「冬」をテーマにした季節の短編。なので時系列は本編と大幅にずれています。
書いてた時季が冬だったので、雪が出てきたりファー付きドレスが出てきたりします。
つかの間の冬気分に浸ってお楽しみいただければ幸いです。
国王執務室の奥――王リシャールが眠るための場所である休憩室へ足を踏み入れたクロードは、閉ざされていたカーテンを勢いよく開いた。
シャッ、と音を立ててカーテンが開かれると、室内がたちまち明るい陽光で満たされる。
彼はそのまま寝台の上で芋虫のごとく丸くなっているリシャールに声をかけた。
「おはようございます、陛下」
「うむ……」
リシャールはぼそぼそと言って、陽射しを避けるべく毛布をかぶる。
返事をしたはいいが、やはりまだ起きる気になれないらしい。そのまま寝台の上でもぞもぞ動き、羽毛の詰まった毛布をすっぽりとかけて再び眠ることに没頭し始める。
「……はあ」
クロードはため息をつくと、つかつかとベッドへ歩み寄る。
そしてリシャールをくるむ毛布を勢いよく引っぺがした。
「っ!?」
「起きてください、陛下。ご起床のお時間です」
「やめろ! まぶしい! 寒い! 毛布を返せっ……!」
「なりません。もう八時過ぎですよ。臣下の手前、そろそろ起きていただきませんと」
幼稚な攻防はしばらく続いた。リシャールはシルクの寝間着姿のまま、寝台の上でぎゅうぎゅう毛布の端を引っ張っている。
そのうち、ぼすん!と音を立てて小柄な身体がベッドに沈む。
クロードは慌てて主君を助け起こしにかかった。
「……大丈夫ですか、陛下?」
「うむ、腰を打ったが大事ない……いてて」
クロードはしばし小作りな彼のおもてに見入る。
……艶やかな飴色のブロンドに、猫のようにぱっちりとした琥珀色の双眸。
抜けるような雪肌は北国の人間ならではのものだが、リシャールの肌は群を抜いて白くきめが細かい。
手を差し出してやると、リシャールはおとなしく自らのそれを重ねた。
寒い冬の日だというのに、リシャールの指先は少女のもののように先端だけがほの紅く色づいていた。世話係の小姓たちが日頃から入念に手入れをする爪は形がよく、綺麗な丸い卵型をしている。
クロードはそれになんともいえない育ちの良さを感じた。
髪、肌、爪……。この少年王はどこまでも清潔で小ぎれいな身なりをしており、容易く穢してはならない“何か”を感じさせる。
作り物めいて端整な顔立ちと、華奢な肢体。その中で唯一凛然と主張する琥珀の瞳……。
リシャールと向かい合う時、クロードは若干の羨望と嫉妬を抱く。
まるで、何人たりとも侵してはならない不可侵の領域を目の当たりにしているかのようで。
「何をじろじろ見ておる! さっさと立たせろ!」
「は……」
……黙っていればかなりの美少年なのに、性格が惜しい。
その本音を、クロードは丁重に腹の底にしまい込む。
この少年王はもともと負けん気が強く横柄なところがある。
それは母后の厳格な教育の賜物のようだったが、それにしても行き過ぎているだろうとクロードは常々思っていた。
気に入らなければすぐ手を上げる。臣下相手でも情け容赦なく罵声を浴びせる。
そして一番厄介なのは何かにつけてすぐこちらに突っかかってくるところだ。
リシャールは基本的に短気で、「なんだと!? もう一度言ってみよ!!」とか、「お前は一体誰に向かって口を利いておるのだ!!」などといったわがままで子供っぽい受け答えしかできないのである。
そんな主君に仕えだして早十八年。
さすがに彼の扱いにも慣れてきたが、それにしてももったいない、と思う。
「この美貌を活かせば、もっとしたたかに生きることもできるでしょうに……」
「? ……なんだ?」
「いえ、なんでも」
小悪魔じみて狡猾なリシャールなど、もはや想像したくとも想像できない。
可愛らしさや柔弱さを売りにしないところはむしろ褒めてやりたいとすら思う。
(……あの手の早ささえなければ、ですが)
リシャールはもともと手が早い。
クロードも出仕し出してから一体何度殴打されたかわからない。
それも思いがけないタイミングで拳が飛んでくるので、耐性がなかった頃はとにかく驚いた。何せ愛らしいおもてにそぐわない力強さなのである。
リシャールも立派な男だから仕方ないのだが、それにしても酷い、と思った。
痛いし驚くし、何より自慢の顔に傷がつく。
主君の癇癪のせいで貴婦人たちの相手が務まらなくなったらそれこそ悲劇である。
幸いなことに顔が崩れるまで殴られたことはないが、一歩間違えたら二目と見られない顔の醜男になってしまう。
そこだけは気をつけなければと常々思っていた。
「本日は何をお手伝いいたしましょうか?」
気を取り直してそう訊ねると。
「今日は外へ出てみようと思っておる。昨日のうちにほとんどの政務が片付いたからな」
「なるほど。では、私の手は必要ないと?」
「いや? せっかくだからお前が供をしろ。お前のような男でもいないよりはましだ」
「……」
朝っぱらから言いたい放題言ってくれる、とクロードは顔を引きつらせる。
クロードが嫌なら他の侍従でも連れていけばいいのに、なぜかリシャールはそうしない。
いつもクロードを傍らに侍らせたがり、心を許した友にするように飾らない口調で話したがる。
公の場では相手を「そなた」呼ばわりすることが多いくせに、クロード相手ではどういうわけか「お前」になるし、態度も若干くだけたものになる。
そう呼ばれるのは不快というほどではなかったが、やや複雑な感じがした。
何せまるで下僕を扱うように「お前」呼ばわりである。
知恵でも力でもクロードにはまるで敵わないくせに、リシャールは常に自分の方が格上だという態度を取りたがる。それがクロードにはやや面倒くさかった。
「お前はそこで待っていろ、クロード。着替えて朝餉を取ったらすぐに出かけるゆえ」
命じるや否や、リシャールはお抱えの小姓たちを呼びつけて支度を始める。
クロードは主君に悟られぬよう一つ息をつき、壁際にたたずんだまま彼の着替えが終わるのを待った。
「風が冷たいな。空気もまるで刺すようで……くしゅんッ!!」
「ああ、陛下。大丈夫ですか? それでは首周りが寒そうです、どうぞこちらを」
言って、クロードは侍従から受け取ったキツネ毛の襟巻を彼の首にぐるぐると巻きつけてやる。
「おお、温かいな」
「陛下が先日の狩猟で得たものを加工しました」
「なるほど、上質な肌触りでよい」
二人はそうしてしばらくリュミエール宮の周辺をぶらぶらしていたが、やがて前方からよく見知った二人の少女がやってくることに気づいて歩みを止める。
「お父様! おはようございます!」
そう言って挨拶をしたのはこの国の第三王女であるバイオレッタだ。
傍らには異母妹のピヴォワンヌを連れ、そのさらに後ろにそれぞれの筆頭侍女を侍らせて微笑んでいる。
「おお……、バイオレッタにピヴォワンヌ。これはまた随分と早いな」
朗らかに言い、リシャールはステッキを打ち付けながら二人に歩み寄る。
「朝の礼拝の帰りなのです」
「なるほど。女たちが総出で行うというあれか」
「はい。ちょうど今しがた礼拝を終えたばかりですわ」
今日のバイオレッタはロイヤルブルーのドレスの上に白貂のケープを纏っている。
ほっそりした首筋には薄いグレーのバロック真珠が連なるペンダントをかけ、手元も揃いのブレスレットで華やかに彩っている。
肩口から二の腕までをすっぽりと覆う白貂のケープは凝った細工のルビーのブローチで固定されていた。
ふさふさと柔らかそうなそれに、クロードは一瞬だけ触れてみたくなった。
……いや、それだけでは足りない。どうせならケープごとその身体をこの腕でくるみ込んでしまいたいくらいだ。
(ああ、私の姫……。今日もなんとお美しい……)
クロードはこみ上げる衝動を抑えつつバイオレッタの姿を眺めた。
元の顔立ちが人形めいて端整なおかげか、バイオレッタはこうした可愛らしいものがよく似合う姫君だった。
柔らかくもどこか凛とした雰囲気が特徴的な姫君で、異母妹ピヴォワンヌに比べると言葉遣いも少しだけ大人びている。
クロードはしばし執拗に彼女の全身に視線を這わせた。
ロイヤルブルーのドレスが包む、女性らしい肢体。背を伝ってなだれ落ちる綺麗な白銀の髪。挙句の果てにはスカートの奥に隠れた靴のつま先にまで……。
うっとりと彼女の姿を眺めまわしていると、それに気づいたのか、バイオレッタがぱちくりと瞳を瞬かせる。
そして恥ずかしそうににこりとした。
……反則だ、とクロードは苦悶する。
クロードと第三王女バイオレッタは密かに恋人同士となった仲である。むろん父王リシャールには内密に、だ。
出会った当初から互いに恋の予感に胸を奔らせていた二人は、ある時を境に正真正銘の恋人同士となった。そして、贈り物、訪問、文通……といった古式ゆかしいやり取りを重ねて今に至る。
宮廷に跋扈する赤裸々な恋の風潮とは大きくかけ離れた、穏やかでのんびりとした恋だった。
クロード自身は女性たちから引く手数多の色男だが、バイオレッタに無理をさせたことは一度もない。クロードはそうしてゆっくりと熱を帯びてゆく恋の仕方を久しぶりに愉しんでもいた。
「……おはようございます、クロード様」
言って、バイオレッタがこちらに向けて手を差し出す。
クロードはすかさずその繊手を取って口づけを落とした。
「おはようございます、バイオレッタ王女殿下」
バイオレッタはふにゃふにゃと蕩けた笑顔でそれに応えた。恥ずかしそうな、それでいてどこか満ち足りた顔で。
すると、すかさず脇から指摘が飛んでくる。
「こら、バイオレッタ。こやつ相手に“様”などつけなくともよい。こやつは臣下でそなたは姫だぞ。身分の違いははっきりさせておかなくてはならぬ」
「申し訳ございません、お父様」
言って、ぺこりと頭を下げる。
クロードはまるで眩しいものでも見るかのように目を細めて彼女を見つめた。
こうした素直なところもバイオレッタの美点の一つだ。彼女は自分に非があったとわかればすぐに頭を下げられる少女で、その正直なところをクロードはひどく好ましく思っている。
自分とは大違いだと感じて、単純に羨ましくなるのだ。
やがて、リシャールはおずおずと言った。
「ピ、ピヴォワンヌも元気そうだな」
「……」
互いの間に「確執」とも呼べるものを持つ二人は、一瞬だけ気まずそうに視線を交わし合う。
が、ピヴォワンヌはすぐにさっと目を逸らした。
リシャールは残念そうに伸ばしかけた手を引っ込める。
見かねたバイオレッタがピヴォワンヌの背を押した。
「ピヴォワンヌ。ほら、お父様にご挨拶は?」
「な……! あたしはもう子供じゃないんだから、変な言い方しないでよね!」
「ちゃんと朝のご挨拶をして、ピヴォワンヌ。お父様が悲しまれるわ」
ピヴォワンヌは一瞬だけむくれる。
しかし、大好きな姉の言葉を無視するのはよくないと判断したらしく、すぐに彼女に倣った。
「お、おはよう……ございます」
「う、うむ……」
挨拶を交わしたのはいいが、やはり互いにぎこちなさが滲み出ている。
それもそのはずだ、ピヴォワンヌが慕っていた養父を罰したのはほかでもないリシャール本人なのだから。
ピヴォワンヌは沈黙し、乾いた冬の風に靡く後れ毛をさらりと指で梳く。
今日のピヴォワンヌは、燃え盛るような真紅のドレスに身を包んでいた。首周りには泡のような小粒の淡水真珠をいくつも連ねた首飾りを下げている。ケープの色はバイオレッタとは反対に漆黒だった。
姉には「静謐」とか「清廉」といった言葉がよく似合うが、こちらは「情熱」「流麗」という言葉がぴったりだ。
こちらを見上げる気の強そうなまなざしや表情も、バイオレッタとはいい意味で一線を画している。
バイオレッタはしばしもじもじと手元に視線を落としていたが、やがて携えた野花のブーケを父王に向けて差し出した。
「あの……こちら、ピヴォワンヌと摘んだお花です。お父様に差し上げます」
「……!」
刹那、リシャールのおもてにぱああっ……と喜びの色が浮かんだ。
そう、こんな外見をしていても彼はかなりの子煩悩なのである。
「よ、よいのか? 部屋に飾ろうと思ったのでは……」
「ふふ。せっかくお会いできましたので、差し上げます。つまらないものですが……」
「いや、そんなことはない! ありがたくもらい受けよう。大事にする……!」
リシャールは花束をぎゅうっと握りしめ、くん、と鼻を鳴らして香りを嗅ぐ。
「甘い香りがするな」
「それはストックですわ」
「ストックか。うむ……甘くていい匂いだ。花びらもまるで透けるように繊細で美しいな」
二人はそのまま花の話題で盛り上がり始める。
クロードはやれやれと肩をすくめた。
(……こうしたお顔をなさっていると、本当に「少年」のようですね)
バイオレッタとは背丈が頭一つ分も違わないせいもあって、父娘というよりは姉と弟のようだ。
おまけに花などの話題で意気投合しているところがやけに可愛らしい感じがしてしまう。
リシャールはそこでごほん!と咳払いをした。
「そ、そなたら、たまには僕と茶でも飲まぬか。あの四阿にでも運ばせるゆえ」
言って、リシャールは庭園の隅にある小ぢんまりとした四阿を指さす。
二人は顔を見合わせたが、やがてしっかりとうなずいて同意を示した。
「はい! ぜひ」
「いいわよ。薔薇後宮に帰ったところで、どうせもうすることなんてないしね」
「……!」
リシャールはそこでまたしても輝かんばかりの笑みを浮かべた。
四人はそのまま庭園の隅に建てられた小さな四阿の中に入った。
大理石の幅広のテーブルの上には大ぶりの花が活けられた硝子の花瓶が置かれ、その周りをぐるりと取り囲むように数多のデセールの皿が並べられている。
どっしりと身の締まったラム酒のパウンドケーキ、花の抜型で抜いたクリームサンドビスケット。
クレーム・シャンティイを落としたミラベルのタルトに、洋酒をたっぷりときかせたババ。
周囲では数名の女官たちが丁寧に給仕をしてくれており、姉妹姫二人はあつあつのミルクティーを片手に思い思いにデセールを味わっては楽しんでいる。
リシャールは自らも紅茶をひとくち嚥下すると、仲睦まじい二人の様子を感極まった様子で眺めながらつぶやいた。
「夢のようだ……。そなたらとこんな風に茶を飲める日が来ようとは」
すると、向かいのピヴォワンヌが小さく噴き出す。
「夢だなんて大げさね」
「大げさなどではない。僕はずっと、そなたらと再会するのは諦めてきた。もうそなたらの顔を見ることはないだろうと。もうそんな奇跡は訪れないだろうと……」
リシャールは黄金のまつげを幾度か瞬き、ため息まじりに言った。
「……もっと早くこうしていればよかったな。もっと早くに、再会したかった」
しみじみと言い、リシャールはそっとカップの淵に唇を寄せる。
そのまま音もなく啜り込もうとして、彼は「あちち!」とびっくりしたようにカップを遠ざけた。
「お父様、大丈夫ですか? やけどはなさっておられませんか?」
「あ、ああ……大事ない。それにしても……ピヴォワンヌ、なんなのだ、その態度は。そなたももっと姉を見習わぬか」
一人だけ傍観を決め込み、あまつさえ宮廷菓子を味わうのに夢中になっていたピヴォワンヌを、リシャールは叱る。
が、ピヴォワンヌはどこ吹く風だ。
さく、と音をさせてパイにフォークを突き刺すと、大口を開けてぱくりと平らげてしまう。
「! ピヴォワンヌ! は……、はしたないだろう!」
「いいじゃない、別に。お菓子くらい自由に食べたっていいはずだわ」
「そういう問題ではないっ! そなた、嫁入り前であろう! そのような下品な食べ方、今すぐ改めよ!」
「無・理。だってもう食べちゃったもの」
もごもごと顎を動かすピヴォワンヌに、リシャールはとうとう金切り声を上げた。
「そういう話をしているのではないっ!」
「はいはい。わかったわよ。バイオレッタみたいにおちょぼ口でちまちま食べればいいんでしょ」
「なっ……ひ、ひどい! ピヴォワンヌったら」
「だって、あんたの食べ方っていかにもとろくさそうなんだもの」
ピヴォワンヌがにやりと笑うと、バイオレッタはうまく言い返せずにしゅんとなる。
「そ、そんな言い方……っ」
クロードは三人が親子水入らずでティータイムを愉しむ様を興味深く眺めた。
ふと胸に落ちたのは、ひとさじの後悔だった。
それは見る見るうちにクロードの心に広がり、音もなく波紋を生む。
(ああ……、この平穏を壊したのは、ほかでもない私、なのですね……)
その考えの先を、彼はぐっと呑み込む。
そして柔らかく瞳を細めると、リシャールと仲睦まじく言葉を交わすバイオレッタの姿を静かに見つめた。
ひとしきりティータイムを愉しんだ一行は、四阿を出ると王城の遊歩道へ出た。
「ああ、おいしかった。やっぱりお城のお菓子は素晴らしいですね」
バイオレッタの一言に、リシャールがそわそわした様子で問い返す。
「そうか? そなた、この城の料理が気に入っておるのか?」
「はい! どれもわたくしの舌によく馴染みます。あ、でも、味の濃いものと豪華すぎるものはまだょっと苦手なのですけれど……」
「はは。なんだ、そんなことなら早く言え。苦手なものは食べさせないよう厨房に言いつけておくこともできるゆえ」
が、何を思ったかバイオレッタはふるふるとかぶりを振った。
「いえ。大丈夫ですわ。少しずつ慣れていけると思いますから」
「そうか?」
「はい。苦手なものを苦手だからといって嫌厭しないで、ちょっとずつ親しんでいけたらと思って」
「そうか……、そなたは賢い娘だな、バイオレッタ」
そこでつとピヴォワンヌが身を乗り出す。
「そうそう。この子はいい子すぎるくらいいい子だからね。どうせあたしとは大違いよ」
「なんだ、そなた、もしや姉にやきもちか?」
からかい交じりのリシャールの微笑に、ピヴォワンヌは声を上げる。
「なっ……!? 別にそんなんじゃないわよ!!」
いきり立ち、どこか真剣な面持ちでつぶやく。
「だって……あたしはこの子みたいになんかどうしたってなれないもの」
「ほう……、あれほどの剣の妙手がこれはまた随分と弱気だな」
「この子の優しさには、あたしですら歯向かえないわ。だってそれは剣なんかよりももっと強靭で堅固なものだから」
「優しさが刃だとでもいうのか?」
「ええ。人間というのは優しさの前では等しく無力だと思うの。先にそれを差し出されてしまったら、誰しももう相手に切っ先を向ける気なんて起こらないでしょう。この子はそれを潜在的に知っているのよ。だから強いの」
リシャールは感じ入ったようにうなずいた。
「そう、だな。確かに……。バイオレッタの前に立つと、父であるこの僕でさえ言葉を失いかけることがある。こやつの毒気のない微笑と態度には、いつもなぜかはっとさせられてしまうのだ。その言葉も笑顔も、まるで何人をも赦し受け入れる『聖母』のようで」
「お、お父様っ……! それはいくらなんでも褒めすぎです! ピ、ピヴォワンヌも、あまりおかしなことを言わないで……! なんだかいきなりそういうことを言われると、恥ずかしいというかいたたまれないというか……!」
クロードはそこで知らず知らずのうちに身を乗り出していた。
「……よいではありませんか、バイオレッタ様」
「クロード様……?」
「非才の身ながら、私めもいつもそう思っております。貴女の微笑みはまるで春の陽光のようだと」
「クロード、様……」
感極まったようにすみれ色の双眸を潤ませ、バイオレッタがクロードの名を呼ぶ。
唇から思いがけず漏れたかのような、ほとんど吐息のようなささやき方で。
こちらを見上げる潤んだ瞳と、クロードに向かって薄く開かれた艶めく唇。濡れたようにしっとりと甘美なささやき……。
その表情と声音になぜだかぞくりとするものを感じ、クロードは緩やかに顔を背けた。
――その時、天上からはらはらと何かが舞い降りてきた。
視界をかすめる、柔らかくて真っ白な小さなかけら。
それは――
「雪だ……」
ぽつりと言い、リシャールはコートの裾をはためかせてすっと両手を空に掲げた。
「今年もとうとうこの季節がやってきたようだな」
「ええ。まさしく冬の使いですわね」
「綺麗……」
四人はしばし舞い落ちてくる六花に見とれた。
穏やかに凪いだ冬の空から、それははらりはらりと音もなく降り注ぐ。
そして、大地に触れたとたん跡形もなく融けてゆく。
シルバーグレイの空の間を、純白の粉雪が舞う。それはなんとも儚く美しい光景だった。
「……ふふ」
「お父様?」
ふと笑い声を上げたリシャールに、バイオレッタが訝しむ。
すると、リシャールはひどく満ち足りた様子でつぶやいた。
「いや……。雪など毎年見られるものだが、今日はどういうわけか嬉しくてな」
「嬉しい、ですか?」
「ああ。ここでこうしてお前たちと雪を見られることが、今の僕にはどういうわけかひどく嬉しいんだ。はは……、雪というものはこんなにも綺麗なものだったのだな……」
普段と違ってやけに無邪気なリシャールの様子に、姫二人はきょとんとして顔を見合わせる。そして、肩を揺らしながらくすくすと笑いだした。
「お父様ったら……!」
「そうよ。あんたさえその気ならまた来年だって見られるでしょ。雪くらい」
「そう、だな。そうかもしれぬ……」
いつになく気弱なリシャールに、ピヴォワンヌが声を荒げる。
「そうかも、じゃなくてそうなのよ。今日のあんたは本当に変だわ、どうしたっていうのよ」
「こ、こら! ピヴォワンヌ! 父親に向かって『あんた』とはなんだ!」
「わっ、やば、リシャールが怒った……!」
「この! そなた今僕を呼び捨てにしたであろう! こらっ、娘とはいえ許さぬぞ! 待て!」
二人はそのまま広い遊歩道をぐるぐると走り回る。
コートの裳裾をはためかせてピヴォワンヌを追うリシャール、芍薬色の長い髪を靡かせて彼から必死で逃げ惑うピヴォワンヌ。
こうして目の当たりにする二人は本当に和気あいあいとしていて、まるで本物の親子のようだった。……リシャールが年若い少年の姿をしていることを除けば。
「ふふ、いいなあ。ピヴォワンヌったら楽しそう」
「……」
クロードはリシャールに悟られぬよう、密かにバイオレッタの方へ手を伸ばす。
そしてその手をそっと取って握りしめた。
スカートの影でしっかりと繋がり合った手と手に、バイオレッタが軽く目を見張る。
彼女はふっと笑った。
「……どうなさったのですか。いきなり……」
「おや、何がでしょうが」
そんな風におどけてみせると、バイオレッタは小さく噴き出した。次いで、握った手に力を込めてくる。
「綺麗な景色ですね」
「ええ……」
「それにしても、毎年見られる光景だというのになぜこんなにも美しいのでしょうか。今日の雪景色はどういうわけか普段より輝いて見えます……」
クロードがそう言って空を仰ぐと、バイオレッタはそっとその腕にもたれかかってくる。密やかに腕を絡めながら。
「それは、わたくしやピヴォワンヌやお父様と一緒に眺めているからかもしれませんわ。一人ぼっちで凍えながら見る空よりも、誰かのそばでその空気を分かち合いながら眺める空の方がずっとずっと素敵なものです。それが大好きな人ならなおさら」
「……そう、ですね。確かに、一人きりで見上げる空よりも、誰かと見る空の方が美しい。姫のお言葉も一理あるでしょう」
クロードが感じ入ったようにそう言うと。
「うふふ……」
「……姫?」
「だって。お父様もクロード様も、今日はなんだかとっても素直でいらっしゃるから……」
「失礼ですね。私は普段、そんなに偏屈で頑固な男に見えているのでしょうか」
わざとらしく口角を歪めてみせると、すかさずバイオレッタは否定する。
「いいえ。そういうわけでは……。ただ、今日のクロード様はいつもよりずっとお優しいお顔をしていらっしゃいます。こんなに冷え込んで寒い日なのに、クロード様の微笑みはまるでともし火のようだわ。どうしてそんな風に思うのかしら……」
クロードは真白い息を吐くと、空の彼方を見つめながらささやいた。
「……それは、寒いからでしょう」
腕を伸ばすと、クロードはその柳腰を強く引き寄せた。
そのままきょとんとしているバイオレッタを自身のそばへ来させる。
「寒い日には、誰かと寄り添っていたくなるものなのですよ。こんな風に」
「ええ……」
はにかみながらも、バイオレッタはクロードにしっかりと身を寄せた。
一瞬の隙を衝いて唇を奪えば、その肢体はクロードの腕の中で柔らかく崩れる。
くぐもった声を上げつつも、バイオレッタは健気にクロードのキスに応えてくれた。
父王の目をかいくぐってほんのひとときの口づけを愉しんだ後、二人は並んで冬の空を見上げた。
「綺麗な牡丹雪……」
バイオレッタは独りごち、クロードに抱かれたまま雪のかけらをそっと手のひらに受ける。
桜唇に触れた雪片が体温でじゅわりと融けてゆくのに気づき、クロードは戯れるように再度口づけを贈った。
調子に乗って髪や額のあたりにも唇を押し当てていると、バイオレッタが照れたように小さな笑い声を上げる。
「……姫は、温かいですね」
「クロード様の方こそ体温が高いと思います。こうやってくっついていると不思議と寒さを感じませんわ。あったかくて安心します……」
クロードはその身体をあやすように揺すりながらささやく。
「では、もうしばらくこうしていましょう。お二人がここへ戻ってこられるまで……」
「はい……」
……こうしているだけで、凍えた身体も強張った心もすべて融けてしまいそうだ。
たった一つの愛おしいぬくもりがこの腕の中にあるというだけで。
しんしんと降り積もる雪に、静かに心がほどけてゆく。
二人は寒さも目の前に広がる光景も忘れて、ただそうして抱きしめ合っていた。
「っくしゅんッ!!」
「陛下、大丈夫ですか?」
クロードはそう言って血の気をなくした主君の顔を覗き込んだ。
王女たちと城の名所を見てまわり、雪景色を愉しみ、そうしてようやくこのリュミエール宮へ帰る頃にはすでに辺りは真っ暗になっていた。
国王執務室へ戻ったクロードとリシャールは、そのまま浴室へ直行した。
リシャールが「このままでは手足が凍えて風邪を引きそうだ」などと抜かしたせいだ。
クロードが呆れて「あなたはまるで女性のようなことをおっしゃるのですね」と揶揄すると、彼は憤ってステッキで頭を殴打してきた。
全くもって油断も隙もない、とクロードは頭にできたこぶをさする。
そしててきぱきと小姓たちに指示を出した。
クロードはバスタブに湯を張ると、そこに主君の小さな身体を浸からせた。
自らもシャツを脱いでもろ肌脱ぎになると、海綿のスポンジを取って石鹸をすり込む。
しっかりと泡が立ったところで、彼はそれをリシャールの背や腕に滑らせた。
「ああ……よい加減だ。もう少しばかり強くしてもよい」
「御意」
みずみずしい肌をマッサージするように擦り、肌の隅々までまんべんなくスポンジを滑らせる。
リシャールの肌がすっかり泡まみれになってしまうまで、そう時間はかからなかった。
身体を洗浄し終えたところでシャンプーに取り掛かる。
金の髪を泡立てたオリーブ石鹸でよく洗い、最後に卵黄を使ったトリートメントで仕上げると、クロードはそのおもてに残る水滴をタオルで優しく吸い取ってやった。
「全く……ピヴォワンヌには敵わぬ。なぜあんなにも口が悪くなってしまったのだ……」
ぶるりと大きく頭を振り、リシャールはそんなことを言う。
クロードはやれやれと苦笑した。
「それはそうでしょう。あの方とてもう物のわからない子供ではありません。わがままも言えば反抗もします。そうしたお年頃なのですから」
「だが、あれはまるで男のようにがさつだ。そして所作がいちいち荒っぽい。見たか、クロード? あやつが手づかみでケーキを食べているところを。あれでこの国の王女を名乗るとは、少々意識が足らぬのではないか」
「あまり締め付けすぎない方がよろしいでしょう。あの年頃の女性というのはとにかく主張が強いものです。いいえ、むしろ主張することこそ美徳だと考えているような節もあります。姉君のバイオレッタ様はともかく、ピヴォワンヌ様の方はあまりあれこれと口出しや指摘をされない方がよい方向に進むかと思われます」
リシャールはクロードを振り返って「ふうん」と言った。
「そういうものか?」
「はい」
「なるほど……、お前がそう言うのならそうなのだろうな。考えてみよう」
リシャールはしばらくぼうっとしていたが、やがてクロードの胸のあたりをちらりと一瞥して言った。
「……しかしお前、無駄に立派な体つきをしておるな」
「は……、そうでしょうか。特に鍛えているわけでもないのですが」
何しろクロードは運動とも肉体労働とも無縁の男だ。宮廷ではデスクワークの方が圧倒的に多いし、私邸でも大して身体を動かすようなことはしていない。
魔導士なので極端な力仕事に携わることもなく、常に頭と魔力のみを使って仕事をしている。
ユーグやアベルのように護衛の仕事を兼任しているわけでもないので、彼らに比べれば軟弱な体つきをしているはずだ。
だが、リシャールはいたく感心した様子でつぶやいた。
「その筋肉の付き方は男の僕でも羨ましくなるほどだ。なるほど、それでは女たちは放っておくまい」
「そうでしょうか」
「ああ。ふむ……、やはり宮廷一の色男ともなると違うのだな。男のくせにそれだけの色香を放つとは……女たちが熱を上げるのも道理か……」
納得したように独り言ち、リシャールはざばざばと湯で顔を洗う。
「ふう……、温かくてよい心地だ。上がったらオイルマッサージも頼む。熱いミルクもだ」
「かしこまりました」
クロードは濡れたリシャールの髪を大判のタオルで拭いてやった。
短いのでクロードほど乾かすのに手間はかからない髪だが、猫毛なのでやや細く切れやすい。
毛を傷めないようとにかく優しく水気を拭き取っていると……。
「うむ、今日もなかなかにいい日だったな」
満ち足りた様子でにこりと笑い、リシャールはバスタブの縁にもたれる。
そしてうっとりと目を閉じた。
「明日もこんな一日になるとよい」
「そうですね。きっとおなりでしょう」
「明日は何をしようか……、散策、読書、美術品の鑑賞……。ああ、お前と久方ぶりにチェスで勝負というのも悪くないな」
クロードは軽いめまいを覚えてこめかみを押さえた。
「……陛下、チェスの勝負でしたら二日前にいたしました」
「む? そうか? ではすごろくにしよう」
「そういうことではなく……」
少年王の一日はこうして幕を閉じる。
愛する娘たち、そして頼りになる寵臣とに支えられながら……。
今回は冬の短編です。
合間にそれとなくクロバイがイチャコラしていたりしますが、一応主役はリシャールです(物語はクロード視点で語られていますが、彼はあくまでも語り手、影の部分です)
本編におけるリシャールのこれからをそれとなく示唆しつつ、合間にカップルのイチャイチャを入れ、大好きなお菓子の描写も入れて……という感じで、作者としてはまとまりがなくなりそうで不安だった回です。
なんとか形になってよかった&冬の間に投稿できてほっとしました。