第六章 「幸福な日々」

 
 
 ようやく迎えた結婚式の日。
 アイリスは司祭の手によって大きな冠を載せられていた。
 天空を象徴するといわれるサファイアをあしらった宝冠だ。肩には羽毛のケープ、髪には羽根飾りと蝶の宝石細工をあしらった黄金のカチューシャ。
 傍らで彼女に微笑みかけているのは正装姿のエヴラールだ。
『ようやくこの日が来ましたね』
『はい。エヴラール様』
 二人は薔薇窓の前で厳かな誓いの口づけを交わし合い、晴れて周囲に認められる夫婦となった。
 そうしてエヴラールとアイリスは結ばれた。
 エヴラールが実際にアイリスを正妃として迎えるまでには三月みつきという時間を要したが、二人はその時をただゆっくりと待ち続けた。
 部族長の中には自分の娘こそ正妃にふさわしい、どうか考え直してほしいと再三にわたって主張してくる者もいたが、エヴラールは取り合わなかった。すでに彼の中ではアイリスこそが最愛の女性となっており、他の七皇妃と結ばれることなどもはや頭になかったのである。
 エヴラールはアイリスにとても優しくしてくれた。
 ようやく見つけ出した宝物を慈しむような目で彼女を見つめ、おもんぱかり、己の持てるすべての愛を彼女に注いだ。その熱量は、アイリスが思わず恐れおののいてしまうほどに深く激しいものだった。
『やっと出会えた。私の感情をすべて受け止めてくれる女性に』
 時折辛そうに塞ぎ込むこともあったが、それを除けばエヴラールは極めて穏やかな皇帝だった。
 政務、七大陸の視察、臣下たちとの議論。エヴラールは何に対しても信じられないほどの熱意と努力を見せつけ、他を圧倒した。アイリスはそんな夫が大好きだった。
『わたくしの陛下。あなたはわたくしの自慢の殿方です』
『いいえ。貴女のおかげです。貴女が隣で支えてくださるから、私はこうして前を向けるのです』
 日ごと夜ごと彼に愛でられながら、アイリスは奇妙な心もとなさを感じていた。
 幸せすぎて、いっそ怖い。
 人の営みに波はつきものだ。上向いた後は落ち込み、落ち込んだ後はまた緩やかに上昇するといったように。
 だが、エヴラールとの生活にはそれがない。どこまでも幸福で、どこまでも満ち足りている。
(こんな暮らしをしていていいのかしら。わたくしに、もっと何かできることはないのかしら)
 毎晩政務で疲弊して帰ってくる夫の姿に、アイリスはもどかしい気持ちを抱いていた。
 
 
「ただいま戻りました、アイリス」
「おかえりなさい、エヴラール様」
 湯浴みを終えて戻ってきたエヴラールが、夜着姿でアイリスの前に立つ。
 体温の高い男の身体から漂ってくる爽やかなシトラスの香りに、アイリスはしばしぼうっとなる。
 絹の夜着の裾がひらりとはためいたかと思うと、エヴラールはアイリスの隣に腰を下ろしていた。
「ようやく貴女との時間が持てそうで嬉しいですよ」
「ええ、わたくしもです」
 二人が皇帝の居城で褥を共にするようになってからすでに半月ほどが経過していた。
 皇帝夫妻のために新たに増設されたこの広い寝室で、二人は毎晩その日あった出来事について語り合う。
 時には政務に関する助言や意見を求められることもあり、その都度アイリスは真剣に言葉を選んでエヴラールに伝えた。
 せっかく彼に選ばれた手前、単なるお飾りの妻ではいたくなかったのだ。正妃という身分に胡坐をかくつもりは端からなかった。
 こうして嫁いだ以上、アイリスはエヴラールの一番の理解者であらねばならない。
 彼が求めているのはただ見栄えのする女や美しいだけの女ではない。皇帝である自分を支え、ともに頭を悩ませてくれる“協力者”なのだ。
 それを早々に見抜いていたアイリスは、彼の言動に対してできるだけ寄り添うよう努めた。
 必要とあらば民からの嘆願書や書状などにも目を通したし、エヴラールに助力している官僚たちの意見を聞くことも忘れなかった。
 その甲斐あってか、今では皇妃としても協力者としても頼りにしてもらえるようになり、アイリスはそれを単純に嬉しく感じていた。
「『半端者』のわたくしが、まさかこんなにも誰かの役に立てる日が来るなんて、思ってもみませんでした」
「恐らくそれも貴女の中に眠っていた才能なのでしょう。貴女のおかげで私は随分勇気をもらっていますよ」
「そんな……、でも、わたくしがエヴラール様を励まして差し上げられるなら何よりです」
 エヴラールはそこでサイドテーブルに置かれたボトルを取り、中身を小ぶりの酒杯にとくとくと注いだ。
 香りを確かめるように盃を鼻先に持っていき、恍惚としたため息をつく。
「ふふ……。政務も滞りなく進んでいて、おまけに隣には愛しい貴女がいる。本当に、素晴らしい蜜月だ……」
 言い終えるや否や、エヴラールは手中の杯をゆっくりと口元に持っていった。
 中身は蜂蜜種ミード。まさしく蜜月のために用意された酒である。
 夫婦として結ばれた男女はこれをひと月の間飲み続けて子作りに励む。
 口にするのは主に新郎だ。蜂蜜酒には滋養強壮の作用があるのだ。
 だが、アイリスは酒杯を傾けるエヴラールを必死で止めた。
「そ、そんな。無理をなさらなくたって……! あなたはお酒が飲めないのに」
「ふふ……。一杯くらいならどうということはありませんよ。それに――」
 エヴラールの蒼く澄んだ瞳が、そこで悪戯っぽく瞬く。
「酔ったら貴女が介抱してくださるのでしょう?」
「……!」
 酒など一滴も飲んでいないのに、条件反射のように鼓動がどきどきと騒ぎ出す。
 アイリスは迫ってきたエヴラールの胸をぽかりと叩いた。
「も、もう! おふざけにならないでください……! そんなに飲んで、気分が悪くなっても知りませんから!」
「これくらいの量でしたら大丈夫ですよ」
「もうっ……」
「ふふ……」
 アイリスは半ばぼんやりしながら夫の横顔を盗み見た。
 蜂蜜酒を嚥下する喉元がなんとも言えず官能的で、つい食い入るように見つめてしまう。
 この青年が自分のつがいなのかと思うと、アイリスはそこでたちまち鼓動の高鳴りを抑えられなくなってしまった。
 静謐な眼差しとは裏腹に、エヴラールは情熱的だった。
 夜の訪れとともに、彼の顔にはなんとも言えない艶めかしさが広がってゆく。そして彼は滾る情欲のままにアイリスを横たえ、その肉体を熱く割り開くのだった。
 最初こそ互いにぎこちない愛し方をしてしまったものの、深更のそのひとときはしだいに二人にとってなくてはならないものとなっていった。
 しっとりと落ち着いた夜の空気に、エヴラールの美貌はよく馴染んでいた。
 部屋中に灯された燭台の灯りが、彼の彫りの深い顔立ちをさらに魅惑的に引き立てている。柔らかな光を受けたそのおもては、今やたった一人の理解者への慈愛で満ちていた。
「私のアイリス……」
 蒼い瞳が誘うように揺れたかと思うと、アイリスは腰から抱き寄せられていた。しなる身体をエヴラールのそれにぴたりと密着させられ、頬に手を添えられる。
 驚く間もなく熱い唇が重ねられ、薄く開いた桜唇の隙間からエヴラールの舌が割り入ってくる。
「ん……っ」
 性急すぎる口づけに、アイリスはエヴラールの肩を弱々しく掴んだ。心もとなさからぎゅっと力を籠めて握りしめると、エヴラールが弾かれたように唇を放す。
「……アイリス?」
「いえ……。なんだか、怖くて……」
 うつむき、アイリスはシルクの夜着の裾をぎゅっと握りしめた。
 ここのところ、エヴラールは妻に対して手心というものをほとんど加えなくなっていた。
 ようやく皇妃の身体を所有することができたという嬉しさからか、あるいは初恋が実ったことに対する安堵感からなのか。
 彼はとにかくアイリスのことを求めたがる。
 新婚夫婦なのだから当然といえば当然なのだが、夜通し求められるとさすがのアイリスでも疲労困憊してしまう。
 そしてそのたびに自分は彼をきちんと満足させられているのかどうか不安になってしまうのだった。
「こ、こんなことなら、閨房術の授業をちゃんと聞いておけばよかったわ」
「……? それはまたなぜですか」
「だって、そういう知識があれば、エヴラール様にもっと喜んでいただけたかもしれないでしょう? 今、ほんの少しだけ後悔しているのです……」
 そこでエヴラールはほのかに苦笑した。
「それはまた健気なことを……。ですが、あの日貴女が閨房術の講義を抜け出してこなかったら、私たちは出会えませんでしたよ」
「あ……、それは確かにそうですわね」
「今頃私は貴女ではない別の誰かと褥を共にしていたかもしれません。それでも貴女は講義を受ければよかったなどとおっしゃいますか?」
「えっ、そんな……! そんなのは嫌!」
 身を乗り出すと、我が意を得たりとばかりに楽しげに笑われる。
「貴女は今のままでよいのです、アイリス。もし私に喜んでほしいというなら、いくらでもやり方を教えて差し上げますから……」
「え……っ」
 アイリスは一度はしどろもどろになったものの、やがてくすくすと笑い声を上げた。
「ふふ……。エヴラール様、好き」
 肌を寄せ合い、指を絡ませ合いながら、二人は寝台の上を転げまわった。
 まるで子供がするような無邪気な触れ合いではあったが、アイリスは幸福だった。
 寝台の上で横向きに抱きしめられ、その肌の温かさにうっとりと瞳を閉じる。
 すると、エヴラールはアイリスの身体の輪郭をなぞるように緩やかに手のひらを動かし始めた。
 「温かい肌だ。貴女のこのぬくもりに私はいつも励まされているのです」
 わずかに骨の浮き出た肩や鎖骨、丸みを帯びた腕のあたりにも、エヴラールの手は伸ばされる。
 温度を確かめるように手のひらを這わせ、しっとりと押し返すような弾力を持った素肌を愛でるように撫でさする。
 触れられた箇所からたちまち広がってゆく快さと安心感に、アイリスは薄紫の瞳を細めた。
「エヴラール様だって温かいわ。ほら、こうしてくっついていると、あなたの熱が伝わってくる……」
 アイリスは彼の胸にすっぽりと顔を埋めた。
 そこは夜着越しにとくとくと脈打っている。ぎゅっとエヴラールにしがみつきながら、アイリスはその鼓動を愛おしく聞いた。
 こうして互いの熱や存在を確かめ合う時、アイリスはどういうわけか泣きそうになる。
 触れ合えば触れ合うほどに、これが刹那的な行為であると思い知らされてしまう。
 そして思うのだ……、毎晩のようにつがっていること自体、すでに奇跡に近い出来事なのかもしれないと。
 ベッドの上で思うさまじゃれ合ったあと、急に気恥ずかしくなってきたアイリスは起き上がってそそくさと居住まいを正した。
「あ、暑いですわね。湯船につかりすぎたせいかしら、汗が止まらないみたい。ちょっと肌を拭いてきてもよろしいでしょうか?」
「嫌です」
 やけにきっぱりとした口調で言い、エヴラールは再度アイリスを腕の中に閉じ込める。
「は、あの……、エヴラール様?」
「汗ばんだ肌でも私は気にしませんよ。このまま愛し合いましょう?」
 途端に艶を増したエヴラールの声音に、アイリスは彼の胸を押しやっておたおたと後ずさる。
「いっ、いえ……! わたくしは、こうしてエヴラール様とくっついているだけでじゅうぶん満たされるのです。だから、その……」
 エヴラールはにこりとし、けれども有無を言わさぬ力強さでアイリスを抱きすくめた。
 ほんのりと赤味の差した耳朶に唇を寄せ、甘い声でささやく。
「可愛いことをおっしゃる。だが、それでは私が満足できない……。どうかこのままもう少しだけ付き合ってください、アイリス」
「え……、あっ……!」
 とさりと寝台に押し倒され、アイリスはそのままエヴラールの情熱を丸ごとぶつけられた。
 骨ごと溶けるような幸福に押し流され、何度も何度も柔らかく揺り動かされて、彼女はいつしか若き皇帝の傍らで深い眠りへと落ちていった。
 
 
 
 翌朝、皇帝夫妻の寝室では三人のお定まりのやり取りが交わされていた。
「まったくもう。あたしが声をかけるまでいちゃついてるんですから。起こす方の身にもなってください!」
 リナリアが声を張り上げる。普段通り甲冑と緋色のマントで武装した彼女は、腕組みをしてふんと鼻を鳴らした。
 朝の皇帝夫妻を起こすのはリナリアの役割だ。
 彼女はアイリスが正妃に選ばれるのと同時に皇帝夫妻直属の近衛騎士になっていた。それも一介の騎士ではない、騎士団長である。
 エヴラールにその剣の腕前を認められ、女だてらに皇帝夫妻二人の身辺警備を一任されたのだ。
 したがって、彼女はエヴラールとアイリスの寝台での戯れを最も頻繁に目の当たりにする人物であるといえる。
 間が悪い時には裸身で睦み合っているところまでばっちり見られてしまうので、なんとも気恥ずかしいものがあった。
 傍らに立つ女官に命じて、リナリアはエヴラールとアイリスのカップにお茶を注がせた。
 いかにも怒っている風のリナリアに、アイリスは懸命に弁解する。
「ごめんなさい、リナリア……。は、早く起きようとはしているのだけれど、エヴラール様が……」
 アイリスはつい先刻まで広い寝台の中でエヴラールにくっつかれていた。
 長い手足を絡めて身体の動きを封じられ、寝ぼけ眼のままいたるところに頬をすり寄せられて、アイリスは内心苦悶していた。
 起き上がろうとするとたちまち寝台に引き戻され、「もうしばらくよいでしょう」などと甘い声でそそのかされる。
 けだるさに支配される身体をおとなしくベッドに横たえ、アイリスは渋々エヴラールの腕の中に戻った。
 そして二人してぬくぬくと惰眠を貪っているうちにリナリアがやってきたのだった。
 アイリスがしゅんと縮こまるのを見て取り、エヴラールが楽しそうに笑う。
「おや、つれないですね、アイリスは。起きるよりも私の腕の中にいる方がいいとは言ってくださらないのですか?」
「あ、あの、エヴラール様。リナリアの前ですよ」
「ふふ……」
 リナリアは肩をすくめた。
「あたし陛下のことは主君としては尊敬しますけど、殿方としてはいまいちだと思いますね。ベタベタベタベタ、歯が浮くような甘い台詞ばっかり吐いているんですもの。傍で聴いてていやらしいですよ」
 その台詞に逆に興味を覚えたらしく、エヴラールはリナリアに訊いた。
「では、貴女はどんな男がお好きなのですか?」
「えっ……!? な、なんでそうなるんですか!? あ、あたしは別に――」
「リナリアは確か、自分より強い殿方がいいのよね」
 アイリスがのんびりとパンをちぎりながら言うと、リナリアは目に見えてうろたえた。
「ちょ、ちょっと、アイリス様。何も陛下に教えなくたって」
「なるほど。それでなのですね」
 エヴラールは納得した様子でうなずいた。リナリアが青くなる。
「ま、まさか……、陛下」
「ええ。これでも臣下について把握しておこうと努力しているところなのですよ。イジークと手合わせしている貴女は実に生き生きしていますね」
「見てたんですか!?」
 イジークはこの帝国の将軍を務める青年で、エヴラールの指示によって軍を動かし派遣する司令官の役割を果たしている人物である。
 獰猛な獅子を思わせる体躯、男らしさの滲む野性的な顔立ちとしぐさ。
 ざっくばらんでありながらも的確な発言の仕方をする好人物である。
 リナリアは最初こそその言葉遣いを「いけ好かない」と評していたものの、しだいに意気投合してきたようで、今では城の鍛錬場でともに手合わせや稽古をする姿が見受けられる。
 アイリスが見ている限りでは、二人はとても息が合っていて仲がよさそうに見えた。
「……ふむ。イジークもイジークなりに貴女に好意を抱いているのだろうと思うのですが……リナリア、貴女は存外鈍いのですね」
「そうですわよね。この子ったら、わたくしの恋路は心配するくせに自分のこととなるとまるで無頓着で」
「そっ、そんなことよりも! 陛下。先日の地族による侵攻の話、お聞きになっていらっしゃいますか」
 リナリアは手元の書類をはらりとめくりながら言った。
 エヴラールは金髪を揺らしてしっかりとうなずく。
「ええ、聞き及んでいます。南の小大陸プレセペだそうですね。空を飛ぶ機械を、とうとう地族も開発したと……。軍を派遣して追い払いましたが、恐らく今後も侵入を試みてくるでしょう」
「ええ。このままでは地族の軍がこのカリナンにまで到達してしまうでしょう。天族と地族は五百年前からずっと犬猿の仲です。事の発端には、天族による地族の大量虐殺や、地族の長が何度も戦争を仕掛けてきたことなどが挙げられますが、恐らく一番の原因は、当時の天族の皇帝が地族の姫をさらい、無理やり皇妃に据えたことかと。あたしが生まれる前のことですが、あの時は大ごとになったそうですから」
 これまでは天族が一方的に地族の領土に立ち入っていた。空飛ぶ船や機械を操って。
 けれど地族は少しずつ技術を向上させていた。そして作ったのだ……、天族の乗り物に負けない機械を。
 それは最初こそ見よう見まねだったのかもしれない。
 しかし彼らが空を飛ぶ手段を得たことは、まぎれもない事実なのだ……。
 エヴラールはテーブルの上で指を組むと、苦痛をこらえるような顔をした。
「弱りましたね……。私は地族とはできるだけ揉めたくないのです。何せ、わが正妃の母君は地族の方ですから。けれど現時点では和解は難しい。どうしたものでしょうか」
「一歩間違えればアイリスのお母君の国をも敵に回すことになりますからね。でもこのまま領土を侵攻させるのだけは止めなければいけません。なんとかいい手段を考えないと……」
「……」
 黙って話を聞いていたアイリスはすっと顔を上げた。
「なんとかできるかもしれませんわ」
「アイリス?」
「スフェーンの地を――七つの小大陸を、さらに上空に浮かび上がらせるのです。天族の民には、これからは地族を襲撃しないように御触れを出してください。和解が難しいなら、せめてお互いが干渉しあわないようにすればいいのでは?」
「けれど、どうやって? 命令を出すのは容易いですが、七大陸を浮かび上がらせるのには恐らくかなりの腕利きの術者の力が必要ですよ。そのような者がこの宮殿にいるはずが……」
「わたくしがやります」
「はあ!? アイリスあんた……」
「創造神のお力には到底及びませんが、人間にはもともと魔術を使う素質があります。古書のお好きなエヴラール様ならご存知かと思いますが、『混血児』には時々創造神にも匹敵するほどの術者に成長する者がいたとか……。その話が本当なら――」
「お待ち下さい!」
 エヴラールはがたんと席を立った。
「私が貴女にそのような危険な真似をさせられると? 考え直してください、アイリス。地族との戦の件は私の問題です、貴女までそれを背負うことは――」
「いいえ。あなたに嫁いだ以上、わたくしも皇室の一員ですわ。あなたのように民の命や未来を守りたいと思うのはいけないことなのですか」
「けれど、術者になるにはそのための素質としもべとの契約が必要では……」
「そのようなことでしたらご心配なさらないで。きちんと考えていますから」
 そこでリナリアが呆れたような顔つきで身を乗り出す。
「けど、一体どうするの? そんな都合のいい話、聞いたこともないわよ」
 アイリスは二人の顔を順に見やってうっすらと笑った。
「皇室付きの術者たちを集めて下さい、エヴラール様。わたくしに策があります」
 
 
 
 その日の朝、エヴラールとアイリスは研究棟の一室でローブを着込んだ老人たちと向かい合っていた。
 もともとスフェーン皇室には魔術や錬金術を専門とする術者たちが多く仕えている。
 普段、彼らは天空、ひいては宇宙に近い場所の観測をしたり、七大陸の持つ浮遊の力の研究をしたりしている。
 そんな彼らが集って研究や観測をしているのがこの研究棟だ。
 煉瓦造りの古びた建物の中、アイリスは術者たちを統率する役割を持った人物と話をしていた。
「ほほう。この七大陸をさらに上空に浮かび上がらせたいとな?」
「はい。わたくしでも可能でしょうか、長殿」
 白い顎ひげをふっさりとたくわえた老人が難しい顔をする。
「そうですなぁ。風の神の力でも借りられれば、あるいは……。力の弱いしもべではそのような魔力は持たぬでしょうし……」
「いや、しかし……文献によれば、風の神が祀られていたのは今からおよそ千年以上も前のこと。風の神は気まぐれで有名だという文献もある……。難しいでしょうな」
 術者を務める老人たちは口々にアイリスの案を「困難だろう」と評した。
(やっぱり難しいかしら。でも、わたくしにはこれだけの魔力がある。魔導士でこそないけれど、それに近い能力は有しているはず……。なんとか風神を説得することができれば可能かもしれない)
 人間が魔術を扱える「魔導士」になるためには、まず四大神のしもべを目視できるということが絶対条件だ。彼らを見ることのできる者はその才覚が備わっているとされる。
 次に、四大神――火、水、風、土――のいずれかのしもべと契約する必要がある。この時点で、その元素に関係する様々な術が扱えるようになるといわれている。
 さらに自分の魔術を極めたい魔導士は光と闇の術を会得するらしいのだが、それらは「高位魔術」と呼ばれていることもあって駆使するのは骨が折れるのだという。
 アイリスは魔導士ではないものの、彼らとほとんど同格の魔力を持っている。
 風に属する翼あるものたちを従え、その意思を心話しんわで読み取るという力を。
 大っぴらにひけらかしたことこそないが、アイリスとて術者になるにはじゅうぶんの素質を備えているのだ。
 と、そこで若い学者の一人がせわしなく文献をめくりながらつぶやいた。
「そういえば……火の神と水の神のしもべの契約者はあまりいないようですが、それは一体なぜなのですか、長殿」
「それはもちろん禁忌だからだ。水は聖なる力、火は邪なる力……、それは二千年前からずっと変わらぬ思想だ。しかも、四大神の中でもあの二柱ふたはしらの神の力は今急速に高まりすぎている。その魔力を分け与えられたしもべの力もまた同じ。もはや人の手には負えぬのだ」
「では、この二つの魔術を会得している術者は今いないということですか?」
「しもべと契約する者はいるかもしれんが、異端者扱いされるであろうな。祭壇や遺跡に関しては見つかってはおらぬ。私としては神の遺跡というのは大変興味深いのだが」
 今から二千年ほど前のこと。
 火の女神は水の女神と死闘を繰り返し、その末に、地上にシエロ砂漠という広大で劣悪な環境の砂漠を遺した。
 疲れ果てた水の女神の身体は砕け散り、大陸のあちこちに飛び散った。
 その血肉から生まれた人間が王族の人間たちだといわれている。
 今でこそ互いを天空神と大地母神の末裔などと呼びならわしてはいるが、その根源は同じ神だ。
 天族、地族などという呼称はいわば便宜上のものでしかなく、天地の神々の名を持ち出すのはひとえに互いの領土を守るためである。
 ……本当はみな恐ろしいのだろう、自分たちが元は同じ神から生まれた人間だと気づかされるのが。
 だからこそ同じ人間ヒトでありながらも異なる神の名を持ち出して自分たちの尊厳を守ろうとする。
 そのことに、アイリスはなんとも言えない哀愁を感じた。
(……悲しいけれど、それが人のさがなんだわ)
 神々とて、戦のために自分たちの名を持ち出されるのは不本意だろう。
 だが、それでも人間とは争わずにはおれない生き物なのだ。
 自分たちの命を守るためならどんな手を使ってでも他者の命を略奪してしまう悲しい生き物なのだ……。
 うつむいて眉を引き絞っていると、古書を携えた一人の術者が声をかけてくる。
「神の依代よりしろをご存知ですかな、アイリス妃」
「依代……?」
「はい。四大神の魂のれ物となり、大陸の人間たちにその意思を伝えたという特別な術者がおったのです。肉体に多大な負荷がかかるうえ、本来の寿命が縮んだり、契約の見返りに特別な『代償』を要求される、などといった障害もあったのですが、人々からは神聖視され崇められていたのですよ」
「……」
 アイリスは考え込んだ。
 なるほど、神の依代となれば確実にスフェーンは守れる。けれど、代償に何を要求されるかわかったものではない。
 しかも、現時点では風神イスファートと相まみえることすら困難。
 なかなかにリスキーな策のようだ。
「この策は無理では?」
 傍らのエヴラールが困ったように言うが、アイリスはふるりとかぶりを振った。
「わたくしの使い魔たちなら、きっとよい策を指し示してくれるはずですわ」
「使い魔……?」
 アイリスはさっと手をひらめかせる。
 すると、そこに細かな光の粒が集まってきた。
 様々な色の粒子が緩やかにアイリスのたなごころに向かっていく。
 次の瞬間、それは色鮮やかな鳥や蝶の姿に変わった。アイリスの周りを楽しげにひらひらと浮遊する。
 これがアイリスが使役する使い魔たちだ。
 そして彼らが属するものは「風」。彼らはまさに風神の使いなのだ。
(それなら、その魔力の源を辿ればいい。風の力の集まるところ、それはすなわち風神の魔力の一部が集まるところ……。それなら、その力を逆に辿っていけば――)
 アイリスは再び手をひらめかせた。
「さあ、教えて……、あなたたちの主の居場所を……!」
 たちまち鳥と蝶の群れは光の塊となって凝縮される。
 アイリスはその輝きに自身の心を共鳴させた。
 力の根源を遡り、その奥処おくがに待ち受ける巨大な魔力の奔流に呼びかける。
「我は風の子に愛されし者。翼ある者を愛でし者。長風ちょうふうよ、導け。主の元へ我をいざなえ。出でよ、風神イスファート――!」
 生ぬるい突風がびゅう、と吹き荒れたと思った、次の瞬間。
 ……そこには、褐色の長い髪を垂らした冷ややかな美貌の青年がたたずんでいた。
 純白のローブの裾を物憂くからげながら、青年――風神イスファートはすっと緑青色の瞳を細めた。
風神わたしを召喚するとは恐れ入ったが、なんと幼い術者だ。私を呼んだか、人の娘よ』
「風の神、お願いがあります。この七大陸をさらに上空へ浮かび上がらせる力をわたくしにお授けください!」
『ほう……この天の民たちの大陸をさらに上へと浮上させたいと? だが、それは何故だ? よもやこの私にそなたの私利私欲のために動けと言うのではあるまいな?』
「違います! 今、この天の国は危機に瀕しております。地上の民たちとの戦を避けるため、今どうしても守護の力が必要なのです」
 必死で懇願すれば、イスファートは値踏みするようにアイリスを眺めた。
『なるほど。国のために力を使おうというのか。大した娘だ。なれど、術を使うには少々魔力が足らぬようだな。わが器となるなら、風の力を自在に操るだけの魔力を分け与えてやる。さすればこの大陸を浮上させることなど訳はないであろう。……さあ、どうする、娘。我が物となるか?』
「はい。どうかわたくしにあなた様のお力をお授けください」
 アイリスは躊躇することなくイスファートに歩み寄り、彼の掌に自身のそれをゆだねようとする。
 その刹那、傍らからエヴラールの手が伸びてきてアイリスを止めた。
「いけません、アイリス! 神とはいえ、相手は人間とは異なる者。代償に何を要求されるかわかったものではないのですよ!」
「かまいませんわ。みなの命には代えられません。……風の神イスファート、どうかわたくしに力を。七大陸を浮かび上がらせるだけの力をお授けください! 代償は支払う覚悟です」
 風の神はそこでわずかに微笑んでアイリスを見た。
『代償など私は要らぬ。天族はわが血族でもあるのだ、娘。そなたたちが空を見捨てぬ限り、私はそなたたちに力を貸し続けよう』
「本当ですか!?」
『ああ。だが、そなたの声はとても心地よい。私に懐かしいものを思い起こさせる。時折でよい、私に歌を歌ってはくれぬか。そなたの声が聴きたいのだ』
「わたくしなどの歌でよろしければ、いつでもお聞かせしますわ」
『ではその身に、風の刻印を。……娘よ。わが依代となるがよい』
 風神イスファートはアイリスに向けてすっと手を伸ばした。室内に激しい風が巻き起こる。
「……っ」
「アイリス!」
 息もつけぬほどの爆風がアイリスの肢体をくるみこむ。
 強大な風の力に全身を取り巻かれながら、アイリスは自身の身体に明らかな変化が起こったのをひしひしと感じていた。
 身体に「何か」が書きつけられてゆく。
 風の神の証が、この身に刻まれてゆく。
 畏怖とも興奮ともつかぬ激情が、心の底からせり上がる。
 アイリスの心と魔力は明らかにイスファートのそれに呼応し、新たな力の到来に震えていた。
『さあ。わが力を受けよ』
「……っ!」
 受け止めきれないほどの魔力の塊が、アイリスの身体めがけてどうと流れ込んでくる。
 そこで、身体の中で燻っていた熱が一斉に弾けた。
 イスファートの姿が虚空に消え去るのとほとんど同時に、アイリスの身体は均衡を失って床に倒れ込んでいた。
「アイリス……ッ!」
 駆け寄ったエヴラールがよろめいた彼女を抱き起こす。
 そこで彼ははっと息をのんだ。
 ドレスの袖口からのぞくアイリスの左手には、不思議な形をした黄金きんの刻印が刻まれていた。
 そればかりではない。これまでは薄紫色でしかなかった虹彩が虹の色に染まっている。
 アイリスがゆっくりと瞳を瞬くと、その七色の輝きはふと鳴りを潜めた。
「貴女は馬鹿です! なぜ……、なぜ私のためにそこまでなさるのですか……!」
 吐き捨てて、エヴラールはアイリスの細い肩を抱く。
 言葉遣いとは裏腹に、彼のしぐさはひどく弱々しい。蒼い瞳からははらはらと絶えず涙が溢れていた。
「泣かないで……。痛みはありませんわ」
「そのようなことは問題ではありません……! 貴女は人として未知の領域に踏み込んでしまったのですよ……!?」
「わたくしのことが、嫌いになってしまわれましたか……? エヴラール様……」
「いいえ、いいえ……! ただ私は、貴女が心配で……」
「もう……。泣くほどのことではありませんでしょう? わたくしがいなくなったら、一体誰があなたの涙をぬぐってくださるのかしらね……?」
 アイリスはほのかに笑うと、エヴラールの涙を指先ですくう。
「大丈夫です。わたくしなら大丈夫ですから……」
 吐息交じりにそうつぶやき、瞳を閉じたアイリスはエヴラールの手のひらを取って頬ずりをした。
 
 
***
 
 
 木漏れ日の下。
 エヴラールの頭を膝に載せたアイリスは、穏やかな声で覚えたての歌を歌っていた。西方の小大陸ポリマに古くから伝わる子守唄だ。
 エヴラールはアイリスの膝に頭を預けたまま、束の間の休息を満喫している。
 そのおもてにこれまでのような疲労の色がないことを、アイリスは我がことのように嬉しく思った。
 スフェーン帝国は風神イスファートの力を借りてさらなる空の高みへと浮かび上がっていた。
 そればかりではない。アイリスが自身の魔力と風神の魔力とを繋げて作った防護壁を七大陸の周囲に張り巡らせたのだ。
 まだ微弱な守りではあるが、侵入者を退けるにはじゅうぶんだと近臣たちは大いに喜んだ。
「しかし、まさか本当にうまくいくとは思いませんでしたよ」
「ええ。実はわたくしも、半ば賭けのような部分はありました。ですが、今のスフェーンには風神による防護壁も張られていますし、今までのような侵攻の仕方はできなくなるでしょう」
 むろんその防護壁として完璧ではない。これから魔力を注いで少しずつ壁を厚く強化してゆく必要があるのだ。
 そこでアイリスはつと自身の胸に手を添えた。
「わたくしの力がエヴラール様のお役に立てるなら本望です。『半端者』としての力が、この国やあなたのためになるなら……」
「自分のことを必要以上に卑下してはいけませんよ、アイリス。貴女のその力は誰にも何も恥じることのない素晴らしい能力です。それを私は誰よりもよく知っています。ですからどうか、それ以上ご自分を貶めるような発言をなさらないでください」
 その言葉に、アイリスはおもてをふわりとほころばせる。
「ええ。ありがとう、エヴラール様……」
 アイリスは再び小さな声で子守唄を歌い始める。
 すると、エヴラールは瞳を閉じたままで柔らかく微笑んだ。
「……貴女の声はお優しい……。私の心の澱みも、闇も。すべてを洗い清めてくださるようです」
「あなたはそんな方じゃありませんわ。ですが、もしあなたが不安になるというなら、いつでも歌って差し上げます。その御心が晴れ渡るまで」
 二人は視線を合わせてくすくすと笑い合った。
「最初に貴女を見かけたとき、正直さほど美しいとは思いませんでした。それなのに、今は違います……。貴女ほど美しい女性を、私は見たことがありません」
「まあ。それは失礼ですわよ、エヴラール様。美しいと思わなかったなんて。……でも、今は違うのですか? わたくしは、美しい……?」
「ええ。私にとってはほかのどんな女性よりも貴女が一番光り輝いて見えますよ、アイリス……」
 その真剣な眼差しと言葉に怒る気さえ失せてしまい、アイリスは小さく笑ってエヴラールの長い金髪を手で梳いた。
「皇妃としての新しい呼ばれ方にはもう慣れましたか?」
「それが……まだあんまり。なんだか響きに慣れなくて」
 そう言ってアイリスは苦笑する。
 正妃として迎えられてから、アイリスは新しい名前を授かっていた。
 アイリス・ツァールトハイト・フォン・スフェーン。
 それがエヴラールの正当な妃としてのアイリスの新しい呼び名である。
 それまでは「バルシュミーデ家のアイリス」という意味を持つ「アイリス・フォン・バルシュミーデ」という名前だったのだが、今では皇帝の配偶者として気後れするほど立派な名前を与えられている。
 式典や公務の時にしか用いられない呼び名ではあるが、あまりにも仰々しすぎてまだ馴染むことができなかった。
「“心優しきスフェーンの皇妃アイリス”。まさに貴女にふさわしい名前だ」
「な、なんだか名前負けしていて恥ずかしいですね……」
「そのような。これは貴女の気性を踏まえて名付けられたものだとうかがっています。そして実際に私の目にもそう映っているのです、何も恥じることなどありませんよ、アイリス」
 エヴラールはやおら起き上がると、アイリスの手を引いてゆっくりと立たせた。
 細い両肩に手を置くと、薄紫の双眸を覗き込みながら哀願する。
「私という人間が天に召されるその日まで、ずっとこうして隣にいてください。私のそばで、いつもそうやって微笑んでいてほしいのです。貴女という理解者を得てから、私は確かに変わりました。いっそ自分でも恐ろしくなるほどに……。貴女という存在が、何よりも愛おしくて、尊い……」
「エヴラール様」
 アイリスの両手を取ると、エヴラールはゆっくりと指先を絡ませる。
 指の隙間に体温の高い男の指先がするすると滑り込んでくるのを、アイリスはただ受け入れた。
 そっと繋ぎ合わせると、エヴラールがそれをさらに上回るほどの強い力で指を絡めてくる。
「……愛しています、アイリス。ずっと一緒にいてください。ずっと――……」
「ええ……わたくしは、あなたを決して見捨てませんわ。最期の日までずっとおそばにいます」
 ……ああ。相手に一番伝えたい言葉ほどどこか陳腐に響くのはなぜなのだろう。どうして、いざ言葉にするとこんなに薄っぺらく聞こえてしまうのだろう。
 悲しくなりながらも、アイリスは誓うように言葉を紡ぎ、一旦手を放すとエヴラールの頬を挟んで触れるだけの口づけを贈る。
 するとエヴラールはアイリスの繊手をしっかりと捕らえ、唸るように幾度もその名を呼んだ。
「いいえ……、どうか、死の国でも私とともにあってください。貴女という理解者さえいれば、私はどんな世界でも生きてゆける……」
 ろくに答えを返す間もなく、アイリスはエヴラールに抱きすくめられる。
 荒っぽくかき抱かれながら、アイリスはなだめるように何度も何度もその背中を撫でさすった。
 
 
 
***
 
 その日、アイリスはエヴラールのいる皇帝執務室へ向かっていた。
 髪の色に合わせた菖蒲色のドレス。手には薔薇園で摘んだばかりの大輪の薔薇を数本携えている。
「……お部屋に飾って差し上げたら、喜んでくださるかしら」
 アイリスが手中の薔薇を見つめてそっと微笑んだ、その時。
「そなたが正妃アイリスだな」
 突如、アイリスの背後にぬっと男が立つ。
 振り返ったアイリスは驚きのあまり声を上げそうになった。
 ごつごつとした厳めしい顔立ち、猛禽めいて鋭い光を宿した藍色の双眸。
 奢侈を尽くした緋色の装束に、黄金を用いた数々の装飾品。
 鍛え上げられた巨躯は未だ強靭さを保っており、その鋼のようなたくましさは皺の寄った男のおもてにはいっそ不釣り合いなほどだ。
「……あ、あなたはどなたですか」
 こわごわ訊ねるアイリスに、男はさもおかしそうに答えた。
の名を知らぬのか? 余はゴーチェ。先代の皇帝、と言った方がわかりがよいか?」
「せ、先代皇帝のゴーチェ様でしたらお名前は存じ上げております」
 答えれば、ゴーチェは見下すように顎を上げてアイリスを嘲笑う。
「は……。エヴラールのやつときたらなんと薄情なのだ。退位した身であるとはいえ、実の父である余に花嫁を紹介せぬとは」
「……」
 アイリスは険しい面持ちで黙り込んだ。
(この方が……先代皇帝のゴーチェ様)
 この壮年の男が、エヴラールを気まぐれに傷つけては愉しんでいたという、あの非道な先帝なのか。
 ごくりとつばを飲み込む。
 エヴラールの話通りの残虐な男なら、迂闊に口出しなどすれば怒りを買ってしまうかもしれない。
 そう思ってしまい、アイリスは途端に逃げ出したくなる。
 だが、エヴラールの実父ならばむげには扱えない。皇帝の父親とは、皇帝と同じくらい――否、むしろそれ以上に大切に扱われるべき存在だ。
 王の生母を「国母」と呼びならわす国があるように、その父親もまた敬われるべきものとされている。
 そもそも、皇帝の正妃である自分が、夫の父を邪険に扱っていいわけがない……。
 迷った末、アイリスは意を決して唇を開いた。
「ご用件はなんでしょうか……、ゴーチェ様」
「ふん、生意気な目だ……。だが、悪くないな」
「……っ!!」
 荒っぽく手首を掴まれたアイリスは、その衝撃で薔薇の花を取り落とした。
 ゴーチェはそのまま強引に彼女を抱き寄せ、これ以上はないくらい間近まで顔を近づけてくる。
 薔薇の香りともエヴラールの香水の匂いとも違う男のむっとした体臭に、アイリスは顔をしかめた。
「お、お放しください! わたくしはエヴラール様のものです! あなたにこんなことをされる謂れいわれは……!」
 弱々しく喚けば、喉の奥だけでくっと笑われる。
「……余のものにならぬか、アイリス妃。そなたの望むものはなんでも与えよう。何が欲しい?」
「……!!」
 アイリスはキッと顔を上げてゴーチェを睨んだ。
 与えられた恥辱にゴーチェをねめつけるその目には、揺るぐことのない意思が込められていた。
 アイリスはなんとか彼を突き飛ばすと、激しい瞳で声高に言い放った。
「妄言もになさいませ! 皇帝の正妃であるわたくしを辱めれば、それはエヴラール様への侮辱とみなされます! いくらあなたがあの方の御父君であるとはいえ許せませんわ!」
「は、随分威勢のいい女だな。ますます気に入った。そうでなくてはつまらぬ。……だがそなた、『半端者』だろう?」
 アイリスはそこでさっと青ざめる。
 急に静かになった彼女の心情を見透かしたかのように、ゴーチェはたたみかけた。
「……図星か? ふふ……、やはりな。『混血児』、すなわち『半端者』はこのスフェーンでは嫌う者も多いのだ。色欲のために誇りをかなぐり捨てた天族が、薄汚く地を這う下劣な輩とまぐわった末に生まれた子供――。それがそなたであろう?」
 真っ青になったアイリスは後ずさった。
 一体どうしてゴーチェが自分の出自を把握しているのだろう。
 アイリスの生い立ちの話は皇室の中でもごく少数の者しか知り得ない機密事項だ。知られれば天族と地族の間に亀裂が入る可能性があるからと、エヴラールはけしてそれを公表しようとはしなかった。
 それを一体なぜ彼が知っているのかと、アイリスは恐ろしさに震えた。
(どうして、なんで……!? 怖い……!)
 そして、ゴーチェの口ぶりは明らかに批難の色を帯びている。アイリス、ひいてはアイリスの両親までをも彼は愚弄しているのだ。しかもそのことを心底愉しんでもいる。
 こんな男の話し相手などできないと、アイリスはふいと顔を背けてゴーチェの詮索のから逃れた。
 しかし、アイリスの怯える様に駆り立てられたのか、ゴーチェはさらに激しく彼女を罵った。
「我らは空に住むことを許された特別な人間だ……。創造神や太陽神に最も近しい種族といっても過言ではなかろう。だのに、そなたの父はあろうことか禁忌を犯した……。地族の女なぞに惑わされた挙句、誇り高き天族の名を穢したのだ。本来であれば、天族の血は他の何物とも混ざり合ってはならぬもの。正妃が『混血児』であるなど、この国の民は認めぬだろうな」
「あ……!」
 追いつめられたアイリスの背が石柱に当たる。
 その顎を荒っぽく掴むと、ゴーチェは彼女に覆いかぶさった。
「余のものになれ、アイリス。エヴラール以上にそなたを満足させてやろう……」
「いや……っ!」
 抵抗する間もなく男の浅黒く脂ぎった顔が迫ってくる。
 なのに、口の中が恐ろしいほどからからになっていて叫ぶことすらままならない。
(いや……、怖い! 誰か……エヴラール様――!)
 ――アイリスがとうとうくしゃりと顔をゆがめたとき。
「おやめください、父上……!!」
「……お前は! エヴラール……!」
 二人の間に颯爽と割って入ったのは、純白の皇帝装束を纏ったエヴラールだった。
 天の御使いを思わせるその立ち姿に、アイリスは不謹慎ながらもぼうっと見とれてしまう。
(助けに来てくださった……)
 エヴラールは無数の帝国騎士を従えていた。
 中には親友リナリアの姿もあって、アイリスの四肢から瞬く間に力が抜けてゆく。
 ずるずると床にへたり込みそうになったその身体を、エヴラールはしっかりと支えた。
「大丈夫ですか、アイリス!?」
「え、ええ……」
 アイリスの腰に手を回してゆっくりと立ち上がらせると、エヴラールは父帝と対峙する。
 ……すなわち、長年の障害であった肉親と。
「父上。わが妃に対しての数々の無礼……許せません。あなただけは、許すわけにはいかない。断じて」
 声がわずかに震えているものの、エヴラールの瞳は憎悪に燃えていた。
 アイリスの身体を抱きとめたまま、鋭い眼差しできつくゴーチェをねめつける。
「はっ……、だとしたらどうするのだ、愚かなエヴラールよ」
「父上がそのおつもりなら、彼らに指示を出しますが。彼ら帝国騎士は私のために動く存在。まかり間違っても暴君と呼ばれた先代皇帝を守護する者たちではございません」
「何を生意気な……! 惚れた女一人自分の手で守り抜けぬとは笑わせる!」
「おや、そうでしょうか? 部下をうまく使うことも君主の才の一つでしょう? 私は使えるものがあるなら何でも使いますよ。大事な皇妃を助けるためなら、私は悪鬼にさえなれる……」
 エヴラールはそこでリナリアに目配せをした。
 騎士たちによって包囲されたゴーチェは、喉笛に何本もの剣の切っ先を突きつけられてぐう、と唸る。
「このあたしがいる限り、アイリスに手出しはさせないわ!!」
 そのままリナリアの背に庇われたアイリスは、安堵からそのマントを掴んで握りしめた。
 騎士たちによって拘束されたゴーチェは、そこで不気味な笑い声を上げた。
「ふはははははは!! くだらぬ!! 何もかもくだらぬ!! 何が正妃だ!! そんな女、ただの器ではないか!! お前が後世に血を繋ぐための、ただの子の容れ物にすぎぬではないか!!」
 目を見開いて呵々かかと笑うゴーチェを、エヴラールは醒めた目で一瞥する。
 そして次の瞬間、大きく腕を振り上げて実父の頬を殴りつけた。
 呆然とする父帝に向けて、エヴラールは淡々と言った。
「……暴力に訴えるのは好きではありません。ですが、その発言……許せません」
「ハッ!! この程度で英雄気取りか!! 馬鹿め、これくらい武人であった余には痛くもかゆくもないわ!!」
「どうとでも好きにおっしゃってください。単にわが妃に対しての無礼を許せなかったまでです。同じ過ちを何度も繰り返すなら、私はあなたとは親子の縁を切る所存です」
「……!」
 エヴラールは騎士たちに向けて顎をしゃくる。
 すると彼らはゴーチェを戒める力を一層強くした。
「なっ、何をする!」
「皇帝権限で父上には蟄居ちっきょを言い渡します。しばらく西の離宮で頭を冷やされることですね」
「何!? お前、この余に歯向かう気か!!」
「何を戯けたことを。最初に皇帝わたしに牙を剥いたのはあなたでしょう? 罪とは裁かれるもの。そして償うべきものですよ。私に対しての暴言、侮辱、そこにわが正妃に対しての無礼も加えて二月ふたつきの謹慎処分……。妥当な措置でしょう? 父上・・
「ぐうっ……!」
 エヴラールは素早く指示を出して父帝を連行させる。
 そしてアイリスの肩を抱くとあやすように言った。
「帰りましょう、アイリス。このようなところにいてはいけません」
「え、ええ……」
 アイリスはエヴラールに背を押されるままに歩き出す。
 すると、ゴーチェは二人の後ろ姿に向かってぞっとするほど澱んだ声で吐き捨てた。
「……このままで済むと思うなよ、エヴラール。必ずお前を、絶望させてやる」
 ゴーチェのその言葉の真の意味を、今の二人はまだ知る由もなかった。
 
 
 
 
 

 

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