第九章 贄と依代

 
 その晩、ジン神殿の出現を悟った異教徒たちは、砂漠の合間に突如浮上してきたその建物の中になだれ込んだ。

 
 ランプの灯りを頼りに、ぽっかりと口を開けた闇の中へ身を投じる。

 すると、たちまち神殿内部に燭台の灯りが点り出す。
 まるで彼らの訪問を欣喜しているかのように。
「おお……、これが我らが神のおわす神殿か」
 きょろきょろと無遠慮に辺りを見回し、時折興奮したような呻き声を漏らしながら、異教徒たちは神殿の中をさまよい歩いた。
 
 彼らは今しがた、砦の崩壊の話、そしてシエロ砂漠の異変の報せを聞いたばかりだった。
 もともとシエロ砂漠の近辺を根城にしている彼らには、それは何よりの吉報だった。
 何せ崇拝する火の邪神ジン復活の瞬間に立ち会えるかもしれないのだ、これを逃す手はなかった。
 神殿内には顔のひしゃげたいびつな妖魔像が立ち並び、壁面には原初の時代を彷彿とさせる壁画がびっしりと描き出されている。合間には鎧と剣を封じ込めた硝子製の飾り棚が埋め込まれ、異教徒たちの掲げ持つランプの灯りによっててらてらと妖しく光り輝いていた。
 
 古代語で「第一の間」と書かれた広間に足を踏み入れた彼らは、そこに赤々と炎が燃える立派な祭壇を見つけて歓喜の声を上げた。
 祭壇の前まで進んだ彼らは、そこに強奪したばかりの忌み子の髪と眼球を供えて祈祷の文言を唱える。
「……火の女神の復活を!!」
 そう叫んで酒杯を打ち付け合う。宗徒の契りを交わした者同士で酒を飲みかわし、崇拝する邪神ジンの復活を高らかに祝福する。
 そこで宗徒の代表がすっと歩み出て、祭壇で燃え盛る炎の上に左手を掲げた。
 取り出した小刀で一片のためらいもなく指先の一部を削ぎ落とし、そのまま爆ぜる炎の中へぽとりと落とす。
「……私の血肉を、貴女様に捧げます」
 彼がそう言うと、背後の宗徒たちがわっと歓声を上げた。
 ……その時。
 
『わたくしの復活を願うのか、人の子よ』
 
 甘く蕩けるような女の声音に、異教徒たちは身を震わせた。
 炎の揺らめきに合わせて、誘うような女の哄笑が響き渡る。
 空間全体が轟き、笑い声に合わせてわずかに震動する。
 不可思議な現象に、異教徒たちは顔を見合わせて咆哮を上げた。
「火の女神ジンよ!! ここにいる者はみな、貴女様の復活を心待ちにしております!! どうか、我らにそのたっときお姿をお見せください!!」
 そこで女の笑い声は潮が引くようにすっと収まった。
 沈黙が下りた広間で、異教徒たちがごくりと喉を鳴らした、次の瞬間――。
『……では、まずはお前からだ』
 ……ぐしゃり。
 何かが叩き潰され、撒き散らされる。
 異教徒たちはその異様な光景にひっ、と息をのんだ。
 男であったものの残骸が、神殿の床に弾け飛んでいる。
 そしてその傍らに、この世のものとも思えぬほど美しい女が姿を現している。
「ひっ……!?」
 彼らは本能的な恐怖からじりじりと後ずさった。
 しかし、女は凄絶なまでの微笑を湛えると、手首を伝う鮮血をこれ見よがしに舐めとる。
「どうした? 私を崇めるのではなかったのか、人の子よ」
「ひいいいっ……!」
「邪神が実体を得た程度で怖気づくのか。は……、笑わせるでないわ!!」
 女は――アインは、そうして次々と異教徒たちをほふっていった。
 頭を潰し骨を砕き、飛び散った鮮血すらもあまさず啜り取る。
 瞬く間に命を奪われた宗徒、そしてその上で蠢く女の姿に、男たちは言葉をなくした。
 
 ……女が人を喰らっている。
 久方ぶりに獲物にありついたけだもののように、口元を血で妖しく光らせ、息絶えた男の胸に馬乗りになってその肉に齧りついている。
 
 その事実に、異教徒の男たちはなすすべもなくただ震えた。
 耳孔から入り込んでくる捕食の音色を、彼らは必死で振り払おうとした。
 アインはそこで祭壇に置かれた忌み子の髪と瞳を一瞥し、くだらないとでもいうようにせせら笑う。
「ふふ……。こんなちんけな貢物ごときでこのわたくしが満足するとでも思うのか。それよりもわたくしは、お前たちの生きた血肉が欲しい……。姦淫と殺戮の喜び。それがこの邪神ジンを滾らせる何よりの供物よ……」
 波打つ黒髪を揺らし、アインは高らかに嗤った。
「さあ、もっとわたくしに命を捧げよ!! 足らぬ……、これしきでは足らぬぞ!! 今宵は復活の宴だ!! もっとお前たちの血肉を寄越せ!!」
「うわあああああっーー!!」
 異教徒たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。けつまろびつしながら無我夢中で広間を出てゆく。
 その背中を、アインは高笑いをしながらさもおかしそうに眺めやった。
「愚か者めが。今更逃げたところで遅いわ」
 何せここはアインの城とも呼べる場所だ。人の子ごときの悪あがきは通用しない。
 その数も、居所も、息をしているかどうかさえ。
 神殿の空間全域と神経の繋がっているアインの黄金きんの双眸にはすべてが筒抜けになっているのである。
 邪神に仕える妖魔たちも、そろそろ悠久の眠りから目を覚ます頃だろう。
 彼らに見つかればどうせただではすむまい。
 頭から嫐られるか、あるいは猫が鼠を追い詰めるようにじわじわといたぶられるか……。
 どのみち彼らに退路はない。
 もちろんアインはそれをわかっていて彼らを見逃してやったのである。
 彼女はそこで相反する水の神力を感じ取ってついと顔を上げる。
「……すぐそばまで来ているのだろう、ヴァーテル? 早く姿を現さないと、お前の大事な人間どもが一人残らず喰われてしまうぞ!! はははははは……!!」
 
***
 
 
 痛いほどの静けさの中で、バイオレッタはのろのろと瞳を開いた。
「ん……」
 うっすらと瞳を開き、混濁した意識を無理やり水面へと浮かび上がらせる。
「ここは……」
 背に触れるのは硬い石の感触だ。未だはっきりしない頭で確かめてみれば、夜着姿のまま床の上に手厚く寝かせられていることがわかる。
 身体の下に見慣れたクロードのコートを見つけ、バイオレッタはそっとその表面に手を滑らせた。
 夜着は一番上までボタンが留められ、デコルテを彩る幅広のリボンもきつくしっかりと結び直してある。
 少なくとも狼藉を働かれた痕跡はない。
 そのことにわずかに安堵し、彼女はゆっくりと顔を上げて辺りを見回した。
 
(……遺跡?)
 
 砂塵にまみれた空間にはいくつもの長大な石柱が建てられ、石を積んで造った壁の表面には棺を連想させる細かなくぼみがいくつも穿たれている。
 荒廃した石柱と、その上部で燃える蝋燭の灯り。天井にまでびっしりと並んだくぼみと、その周囲に描き出された不思議な文様……。
 どこか大昔の祠や遺跡を思わせる場所だ。
 ふと頭上を見上げると、そこにはおどろおどろしい顔立ちの妖魔像があった。歪んだ顔を滑稽な角度に傾け、大きな口を開けてバイオレッタを見下ろしている。
 一瞬、その眼がぎろりと光ったような気がして、バイオレッタはすっと顔を背けた。
 すると。
 
「……ようやくお目覚めですか。随分怠惰な眠り姫だ」
「……!」
 
 声につられてそちらを見やれば、そこには黒衣の魔導士の後ろ姿があった。
 部屋の中央――二体の妖魔像に挟まれた祭壇に向かい、彼はその内部で赤々と燃え盛る炎に手を翳していた。
 やおら大型の手燭を取り上げたかと思うと、まだ点火されていない蝋燭を外し、爆ぜる炎を手際よくその芯へと移す。
 彼はそこで背中越しにバイオレッタを批難した。
「全く……。待ちくたびれてしまいましたよ。起きていただかなければ困るというのに」
 やがて、大ぶりの古風な手燭を持ったジレ姿のクロードが歩み寄ってくる。
 そのおもてを見つめて、バイオレッタは息をのんだ。
「……あなたは」
 あの追想で見た若き皇帝の面差しが、クロードのそれにぴたりと重なる。
 その身に纏う色彩こそ異なっているものの、その顔立ちは例の回想で目の当たりにした「彼」のそれと全く同じだった。
「すべてをご覧になったのでしょう? ……そう。私は魔導士クロードではない。皇帝エヴラールですよ。もっとも、それは千年前の肩書ですがね」
 クロード、否、エヴラールはそう言って卑屈に嗤う。
 そのいびつな冷笑の仕方を見て、バイオレッタは二人が同一人物であることを確信した。
 
 あの追想がすべて真実なら、彼は千年という途方もない時間を生きてきたことになる。
 邪神と契約しているのなら、年を取らない肉体というのもじゅうぶんあり得る話だ。
 宮廷の人間たちが彼を化け物呼ばわりしていた理由。それは長い間外見が変わらなかったためだが、その要因がまさかジンだったとは。
 
 一呼吸おいてから、バイオレッタは静かに訊ねた。
「……わたくしを、どうするつもりなのですか」
「そのれものを、明け渡していただきます。貴女の中に眠っているアイリスの魂を、その身体に宿らせるのです」
 クロードは近づいてくると、バイオレッタの首筋を手ですっと撫で上げた。
 刹那、柔肌に彼の爪先がわずかに食い込む。
 ちりちりとした痛みに顔を歪めると、クロードは嘲るように笑った。
「わたくしを愛しているというあの言葉は、嘘だったのですか……?」
「……ええ、最初から愛してなどいませんでしたよ。貴女は所詮、アイリスの器にすぎない」
「……だったらなぜ、そのようなお顔をなさるのですか。どうしてそんなに、傷ついたようなお顔をなさるの……?」
 するとクロードは、普段の彼からは想像もできないほどの底冷えのする声音で言う。
「傲慢ですね。まだ私にそのような期待をなさっておいでとは。貴女に私の一体何がわかるというのです?」
 エヴラールだった頃と何ら変わらない、淡泊な言葉だった。
 
 確かにバイオレッタはクロードの真実の姿を知らないまま今日までの時間を過ごしてきた。
 これまでクロードが見せてきた「顔」がすべて嘘で、偽りだったというなら。
 バイオレッタは、彼の本当の「悲しみ」も、「怒り」も。素顔さえ。
 本当は何も知らないということなのだ……。
 
 思わず口をつぐむと、クロードはそんなバイオレッタを嘲るように嗤う。
「……よい心がけですね。本当はよくわからないことをさもわかっている風に見せかけるなど、大変愚かしいことですから」
「すべて、あなたではなかったということなのですね……。本当はあなたは皇帝エヴラールで、クロード様ではなかったと……」
「それなりに楽しめたでしょう? 私との恋愛ごっこは。貴女に気に入っていただくために、数え切れないほどの苦労をしたのですよ。本当に疲れました」
 ……ずきんと胸が痛んだ。
 
(“恋愛ごっこ”……)
 
 ならば結局のところ、自分は単なるアイリスの代替品(スペア)でしかなかったということなのか。
 彼女が帰ってくれば、もう用なしということなのか……。
 
 だが、あの追想を見てしまった以上、今のバイオレッタにそれをなじることはできなかった。
 元はといえば、先に彼を傷つけたのは自分の方なのだ。
 エヴラールの信頼と愛を裏切り、繁栄の只中にあった帝国を滅亡させ、彼の心に一生消えない傷を残す。
 それが千年前にアイリスが犯した罪だ。それを思えば、このまま彼に好きにされても文句など言えるわけがない。
 彼の目的のために利用されたとしても仕方がないのだ。
 
「……あなたは、本当はわたくしではなくてアイリス様を愛していらっしゃるのですね……。そして千年の孤独にも耐えられるほど、その想いは揺るぎなくて強いもので……。対して、わたくしはただの……」
「ええ。貴女は容れ物だ」
「……わたくしはあなたの悲しみや怒りを理解したいと……、分かち合いたいと思ってきました。ですが、本当にあなたを苦しませているのは、わたくしだったのですね……」
 正確に言うなら前世のバイオレッタ―ーすなわちアイリスの死が、クロードの復讐劇の発端だ。それを考えれば、バイオレッタに固執し続けていた彼の行動のすべてに納得がいく。
「……わたくしは、どうなるのですか」
 慄きながら訊くと、クロードは口元をいびつな形に歪めた。
「生まれ変わりというのはある意味では同種の存在です。記憶と精神を共有し、時には同調することさえあります。その点、貴女はアイリスに最も近しい容れ物で、あまつさえその身に彼女本人が宿っている……。これは非常に稀な事例ケースです。そしてこの世の理でいうなら、一つの肉体に二つの精神は不要……。つまり――」
 バイオレッタははっと目を見開いた。
「まさか……わたくしは、消えてしまうということなのですか……!?」
「ありていに申し上げればそうですね」
「そんな……!」
 クロードは背に流れる髪を靡かせて傲然と笑んだ。
「私の真の目的は、空の帝国スフェーンの再興です。そのためならどんなことにも手を染められます。アイリスとの約束を、私は今度こそ果たしたい。邪魔なイスキアなど、消し去ってしまいましょう」
 バイオレッタは必死で彼の腕に取りすがる。
「……お願いです、クロード様。それだけはいけません……!! 考え直してくださいませ!!」
「貴女の言葉など、私にとってはもう何の意味も持たない。『考え直せ』などと思い上がったことを口にするのはやめてくださいませんか」
 バイオレッタの手をすげなく振り払い、彼はそこで思わずぞっとするような仄暗い笑みを浮かべる。
「貴女の本当の『罪』を教えて差し上げましょうか? ……それは、私を独りにしたことだ」
「――!」
「何年耐えたと思うのです、貴女のいないたった一人きりの世界に。土地は変わってゆき、人もまた変わり、何年待ち続けても最愛の貴女は帰ってこない……。私が、どれだけこの行き場のない悲哀に耐えたか……、貴女などにわかるのですか!?」
 あまりの言葉に、バイオレッタは泣き崩れた。
「……ごめんなさい。ごめんなさい、クロード様……。いいえ、エヴラール様……!」
 頬を幾筋も涙が伝った。
 ……ずっと彼を裏切っていたのは、自分だったのだ。
 
 
 
 クロードは泣き腫らした目のバイオレッタを静かに横抱きにした。
 一対の妖魔像のあわいに設えられた立派な石の台座の上にバイオレッタの身体を横たえる。
 長い夜着の裾がするりと滑り、台座の下まで音もなくなめらかになだれ落ちてゆく。
 背に触れる石がひやりと冷たい。その冷たさは恐怖と絶望で凍えた全身から瞬く間に体温を奪っていった。
「……わたくしは、このままあなたに消されるのでしょうか」
 クロードは答えない。
 この沈黙はすなわち肯定だ。
 バイオレッタの精神は恐らくこのまま永久に抹消されてしまうのだろう。
 そして残された器にはアイリスが宿る。きっと最初からそういう筋書きだったのだ。
 そのために彼はバイオレッタに近づいた。愛をささやき、好意を示し、どうにかしてバイオレッタの強い警戒を解かせようとした。
 バイオレッタはそこでようやく腑に落ちた気がした。
 クロードが異様なまでに自分にこだわっていた理由を。
 
(これが、わたくしの末路……? 前世から持ち越してきた罪業だというの……?)
 
 ならば、このままクロードに傷つけられるのも仕方のないことなのかもしれない。先にその愛を裏切ったのは自分なのだから……。
 
 唇を噛みしめて広間の天井を見上げていると、二人のあわいに下りた静寂をふいにクロードが破った。
「……どうせなら、最後に夢を見せて差し上げましょうか」
「ゆめ……?」
「愛のささやきでも、口づけでも。貴女が望むものをなんでも差し上げる。貴女という存在の生涯は今夜をもって幕を閉じるのです、最期にどんなお願いでも聞いて差し上げましょう」
 クロードの提案は痛いほど残酷だった。
 バイオレッタは弱々しくかぶりを振る。
「……嫌。そんな、そんなことをされるくらいなら、わたくしは……」
 
 これまで思い描いていたすべての未来が、ぽつぽつと脳裏に浮かび上がってくる。
 クロードと、結ばれたかった。
 たとえ籠の鳥であったとしても、クロードただ一人に愛を捧げていたかった。
 いずれは崩壊する関係だとわかっていても、バイオレッタはクロードとの「未来」を強く夢見ていた。
 だが、幸福であったはずの「未来」はとうに消え失せた。
 後に残されているのはもはや憎しみと永遠の別れだけだ。
 ならば――
 
 バイオレッタは涙を堪えてクロードに手を伸ばした。
 そのシャツの裾をそっと掴み、バイオレッタは懇願した。
「お願い、クロード様……。わたくしが憎いというなら、それでもいいです……。だから、もう苦しまないで」
 つと眉をひそめるクロードに、バイオレッタは必死で言葉を紡ぐ。
「わたくしがいなくなればあなたが幸せになれるというなら、どうぞあなたの望み通りにしてください。でも……、一つだけ約束して。もう、そんな苦しそうな顔をしないで。わたくしは、クロード様が辛そうにしている姿をもう見たくないの。だって、わたくしはそんなあなたを好きになったわけじゃないから……」
「……何を」
「……わたくしを壊せばあなたが元通りになれるというなら」
 ……どうか、わたくしを壊してください。
 そうささやいたバイオレッタの双眸から、はらはらと涙があふれた。
 一瞬の沈黙ののち、クロードは肩をそびやかして小さな声でせせら笑う。
「……姫。貴女は一体何をおっしゃっているのですか。正気とも思えませんね、まさか自分を壊してくれ、などと……」
 バイオレッタはゆっくりと起き上がると、クロードに向けて必死に笑顔を作った。
 溢れそうになる涙を押しとどめ、彼を見上げてどうにか微笑んでみせる。
「いいのです……、あなたがそれで楽になれるというなら、わたくしなんか消されたってかまいません。あなたの心の奥底にあるものがなんなのか、わたくし、やっとわかったのです。あなたは美しくもなければ綺麗でもない、ただの一人の男の人だった」
 
 あの漆黒の世界でバイオレッタが目にしたもの。
 それはクロードがこの千年もの間に蓄積させていた負の感情だった。
 それらは異形の姿となってバイオレッタを絡めとろうとした。自分たちを形作る深い闇の中へと引きずり込もうとした。
 そこにバイオレッタが見出したのは、クロードの抱える孤独と寂寥せきりょうだった。
 彼はバイオレッタにこれまでそうした部分を微塵も見せてこなかったが、今ならわかる。
 見せなかったのではない、見られたくなかったのだと。
 
「あなたの弱いところや脆いところを、わたくしは一つも見てあげられなかった。いつもうわべにばかり惑わされて、いいところばかりを褒めて。だけど、あなたが見てほしかったのはそんなところじゃなかったのですね。自分がただの孤独な人間だということ、そこまで完璧な人間ではないということ。そして、あんな切ない思いをずっと抱え込んできた人間だということを、きっと誰かに知ってほしかった。そうなのではありませんか……?」
「……口うるさい姫だ。そんなに私を貶めたいですか」
「いいえ、クロード様、わたくしは――!」
 差し出した手を、クロードは勢いよくはねのけた。
「ふざけるな!! 貴女になどわかるはずがない!! こんなに物悲しい旅を千年も続けてきた私の苦労など!!」
 初めて耳にするクロードの怒声に、バイオレッタはびくんと身を痙攣させる。
「貴女が悪いのです、バイオレッタ。……いいえ、アイリス。貴女が私を裏切ったから。私を置いて、一人先に女神の御許に召されたりしたから。だって貴女は、あの時確かに私に誓ってくださった。ずっとそばにいると。あなたをお支えしたいのだと。だから、私は……!」
 そう言ってうなだれたクロードの手を、バイオレッタは手繰り寄せる。
 そして、親とはぐれてしまった迷子にするようにしっかりと繋いだ。
 
(……ああ、この方は、わたくしが思っているよりもずっと――)
 
 バイオレッタはその言葉の先を呑み込んだ。
 そして、これまで見てきたあの数々の夢は、自分と彼との幸福な日々の断片だったのだとようやく悟ったのだった。
 
 エヴラールは、アイリスの死を受け入れられなかった。
 だからこそどんな手を使ってでも彼女を生き返らせようとした。二人が築き上げてきた幸せを取り戻そうとした。
 それは、大切だったからだ。彼にとっての「かけがえのないもの」だったからだ。
 代償を払ってでも取り戻したいと思えるくらい、彼はアイリスと過ごす日々を心の底から愛していたのだ。
 その事実を受け止めた刹那、バイオレッタの中にこれまでの憎しみや怒りを遥かに凌駕するほどの慈愛が湧き起こってくる。
 
(……あなたは、そんなにもわたくしとの日々を大事にしてくれていたのですね)
 
 バイオレッタのすみれ色の瞳に、瞬く間に涙の花が咲く。
 ……恐怖ではなく、愛おしさで。
 
「クロード様。いいえ、エヴラール様」
「……私の名を呼んでいいと言った覚えはありませんよ」
「いやです。呼ばせてください」
 バイオレッタはがたがた震える身体を鞭打って、なんとか言葉を紡ぎ出す。
「今からでも、わたくしにあなたの心を見せてください。わたくしは、あなたのその負の感情すら受け入れたいと思っています。目を背けたいだなんて絶対に思いません。もっとわたくしに心を開いてください。あなたを受け止めたいんです」
 
 ……自分なんて消えてしまってもいい。彼が自分を利用したいというなら利用すればいい。彼にこの存在すら忘れ去られてしまってもいい。
 だが、これで終わりだというなら、余計にこのまま別れたくなんかない。
 今夜自分の魂が消えるというなら、最後に一つだけ欲しいものがある。
 それは――
 
「たとえこの心が消えたって後悔なんかしません。だから、最後にあなたの本当の心を、わたくしに見せてください……!」
「な……」
「わたくしは、まだあなたに何もしてあげられていない。そんな自分のまま消えていくのは嫌なんです。あなたの心が欲しいなんて言わない。ただ、……ただあなたの心に寄り添わせてほしいだけなんです」
 そう言い切った途端、バイオレッタは泣き伏してしまう。
 もっと早くこうすればよかった。もっと早く彼のに寄り添うべきだった。
(わたくし、何も見えてなかった。クロード様のことを、いつも完璧な男の人だと思っていた。わたくしに見せられないような弱みなんて、何もないのだと。だけど、違った。この方は、わたくしなんかよりもずっとずっと脆くて臆病な人。たった一つの愛がなければ生きてもいられないような人……)
 彼はそれでも懸命にここまで旅をしてきたのだ。
 たった一人の理解者にもう一度出会うために。自分にとっての運命の相手を再び愛するために。
「クロード様。教えてください……。わたくしは、あなたにとって本当にただの容れ物でしかありませんでしたか?」
「……何を」
「わたくしにとっては違ったの。あなたは、わたくしの心に初めて色をくれた人だった。生命いのちの輝きを、その存在によって教えてくれた人だった。とても、嬉しかったですわ。あなたと見た月、あなたと吹かれた風、あなたと分かち合った味。全部が、わたくしの宝物です」
 
 一度は裏切られ、踏みにじられたとさえ感じた愛。
 それが今、バイオレッタの中に確かに戻ろうとしていた。
 胸の中に温かな気持ちが溢れてくる。
 この気持ちがあれば、たとえこの先何が起こっても動じずにいられるだろうと思えるような、強い強い感情が。
 
「クロード様。愛しています。だから、どうかあなたの好きなようにして。わたくしを消すことであなたが救われるというなら、どうかその通りにしてください。たとえこの心が消えてしまっても、わたくしはあなたとの日々を……育んできた感情を、けして忘れません」
「……!」
 クロードは瞠目し、次いでくしゃりと顔を歪めた。
「……貴女は本当に馬鹿ですね」
「はい。わかっています」
「私の心など知って、どうなさりたいのですか。そんなものを理解したところで、今更どうなるというのですか」
 下手な発言をすれば彼の怒りを買ってしまいそうだったが、バイオレッタは臆さず言った。
「今更なんて言わないでください。今からでも、わたくしたちは本当の意味で手を取り合えると思います」
 石台から立ち上がり、一縷の望みを込めてクロードを見上げると、彼は怯んだように後ずさる。
「姫……!」
 慄くクロードの背に手を回すと、バイオレッタは彼の身体を強く引き寄せた。
「ごめんなさい。わたくしは、あなたのことを何も理解できていませんでした。あなたから与えられるものばかりに目を向けて、自分から何かを与えようとはしていなかった。あなたは本当は、与えられるのを待っていた人だったのに」
「……!」
「……やり直しましょう、クロード様。復讐なんてやめて、このまま一緒に生きていきましょう。わたくしとあなた、二人で新しい関係を作っていくことはできませんか。一時いっときの情熱を育むのではなく、長きにわたって続いてゆく愛情を、二人でもう一度築き上げていくことはできませんか」
 ぬくもりを分かち与えるかのように、バイオレッタはためらうことなくクロードの身体を抱きしめる。
 そこにはもう恥じらいも迷いもなく、あるのはただクロードへの思慕の念だけだった。
「クロード様。どうか、今現実ここにいるわたくしのことも、もっと見てください。アイリス様との幸せだった日々ばかりを追いかけるのではなく、今あなたの目の前にいる生きたわたくしを、その目でちゃんと見てください。そして許されるなら、わたくしもあなたの素顔が見たい」
 しかし、クロードはそんな言葉にほだされるものかとばかりにきつく唇を噛みしめる。
「……そんなことをしたって無駄だ。もうすべては動き出している……。この先に待ち構える世界の消滅に向けて。貴女の死はそのために用意されたただの布石のようなもの」
「なにを……」
 バイオレッタが問いかけた時。
 
「――さあ、おしゃべりはそこまでだ。儀式を始めるぞ、わが依代よ」
「……!」
 
 振り向いたバイオレッタの瞳が捉えたもの。
 それはいつかクロードの領域で出会ったあの黒髪の女だった。
 バイオレッタたちの顔を交互に一瞥し、女はニッと笑った。
 
 

 

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