与えられた責務に対していっそ清々しくなるほど真摯な態度を貫いていた。
 己の役割たるまつりごとには全力で取り掛かり、どこまでも民の意を汲んだ政策を行おうとする。
 先代のいた強引な悪政をことごとく改善しようとするその姿勢には臣下たちも舌を巻くばかりだという。
 忙しい政務の合間には、皇帝専用の飛行艇を駆って大陸の視察や七部族との会合にも赴く。大陸の様子に異常が見られればただちに人や軍を遣わし、民たちの間で揉め事や暴動が起これば鎮圧させる。
 そして大抵の場合、「古狸ふるだぬき」と彼が呼びならわす頭でっかちの部族長をニ、三人言い負かして帰ってくる。
 これには最初笑ってしまったが、ある意味エヴラールらしいのかもしれないとも思った。
『先帝陛下の代わりに我らがあなた様をお助けいたしましょう』
 そんな甘言を吐いて何かと新皇帝に取り入ろうとする彼らをエヴラールは厭っていた。
“懐柔しやすい若造”と思われるのはごめんだと、いつか彼はアイリスに話してくれた。
 あの時薔薇園で見せた鋭利な顔も彼の本質の一つなのだと、アイリスはその時ようやく気付かされた。そして密かにそんな頭の切れる彼を素敵だと思ってしまったのだった。
 むろんまだ王としては手探り状態なところもあるようだったが、それにしても即位して三月でこの仕事ぶりならば大したものだろう。
 おまけに早くも帝都では「賢王エヴラール」の名で親しまれていると聞く。
 しかも、先代皇帝であるゴーチェと比較すれば遥かにまともで優秀な皇帝だと評判だった。
 
 アイリスはほうっと甘いため息をついた。
(……予想外だわ。まさか、こんなに優れた逸材だったなんて)
 帝都に住む女たちの法螺ほらを真に受けてしまい、エヴラールとはさぞかし残忍でしたたかな男なのだろうと思い込んでいたアイリスだったが、その認識が大きく覆されてしまったことに驚きを隠せなかった。 
 彼は冷徹な男などではなかった。むしろこの上なく温かな人物だった。
 母妃や友の死を嘆くその姿に、アイリスはどことなく自分と同じものを感じ取った。
 あの日、自分とよく似た孤独と優しさを胸に抱く彼に、ふとどうにかして救いの手を差し伸べてやれたらと願ってしまったのだ。
 そして、こんなに簡単に恋に落ちてしまった。
 アイリスは今、生まれて初めての恋の味に戸惑っている。
 思いもよらない形で突如自身の中に転がり込んできたその未知の感情の味に、隠しきれない喜び、そして同じくらい大きな戸惑いを同時に感じている。
(わたくしは一体どうしたらいいの……)
 胸苦しさを覚えてはあ……と息をつくと、エヴラールが真横から顔を覗き込んできた。
「どうなさいましたか、アイリス。今日は元気がありませんね」
「えっ……」
 まさか「あなたのせいです」などとは言えず、アイリスはもごもごと口ごもる。
 相変わらず憎たらしくなるほどの端整な美貌だ。こうして顔を覗き込む所作も上品で、アイリスの鼓動はすぐにとくとくと逸りだした。
「アイリス。今日は私の悩み事を聞いてくださいませんか」
「え……はい。なんでしょう?」
 きょとんとして問うと、エヴラールは歯切れ悪く言った。
「……大臣たちが、そろそろ妃の一人を召し出して夜伽をさせろと言うのです。七皇妃たちはそのために集められた存在なのだからと」
「えっ……」
 そんな話が出ていたなんて、とアイリスはびっくりしてしまう。
 だが、当然といえば当然だろう。彼は皇帝なのだから。
(だけど、夜伽だなんて)
 いつかはこうなるだろうと思っていたものの、実際に彼を別の女性に譲り渡すときのことを考えると胸が苦しくなってくる。
 こんなに仲を深められたのに、彼はアイリス一人のものではないのだ。
 エヴラールには七人の皇妃全員をいつでも好きなように抱くことができる。それだけの権限があるからだ。
 けれど、アイリスはそんな彼を間近でただ見ているしかない。いくら想いを通わせあったところで、彼が他の女性と子をなすのを止めることはできない。
 アイリスはこっそりとため息をつく。
 皇帝と『七皇妃』という立場が、まさかこうも自分を苦しめることになるとは思ってもみなかった。 
「……その。エヴラール様はどなたか気になっている方はいらっしゃらないのですか?」
 探るようにこわごわ訊ねてみると。
「残念ながら特にいません。というよりも、七皇妃とそうした仲になること自体、あまり考えられずにいました。ここ最近は貴女のことばかり見ていましたから」
 さらりととんでもないことを言われ、アイリスは繋いだ手を震わせる。
 そんなことを口にされては、手を離したくなってしまう。ずっとこうしていたいのに、なぜだかエヴラールのそばを離れたくなってしまう。
(……どうしよう。わたくし、なんだかじっとしていられない……)
 横目で恨めしげにエヴラールを盗み見る。
 すると、彼もまた途方に暮れたような顔をして見つめ返してきた。
 こうして味わう初めての感情は、甘いのにどこか苦しくて逃げ出したくなった。
 エヴラールはそこでやおらアイリスから顔を背け、悩ましげに言った。
「愛しいアイリス。私は貴女のことをこれ以上振り回したくはない。私たちは、もう一緒にいるべきではないのかもしれません」
「え……っ」
 思いがけず残念そうな声が出てしまい、アイリスは思わず口元を押さえた。
「エヴラール様、そんな。お、大げさですわ。一緒にいるべきではない、だなんて」
「……いいえ、大げさなどでは……。皇帝が妃を召し上げる前に女官に手をつけたりすれば、何を言われるかわかりません。私は貴女のことをむやみに傷つけたくはないのです」
 アイリスははっと目を見開く。
(手をつける……? まさか、エヴラール様はわたくしのことを……)
 思いがけない一言を受け、アイリスの小さな胸は先ほどよりもさらに激しく鳴った。
「お手つきになる」という言葉がある通り、「手をつける」というのは皇帝が女と肉体的に結ばれることを意味する。
 エヴラールのこの発言はすなわちアイリスとそうした間柄になりたいという意思表示に他ならない。
 もちろん「ゆくゆくは」という意味だろうが、そうした対象として見られているというのは単純に嬉しかった。
 とはいえ、妃相手では基本的には「お手つき」などという表現は用いない。
『七皇妃』というのはみな皇帝の相手をするために集められた女たちだ。そのうちの一人と一線を越えたところで何ら問題はない。
 エヴラールもアイリスも咎められることなどないし、むしろ喜ばれる確率の方が高いのだ。
(エヴラール様はわたくしと結ばれてもいいと思ってくださっている。こんな、こんなことって……)
 じん、と胸が熱くなった。
 そこまで好いてもらえていたとは思いもよらず、はしたなくも鼓動が躍る。
 最初こそ皇帝のものになるのは嫌だと感じていたけれど、今は「エヴラールならばいい」とすら思ってしまう。 
 本音を言えば、彼を他の誰かになど渡したくなかった。
 彼が他の七皇妃と結ばれるのを黙って見ているのはきっと苦しいだろう。今の比ではないくらい辛く切ないだろう。 
 しかし、エヴラールが自らアイリスを求めているというのなら話は別だ。 
 ――このまま想いを打ち明けることができれば。
 そんな衝動に揺さぶられながらも、アイリスは控えめに主張した。
「あの、エヴラール様。わたくしは、あなたとそういう関係になってもかまいませんわ」
「なっ……!」
 エヴラールは目を剥き、次いでさっと顔を背けた。
「アイリス……、いけません。男の前で気軽にそのような発言をなさっては」
「だってわたくし、あなたのことが好きなんです。それは、いけないことですか?」
 身を乗り出して問い詰めると、彼はゆっくりと――そしてどこかおずおずと訊ねてくる。
「……それは、友愛フィリアですか? それとも性愛エロース?」
「……そ、そんな。もちろん性愛に決まっているでしょう」
 かああ、と頬を赤らめつつ主張すると、何を思ったかエヴラールはぽんぽん、とアイリスの頭を叩く。
「……ふふ、また私を励ましてくださっているのですね。貴女はお優しい方だ。ですが、私たちはただの友人同士にすぎないのですから、そこまで一生懸命気を遣ってくださらなくともよいのですよ」
「違……っ」
「第一、私のような男が相手では貴女もお嫌でしょう。優しいのは美徳でしょうが、友人だからといってそこまでしていただく必要はありません」
 必死の告白をさらりとかわされてしまい、アイリスはしょげる。
(うう……、そういう意味で言ったんじゃないのに)
 アイリスとて別に激励の意味で愛しているなどと口走ったわけではない。本当に愛しているからこそ手をつけられてもいいと言ったのだ。
 が、何を思ったかエヴラールはそれを全く違う意味に捉えてしまった。
 アイリスが友情を愛情として差し出そうとしていると勘違いしてしまったのだ。 
(もう! エヴラール様の馬鹿っ!)
 アイリスは地団太を踏む。
 なんて鈍感な男なのか、と叫びたくなったが、そんな鈍い男性を好きになってしまったのはアイリス本人なのだから仕方がない。
 おまけにきちんと「性愛」の方だと伝えているにもかかわらずこんな調子なのだから、彼の言葉通り「肉体的に」結ばれるまでにはかなりの時間を要するに違いなかった。
「私が妃を抱いたりすれば、貴女は深く傷つく羽目になる。かといって、このまま妃たちに関心のない素振りを見せ続ければ、長たちがなんと言ってくるかわからない。……弱りました」
 ため息まじりにこぼすエヴラールに、アイリスはじれったい気持ちになる。
「エヴラール様。わたくしは……!」
「ああ、いけませんね。まかり間違っても貴女にする話ではありませんでした。お許しください、アイリス」
「ま、待って……! わたくしはあなたのっ……!」
「いえ、いいのですよ。今回の件はどうか内密にお願いします。夜伽の話はまだ七皇妃たちに知られるわけにはいきません。もちろん貴女がおしゃべりな女性でないということはよく理解しているつもりです。貴女ならばきちんと私の意思を汲んでくださることでしょう。聞いていただけて少しだけすっきりしました。ありがとうございます、アイリス」
 一人で勝手に納得し、エヴラールは身を放した。
「名残惜しいですが、今日はもう薔薇後宮へお帰りなさい。女官長に注意されないよう、私が取り計らっておきましょう」
 アイリスはもどかしさからエヴラールの腕に取りすがる。
「も、もう少し一緒にいても大丈夫ですわ! だ、だってわたくしは……!」
「貴女のお気持ちは嬉しいですが、貴女が妃に叱責されるようなことがあれば、私は――」
 
 その時、がさがさという葉擦れの音がして、聞き慣れた声が辺りに響き渡った。
「アイリス様ー! どこにいらっしゃいますか? リナリアです!」
(リナリア!)
 必死で女主人の姿を探しているらしく、リナリアは桜花園の敷地をぐるぐると歩き回っている。
 陽光を浴びて輝く銀の甲冑と緋色のマントが目に鮮やかだ。
 長い金の髪をさらさらと風に靡かせた彼女は、女主人の姿を探しながら朗々と叫んだ。
「お茶のお支度が整いましたので、そろそろお部屋にお戻りください! アイリス様ー!」
「リナリア、わたくしはここよ!」
「ああ、そちらにいらっしゃったんですね、アイリス様。お探ししました」
 ほっとおもてを和らげたのも束の間、アイリスの傍らにたたずむ男の姿を認めてリナリアは仰天した。
「……って、えっ……、あ、あなたは……皇帝陛下!?」
 声を上げてのけぞり、リナリアは大慌てで拝礼する。
「お、大声を出したりして申し訳ございません! まさか皇帝陛下がいらっしゃるとは……」
「おもてをお上げなさい。貴女は……」
 訝しむ体のエヴラールに、跪く姿勢を取ったままリナリアは名乗る。
「ウィンキット家のリナリアと申します」
「ああ……これまで優秀な騎士たちを数多く輩出してきたあのウィンキット家ですね。確か、都でも指折りの騎士の家系だと……。それで……貴女はなぜここに?」
 リナリアはきびきびと告げた。
「わが主人、アイリス・フォン・バルシュミーデ様をお迎えに上がったのです」
 リナリアは当然のように答えたが、今度はエヴラールが息を呑む番だった。
「な……主人……? バルシュミーデ……?」
「はい。そちらにいらっしゃるのはわが主人、アイリス・フォン・バルシュミーデ様です。わたくしリナリア・ウィンキットはアイリス様の身辺警備を仰せつかっている近衛騎士。アイリス様を青金棟までお連れするために探しに参りました」
「……お待ちください、その鎧は皇妃直属の騎士団の長たちに配給されるものでしょう? それに、青金棟……、近衛騎士……。では、ここにいるのは――」
 エヴラールに視線を投げかけられたアイリスは観念して言った。
「申し訳ございません、陛下。わたくしはずっと身分を偽っておりました。わたくしは、バルシュミーデ家のアイリス。あなたの妃ですわ」
「ではアイリス、貴女は……」
 アイリスは菖蒲色の髪を揺らして盛大に頭を下げた。
「申し訳ございません……! わたくし、陛下を騙すつもりは――」
 そう言い訳しかけた刹那、エヴラールの長い腕がアイリスの背を包み込んだ。
 そのまま柔らかく抱きすくめられて、アイリスは固まった。
「エ、エヴラール様!?」
「では私は、貴女と会うのに何の遠慮もいらないのですね……?」
「えっ、ええ。皇帝陛下が一皇妃にお会いになるのに、遠慮することは、ないかと……!」
「これからはいつでも好きな時に貴女にお会いできるのですね?」
「は、はい。もちろんです……!」
 大慌てで答えれば、すぐさま骨が砕けそうな力でぎゅっと抱きしめられる。
「ああ、よかった……! 私は、ずっと貴女をお慕いしていたのです。ですが、恋しい貴女に悪い噂が付きまとってはいけないと、あえて想いを告げずにおりました。ですが、ずっと……ずっと打ち明けたくて。この燃えるような想いを、貴女に……」
「エ、エヴラール様は少々大袈裟でいらっしゃいますのね……!」
「いいえ、アイリス。私にとっては、貴女に恋情を打ち明けられないということは苦行にも等しかったのですよ。ましてや貴女は私の心を救ってくださった女性なのですから……」
「そんな……」
 生まれて初めての抱擁に、アイリスは全身を震わせた。
(これが、殿方に抱きしめられるということ……)
 背に回された腕は太く硬く、頬に触れる胸は熱くたくましい。
 自分のものとは明らかに違う感触にまだいささかの違和感はあるものの、アイリスは不思議とその温かさを嫌だとは感じなかった。
 心臓がいつになく激しく脈を打っている。なのに、どういうわけか今はこの腕の中から出たくないと思ってしまう。
 このままずっと閉じ込められていてもいい。このままずっと自由を奪われていてもいい。
 そんな風に強く思ってしまう。
 ためらいののち、アイリスはおずおずと彼の背に腕を回した。
 エヴラールの胸にぴったりと頬をくっつけ、その拍動と熱さを同時に感じ取る。
 二人はしばしそのまま一部の隙もなく身を寄せあい、互いのぬくもりを堪能し合った。
「……エヴラール、さま」
「アイリス……。貴女が、私の妃なのですね……。貴女が私の、伴侶……。ああ、この世にこのような僥倖があろうとは……。きっとこれは母上のお導きでしょう。母上が私に貴女を遣わしてくださったに違いありません……」
 噛みしめるように言い、エヴラールはアイリスの結い髪にそっと鼻先を埋めた。
 菖蒲色の髪を撫でながら、露わになっている耳朶や首筋にごく控えめな――まるで敬うような口づけを幾度も幾度も落としてゆく。
 慣れない行為に身じろぐと、エヴラールは渋々といった様子で口づけるのをやめる。
 そのいかにも残念そうな顔つきに、アイリスは必死で弁明した。
「あ……、ち、違うんです。これは、その……あなたのことが嫌だからじゃなくて……」
「申し訳ありません。その……急ぎすぎてしまいましたか?」
「いいえ……。ただ、慣れていないから、恥ずかしくて……」
 それでもアイリスを抱く一向に力を緩めようとしない彼に、事の成り行きをずっと傍観していたリナリアが呆れた声を上げる。
 二人の蕩けた顔を順繰りに見やって、白けたような口ぶりで彼女は言った。
「あの、陛下? 腕の中でアイリス様がつぶれそうになっていらっしゃいますよ。それに、あたしお邪魔ですよね? 見物人が来てもお嫌でしょうし、愛の告白の続きは陛下のお部屋でなさっては?」
「ああ、そうでした……! アイリス、大丈夫ですか…? お顔が赤くなっていらっしゃいますね」
「い、いえ……大丈夫です」
「お許しください、私のアイリス。場所も考えずにこのような……」
「きゃっ!?」
 ようやく抱擁を解いたかと思うと、エヴラールはそのまま軽々とアイリスを横抱きにした。
「なっ……エ、エヴラール様……!?」
「続きはどうか、私の部屋で。貴女のお返事を、聞かせてください……」
「……!」
「皇帝の部屋」という単語に一瞬はっと目を見張る。
 皇帝の部屋とはすなわち男の部屋だ。しかも、ただ「愛の告白」をして終わるわけではないであろうことが容易にうかがえる口ぶりだった。
 先ほどのやり取りが思い起こされてひどく恥ずかしくなったが、アイリスはもう抗わなかった。  
「……ええ、お聞かせしますわ」
 恥じらいに頬を染めながらもしっかりとうなずき、エヴラールの首に手を回す。
 そして、花のように笑った。
 
 
 
「ご覧ください。あれが陛下の『お気に入り』の娘のようですよ」
 冷酷そうな顔立ちの青年が、初老の男に耳打ちする。
 初老の男は満足そうにうなずいた。
「ほう……わが息子にしては趣味がいい。是非ともの女にしたい」
「調べさせたところ『半端者』のようですね。出自を引き合いに出せば易々と懐柔できそうな娘です」
 男は顎を撫でると欲望でぎらついた瞳をすっと細めた。
「欲しい……。今までの者たちはいとも簡単に命を絶ってしまったのでつまらなかったのだが、あの娘なら余を愉しませてくれそうだ」
 
 
 
 
 
 

 

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