2019年発表の短編のリメイク作品。主役はリシャール&バイオレッタです。テーマは「仮面舞踏会」と「二人の歩み寄り」。
少しでも楽しんでいただければ幸いです!
「クロード。お前に相談があるのだが」
琥珀の双眸の少年王がそう切り出したとき、クロードはまたか、と渋い顔になった。
この王がこうやって「相談」を持ちかけてくるとき、たいていろくなことがない。
が、さすがは百戦錬磨のクロードである、穏やかかつ紳士的な笑みでリシャールに応えた。
「はい……。いかがなさいましたか、陛下」
……今度は一体なんだ?
散策に付き合わされるのか、はたまたチェスの相手をしろと命じられるのか。
(……陛下、わがままもいい加減になさって下さい。私とて伊達に寵臣の名を戴いているわけではないのですよ? 執務室に帰ったら山ほど書類が溜まっているのですから、手短にお願いいたします)
クロードは面を伏せてじっと主君の言葉を待つ。
だが、リシャールはクロードの予想を大きく裏切る発言をした。
「わが王女バイオレッタの誕生日がもうすぐであろう? 何か喜んでもらえるような贈り物か催し物はないだろうかと考えておった」
「……は?」
「聞いていなかったのか? だからバイオレッタの誕生日なのだ、三月一日は」
クロードは眉をひそめた。
(……なんということでしょう。“菫の姫”というくらいだから春生まれなのだろう、くらいの認識しかありませんでした……)
それもそのはずだ。クロードはもともとバイオレッタの実母エリザベスとは毎回いやみや皮肉をぶつけ合うほどの険悪な仲で、その関係はけして良好なものとは呼べなかったのだから。
しかもバイオレッタ本人に誕生日を訊ねたこともなかった。愛の言葉はこれまで散々ささやいているにも関わらず、だ。
(不覚です……。お許し下さい、姫……。ああ、一体どうすれば……! 書類の山など放り出して、今すぐ貴女への贈り物を考えたくなってしまったではありませんか……)
密かに浮かれ出したクロードを一瞥し、リシャールはため息をつく。
「……僕にはわからぬのだ。年頃の娘の喜びそうなものなど」
リシャールにとってバイオレッタは実の娘であることには変わりないのだが、二人の間には深い溝ができている。
三つの時に城下へ連れ去られ、十七の春に城に戻ってくるまで王宮をすっかり忘れ去っていたバイオレッタ。
リシャールの方はずっと彼女を探し続けていたのだが、探し出されるまでには十四年の歳月を要した。
しかも、やっと再会できたというのに愛娘はリシャールを警戒の顔つきで見る。それがリシャールにはやるせないのだろう。
「……僕は何度も道を違えた。今度こそあやつを……バイオレッタを、大事にしてやりたいのだ」
「……陛下」
「クロード、僕に協力せよ。お前ほどの男ならばバイオレッタを喜ばせる術を知っておろう?」
クロードは押し黙る。
(……それはもう、知っているどころか知り尽くしておりますよ、陛下。何せあの方の喜ぶ顔を見るのが私の生き甲斐ですので……)
優越感、とはまさにこのことだろう。実の父親でさえ知らない顔を、自分はいつもうまく引き出しているのだから。
数多いる宮廷人たちの中でも、バイオレッタの趣味嗜好についてクロードほど詳しく把握している人間はいないはずだ。
だが、彼はリシャールをやんわりとはねつけた。
「……陛下。何度も申し上げておりますが、親子の絆というものは互いの歩み寄りがあってこそですよ。生憎私はそういったものに縁がございませんので、詳しくお教えすることは出来かねますが」
「歩み寄り? 歩み寄り……」
うーん、と考え込むリシャールに、クロードはさっさと踵を返した。
(……姫の御父君だからといって、わざわざ情けはかけませんよ、陛下)
バイオレッタの関心がリシャールに向いてしまうことだけは避けなければ。いくら少年の容姿をしているとはいえ、相手が男であることに変わりはないのだから。
本人に自覚はないようだったが、バイオレッタには信奉者が多い。
年若い貴族の青年たちなどは隙あらば彼女に近づきたいと思っているようで、宴の場では毎回「駆逐」に苦労させられる。
また、クララ姫の従者であるアベルもバイオレッタには優しいようだ。主人であるクララがバイオレッタと親しいこともあり、たわいない話題で盛り上がっているところを頻繁に見かける。
そして、付け加えるなら異母妹であるピヴォワンヌもバイオレッタにはあまりにも懐きすぎている。こちらの場合、その想いの熱量は本当にすさまじく、うっかりするとクロードなどつまはじきにされてしまいそうなほどだ。
(陛下にアベル、姫と同性であるピヴォワンヌ姫も……。ああ、なんと罪な御方だ。男ばかりでなく、宦官や女性まで虜にしてしまうとは)
ピヴォワンヌが常々口にしている「バイオレッタは天然の人たらしだ」という主張ももっともだろう。
とはいえ、クロード自身も相当な人たらしであるだけに彼女ばかりを咎めることはできない。
ここはひとまず「自分たちは似たもの同士なのだ」と考えておいた方が心への衝撃は少なさそうである。
(……全くもっていけない姫だ。私の心中などまるでおかまいなしで)
何はともあれ、バイオレッタの心が自分以外の誰かに向けられることだけは許せない。
クロードは深々と辞儀をすると、退室の許しを請う。
「他に御用がないようでしたら、私は失礼させて頂きたく……」
「……おい、クロード! 逃げるのか!」
甲高い声と共にチェスの駒が飛んできた。
白手袋をした手でそれを受け止めると、クロードはリシャールの執務机に近づいた。
寄木細工の机に駒を置き、そっとささやく。
「陛下。チェスの駒は投げて遊ぶものではございませんよ」
「お前が悪いのだ、僕の話を真面目に聞かぬから!」
はあ、とため息をついたクロードだったが、妙案を思いついて表情をわずかに緩める。
バイオレッタとリシャール、この父娘二人を同時に満足させられるものといえば……。
「陛下。……このような催し物はいかがでしょうか」
***
「バイオレッタ様!」
寝台の上で伸びをしていたバイオレッタは、寝ぼけ眼を擦る。
「どうしたの、サラ……」
油断するとあくびがこぼれてしまうので、慌てて手で口元を覆う。
朝が弱いのは昔からだ。王宮に来てからずっと、いい加減直さなくてはと思っているのだが。
サラは「失礼いたします」と断ってからバイオレッタのいる寝台のそばまで近寄ってきた。
「それが……大変ですの。陛下がバイオレッタ様のために仮面舞踏会を開かれるとおっしゃって」
バイオレッタは瞳を瞬かせる。
(……仮面舞踏会……、「マスカレード」?)
仮面舞踏会はスフェーンでは正式な舞踏会というよりは出し物に近い。きらびやかな仮面やドミノマスクなどで顔や目元を覆って踊る舞踏会のことだ。
身分素性をよく知らないままダンスの相手に夢中になり、気づけば恋人同士になっていた、という宮廷人もいるようだ。
だが、父王がわざわざ舞踏会を開くということが信じられず、バイオレッタは考え込む。
リシャールはダンスがあまり好きではないらしく、舞踏会にすら滅多に顔を出さないのだが、一体どういうつもりなのだろうか。
「……お父様、どうなさったのかしら」
首を傾げながらぼそっとつぶやく。
すると、傍らのサラが盛大な呆れ声を出した。
「どうなさったのかしら、ではありませんわよ、もう。本当に天然なんですから……。バイオレッタ様のお誕生日、もうすぐではございませんか」
「あっ」
「陛下としては、やはり御息女のお誕生日をお祝いしたいというお気持ちがおありなのでしょうね」
(……あのお父様が?)
バイオレッタはリシャールのことを特に気味が悪いとは思っていない。
ただ、怖いのである。
精神年齢が退化しつつあるとはいえ、リシャールは癇癪持ちで、すぐに機嫌を悪くしてしまう。
そのため、宴の席などでは臣下たち相手に声高に怒鳴り散らしていることも多い。要は怒りの沸点が低いのである。
それに、面と向かって話をしたこともほとんどなかった。
そうした人間相手に親近感よりも先に恐怖を覚えるのはごく当たり前のことだろう。
バイオレッタはたちまち身を縮こまらせる。
「……わ、わたくし、出られないわ。お父様には申し訳ないけれど、どうにかお断りして……」
「何をおっしゃっておいでですの! 絶対に参加なさいませ。陛下は貴女様の御父君ですのよ?」
「で、でも――」
サラは有無を言わさずバイオレッタの腕を引いて引っ張り起こした。
「ちょっと、サラ……!」
「ほらほら、お支度をいたしませんと! 夜までに貴女様を完璧に磨き上げてドレスアップさせること。それがわたくしの本日の仕事ですのよ。それに、任務を完遂できないと女官長に怒られてしまいますもの」
てきぱきと格下の侍女たちに指示を出し、サラは寝ぼけ眼のバイオレッタの夜着を脱がせにかかった。
「やっ……、やだ……、サラ!」
「いいえ、やめませんわ。いくら貴女様でも、わたくしの仕事の邪魔をなさるのはやめて下さいませ。さて……、まずは湯浴みですわね! 今夜はとびきり美しくいたしましょう。ふふ……、腕が鳴りますわ!」
言いながら、抵抗するシュミーズ姿のバイオレッタを浴室に引っ張っていく。
そして扉をしっかりと閉め、数人の侍女に出入り口を固めさせると、サラはバイオレッタを隅々まで磨き上げにかかったのだった。
***
「うう……」
湯浴みを終え、身づくろいを一通り終えて一息つく。
(もう条件反射みたいなもので、どうしても身体がつられて動いちゃうわね……。湯浴みの時間ってたいてい着替えの時間だし……)
スイッチが入るとでもいうのだろうか、湯浴みをしているときからもうすでに身づくろいの感覚なのだ。
肌は山羊のミルクで作った薔薇石鹸で洗い、ジャスミンとオレンジの化粧水で整えた。
クラッセル公国から取り寄せた薔薇石鹸は特別製で、泡立てると豪奢な香りがする。浴室には始終いい香りが充満していてくらくらしたほどだ。
まっさらになった素肌には薄い化粧が施された。白銀のまつげは化粧料で持ち上げられ、ふっくらとした唇には桃花を思わせる薄いピンクの紅が引かれた。
黄金の三面鏡の前にたたずみ、バイオレッタは眉を曇らせる。
「……ピンクのドレスなんて落ち着かないから嫌だって言ったのに」
バイオレッタは自身の纏うドレスをそっと見つめる。身じろぎすると裾の襞飾りがふわふわと揺れた。
開いた花びらを伏せたような可憐な形をしたローズピンクのドレスだ。軽やかな素材だが光沢は見事なもので、随所に蔦を思わせる華麗な金糸の刺繍が走る。
普段のドレスは寒色系のものが多い。ペールブルー、ライラック、ラベンダーなどだ。
まれに青みがかったピンクを着ることもあるのだが、どちらかといえば薄紫に近く、ここまで赤みは強くない。
自分には可愛い色合いのドレスは似合わないとさえ思っているので、こんな明るい色を纏うのはなんとなく気恥ずかしい。
(サラったら、首筋もこんなに出してしまって……)
真珠のネックレスがかけられた白い首筋は大きく露出していた。
なめらかな肌には真珠の粉がはたかれており、シャンデリアの灯りを受けて時折儚げなきらめきを放った。
「……お父様と、ダンス? わたくしが……」
……一体何の話をすればいいというのだ。十四年間も離れ離れになっていたというのに。
また、リシャールは何かにつけてすぐ怒るから、自分が機嫌を損ねないか心配だというのもあった。
いつも臣下たちにそうしているように、大きな声でがなり立てられでもしたら大変だ。
この心にひびが入るのは目に見えているし、何より彼と親しくなりたいという気持ちさえ薄れてしまいそうで、単純に恐ろしかった。
「……どうしよう……」
「――バイオレッタ様。仮面はどちらにいたします?」
近寄ってきたサラが銀製のトレーを掲げてにこりとした。
月の半仮面、蝶のドミノマスク、薔薇をかたどったものまで様々な仮面が並んでいる。
「……サラ。わたくし、今はそれどころじゃないのよ。今夜だって本当は乗り気じゃないし、逃げ出せるものなら今すぐ逃げ出したいわ」
「まあ。そのような……」
「だって! ……怖いのよ」
サラはトレーをテーブルに置くと、バイオレッタの顔を覗き込んだ。
「……バイオレッタ様。陛下のことを恐ろしく思われるのは仕方がないとしても、バイオレッタ様は陛下のお気持ちを察して差し上げたことはおありですか?」
「……どういう、意味?」
「陛下はこれまで多くのものを諦めてこられました。……まっとうな生を。最愛のお妃様を。そして、陛下にとっての最大のしこりは、バイオレッタ様、貴女様とのことだと思うのです」
「……どういう、意味?」
「陛下はこれまで多くのものを諦めてこられました。……まっとうな生を。最愛のお妃様を。そして、陛下にとっての最大のしこりは、バイオレッタ様、貴女様とのことだと思うのです」
可愛らしい顔を曇らせ、サラはバイオレッタの肩にそっと手を置いた。
「陛下がこの世で最も寵愛されたエリザベス様の愛娘。それが貴女様です。十四年前、貴女様の突然の失踪を未然に防ぐことができなかったこと、陛下は今でも悔いておられるのではと、非才の身ながらわたくしは思うのです。わたくしが仮に父親でも、自分の子どもと引き離されるのは耐え難いと思うでしょう。陛下はこれまでずっとそんな後悔の念、自責の念と戦ってきたのではないかと思います……、恐らく一人きりで」
「あ……」
そうだ。リシャールには今、自分を理解してくれる人間というのはほとんどいない。
異国からの使者たちはみな彼を「奇妙な王だ」と嗤う。
唯一伴侶と呼べるシュザンヌも、一方的に愛情を押し付けるばかりで彼の本質までは見ていない。
王太后はリシャールの実母だけれど、やり取りを見ている限りでは愛情は希薄に思える。
(……そうよね。お父様はずっと一人で耐えていらしたんだわ。自分を取り巻く色々な障害と)
当たり前に年を重ねられないことも、隣に最愛の王妃がいないということも、彼女の産んだ姫と笑い合うことも。
……全部、諦めてきたのだ。
決心したように唇を引き結ぶバイオレッタに、サラはにっこりと笑いかける。
「ですから、今夜だけでも陛下とお話なさいませ、バイオレッタ様。陛下はきっと世間の父娘と同じように貴女様と語り合いたいと思っておいでなのです。それにあの方は本当はそれほど恐ろしい方ではございませんのよ」
「そうね……。頑張って、少しだけでもお話してみるわ。きちんと打ち解けられるように」
――その時。
コンコン、というノックの音に、二人は顔を上げた。
ドアの向こうから侍女の一人が言う。
「バイオレッタ様、シャヴァンヌ様がおいでですわ」
「え? クロード様が?」
ぱちぱちとまばたきをする。支度はとっくに終わっているが、一体なんの用事だろう。
サラは怒ったように唇を捻じ曲げた。
「またあの方なの? もう。わたくしのバイオレッタ様に手を出したりしたらただじゃおかないんですからね。あ、……お通ししましょうか?」
「あ、ええ。お願い、サラ。ドローイングルームにお通しして」
私室の居間に通すように言いつけ、バイオレッタはもう一度鏡を見た。
(……おかしなところは、ないわよね。よし……と)
前髪やドレスの裾を軽く直してから、バイオレッタはドローイングルームに向かった。
そこにいたのは――。
「私の姫……、お支度はお済みですか?」
「クロード様!」
蝶をかたどった漆黒の半仮面。濃紺の上着とジレ。艶のある黒のトラウザーズ。
普段とは大きく印象が異なる装いに身を包んだクロードがそこにいた。
(素敵……)
ついそう思ってしまったのは、その服装が普段と違ってとてもきらびやかだったせいだ。
濃紺の上着は肩口にたなびくマントを留めつけた凝った意匠で、蝶の半仮面は繊細な模様をびっしりと描き込んであってなんとも美麗である。
彼は濃紺の上着の裾を翻してにこりとし、半仮面の奥の瞳をうっすらと細めてバイオレッタを見た。
「ああ……、薄紅色のドレスもよくお似合いですね、姫……。一足早く春の花が咲き誇っているかのようです。今夜の貴女を独り占めできる陛下が妬ましく思えてしまいますよ」
「あ、あの。どうしてここに……」
「陛下から直々に貴女のエスコート役を仰せつかりまして。僭越ながら、エテ宮の≪舞踏の間≫までご一緒させて頂きます」
「えっ……、あの、ありがとうございます。それにしても……素敵なお姿ですわね、クロード様。いつもとても華やかにしていらっしゃいますけれど、そうしていらっしゃるとまるでクロード様ではないみたいですわ」
そう言うと、クロードはふっ、と小さく笑った。
「まさに仮面舞踏会の醍醐味……、ですね。現を忘れ、いつもとは異なる姿で踊り明かす。それが礼儀のようなものですから」
「すごくお似合いですわ……」
「ありがとうございます、私の姫。ふふ……、また陛下に恨まれてしまいそうですね。貴女が陛下に見惚れるより先に私に見惚れたなどと知ったら、あの方は激昂なさるでしょう。このことはくれぐれも内密にお願いいたしますよ、姫」
言って、クロードは黒絹の手袋をした人差し指を唇に当てる。
「はい……」
思わずぽうっとなったバイオレッタに、クロードが手を差し出す。
「さあ、お手をどうぞ。陛下がお待ちかねです」
サラの手を借りて赤薔薇のあしらわれた仮面をつけると、バイオレッタはクロードに手を引かれて私室を後にした。
***
……エテ宮、≪舞踏の間≫。
ここは舞踏会場として使われる大広間だ。隅には楽師たちが控え、磨き抜かれた床にはシャンデリアの光が落ちて艶やかに輝いている。
黄金の大燭台には惜しげもなく炎が点され、どことなく楽しげな雰囲気を醸し出していた。
しかし、その≪舞踏の間≫に宮廷人たちの姿がまるで見えないことに、バイオレッタは狼狽した。
(え……、ここにいるのはわたくしだけなの? 宮廷人が一人もいないなんて……)
平素であればこの広間には多くの宮廷人たちがぎっしりとひしめいているはずである。
なのに、今夜はそれがない。広間にたたずんでいるのはバイオレッタ一人だ。
これは一体どういうことなのだろう……。
クロードはそこで何も案じることはないとでもいうように微笑した。
広間の中央に敷かれた緋色の絨毯の上を、バイオレッタの手を引きながら静かに進む。
そして、玉座のそばまで彼女を連れていった。
「陛下。バイオレッタ姫をお連れいたしました」
クロードが跪くと、玉座に悠然と腰かけていたリシャールがすっと立ち上がった。
「バイオレッタ。よく来てくれたな。……待っていたぞ」
バイオレッタは一瞬、その華々しい正装姿に見とれた。
珠のようなビーズや模造宝石がたくさん縫い付けられた真紅のアビ。ジレの色は洒落たエクリュで、全体的に細やかな花の刺繍が入れられている。
少年らしくすらりとした両脚はアビと同じ真紅のキュロットと生成りのタイツに包まれていた。
だが、何より目を引くのはその仮面だ。そこにはジレと同じエクリュの仮面には顔料で精緻かつ大胆な模様が描かれ、いたるところに高価な宝石が連ねられてまばゆい輝きを放っていた。
燭台の灯りが、リシャールの黄金の髪を明るく照らし出す。その迫力と神々しさにバイオレッタは息をのんだ。
玉座を立った彼はそのまま距離を詰めてきた。堂々と絨毯の上を歩いてくる。
しかし、バイオレッタの心はすでに怯えでいっぱいになっていた。
(……どうしよう、やっぱりわたくし、怖い――!)
今さらどう接すればいいというのだ。接点もほとんどないのに。
彼に対して抱いている印象は「冷たい少年王」であって、「優しく微笑みかけてくれる父親」では決してない。
そんな人物を前にして、一体何をどう話せばいいと言うのだろう。
バイオレッタは途端に心臓がばくばくしてくるのを感じた。
緊張のあまり手のひらが汗ばんできて、思わずぎゅう、と強く握りしめる。
(怖い……、逃げ出したい。お父様に近寄られるのが、恐ろしい――!)
――刹那、近寄ってきたリシャールは頭の後ろで結んでいた絹のリボンをさっと解いた。
光を反射する大理石の床に、からん、という音を立てて仮面が落ちる。
「え……」
バイオレッタが目を見張ると、父王は困ったように微笑んだ。
「……今宵は僕も、そなたのために仮面を脱ごう。日頃そなたに見せられずにいる≪素顔≫も、想いも……。すべてそなたには感じてほしいのだ」
思いのほか柔和なまなざし。普段のリシャールからは到底想像もつかないような、弱々しい笑み。
「お父様――」
すっとその場に膝をつくリシャールに、周囲に控えていた楽師たちがどよめく。
だがリシャールは、そんな雑音などまるで耳に入らないとでもいうように、バイオレッタの手を取って口づけを落とした。
「バイオレッタ……。愛しいわが菫よ……、春を知らせるかぐわしき野の花よ。どうか、この僕にも優しい春を運んではくれぬか。のびやかに咲き誇る、その心のままに」
≪舞踏の間≫に、リシャールの凛とした声が響き渡る。
声とは裏腹に、彼はやはりどこか心細そうな瞳でバイオレッタを見上げていた。
一瞬目を瞬いたものの、やがてバイオレッタはほのかに笑った。
……そうか。この王は自分が思っているほど「大人」ではなかったのだ、と。
もちろんそれは『容姿』のことを言っているのではない、彼の『心』の話である。
きっとリシャールはリシャールなりに努力をしてきたに違いない。
どうすれば娘たちに喜んでもらえるのか、どうすれば父親らしい振る舞いができるのか。
何をしてやれば娘たちに心を開いてもらえるのか……。
そんなことばかりを思い悩んで、同時にそうした自分に少しだけ喜びもしたのだろう。
他人に何かをしてやれる立場にあるという事実を誇らしく思い、精一杯王女たちのために尽くそうと努力してきたのかもしれない。
けれど、一国の主であるリシャールには常に「国王の顔」が望まれる。「父親の顔」だけを持ち続けるわけにはいかないため、娘たちの心にあと一歩のところで向き合うことができない。
それでも彼は娘たちに対してどう接すればいいのかずっと考えてきたのだろう。
しかし、肝心のところでどう娘に歩み寄ってよいかわからない。虚勢を張ってしまい、知らず知らずのうちにどんどん距離ができてしまう。
そしてそんな自分に嫌気がさし、だんだん心を開くことさえ諦めてしまう……。
(……でも、わたくしたちに近づきたいとは思っているんだわ)
そして恐らくバイオレッタと同じ感性をリシャールは持っている。
不器用で、他人が怖くて。けれど誰かの愛を求める心は人一倍強い。……そんな感性を。
わずかな言葉の端々からそれを感じ取ったバイオレッタは、今までよりずっと彼を愛おしく感じ始めていた。
(わたくしとあなたは確かに血が繋がっているのですね、お父様……)
ドレスが汚れるのもかまわず自身も床に膝をつくと、バイオレッタは華奢なリシャールにそっと抱きついた。
「はい……、はい、お父様。今夜はお父様のお話をたくさん聞かせて下さい」
リシャールはびっくりしたように身体を震わせたが、すぐに強く抱きしめ返してきた。
「ああ……。そなたの母の話、そなたが生まれた日の話。思いがけず苦労したことなど。そなたに聞かせたい話はほかにもまだまだあるのだぞ。……だがその前に、僕と一曲、踊ってほしい」
バイオレッタはびっくりして声を上げた。
「お父様……、踊れるのですか? いつも断っていらっしゃるのに……」
リシャールは背に流れたバイオレッタの髪をゆっくりと梳くと、彼女の耳元で事もなげに言い放つ。
「……踊れるぞ? わが妃が亡くなるまで、僕のダンスは天下一品と評されていた。今夜は思う存分確かめるがよい」
「お父様……」
バイオレッタを静かに立たせると、リシャールは彼女の手を取る。
そして楽師らによって音楽が奏でられ始めると、巧みなリードとステップでバイオレッタを翻弄したのだった。
「陛下……」
壁に背を預け、クロードはゆっくりと半仮面を外した。
(やはりこちらしかなかったでしょう? あなたと姫との間の「溝」を埋めるには)
バイオレッタのダンスの腕前は素晴らしい。異母妹ピヴォワンヌのつたなく荒々しいダンスよりも、ずっと優雅でたおやかなのだ。
リシャールもまた同じだった。エリザベスが病没するまで、国王夫妻の仲睦まじい舞踊は語り草となっていた。
実際にクロードもその様子を見かけたことがあるが、あれは今でも忘れられない光景だ。
まるで揃いのような金の髪を弾ませあい、幸福そうにステップを踏む二人。
……光があふれるように、二人の顔に至極自然にこぼれる笑み。
――あの二人は何より「心」同士がつながりあっているのだ。
そう思わずにはいられないほど一心同体な二人だった。
年を取ることができない国王とは裏腹に、エリザベスはどんどん美しく成長していった。
互いにそれを苦痛に感じたこともあったようだが、リシャールは寵妃の最期のときまでその手を離さなかった。
(エリザベス様のことは正直最後まで好きにはなれませんでしたが、踊っているお二人は眩しかったですね……)
もう一度、大広間の中央で踊っている父娘を見やる。
数曲目に入るというところで、バイオレッタは薔薇の仮面を取り去っていた。高貴でいてどこかあどけないすみれ色の双眸を晒し、リシャールを慕わしげに見つめている。
曲はもう軽快な舞曲に切り替わっている。いささか速い三拍子だ。けれどリシャールの動きに、バイオレッタは臆さずついていく。
その目にもう怯えはなかった。リシャールに親しみを感じ始めている瞳だ。
(姫……。やはりお美しい……)
軽やかに襞飾りを翻して舞うバイオレッタの姿に、ついクロードの視線は吸い寄せられた。
舞い踊るたびに散る白銀の髪。光を弾いて輝く珠の肌。ほんのりと赤く上気した頬。
本当に、美しい――。
が、彼は微苦笑すると手の中の半仮面を弄ぶ。
(姫の舞踏の腕前はやはりあなた譲りのようですね……、陛下)
この自分が相手を務められないのは不満だが、楽しそうに踊っているバイオレッタを見るのもまた一興だ。
そして、今夜はきっとあの二人にとって生涯忘れられない一夜になるだろう。
「バイオレッタ。……誕生日、おめでとう」
はにかんで言うリシャールに、バイオレッタは安堵させるように微笑みかけた。
「ありがとうございます、お父様。わたくし、今日のこと……、ずっと忘れませんわ」
「ああ、僕もだ、バイオレッタ。これからはずっと……、この僕がそなたを守る。だからいつもそうやって、笑っていてほしい……」
「……それは、ご命令ですか?」
きょとんとして問うと、リシャールはふっと笑った。
「いや、これは単なる僕の望みだ。意に染まぬことはするな。だが、そなたの笑顔が毎日見られたら……それ以上の幸福はない」
「ふふ……」
なんだか不思議な気分だった。ずっと苦手だと思っていたリシャールが、ここまで自分に向き合ってくれ、まるで宝物にそうするように大切にしてくれている――。
バイオレッタはすみれ色の大きな瞳をうっとりと細めてリシャールを見つめた。
視線を受け止めたリシャールが、愛おしげにささやく。
「ずっと笑っていてくれ。僕の愛しいバイオレッタ……」
「はい!」
リシャールの動きに合わせてふわりふわりと舞いながら、バイオレッタは心からの笑みを浮かべた。
初出は2019年の初春。再掲載に当たって手直しをしていますが、ほぼ原文ママです。
リシャールがお父さんお父さんしているのが好きでした。