第七章 帝国の滅亡

 

 月光にしっとりと濡れそぼる、王城のバルコニー。

 アイリスはエヴラールの腕の中にいた。

「寒くはありませんか」
「ええ、大丈夫です」
 寝室から続いているこのバルコニーは二人のお気に入りの場所の一つだ。
 ここからは帝都の街並みが一望できるうえ、夜間は空の星々を見上げて愉しむこともできる。
 このバルコニーに立って風景を眺めながらおしゃべりをするのが二人のささやかな娯楽だった。
 毛皮のケープを広げたエヴラールに背後から抱きしめられながら、冬の夜空を並んで見上げる。
 凍てつく空気の中でちかちかと明滅する星々に、アイリスは束の間思いを馳せた。
 天の国で見る月は、地上で見る月よりも遥かに大きく美しい。
 七大陸が浮遊の力を増した今、藍色の空にぽっかりと咲くそれは今までよりさらに鮮麗で華やかに見えた。
「わたくしたちが初めて出会ってから、もうじき一年ですね」
「ええ。あっという間でしたね」
 第一印象こそ互いに悪かったものの、今では二人は志を同じくする夫婦としてすっかり馴染んでいる。
 そのことに対して、アイリスはなんとも言えない感慨を覚えた。
 ひとしきり話をしたのち、温めた一杯のワインを交互に口に運ぶ。
 夫の関心が再び天体へ向けられる前に、アイリスはそっとその手を掴んだ。 
「……エヴラール様。もしお嫌でなければ、ダリア妃のことももっと気にかけて差し上げてくださいませんか」
 アイリスがおずおずとそう言うと、エヴラールは蒼穹の瞳をわずかに見開く。
「ダリアのことを? なぜ正妃である貴女がそのようなことを……」
「正妃だからというのはこの際関係ありません。わたくしは、同じ女として彼女のことを心配しています」
 東の小大陸メローペから輿入れしたダリア妃の話は、アイリスの耳にもよく届くものだった。
 彼女は幼い頃からエヴラールに片思いしており、此度の輿入れは彼女たっての希望だったのだそうだ。
 アイリスが見ている限りでは「夢見がちな令嬢」といった印象の強い彼女だったが、その恋慕の情は同じ女としてよく理解できる、と思った。
 加えて、ダリア妃は生まれつき心臓が弱いことでも有名だった。
 本人は「皇帝陛下のお役に立つために薬を飲んででも伽をする」と主張したそうだが、体調の悪化を懸念した周囲がなんとか止めに入った。
 そのため、エヴラールは彼女を宮殿に呼んでもろくに夜伽もさせず、ただ寝物語と添い寝を頼む程度だという。
 むろんここでいう添い寝というのは言葉通りの意味であって真の意味での伽ではない。
 ダリアはそんな己の状況をひどく恥じており、そのために正妃であるアイリスを目の敵にしてくることも多かった。
 だが、同性であるアイリスにはダリアの切ない心中やもどかしさといったものが手に取るようにわかるような気がした。
 病弱であるがゆえに夜伽もさせてもらえず、憧れの君を前にしても男女の関係に進展することもない。これはダリアにとっては耐えがたい屈辱だろう。
 だからこそエヴラールにはそんな彼女を蔑ろにしてほしくなかった。
「……エヴラール様のできる範囲でかまわないのです、もう少し後宮にいる女たちのことも見てあげてください。彼女たちはみな大陸のため、家のためにあなたのところへ嫁いできています。それも、たった一人ぼっちで。彼女たちだってあなたと何も変わらない、ただの一人の人間なんです。七皇妃としての孤独や寂しさと日々戦っているの。ですから、もう少しだけ優しくしてあげてほしいのです」
 エヴラールは神妙な面持ちでそれを聞いていたが、やがてゆっくりとうなずいた。
「わかりました。アイリス、貴女の言うように、もう少しばかり他の皇妃たちのことも大事にすることにいたしましょう。……ですが、ダリアのことなら心配はいりませんよ」
「えっ……?」
「どうやら宰相のキリアンが彼女にご執心のようなのです。時々私のところにダリアの件で相談にやってくるのですよ」
「キリアン様が……?」
 スフェーン帝国の宰相、キリアン・バルテル。
 七皇妃として迎えられた日に一度だけ言葉を交わした彼のことを、アイリスは思い出していた。
『何かお困りのことがあればいつでも僕に言ってくださいね、アイリス様!』
 そう言って軽やかに微笑んだ、まっすぐな白金の髪とアイスブルーの双眸を持った青年。
 エヴラールに対してやや厳しく当たるところもあるが、新皇帝を支える人物としては非常に優秀で頭の切れる素晴らしい宰相だ。
 だが、まさか彼がダリアに執心していたなんて……。
「ああ見えて彼はなかなかのやり手ですからね。皇室舞踏会が催される夜には必ず女性たちに群がられているでしょう? つまり、女性の心を掴むのに長けているのですよ」
「まあ……」
「私は、彼ならば頑ななダリアの心もうまく融かしてくれるに違いないと踏んでいるのです。夜伽の際に彼女に寝物語しか頼まないのはそういう理由もあります」
「なるほど……、わかりました。わたくしったら出過ぎたことを言ってしまって……お許しください」
 エヴラールは大らかに笑ってアイリスを許した。
 そして物憂げな顔つきでぽつぽつと語り始める。
「……ダリアのことは、正直今は妹のようにしか思えないのですよ。彼女は確かに美しい。ですが、宴の度に身体を壊している姿を見ると、どうしても愛情よりも庇護欲の方が勝ってしまう。それは兄が妹を気遣うのによく似た感情なのかもしれません。守りたいとは思います。ですが、それだけです」
「……庇護欲」
「貴女には私のそうした感情はよく理解できないかもしれませんね。ですが実は、他の七皇妃に対しても同じなのです。私という人間を構成する要素の一つではありますが、それだけなのです。それ以上の感情など、どう足掻いても抱けそうにありません」
 アイリスはエヴラールの顔を振り仰ぎ、その瞳の色を探る。
「……それは、わたくしが正妃になってしまったからですか?」
「……その口ぶりでは、まるで本当は私の正妃になどなりたくなかったと言っているようですね」
「そんなつもりじゃ――」
 アイリスのふっくらした唇を指で辿りながら、エヴラールは静かに言った。
「貴女はたまに不思議なことをおっしゃいますね。私の最愛が貴女だけだと知っているにもかかわらず、貴女は自分より他の皇妃たちの心配ばかりなさる。私は一体どうすれば貴女に信用していただけるのでしょう」
「……!」
「いつか言ったように、本当に私が他の七皇妃の相手をすれば。そうすれば貴女は満足ですか? 他の女性に夫を奪われ、そんな状況に独り身悶えて。それで貴女は本当に満足なさるのですか」
 その一言で完全に逃げ場をなくし、アイリスはうなだれる。
 するとエヴラールは、やおらアイリスの身体を反転させた。夜気で凍えた耳朶に口づけを落としながら、ほっそりとした両肩を手のひらで包み込む。
「認めてしまいなさい、アイリス……。貴女は私を愛しているのです。貴女は本当は私に他の妃のところになど行ってほしくないのですよ。だからそうして意地を張っているのです」
「エヴラール、さま」
「私が真の愛情を捧げるのは、アイリス、この世で貴女一人だけです。それをどうかお忘れにならないでください」
 希うなり、エヴラールはアイリスの唇を自らのそれで塞いでしまう。
 言の葉を証明するかの如く情熱的な口づけに、アイリスは瞬く間に翻弄されてしまった。
 シルクの夜着越しに、エヴラールの長い指先が身体のあちこちをさまよう。
 夜風でしんと冷えた素肌を、熱い手のひらが辿ってゆく。
 すでに馴染みきったその感触は、アイリスを昂らせはしても怯えさせることはない。熟れきった身体がエヴラールの手によって陥落させられるまで、そう時間はかからなかった。
 薄く月明かりの射しこむ寝台の上で、アイリスはエヴラールの言動に易々と耽溺させられてしまう己の心身を恨めしく思った。
 身も心も奪われたあの日から、アイリスは随分変わってしまった。
 男の手によって手折られ、その傍らで咲き続けることを運命づけられたあの日から。
 アイリスの心身は今まで以上に言うことを聞かなくなってしまった。
 恋という想いがそうさせるのか、あるいはすでに心がエヴラールに繋がれてしまっているのか。
 どうして自分はここまで変わってしまったのだろうと、彼女は口づけに陶酔しきった頭の隅で考えた。
(嫌……。このままでは、わたくしはあなたなしでは生きていけなくなってしまう……)
 ……また、火をけられる。わかっていても、アイリスの心身はエヴラールの指先にいともたやすく溺れていった。
***
 その日、エヴラールとアイリスは飛行戦艦に乗って東の小大陸アルマクへ視察に赴いた。
 部族長の報せによれば、アルマクではここ最近地族による侵攻が激しくなっているという。
 エヴラールとともに赤銅色に輝く戦艦に乗り込みながら、アイリスは眉根を寄せた。
「……なんだか妙ですわね。先日も小大陸の一つが襲撃されたばかりですし。けれど、七大陸の周りにはイスファート様の守りの力が働いているはず。もしやそれを突破してきたということでしょうか」
「今の地族にそれだけの力があるとは思えません。ですが、かの地にも我が国と同じように宮廷付きの魔導士や術者がいるのだと聞き及んでいます。彼らが同乗しているのだとしたら油断はできませんね……」
「何かあれば、俺やリナリアがお守りしますから大丈夫ですよ。お二人はどーんと構えててください」
「ええ……」
 普段は心和まされるイジークの軽口にも、今日はどういうわけか笑うことができない。
 遠方に密集する雲の峰を窓越しに見やり、アイリスは自身を貫く不吉な予感に胸を逸らせていた。
 たどり着いた小大陸アルマクの都で、二人は地族による強奪・殺傷の話を聞いて顔を見合わせた。
「どういうことなのでしょうか」
「わかりません。ですが、実際に見てみればはっきりするはずです」
 そうして都の中心部にやってきた二人は、途端にそこに足を運んだことを後悔した。
 都には人の屍が未だ点々と転がっていた。質の悪いいたずら書きのような紅い血飛沫の痕が、街のいたるところに沁みついている。
 視界に飛び込んでくる亡骸の山と、都のあちこちから容赦なく漂ってくる死臭……。
 アイリスは逃げ出したくなる己を強く律した。
 顔色の悪さを案じたリナリアが、そっと声をかけてくる。
「アイリス様……、無理をなさらないでください。お嫌なら戦艦に戻られても――」
「いいえ、大丈夫よ。皇妃である以上、わたくしにはこの惨状を見届ける義務がある。戻るわけにはいかないわ」
 アルマクはかつて独自の文化と特産品で栄えたところだが、今回の一件によって無人になってしまった地区も多く、都に以前のような活気はない。
 荒らされた路上にうずくまる、負傷した住人たち。通りをゆく人々のおもては皆一様に暗い。
 エヴラールはぎり、と奥歯を噛みしめ、小刻みに震えている。
「……落ち込まないでください、エヴラール様。また新しい策を練りましょう。わたくしも一緒に考えますから」
「ですが、こうも派手にわが帝国の領土を侵されては……!」
「大丈夫です。きっとなんとかなります。二人ならきっとなんとかできます。だから、今は前を向きましょう」
 そう言って、うなだれて震えるエヴラールの背や肩を撫でさする。
 楽観的で、しかもどこか他人事のような口調だとは思ったが、今のアイリスには正直それしかかける言葉が見つからなかった。
***
 ようやく帝都カリナンに到着し、二人は飛行戦艦を降りて港に下り立った。
 顔に広がる濃い憔悴の色もそのままに、アイリスはエヴラールとともに王城へ向かう車まで移動しようとする。
 ……その時。
「……来たな、エヴラール」
 壮年の男が二人の前に立ちはだかる。
 見覚えのある顔立ちに、アイリスははっと息を呑んだ。
「あなたは……!」
 先代皇帝のゴーチェだった。
 なぜ彼がこんなところに……。そう思った次の瞬間、彼は毒々しいほど紅いマントを払って傲然と笑んだ。
「この間の礼がまだだったからな。今日はお前とスフェーンにとっておきの絶望をくれてやる」
「父上、何を――」
 そこで周囲の帝国騎士たちが一斉にエヴラールを取り囲み、彼に銃を向けた。
 小銃は本来であれば戦場で用いられるはずの武器だ。
 戦闘用の飛行戦艦に搭載されることもあるが、主に殺傷や殺戮を目的とした場でしか使用されない代物で、かつて地族の大量虐殺の際に使われたことでも有名だ。
「……なぜそんなものを私に」
「こやつらは余の配下だ。よって、余の命令しか聞かぬ」
「なんと卑怯な――!」
「ははははは!! そういうお前もこの前余に対して全く同じ手管を使ったではないか? なあ、エヴラール?」
「……っ!」
「――お前たち、陛下をお守りしろ!!」
 号令をかける将軍イジークに、なんと帝国騎士は臆することなく照準を定めた。
「動くな!! 動いたらこの皇帝の命はないぞ!!」
「な……っ!?」
 固唾を呑み、アイリスは淡々と辺りの様子を観察する。
 何かがおかしい。
 港でこうして待ち伏せをされていたことももちろんだが、手のひらを返したようにエヴラールに銃口を向けてくる彼らのやり方は明らかに常軌を逸している。
(どうなっているの……? 一体何が起きているというの?)
 まさか。
 一瞬、嫌な予感が胸をよぎる。 
 先ほどの帝国騎士のイントネーションは、地族の民のそれではなかったか、と。
「ふん。それでいい。お前はそこで黙って見ていろ、エヴラール。お前の愛した女と国が奪われるのをな」
「馬鹿を言わないで!! この方たちに手出しはさせない!! 来るなら来なさい、あたしが相手よ!!」
 ゴーチェはそう言って臨戦態勢に入ったリナリアには目もくれず、そばに控えていた痩身の男に向けて顎をしゃくる。
 男はニッと笑ってエヴラールたちの方へ手を伸ばした。
 ……否、正確にはアイリスへと。
「……さあ、俺と遊ぼうか、お妃様」
「……!」
 次の瞬間アイリスの目が捉えたもの。
 それは、自身の身体めがけてするすると伸びてくる黒い魔術の環だった。
 漆黒の茨のようにも見えるそれは、あっという間にアイリスの四肢に巻き付いた。
 黒い鱗粉を散らしながらじわじわと腕や脚を拘束してくるそれに、アイリスは呻き声を上げる。
「あうっ……!」
「アイリス!!」
 アイリスはざわざわと蠢きながら自らの肢体を取り巻くそれに、薄紫の双眸をすっと険しくした。
(これは――!)
 ……茨の棘が食い込んだ箇所から、魔力が引き出されている。
 風神との契約で得た強力な魔力を、茨は根こそぎ吸い取ろうと蠢く。
 搾取の術式だ、と気づいた時にはすでに遅く、アイリスの身体は茨に魔力の吸収を許してしまったあとだった。
「くっ……!」
 痩身の男の顔をねめつけ、アイリスはくしゃりと顔を歪めた。
「人の魔力を奪って戦おうだなんて、なんて卑怯な真似をするの……!」
「戦では戦略の良しあしは関係ない。たとえどんな手を使ってでも勝てばいいのさ」
「この……、卑劣漢! あなた、それでも魔導士なの……!?」
 甲高い声で罵るアイリスに、男は肩をそびやかしてくつくつと嗤った。
「おっと、お妃様。そんな口を利いていいのかい。俺には見えているんだぜ、お前の身体を取り巻いているそれ・・が」
「……!」
 男は切れ長の目を眇めてくつりと嗤い、勢いよく手を突き出した。
「――茨よ。第一の“環”を打ち壊せ!」
 刹那、打たれるような衝撃がアイリスを襲う。
 キンと音を立てて外れた魔術の環に、アイリスは蒼白になる。
(まさか――)
 ねめつければ、男は口角だけでにんまりと笑ってみせた。
 そこでアイリスは自分たちに勝算がないことを悟る。
 味方に擬態した敵対勢力。不穏な形で突破された魔術防護壁。
 そして、頃合いを見計らったかのように姿を現した先帝ゴーチェ。
 これらの事実が指し示すものはただ一つしかない。
 それは――。
「……先帝、ゴーチェ……! まさか、地族の民たちと通じていたなんて……!」
「な――!」
 絶句するエヴラール。
 アイリスは四肢に絡む茨をすべて振り払ってしまうと、脂汗の滲んだ額を強引にぬぐって言った。
「この方は恐らく自ら地族の国に赴いて彼らをこのスフェーンに引き入れていたのでしょう。あなたの統治するこの国の態勢を、根本から大きく覆すために。それがあなたの治世に対する一番効果的な復讐の仕方だと気づいていたからです」
「な――」
「地族との内通、そして秘密裏の結託……。この内乱に乗じてあなたの国を簒奪すること。それがあの方の真の狙いです」
 これは立派なクーデターだ。
 恐らく彼は息子に復讐するタイミングを虎視眈々と狙っていたのだ。
 いきなり地族が侵攻してくるようになったのも、彼らが空を飛ぶ飛行戦艦を開発するに至ったのも。
 ゴーチェが手を貸していたのだとすれば辻褄が合う。
 彼が地上の者たちと徒党を組んで天の国崩壊を目論んでいたのだとしたら。
「ハッ……やっと気づいたか。だが遅い、遅すぎるわ!!」
 ゴーチェはぞっとするような笑みを浮かべて二人をねめつけた。
「余はずっとお前が憎かった!! わが妻の愛情を一心に受け、優秀な友に恵まれ、この余よりもスフェーン皇帝にふさわしいと謳われていたお前のことが!!」
「父、上……」
「お前の母親は政略結婚で余に嫁いだが、一度たりとも余に心を開くことはなかった。だが、お前はどうだ? 子であるというだけであやつのすべてを独占し、あまつさえその愛を余すことなく注がれていたではないか!!」
「父上……まさかあなたは……」
 ……母上を、愛していたのですか。
 そのかすれたささやきは、アイリスの耳にもはっきりと聞こえた。
 ゴーチェはなおも怨嗟の言葉を吐き続ける。
「お前の友とやらも同じだ。余の臣下にならぬかと誘いかけても、自分たちはエヴラールに仕える身だからといって余の誘いを退けた。腹立たしかった……お前が憎くて憎くてたまらなかった!! 同じ血を分けた息子でありながら、お前はあまりにも余とは違いすぎる!! そんな息子の成長を傍らで見ていた余がどれほど辛かったか、お前にはわかるまい!? お前のその高潔さが、余にはいつも目障りでならなかった……!! エヴラール、お前が余からすべてを奪っていってしまったのだ!!」
「そんな……、父上、私は……!」
「……殺してやる。いや、お前を殺して余も死ぬ!! 道連れにしてやる、エヴラール!!」
 アイリスはそこでエヴラールを庇うように前へ進み出た。
 そのままゴーチェ、そして痩身の術者と対峙する。
「……エヴラール様。お逃げください」
「何を」
「飛行戦艦にお戻りになってください。早くここを離れるのです」
「な……!」
 ……対象にかけられた術式を解除するためには、その術式を遥かに上回るような魔術を展開させなくてはならない。
 あるいは、術を施した術者本人を害するか。
 つまり、アイリスが戦わなければこのスフェーンは守れないということだ。
 アイリスの魔力は件の茨によってそのほとんどを吸い尽くされてしまっていたが、かまわなかった。
 なんとかして夫を安全な場所へ逃がさなければ――。
「エヴラール様。わたくしが、なんとか時間を稼ぎます。どうにかしてあなただけでも逃げおおせてください。ここにいてはいけません」
「な……逃げる!? 私一人でですか!? そんなことをしたら、貴女が――」
「いいのです! わたくしのことなど捨て置いて、一刻も早くお逃げください! あなただけでも生き延びなくては……!」
「――おっと、痴話喧嘩か、エヴラール。余を置いてけぼりにして口論とは、なかなかに余裕があるではないか」
「……!」
 アイリスは己を奮い立たせると、遮二無二ゴーチェに向き直る。
「……痛めつけるなら、どうかこの方ではなくわたくしを。わたくしは元よりこの方の手駒です。たとえ無残な死にざまを晒したところで何ら悔いはありません」
「ははははは!! 女のくせに大した啖呵だ!! よいよい、実に気に入ったぞ!!」
「殺すならさっさと殺しなさい!! その代わり、この方には指一本触れさせませんわ!!」
「いいや、それはできぬ相談だ。余が殺したいのはお前ではなくエヴラールなのだから。……だが、そうだな。先に前菜を味わっておくのもまた一興か。ではありがたく馳走になるとしよう」
「……!」
 刹那、アイリスは頬に走った痛みに顔をしかめた。
 術者の手から繰り出された大きな影が、吹き荒れる突風とともにその柔肌を切り裂いたのだ。
「アイリス……ッ!!」
 床にぱたりと血のしずくが落ちる。
 アイリスが痛みを堪えながらのろのろと顔を上げると、術者の男はくいと片眉を持ち上げた。
「さあ、あんたの相手は俺だよ、お妃様」
「この術式……。まさか、あなた……」
「そう。俺は黒魔術師。禁忌の術に触れて地族の国を追われたお尋ね者さ」
 男の手中には爆風が渦巻いており、その中心には漆黒のリンドブルムのシルエットがあった。
 その力の源は明らかに四元素のそれとは異なっている。
 恐らくは秘術の一種だ。……人をいたずらに傷つけ、苦しめるのが目的の。
 術者の男はそこで自らの髪をかきやって傲然と笑った。
「ハッ……、魔導士の連中ってバカだよなぁ。ちょっと秘法や禁忌の領域に触れただけで異端者扱いだぜ? 俺の知識と魔力はそんじょそこらの魔導士のそれを遥かに上回ってるっていうのに」
 黙ったきりのアイリスに向けて、術者は腹立たしげに眉をはねあげる。
「反撃しろよ、お妃様。お前の力とやらを見せてみろ。それともこのままじっくりその身体を切り刻んでやろうか?」
「くうっ……!!」
 疾風とともに再度繰り出された竜の鉤爪に、アイリスの絹のドレスはいとも簡単に裂けた。
 術者は耳障りな哄笑とともに宣言通り「じっくりと」アイリスの素肌を痛めつけてゆく。
 それを見たリナリアが甲高い叫び声を上げた。
「いやああっ!! やめてっ!! アイリスに酷いことしないでぇっ!!」
「おっと……動くな、小娘。お前の相手は余がしてやろう。さて……少しは愉しませてくれるのだろうな?」
「……っ!!」
 それを横目でちらと見やりながら、ぐっと奥歯を噛みしめる。
 帝国騎士に扮した敵兵に包囲されたエヴラール。ゴーチェに斬りかかられているリナリアとイジーク。
 そして、術者の卑劣な技に翻弄されている自分。
(……駄目だわ。わたくしたちに勝ち目はない……!)
 しかし、何があっても、この命だけは守らなければならない。
 なぜなら、アイリスの生命こそがスフェーンの存続を保つ唯一の鍵となるのだから。
 だが、竜に幾度となく傷つけられた身体は、もうろくに力を残していなかった。
 今のアイリスにはもう立っているのもやっとだ。そのことに、危機感と焦燥感を同時に覚える。
(いけない……、このままではわたくしも七大陸もどちらも――)
 その続きをかろうじて呑み込み、アイリスは高らかに腕を翳した。
「来たれ、風雲かざぐも! わが契約の証の元にかの者を滅せよ!」
 しかし、術者はそれをあっけなくかわした。
 そればかりではない。
 微風程度の威力しかなかったアイリスの魔力の塊を、自身のたなごころでさらに強大なものへと変換し、こちらめがけて撃ち返してくる。
「――風雲は黒雲くろくもに。風は嵐に」
「きゃあああっ……!!」
 足をもつれさせてよろめくアイリスを見やり、ゴーチェがさも愉快そうな笑い声を上げた。
「はははははっ!! 風の神の依代と聞いていたが、まさかこんなものとはなあ!!」
 アイリスはその場に膝をつきたくなるのをかろうじて堪えた。
 痛い。悲しい。逃げ出したい。
 もうこれ以上は戦えない。
(だけど、今のわたくしに逃亡という選択肢はない……。わたくしが逃げれば、スフェーンは、エヴラール様は――)
「さあて。そろそろ終わりにするか。お前のその最後の“環”、俺が壊してやるよ!」
 術者の声とともに大きくあぎとを開けた竜のシルエットが迫り、アイリスは瞠目する。
(駄目……っ、間に合わな――)
 刹那、アイリスの全身に打たれたような衝撃が走った。
「ああああああっ!!」
 彼女はそのままがくりと膝をついた。
 がくがくと身体が痙攣するのを止められない。
 火であぶられたような痛みと熱さが全身に襲いかかってくる。
「く……!」
 見るも無残な姿となり果てながらも、アイリスは「終焉」がすぐそこまで迫ってきているのを感じ取った。
(だめ……、始まってしまう……!)
 かすかに感じる大陸の振動に、アイリスはうずくまりながらも総身を震わせた。

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