第十章 もう一つの邂逅

 
「随分手際が悪いと思ったら、またその娘の相手をしていたのか。これは笑わせる……」

「は、申し訳……」

 クロードは殊勝に頭を下げると、女の傍らに跪いた。
「え……、クロード、さま……?」
 跪くクロードを従え、黒髪の女は妖しい笑みでバイオレッタを圧倒した。
「ふふ……。久しぶりだな、娘。『絵画の世界』で相まみえた時以来か。わが名は火の神アイン。人間どもには邪神ジンという呼び名で呼ばれている」
 
(邪神、ジン……? この女性が……?)
 
 人に仇なす邪神とはいえども、女は明らかに人間の姿をしていた。
 艶やかな波打つ黒髪、琥珀を思わせる二粒の瞳。恐ろしく整った肢体……。
 これが邪神であるなどとはにわかには信じがたく、バイオレッタはついまじまじと彼女を見つめてしまう。
 
 すると、アインはまたしても艶やかな笑みを浮かべた。
 その妖艶な微笑になぜだか背筋がぞくりとし、バイオレッタは本能的に数歩後ずさる。
「……なぜ逃げる? そんなに恐ろしいか、神と呼ばれる存在と対面するのは」
「……い、いや。こ、来ないで……!」
 石の台座に阻まれてそれ以上逃げることのできなくなったバイオレッタのおとがいを、アインはゆっくりと持ち上げた。
 そのまま唇を重ねられ、バイオレッタは目を見開く。
「ん……っ!?」
 思わず女の豊満な胸をめいっぱい押しやり、手で口元を覆う。
 すると、アインは小ばかにしたような笑みでもってバイオレッタを蔑んだ。
「……そう硬くなるな、ほんの挨拶だろう?」
「や、やめ……」
 伸びてきた手が喉元をくすぐり、ゆっくりと細い顎先にかかる。
 形のよい指先でバイオレッタのおとがいを掴み上げると、そのすみれ色の瞳を覗き込んでアインはふっと微笑んだ。
「お前は依代のもの。ならばこのわたくしのものも同義よ。何せ神とその依代はほとんど同一の存在なのだから……」
「そんな、わけ……!」
「ふふ、お前もつくづく愚かな娘よ。こんな男に惑わされてみすみすその命を落とそうとは……」
「クロード様はそんな方じゃな――」
 すると女は鼻先で笑った。
「お涙頂戴はもう結構だ。……娘、わたくしの贄となれ」
「え……、そ、それは一体――」
「こやつから何も聞いておらぬのか? これは傑作だ。クロードお前、まさか何も知らせずに復活の儀を執り行うつもりだったか? 相変わらず情のない男よ」
 黙り込むクロードをちらと一瞥し、アインは冷ややかに告げた。
 
「――娘。お前はこれからわたくしのために死ぬのだ。お前の魂の領域に手を加え、その肉体を皇妃アイリスのために明け渡してもらう」
「……それは、苦しいのでしょうか」
「何……、魂を壊される時にはその感覚も苦痛も一切ない。気づいたときにはその生を終えているというだけのこと。肉体とは違って精神は痛みなど覚えぬからな」
 
 バイオレッタはとっさに「嘘だ」と思う。
 心にだって傷はつく。痛む時だってある。
 なのに、そんな場所を壊されてなんの苦痛もないわけがないのだ。
 
「わが依代は愚鈍な男でな。わたくしに皇妃の蘇生を願ったにもかかわらず、なかなかそれを実行に移そうとはしなかったのだ。お前という存在を抹消しなければ皇妃は戻ってこないのだと、一体何度教え諭してやったことか……」
 そこでアインはつとバイオレッタから身を放した。
 跪くクロードを立ち上がらせるなり、やおらその唇を奪う。
 目の前で繰り広げられる二人の艶めかしい触れ合いを、バイオレッタはなすすべもなく呆然と見つめた。
 
 それは、バイオレッタがいつも与えられているものとは明らかに異なっていた。
 どこか互いの本心を探り合うような、共犯者めいて淡々としたキスだった。
 アインは息も乱さずクロードの唇を貪っている。そしてそれに応えるクロードの手は当然のようにアインのくびれた腰に回された。
 まるで濃密な戯れによって互いの結びつきを強めようとしているかのようだ、とバイオレッタは思う。
 口づけを交わしあう二人の姿こそがすでに一種の儀式めいていて、いけないとわかっていても自然と視線が吸い寄せられてしまう。
 
 やがて、二人の唇が光る糸を引いて離れる。
 女らしく優美な指先をクロードの頬にそっと這わせながら、振り返ったアインは無情に告げた。
「――この男はお前の恋人などではない。このわたくし……火の邪神アインのものだ」
「嘘……」
「この男がお前に話したのは事実のほんの一部分にすぎぬ。知っているか、娘? この男はな、自分の望みのためなら女を利用することすら厭わない卑劣漢だぞ」
「な……」
「千年もの間、この男は数えきれないほど多くの生命と情を搾取してきた。それも、自分の愛したたった一人の女のためにだ。このような悪鬼に恋情を抱くなど、お前はつくづく馬鹿な女だ。こやつの甘言に絆され、心に入り込むのを許し、あまつさえその愛情とやらを継続させたいなどと言う。こんな罪人を愛したがる女がどこにいると思う? そんな間抜けはお前くらいのものだ、スフェーンの姫よ」
「……!」
 
 バイオレッタが動揺したのを見て取り、近づいてきたアインは無理やりその華奢な肢体を石台にねじ伏せた。
「! や、やめ……」
 抵抗すれば、濡れた唇がほのかに笑った。
「……お前は真の愛を知らないからそのようなことを言うのだろう。優しくされればすぐに愛を求め、肉体を求める。そしてその幸福とやらが永遠に続くと夢見てしまう。だから人の女は愚かだというのだ。たったそれしきの理由でこんな男に惑わされてしまうのだからな」
 バイオレッタはアインに身体を押さえつけられながら息を詰める。
 一縷の望みを託してクロードを振り仰げば、彼はすっとバイオレッタから目を逸らした。
「……!」
 その横顔に、バイオレッタは深く傷ついた。
 
 やはり彼が愛しているのは自分ではなくアイリスなのだ。アイリスが帰ってくるなら、彼は自分を犠牲にしてもいいと思っている。この邪神に生贄として捧げてもかまわないと思っているのだ。
 
「クロード、さま……」
 
(やっぱり、わたくしのことなんて愛してすらいないの……? だから助けてくださらないの……?)
 
「望みは捨てろ。代わりにわたくしがお前の持てるすべてを使ってやる。お前はその存在を消される代わり、永遠にこのわたくしの――火の女神アインの一部となって生き永らえるのだ、光栄に思うがいい」
 そう言ってアインはちろりと舌なめずりをする。
 そのさまは、あたかも糸にかかった獲物を捕食する蜘蛛を思わせた。
「さて……。長話は時間の無駄だ。さっさとこの姫の精神体を壊すとしよう」
「……!」
 アインは石台の上にバイオレッタを押さえつけると、その額に手を添える。
 その手の熱さに身じろいだ刹那、バイオレッタの身体からは蒼白い閃光が走っていた。
 強烈な浮遊感を覚えると同時に、身体が己の意思に反して石台からわずかに浮かび上がる。
 白い手足が宙に浮き、背に流した銀髪が波のように揺らめく。
 そのさまを、バイオレッタは慄いて見つめた。
「……!」
「ふふ……。イスファートめ、まだあの妃に執着しているのか。それも当然か。人と神との契約はその神が消滅するまで半永久的に継続される。よほどあやつを気に入っておったのだな」
 バイオレッタの額を押さえ込み、彼女はくく、と嗤笑した。
「……だが、それが仇となったな。イスファートの残した風の力に、元から備える稀有な魔力……。わたくしの復活にはちょうどよい。このまま根こそぎ奪ってしまおうか」
 そのままぐっと圧をかけられて、バイオレッタは呻いた。
 体内から生気が抜き取られていくような不気味なけだるさ、そして圧倒的な脱力感が全身に襲いかかる。
 バイオレッタはまるで言うことを聞かなくなった身体をなんとか奮い立たせ、額に添えられたアインの手首を引きはがそうと足掻いた。
 
(……だめ! このままじゃわたくし、本当に消されてしまう……!)
 
 まだクロードと和解すらできていないのに。まだ、彼のことを何も赦してあげられていないのに。
 なのに、こんな形で一生を終えなければならないというのか。
 こんな、不本意な形で。
 
 ――アインが真紅の唇を三日月の形に歪めた、その刹那。
 
「――待て!!」
「……!」
 アインが声のした方を振り返る。
 そこに立っていたのは白銀の髪の青年だった。
「……アベル、さま?」
 それだけではない。
 広間の入口には、ピヴォワンヌ、クララ、アスターやユーグの姿もあった。
「何者だ、若造。儀式の邪魔立ては許さぬぞ」
 しかし、アベルは不敵に笑って顎を持ち上げる。
「邪神ジン。そこの第三王女に手を出すな。俺たちが来た以上、残念ながらお前に勝算はない。わかったらさっさと儀式を取りやめろ。これは命令だ」
「命令だと……? ふざけるな、小童こわっぱが!」
 刹那、アベルの目配せを受けたユーグが俊敏な身のこなしでアインに斬りかかる。
 アベルに気を取られていたアインは完全に油断しきっていた。ユーグの剣を避けきれずにその刀身をまともに受けてしまう。
「ぐっ……!?」
 肩口から噴き出る血飛沫にあっと声を上げた瞬間、ユーグによって素早く横抱きにされる。
「……お怪我は」
「ありません」
 ユーグはそのまま広間の入口へ向かって疾走する。
 アインからじゅうぶん距離を取ったところで、彼は硬い顔つきのバイオレッタをようやく腕から下ろした。
 刹那、クララやアスターといった見知った面々に迎えられる。
「……バイオレッタ様!」
「クララ……、アスターお兄様まで……」
 ……そして、もう一人。
「ピヴォワンヌ……」
 無事救出されたバイオレッタの首筋に、ピヴォワンヌはしっかりと両腕を絡ませた。
「馬鹿!! 何してんのよ……!!」
「ごめんなさい……、ありがとう、ピヴォワンヌ……!」
「またいなくなっちゃうかと思ったじゃない……!!」
 件の追想を見たせいか、その言葉になんとも言えない重みを感じて、バイオレッタは強く妹の背を抱き返した。
「……ここにいるわ。もういなくなったりしないから」
「当たり前よ。おかしなこと言わないで」
 二人はそのまま互いの身体を強く抱きしめ合った。 
 ピヴォワンヌの紅い髪から漂う甘い芍薬の香り、ほっそりとした――けれどもそれでいて力強い腕の感触に、バイオレッタは無性に泣きたくなる。
「ごめんなさい……、ごめんなさい、ピヴォワンヌ。助けに来てくれて、ありがとう」
「……うん」
 抱擁の力を欠片も緩めぬまま、バイオレッタは妹の髪の一房にそっとキスを落とした。
 
 
 アインはその様子を忌々しげに見やって悪罵する。
「おのれっ……!」
 いかにも腹立たしげなその顔つきは、さながら燃え立つ烈火を思わせる激しさだった。
 そこでクロードが品よく微笑しながら一行の前に歩み出た。
「その姫は私たちの生贄です。どうかお返しいただけませんか」
 どこまでも慇懃に言うクロードに、アベルはふんとせせら笑う。
「お前の主人はお前を見限ったよ、クロード・シャヴァンヌ。何もかも明るみに出たんだ。お前にはもう逃げ場なんてない」
「……なるほど。あの方もなかなかに愚鈍ですね。いや……。ここは『親子揃って』というべきでしょうか。ようやく私の本性に気づくなど」
 クロードはそこで場にそぐわぬひどく艶麗な笑みを浮かべて一行を見返した。
「ですが、この私がこのままおとなしく引き下がるわけがないでしょう? あなたの提案を吞んだところで、どうせ私はこのイスキア大陸における重罪人の烙印を捺されるのです。ならば、最後まであなた方に抗うのみ……」
「はっ。いかにもお前らしいな。みすみす捕らえられるくらいなら最後まで純然たる悪の華を演じきるか。いいよ……、それくらいじゃなきゃ俺もつまらない。徹底的に打ちのめしてあの王の前に引っ立ててやるよ」
 アベルは傲然と顎を持ち上げると、言った。
「こうしてお前に一矢報いる日をずっと待ってたんだ。いいや、『待ち遠しかった』といっても過言じゃない。お前が本性を見せる時を、今か今かと待ってた。父上や母上の仇を討つ日が来るのをな」
 その奇妙な言い回しに、クロードが眉宇をひそめる。
 そして、何がおかしいのか、彼は低い声でくすくすと笑いだした。
「……あなたは……。ふふ……、そういうことでしたか」
 クロードは黄金きんに光る双眸でまっすぐにアベルを射抜いた。
「まさか、亡国の王太子殿下とこのような所で相まみえることになろうとは……」
 そこで声を上げたのはクララだった。
「王……太子……? あなたは一体何をおっしゃるの? アベルはわたくしの従者で――」
「おや、クララ姫はお気づきでない? これはまた滑稽なお話ですね。そこにいるアベルの正体がまだお分かりでないとは」
 そこでクララははっと息を詰める。
 彼女はそのままバイオレッタの腕にすがりついてきた。
 そのおもては今や蒼白になっており、細い身体もかたかたと小刻みにせわしなく震えている。
「嘘、でしょう……。そんな、何かの間違いで……」
「なかなかの策士ですね、アベル……。あなたが王城に迎えられた時から只者ではなさそうだと感じていましたが、ふふ……、これまで巧妙に妹君を欺いていたのですね」
「黙れ。お前に俺の何がわかる!」
 クロードは底冷えのするような表情でアベルを見つめた。
「よくもこの私を出し抜いてくださいましたね、魔導士アベル。……いえ、ここはあえて『ロベリオ王子』とお呼びしましょうか?」
 刹那、クララはがくりとくずおれた。
「ロベリオ……、その、名前は……!!」
「どういうことよ、魔導士クロード!! 説明なさい!!」
 ピヴォワンヌは腰のサッシュに留めつけていた長剣を素早く鞘から引き抜く。
 すると、アベルがそれを手で制した。
「いいよ、ピヴォワンヌ様。僕、いや……俺が直接話そう」
 
 アベルは下級魔導士の証である純白のコートの裾を優雅に払うと、狼狽するクララの前に跪く。
「……わが君。今まで貴女様を謀っていた無礼を、どうかお許しください。僕はこれから、貴女に捧げた誓いを破ります」
「アベル……。お前は……、いいえ、あなたは……」
 すっと顔を上げたアベルは、次の瞬間アイスブルーの双眸をきらめかせながら唇を開いた。
「俺の本当の名前は、ロベリオ・アレフ・フォン・アルマンディン。クララ、俺はお前の実の兄だ」
 クララはアベル――否、「ロベリオ」に手を取られたまま、じり、と後ずさる。
「あ、兄……? あなたがわたくしの……?」
「お前は幼かったし、すぐに戦争で引き離されてしまったから覚えていないだろうけどな。あの戦があったとき、俺はまだほんの子供だった。アルマンディンの宮殿はスフェーン軍に包囲され、幼かった俺は王家の男児だというだけでそのまま処刑されるところだったんだ」
 絶句するクララに、アベルはどこか遠い目をしたまま続ける。
「それを救ってくれたスフェーン人の学者がいた。彼は俺の恩師だ。俺にしもべを目視し術式を操る才覚があると見出し、『魔導士アベル』として徹底的に教育を施した人物だ。彼が俺をかばってくれたおかげで、俺は運よく処刑をまぬがれた」
 
 その人物こそ、アベルを推挙した研究棟の魔導士・カーネルだった。
 彼は幼子のアベルがその若い命をむざむざ奪われるのを哀れに思い、主君であるリシャールに進言してくれたのだった。
 
『――陛下。このまま命を奪うくらいなら、その王子、私の弟子として賜りとうございます』
 
 研究棟に数多くの弟子を抱える学者でもある彼は、アベルの若い命がみすみす摘まれるのを惜しんだ。
 そして「自分の弟子に迎える」ということを口実に、幼い彼を窮地から救ったのだった。
 しかし、ここにスフェーン側の一つの思惑があった。
 ロベリオは正統なるアルマンディン王家の男児としてその血を繁栄させる術を断たれる。つまりは去勢によって男の証を奪われてしまったのである。
 
「そこで俺は一度死んだ。王子としての生命を断たれ、アルマンディン王家の人間であるということを隠して生きていくことになったんだ」
「……そん、な」
「俺の背にはその時の焼き鏝の痕がくっきりと残ってる。今でも背中の引きつれるような痛みで眠れない夜があるくらいだ。けど、この激痛があったおかげで俺は前を向いていられたんだ。いつか絶対にお前を救い出し、アルマンディン王家を再興させるという望みがあったおかげでな」
「……!」
 クララの動揺が伝播してしまったかのように、バイオレッタもあまりの事実に立ちすくむ。
 では、彼は――ロベリオは、その正体を隠してずっと傍らで妹姫の成長を見守ってきたということなのか。これまでただの一度もその事実を知らせずに?
(こんな、ことって――)
「それから俺は、カーネル師匠せんせいと一緒にスフェーンへ入国した。お前がスフェーン側の虜囚になったという事実を知っていてもたってもいられなくなった俺は、無我夢中でお前の側に行く手段を考えた。そのために王宮付きの魔導士に志願したんだ」
「……!」
 クララはがくがく震えた。
 アベルの激情を受け止めきれなかった彼女は、そこでがくりと膝をつく。
「アベル……! すべては、わたくしのために……?」
「……すまない、クララ。俺はかつてお前を守り抜くことができなかった。お前を助けてやることもできなければ、一番辛い時にお前を支えてやることもできなかった」
 アベルはくずおれたクララの頬を指先で一撫ですると、軽やかな所作で立ち上がった。
「だが、今は違う。今の俺にはお前を守るだけの力と真実がある。お前を守るためなら、俺はどんなことだってする。必ずやあの仇を討ち、お前と母上の屈辱を晴らしてみせる」
「待っ……アベル!!」
 
 クララの制止を振り切り、アベルは純白のコートをはためかせながら黒衣の魔導士と向き合った。
 対峙するクロードは、夜陰の中で冷たい笑みを浮かべる。
「くっ……! ははははははっ……!」
 天井の高い広間に耳障りな哄笑が反響する。
 背を反らし、肩を小刻みに揺らしながら、クロードはアベルを嘲った。
「これは傑作ですね。妹君を守るために身分を偽って王宮に潜伏するなど……。れっきとした王太子のくせに大した度胸だ。まあいいでしょう。いくらあなたに魔力があろうと、この私の術式を破れる魔導士など、この国にはいるはずがない」
 しかし、アベルもまた薄い笑みを浮かべて彼を見返した。
「それが、俺にはできるんだよね。お前の契約している邪神ジンを打ち破るだけの力を持っているからな。残念だよ……、お前になら絶対わかると思ったんだけどな……この瞳の色のわけが」
 笑い声が、ぴたりとやむ。
 クロードはそこでふと蒼白になった。
「……その、色は……。まさか……、『神の依代』の……!」
 アベルは自身のまぶたを指先でゆっくりとなぞった。
「そう。俺は女神ヴァーテルと契約した水の依代だ。お前がジンと契約しているのはすぐにわかったよ。俺と対になるジンの依代だということも。時々紅くなる瞳の色に、その隠しきれない禍々しい気配。俺には見抜けるんだ……、ヴァーテルの依代である俺には」
 クロードは今度こそちっ、と舌打ちをした。
「小癪な……! 私の邪魔をなさるというなら、たとえあなたでも阻止いたします!」
「できるものならやってみろよ。ジンが司るのは火炎だ。よってお前の力の源は火。……それなら清流で流して・・・しまえばいいのさ……!」
 アベルは腰に帯びた細身の剣を素早く引き抜いた。
 切っ先を空に掲げるや否や、その刀身が透き通った水のヴェールを帯びる。
(剣が青く……!)
 アベルの携えた細身の剣は、今やほの青い水の輝きを纏っていた。
 澄んだ色合いの刀身とそれに纏いつく水飛沫は、どこか上質な水晶を思わせる。
「我は揺蕩たゆたうもの、沸き出でるもの。この手に宿りし全てを正す万能なる力……、は、母なる水なり!」
 詠唱するが早いか、アベルはクロードに打ちかかった。
「……させませんよ、アベル!」
 クロードは自身の周囲に炎の防護壁を展開させる。
 しかし、編み出した防護の術式はアベルの剣が放つ水の波動によってことごとく打ち破られ、クロードは瞬く間に祭壇の間のきわまで追いつめられる形となった。
 クロードが怯んだのをいいことに、アベルは切っ先をすいとその喉笛へ翳す。
「なあ、知ってるか? 依代と呼ばれる存在が相まみえるのって、本当はめちゃくちゃ珍しいことなんだってよ。ま、当然だよな。神と契約する人間なんざそうそういない。そんな稀有な術者同士が対面すること自体奇跡ってモンだよな」
「ぐっ……!!」
 じりじりと距離を詰められ、しまいには背を広間の石壁に押し付けられて、クロードは激しい憤怒の表情を浮かべる。
 だが、次の瞬間その唇は突如笑みを形作った。
「……では、私ももう一切手加減はいたしません。いかな水の依代であろうとも、逆らうならば殺すまで」
 短い詠唱によって現れたフランブルジュを手に、クロードはアベルに斬りかかる。
 アベルの繰り出す刀身をことごとく押し返し、火炎のように波打つ白刃でもって獰悪に責め立てる。
 互いに一歩も退かない態勢、そして祭壇の間に小気味よく鳴り響く甲高い剣戟の音に、撃ちあう二人の士気は極限まで高まった。
 狡猾ともいえるクロードの激しい剣筋を軽々とかわしながら、アベルは余裕の笑みを浮かべる。
「ハッ……その顔がお前の素ってわけか。いいよ、すごくお似合いだ」
「それはどうも。あなたもそのさかしい表情の方がお似合いですよ……、いかにも潰し甲斐がありそうでぞくぞくします」
「へえ。俺がお前なんかに屈服すると思ってんの? ふざけるのは頭の中身だけにしとけよ、クロード・シャヴァンヌ」
 数々の鋭い斬撃を颯爽といなし、アベルはクロードの懐を逆袈裟に斬り上げた。
「お前の剣筋は、闇雲すぎて芸がないんだよ……!」
「っ……!」
 的確な一撃に、クロードの纏うシャツの肩口が細く裂ける。
 一旦大きく間合いを取った二人は、その直後激しく刃をぶつけ合った。
 火と水、二つの相反する依代が刀身を挟んで拮抗しあう。
 クロードの端整なおもてを強くねめつけ、アベルは叫んだ。
「お前は俺の祖国を滅ぼしたんだ!! クララが今までどれだけ苦労してきたか、お前にわかるか!? 捕虜として捕らわれ、スフェーンでは敗戦国の生き残りと侮蔑されてきたあいつの苦労が、お前にわかるのかよ!! 自由と尊厳を奪われて、羽根をむしられた鳥も同然だった、クララの気持ちが……!!」
「は……! それしきのことで熱くなるとは。あなたはさすが、王太子だけあって……甘い!」
 罵声とともに、クロードは切っ先を勢いよく薙いだ。
 アベルは鋭敏な動きでそれを避けると、長剣を大きく振りかぶった。
「……こ、の……っ!」
 
 すんでのところで刃を受け止め、クロードは端麗なおもてをいびつに歪める。
 逼迫した鍔迫り合い、そして絶え間なく仕掛けられる容赦のない進攻に、彼は忌々しげな舌打ちをした。
 
 何しろ剣の使い手としての腕前はクロードよりアベルの方が格段に上なのだ。
 そんな彼にクロードが力技で適うわけもなく、彼はすぐさま苦渋の表情を浮かべる。
 そんな中、黙して事の成り行きを傍観していたアインが声高に叫んだ。
「邪魔立ては許さぬ! クロード! 殺してしまえ!」
 主の鋭い一喝に、アベルから距離を取ったクロードは素早く詠唱を始めた。
「漆黒の炎よ……、我の声に応えて爆ぜよ! 全てを焦がし滅却する力、万物の理。其は火なり!」
 しかし、その詠唱はかえってアベルに付け入る隙を与えてしまう。
 炎の術式が完全に撃ち放たれる前に、アベルはその懐に潜り込んでぴたりと切っ先をあてがった。
「無駄だ。お前の力じゃ俺には勝てっこない」
「小癪な――!」
「言ったはずだ、火は水に勝てないと。『火と水の拮抗』で火の神ジンが水神ヴァーテルにけして勝てなかった理由はなんだと思う? 物質のそもそもの性質が異なっているからだ。お前の持つ火のエネルギーが意味するのは変化と成熟。だが俺の扱う水のエネルギーはそれすら受け入れ押し流してしまう類のものだ。火がいくら瞬発的に強い力を生み出したとしても、水の力はそれすら包み込んで跡形もなく洗い流してしまう。火の依代がどんなに足掻いてみたところで、その相手が俺じゃ端から勝負は決まってるようなものだ」
 クロードは呻く。
 沈黙した彼を、アベルはここぞとばかりに責め立てた。
「何度お前を殺したいと思ったかわからない……、魔導士クロード。これまでの俺の悲憤は、お前なんかには理解できないはずだ……。母上や妹は遠い異国へと送られ、父上は処刑された。その時お前は、アルマンディンの民の命を笑いながら踏みにじっていた」
「ふふ……、その怒りが、長年あなたの原動力となっていたのですね。は……、なんと陳腐なお話でしょうか。今時戯曲家でもこんなくだらない話は書かないでしょう。ですが、その滑稽な復讐劇も今宵をもって無事幕を閉じるというわけですね。あなたの復讐は……成功などしない」
「いいや、成し遂げてみせるさ。お前は俺の血族の仇敵だ。絶対に殺す……、俺の手でな」
「忌々しい水の依代め……、やれるものならやってみるがいい。その前に私たちの足元に跪かせて差し上げます」
 そう吐き捨てるクロードを唆すかのように、アインがけたたましく嗤う。
「そうだ。ヴァーテルの下僕。お前にわたくしたちの邪魔などさせるものか! 殺せ、クロード! そしてそやつの死をわたくしへの最初の供物とせよ!」
 クロードはそんな彼女に目配せすると、フランブルジュを握り直してうっすらと笑う。
「……仰せのままに、アイン様。このような小物、すぐに片づけてご覧に入れます」
 
 
***
 
 
「いやっ……!」
 クララは手で顔を覆った。
 目の前にはとても直視できないような光景が広がっている。長年従者たちによって丁重に守られ、恐ろしい外の世界からことごとく遮断されてきたクララにはとても見ていられないような光景が。
 これは紛れもなく「殺し合い」だ。
 互いの信念と目的を大義名分とした命の奪い合いだ――。
「うっ……!」
 クララは背を折り曲げ、ばくばくと盛んに脈を打つ鼓動をなんとかなだめる。
 その時、クララの背に温かな手のひらが回された。
「……クララ様。ご覧になってはいけません。本当は、このような場所に貴女様を連れてきたくはなかった」
 そのままユーグの背にかばわれたクララは、震える声を絞り出す。
「ユーグ。教えて。あの人は……アベルは、本当にお兄様なの?」
 
 ……顔など覚えているはずもない兄。
 だが、時々ユーグやアルマンディン側の残党たちの話を耳にしていたので、自分に兄がいること、「ロベリオ」という名であることは知っていた。
 ロベリオ。
 彼は本来であれば王位を継いでいたはずの第一王子――王太子だ。
 アベルの話がすべて本当なら、クララは唯一の血族を単なる従者として扱ってきたことになる。
 正統なるアルマンディンの継承者である兄王子を、一介の下僕として長年使役してきたことになるのだ。
 
 クララの問いかけに、ユーグは短く息を詰めたのち、静かな声で答えた。
「……はい」
「どうして黙っていたの!? わたくしはずっと、自分は天涯孤独なのだと思ってきましたわ! もう、頼れる血族は誰もいないのだと!」
「それがアベルの……いいえ、ロベリオ様の望みだったからです。ロベリオ様はずっと、貴女様をそばで見守っておいででした。あの方が魔導士館にやってきた時のこと、今でも鮮明に思い出せます」
 ロベリオの髪は幼少期には茶色かったという。瞳もクララと同じターコイズブルーで、容姿はまったくアルマンディン人のそれだったそうだ。
 だが。
「再会した時、すでにあの方の容姿は今のようになっていました。依代になると、外見が変化してしまうのだと聞き及んでおります。恐らくロベリオ様の場合、水神ヴァーテルのそれに近しいものになっているのでしょう。契約者となる者の容姿の変化は立派な代償の一つなのだと」
「お兄様が、『依代』……」
 クララの頭の中で、歴史書がひもとかれてゆく。
 
(……そう、アルマンディン王家には、時折先祖返りのように強力な力を持った術者が生まれることがある。それは、ヴァーテル女神の血を最も濃く受け継ぐ一族だから。それに加えて、お母様はお父様に見初められるまでは宮廷魔導士だったわ。それならば、何ら不思議はない……!)
 
「……どうしたらいいの。わたくし、お兄様を喪いたくない。せっかく会えたのに、このままではまた……!」
 そう言って縋りつけば、ユーグは片眼鏡モノクルの奥の瞳をすっと眇めた。
「……それが貴女様のご命令なのでしたら、私は従うまで。アベルには遠く及びませんが、私も魔導士です。お二人の仇敵であるクロードをこの手で討つ覚悟でおります」
 ユーグはそう言い置いて、アベルの元へ駆け出してゆく。
 クララはその背に向かって必死で呼び掛けた。
「……! ユーグ!! 待って、行かないで!! あなたまでいなくなったら、わたくしは……!!」
「……クララ!」
 背後から伸びてきた力強い両腕に抱きすくめられ、クララははっと息を呑む。 
「アスター様……!?」
「駄目だ、行くな! ここにいろ!」
 たくましい両腕で身動きを封じられて、クララは弱々しくもがいた。
「お放しになって! このままでは二人が――」
「何があっても、僕が貴女を守る。貴女を支える。だから、今は僕のところにいるんだ」
「二人が殺されるのを黙って見ていろとおっしゃるのですか!?」
「違う! 冷静になれ、クララ。貴女が今飛び出して行ってもいいことなんか一つもないだろう。戦況がますます混乱するだけだ!」
「だけど……っ!!」
 うっすらと涙を浮かべて彼を振り仰ぐと、震える肢体をなだめるように撫でさすられる。
「……今は自分の身を守ることを第一に考えるんだ。あの二人は貴女の護衛官としてこれまで多くの鍛錬を積んできている。嫌な言い方だが、二人とも貴女以上に戦えるんだ。今は二人に任せるしかないだろう」
「うう……っ!」
 動揺と錯乱から床に倒れ込みそうになるクララの細腕を、アスターはしっかりと掴んだ。
 そのまま彼女の身体を自分の方へ引き寄せると、真摯に説いて聞かせる。
「……実のところ、僕もユーグと同じ気持ちだ。こんなところに貴女を連れてきたくはなかった」
「アスター様……」
「だが、アベルの妹である貴女にはすべてを見届ける義務がある……。こうしてこの場に立ち会っている以上、貴女はアベルが本懐を遂げるのをその目で確かめなくてはならない。なぜなら、それがアベルの最大の望みだからだ」
「ええ……」
 殊勝にそう答え、クララはかろうじて全身に走った震えを抑え込む。
 本当はひどく恐ろしい。実兄が仇によって討たれるかもしれないというこんな状況下で、普段通り理性を保てという方が無理な話だ。抜身の刃を手に撃ち合っている二人を見ると、どうしたって理性より恐怖心の方が勝ってしまう。
 だが。
「アスター様の言う通りです……。わたくしには、アベル――いいえ、ロベリオお兄様の戦う姿を見守る役割がある。ここでわたくしが逃げ出すわけにはまいりません」
 
 アベルにはきっと最初から何もかもわかっていたのだ。
 こうして仇敵であるクロードがその残忍な本性を明かすであろうこと、そしてそれを討つべきはほかならぬ自分自身であるということまで。
 
 両目を妖しく光らせる醜悪な妖魔像を視界に捉え、アスターは普段の彼からは想像もつかないほどの剣呑な顔つきになる。
「……貴女のことは、僕がなんとしてでも守り抜く。たとえこの身を犠牲にしてでも、貴女がその命を奪われることだけは阻止してみせる」
 クララは答える代わりにその腕にしがみつく。
 
(お兄様)
 
 爆ぜる祭壇の焔。実体を得た邪神の暴虐と、彼女に翻弄される非力な人の子たち。
 ……長く凄惨な夜の始まりだった。
 
 
 

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