第一章 子羊とお菓子の誘惑

 お待たせしました、新作です。
今回は前作にも登場した西の島国エピドートが舞台になっております。
暴力表現や同性愛表現、残酷な表現等は一切ありませんので、暇つぶしがてら気楽に読んでいただければ幸いです。

 それではごゆるりとお楽しみくださいませ。

 

 
 

 ――ブルーグレイの空の下、銀白色の霧が緩やかに立ち込める。

 ピスタサイトの街では一日の中でも朝の霧が一等濃い。

 早朝と黄昏時に立ち込める濃霧はこの国のちょっとした名物だ。

 ……ミルク色の靄の中から人影がゆっくりと現れ、そして入り組んだ路地の奥へと密やかに消えてゆく。
 その摩訶不思議な光景は、街中に林立する古城や大聖堂のシルエットと相まってどこか神秘的でミステリアスなムードを醸し出していた。
 
 
 巨大な時計塔のそびえ立つセナーテ地区の大通りを曲がり、百貨店のすぐそばにある路地へ入って最初の角を右へ曲がる。
 そこには質の良い飲食店が多いことで有名なオリヴァー小路がある。
  喫茶店のオーナーたちはこの通りに店を構えることを一つの夢として、日々商品の試作や改良に励む。
 ここに出店できるということは、飲食店の主にとって一種の誉れでもあるのだ。
 
 その時、一軒家デタッチドハウスのドアベルが鳴って、家の中から一人の青年が姿を現した。
 彼は――エドワード・アディンセルは、色とりどりのチョークが詰まった小箱を片手に大きな伸びをした。
 朝が弱い彼は、先ほど同居人の少女に叩き起こされて渋々ベッドを出たばかりだった。
 朝市へ向かうという彼女を見送り、二度寝しそうになる身体を叱咤しながらなんとか開店準備を整えた彼は、朝刊を取るため、そして店先に立てかけた黒板の文言を書き直すべく外に出たのだった。
 
 あくびをしながら、エドワードはおもむろにポストに手を突っ込む。中の朝刊を勢いよく引っ張り出すと、軽く紙面に目を走らせた。
「ふーん……、今度リーベ地区に新しいティールームができるのか。あそこ観光名所が多いから流行るだろうな。俺も勉強がてら食べに行ってみるか……」
 
 早朝の小路にはほとんど人通りもなく、辺りには深い霧と重厚な静寂のみが広がっている。
 朝刊とチョークの箱を手に、エドワードはそのまま家の裏手へ回り込んだ。
 一軒家のあるオリヴァー小路を抜け、アパルトマンやビルが密集している路地裏を通り抜けて大通りへと出る。
 そこには大きな環状水路があった。これは王都中心部にある噴水広場から繋がっているもので、ピスタサイト内を五つに縦断しながら街全域を取り囲むようにぐるりと設置されている。
 漆黒の手すりにもたれ、エドワードは朝陽にきらめく水路をゆったりと眺める。
 水上にはミルク色の霧がふわふわと立ち上っており、水路を挟んだ向こう側の大通りはかろうじて目視できる程度である。陽が高くなるにつれてしだいに晴れてくるのだが、エドワードは朝のこの光景をぼんやり眺めるのが好きだった。
 
 街中に張り巡らされた環状水路、その水面を行き交う観光用ボートの数々。入り組んだ路地の中に立ち並ぶ昔ながらの老舗の数々。
 朝は乳白色の霧、そして夜にはディムグレーの夜闇が、街全体を甘く優しく幻想的に包み込む……。
 いつ見ても美しい街だ、とエドワードは思う。
 大通りには朝の礼拝に向かう敬虔な信者たちの姿がちらほら見受けられ、その間を商人たちを乗せた幌馬車がゆく。
 中には揃って散策をしているらしい老夫婦の姿もある。
 その様を微笑んで見守りながら、エドワードはやおら大きな伸びをした。
 
 ……かつて、このエピドートという国は大陸における五つの列強――『五大国』の一つとして有名だった。
 だが、五大国同士の結束は女王の台頭や新たな小国の誕生などによってしだいに弱体化してゆき、今では年に数回国主同士が集まって会談を開く程度である。
 新興国が次々と国力を強めている今、エピドートにはもう昔ほどの勢いはない。
 しかし、長きにわたってもてはやされ続けた喫茶の文化は、今やこの国独自の産業として昇華されつつあった。
 
 ――七百年ほど前、「聡明王」ギルバートの時代。
 エピドートは茶葉の生産・輸出によって他の五大国に大きく差をつけた。ギルバート王は大陸南西の地に広大なプランテーションを作り、そこで栽培した良質な茶葉を貿易船に乗せて他国へと輸出させた。
 そればかりではない。彼は砂糖やカカオといった嗜好品の産出にも力を入れた。そしてそれを他の五大国との貿易に用い、交渉の主導権を握ることによって莫大な財を成した。
 紅茶、砂糖、そしてカカオ。
 これらは当時立派なステイタス・シンボルとしてもてはやされており、いずれも銀と同等、もしくはそれ以上の値打ちがあるとされていた。どれも一般庶民にはおいそれと手を出すことのできない贅沢品だったのだ。
 もともと上流階級の女たちが喫茶文化を強く推奨していたこともあり、その習慣は人々の間に緩やかに浸透していった。
 アーリーモーニングティー、ブレックファストティー、イレブンジズにファイブオクロックティー、ハイティーにナイトティー。
 これらの概念はやがてスフェーンやクラッセルといった他の大国にも広く認知されるようになり、王侯貴族たちの間でも「優雅な習慣」として絶賛されるようになってゆく。
 
 やがて、中産階級や労働者階級の人間たちも仕事の合間に意識的に喫茶の時間を持つようになる。最初は王侯貴族が独占していたものが、しだいに中産階級、そして民衆たちの間でも親しまれるようになったのだ。
 当時の影響で喫茶店などのティープレイス、そして喫茶店と酒場を融合させたカフェバーなどが次々と登場し、今や王都ではすっかりお馴染みの存在となっている。
 かつては「贅沢品」と呼ばれていた茶・コーヒー・砂糖・チョコレートも、数百年の時を経てようやく庶民の手に行き渡るようになったのである。
 
 小さな島国ならではの落ち着いた情景と、それらが醸し出すどこかゆったりとした空気。
 女王オクタヴィアによる堅固で厳格なまつりごとと、聖地ならではの由緒ある建築物の数々……。
 今やエピドートは「一度は行ってみたい憧れの国」として名高くなっていた。
 
 店に戻ったエドワードは、店先に立てかけた黒板にチョークでメニューを書き綴っていった。
 キュッキュッ、と硬い音がして、板の上に白い文字がくっきりと浮かび上がる。
「……よし。綺麗に書けたな」
 彼は満面の笑みを浮かべて黒板の表面を撫でる。
「さぁーて、今日もいっちょ頑張るか!」
 腕まくりをしたエドワードは、颯爽と店の中へ消えていった。
 
 

***

 
 朝のピスタサイトは人を鼓舞するような活気と賑やかな喧騒で沸き立っている。
 ブーティのヒールを石のタイルの上にこつこつと打ち付けながら、アンは重苦しいため息をついた。
 
 ……恋人と一緒になるために地方の田舎町からこのピスタサイトへ出てきて半年。
 まさか自分が振られることになるとは思ってもみなかった。
 恋人は他に女ができたから別れてほしいと言い、今朝方アンを残して家を出ていった。
 あれから何も食べる気になれず、おしゃれをする元気さえ湧かない。
 気づけば雇い主であるマダムに「今日はやすみます」と告げて、朝のセナーテ線に乗り込んでいた。
 
 路面電車トラムを降り、中央区でも一等賑やかなエリアに出たアンは、さながら初めてこの国にやってきた異邦人のようにとぼとぼと街中をさまよい歩いた。
 霧にけぶる大通りには食べ物を扱う露天商がいくつも店を出している。
 礼拝帰りの客を捕まえようとしているらしく、辺りにはスープや揚げ物を煮炊きする匂いがもうもうと立ち込めている。
 中には採れたての野菜や果実を販売している店もあり、商人たちが客を引く声と相まって街中はちょっとしたお祭り騒ぎのようになっていた。
 このセナーテ地区には教皇ベンジャミンのおわすヴァーテル教会本部がある。そのため、朝は礼拝のために聖堂へ急ぐ敬虔な信徒たちの群れで常に賑わっているのだ。
(どうしてこんなことになっちゃったんだろう)
 皮肉なことにアンは、恋人との決別によって今住んでいる家を失おうとしていた。
 家賃や光熱費といったもののほとんどを彼が負担していたのが仇になった。
 小さな洋装店で働くアンに、大した収入はない。まだ自分の仕事も任せてもらえず、今は縫い子としてマダムのもとで修行を続ける毎日だ。
 今月いっぱいは今の家にもぎりぎりいられるだろうが、滞納が続けばきっと追い出される。
 そうなったらもう地元へ戻るしかないが、半ば駆け落ちのような形で故郷を飛び出してしまった自分を、家族は果たして受け入れてくれるのだろうか――。
 
 だだっ広いピスタサイトの街をあてどなくさまよいながら、アンは二重の意味で途方に暮れた。
 あろうことか、恋人と住居を同時になくしかけている。
 けれど、むやみやたらに恋人の背に追いすがってみたところでどうにもならないのはよくわかっていた。
 彼には彼の人生がある。もうアンが介入できる部分はなくなった。あとはその新しい女とやらが彼の面倒を見てくれるだろう。自分にはもう関係ない。
 そう強がってみても、アンの中から彼の面影は消えてくれそうになかった。
 何せもう半年も一緒に暮らしていたのだ、そうそう忘れられるものではない。
(とりあえず、帰ったらあいつの私物を全部捨てよう……。そうしなきゃ辛すぎるもの)
 中途半端に置き去りにされたマグカップ、雑誌、歯ブラシ……。
 恋人本人にまとめて突き返すという手もあるにはあるが、何せ居場所がわからない。わざわざ電話をしてやる気はもとよりなかったし、新しい女と鉢合わせしても面倒くさい。
 アンは彼の私物をひとまずすべて部屋から出してしまおうと考えた。
(縁が切れた人の私物なんて処分していいはずよ)
 とはいえ、明日からはどうにかしてアパルトマンの家賃を稼がなくてはならない。
 自覚すると同時に恋人への後悔や恨み言がふつふつと沸き起こってきて、アンはしょげた。
 
「お腹空いたぁ……」
 はあ、と盛大な息をつき、アンは平らな腹に手を当てた。
 朝から大したものを口にしておらず、端的に言うと猛烈にお腹が空いている。
 肩に斜め掛けしたポシェットの紐を心細げに手繰り寄せ、アンはぽつりと言った。
「何か食べよう……。そうしなきゃいい考えなんて浮かばないわ」
 とにもかくにも、まずは腹ごしらえだ。色恋の話などそれからでいい。
 そう思い、アンはふらふらと大通りを曲がる。
 するとそこは小さな路地になっていた。
 まるで鰻の寝床のように細長く、両側にはパン屋ベーカリー菓子屋コンフェクショナリー、ジュースバーにフルーツパーラーといった食べ物の店がずらりと軒を連ねている。
 上を見上げると、アパルトマンの住民たちが空中に行き渡らせた洗濯ひもにシーツやリネンをぶら下げているのが見えた。淡い水色の空の下、抜けるように真っ白な洗濯物の色合いがなんとも目に眩しい。
 路地を進んでいくと、ふいに焼き立てのパンの匂いがふわふわと鼻腔をくすぐってきた。見上げれば、頭上でベーカリーの看板が春風にからからと揺れている。
「あ、この匂いはベーコン……? それにこれはバターとチーズね。なんておいしそうな匂いなのかしら」
 空腹が仇となり、どんな匂いを嗅いでもひどくおいしそうに感じてしまう。
 家を出る前にせめて何か一口食べておくんだった、とアンは後悔した。
(お腹が空いている時ってどうしてこう情けない気分になっちゃうのかしらね……)
 
 狭い路地を道なりにしばらく進み、最初の角を右に曲がると、パブやティールームが密集しているこじゃれたエリアに出る。
 ここはオリヴァー小路といい、セナーテ地区で今最も人気のあるスポットだ。この小路は質の良い名店揃いなのでこれまで何度も雑誌や本で取り上げられている。
 エピドートの民はもともと喫茶好きなことで有名だ。そのため、自然と街の喫茶店もグレードの高いものになってくるのである。
 
 この国で最初に紅茶を口にしたのは王室の女性たちだといわれている。彼らが茶を嗜むようになったのは、数代前の女王アビゲイルの生活習慣がきっかけだった。
 彼女は食後や執務中にりゅう伝来の茶道具を使ってお茶を飲むのを大変好み、紅茶好きが高じてとうとう城にティーテーブル付きの豪華な茶室まで設えさせた。そしてその部屋でしばしば親しい者たちを集めてのお茶会を催すようになる。
 すると、周囲の貴婦人たちはこれを「上品な習慣」だと羨ましがり、アビゲイルに倣って競うように茶道具やシルバーウェアをあつらえさせた。これが上流階級における喫茶文化の始まりだ。
 それからというもの、社交の場ではエールを飲んで酔いつぶれる紳士、彼らとは対照的に紅茶を飲みながら優雅にゴシップに花を咲かせる貴婦人……という対照的な構図がしばしば見受けられるようになる。
 実際に女性たちが街のティーハウスで紅茶を愉しめるようになるまでにはかなりの年月を要したが、今では立派な国民的飲料として普及している。エピドート本土では紅茶の葉など一枚も採れないにも関わらず、だ。
 
(ユニークな話よね。だって、実際に紅茶を生産しているのは他国の農園だっていうんだから)
 
 この国の人間たちはとにかく紅茶好きで、日々浴びるように消費する。その消費量たるや、全身を巡る血液がすべて紅茶でできているのではないかと疑ってしまうほどだ。
 そしてその手の紅茶愛好家から熱烈に支持されているのが街の喫茶店だった。
 こうしたティープレイスでは本格的なアフタヌーンティーを堪能できるほか、サンドウィッチやミートパイなどのちょっとした軽食も食べられる。
 質素ながらおいしいスイーツと、ゆったりとして居心地の良いコージーな空間。
 おしゃべりと甘いものが大好きな女性たちにとっては格好の歓談場所というわけだ。
 一方、紳士たちは新聞や雑誌を片手にクッキーやビスケットを頬張ったり、仲間内でダーツやカードといったゲームに興じたりする。賭博はもちろん禁止だが、ほんの少し悪ふざけをするくらいなら大抵の店主は大目に見てくれる。
 こういったところでは客の男たちがちょっとした内輪のコミュニティを形成しており、店のカウンターに数人で寄り集まって恋人や妻のつれない態度を嘆いていたりする。どうやら彼らにしてみれば喫茶店というのは「同志と語り合うために必要な場所」といった位置づけらしい。
 また、エピドート人の男性には甘党が多く、帰り際にミルクファッジやチョコレートケーキといった濃厚なスイーツをテイクアウトしていく男性も少なくない。 
 つまり、この国の喫茶店というのは男女どちらにとっても希少な憩いの場となっているのである。
 最近ではスフェーン流のティープレイスである「サロン・ド・テ」を模倣する店も増えてきて、飲食業というのはエピドートにおいて現在かなり勢いのある産業であるともいえた。
 
 中には「昼間は喫茶店だが夜はパブに変身する」、などといった二足の草鞋をやっている店もちらほら見受けられる。
 パブとはパブリック・ハウスの略称で、要するに酒場のことである。
 大衆酒場に近いくだけた店もあれば、瀟洒なバーカウンターを設けたスマートな雰囲気の店もあったりして、パブのスタイルは店主のこだわりによってさまざまだ。
 こうしたパブの開店時間は女王オクタヴィアによって定められた「飲酒規制法」
のために必ず夕方以降からと決められている。
 酒の販売も同様だ。日中もわずか二時間ほどしか販売できず、午後になると早々に売り場にネットをかけてしまう店も多い。
 しかし、今のところ大きな反動はないし、第一こうした法がなくなってしまったらこの国は呑兵衛だらけの無法地帯になってしまうだろうとアンは思っていた。
 
「さてと……何を食べようかな」
 大通りに出ている露店でフィッシュアンドチップスを買って食べるという手もあったのだが、できればスナックではなくもっとしっかりしたものが食べたかった。いくらなんでもさすがにスナックを朝食代わりにするというのは気が引ける。どうせならきちんと食べて元気を出したかったのだ。
 さてどの店に入ろうかと、アンはきょろきょろと辺りを見渡した。
 この小路にあるのはどれもこれも数代にわたって続いている名店ばかりだ。それほどまでにこのエピドートという国は伝統を重視するところなのだと気づかされる。
 
(……あれ?)
 アンはきょとんと首を傾げた。
 こんなところに、いつの間にか喫茶店ができている。
 シックなオリーブグリーンの外装に、店先に提げられた洒落たブラスの看板。レースのカーテンの隙間からはいかにも清潔そうな店内が見える。そして、店先には薔薇の植えられた小さな庭とテラス……。
 まるでドールハウスのように小ぢんまりとした可愛らしい店だ。
「……“ティールーム&バー 子羊亭”、かあ。初めて見るお店だけど、もしかしてできたばかりなのかな」
 この前までここはただの空き家だったはずだ。真新しい外装から察するに、どうやらオープンしたばかりの店らしい。
 店の前に立てかけられた黒板付きのメニューを見てみると、特にどうということはない内容のメニューが並んでいた。
 ベーコンと野菜を挟んだ焼きサンドウィッチ。生みたて卵のオムライス。
 そして「本日のドリンクメニュー」と称して、三種類のアレンジティーの名前が書かれている。
 しかし――何よりアンの目を引いたのはお菓子のメニューだった。
 店のショーケースにこれ見よがしに展示されたカラフルなお菓子の数々は嫌でもアンの食欲を刺激した。
 ……だって、とてもおいしそうだ。
 キャラメリゼされたピーカンナッツのタルト。オレンジレモンケーキにレモンメレンゲパイ。ガラスの器に愛らしく盛りつけられた、色鮮やかなベリーのトライフル。
 そして――。
(あっ! ジャムタルトがある!)
 アンは思わず食い入るようにしてガラスのショーケースを見た。
 花の形をしたタルトの中に、ルビーのように透き通る紅い苺のジャムがこんもりと敷き詰められている。
 タルト生地は綺麗なきつね色をしていて、歯を立てたらさっくりと軽快な音がしそうだった。
(うわぁ、どうしよう。完璧な出来栄えだわ!)
 何を隠そうアンはジャムタルトが大好物なのである。
 
 彼女はそこで肩にかけたポシェットをごそごそやった。
「うう、どうしよ……。お金、あんまりないけど……、一つだけなら食べられるかな……」
 財布の中を指で探ってみたが、小銭ばかりで大した金額は入っていなかった。
 紙幣が一枚だけあるものの、帰りの電車賃も残しておかなければならないし、日用品や食材の買い出しなどもある。高価なスイーツをたくさん食べたくとも、どのみちあまり大した贅沢はできないだろうと思った。
 ふと指先が一枚のユークレース金貨に触れた。
「あ、この前マダムがくれた金貨だわ……」
 取り上げてまじまじと眺める。
 それは朝の薄ぼんやりとした陽光に照らされて柔らかな輝きを放った。
 
 あの日、マダムは店のプライベートルームにアンを呼び出し、彼女が手掛けた衣服の縫製の丁寧さを褒めてくれた。
『アン。貴女は筋がいいから、きっとうちでも稼ぎ頭になれるわ。仕事も丁寧だから安心感があるし、もう私に教えられることはないようね』
『ほ、本当ですかっ……!?』
『まあ。嘘を言ってどうするの。貴女にその気があるなら、いずれは私の後任をさせてもいいと思っているくらいよ。貴女のデザイン、私大好きだもの。だから、どうかこれからも私のところで働いてね、アン』
 そう言って、年老いたマダムは素晴らしい仕事ぶりの対価にと、この金貨をそっとアンの手に握らせたのだった。
 長い間使わずに大事に大事にしまい込んできた、一枚のユークレース金貨――。
 もしやこれはマダムの導きだろうか?
 傷心の時くらいちゃんと食べなさい。おいしいものでも食べて、早く私のところで働けるだけの英気を養ってちょうだい。
 まるでそう言われているようだった。
 
 悩んだ末、アンは店に入ってみることにした。
 扉を開けて中に入った途端、小柄な金髪の少女が出迎えてくれる。
「いらっしゃいませー! 子羊亭へようこそっ! おひとり様ですか?」
 元気のいい応対に気圧され、アンはついしどろもどろになる。
「あ、は、はい……」
「では、あちらの窓側のお席などいかがでしょう?」
「……じゃあ、そこで」
 少女に導かれるまま細い廊下を進んだアンは、彼女に促されて窓際のテーブルに腰を下ろした。
 中庭にあるコンサヴァトリーが一望できる眺めのいい場所だ。
 こうして落ち着いて眺めてみると、思いのほか居心地のいい喫茶店だということがわかる。
 店内は静かで、天井が高いわりには音の響き方もうるさくない。
 何より従業員の働きぶりが見事だ。
 ウェイトレスの少女は小柄ながら一生懸命働いているし、キッチンには黒髪と赤毛、容姿の異なる背の高い二人の男性がいて、どちらも余計なおしゃべりなどせずに黙々と手を動かしている。
 ニスを塗って艶を出したテーブルには、小さなすみれを挿した花瓶がちょこんと置かれている。
 手書きのメニューに綺麗なレース編みのテーブルクロス。見るからにヴィンテージとわかる、使い込まれて古びた風合いが美しい樫材のテーブルセット。スピーカーから流れてくるのは、女性シンガーの歌う小粋なジャズ……。
 中庭に設えられたコンサヴァトリーでは沈丁花のつぼみがほころび始めており、時折そよ風に乗って甘い芳香が運ばれてくる。
(……なんだか落ち着くお店だなぁ)
 頬を優しく撫でる春風に、小ぢんまりとして居心地のいい店の空気。
 挽きたてのコーヒー豆の匂いやナポリタンスパゲティーのソースの匂い。フライパンで具材を炒めるじゅうじゅうという音に、周囲のテーブルから聞こえてくる楽しそうな笑い声……。
(どうしてだろう、この雰囲気、すごくほっとするわ……)
 
 やがて、件のウェイトレスの少女がお冷とおしぼり、メニューを運んできてくれる。
「お待たせしました、こちら、メニューになりまぁす!」
 少女から受け取ったメニューをしげしげと眺め、アンはヘーゼルブラウンの瞳を輝かせる。
「うわぁ……、どれもおいしそうだわ!」
 キューカンバーサンドウィッチにチーズスコーン。アボカドとベーコンのサンドウィッチに、トマトとモツァレラチーズを乗せたミニサンド。ポテトパンケーキにミートパイ。
 食事代わりに食べられそうな軽食のメニューが豊富にあって、アンの視線がふらふらとメニューの上をさまよう。
 お目当てはもちろんジャムタルトだが、その前にどれか一つ食べておくのもいいかもしれない。
(うう……どうしよ。食事のメニューもすっごく魅力的で迷っちゃうなぁ……)
 迷いに迷った末、アンはガラスの呼び鈴を鳴らしてウェイトレスの少女を呼び出した。
「お決まりですか?」
「あ、ええと……スパイシーチキンサンドをセットで」
「デザートとお飲み物は何にされますか?」
「いちごのジャムタルトとアレンジティーにしてください」
「えっと、アレンジティーはこの三種類の中からお選びいただけるんですけど、どちらにいたしましょう?」
 アンは差し出されたメニューを見て思わず唸る。
 ……あんずとミントのスパークリングティー、ハマナスとこんぺいとうを飾ったローズティー、三種のベリーとバニラアイスクリームを使ったミルクティー。
 三枚の写真を順繰りに見比べたのち、アンはベリーのミルクティーの写真を指差して言った。
「じゃ、じゃあ、このベリーとバニラアイスので」
「かしこまりましたぁ!」
 少しだけ間延びした口調が可愛らしく、アンはついくすっと笑ってしまう。
 少女は会釈をすると、銀色に光るトレーを片手にとことこと戻っていった。
 
 オーダーを終えたアンは再び金髪の少女を見た。
 少女は店内をまるでこまねずみのようにくるくると――そして軽やかに動き回っている。
 馴染みらしい男性客からは親しみを込めた軽口を叩かれ、初老の女性たちからはまるで孫のように可愛がられている。
 彼女が屈託のない笑顔でそれに応えるたび、ポニーテールにした長い金の髪が弾むように揺れた。
 
(なるほど……。いくつなのかは知らないけど、あの子に接客をさせるのはいい判断だわ)
 
 見たところ随分と若いようだった。まだ十代の初めだろう。
 最初は学業の合間を縫って小遣い稼ぎをするサタデーガールズかと思った。だが、それにしては少々若すぎるから、案外店主の身内か何かかもしれない。
 
 それにしても可愛い子だと、アンはしばし彼女に見とれた。
 頭頂部で一つにくくられ、背に向かって滝のように流れるウェーブがかった黄金こがね色の髪。ぱっちりとしたペリドットグリーンの瞳に、桜色の小さな唇。
 顔つきはややおませな感じがして、時折客に向かって悪戯っぽい表情をしてみせるのがたまらなくコケティッシュだった。
 アンはついごくりと喉を鳴らす。
 あと十年もしたら男たちが絶対に放ってはおかないだろうと思わせるような、大層な美少女だ。
 表情もしぐさもきわめて無垢イノセントなのに、どこか小悪魔的で目が離せない。
 いや、無垢だからこそ、眠っている魔性がさらに際立って見えるのかもしれない。
 あの天真爛漫な笑みで迫られれば、男たちはきっといちころだろう。
 
 とはいえ、少女自身は特に華美な恰好をしているわけではなかった。
 清潔なオフホワイトのブラウスに赤いベストを重ね着し、下は水色のミニスカートにくるみボタンを使った焦げ茶色のブーツという出で立ちだ。
 上からレースのあしらわれた純白のエプロンをつけ、手には金ボタンで留めるタイプの小ぶりのカフス。
 ブラウスの襟元には赤いストライプの走るピンク色のリボンタイを粋に結んでいる。
 彼女の纏う服の縫製がとても上質であることは、洋装店で働くアンには容易に判別できた。
 これは単なるローティーンのお洒落とは違う、きちんとした服を見る目を持った「誰か」が選んでくれたものだと。
 
(あーあ……。私も、これくらい可愛かったら悩まずに済んだのかな)
 
 そこで彼女は、幾分残念そうに自身の髪をつまんだ。
 いつもひっつめにしているヘーゼルブラウンの髪。鼻と頬には薄茶のそばかすが点々と散り、唇はやたら厚みがあるせいでここだけ変に悪目立ちしている。
 アンの髪はあんなに綺麗な金髪ではないし、色合いだって地味でくすんでいる。瞳にも彼女ほどいきいきとした光は宿っていない。髪と同じヘーゼルブラウンの双眸は、今日はきっといつも以上に澱んでしまっていることだろう。
 自分もあれくらい可愛らしくて愛嬌があったなら……。
(って、人と比べてもしょうがないわよね……)
 アンは苦笑いし、テーブルの上のすみれを指でつついた。
 
 
 
 スパイシーチキンサンドは胡椒とカレー粉がぴりりと効いていてとてもおいしかった。
 上には綺麗なペールグリーンのライムがちょこんと乗せられており、果汁をかけて食べてみたら意外とよく合ってびっくりした。
 やがて、温かい湯気を上げる紅茶とともに食後のデザートが運ばれてくる。
 少女の手によって供された紅茶とジャムタルトを前に、アンはごくっと喉を鳴らした。
(おいしそう)
 ジャムタルトはこのエピドートでは『女の子が初めてこしらえるお菓子』として名高く、花形にくりぬかれたタルト生地、その中に流し込まれたストロベリージャム……と、いかにも可愛らしく親しみやすい見た目をしている。
 また、タルト生地にジャムを詰めて焼くだけと、作るのも非常に簡単だ。
 ……しかし。
 こうした喫茶店のジャムタルトには料理人の腕前が顕著に現れる。
 生地の焼き具合はどうか、ジャムの味や質にはこだわっているか。
 最も重要なのはやはりジャムだ。
 タルト生地に合わせて手作りしたものであれば一番おいしいけれど、店によっては生地とのハーモニーも考えずにただ甘ったるいだけの既製品を使っているところもある。
 そうした店に当たるたび、アンはほんのり悲しくなる。
 ジャムタルトは、作りがシンプルなだけにジャムのおいしさが何より大切だ。ここを手作りするに越したことはないというのに……。
 
 ピンクのチューリップ模様が可憐なお皿の上には、小ぶりな三つのジャムタルトが行儀よく並んでいる。
 そのうちの一つを、アンは手でつまんで口に運んだ。
 ひとかじりした途端、そのおもてには隠しきれない喜びが広がる。
「……!」
 さくさくの軽い食感の後に訪れる、苺ジャムの爽やかな甘酸っぱさがたまらない。
 あえて酸味を強くしたジャムは、しつこさを感じないすっきりとした後味が素晴らしかった。野性的とでも言おうか、いかにも元気が出そうな豊かでパワフルな味がする。
 タルト生地は砂糖を控えめに作ってあって、やや塩気が効いている。そしてそれがまた中のジャムと実によく合うのだ。
 一度タルト生地だけ別にから焼きしてあるようで、咀嚼するとざくざくと軽快な歯ごたえがしてなんとも香ばしい。水分量の多いジャムを詰めているにもかかわらず、けして歯ごたえを失わないこの焼き加減はもはや秀逸としか言いようがない。
 素朴なタルト生地と苺の風味を生かしたジャム、異なる二つのハーモニーが絶品だ。
(なんで? 何の変哲もない普通のジャムタルトだと思っていたのに、なんとも言えず後を引くおいしさだわ……!)
 プレザーブスタイルのジャムは恐らく店主の手作りなのだろう。果肉の大きさにはばらつきがあるが、ただ甘ったるいだけの既製品などよりよほどおいしい。ジャムだけ買って帰りたいくらいだ。
 冷たいアイスクリームの浮かんだ温かなベリーの紅茶をお供に、アンはジャムタルトを次々と平らげる。
 そうしてとうとう最後の一つを食べ終えた時、ふいに脳裏にある日の恋人とのワンシーンが浮かび上がった。
 
 
 ……アンと恋人が付き合い始めてしばらく経ち、二人きりで愉しむデートというものにも少しずつ慣れてきた頃。
 彼はアンを食事に連れ出した。
 そこはエステル通りにある老舗で、ピスタサイトにあるティールームの中でも一等格式が高いことで有名なところだった。
 店の中でもやや奥まった席に案内され、アンは恋人と向かい合って食事をした。
 豪奢なシャンデリアと随所に置かれた飴色の間接照明がどことなく大人っぽい印象を醸し出しており、ただの喫茶デートであるにも関わらずアンはほんのり緊張してしまった。
 ネイビーのワンピースの上に真っ白なナフキンをふわりと広げた時、周囲の視線も相まってぴりりと背筋が伸びたことを覚えている。
 老舗というだけあって、店の食事は思わず唸ってしまうほど美味だった。
 何せクラブハウスサンド一つとってもベーコンが肉厚でひどくジューシーなのだ。
 びっくりするほど値段が高くて、会計の時に飛び上がりそうになったのもまた事実だけれど。
 
 あの時、恋人は喜色満面のアンに、自分の分のジャムタルトを差し出した。
 やるよ。好きなんだろ。
 それはジャムタルトと呼ぶには甘みも装飾も過剰すぎて、おいそれと評価を下すことのできないような代物だった。
 砂糖の薔薇とアラザンで綺麗にデコレーションされたそれを、けれどもアンは意気揚々と平らげていった。
 彼が自分の分を分けてくれたことが嬉しかったのだ。
 それは、恋人からの好意をそっくりそのまま身体に取り込むような幸福だった。
 差し向かいに腰かけた彼は絶えずアンの様子を見守っており、時折満足げに微笑した。
 ……すごい。可愛いし、おいしい。
 はは。うまそうに食うなあ、お前。
 彼はそう言って、まるでいとけない雛鳥でも見つめるようにアンを見た……。
 
 
 こみ上げる寂寞に、喉が詰まる。
 慌てて甘い紅茶を口に含んだものの、時すでに遅し。
「う……」
 アンは背を丸めて静かに嗚咽を漏らした。
(どうして? あの時のジャムタルトとは何もかも違うのに――)
「うう……、っく……、ふ……!」
 顔を覆ってさめざめと泣き出してしまったアンに、周囲のテーブルがざわざわとざわめく。
 ……ああ、これでは本当にいい見世物だ。
 どうにかして涙を止めなければ……、しかし、涙というのは一体どうやって止めるものだっただろう?
 急いで泣き止もうとすればするほどうまくいかない。むしろますます涙が溢れてくる。
 まるでこれまで溜め込んできた不安や焦燥が堰を切って溢れてしまったかのように、アンは大声で泣きわめき続けた。
 
 ホールの異変に気づいたらしく、どよめきに満ちた店の中をあのウェイトレスの少女がちょこまかと駆けてくる。
「! ど、どうしました、お客さまっ。何か不都合でも――」
 少女はおたおたとアンを慰めようとした。
 なんとか「大丈夫」と答えてやりたかったが、生憎うまく言葉が出てこない。
 金の髪の少女は慌てふためきながらもアンの背中をゆっくりと撫でてくれた。
 ……ああ、本当にいい子だ。こんな女の子なら、きっと誰からも愛されるに違いない……。
 私だってできることならこんな風になりたかった、と思ったとたん、またしてもアンの瞳から大粒の涙がこぼれた。
 
 ……するとその時、ホールの奥から一人の青年が颯爽と姿を現した。
「――なんだ、どうしたんだ、マッジ」
「エド、大変ー。お客さんがいきなり泣き出しちゃって……」
 ただならぬ事態だと判断したらしい。この店の店主らしき彼はすぐさま駆け寄ってきて、アンの足元に跪いた。
「いかがされましたか、お客様? 当店のメニューに何か問題でも……?」
 アンはふるふるとかぶりを振った。何度も何度も、青年の言葉を否定するように。
「ちがうんです……、ちがう……」
 アンはやっとの思いで声を絞り出した。
「ひっく……、わ、私、さっき恋人に振られたんです……!」
「……は?」
 青年が呆けてしまうのも無理はない。
 アンは今、出会ったばかりの青年の前で自らの恥を暴露したのだ。
 が、一度しゃべりだすとなかなか止まらないせいもあって、アンは勢いのまままくし立ててしまう。
「彼が今朝、私を置いて、出ていってしまって……。もう、どうしたらいいのかわからないんです。行く当てもないし、アパルトマンの家賃だって私一人じゃ払いきれない。来月にはもう今いるところを追い出されているかもしれなくて……!」
「ちょ……待て待て、なんで俺に言うんだ。相談できる友達とか他にいるんだろ?」
 店主としての態度を幾分崩し、青年はおたおたと問いかける。
「……ごめんなさい、いません。私、つい最近地方から出てきたばかりなんです。友達はみんな地元に残っているから、すぐには連絡が取れなくて……」
「そうか……。なるほど……。それは、心細いだろうな」
 思っていたより面倒見のいい性格らしく、青年はもっともらしくうなずいた。
 懐からグレンチェックのハンカチーフを取り出すと、彼はアンの手にそっと握らせた。アンはぺこりとお辞儀をしてそれを受け取る。
 小さくしゃくり上げながら、アンは胸の裡のわだかまりをぽつぽつと吐露した。
「別に、あなたのお菓子に何か問題があったわけじゃないんです。ただ、ジャムタルトがきっかけで彼のことを思い出してしまって。変ですよね、だってあの時彼と食べたのジャムタルトとは何もかも違うのに。でも、どういうわけかとても苦しくなってしまって……」
「まあ、ジャムタルトが引き金になっちまったってところだろうな。それほどまでにあんたにとっては思い入れのある食べ物だってことだろう」
(……悔しいけど、当たりだわ)
 恋人とジャムタルトをシェアしてからというもの、アンはそれまで以上にジャムタルトが好きになった。
 彼もまた「アンといえばジャムタルトだよな」といって、食後のデザートには毎回ジャムタルトをつけてくれた。
 ジャムタルト、そして恋人との思い出は、それくらい自分の日常に染みついてしまっていたのだ……。
「……で、うまかったか?」
 店主の問いかけに、アンは迷うことなく首を横に振る。
「……はい。すごく、おいしかったです。タルト生地はさくさくして香ばしいし、ジャムはいかにも元気が出そうな力強い味で、こんなにおいしいジャムタルト、久しぶりでした」
「そうか。この店もまだ始めたばっかりだけど、あんたみたいな客に褒められるのは嬉しいな。俺としては励みになるよ」
 青年はアンを見上げ、励ますように小さく微笑む。
「大丈夫……、食べ物の味がうまいと思えるのはいいことだ。きっとあんたには戦うだけの気力がまだ残ってるんだろう」
「そうかしら……」
「ああ。本当に打ちひしがれた人間ってのはな、うまい飯を目の前に差し出されてもすぐにはその味がわからないもんなんだ。心がすっかり摩耗しちまって、食事をゆっくり味わう気力なんかもう残ってない……、そんなもんなんだよ」
 
 確かにそうかもしれない。
 絶望の淵まで追いつめられた人間に、食べ物の味の良しあしなどわからないだろう。
 一時の空腹をしのげるなら口に入れるものなんて何でもいいと思うだろうし、じっくり腰を据えて一つの料理を味わうだけの精神的余裕もないはずだ。
 つまり、少なくともアンは恋愛に根こそぎ力を奪いつくされたわけではないということだ。そしてそれは手に職のある彼女にとっては重要なことだった。
 
 アンはそこでゆっくりと息を吐き出した。
 失恋の傷がこの程度で済んだのは自分にとってはむしろ幸いなことだったのだ……。
 
 店主はおもむろに立ち上がると、安堵させるような柔らかい笑みを浮かべてアンの肩を叩いた。
「あんたは俺のジャムタルトをうまいと言った。食への関心が残ってるなら大丈夫だ。それだけの胆力があれば辛い失恋もすぐに乗り越えていけるさ」
 そこで彼は大仰に肩をそびやかす。
「……って言うとなんだかこじつけみたいに聞こえちまうかもしれないけどな」
「ふふ……!」
「しかし、ただ別れただけでそこまで惜しまれる男っていうのも大したもんだ。あんたの恋人とやらは、きっとものすごく魅力的なやつだったんだろうな」
「……はい。とても、いい人でした」
 即答するアンに、店主の青年はなぜか満足げに微笑する。そしてエメラルドグリーンの瞳を悪戯っぽく細めて「ふうん」とつぶやいた。
 
「で? あんた、これからどうするつもりなんだ?」
 青年に訊かれ、アンは借りたハンカチで涙を拭きつつ答える。
「……いえ、その。このままこの街でお針子の仕事を続けようと思います。今の私には、それしかないから」
「へえ。あんた、お針子やってるのか」
「はい。今はエステル通りにある洋装店で働いているんです。ゆくゆくはデザイン部門に昇格させてもらえるかもしれないから、今が大事な時っていうか……」
 すると彼は揶揄するように口角を持ち上げる。
「ふーん、なるほど。それじゃあなおのこと別れた男の背中を追っかけてるヒマなんざないだろうな」
「そ、そういうわけじゃ……! か、からかうのはやめてくださいっ!」
 するとそこで、ずっと二人のやり取りを見守っていた金髪の少女がくすくす笑い出す。
 ああ、馬鹿にされてしまったのだ。しかも、自分よりも遥かに年下の女の子に……。
 そう思ったアンだったが――。
「うふふ、お姉さんって前向きで素敵な女性ひとね。笑顔もすっごく可愛いし!」
 可憐な美少女からの思いがけない賛辞に、アンはきょとんとしながら問い返す。
「そう、かな……?」
「ええ。あたしはお姉さんみたいな生き方をしてる人が好きよ。不器用で、人間臭くて」
「えっと……それ、褒めてくれてるの?」
「もっちろん! 不器用な人ってね、誰よりも人間らしい人のことだと思うの。試行錯誤して、足掻いてもがいて。人間ってそうやって生きていくものでしょう? 決められた道の上をただ辿るだけなんてつまんないわ。あたしはそうやって色々なやり方を模索してるお姉さんが好きよ。だって不屈のファイターみたいでかっこいいもの!」
「不屈のファイター」という表現があまりにもおかしくて、アンはついぷっと噴き出してしまう。すると、少女はアンの鼻先を人差し指でつついてにこっと笑った。
「そうそう、その顔! お姉さんは笑った方が美人だわ。ぶすっとした顔で腐ってるのなんて簡単だけど、それじゃ舞い込むはずの幸せだって一目散に逃げていくわよ。それならいつもにこにこしてた方が賢いってものじゃない?」
「ふふ……。そうね、そうかも」
 にぱっと人懐こく笑ったのち、少女はアンの手をしっかりと握って言った。
「お姉さん、頑張ってね。お姉さんの新しい道はまだ始まったばかりだけど、あたし、全力で応援してる! そんなしょうもない元彼のことなんかぎゃふんと言わせちゃってよね!」
 アンはその言葉にくすっと笑った。
「……ええ。また前を向いて頑張るわ。ありがとう、可愛いウェイトレスさん」
 
 そこでキッチンから赤毛の青年が籐の籠を持って現れる。
「――お嬢さん。よろしければこちら、私からのサービスです」
 籠の中には純白のクロスが敷かれ、大人のこぶしほどの大きさのスコーンが五つばかり収められていた。
「当店特製のスコーンです。気に入っていただけましたら、次回ご来店の際にぜひ」
「ああっ、いいなぁ。ネイサンのスコーン……」
 少女は人差し指を咥えてうらやましそうに言う。すると、赤毛の青年は彼女の頭をぽんぽんと撫でながら穏やかに言った。
「ちゃあんとマッジの分も用意してありますよ。午後のお仕事が退けたらおやつに食べてくださいね」
「わあい!」
「あの……なんだかすみません。ここまでしていただいて……」
 恐縮して言うと、赤毛の料理人は眼鏡の奥の瞳を細めて柔らかく笑う。
「いいえ。楽しそうに笑っている貴女はとても魅力的でしたよ、レディ。お針子のお仕事、ぜひこれからも頑張ってくださいね」
「はい!」
 
 
 店主と少女はあろうことか店の出入口まで見送ってくれた。
「気を付けて帰れよ」
「はい」
 素直にうなずき、外へ通じるドアノブに手をかける。
 アンはそこでくるりと振り返って言った。
「……あなたは私に胆力があるって言ってくれたけど、やっぱり私がすごいんじゃなくてあなたのお料理が素晴らしいんだと思います。だって私、さっきまで本当に落ち込んでいたんですよ? そんな人間をここまで元気にしてしまえるんだから、やっぱりすごいのは私じゃなくてあなた……いいえ、あなたたちだと思うわ」
 店主は軽く目を見張り、次いでふっと笑った。
「……サンキュ。よかったらまた食べに来てくれよな」
「はい! 絶対に、また来ます!」
 そこで少女がポニーテールを揺らしてぺこりと頭を下げる。
「えへへ、ありがとうございましたっ! またのご来店、お待ちしておりまぁす!」
 
 カランカラン、と金属のドアベルが歌う。
 アンは二人に見送られながら子羊亭を後にした。
 
 
 スコーンの詰まった籠を揺らしながら、アンは先ほどよりも幾分晴れやかな気持ちで小路を歩く。
 あんなにも濃かった朝の霧はすっかり晴れており、辺りには清々しい空気が広がっている。
 ――頭上を見上げれば、のどかなセルリアンブルーの空。
 ……そうだ、こんないい天気の日にしょぼくれているのなんか、私らしくない。
 籐の籠をぎゅっと抱きしめ、アンは身体中に染み渡るぬくもりに大きな深呼吸をした。
 胸の奥底、新たな情熱の灯火がふっと湧き起こる。
(前を向かなきゃ。私を雇ってくれているマダムのために……、そして自分自身のためにも)
 
 かっこいい店主さん。
 あなたが話を聞いてくれたおかげで、私はなんとかまた前を向けそうよ。
 
 可愛いウェイトレスさん。
 私は逆立ちしたって貴女みたいにはなれないけど、その太陽みたいな明るさに今日はとても救われたわ。
 
 赤毛の料理人さん。私は別に”貴婦人レディ”なんて柄じゃないのよ。
 だけど、あなたのその温かい気遣いはとても嬉しかったわ。
 
 石畳の鳴る音に合わせ、アンは胸の裡でぽつぽつとつぶやく。
 ヒールで石のタイルをこつこつとノックしながら、彼女はまるで踊るように軽やかな足取りでオリヴァー小路を出た。
 そこでふと背後を振り返ったアンは、籠の柄を握りしめてわずかに微笑む。
 
 ……また来よう。
 そして、今度はもっと色々な話をしよう。
 
 まるで不思議の国へ通じる入口のような路地を抜け、アンは「現実の世界」へ戻るべく路面電車に乗り込んだ。
 
 

***

 
 
「マーガレット、これ、三番テーブルな」
「はーい」
 生みたて卵のオムライスをトレーに乗せ、金の髪の少女――マーガレットはいそいそとホールへ向かう。
 客としばらく他愛のない世間話に興じ、テーブルの上のグラスにお冷のお代わりを継ぎ足したあと、彼女は水色のフレアスカートの裾を軽やかに翻してキッチンへと戻った。
「それにしても、今日は朝からびっくりしちゃったわね。クレーマーじゃなかったから問題なしだけど」
「そうですねえ。とはいえ、妙齢の御婦人には日々悩みや葛藤が付きまとうものです。女性というのは我々男に比べてとても繊細にできていますから、突然情緒不安定になってしまうのも致し方ないことかもしれませんねえ」
「やだぁ、ネイサンったら。そんな言い方してるとなんだかまるでおじいちゃんみたい」
「ふふ、そうですか? ですが、ひとまずお客様に元気になっていただけたようで何よりです。やっぱりエドの接客は素晴らしいですねえ」
「そうよねえ。これがあたしやネイサンだったら、ただおたおたするばっかできっと何にも解決してあげられなかったもんね。エドは如才ないうえに行動力まであって、本当にすごいわ」
 自分の話で勝手に盛り上がっている二人に、エドワードはやれやれと肩をすくめた。
「おいおい、褒めても何も出ないぞ。あ、けど、そこにある失敗作のショートブレッドは食べてもいい。このまま廃棄処分にするのはもったいないからな」
「わーい! ちょっとだけつまんじゃお~!」
 すかさずテーブルの上のショートブレッドを口に放り込むマーガレットに、男二人は小さく苦笑する。
 口をもごもごさせたままホールに出られるのは困るが、午前の客もだいぶ退けてきたから特に問題ないだろう。
 
「……けど、あのお客は近い将来大物になりそうだな」
「えっ? なんでなんで?」
 流しに立って食器を洗っていたエドワードは、マーガレットの問いかけにどうということはないとでもいうようにあっさり答えた。
「だってあのお客、最後まで一度も恋人の悪口を言わなかっただろ」
「あ……っ!」
「普通は第三者に元交際相手の愚痴やら欠点やらを言いふらすもんなんだよ。全然愛してくれなかったとか、もっとこうしてほしかったとか。俺達みたいな赤の他人なんか絶好の餌食だろうさ。だって、自分たちに縁もゆかりもないただの店員でしかないんだからな」
「なるほど……」
 うなずくネイサンに、エドワードはたたみかける。
「けど、あのアンって女、一度もそういう発言をしなかっただろ。振られたのは今朝で、まともな女なら誰かに縋りつきたくてたまらなくなってる頃だ。でも、あいつはただの一度も恋人のせいにはしなかった。それにあいつ、最後に言っただろ……、『いい人だった』って」
 金彩模様のティーカップを丁寧にゆすぎながら、エドワードはほのかに笑う。
「ま、一度でも好きになった相手の悪口を言わないってのはいいことだと思うぜ。きっとあいつにはそういう障害すら乗り越えていけるだけの底力があるんだろうな。そういう意味では今後大いに期待できると思う」
「そうね。案外数年後に街でも有名な大物のお針子になってたりして。ふふ、これは楽しみね!」
「はい。また来てくれるといいですねえ」
 食器をすべて洗い終えたエドワードは、濡れた手をタオルで拭き拭きつまらなさそうにぼやく。
「しっかし、どういうわけか客から人生相談されることが多いんだよなー……。俺は単なる店主オーナーであってカウンセラーじゃないんだけどなぁ……」
「きっとあなたにならわかってもらえる気がするのでしょう。だから皆さん足しげくこの店に通ってきてくださるのだと思いますよ」
「そんなことより料理の味を褒められる方がいい」
「いえいえ、店主の人柄も大切です。ねえ、マッジ?」
「そうよ! 人柄があったかいって思われるのは何よりじゃない! だから、これからも今のままのエドワードでいてよね」
「今のまま、かよ。めんどくせえなぁ……」
 貴族の嫡男らしからぬしぐさで、エドワードは前髪をくしゃくしゃとかきやる。
 しかし、その赤い頬や緩んだ口元などから彼がまんざらでもないと思っているのは明らかだった。
「それにしても、エドのお菓子ってやっぱりすごいわ!」
「そうか?」
「そうよ! 落ち込んでる人を慰めて、勇気づけてあげられるお菓子。そういうのって偉大だと思うの」
「人間誰しもうまいもんを食ったら笑顔になるのは当然のことだ。あえて言わせてもらうなら、俺はただその手助けをしているに過ぎない」
「ううん、エドのお菓子にはエドの人柄や性格が出てると思うわ。だってあたし、エドの作ったお料理やお菓子を食べると、とっても幸せな気持ちになれるもの」
「はは。……ありがとな、マッジ」
 エドワードはまるで妹にでもするようにマーガレットの小さな頭を撫でる。
 すると、マーガレットはいかにも嬉しそうにふにゃりと笑み崩れた。
 
 その時、店の入り口から「エドワード~、いる~?」とやや間延びした老女の声が聞こえてくる。
「この間のレモンメレンゲパイ、今日はあるかしらぁ~。私あれが今どうしても食べたい気分なのだけどぉ~」
「……っとと、いけね、バーナム夫人だ。マッジ、接客!」
「いえっさー!」
 
 マーガレットはキッチンを抜けて元気よくホールへ向かう。
 そして、花がほころぶような笑みを客に向けた。
「――いらっしゃいませ! 何名様でしょう!」
 
 

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