第十一章 死闘

 
「……っ」
「もうおしまいですか、水の依代アベル?」
 斬りつけられた右腕を押さえ、アベルは呻く。
「ハッ……、やっぱりお前性格悪いな。そんな物騒な得物で斬りかかってくるとかさ」
 フランブルジュの波のようにうねった刀身を、クロードは愉しそうに舌先で舐った。
「フランブルジュは元来非常に実践向きの刃形式をした剣ですからね。傷口を広げて肉片を抉り取る、などといったことはお手の物です。私が今しがたあなたにそうしたようにね……」
「くそっ……!」
 アベルは整ったおもてを歪め、未だ出血の止まらない右腕の上部を手のひらでしっかりと押さえつけた。
 
 純白の上着は大きく裂け、そこからぱっくりと口を開けた素肌がのぞいている。
 そう、クロードはあえて利き腕を狙って斬りつけたのだ。
 アベルの右腕に火炎で炙られたような痛みが襲いかかっているであろうことは想像に難くない。
 
 しかし、クロードはそんな彼をさらに嬲るような行動に出た。
「――裁きの業火よ、かの者を焼き尽くせ!!」
「ぐうっ……!」
 魔術による攻撃を避けきれずに、アベルは猛炎をまともに食らってしまう。
「アベルッ!!」
 アベルはとうとうがくりと膝をつく。
 その艶やかな髪を掴むと、クロードは彼の身体を力ずくで床の上に引き倒した。
「ぐっ……!」
 開いた傷口を靴底で圧迫し、時折そこを残忍に踏みしだきながら、クロードは喜悦の笑みを浮かべる。
「はは……、情けねーな……。こんなところ、あいつにだけは絶対見せたくなかったのによ……」
「言ったでしょう? あなたの復讐は成功などしないと」
 アベルの長い銀髪を手で掴み上げ、無理やりその顔を上向かせると、クロードはぞっとするような悪辣な微笑を湛えてみせた。
「火と水が撃ちあえば、負けるのは必然的に火……。確かにその理屈は道理でしょう。ですが、私たちの能力はほぼ互角だ。そして、仮に剣技で敵わなくとも魔力で対抗すればいい。たとえもう一つの属性を使ってでも勝てばいいのですから……」
 
 クロードの使役するもう一つの力は「闇」だ。
 かつてあの彩月をも窮地に陥れた「眠り」や「安寧」、「沈黙」といったものを司る力。
 彼はそれを利用したのである。
 
「闇の魔力を侮っていたあなたが悪いのです。相手を惑わせかく乱させる、などといった幻惑の術式は、闇の属性が最も得意とするところだ。何せ人を昏睡させるだけの能力を持つ魔術属性なのですからね」
「く……!」
「そうして一度視界を遮ってしまえばこちらのもの。あなたに光の魔術を使われないうちに追い詰めてしまえばいい……。目くらましさえしてしまえば、あとはこちらのものだ」
「ハッ……、手も足も出ないようにガチガチに拘束してから攻撃してきた奴が言う言葉じゃねえな……! 卑怯な手ばっかり使いやがって……!」
「仕留め損ねては大損ですから」
 しゃあしゃあとのたまい、クロードはアベルの顔を悠々と見下ろす。
「ああ……弱り切ったあなたをいたぶるのは愉しいですね。もう手も足も出ないでしょう? 苦しいでしょう? ……ふふ、最高にそそる顔だ」
……っ!」
「その生意気な、いつも気に入らないと思っていました。このまま抉りだしてしまいましょうか」
「やめてっ!! お、お願いですから、それ以上アベルに惨いことをしないでください……!!」
 そうして声を上げるクララを一瞥し、クロードはわざとらしく肩をすくめる。
「おやおや。妹君に命乞いをされてしまった。哀れですね、アベル。いいえ、ロベリオ王子……」
「抜かせ……! このまま終わるものか……! 俺はまだ、やれる……!」
「は……、さすがは高潔と無垢を愛するヴァーテルのしもべだ。肉体は清らかで、志は崇高。まさに彼女の犬にふさわしい……」
 水神ヴァーテルはどの聖典でも処女神として描かれる。
 その彼女がアベルのような人間を契約者にしているというのは納得がいく気がした。
「……確かに、ヴァーテルの魂をその身に受ける依代うつわとして、俺以上の逸材はいないだろうな。お前が邪神そいつに好かれているのと同じだ」
「残念でしたね……、せっかくヴァーテルの下僕になったというのに、あなたは今夜、志半ばで命を落とすのです。この私に楯突いたのが運の尽きでしたね。ふふ……」
 砂と血にまみれた顔を憤然と歪め、アベルはクロードを見上げる。
「……何がどうなってる? お前は何のために依代になった、魔導士クロード!!」
「復讐のためですよ。あなたと理由はほとんど同じです。ただし、私の復讐の対象は人ではなく大陸ですがね」
「大陸だと……?」
 わけがわからないといった風に聞き返すアベルに、クロードは凄絶な笑みでもって応えた。
「あなた方地上の民は、かつて私の大切にしていたものを破壊したのです。伴侶、土地、私の未来……。私が愛でていたすべてのものを、あなた方の祖先は侵し、奪った。だから私はアイン様と契約を交わしたのです。復活のための代償は、人を犯し、殺すこと。その一瞬の高揚と昂ぶりを、私はこの千年の間アイン様に捧げ続けてきた」
「な――」
 眉宇をひそめるアベルに、クロードは薄ら笑いで応える。
「愚かな男だとお思いでしょう? ですが私は、かつての幸福を取り戻すためならなんでもできました。無能な王にかしずくのも、大して好きでもない女性を抱くのも、まるで苦ではなかった。その先にわが最愛の伴侶アイリスとの新たな世界が待っていると思えたから」
「千年前……、なるほど、邪神ジンとの契約でその身体と生命を丸ごと差し出したってことかよ」
「“差し出した”? いいえ、そのような。私とアイン様はそれぞれの目的のために互いを利用し合っているにすぎない。私はかつての妃アイリスの蘇生を。アイン様はこの大陸の滅亡と水の女神ヴァーテルの消滅を……。私たちの場合はたまたま利害が一致しただけのこと」
 アベルの髪をぎりぎりと掴み、クロードはその昂ぶりのままに吐き捨てる。
「私はこの大陸の民たちが憎いのです。これまでに散々人間たちの命を奪い尽くしてきて、それでもまだ奪い足りないほどにね」
「一体何がお前をそこまで変えたっていうんだ!! 千年もの間そんなものに助力し続けるなんざ、どう考えたって正気の沙汰じゃないだろ!? 一体どうしたらそこまで道を踏み外すことができるっていうんだよ!!」
 クロードはそこでふふ、と小さな笑みをこぼした。
 アベルを踏みつける力をやおら強め、口角を皮肉げに捻じ曲げる。
「私はかつて、空に浮かぶ七つの大陸を統治する皇帝でした。今のあなたと同じように、あの頃の私はまだ志や守るべきものを持っていた……。皇帝としての日々は厳しく孤独なものでしたが、それでも当時の私にはまだ希望があったのです」
 クロードの双眸はうっすらと細められており、まるで今もなお遠い昔の日々に揺蕩っているかのようだ。
 彼はやり場のない悲懐を吐き出すように狂おしげに続けた。
「孤独だった私を救ってくれた唯一の人間。それがわが皇妃アイリスでした。だが、結局はそのアイリスも父上と地族が共謀したことによって命を落とす羽目になった。あの時ほど自分の無力さを呪ったことはない……。あの時私にもっと力があれば、アイリスは――」
「クロード様……、いいえ、エヴラール様。それは違います」
 バイオレッタがこわごわ言うと、クロードは鬱陶しそうにこちらを一瞥した。
 アベルの肩を踏みつけたまま、長い漆黒のまつげの下からバイオレッタをねめつける。
「悪いのは、すべてわたくしです。わたくしの勝手があなたの国を滅ぼしたのです。あなたや地族の民たちは何も悪くない、すべての元凶はわたくしです」
「……また私を言いくるめようというのですか。だが、無駄ですよ、姫……。いくら過去の記憶を取り戻したとはいえ、私のこの憎悪は和らぎません。この復讐劇は完遂させなければならない。貴女がいくら私を説得しようとしたところでとうに無意味ですよ」
 クロードはくくっ、と自嘲するような乾いた笑い声を漏らした。彼の動きに合わせて長い黒髪がゆらゆらと不穏に靡く。
「……わが帝国スフェーンが崩落し、傍らで愛しの貴女が静かに息絶えるのを目の当たりにした時、私は確かに変わった。私の中で眠っていた悪鬼が目覚め、血の滾るような報復の道へと私をそそのかしたのです」
 クロードはそのまま不出来な子供に言い聞かせるように滔々と語って聞かせる。
「あの日感じたのは、悲しみでも後悔の念でも、まして貴女の愛などでもなかった……。臓腑が煮えたぎるような怒りです。大陸に住まうすべての人間たちが、自分でもどうしようもないほど憎らしかったのです。……お分かりになりますか、アイリス? 私がどれだけ絶望したか。なんの予告もなくいきなり閉ざされてしまった未来への扉……。貴女を喪ったのだと、私は信じたくなかった」
「……あなたをそうさせてしまったのは、わたくしですのね」
 唇から紡がれるのはアイリスの言葉だ。
 精神がアイリスのそれと同調するのを感じる。
 同時に、心の奥底に眠るアイリスが彼を必死で思いとどまらせようとしているのもわかった。
「わたくしがあなたを独りにしてしまったから。そしてあなたに黙ってその信頼を裏切るような真似をしてしまったから。だからあなたはそんな風になってしまったのですね。あなたは孤独を何よりも嫌っていたわ。そして、人から拒絶されることも。わたくしは誰よりも繊細で弱いあなたを傷つけてしまった。だからあなたはそんな風にならざるを得なかった」
「いいえ、アイリス。貴女の死は一つのきっかけに過ぎなかったのです。私は人間という生き物が兎にも角にも憎かった。貴女はただ私の引き金を引いただけです。もとよりその素質・・・・は私の中に確かに眠っていたのですよ」
 
 クロードの言わんとしていることは明白だった。
 つまり、千年前の惨劇はただの前座にすぎず、本当はもともと自分自身の中に悪鬼となるための要因が眠っていたのだと主張しているのだ。
 
 幾度も幾度もぶつけられる強い拒絶の言葉に、バイオレッタは密かに絶望する。
 
(わたくしでは、もうこの方を止められない。もう何をしたってこの方の心には届かない)
 
「ごめんなさい、クロード様……。だから、もう……!」
「は……、今更貴女が謝ったところで何の慰めにもなりませんよ。貴女はただそこで黙って見ていればいい……、貴女の愛した人間たちが次々とその命を奪われてゆくのを」
 バイオレッタはかまわず声を張り上げた。
「お願いです……、もう、もうやめてください……! だってあなたはそんな人じゃなかった……! あなたは愛した人の死を何よりも嫌っていたはずでしょう!? なのに、どうしてそのあなたが人の命を奪うような真似をなさるの!? こんなの、絶対におかしいわ!! 絶対に間違っています!!」
「黙れ!! 貴女はいつもそうだ……、私の思考をかき乱すようなことばかり口にする……!! 思えば最初からそうだった。貴女は私という人間のあり方そのものを大きく変えようとし、私の道を勝手に正そうとした。貴女という女性ひとはいつも、私を貴女という道標なしでは生きていけない人間に変えてしまう……!! それが憎らしくて、恨めしくて、私は――!!」
 クロードの懊悩に呼応するかのように、彼の握りしめたフランブルジュの先が小刻みに揺れる。
 
 すると、そこでアインがゆったりと腕を組みながら憫笑した。
「何をやっている、天族の男よ。さっさと復讐を果たすがよい。お前はそのためにわたくしにその命を捧げたのであろう? 大陸の民が憎いと。すべて焼き尽くしてしまいたいと。その深い怒りと憎悪がわたくしを呼び起こしたのだ。だのに、そのような娘に惑わされるとは」
「っ……。私は……!」
「駄目です、クロード様! ジンの誘惑に負けてはいけません……!」
「ほう。娘、止めるのか。……だが、すでにここはわたくしの領域の中。そして駒は揃ったのだ。わがしもべクロードよ、今こそお前の望み、叶えてやろう!」
 高らかに哄笑すると、ジンは長い爪の乗った指先を勢いよく翳した。
「……!」
 神殿の床からいくつもの火柱がどう、と上がり、熱い火の粉をまき散らしながら盛大に燃え盛る。
 それは先ほどクロードが放った火炎とは比べ物にならないほどの強大な力だった。
「きゃああああっ――!」
「ぐっ……!?」
 アインは大笑し、生成した鬼火をバイオレッタたちめがけて次々と繰り出した。
「熱……っ!」
 アインの生み出した火の魔力の塊がバイオレッタの頬をちりりとかすめた時、クロードははっと目を見張って自らアインの前に飛び出した。
「話が違います! 私は……!」
「何が違うというのだ? お前まさか、本気でそこの娘に心奪われたのか? あのような小娘、ただの皇妃のまがいものにすぎぬではないか。確かに気質はお前の皇妃のそれそのものではあるが、所詮はとうに転生した人間だ。お前との間に育まれた愛情。お前から与えられたぬくもり。お前と過ごした時間。すべてを転生と同時に忘れ去っているただの小娘だ」
「ですが、私は彼女を傷つけたくはない!」
 邪神と依代、二人の視線が激しく交錯する。
 だが、アインは肩を掴むクロードの手を振り払うなりふんと鼻を鳴らした。
「おかしなことを言うな、クロード。……いや、ここはあえてエヴラールと呼ぼうか? 最初にわたくしに人類の滅亡をと願ったのはどこの誰だ? ほかならぬお前自身だろう。お前は皇妃を惨殺した先代皇帝と地族の民を憎んだ。そして願った……、大陸の消滅を。わたくしはそれに応えたまで。この大陸を消すということはあの娘も殺すということだ。だが、かまわぬであろう? お前が願ったのは『無』なのだから」
 アインの皮肉に、クロードは目に見えてたじろいだ。
「私、は――」
 バイオレッタとアイン、相反する二つの存在の間でクロードは揺れる。
 その時。
「――もうよい。邪魔だ」
「……ぐっ……!?」
 真っ向から体躯を刺し貫いた鋭利な爪に、クロードは声もなく苦悶する。
 くっきりとした深紅に彩られたアインの爪は、今やクロードの背をやすやすと突き破っていた。
「なぜ……、このような……」
「愚問だな、クロードよ。使えない手駒に手駒の意味はない。存在する価値もな。だからこそ主であるわたくしが直に始末をつけただけのこと……」
 相変わらずの玲瓏たる声音で言い、アインはめり込ませた爪先をクロードの内部でぎりぎりとたわめる。
「ぐう……っ!」
 肉を内側から引き絞られる感触に、クロードは美しい顔を醜く歪めて荒い吐息を吐き出す。
「ここまでよく働いてくれたな。だが、お前は今日で用済みだ。色恋に翻弄される無能な依代などわたくしはいらぬ。このまま無に帰るがよい」
「な……」
「わたくしがお前を信用しているとでも思ったか? 適当に付き従ってさえいればすべて許されるとでも思ったか。お前のような足手まといはわたくしはいらぬ……。手駒として使おうなどとも思わぬ。そこで黙って見ていろ……、この世界の『終焉』を」
 冷淡に言い切り、アインは身体の中心に沈めた爪先を勢いよく引きずり出した。
 派手な音を立てて鮮血が飛散し、クロードの身体がゆっくりと地面にくずおれる。
 床に広がった自らの血しぶきの中に倒れ込んだクロードは、そのままぴくりとも動かなくなった。
「いやああ……っ!!」
 恐怖と喪失感から、バイオレッタの両脚はがくりと崩れた。
 そんな彼女を健気にも抱き留め、ピヴォワンヌはしっかりとその身体を支えた。
「バイオレッタ……!」
 がくがくと笑う両膝を滑稽に感じながらも、バイオレッタは震えを止めることができなかった。
 ともすれば叫び出しそうになる口元を両手でしっかりと押さえ込み、バイオレッタは目の前で起きた惨劇にただ打ちひしがれる。
 
(クロード様が――!!)
 
 アインはクロードの血潮で染まった自らの爪の先を丹念に舐り、次いで傲然と顔を上げて言い放つ。
「そこにいるのだろう、ヴァーテルよ。来るがよい……どちらの力が勝っているか、今こそ白黒つけてくれる」
 挑発するように唇の端を持ち上げるアイン。
 だが、そこで起き上がったアベルがきっぱりと言い放った。
「……待て! それには及ばない。お前の相手は俺だ、火の邪神ジン」
「は……! 威勢のいい……。だが、わたくし相手に今のお前が果たしてどこまでできる?」
 だがアベルは余裕の笑みでいなす。
「……負け犬がそっちだって、今にわからせてやるよ」
「何……!?」
 
 刹那、何者かの足音を感じたアインははっとした様子で祭壇の間の入り口を見やる。
 するとそこには、見知った二人の騎士の姿があった。
 
「水の依代アベル様。協力いたします」
「邪神ジン……、復活は絶対に許さないわ」
 
 ヴァーテル教会の宗教騎士、ラズワルドとスピネルだ。
 二人は目配せをすると、控えていた他の宗教騎士たちを祭壇の間へ導く。
 アクアブルーのマントを留めつけた甲冑は、教皇の配下であるグロッシュラー宗教騎士団に配給されるものだ。
 彼らが祭壇の間に入ってきたのを見届けるや否や、アベルは口内に残った血を吐き捨てて自信たっぷりに告げた。
「……まだやれるって言っただろ。俺は自分の信念のためなら何度だって立ち上がれる。そこの腰抜けと違ってな」
 はあはあ、と肩で息をしながら立ち上がるアベルに、ユーグが風の魔術を用いた回復の術を施す。
 治癒の術式を受けてすっかり癒えた肩口に触れ、アベルはニッと口角を上げてみせた。
「――さあ、俺は全快したぜ。かかってこいよ、邪神様。この俺をコケにした報いはしっかり受けてもらう。今度こそギタギタにのしてやるから覚悟しな」
 アベルの言葉に、スピネルがその場できゃっきゃと小躍りする。
「あん、もお。痺れるわーそのセリフ。まさかアルマンディンの王子様が水の依代だったなんてねー。出会った時からなんとなく予感はしてたけどぉー」
「どうか存分に我ら宗教騎士をお使いください。非才の身ではありますが、精一杯あなた様をお助けいたします」
 アベルは余裕たっぷりにウインクを返す。
「サポート、よろしく頼む」
「まっかせといて!」
「……おのれ、小癪な……!!」
 アインは漆黒の長剣サーベルを手に騎士たちに踊りかかった。
 邪神らしく目にもとまらぬ速さだったが、迎え撃ったスピネルがその剣を受け止める。
 彼女は俊敏な身のこなしでアインを押しやると、剣の切っ先でその喉を深く切り裂いた。炎を思わせる真紅の液体を浴びながら軽やかに飛び退る。
「小娘! 邪魔をするな!」
 スピネルは無言でアインの攻撃をかわし続ける。
 と、ある時を境に、アインの動きが急激に鈍り始めた。
 彼女の足取りはふらつき始め、剣を振るう動作も目に見えて鈍重なものになる。
 次々と攻撃を仕掛けてくるスピネルや騎士たちの姿を必死で追いかけながら、アインは震える声で問うた。
「ぐ……小娘、お前、わたくしに何をした!?」
「あたしのヴェレーノは毒の性質を持った短剣ダガーでね。この刃が相手の皮膚に触れただけで猛毒状態になるのよ。二度、三度と刃を受ければ、死に至るまで数刻もかからないわ。ふふ……、お気に召したかしら? 邪神さん」
「おのれ……っ!」
「んふふ、実体化が仇になったわね。貴女、早くしないと全身に毒が回って酷いことになるわよ?」
「小娘が! 人間どもの犬がぁっ……!」
 アインは長剣の切っ先をやみくもに繰り出す。
 スピネルはそれを軽々と避け、背後からその袈裟懸けにアインの身体を斬りつける。
「がっ……!?」
「……これで二回目」
 次いで、刃をその左腕に深々と突き刺す。
「今ので三回目よ」
「ぐ、おのれええええっ!!」
「おっと……、僕もいるってことを忘れてるんじゃないのかい?」
 ラズワルドが腕を押さえるアインに長剣の先を突き付ける。
 二人がかりで追い詰められ、アインは完全に退路を失くした。
「くっ……!」
「今よ! 動きを封じなさい!」
 宗教騎士たちはスピネルの命を受けて一斉にアインを捕縛しにかかった。
 ……その時。
 
「――再生の焔よ、わが血肉を甦らせよ!」
 
 そこで騎士たちははっと目を見張る。
 ……アインの負傷の痕が、見る見るうちに癒えてゆく。アインの肌が、された箇所から瞬く間に再生してゆく。
 不可思議な現象に目を奪われていた一人の騎士の胸を、彼女は鋭利な爪先で深々と切り裂いた。
「ぐっ……!?」
「……言ったはずだ。ここはわたくしの領域だと」
 アインはそのまま箍が外れたように笑い続ける。
「非力な人間風情が……この城で何をしようが無駄だ! わたくしの城ではわたくしが優位! この神殿はほかならぬわたくしのための場所なのだから!」
 そこでアベルは剣の柄を握り直して険しい面持ちになった。
「そうかよ。つまり、俺たちがどれほど必死にお前を傷つけようと無意味ってことだな」
「神殿ではその祭壇に祀られた神の力が最も濃密になる……。つまり、わたくしが力を発揮するにはうってつけの場所だということだ」
 アインは深紅のドレスから伸びる両手を高々と掲げ、声高に叫んだ。
「わたくしの忠実なしもべたちよ、闖入者どもを退けよ!」
 ……ジンの声が響き渡ったかと思うと、神殿ががたがたと揺れ出した。
 祭壇からいびつな妖魔像が落下し、地面に叩きつけられて無残に砕け散った。
 すると、砕けた石像の陰から二体の妖魔の姿が浮かび上がる。
 竜を思わせる頭部に、蝙蝠の翼。一対の脚と長く垂れ下がる尖った尾。
 
(ワイバーン……!)
 
 二体のワイバーンは潰れた顔をもたげて耳をつんざくような咆哮を上げた。
 かまわず突撃してゆく騎士たちに向けて、ユーグは鋭い一声を発する。
「……! 駄目だ、近寄るな!」
 制止の声も空しく、騎士の一人がワイバーンに斬りかかる。
 獣の残忍さを彷彿とさせる動きで、ワイバーンは騎士の体躯を脚で踏みつけにした。
 そのまま身動きの取れなくなった騎士めがけて猛火を吐く。
 肉の焦げる匂いと騎士の絶叫。神殿内部は瞬く間に地獄絵図と化した。
 しかし、妖魔の蛮行はそれだけに止まらなかった。
 ワイバーンは焼け焦げた騎士の身体に喰らいつき、そのまま宙高くへと持ち上げた。
 丸太ほどもあろうかという巨大な牙が騎士の肩口にめりめりと食い込み、ごきりと嫌な音がして、その頭部が力なくぶらんと垂れ下がる。
「あ、が……っ……」
「……ひっ……!」
「見るな!!」
 あまりの事態に固まるクララとバイオレッタのおもてを、アスターが手で覆い隠す。
「惨いことを……!」
「お兄様……!」
 アベルはちっと舌打ちをすると、険しい顔つきでユーグに目配せする。
「ユーグ。これは下手すりゃ邪神討伐どころじゃなくなる事態だ。もし命が惜しいってんなら今すぐここを出ろ。お前まで俺に付き合って犠牲になる必要はない」
「馬鹿を言うな。なぜ俺がお前を置いて逃げなければならないんだ。人を甘く見るのも大概にしろ、『ロベリオ』」
「……ふん、言ってくれるじゃねーか」
 緊迫した状況でありながらも二人はそんな悪態をつき合い、信頼の笑みを交わし合う。
 そこでラズワルドが声を上げた。
「アベル様! 我々がワイバーンの注意を惹きつけます! その隙になんとか致命打を与えてください!」
「わかった!」
 ラズワルドとスピネル、二人の筆頭騎士たちの指示通り、ルヴィ隊とサフィール隊はそれぞれの特殊技能を活かした戦略を仕掛け始める。
 背に翼を持つハルピュイアハーピーが躍り出て、ワイバーンめがけて矢を放つ。
 ルヴィ隊に属する魔の者たちだ。
 ハルピュイアの放った矢は、巨大なワイバーンの背に突き刺さった。耳障りな異形の咆哮がけたたましく天井にこだまする。
 その一手でワイバーンが怯んだところを、サフィール隊の騎士たちが猛攻する。
 が。
「……下がれ!!」
 大きな口から吐き出される紅炎に、騎士たちは撤退を余儀なくされた。
 火炎をまともに受けた数名の騎士がほうほうの体でワイバーンの元から逃げ出してくる。
 スピネルはそんな彼らの様子を視界の端に捉えつつ、険しい顔つきでワイバーンを観察した。
「ちっ……、なんて凶暴さなの」
「さすがはジンの使い魔だ。一筋縄じゃいかないな」
 スピネルはそこである作戦を思いつき、周囲に散る魔族の騎士たちに向かって声を張り上げた。
「……ルヴィ隊! 空中から捕縛にかかってちょうだい! 身動きできなくなったところを攻撃するわ!」
 スピネルの命令を受け、背に漆黒の羽根を持つ魔族たちが動き出す。
 ワイヤー状の捕具ほぐを取り出すと、彼らはそれを上空から素早くワイバーンの巨躯に巡らせていった。
 狙ったのは主に頭部と翼である。
 先ほどのように火を吐かれては攻撃できず、かといって狭い神殿内部で暴れられても厄介だ。だからこそ二人が最初に狙ったのはその二か所だった。
 魔族たちは巡らせた捕具をぎりぎりと締め上げ、ワイバーンを巧みに拘束した。
 その動きが完全に停止したところで、スピネルは蝙蝠を思わせる漆黒の翼を広げて高々と飛翔した。
 紅い瞳を探るようにきらめかせた彼女は、次の瞬間ワイバーンの額に狙いを定めた。
「……ここね!」
 スピネルが短剣をめいっぱい額に突き刺すと、ワイバーンは絶叫した。
 そのまま抉るように切っ先を蠢かす。
 すると、ワイバーンの全身は一瞬にして石像のそれに戻った。
 身体の表面にびきびきと亀裂が走り、そのまま儚い音を立てて霧散する。
 剣を納めて大地に下り立ったスピネルは、そのまま騎士たちに指示を出した。
「まずは一体討ち取ったわ。あとはもう一体を――」
 その背後からそのもう一体のワイバーンが迫ってきていることに、彼女は気づかなかった。
「――!」
 烈風とともに急降下してきたそれに、思わず目を剥く。
 声を上げる間もなくその巨大な牙の餌食になろうかという時、横から飛び出してきた塊が彼女を突き飛ばした。
「……! 危ない、スピネルッ!!」
「!」
 スピネルを庇ったラズワルドは、妖魔のあぎとに深々と喰らいつかれて絶叫した。
「ぐあああああああっ――!!」
「――ラズッ!!」
 凶悪な牙に肩口を抉られたラズワルドの身体が、その口元から放り出されて神殿の床の上に転がる。
 しかし、その犠牲は騎士たちが反撃するにはじゅうぶんだった。
 弓術師の一人が矢をつがえ、ワイバーンの頭部めがけて放つ。
 片目を射られて油断した隙を見計らい、騎士たちは巨大な妖魔に斬りかかった。
 祭壇の間で、ワイバーンの大きな翼がばたばたとはためく。祭壇の炎が煽られ、細かな火の粉を散らして勢いよく爆ぜた。
 降り注ぐ砂埃に、アベルは端整な顔を歪めて吐き捨てた。
「くそ、こんな狭い空間で暴れるとか無茶苦茶すぎんだろ……っ!」
「気を抜くな! 来るぞ!」
 余力を振り絞り、ワイバーンはアベルたちに向かって飛翔した。
 眼前におぞましく醜悪な妖魔の顔が迫る。
「くっ……!」
「……額を狙え! そこが奴らの魔力の源だ!」
 アベルの指示に、ユーグは汗で滑る長剣を構えなおすと弱ったワイバーンの額に深く切っ先をめり込ませる。
 ぎゃあああああ、という赤子の泣き叫ぶような声とともに、ワイバーンの巨躯がぴたりと静止し、ユーグの剣が突き刺さった箇所からその体表に細かな亀裂が入っていく。
 ユーグが長剣を引き抜くと同時に、柘榴石ガーネットを思わせる小ぶりの宝玉がからん、と音を立てて転がり落ちる。
 足元に転がるそれに躊躇なく刃を突き立て、アベルは石の塊を粉々に粉砕した。
「ははははははは……! まずは二体か。人間どもにしてはよくやるではないか。褒めてやろう」
 アインは満足げに微笑み、並み居る騎士の顔をゆったりと眺めまわす。
「だが、お前たちの指揮官はどうやらそれどころではないようだな」
「ラズ、ラズ……! いや、しっかりしてぇっ!」
 スピネルはぐったりとしているラズワルドを抱きかかえ、甲高い声で泣き叫んでいた。
 ラズワルドは頸椎を損傷していた。ワイバーンの牙に穿たれた箇所からはどくどくと大量の鮮血が溢れ、彼のアクアブルーのマントをくすんだ暗褐色に染め上げている。
「こんな形であなたをなくすのなんか絶対にいやっ……!」
「スピ、ネル……」
 名うての騎士であるラズワルドが負傷することなどこれまでめったになかったのだろう。スピネルは普段の彼女からは想像もつかないほど取り乱し、力を失ったラズワルドの身体を抱きしめて弱々しい表情を浮かべていた。
「ラズ、ラズ……ッ」
 恋人の呼びかけに、ラズワルドは瀕死の状態ながらも気丈に声を絞り出す。
「スピネル……、だめだ……、ここで君が戦意を失ったら……。僕たちは二人で一つ……。このまま僕の分まで務めを果たすんだ……! 教皇様のために……!」
「……!」
「僕のことはいい、戦ってくれ、スピネル……! 頼む……、ここで邪神討伐を諦めるな……! 騎士団のみんなのためにも、どうか戦い抜いてくれ……!」
 ラズワルドの言葉に、スピネルは意を決したようにキッと顔を上げた。
 唇を血が滲むほど強く噛みしめ、涙を拭いて立ち上がる。
 愛剣ヴェレーノを鞘から引き抜き、彼女はぐっと奥歯を噛みしめた。
 未だ恐怖で痙攣する身体を奮い立たせると、スピネルはヴェレーノの切っ先を躊躇なくアインに向ける。
「……許さない。お前のような女が神を名乗っているなんて、あたしは絶対に認めない! いくら原初の時代に貴ばれた女神であろうとも、お前のような神がいていいわけがない!」
「は……、ならばどうする?」
 挑発するようなアインの声に、スピネルはその顔をきつくねめつけながら宣言した。
「――火の神アイン! 絶対にお前を、仕留めてみせる!」
 
 

 

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