ある夜の話

 
 その夜、アベルはクロードとともにエテ宮の大広間である≪舞踏の間≫にたたずんでいた。
 今日は彼と一緒に大広間の見回りをすることになっている。
 とはいえ、実際に見回りをするのはアベルだけで、クロードはいわばそのお目付け役として彼の監視を任せられたのだった。
「ちぇー。いつもマジメにやってるのになー」
「おや、そうなのですか? 王宮の見回りのさなかに私語が多いと聞いていたのですが……聞き間違いだったのでしょうか」
「……ちっ」
 大方魔導士館の仲間たちが密告したに違いない。
(集団の中でスタンドプレイが多いと怒られてばっかで損するよなぁ……。俺はただ自由にやりたいだけだっていうのに……)
 アベルはうんざりした。
 が、すぐに気を取り直して広間を行く給仕係の侍従の姿を探す。
「さーて。まずはお酒、お酒っとー」
 鼻歌まじりに言って侍従を呼び止めようとすると、傍らから伸びてきた手がすかさずそれを阻む。
 肩口に指先を食い込ませながら、クロードは険しい表情でアベルを睨みつけた。
「……アベル。仕事中の飲酒は感心しませんね」
「はあ? けど、ここは宴の席ですよ? 一杯くらい飲んだって罰は当たらないですよー」
「いけません」
「ええー!? あ、わかった。クロード様、自分が飲めないから僕に嫉妬してるんでしょう。嫌だなぁ、もう。僕ってばホント罪な男で……」
 これ見よがしにさらりと銀髪をかきあげてみせると、クロードが眉間に皺を寄せて低く呻く。
「馬鹿なことを言うのも大概にしてくださいませんか。酒など、別に飲めなくとも困りはしません。ゆえに、あなたに嫉妬することなど万が一にもありえません」
「あれ、そうですかー? この前大臣たちにお酒勧められてめちゃくちゃ困ってませんでしたぁ?」
「……っ」
 クロードの黄金の双眸が瞬く間に剣呑な輝きを帯びる。
「あなたは私に喧嘩を売っているのですか。ともかく、下級魔導士であるあなたがみだりに酒を飲んだりしてはいけません。ここは王侯貴族の集う華やかな宴の席です。あなたはただ私と一緒に広間の隅でおとなしくしていればよろしいのですよ」
「ふえーい」
「真面目に聞きなさい!」
「はーい……」
 なんとも味気ない一夜になりそうだと感じ、アベルは早くも退屈してくる。
 おまけに少しでも変わったことをすれば逐一指摘が飛んでくる。なんと窮屈な夜なのか、と彼はこっそりため息をこぼした。
(お前は俺の姑かっつの)
 だが、言わずもがな相手は自分の上司である。いくら石頭であろうが従わなければならない。
「早くこんな舞踏会終わってしまえばいいのに」と何度も何度も念じつつ、アベルは色鮮やかなドレスの花が咲く大広間をクロードとともに練り歩いた。
 
***
 
 舞踏会が始まってからおよそ一時間ばかりが経過し、「ダンスの合間のビュフェ」と称して軽食の提供が始まった。
 ここでは“ダンスの合間の軽食”と称して、カクテルやビスケットやケーキが振舞われる。パンチ酒やアーモンド・シロップオルジェーといった定番の飲み物はもちろん、女性たちに人気のある一口大の食べ物や菓子などが勢ぞろいしている。
 先ほどまで広間の中央で踊りに耽っていた男女たちも、今は随所に置かれた布張りのソファーに腰かけ、思い思いに歓談や食事にいそしんでいる。
 
 ビュフェの時間は立食形式で好きなように食事を愉しむのが決まりだ。
 ダンスの合間に供される食事は基本的に軽いものが多いが、広間中央に設えられたテーブルには肉料理や揚げ物といった食べ応えのある料理も並んでいる。
 次のダンスが始まるまでの間、自由に食べて飲んで楽しんでください、というわけだ。
 
「……あの~」
「なんでしょうか」
「なんか気づまりなんでどっか行ってもらえませんかね? あなたに見張られてると思うと、さっきからせっかくのご馳走が喉を通らなくて……」
 ぼそぼそと言うと、クロードは盛大にため息をつく。
「別に見張ってなどいません。私はそもそも男に興味関心がありません」
 やけにきっぱりと言い切ったような気がしたのは気のせいか。
 そこでアベルは「ふーん」と首を傾げた。
 
(……コイツ、見た目だけは抜群にいいから、案外ソッチ系の標的にされてたりするのかもしれないな……)
 
 貫禄や風格といったものは立派なのだが、クロードはそこまでがっしりした体躯ではない。おまけに髪が長く、顔立ちも女性と見まごうほどに整っているので、そうした対象に見られてしまうのもある意味仕方のないことなのかもしれない。
 体つきなどいかにもひ弱そうだし、顔色も女のもののように白い。
 まさか同性に欲情された経験があるのだろうかと考えて、ふとアベルはクロードのことが哀れになった。
 
(しっかし馬鹿だなコイツ。俺だって男に興味なんかないっつの。俺は断然女の子の方が好きだし)
 
 苛立ちをぶつけるように肉料理に歯を立て、そのままわしわしと噛みしめる。
 第一、「男に興味関心がない」というのは別に構わないが、あまりはっきりと言い切られてもまた困る。クロードの口ぶりではまるで女にしか興味がないと言っているようなものだ。
 しかも、クロード本人はそれを体現しているかのような希代の色男である。
 女性とあらばすかさずものにするし、与えられたチャンスは逃さない。
 そのせいか、今や宮廷でクロードの接吻を受けたことがない女はいないと噂されるまでになっていた。
 
 が、それがまさかあのバイオレッタの耳にも届いているなどとは思ってもいないのだろう。
 彼女はいつも「またクロード様がね……」という枕詞まくらことばで想い人の人気ぶりを憂う。その後に続くのは大抵「クロードが綺麗な女の人と手を繋いでいた」だの、「酔った御婦人を恭しく介抱していた」、などといった湿っぽい愚痴だ。
 そしてしまいには「もうこんな無謀な恋はやめるわ」と続くので、クララはいつもそんな彼女を慰めるのに必死になる。
 バイオレッタのことは特にどうとも思っていないが、ああして毎回愚痴に付き合わされるクララは少々気の毒だと思う。
 
 クロードは確かに引く手あまたの色男だろう。
 だが、彼に巻き込まれる側の女性たちはおしなべて不憫だ。
 バイオレッタ、ピヴォワンヌにクララ。
 そしてもう一人の「彼女」も……。
 
「……めんどくさい性格だな、コイツも」
「何か言いましたか」
「いえ……。お、おいしいですねー、このローストビーフ」
「……」
 クロードは軽蔑の眼でアベルを見る。
「お前は食べることしか興味がないのか」といわんばかりの冷たい瞳で睥睨され、アベルはたちまち居心地が悪くなった。
 クロードは先ほどから料理に全く手を付けていない。少食なのか、それとも単に食欲がないのか、彼はテーブルに並ぶ豪華な料理には見向きもしなかった。
 薔薇の花弁が浮かんだ冷水のグラスにほんの数回口をつけたきりだ。
「はあ……」とか「ふう……」とかいったやけに物憂げで老成したため息をつきながら、広間の随所で歓談に興じる男女をただ黙って見つめていたクロードだったが。
「おや……」
「?」
「ふむ……、いい度胸ですね。私の姫をあのように視姦するとは」
 クロードはそうつぶやいて挑戦的に笑う。
 見れば、その視線の先には第三王女バイオレッタがおり、有力貴族の子息たちに取り巻かれて力ない愛想笑いを浮かべていた。
 が、アベルはクロードの発言に思わず突っ込みを入れてしまう。
「いやいやいや。視姦って。ただ見てるだけでしょう。あなたの方がよっぽどねちっこく見てると思いますけど」
 ありていに訳せば「人の女をじろじろ見るな」といったところだろうが、クロードに言わせれば「視姦」となるらしい。
 だが、バイオレッタとて花の盛りの乙女だから、人目を引くのはどうしたってしょうがない。
 ぽっと上気した頬に、ローズピンクの紅が引かれた唇。
 袖口にアンガジャントがゆらめく立派な仕立てのローブは深緑で、シャンデリアの輝きを受けて時折赤や紫の光沢を放つ。
 逆三角形をした胸元のピエス・デストマストマッカーには“エシェル”と呼ばれるリボン飾りが連なり、袖口から露出したほっそりした手首にはローブと揃いの深緑のリボンが巻かれている。
 男たちは酒の入ったグラスを手に、へらへらとだらしなく笑いながら彼女と話している。
 彼らは時折うかがうような視線を交わし合い、バイオレッタに悟られぬよう巧妙に互いを牽制し合っていた。
 王女の手前遠慮しているのだといえば聞こえはいいが、彼らがこっそりと互いを監視し合っているであろうことは想像に難くない。
 恐らく誰が一番先にバイオレッタをバルコニーへ連れ出すか水面下で競争しているのだろう。
 
(うん、なかなかにわかりやすいな……。まあ、どうせちょっと相手してもらえれば満足なんだろうけど)
 
 彼らがいくら頑張ってみたところで、どうせ王女バイオレッタと一線を越えることはできない。
 何しろこの大広間には子煩悩で有名な国王リシャールがいる。
 その目をかいくぐって彼女と夜を共にするのはほとんど不可能である。
 たとえ運よく姫君たちからキスなり抱擁なりを受けられたとしても、もちろんこの子煩悩が黙ってはいない。
「僕の王女をたぶらかすとは何事か!」と叱責されるのは目に見えているし、誰だって好き好んで王の制裁を受けようなどとは思わないだろう。
 命が惜しければおとなしくしていた方が無難だと、みな心のどこかでわかっているのである。
 
 と、そこでクロードが端整な顔立ちからは想像もつかないような声音で吐き捨てる。
「たださかるだけしか能のない下衆ゲスが……」
「ひっ!?」
「ふふ……、一体どうして差し上げましょうか。使い物にならなくなるまで魔術で嬲って差し上げるのも一興ですね」
 ふふふふふ……と不気味な薄ら笑いを浮かべるクロードに、アベルはご馳走の盛られた皿を手に固まった。
(なんか怖いこと言いだしたーー!? うえっ、だから俺こいつと一緒にいるの嫌なんだよ……!!)
 使い物にならなくなるまで嬲る? どこを?
 一瞬最悪の事態を想像しかけ、慌ててやめる。下肢の辺りがすっと冷えたような気がしたのは気のせいか。
「だだだ、大丈夫ですってー。どうせ『ちょっとお近づきになりたいな』とか思ってるだけですよ。そんな大したことなんかできやしません」
「ほう……? その割には随分べたべたと姫に触れていますが……気のせいでしょうか。私の姫に、あのような……」
「……」
 
 恐らく真っ先に自分が駆け寄って相手ができないのが悔しいのだろう。
 宴の席ともなれば当然だが、アベルも同性としてその考えはわからないでもない。
 きらびやかに飾り立てたバイオレッタに声をかけられないばかりか、彼女の相手をする権利を酔った下劣な男たち(むろんこれはクロードの言い分でしかないわけだが)に譲り渡さなければならなくなってしまうのだ。
 
 何を隠そうアベルの女主人クララもしょっちゅう酔客に絡まれるタイプの姫だった。
 酔うと羽目を外したくなる人間というのはどこにでもいるようで、残念ながら妙齢の女性たちというのはその格好のターゲットにされやすい。
 自分から彼らの誘いに乗る貴婦人というのもいるにはいるが、嫌悪も露わに怯える、あるいは迷惑がって萎縮するといった見ていて気の毒になる女性の方が圧倒的に多い。
 だからこそ周囲の人間は気をつけて見ていてやらなければならないのだ。
 
 ……それにしても。
 愛が深い、というか、深すぎる。
 これでは大抵の女は逃げ出すはずだが、バイオレッタは平気なのだろうか。
 こんな偏執的な恋人にまるで束縛するように愛されて、行動も逐一監視され、気に入らなければねちねちと叱られて。
 それでなんの疑いも持たないのだとしたら大した少女だ。
(いやいやいや、ダメだろ……。これはむしろ男を駄目にするパターンだろ)
 こういう女を世の中ではなんというのだったか。
 そうだ、確か……
「“ダメ男製造機”……!」
「アベル? 今なんとおっしゃいましたか」
「いっ!? いえいえいえ、何も……!!」
「ふむ……、何やら私の姫を愚弄するような発言が飛び出してきたような気がするのですが」
 怪訝そうな顔つきで、クロードはアベルに詰め寄った。
 襟に揺れる漆黒のクラヴァットをぐいと掴み上げられ、アベルはひっと顔を引きつらせる。
「私の姫を貶めるような発言は許しませんよ。むろん、あの方にちょっかいを出すことも許しません。私の姫は……バイオレッタ様は、いついかなる時であっても常に気高く誇り高くお美しい存在でなければならないのですから……」
「いや、だから、そういうつもりは――」
「……ああ、確か先日、姫の頬にキスをしたとのたまっておいででしたね。ちょうどいい機会ですから『お返し』でも差し上げましょうか?」
「い、いえ……いいです! いりませんって……!」
「遠慮なさらず……。ふふふ……。私の姫を穢したお礼はたっぷりとさせていただきますよ」
 先ほどよりもさらに強い力で襟を締め上げられ、アベルは薄ら笑いを浮かべたまま冷や汗をかく。
(怖ぇぇぇえええ!!)
 
 ――アベルが一瞬死を覚悟した、次の瞬間。
 
「クロード様っ!」
 ぱあっ、と顔を輝かせながら走り寄ってくるバイオレッタに、クロードの般若のような形相が瞬く間に緩んだ。
「姫……っ」
「こんばんは、クロード様。こんなところにいらしたのですね」
「姫、ああ……今宵も本当にお美しいお姿ですね。ビリジャンのドレスが抜けるように白い肌によくお似合いだ」
 よどみなく褒め称え、流れるような所作でバイオレッタの手を取る。そして彼はそのままその手の甲へちゅっ、と唇を押し当てた。
 接吻を受けたバイオレッタが乙女のように恥じらう。その弾みで胸の上のリボン飾りがふるふると揺れた。
「ま、まあ……。クロード様ったら……」
「いつ拝見しても初々しいお顔だ……。私ごときのキスにそうして震えて……頬を真っ赤にして……。可愛い姫……」
「い、いやですわ、こんなところで……。大広間なんかでわたくしを口説かないでくださいませ。恥ずかしい……」
 すると、クロードはわが意を得たりとばかりに口角を持ち上げる。
「……ではバルコニーなら?」
「そ、それは……、その……」
 そのやり取りに、アベルは「ああ助かった」と胸をなでおろす。
「くそっ……、ただでさえ短い寿命が余計に縮むかと思ったじゃねーか……」
 クロードはそこでやおらくるりと振り返り、アベルに素早く命令を下す。
「アベル。あなたはそこでそのまま見回りを続けなさい。私は姫のお相手をしてまいりますので」
「うえっ」
「もしサボタージュなさったら厳罰を与えますよ。……では、私はこれで」
 二人はそのまま身を寄せ合いながらバルコニーへ向かう。
 一人取り残されたアベルは、クロードたちの背中を見送りながらため息をついた。
 
「……ちぇー。いいよなぁ、リア充はー。仕事ほったらかして逢引きかよ……」
 銀髪をくるくると指先に絡め、アベルは唇を尖らせる。
 
(俺も相手作ろっかなー……)
 
 クロードとバイオレッタの仲睦まじい様子に感化されてか、ついそんなことを考えてしまう。
 とはいえ、アベルが相手に求める条件はそれなりに厳しい。
 アベルと対等に話ができるような、強くて芯のしっかりした女。これが絶対条件だ。教養や知性があればなおいいが、今のところスフェーン宮廷にそんな女は見当たらない。
 同僚たちは早く相手くらい作ればいいのにと冷やかすが、たとえシングルでも好みというものがある。適当に目に付いた誰かでは駄目なのだ。
 
「……ちぇ」
 
 アベルは仕方なしに酒杯を取り、そのままぶらぶらと≪舞踏の間≫を闊歩する。
 退屈しのぎに知り合いの婦人たちに声をかけてみようかとも思ったが、どうも今日は気乗りしない。
 クロードとバイオレッタの甘すぎるほど甘い触れ合いに当てられてしまったのだろうか、今夜はあまり憂さを晴らそう、盛大に遊んでやろうという気がしなかった。
 
 ……その時、アベルの耳にか細い――けれども聞き慣れた少女の声が届いた。
「ちょ、ちょっと……やめてくださらない!? 先ほどからわたくし、あなた方のお相手はできないと散々申し上げているでしょう!!」
「つれないことおっしゃらずに、ねえ? ミュゲ姫様」
「そうですよ。ただ遊戯部屋へご一緒しませんかとお誘いしているだけなのに、貴女は冷たい方なのですね」
「あなたたちだけで行っていらしたらいかがですの!? 生憎わたくし、そうした遊びに興味は――」
 
 ……頭頂部で緩やかにまとめられた翡翠色のシニヨンに、稀有な髪色をより際立たせる真紅のドレス。結われた髪のいたるところにちりばめられた、小さな星屑のようなルビーのピン。耳元では鈴蘭を模した流麗な細工の耳飾りが揺れている。
 胸には咲き初めの白薔薇をちょこんと飾り、愛用の品らしい生成りのレースがあしらわれた白蝶貝の扇を握りしめて、彼女はふるふると唇を震わせていた。
 
 その麗姿に、アベルは思わずごくっと喉を鳴らす。
 声の主はアベルが想いを寄せるこの国の第二王女・ミュゲ姫のものだった。
 酔った男たちに纏わりつかれ、素肌を好き放題触れまわされて涙目になっている。
 まだかろうじて矜持は保っているようだが、心中ではすでに泣きそうになっているに違いなかった。
 
 ……普段は凛とした態度を崩さない美姫が、男にからかわれただけで面白いくらい萎縮している。
 このギャップがたまらないのだ。
 バイオレッタのように普段からおどおどし通しの姫も悪くないが、アベルが惹かれるのはこうした強気な女だ。
 負けん気の強いところがそそられるし、あえてその澄ました顔を崩してやりたくなる。
 すぐに男にもたれかかってこないところもいい。逆にどうにかして振り向かせようと胸を駆り立てられるからだ。
 
(やっぱりこうでなくちゃな)
 
 アベルは密かに口角を上げると、颯爽と駆け出した。
「その辺でやめてあげたらどうですか?」
「!?」
 ミュゲに絡む貴族の男の手をぐいと掴み上げ、アベルは好戦的にその顔をねめつけた。
「つ、痛ェ! くそ、なんだこいつ!」
「いや、待て。もしかしてこいつ宦官じゃないか? 白い宮廷服だぜ」
「女みたいな顔のくせしてすごい力だ……!」
 ……“女みたいな顔”?
 アベルはシニカルに笑うと、男の手首をさらにがっちりと握り込んだ。
「おやおやー。なんて汚い言葉遣いなんでしょうねえ。それで本当にお貴族様なんですか?」
「ぐあああっ!」
 男の手を軽くひねり上げながら、アベルは鋭い声音で彼を牽制した。
「いい加減にしないと上に報告しますよ。何しろこの国の第二王女様に無体な真似を働いたんです、当然どうなるかわかってますよね?」
「ひいいいっ……!」
 あっけなく広間へ散った彼らの背中をひと睨みし、アベルはふう、と息をつく。
 そしてゆっくりと背後にいるミュゲに向き直った。
「よーし、見回りのお仕事完遂! ありがとうございましたー!」
「……」
 ミュゲはぎゅっと身を縮こまらせており、目の前のアベルと視線を合わせようともしない。
 もしや怖がらせてしまっただろうかと心配していると、彼女は吐き捨てるように言った。
「本っ当に嫌な男どもだわ。何が遊戯部屋よ、女だと思って馬鹿にしてっ……!」
 よかった、悪態をつくだけの元気は残っているのか、とアベルは胸をなでおろす。
 そしてある単語を拾い上げて反芻した。
「……遊戯部屋、ねえ」
 アベルは独りごち、真っ青になっているミュゲの顔を覗き込む。
「それってもしかして、例のあの部屋のことですか? 撞球ビリヤードやらダーツやらをやりながら女としっぽりっていう、あの……」
「やめてっ!! このわたくしの前でそんなふしだらな言葉を使わないでちょうだい!!」
「すいません。でも、ほかに言い表しようが……」
 ミュゲはそこで自らの身体をぎゅう、ときつく抱いた。
 次いで、腕やデコルテを何度も何度も強くさする。
「ミュゲ様?」
「……あの男、変なところばっかり触ってきて……! 嫌だったのに……!」
 
 アベルは整った眉をはねあげる。
 常々あのクロードという男は過保護な性格だと思っていたが、こうして実際に酔客から嫌がらせをされたミュゲを見ていればその心理もよくわかる。
 いくら上半身のほとんどを剥き出しにしたような恰好をしているとはいえ、気安くその肌に触っていいということにはならない。
 彼女たちの装いは場を華やかにするためのものであって男の欲求を解消するためのものではないのだから。
 
 アベルは思わず手を伸ばしてミュゲの翡翠の髪を撫でる。
 かたかたと震える肌や血色を失った唇はいかにも怯えている風で、なんとかして熱を分け与えてやりたくなってしまう。
 抱きしめて胸であやしてやれたらどんなにいいだろうと考えたが、それは所詮叶うはずもない行為だ。
 彼女が自分を警戒している以上、今はこうするよりほかないのだ。
 
「……何のつもり」
「何の、って。だって、可哀想なほど震えてるから」
「別にこんなことまでしてくれなくてもいいわよ」
「そういうわりに拒絶しないんですね」
 ミュゲは押し黙り、ぷいとそっぽを向くとぶつくさと言った。
「どうして殿方ってああなの……。いつもいつも……、嫌な感じのするねっとりした目で見てきて」
「まあ、飢えてるんでしょうね。僕にはよくわからないけど」
「あなただってそうなんでしょう。わたくしの知らないところでは女と好き放題やってるんでしょう。そうに決まってるわ」
 アベルは苦笑する。
「僕には生憎そういうことをする必要がないんですよ。現にもう男じゃないですし、何よりそんなことするくらいなら同性とつるんでる方が何倍も楽しいですしねー」
 すると、ミュゲははたと顔を上げてアベルを見た。
「ああ……男色家だから?」
「……ミュゲ様、まだそのネタ引っ張るんですか?」
 ミュゲが視線で「違うの?」と問いかける。
 まるで真っ向から挑発されているような気分になって、アベルはふいに沸き起こった衝動のやりどころに困ってしまう。
 
(くそっ、この天然王女……!)
 
 ミュゲは周囲に怜悧な印象を与えるクールな少女だが、それでいてどこか世間知らずで抜けているようなところがあった。
 しかもそうしたギャップが男たちとの会話や触れ合いで軒並み筒抜けになってしまうようで、宴の席では大抵男性信奉者に取り巻かれている。
 華奢で繊細な肢体の王女の周りを、めかし込んだ男どもががっちりと囲う。その様はまるで蜜に群がる蟻のようだった。
 何せ彼らはただおこぼれ欲しさに言い寄っているだけなのだ、下品なことこの上ない。
 
 もともとフランクな関係の方が気楽だと感じるせいか、アベルにはどうにもそうした心理がわからなかった。
 彼らはすぐ女を色恋の対象として見たがるが、アベルに言わせればそれは「もったいない」の一言に尽きる。
 ただ会話をしたり冗談めかしてじゃれ合ったりするだけでもじゅうぶん楽しいのに、彼らはいつもその先ばかりを見ている。女を手に入れるまでを一つのゲームのように捉えたがり、彼女たちとの間に男女間の友情を築くことなど一切考えない。
 宮廷の女たちもそれを重々承知しているため、彼女たちは実にうまく男を手のひらで転がす。言葉遊びを仕掛け、わざとその下心を刺激するようなふるまいをし、相手の男がどこまで本気か試したがる。
 
 しかし、アベルにはどうにも理解できなかった。
 なぜ男女間では友情が成立しないなどと断言できるのか。その確固たる証拠はなんなのか。
 現にアベルには多くの女性の友人がいるし、彼女たちとの付き合いもおしなべて良好である。
 それを思えばこのミュゲという姫は不運な少女なのだろう。
 ミュゲがいくら純粋に相手の男と親しもうと願っても、大抵の場合男の熱量がそれを凌駕してしまう。もっと親密になりたいと望み、ミュゲの張る防衛線を無遠慮に踏み越えるような真似をしてしまう。
 男たちにしてみれば、大胆な行動に及ぶことで互いの関係を一歩リードできると思っているのかもしれない。
 だが、当のミュゲ本人が相手と親しくなりたいと思っていなければそれは逆効果なのだ。
 
「……」
 経験も浅ければ免疫もない王女相手に、アベルは一瞬どう声をかけるかで悩む。
 が、一つ息をつくと、場の空気を変えるべく軽やかに提案した。
「ミュゲ様、ビュフェの料理食べました?」
「えっ……」
「おいしいご馳走ばっかりですから、ミュゲ様もぜひ!」
「え……」
 訝るような顔をされても、アベルはめげない。
 広間中央のテーブルまで連れていき、皿にカナッペや一口パスタをこれでもかと盛り付けて差し出すと、ミュゲは案の定嫌そうな顔をした。
「何よ。どういうつもり?」
「顔色悪いし、何か食べて気分を変えちゃった方がいいですよ。ただでさえお腹空いてると落ち込みますしね〜」
「わ、わたくし、そんなに食べられないわ……、あなたには申し訳ないけど」
「じゃあシェアってことでー」
 アベルはチーズを挟んだ小ぶりのタルトや熱いシチューを封じ込めたパイなどを次々とミュゲに勧めた。合間に自らも料理を口に運び、咀嚼する。
 その勢いに気圧されたのか、ミュゲは渋々料理に手をつけた。
 シチューの詰まったパイを切り崩し、パイ皮を中身に浸してからおずおずと口に運ぶ。
「どうですか?」
「……おいしいわ」
 その一言に、アベルはとびきりの笑顔を湛えて彼女の横顔を覗き込む。
「あ、そうだ。せっかくだしお酒もいかがですか? 僕、ミュゲ様と一杯やりたいなー」
「ええっ……、お、お酒はいいわ。わたくし、あんまり量が飲めないの。心臓がばくばくして苦手で……」
 つたない口調にアベルはくすりと笑う。なるほど、酒が苦手なのか。
「じゃあ別のものに。フルーツビネガーのソーダ割もさっぱりしておいしいですし、薔薇のシロップで作ったソフトドリンクなんていうのもありますよ」
「……」
 ミュゲはもじもじとうつむき、シチューの油脂で光る唇をきゅっと噛みしめた。
 侍従の捧げ持つトレーにちらちらと視線を送り、恥ずかしそうに頬を赤らめる。
「? どうしました?」
「……あれがいい」
 ミュゲが指さしたのは、金箔を浮かべたあつあつのショコラショーだった。
 いわゆるホットチョコレートだ。表面にはらりと散る金箔の飾りがなんとも美麗で、味わいばかりでなく見た目も楽しい逸品だ。
 だが、まさか言うに事欠いてショコラショーとは……。
「……くくっ……!」
「な、何よ、笑わなくたって……!」
「あんまり可愛いこと言わないでください。僕の方こそ心臓に悪いです」
「こ、子供っぽいことくらいわかっているわよ! だけど……の、飲んでみたかったのだもの」
 アベルは笑いを噛み殺しながら侍従のもとへ向かう。
 そして銀製のホルダーで支えられたショコラショーのグラスを取り上げる。
 
 金箔の飾られたショコラショーは見るからにとろりとなめらかだった。
 カカオの薫り高い芳香に、ついこちらまで甘い気分になる。
 こんな飲み物ひとつで最愛の美姫の笑顔が見られるなら安いものだ。
 
「どうぞ。熱いですから気を付けて」
「あ、ありがとう……」
 照れているのか、ミュゲはそそくさとグラスを受け取った。
 添えられたマドラーで表面をくるりとかき混ぜるなり、グラスの縁にそっと唇をつける。
 なめらかなショコラショーをこくんと嚥下し、彼女は小さく声を上げた。
「……わあ」
「どうですか?」
「甘い。甘くてとってもおいしい……!」
 子供のようにきらきらしたミュゲの双眸に、アベルは今度こそ盛大に噴き出した。
「ぷっ……、あはははは! もー。ミュゲ様ってば!」
「なっ……そこまで笑うことないでしょう!? おいしいものをおいしいって言って何が悪いのよ!」
 そう応戦しながらも、受け取ったショコラショーだけはしっかりと飲む。
 一瞬そのあどけない態度を「可愛い」と感じてしまい、しかも実際に口に出してしまいそうになって、アベルはすんでのところで堪えた。 
「何よ」
「いーえ……」
 
 
 最初はただの退屈な夜だとばかり思っていた。
 いつもと何ら変わらない、ただのつまらない夜だと。
 けれど、今夜はこうしてミュゲの隣でその無邪気な顔を見ているのも悪くないかもしれない。こうして傍らでその笑顔を眺めているのも幸せかもしれない……。
 
(こいつの笑顔が見られただけでも、来た甲斐あったな……)
 
 そう思いついて、アベルは胸に満ちてゆく甘く温かな感情にほっと息をついたのだった。
 

 
アベミュ(アベル×ミュゲ)のある舞踏会の夜のお話でした。クロバイも出てきましたが、主役はアベミュ。
本編では「普段あまり熱心にお茶菓子を食べない」という設定が出てきたミュゲさんですが、今回はアベルに差し出されたショコラショーで笑顔に。こんな感じで結構単純なところもあります。
 
ミュゲは態度こそツンツンしてますが、別に根っからの攻撃的な子というわけではありません。アベルの言葉通り、ただ「防衛線を張っている」だけなので、本当はものすごく意地悪な姫様というわけでもないのです。自分が興味ない相手に対しては完全にスルーの姿勢です。
ただし、そこに自分の将来や恋路が関わってくると話がこじれてややめんどくさいことに…。詳しくは本編をどうぞ(笑)
 
 
 
 
 

 

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