第十三章 少年王に捧げる弔歌

 
 その晩、バイオレッタたちはオトンヌ宮の大広間である≪享楽の間≫へと続く廊下を並んで歩いていた。
 最前列をオルタンシアとミュゲが、次の列をバイオレッタとピヴォワンヌが行く。
 その後ろに並ぶのはアスターとプリュンヌで、二人はそれぞれの侍従と侍女に付き添われながら、四人の姫たちの後ろをついてくる。
 プリュンヌは傍らのアスターの腕にすがり、不安げにその顔を見上げた。
「アスターお兄様。お父様は一体どうなさったのでしょうか。忌み子であるプリュンヌたちまでお呼びになるなんて……」
「何かお考えがあるのだろう。けれど僕の予想が正しければ、恐らく何かが起こるはずだ」
「……まさか、プリュンヌたちは罰せられてしまうのですか?」
 バイオレッタが後方をうかがうと、アスターが泣きそうなプリュンヌに力強く微笑みかけていた。
「そんなことは絶対にさせないから安心しろ」
「お兄様……」
 数日前のジン神殿での戦いで疲弊しきった身体に鞭打ち、バイオレッタは前を向いてなんとか歩を進める。
(……ミュゲ様の言ったことが事実なら、もう、お父様は)
 
 
 
『クロード亡き今、お父様の身体は限界に達しているはずよ』
 王宮に戻ってきたバイオレッタとピヴォワンヌを密かに翡翠ジェダイト棟の私室へと呼び出し、ミュゲはそっとそう教えてくれた。
『それは一体どうしてですか?』
 バイオレッタの問いかけに、ミュゲはきわめて理路整然と答えた。
『お父様の身体の秘密は知っているわね? 年を取らず、何年生きても見た目が変わらないという奇妙な魔術をかけられているのよ。言ってみれば呪いのようなもの。そして今、それをかけた術者が死んだ。これが意味するのはただ一つ……、お父様の“死”よ』
 発動した術式は環のようになってかけられた者の身体を取り巻く。
 恐らくリシャールには全部で三本の魔術の環がかけられていたはずだ。
 しかし、それを施した魔導士が死ねば、かけられた術式は効力をなくす。
 だから術者の死はすべての術式にとって致命打だ。
 それが呪いであれ守りの力であれ、かけた本人が命を落としてしまえばすべては当然の如く無に帰される。
 魔導士の扱う「魔力」とはそもそも各々の生命力から生まれるエネルギーだからだ。
『わたくしはこれまで秘密裏にあの呪いについて調べさせていたわ。報告の結果によれば、お父様にあの呪いをかけた術者は全部で三人。中でも、一人目の魔力はごく弱く、そのためにおばあ様は二人目の魔導士を雇ってそれを強化しなければならなかった』
『ええ』
『だけどその二人目でさえ頓死しているわ。……バイオレッタ、貴女のお母様が命を落としたのとほぼ同時期にね』
 彼女は沈黙する二人に向けて染み入るような声音で告げる。
『魔術の環を取り除くには、二通りの手段がある。一つは、かけた術者が命を落とすこと。術式とはすなわち、術者の生命の一部のようなものなの。かけた術式が強力であればあるほど、代償は大きいわ。命をかける術者もいる』
 一呼吸置き、黙する二人に向けてミュゲは続けた。
『そしてもう一つは、優れた別の術者が、かけられた術式を解くこと。けれど、お父様にかけられた術式は、人間の肉体の摂理を捻じ曲げるもの。外見年齢を少年のままに留め、なおかつ年を取らない身体にするなんて、相当複雑な術式でしょう。打ち破るにはかなりの魔力と相応の対価が必要だったはず』
 ただ黙って聞いているだけでも背筋がぞくりとするような話を、ミュゲは冷静な面持ちのまま淡々と語る。
 “人間の肉体の摂理を捻じ曲げる”、という表現に、バイオレッタは得も言われぬ不穏の色を感じ取る。
 出だしの口ぶりから察するに、ミュゲは父王リシャールにもうわずかな時間も残されていないことを暗に告げているのだろう。
 それはミュゲの落ち着き払った表情と相まって余計に恐怖を感じさせた。
『……これはごく個人的な考えだけれど、あなたのお母様はオルレーアの術者だったわね? 死因は未だに解明されていない。けれど、お父様の術式を解くために魔導士と相討ちになったとすれば、つじつまが合うのではなくて?』
『……相討ち』
『ええ。二人目の魔導士は非常に奇怪な死を遂げている。それも、エリザベス妃が命を落としたのと全く同じ日にね。これは相討ち以外の何物でもないような気がわたくしにはするのよ』
 ミュゲはそこで重いため息をつくと、侍女に一枚の羊皮紙を持ってこさせた。
『これは三人目の魔導士の契約書よ。比較的新しいもの。七年前に二人目の魔導士が亡くなった直後に、三人目がこの羊皮紙に血でサインした』
 バイオレッタは羊皮紙のサインに目を走らせて息をのんだ。
 ……見慣れた手蹟。これは――
『あなたならもうおわかりね? これはクロードのサインよ。おばあ様に協力していたのはクロードだったの。恐らく貴女の母妃を殺すために、二人目の魔導士に力を貸したのでしょう。そして死亡した二人目と入れ替わる形で三人目の術者となった……』
『クロード様……どうして……!』
 あんなに父王に尽くしていたクロードがなぜ。
 だが、バイオレッタはなんとなく合点がいく気がした。
(お父様が、憎かったんだわ)
 術式をかけられて身体の時間を止められたリシャールと、邪神との契約によって不老不死になったクロード。
 一方は大国と呼ばれる土地を統べる国王で、もう一方はその基盤となった帝国の皇帝だ。
 どことなく似ている、と思った。
「この王も自分のように苦しめばいい」。もしもクロードがそう考えたのだとしたら……。
(……お父様のことも復讐の対象にしていたのね)
 大陸の民に一矢報いたいというのがクロードの長年の望みだ。
 どういういきさつがあってヴィルヘルミーネの手下になったのかは不明だが、「若い国王に呪いをかける」という行為そのものが彼の復讐心と飢餓を満たしていたであろうことは想像に難くない。
 きっとリシャールが国王としての幸福を謳歌しているのが許せなかったのだろう。
 あるいはヴィルヘルミーネに何らかの弱みを握られていたという可能性も考えられる。
 ミュゲによれば、リシャールの身体には今クロードの術式の環がかろうじて残っている程度ではないかということだった。
 そこで、それまで黙っていたピヴォワンヌが口を挟んだ。
『なるほど、リシャールの味方を装いながらもあいつは本当は王太后の味方だったってことね。けど、もうあいつは……クロードは死んだのよ。もう術式からは解放されて、リシャールは普通の身体に戻れるはずじゃ……』
 ミュゲは首を横に振った。翡翠色の髪がゆらゆらと揺れる。
『複数の環をかけるということは、それだけかけられた人間に負担をかけるということ。もちろん、普通の術式を使う分には問題ない。でも、あの呪いの術式をかけられた時点で、お父様はすでにこの世のものではなくなっていると言って差し支えないのよ』
『そんな――!』
 筆頭侍女カサンドルの淹れた紅茶で一旦口腔を湿らせると、ミュゲは顔を上げてきっぱりと告げた。
『どうやらクロードは、消えかかって薄くなっていた一つ目の環と二つ目の環の痕跡に、自分の魔力を組み込んで強化していたようなの。そして、クロードの術によって三本の環はすべて一つに集結していた。……つまり、三本の環が一斉に取り除かれた今、お父様の身体は限界なの』
 
 
 
「だけどミュゲ、わたくしはにわかには信じがたいわ……、まさかあのお父様に死が迫っているだなんて」
 瑠璃色の髪を美しいア・ラ・ジラフ型に結い上げたオルタンシアが扇の影で言う。
 そうして訝る姉に、ミュゲはやはり冷静そのものの表情で答えた。
「ええ……、最初はわたくしも信じられませんでした。けれど、今宵お父様にお会いすればすべてがはっきりするはずです」
 バイオレッタはやり取りを交わし合う二人の様子が至って朗らかなものであることに安堵した。
 未だぎこちなさはあるものの、これまでのような刺々しい雰囲気はまるでなく、二人ともどこかさっぱりした顔つきをしている。
 そして、どういうわけかバイオレッタには、二人の結びつきが今まで以上に強くなっているように感じられた。
 同時に、それだけ二人がうわべだけの付き合いをしていたのだと気づかされる。
 そのせいか、穏やかに和解し合った今の二人はとても自然に見えた。
 
 
 例の父王の話のあと、ミュゲの口から初めてオルタンシア昏睡の真相を聞かされた時、バイオレッタたちは動揺を隠せなかった。
 なんと、彼女は姉姫を自らの手で昏睡させたというのだ。
『ど、どうしてそんな重要な話をわたくしたちに教えてくださるのですか?』
 慄きながら訊ねると、ミュゲは寂しそうに微笑んだ。
『……どうしてかしらね。貴女たちになら、わかってもらえるかもしれないと思ったの』
『ですが、もしわたくしたち二人がこの話を口外するようなことがあれば……』
『ええ。もちろんわたくしはただじゃすまないでしょう。この話はお父様でさえ知らないこと。わたくしとお姉様との間でしか共有されていないものよ』
『……じゃあ、どうして』
 するとミュゲは、ドレスのスカートを握りしめてバイオレッタを見つめた。
『……だって貴女、前にわたくしに言ってくれたじゃない。伝えたいことは言葉にしないと伝わらないって。もっと考えていることを口に出していいんだって』
『それは……、確かに言いましたけれど……』
 きゅ、と薄い唇を噛みしめ、彼女はぽつりと言った。
『……貴女たちに、知ってほしかったの。それだけ』
『……』
 バイオレッタは、ミュゲの勇気に胸を打たれる思いだった。
 彼女はきっと、自分一人の胸に真実を秘めておくのが辛かったのだ。
 だからこそ二人に本当のことを打ち明け、自身の過ちを知ってもらおうとした。
 なぜ姉姫を昏睡させるなどという思い切った行動に出たのかは不明だが、ミュゲがその「裏の顔」も隠さず見せようとしてくれたことに、バイオレッタは無性にほっとしてしまう。
 
(ミュゲ様)
 
 何かと傷つきやすいところのあるミュゲの重荷を、少しでも分け持つことができるなら。
 彼女の抱える辛さや痛みを、どうにかして和らげてやれるなら……。
 バイオレッタはこうして事情を打ち明けてくれたミュゲの勇気を丸ごと汲み取ろうと思った。
 そして、こうした形で自分を頼ってくれるミュゲに対して、ほんの少しばかりの親近感を抱いた。
『ミュゲ様の秘密は、わたくしも最後まで守り通します。貴女の名誉を傷つけるような行いはけしてしません』
『バイオレッタ……』
『そんな大事なことを告白してくれて、ありがとうございます。このお話は絶対に口外しません。ほかにもわたくしで力になれることがあれば、なんでも言ってください』
 本心からそういうと、ミュゲは複雑そうな顔をした。
 彼女が途端に痛みを堪えるような顔つきになったことに狼狽し、バイオレッタはソファーから身を乗り出して前のめりになる。
『ミュゲ様……?』
『……駄目ね。やっぱり貴女には敵わないわ』
『え……?』
『こちらの話よ。いいの、忘れてちょうだい』
 その顔つきがひどく寂しげなものであることに気づき、バイオレッタはにわかに心配になった。
 だが、いくら問い詰めても彼女は頑として「なんでもない」を繰り返すばかりだった。
 そっと片手を差し出すと、うろたえながらも彼女は応えてくれた。
 二人はテーブルを挟んで温かな握手を交わし合った。それは、たどたどしくも確かな繋がりの感じられる握手だった。
 バイオレッタとミュゲは、ここにきてやっと“同い年のスフェーン王女”として親交を深めることができたのだった。
 
 
 後日、オルタンシアに呼び出されたバイオレッタとピヴォワンヌが彼女の暮らす天藍ラズーラ棟を訪ねると、彼女はおもむろに言った。
『わたくしは、女王にはなりません。血の繋がった妹の心すら推し量れないような姫など、この国の女王にはふさわしくないからです』
 きっぱりと言い、オルタンシアはそこでゆっくりと傍らのミュゲを一瞥した。
『お父様に育てて頂いたご恩をお返ししたくて、これまで懸命に努力してきたわ。たとえ不義の子でも、王位に就きさえすればお父様が喜んでくださると。でも、わたくしにはどうやら人の心を思いやるだけの情がなかったようだわ。肉親さえ思いやれないような人間が、どうしていい女王になどなれるかしら。わたくしはもう戦わない……、今日をもってこの試験を降りるわ』
 断言し、デコルテ中央に留めつけていた王位継承者の証のロゼットをぱちんと外してテーブルの上に載せてしまう。
 シルクと貴石を用いて花をかたどったそれは、むろんバイオレッタやピヴォワンヌにも与えられている装飾品であり、姫たちが自らの「女王候補」という身分を提示するために使う大事なものだ。
『……オルタンシア様!?』
 二人は呆気に取られてオルタンシアを見た。
 ロゼットを自分の手で外すという行為に、彼女の本気を垣間見たからだ。
『お姉様がそうおっしゃるなら、わたくしもそれに倣います』
 ミュゲは言い、自らもロゼットをチョーカーから外してテーブルの上に置いた。
『わたくしは罪を犯した。血を分けた姉を試験で戦えないような状況に追い込み、宮廷全体を混乱に陥れた。平素であればこれは大罪よ。こんな罪人が平然と玉座に就いていいはずがないわ。わたくしはこの戦いを降りる。これからは“女王候補”ではなく“ただのスフェーン王女”として生きていくわ』
 二人はバイオレッタたちを見上げた。
 そこに悲愴の色はなく、あるのはどこか吹っ切れたような表情だけだ。
 驚く二人に、姉妹はあろうことか深々と頭を垂れた。
『これまでの非礼を、どうか許してちょうだい。これからは誠心誠意女王候補である貴女たちに尽くすわ』
『バイオレッタ、ピヴォワンヌ。本当にごめんなさい。今更こんなことを言っても不快なだけかもしれないけれど、わたくしにできることがあればなんでも言って。貴女たち二人の助けになりたいの』
 バイオレッタとピヴォワンヌは顔を見合わせたが、ややあってから二人の顔をしっかりと見つめて言った。
『……ええ。まだどっちが女王になるかはわからないけど』
『改めてよろしくお願いします、オルタンシア様、ミュゲ様』
 女王候補として長い間敵対関係にあった四人の姫は、その日ようやくその心を通わせあったのだった。
 
 
 
 
「遅かったではないか。待ちくたびれたぞ」
≪享楽の間≫へ案内されるや否や、リシャールは高圧的に言った。
 だが、その顔色は青ざめていて、傍で見ていても具合が悪いのがはっきりとわかるほどだ。
「へ、陛下……、ご無理をなさらないでくださいませ」
「うるさい!! 僕に触るな!!」
 隣席から伸びてきたシュザンヌの手を振り払うと、リシャール王は手元の杯をぐいと干す。
「……それで? どうなったのだ、裏切者の始末は」
 顔を見合わせるバイオレッタたちを視線で制しながら、アスターが慎重に口火を切る。
「……はい、父上。僕がご報告いたします。魔導士クロードはバイオレッタをさらい、ジン神殿に逃亡しました。彼は火の邪神ジンと契約を交わしており、その力を利用してこのイスキアを混乱に陥れようと画策したのです。彼は千年前の人間で、この国がスフェーン帝国と呼ばれていたころから生きていました。ジンに仕える火の依代として、命のことわりを大きく捻じ曲げながら生き永らえていたのです」
「千年前ですって……!?」
 息子の報告に、シュザンヌは扇を取り落とした。
「アスター、お前、何をたわけたことを言いだすの!? シャヴァンヌが千年前の人間ですって!? ありえないわ、そんなこと!」
 喚くシュザンヌをよそに、リシャールは静かに問いかける。
「バイオレッタをさらったのはなぜなのだ?」
「は……、復活の儀における生贄にするためかと」
「クロードはどうなった?」
「死にました。逆上した邪神ジンによって殺されたのです」
 アスターはそこで控えていた騎士たちに一つの棺を持ってこさせた。
 その中に収められたクロードの屍を確かめ、リシャールは口元を手で覆った。
「な……!」
 幼い王は顔をくしゃくしゃに歪めた。
 金の髪を振り乱して叫ぶ。
「なぜ!! なぜ裏切った、クロード!! お前は僕の魔導士なのだろう!? 確かに僕はお前を捕らえるよう命令を下した!! だが、まさかこの僕に何も言わずに逝くなど……!!」
 リシャールは呻き、テーブルを幾度も幾度も拳で殴りつける。
 乱行の総仕上げとばかりに持っていた大ぶりのワイングラスを床に叩きつけ、彼は靴底で破損したそれを滅茶苦茶に踏みしだいた。
「駄目よ、リシャール。怪我をしてしまうわ。おやめなさい」
「ですが、母上……っ!!」
「ああ……、なんということなの。あんなにもリシャールを支えてくれていたシャヴァンヌが、まさか亡くなるだなんて……」
 王太后ヴィルヘルミーネは痛ましげに眉根を寄せ、つぶやくように言った。
 彼女は立ち上がってしなやかに歩み寄り、光沢のある絹のドレスに包まれた腕でリシャールの頭を抱きかかえた。
「可哀相なリシャール……。近臣に裏切られてさぞや辛いことでしょう。ああ……、わたくしがあなたの代わりになってあげられたならどんなにいいか」
「母、上……。僕は、僕は――」
「もう何も考えなくていいのよ。わたくしが……、あなたの母上がきっといいようにしてあげますからね」
「はは、うえ……」
 リシャールは虚ろな瞳で母后に――王太后に抱かれていた。諦めきった様子で、眠るように瞳を閉ざす。
 ……刹那、その首筋で白刃が冷たく煌めいた。
「お父様っ!!」
 リシャールの喉元には短剣が挿しこまれていた。実母の突然の行為に、彼はただただ瞠目する。
「母……上……?」
「ふふ……。わたくしはお前の苦しむ顔を見るのが大好き……。だって、苦しんでいるお前の姿ほど愛らしいものはないのだもの。無力で、恐ろしいことがあるとすぐにわたくしにすがってくる……。そんな無能なお前に王冠を被せてあげたわたくしに、もっと感謝してほしいものね」
「な、なにを――」
 ヴィルヘルミーネは短剣の先をちろりと舌先で湿らせると、幽鬼めいて壮絶な微笑をそのおもてに湛えた。
「ああ……呪いはすべて無に帰してしまった。お前との繋がりも、見えない宿命の糸も、これですべて断ち切られてしまった……。いいわ、リシャール。どうせこのまま消えゆく命なら、わたくしがお前を――殺してあげる」
「……! お前たち!! 父上をお守りしろ!!」
 アスターはそう叫ぶとすっと右手をかざした。それを合図に、≪享楽の間≫のいたるところから近衛騎士たちが次々に姿を現す。
 矢をつがえる射手が。剣を構える甲冑の騎士が。
 それぞれが王太后に向けて剣呑な視線を注いでいる。
 スピネルの助言で、アスターはあらかじめこの広間の随所に伏兵を配備しておいたのだ。
 だが、ヴィルヘルミーネは高らかに笑うと、短剣の切っ先をさらに深く喉元へとねじ込んだ。
「近づくでない!! 王太后の命が聞けぬのか!!」
 鋭利な刃が、薄い首筋の皮膚を舐め上げる。
 流れてゆく真紅の鮮血に、リシャールは呻いた。
「う……!! 母上……!!」
「本当に馬鹿な子……。出来が悪くて母親泣かせで、それでいてどうしようもなく愛おしい……、罪な子供……」
 王太后の瞳は過去を懐かしむようにそっと伏せられる。作り物めいた表情の中に、初めて王太后ではない「生身の女」としての憂いが滲んだ。
 
 バイオレッタはここにきてようやく王太后の真の闇を垣間見たような気がした。
 そうだ……、この女性は薔薇後宮に潜む「魔物」である以前にただのひとりの「女」だったのだ。
 一度は人並みに恋に身を焦がし、黄金の春を謳歌しようとしていたかもしれない。先代国王との褥で永遠を夢見たこともあったのかもしれない。
 後宮に召し上げられてさえいなければ、彼女の人生は恐らくもっと晴れやかで幸福なものになっていただろう。
 不幸にも叶わずに終わってしまった、王太后の夢。少女らしい甘い陶酔にさえろくに浸れずに、彼女はここまで来てしまった。……こんなにも遠くの岸まで。
 
 そして今、彼女は自らの分身を……息子を、しいそうとしている。
 あんなにも溺愛したリシャールを、自らの手で殺めようとしている。
 
(王太后様……!)
 
「……母上。教えてください。貴女はあの時、僕の兄弟たちを一体どうしたのですか。僕に王冠を被せるために、これまで一体どれだけの罪を――」
「仕方がないでしょう? ああでもしなければ、お前を王位に就けられなかった。本当に苦労したのよ? 何せ先王には愛妾たちの産んだ王子たちが十二人もいたから、お前が王位に就く可能性は低かったの。……だから、ああ・・しなければならなかったのよ」
 そう言ってヴィルヘルミーネは艶然と笑った。
「……だから兄上たちや弟たちを殺したのですか」
 仄暗くぞっとするような壮絶な笑みを、王太后は浮かべる。紅を塗った唇を三日月の形に歪め、うっとりと瞳を細めながら。
 ……その微笑は、もはや肯定であった。
「もしや、父上の愛妾たちを殺したのも母上なのですか!?」
「アウグスタス家に伝わる秘伝の毒を知っているでしょう? あれを飲ませたのよ。じわじわと全身をいたぶる毒薬でね。口にすると、まず指先が震えて動かなくなるの。腕の神経をくたすからよ。そして次の段階に移ると、今度は足が萎えて立てなくなる。でも、それだけの症状ならば宮廷医たちはまず大事おおごとにはしないわ。栄養が偏っているか、あるいはただの伝染病だというでしょう」
 彼女はうっとりと続けた。
「でも、だからこそ素敵なのよ。毒薬が足を蝕む頃には、毒は心の臓を侵しているのだもの。毒が全身に回って死に至るまでには一週間とかからない。胸をかきむしることもできずにもがき苦しんで、やがて最期は眠るように死んでいく……」
「では……僕の兄弟たちが次々と死んだのは」
「やあね、『次々と』? わたくしはそんなわかりやすいことはしませんよ、リシャール。少しずつやらなければ暴かれてしまうもの。一度に何人も殺したりせずに、少しずつ好機を見計らった。自然な死に見せかけなければ、謀反を企てる同一犯の仕業だと疑われる可能性があったの。何せ十二人もいるのだもの、本当に骨が折れたわ。ただの女官を使うこともあれば、臣下を買収することもあった。まあ、結局はみな屍になったのだけれど。けれどみな、お前に感謝しているでしょうね」
 リシャールは呻きながらも、テーブルをだんと拳で叩いた。
「なんて下劣な女だ……!! 地獄に堕ちろ!!」
「地獄に堕ちるのはお前よ、リシャール。母をこんな悪鬼にしたのだから。お前は母の手をずいぶん煩わせてくれたわ。お前の父親も鼻持ちならない男だったけれど、お前はもっと酷かった。赤子の頃は乳母に色目を使い、成長すれば隣国の姫君たちを次々と虜にした。お前の美貌は父親譲りで美しくて、いっそまばゆいほど……。けれどきっと性根はあの王にそっくりなのだろうとわたくしは危惧した。これではお前は、母を忘れ去ると……。とても得難いわたくしたちの関係は、壊れてしまうと」
「……悪鬼の妄言など、僕は聞かぬ!」
 ヴィルヘルミーネはリシャールに頬をすり寄せた。二人の間にあるわずかな空白さえつぶしてしまうかのように、小柄なリシャールの腰を抱いてぴたりと彼に身体を寄り添わせる。
 そして、小刻みに震えるリシャールの頬に白い指を走らせた。
 皮膚の感触を愉しむように指先を滑らせた後、紅い紅を塗った唇をゆっくりとほころばせる。
「……だから『時知らずの奇術』をかけたのよ。お前が母の愛情を一生涯忘れることのないようにね」
「寄るな」
「でも、お前は罪を犯したわ。愚かしいことに。なぜエリザベスなの? わたくしはお前に、シュザンヌという素晴らしい姫をあてがってあげたはず。なのになぜ、あのようなはねっ返りの小娘などを選んだのですか。アウグスタス家の姫には微弱ながら正統なる王族の血も流れている。お前にはとてもふさわしい相手だったはずよ?」
「……お前のような女になど、死んでも教えぬ。最初からお前は、僕にとっては母ではなかった……」
「強情……。そんなにあの女のもとへ行きたいの? 母を口汚く悪罵したことなら、すぐに水に流してあげる。やり直しましょう、リシャール。お前が望むなら、すぐにでも術式を――」
 リシャールは渾身の力でヴィルヘルミーネを振り払うとかすれた声で叫んだ。
「衛兵!! 何をぐずぐずしているのだ!! この女は罪人であるぞ!! 先王の王子たちを皆殺しにしただけでなく、王である僕を殺めようとした重罪人だ!! 今すぐ牢屋へ連れていけ!!」
 駆け寄ってきた衛兵に引きずられながらも、悪鬼は怯むことなく微笑んだ。
 結った髪はみっともなくほつれ、衛兵たちに両腕を拘束されているにも関わらず、相変わらず優雅に微笑んでいる。
 ヴィルヘルミーネは信じられないほどの力で衛兵の男を突き飛ばすと、懐から小さな小瓶を取り出した。
「わたくしは、処刑など認めません。憎たらしいお前の命令など聞かないわ」
 リシャールははっと目を見開いた。
「毒を飲ませてはならぬ!! 取り押さえろ!!」
 けれど、ヴィルヘルミーネは素早く毒薬をあおってしまった後だった。
 彼女がごふ、と大量の血を吐くと、真紅の絨毯にどす黒い染みができた。その中へ、老いた女の身体がゆっくりと倒れこむ。
 ほつれた翠の髪を絨毯に散らし、ヴィルヘルミーネは飽くことなく呪いの言葉を吐き続けた。
「……わたくしは、お前をけして許しません……。せいぜい苦しんで死ねばいいのです……、リシャール……」
 老女らしく痩せこけた顔は、それでもうっすらとした笑みを浮かべ続けていた。
 
「あ……あああ……!! いやあああ!! 伯母様が……、王太后様がぁっ……!!」
 シュザンヌが金切り声を上げてへたりこむ。だが、リシャールの目配せで衛兵たちがすぐさま彼女を取り押さえにかかった。
「へ、へいか……!?」
「……そなたに罪はない。王子を産んでくれたことも、日々正妃としての務めに励んでいたことも……。そなたの努力はすべて知っている」
「それならば何故!! 何故、わたくしまで――」
「許せ。そなたの運命を狂わせたのはすべて王太后だ。僕などを選ばなければ、そなたはもっと自由に生きられたはず。愛する男を自ら選び、そやつを愛し、妃として王に献上されることもなく、もっと女らしい一生を送ることができたであろう。それを奪ったのはまぎれもなく僕と僕の母だ。恨むなら僕たちを恨めばいい」
「――違うのです!!」
 シュザンヌは震える声を張り上げ、リシャールの前に飛び出した。
「陛下……。わ、わたくしは……。わたくしはずっと、あなた様を……!」
 リシャールは驚き、琥珀の双眸を見開いた。言葉の続きを悟ったのか、わずかに息をのむ。
「…そうか。そうだったのか。シュザンヌ……」
「はい……、はい……。十六の春……伯母様に連れられて、初めてあなたにお会いした時から」
「……すまぬ。そなたの言葉を、僕はずっと信じられずにいた。母上の命で僕を懐柔しようとしているのだとばかり」
「そのようなことは、ございません……!! わ、わたくしこそ、お許しください、陛下!! わたくしはただ、あなた様に振り向いてほしかったのです……。だからあのような過ちを繰り返しました。そうすれば嫉妬、してくださると……、いいえ、関心を持ってくださると思ったから……!!」
 結い髪を乱して、シュザンヌは泣きわめく。バイオレッタには彼女が、頑是ないただの一人の少女のように見えた。
「……許せ」
「……!」
 シュザンヌは弾かれたように顔を上げる。……一瞬だけ、深い絶望が双眸に宿る。
 だが、近づいてきたリシャールに強い抱擁をされ、心からの安堵の色がゆっくりとその顔に浮かんだ。
 互いを許し合うための抱擁を、しばし国王夫妻はしあった。
 そこに愛はなかった。だが、二人の間にはもうなんのわだかまりもないようにバイオレッタには感じられた。
「……ありがたき幸せにございます、陛下」
 静かに礼を述べるシュザンヌは、もう死を恐れてはいなかった。自らリシャールから身を放すと、衛兵の拘束に身をゆだねる。
 その細い背中に、リシャールは静かに声をかけた。
「……来世、また巡り合うことがあったら。その時は、このような仲にはなりたくないものだな」
「陛下……。いいえ。王妃として、こうして最期まであなた様のおそばに置いて頂き、この気持ちを聞いて頂き……幸せでございました。たとえわたくしたちの間に確かなものが何もなくても……もう、大丈夫ですわ」
 おとなしくなったシュザンヌを、衛兵が連れ出してゆく。
 彼女は一度だけ振り向いた。
 リシャールもまた、まっすぐに彼女の瞳を見据えていた。かつての妃に向けられる恨みを、やりきれなさを、……愛を。すべてを受け止めるかのように。
「さようなら、わたくしの陛下……」
 寂しげに微笑み、かすれる声でそうつぶやくと、シュザンヌは扉の向こうへ消えていった。
 
 
 次の瞬間、糸が切れたようにリシャールは後ろに倒れこんだ。
「お父様……っ!」
 バイオレッタは弾かれたように父王のもとへ駆け寄り、華奢なその身体を抱き起こした。
「お父様! いや……、だめです! 今、宮廷医を……! 誰か!!」
「待て……、バイオレッタ。呼ばずともよい」
 けれど、リシャールの唇からはひゅうひゅうと絶えることなく喘鳴が漏れる。蒼褪めたその顔に、いつもの威厳はない。
 バイオレッタはそっとその手を握った。
 リシャールは彼女に向けて薄く微笑み、おもむろに口を開く。
「……王女たちよ。聞くがよい」
 バイオレッタが目をやると、リシャールの傍らに集った王女たち――ピヴォワンヌ、オルタンシア、ミュゲの三人が顔を見合わせてうなずいた。
「……僕は……そなたたちにとってけしてよい父親ではなかった……。は……、一体誰が認められようか、こんな幼い姿の王を。だが、そなたたちと過ごした時間が、今となっては愛おしくて……」
 次の瞬間、リシャールはその唇からごふりと血を吐いた。
「お父様……!」
 唇からどくどくと溢れる鮮血に身じろぎ、それでもなおしっかりと父王の身体を支える。
 リシャールはあけにまみれた顔を懸命に持ち上げ、言った。
「試験の判定を、今こそ下そう。……オルタンシアよ」
「はい」
「そなたは強い王女だ。不義の子と呼ばれてもくじけぬし、僕の臣下たちと渡り合うだけの頭脳もある。剣も扱える。そなたならば≪武≫をもって他国を征する強い女王になれるであろう」
 オルタンシアは黙り込む。
 険しい表情のまま父王の顔を見つめていた彼女は、次の瞬間すっと顔を上げた。
「お父様」
「なんだ……」
「わたくしはこれまで知りませんでした。わたくしの強さは、時に人を傷つけることがあるのだと。わたくしには、周囲を気遣うだけの力が圧倒的に足りなかったように思います。いつも自分の意思だけを優先させ、自分についてこられない者や自分にとって理解できない存在を知らず知らずのうちに否定してしまっていた。そんな気がするのです」
「そうか……」
 第一王女のいつになく気弱な発言に、リシャールは驚かなかった。
 それどころかむしろ誇らしげにそのおもてを見上げている。
「オルタンシアよ。そなたはやはり賢い姫だな。そうして自分自身を見つめ直し、客観視できるだけの余裕があるのだから」
「余裕など」
「いや……、最期にそんなそなたの姿が見られて、僕はとても嬉しい。いつも自信に満ち溢れて堂々としていたそなたに、他者の心をおもんぱかるだけの優しさとゆとりが生まれた。この事実に、僕は何よりも胸打たれている。そなたはこれからもっともっと強くなれるであろう。その輝きを失わず、さらなる成長を遂げよ。期待しているぞ」
「はい……!」
 次に名を呼ばれたのはミュゲだった。
「ミュゲ。そなたは僕に病身であることを隠していたな」
「……!」
 びくりとするミュゲに、リシャールは「よいのだ」と言う。
「そなたはそれを瑕疵かしだと思っていたのであろう? 世継ぎの王女としては不完全だと……そう考えたのではないか」
「はい。わたくしはずっと自分の身体を厭わしく思っていました。玉座と宝冠を授かるだけの能力など自分にはないと……」
「そなたのそれは一種の強さだと、僕は思う……」
「……何故でしょうか、お父様」
 ミュゲの問いかけに、リシャールは琥珀の双眸をいたわるように細めた。
「たった一人で苦しみや孤独と向き合って生きるのは容易なことではないからだ……。それはまぎれもなく『強さ』であろう。他者に理解されずとも、そなたはここまで懸命に生き続けてきた……、ただただ毅然と。そして、そなたは賢い。ただ美しいばかりではなく、困難を乗り越えるだけの底力があるように思う。民はいつも苦悩や困難と闘っている。それを考えれば、知性と忍耐力の備わっているそなたも女王にはふさわしいだろう……、っ……!!」
 咳き込むリシャールを、バイオレッタは抱きかかえる。彼は「よい」と言ってから続けた。
「そなたの信念は立派だ。己を阻む障害が現れても、いくら姉姫と比べられようとも。そなたは自分自身というものを強く保ち続けてここまで歩んできた。そなたこそは謙虚で利口な賢い姫だ……」
「いいえ……。わたくしにそのような力などありません。わたくしは、ともすれば自らの目指すべき道を見誤ってしまうような危うい姫です。困難に弱く、自分の欲望にも弱い。脆弱で、後ろ向きで、そのくせ矜持だけは高い、そんな人間なのです」
 リシャールはオルタンシアとミュゲの顔を順繰りに見やってふ、と笑う。
「驚いたな……。そなたらの口からこうも真摯な言葉を聞く日がこようとは……」
「わたくしは、これまで散々お父様に生意気な口を利きました。どうか許してください」
「……よい。僕の方こそ許してくれ。そなたらの娘としての自由を拘束し、女王候補として時に辛く厳しく当たったことを……」
 オルタンシアたちはふるふるとかぶりを振る。
 二人の顔を丹念に眺めたのち、リシャールはミュゲの手を取って小さな声でささやいた。
「ミュゲ。そなたの辛さを何一つ理解してやれず、すまなかった」
「……!」
 ミュゲは「いいえ」と言い、その翡翠の瞳からぽろりと大粒の涙をこぼした。
「……ピヴォワンヌ。そなたは王位には関心がないようだったが、僕はそなたもよい女王になれるのではと思っている。バイオレッタを助けに行きたいといって僕に頭を下げたそなたの姿に、僕は胸を打たれた」
「……ええ。あたしはその子が、大事だもの」
「他者の命を大事にできるということは……、慈しみ深いということ……。君主の絶対条件だ……。そなたと出会ったばかりの頃、僕はそなたをとても勇敢な娘だと感じた。復讐のためになら王にまで牙を剥く。そこまで自分の血族を大切にするというのは、なかなかできることではない。そなたはそなたが思っている以上に素晴らしい姫だ。それを……もっと誇れ。最後に……」
 息を切らせながら、リシャールはバイオレッタを見上げた。
「バイオレッタよ……」
「はい、お父様」
 弱々しく握られた手に、バイオレッタは表情を引き締めた。
「……そなたは変わった。最初は震えているだけ、守られているだけの気弱な娘だった。だが、そなたは強くなった……。そなたはこの一年で芯の強いたくましい王女に成長したように思う。自分の足で立ち、自分の目で目指すべき道を選択し、そうして選んだ道を自らの意思で信じて進んでゆける……、そんなたくましさを持った王女に……」
 その言葉にじわりと涙が溢れてきたが、バイオレッタは必死に笑顔を作った。
「……そのようなことはありません。わたくしは今でも非力で弱い、至らぬ王女です。……ですが、お父様にお褒め頂けて、本当に嬉しいですわ」
 ごほごほと幾度か咳き込み、リシャールは静謐の色を瞳に湛えてつとバイオレッタを見上げた。
「クロードとの仲を引き裂いたこと、悪く思っている……、許してほしい……」
「いいえ、そのような……!」
「そなたはあやつを、愛していたのだな……。僕は自分の都合だけでそなたの自由と未来を奪った。本当に勝手な父親だ……。そなたはもう、何も知らない子供ではないというのに……」
 リシャールの指がするすると頬を撫でる。冷たい指だった。
「そなたに想いを遂げさせてやりたかった。心の底ではクロードにならそなたを任せてもよいのではないかという気持ちがあった。だが、親としてそなたをしかるべき血統の男に嫁がせてやりたいとも願っていた……。そなたは大事なわが妻の忘れ形見……、生半な男にはやりたくないと……」
 リシャールの手を取り、バイオレッタは未だ胸に残る想いの残滓を振り切って口を開いた。
「……いいのです。お父様のお気持ちは、きちんとわかっております。これが、わたくしとあの方のさだめだったのでしょう」
 物わかりのいい娘のふりをしつつも、バイオレッタの胸はとめどない悲しみでいっぱいだった。
 そして、実の父親よりも愛しい男の方を選び取ろうとする自らの心を強く恥じた。
 父王との別離の時が近づいているという時に、バイオレッタの心はクロードへの哀惜の念でいっぱいだった。
 この先に待ち受けるリシャールの死をまともに悼む余裕がないくらいには、彼女は恋人との永久の別れに打ちひしがれていた。
 肉親よりも恋人の方へと流れようとする身勝手な心を、バイオレッタはなんとか律しようとする。
 だがその時、真下から伸びてきたリシャールの指先がその唇を柔くくすぐった。
「……そなたは、まこと嘘が下手だな」
「……!」
「欲しいものは、欲しいと言え。そなたはもう、利口な娘のふりなどしなくともよい。そなたこそは、真に得たいものにもっと忠実になれ」
「お父様――……!」
 バイオレッタのすみれ色の双眸をしっかりと捉えたリシャールは、励ますように小さく笑む。
 最後の力を振り絞ると、彼は頭をもたげて四人の王女たちを見た。
「――王女たちよ! 僕はそなたら全員に女王としての素質と才覚を見出した! よって、女王選抜試験の判決はそなたらが決めるがよい!」
「……お父様、そんな……!」
「我こそはと思うものが、次代を担え。そなたらはもう子供ではない。言葉を持ち、心で悩み、自らの命やあり方について答えを導き出せるだけの能力が備わった『大人』だ。次代はほかでもないそなたたちの時代だ。そなたたちが作り出す時代、そしてそなたたちがいくらでもよくしてゆける時代でもある。声を上げろ。戦うことを恐れるな。そして掴め……、そなたたちの望む未来を」
 彼は掌を高々と掲げると、その言葉通りに虚空をぎゅっと握り込んだ。
 そしてまだ見ぬ天の世界を垣間見たかのようにその双眸を眩しげに細める。
「……僕はもうかねばならぬ。そなたらの作り出した世界を確かめる前に、僕のこの命は奪われる。だが、案じるな。そなたらにならばできる。前を向け。そして新しい時代を創り上げるのだ」
 刹那、プリュンヌが駆け寄って勢いよくその胸に取りすがった。
「お父様! お父様……、死んでは駄目です! きっとなにか、いいお薬が見つかります! だから、いなくなってはいやです、お父様……!」
 すがりついてわっと泣きわめくプリュンヌに、リシャールはふ、と笑った。
「プリュンヌ……、泣くでない。そなたの涙には勝てぬ……。この冷血な父を、そなたはもっと恨んでもいいくらいだ」
「ですが、お父様はプリュンヌをこうして育ててくれました! プリュンヌは忌み子です、王宮から出て行くように命令することだってできたはずなのに……。なのに、お父様はずっとあの塔で生活させてくれました。本当はプリュンヌ、お父様もお母様も、誰が悪いなんて思ったことはなくて……!」
 舌足らずな口調で一生懸命に言葉を紡いだ後、プリュンヌはさらに激しくしゃくり上げ始めた。父王の胸にすがり、小さな肩を震わせて泣く。
「ああ、ああ……、そのように泣くな。今だけ……、こうしていよう」
「いやです! ずっと……、ずっとこうしていてほしいです! なのに……、どうしてできないのですか……!」
 洟を啜り、涙にまみれた顔をごしごしと擦りながら、プリュンヌはリシャールの胸で嗚咽する。
 やんわりとその背を撫でさすると、リシャールはつと顔を上げてアスターを見上げた。
「アスターよ。長年のそなたへの仕打ち、どうか許してほしい」
 その言葉に、アスターは弾かれたように顔を上げた。
「父上……、そんな、僕は――」
「……そなたはいつもそうだな。父である僕を少しも恨まぬ、優しい男だ。その気性が、僕にはいつも眩しかった……」
「父上……」
「どうすればそなたに寄り添えるのか、わからなかった……。親としてそなたを喜ばせてやりたい、理解してやりたいという気持ちはいつもあったというのにな……」
 アスターは瞠目し、ぐっと唇を噛みしめた。
 二人は、一瞬強く視線を交錯させる。
 アスターが首を大きく横に打ち振ったのを見届けるなり、リシャールはとうとう全身からふっと力を抜いた。
「……僕の子供たちよ。みな、幸せになれ。愛した者たちと手を取り合って、いつまでも……」
 途切れ途切れに――ささやくように言葉を紡ぎ、彼は黄金きんのまつげを震わせて眠るように瞳を閉ざす。
 父王リシャールは、そこで完全に事切れた。
 
「いやああっ!! お父様っ……!!」
 
 アスターが胸を打たれたように顔を歪め、緩やかに硬直が始まった父王の手を握った。
「父上……!」
 ≪享楽の間≫は今やバイオレッタたちの歔欷きょきの声で満たされていた。
 ピヴォワンヌは苦しげに眉を引き絞り、幼少期から父王に懐いていたオルタンシアは整った美貌をぐしゃぐしゃにして泣いている。
 だが、バイオレッタにとってもっと痛ましかったのは、背を震わせながら静かに涙を流しているミュゲの姿だった。
 その双眸からはとめどなく透明な雫が溢れてゆく。本人は泣くまいと歯を食いしばっているのに、こらえきれずにひっきりなしに嗚咽が漏れるさまは、思わず肩を抱いて慰めてやりたくなるほど悲愴だった。
「……わたくしは……! とうとうお父様に何もお返しできなかった……! お母様を恨んだことはあっても、お父様を憎く思ったことなんてなかったのに……!」
「ミュゲ様……」
「わたくしたちは、お父様の一体何を理解していたのかしら……。たった一人で王太后様に立ち向かい、呪いと逆境に耐えて……」
 痛哭するミュゲに、プリュンヌがおずおずと寄り添う。
「お父様は……、幸せだったはずです。プリュンヌは……そう思っています。だって、一人じゃなかった。プリュンヌは思うのです。血が繋がってても繋がってなくても……、一人ぼっちのお父様には『家族』が必要だったんだって。だからプリュンヌたちを大切にしてくれたし、邪険にせずにここまで王宮で育ててくれたのだと思います」
「そうね……。お父様はずっと孤独でいらした……。本当は弱音を吐きたいと思うときもおありだったと思うの。でも、この国の王として最期まで気高く生きた。国王としての誇りを保ち続けたまま、最期の時まで一生懸命生き抜いたのよ……」
 プリュンヌは手の甲で涙を拭くと、小さな手でそっとリシャールの蒼白い頬を撫でる。
「もう、大丈夫ですよ、お父様。少し寂しいけど……、だってエリザベス様、すぐそこまで迎えに来てますもの……」
 プリュンヌの言葉につられるように、王女たちは宙を仰いだ。
 バイオレッタは、本当にすぐそばまで母妃がリシャールの霊魂を迎えに来ているような錯覚に陥る。
 そして、聞くはずもない彼女の声を聞いた気がしてさらに激しく嗚咽したのだった。
 
 
 ……陛下。わたくしの陛下。わたくしのところへ帰ってきてくださるのを、ずっと待っていたわ。
 さあ、行きましょう。今度こそ同じ時間を生きて、同じものを見て、たくさん笑いあって。
 そして次の時代を生きる者たちを、ともに見守っていきましょう……。
 あの日と同じ、何も変わらない美しい世界ばしょで。
 
 
 
 

 

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