「やあ、いらっしゃい」
……風薫る五月の週末。
ピスタサイト郊外にあるリットン邸に招かれたマーガレットは、革のトランクを手にランドルフと対面した。
ランドルフは柔らかな赤チェックのネルシャツにオリーブグリーンのテーパードパンツと、この間「子羊亭」に来た時より遥かにラフな恰好をしている。
この間のスーツ姿もきりりとしてかっこよかったが、今日の格好はそこに年相応の爽やかさがプラスされていてとても感じがよかった。
「道には迷わなかっただろうか?」
「うん、大丈夫。それよりお城みたいな建物でびっくりしちゃった」
リットン邸の前庭には巨大な馬車径と並木道があり、しかも正門から玄関ホールまでは相当な距離があった。一本道なので迷いはしなかったものの、邸宅のあまりの規模に圧倒され、マーガレットは言葉が出なくなってしまった。
しかも驚くべきことには、玄関ホールから執事が出てきて「ただいまご案内いたします、お客様」などという。
生きていた頃には絶対にできない経験なだけに腰を抜かしてしまった。
ランドルフはマーガレットのトランクを取り上げながらくすりと笑う。
「城とはまた大げさだな」
「だってこんなにすごいお邸を見るの生まれて初めてなんだもん」
「ほう……そうなのか。いや、そんなことを言われると嬉しいな。今日の君はリットン家の大事な客人だ、どうぞゆっくりしていってくれ」
邸内に招じ入れられたマーガレットは、とことこと彼の後をついていった。
生まれつきレディファーストが身についているのか、ランドルフはさも当然であるかのようにマーガレットの荷物を持ってくれている。気恥ずかしい反面、まるで頼りがいのある兄に甲斐甲斐しく面倒を見てもらっているようで嬉しくもある。
(あたしでもついこんなことを考えちゃうくらいだもん、妹さんはもっと心強いだろうなぁ)
きっと妹であるベアトリクスにはもっとまめに世話を焼いてやるのだろう。
彼女は病弱な質だというから、通院に付き添ったり、あるいはつきっきりで具合を見てやることもあるのかもしれない。
ランドルフの広い背中に父性愛めいたものを感じ、マーガレットはなんとも微笑ましい気持ちになった。
「こちらだ」
「はあい」
客間へ通じる道を、彼に案内されながらゆったりと歩く。足元には毛足の長い真紅の絨毯が敷かれ、靴音がほとんどしないようになっていた。
長大な廊下にはところどころに高価そうな花台が置かれ、それぞれに切り花を活けた花瓶や観葉植物の鉢植えが飾られている。
空間を仕切るカーテンも天使や植物、花柄といった古典的な柄のものが多く、邸内はどこかノスタルジックで温かみのあるムードに満ちていた。
まごうことなき貴族の大邸宅だが、威圧感はほとんどない。凄みを感じさせるのは玄関ホールに飾られていた大昔の甲冑くらいのもので、建物の中は至って普通だ。そのことにマーガレットは安堵した。
同時に素晴らしい調度品の数々に胸がわくわくしてくる。
何しろこのリットン邸には乙女心に訴えかける素敵な品が多いのだ。
すっきりとした濃紺基調の内装は上品かつ高貴な雰囲気でうっとりしてしまうし、S字やC字のカーブを描く家具は見たこともないようなデザインで目が釘付けになる。おまけに上を見れば天井にまで豪奢な照明がついている始末……。
「す、素敵なお邸ねぇ……」
「そうか? それは嬉しいな。ありがとう、マッジ」
ランドルフはくしゃりと相好を崩し、それは嬉しそうな顔をした。
どうやらこの国の人間にとって、家を褒められるのは光栄なことであるらしい。
確かに、生活空間や暮らしぶりを賞賛されるというのはある意味自分の内側を褒められているようなものだから、直にセンスや美意識を評価されたような気がして嬉しくなるのだろう。
ランドルフは廊下の窓にかけられたレースのカーテンをさっとめくり、邸宅の庭の様子を見せてくれた。
「今はちょうど藤の花が盛りでね。ここからの眺めが一番いいんだよ。ほら」
「わあぁっ!」
ランドルフの言葉通り、中庭では神秘的な藤の花が今を盛りと咲き匂っていた。建物の東棟と西棟とを繋ぐように緑廊が渡してあり、その表面を藤の花がこんもりと覆っている。けぶるような薄紫色のヴェールがなんとも言えず美しく、マーガレットはしばし陶然とその光景に見入った。
上品で落ち着いた内装と、女性的で優美な家具の数々……。
こんな邸で暮らせたら……とつい夢を見てしまうほど、リットン邸のしつらえは見事だった。
……と、
(わーっ、わーっ! おっきな姿見!)
廊下の角に洒落たアンティークゴールドの姿見を見つけたマーガレットは、ランドルフのそばを離れてそちらへ駆け寄った。
歴史を感じさせるくすんだ黄金色の姿見は左半分がネイビーブルーのカバーで覆われ、右上には翅を広げた薄い蝶の飾りがついている。
近づいてまじまじと覗き込んだ後、スカートの裾をつまんで優雅なカーテシーをしてみる。
するとチェック模様の赤いスカートが楽しげに翻り、マーガレットはへらりと口元を緩めた。
(うふふふふっ、まるでお姫様になったみたいで楽しい~!)
「? どうかしたのかな?」
「い、いえっ!!」
人様のお宅でなんと恥ずかしいことをしてしまったのか……。
頬を赤らめながらも、マーガレットは照れをごまかすようにそそくさとランドルフの後に続いた。
***
客間に通されたマーガレットは、リットン邸のメイドたちによって手厚くもてなされた。
S字カーブを描く優雅な猫脚のカウチを勧められ、マーガレットはおっかなびっくり腰かける。するとランドルフは「そんなに恐縮しなくとも、いつも通りでかまわないよ」と言って苦笑した。
勧められるまま腰を下ろしたカウチはびっくりするほどふかふかで柔らかく、辺りにはアロマキャンドルの甘い花の芳香が漂っていてうっとりする。
パーラー・メイドに給仕をさせながら、ランドルフはマーガレットの緊張をほぐすように言った。
「ビーはこの前遠方のフィニッシングスクールから帰ってきたばかりでね。何かと引っ込み思案なところがあるが、大目に見てやってほしい」
「……フィニッシングスクール?」
「ああ、あまり聞いたことがないかな。“仕上げ学校”とも呼ばれるところで、要はデビューに備えて礼儀作法や教養を身につけに行くところなんだ。いざ家庭に入ったときに恥ずかしくないように、針仕事や料理、文化教養や社交の技術といったあらゆる作法を学ぶ」
長い脚をゆったりと組み換えつつ、彼は続けた。
「社交界デビューが済んだ女性はそのまま結婚相手を探し始めることがほとんどでね。それがこの社交期というわけさ」
「なるほど〜、花嫁学校ってことかぁ」
「嫁いだ後は嫁ぎ先の女主人として夫の家を切り盛りしなければいけないから、それなりに大変だと聞いている。支出はいくらか、次のパーティはいつか、その時にはどんな手配をしておくべきか……。男も大変だが、家のことをすべて任される御婦人たちも大変だろうな」
いかな大貴族の令嬢とはいえ、嫁いだ後は夫やその家のために力を尽くさなければならない。時にはその家の女主人として重大な決断を迫られることだってあるだろう。
確かに大変そうな役割だとマーガレットは思った。
「あの……すっごく不躾な質問なんだけど」
「なんだ?」
「結婚……って、順番からいくとお兄さんのあなたが先にするものだと思うんだけど、あなたにはそういう予定はないの?」
「うん? ああ……、俺は今のところ予定はないな。妹さえ幸せになってくれるなら、俺は一生独身でもいいくらいだ。もともと女性に人気がある方でもないし……」
「え!? そうなの!?」
「何をびっくりしているんだ、君は」
「えっ、い、いや、だって……こんなにスマートでレディファーストなのにモテないって……?」
「はは、ありがとう。だが、俺が御婦人に不人気なのは事実でね。偉そうに言うことでもないんだが、俺は見ての通りの堅物で、寄宿学校を卒業してからもほとんど御婦人とは縁がないんだ。男同士でつるんでいる方が気楽ということもあるんだがね」
ランドルフはからっとした口調で言う。さして悩んでいる風でもないその口調に、マーガレットはやはりこの男性はかなりの妹思いなのだと思った。
このランドルフという青年は、きっと基本的に自分のことは後回しなのだ。志は高くストイックだが、それはあくまで己を鍛えるためのものであって、自らをより大きく見せるためものではないのだろう。女性からすればやや硬派ともいえるであろうその態度を、マーガレットは好ましく感じた。
娼館出身だからかもしれないが、浮ついた遊び人の男性より真面目で落ち着きのある男性の方が好感が持てる。貴族であることを変に鼻に掛けないところも好印象だ。
マーガレットとしてはむしろこういう青年にこそ幸せになってもらいたいのだが――。
「ねえランドルフ。あたし、あなたにもいい人が見つかることを祈ってるわ。だって、こんな家族想いのいい人なのに一生一人ぼっちなんて絶対に間違ってるもん。あたしはあなたにもちゃんと幸せになってほしい」
「はは。そうだな、いずれ俺にもそういう機会が訪れるといいんだが」
子供の戯言だと思っているのか、ランドルフはさして追及せず、和やかに笑い飛ばす。
一生懸命紡いだ言葉を受け流されて少し残念だったが、もちろんこちらに彼の内情などわかるはずもない。
ランドルフはカウチの肘掛けにもたれると、感心した風に独り言ちる。
「アランはもちろん、エドのような男は引く手あまただろうな。名家の長子で家事炊事がこなせて、なおかつ自分で得た財産もある。まるで保守主義と自由主義のいいところを掛け合わせたような男だ。これからの時代はああいった男がもてはやされるのかもしれないな」
――その時。
ドアの向こうから窺うようなか細い女性の声が聞こえた。
「――兄様、いる?」
「ああ、ビーか。いるよ。お入り」
鷹揚に言ってランドルフは立ち上がり、声の主を迎えるべく部屋の入口へと向かう。そしてドアの隙間からそっと彼女に呼び掛けた。
「そんなに恥ずかしがらなくてもいい、こちらにおいで」
「だ、だって……」
「お前とそれほど年も離れていないよ。意地悪なお嬢さんではないから安心しなさい」
「……はい」
そんなやり取りを交わした後、くすりと笑って彼は女性を促す。
キイ、と小さく扉が軋んだかと思うと、廊下から声の主がそろりと姿を現した。
そこには、ほっそりと華奢な一人の少女が佇んでいた。
少女はふっくらしたピンク色の唇をわずかに開き、どこか夢見るような表情でマーガレットを見た。
「マッジ、紹介するよ。妹のベアトリクスだ」
マーガレットは固まった。
「ベアトリクス」と呼ばれたその人物がそれは見事な美少女だったからだ。
……肩のところで切りそろえられた、まっすぐな黒髪。透明感のある藍色の大きな瞳は長いまつげに隙なく縁どられ、真っ白な頬は質のよいポーセリンのようだ。
その佇まいにはあたかも内側から発光しているかのごとき透明感がある。
マーガレットより五つばかり年上だとは聞いていたものの、顔つきやしぐさはどこかあどけなく、見るものの庇護欲をそそる。色白でとても儚げな少女だが、耳朶や唇にはぽっと桜色の赤味が差していて、彼女が紛れもなくこの世界に息づく存在であるということを教えてくれた。
光沢のあるネイビーのデイ・ドレスは襟の詰まったいささか古めかしいデザインで、けれどそれが妙に彼女の持つ雰囲気に似合っていた。
普段使いにしているものなのか、耳元では小さなパールのイヤリングが揺れている。それらはドレスの放つなめらかな光沢と相まって少女の持つ上品な美貌をより一層引き立てていた。
マーガレットがついぽうっとなっていると、近づいてきた彼女はそこでにっこりと笑った。
「初めまして。私がベアトリクス・リットンよ。よろしくね、小さなお嬢さん」
楚々とした笑みに、相手をむやみやたらと萎縮させない柔らかな物腰。身じろぎするたびにさらさら揺れる黒髪からは甘い花の香りがして、マーガレットはまたしてもぽうっとなった。
これまでとんと縁がなかった可愛らしく清楚なタイプの美少女だ。
(マダム・アルフォンシーヌの娼館には絶対にいなかったようなタイプの子だわ)
こういうのを育ちがいいというのだろう。がさつで男勝りなマーガレットとは対極にあるような少女だ。
うるさくて暴力的なマーガレットとは正反対の、奥ゆかしくて文学的な美少女――。
思わずごくりと喉を鳴らす。
(仲良くなりたい……。仲良くなって、あたしもこの人のこの上品さをちょっとでもいいから身につけたい!)
差し出された白魚のような手を、マーガレットはこわごわ握りしめた。
「よ……よろしくお願いしますっ!!」
「あ……ごめんね、実を言うと私もちょっと緊張してるの。もし粗相があったらごめんなさい。今から謝っておくわね」
きゅっ……とマーガレットの手を握りしめながら、美少女は物憂げな面持ちでそんなことを言う。
「そ、そんな! ととと、とんでもないですっ!」
むしろこちらが粗相をしそうなくらいなのに――。
マーガレットはふう、と胸をなでおろした。
思ったより話しやすそうな雰囲気だ。庶民相手だからと気取っている風でもないし、会話するときにはちゃんとこちらに目線を合わせてくれる。
何より握り込んだ手のひらがびっくりするほど柔らかくて、マーガレットはどきどきした。真っ白くてほどよくふっくらしていて、爪は綺麗な桜色。これぞ女の子の手といった感触だ。
(はあぁ……、あたしも手荒れ対策しっかりしとかなきゃ……。いくら水仕事が多いとはいえ、こんなごわついた手じゃ駄目よね……)
己の手を見つめながらついそんなことを考えていると……
「マーガレット、さん?」
「は、はいっ」
「今日は遠いところをわざわざ遊びに来てくれてありがとう。どうぞゆっくりしていってね」
黒髪の淑女はマーガレットの手を包み込んで朗らかに笑った。
***
ベアトリクスはテーブルの中央にバーナーを据えててきぱきとお茶の支度を始めた。
外で待機させていたらしいメイドをさしまねき、テーブルの脇に立派なティーワゴンをぴったりとくっつけて茶道具を取り出す。
「マーガレットさんはどんなお茶が好き? ストレート派? それともミルクとお砂糖たっぷりめの方がお好みかしら?」
「あっ……と、ベ、ベアトリクスさんにお任せしますっ!」
ガチガチに委縮するマーガレットに、ベアトリクスは安堵させるようにやんわりと微笑んだ。
「わかったわ。じゃあ、私のとっておきを淹れるわね」
ややあってから、メイドたちによって茶菓子が運び込まれてくる。
ぴかぴかに磨き抜かれた三段のケーキスタンドは通称「スリーティアーズ」。アフタヌーンティーをより楽しむための必須アイテムだ。もちろん子羊亭にもあるものだが、リットン邸のそれは正真正銘の銀製だった。
ティーセットは淡いローズピンクの一揃いで、エピドートに古くから伝わる昔ながらの図案が描かれたものだ。水彩画風のタッチで薔薇とキヅタの図案を写し取ったもので、いかにも女性が好みそうなエレガントなデザインだった。
やがてベアトリクスは立ち上がり、温めていたやかんを手に取った。
ゲストをもてなすのは女主人の役目という意識があるようで、手ずからポットを取り上げてお茶を注いでくれる。
その所作に、マーガレットはごくん、と喉を鳴らす。
(きれい……。品があって、お淑やかで……)
普段、マーガレットも子羊亭でお茶のお代わりを注いで回ることがあるが、ベアトリクスの給仕はそれとは比べ物にならないくらい洗練されていた。
マーガレットのように慌てて注いだりせず、ポットを扱うしぐさも優しげでとても上品だ。手が抜けるように白いせいだろうか、ただ茶を注いでいるだけなのに、その所作にそこはかとない女らしさを感じる。
テーブルに落ちた茶のしずくを拭きとるしぐさまでもが美しく、マーガレットは口を半開きにしたまま彼女の給仕姿に釘付けになる。
「ゴールデンドロップ」と呼ばれる最後の一滴まで完璧に注ぎつくすと、ベアトリクスは少しはにかみながらカップをマーガレットの前に差し出した。
「――はい。私のお気に入り、老舗紅茶商アーデン社のベリーティーよ。どうぞ召し上がれ」
「いっ、いただきますっ……!」
勧められるまま熱々のベリーティーをひとくち嚥下する。
次の瞬間……。
「ふわああ! おいしいぃ……!」
透き通るピンク色のベリーティーは甘酸っぱい香りが特徴的だった。フレーバーティーらしくベリーの香りが強く主張してくるものの、後味はしっかり紅茶らしさが出ていて芳醇な味わいだ。鼻腔に抜ける香りは甘酸っぱくフルーティなのに、飲み下すと舌の上に力強い渋みが残る。
湯気とともにカシスとラズベリーの魅惑的な香りがほんのり立ち上り、それがピンクレッドの水色と相まってなんともロマンティックな心地にさせる。いかにも少女好みの、女性的な一杯だった。
「よければミルクとお砂糖も使ってみて。そうするとまた違った味わいになるの」
勧められたとおりにミルクを垂らし、角砂糖を沈め、ミルクの雲が完全に溶け切ったところで口をつける。
すると……
「……!」
先ほどまであった渋みが和らぎ、まるでお菓子のように甘く蕩けるような味わいになる。ただミルクと砂糖を入れただけなのに、全く違う飲み物のようだ。もしかしたらミルクの質がいいのかもしれない。
マーガレットは大きな瞳をきらきらさせながらベアトリクスを見つめた。
「すごいすごいっ……、ベアトリクスさんってお茶を淹れるのも上手なんですねっ! ずっとこれだけ飲んでいたいくらいおいしいです!」
ベアトリクスは口元に手を添えてころころと笑う。
「気に入ってもらえてよかったわ。いろんなお菓子があるからちょっとずつ食べてみてね」
「はいっ、では遠慮なくっ!」
さっそくケーキスタンドに手を伸ばすマーガレットに、ベアトリクスはとても嬉しそうにおもてをほころばせた。
「……あ、そうだわ。これもよかったら食べてみて。ベリーの紅茶によく合うの」
クリーム色のタルトを差し出され、ぱくりとひとくち食べる。
刹那、そのおもては隠し通せぬ喜びにきらめいた。
「……!」
それはこくのあるカードチーズをふんだんに使ったチーズタルトだった。
薔薇の香り漂うフィリングにはたっぷりとカランツが練り込まれており、噛みしめるごとに感じる酸味と歯触りがなんとも絶妙だ。カードチーズの深いこくが果実の酸味によって中和され、食べ応えがありながらもさっぱりとした食感に仕上がっている。
タルト生地のざくざく感も秀逸で、マーガレットの瞳はたちまち蕩けてしまう。
「ふわぁぁ~~……」
「これ、私が昨日の晩にばあやと焼いておいたものなの。エピドート北部のお菓子なんだけどお口に合うかしら?」
「と、とってもおいしい、です! チーズフィリングはどっしりして濃厚なのに、カランツが混ぜ込んであるせいか全然くどくないわ。合間にふわっと香る薔薇の香りがまた最高……!」
「生地に少しだけローズ・ウォーターを混ぜてあるの。できるだけ元のレシピに忠実に作りたくて……あちこち探し回ってようやく見つけたわ」
照れたように言うベアトリクスに、マーガレットはずいと身を乗り出す。
「そのぅ……よかったらあとで作り方とか教えてもらってもいい、ですか? これ、すっごくおいしいので」
「もちろん! あとでレシピを書いてあげる。今度うちの厨房で一緒に作りましょう」
「ぜひっ!!」
ベアトリクスは微笑み、「私もお気に入りのお菓子なのよ」とタルトをひとかけ口に放り込んだ。
「では、俺は席を外そう。若い女性二人の方が盛り上がるだろう?」
腕時計に目をやりながらランドルフが言う。
「まあ、兄様。せっかくだからもっとお茶を飲んでいけば……」
「いや、遠慮しておくよ。俺のぶんまでマッジのことをしっかりもてなしてあげなさい」
ランドルフはそう言って、妹の黒髪をさらさらと撫でる。
「わかりました」と殊勝にうなずき、ベアトリクスはメイドの一人に兄の見送りを言いつけた。
一方、もごもごと口を動かしながらマーガレットは素晴らしいデザートの数々に舌鼓を打っていた。
甘い紅茶をお供にタルトの残りをぱくぱくと食べながら思案する。
(ふむ……ベアトリクスさんと結婚すれば、アランはこれを毎日食べられるってわけかぁ。いいなあ、いっそのことあたしが花婿になりたいくらいだわ)
……アランが恨めしい。否、羨ましい。こんな素晴らしい令嬢相手にどうしてさっさと告白しないのか。
そんなことを考えつつも、もともと貧乏性なマーガレットは供された菓子をせっせと口に運ぶ。
……と。
「マーガレット、さん? あの……?」
か細い呼びかけに、マーガレットはそこでようやく顔を上げた。
気づけば、ベアトリクスが呆気にとられたような顔でこちらを見つめている。
「はっ! ご、ごめんなさいっ……、やだ、あたしったら、食べるのに気を取られてっ……! は、恥ずかしい……!」
「ふふ。それほど気に入ってくれるなんて嬉しいわ。特にこのストロベリーケーキとチョコレート・プディングはうちの菓子職人の自慢なの。貴女にたくさん食べてもらえて彼も喜んでいるでしょうね」
「へへっ……。こんなにおいしいお菓子、生まれて初めて食べたわ。あたしもベアトリクスさんちの子になりたいくらいよ」
「まあ、そんなことを言ったらエドが寂しがるんじゃない?」
「いいもん、エドはわからずやであたしの言うことなんかぜーんぜん聞いてくれないし、ここでベアトさんと暮らした方がうんと楽しそうだもん!」
わざとらしく拗ねてみせると、ベアトリクスは声を上げて笑った。
「ふふっ、兄様が言ってたとおりね。明るくてムードメーカーで、まるで太陽みたいなお嬢さんだって」
「やだぁ、そんなこと言われるとなんだか照れちゃう」
「いきなりこんなことになって驚いているかもしれないけど、貴女とお知り合いになれてよかったわ。改めてよろしくね、マーガレットさん」
「あ、あたしのことはマッジって呼んで。昔友達がつけてくれたあだ名で結構気に入ってるの。よろしくね、ベアトさ……じゃなかった、ビー」
甘いものをたらふく食べた影響か、二人の間にあった堅苦しい雰囲気はしだいに和らいでゆき、純銀製のスリーティアーズがほとんど空になる頃にはマーガレットもさほど緊張せず彼女と話せるようになっていた。
それはどうやらベアトリクスも同じだったようだ。お茶会が盛り上がってくるにつれ、彼女もまた年頃の少女らしいくだけた言葉遣いをするようになっていった。
「マッジは甘いものは好き?」
「うん! 今はエドがおいしいものをお腹いっぱい食べさせてくれるの。だから毎日とっても楽しいわ」
「まあ、そうなの。ふふ、エドワードって、あれでなかなか面倒見がいいのよね。妹さんのお話も度々伺うけれど、仲がよさそうでいいなあっていつも思っているのよ」
「……? ベアト……じゃなかった、ビーはお兄さんと仲がよくないの?」
「あ……呼びにくいようならベアトでいいのよ。貴女が呼びやすいように呼んでくれれば嬉しいわ」
「わかった」
ベアトリクスはちょっと小首を傾げたのち、言う。
「そうね……、仲がよくないのかどうかと訊かれれば、それはもちろん『仲がいい』と答えるのでしょうけど……」
「“けど”?」
「それが、兄様は過保護で心配性な質なの。私がたまには一人でお買い物に行きたいって言うと、大抵渋い顔で止められちゃって」
ベアトリクスはほうっと息を吐くと、紅茶で唇を湿らせてから続けた。
「友達も最初は積極的に誘ってくれていたのだけれど、一緒にお買い物に行くといつも兄様がついてくるものだから、だんだんと嫌厭されてしまって。仲がよすぎるのも困りものよね、私はもう年頃のレディだっていうのに……」
「じゃあ、あたしと行こうよ。あたしは女の子だし、ランドルフが一緒でも気にしないし、ベアトに手を出す心配もないわ。それならいいんでしょ?」
もともと兄の方に許可は取っているから、あとはベアトリクスの気持ち一つだ。
ベアトリクスは嬉しそうに両手を組み合わせた。
「まあ……それは妙案だわ。確かにマッジと出かけるといえば兄様も納得してくれるでしょう」
「そうそう、若いうちにたっくさん遊んどかなきゃ! お兄さんの過保護ぶりなんて無視無視ー!」
「あ……、でも、兄様は本気で怒るととっても怖い人だから、そこだけは気を付けて。エドにしているみたいに兄様をからかったら、きっとマッジはただじゃ済まないわ」
「あはははは! やだ、お兄さんてばそんなにおっかないの?」
けらけら笑っていると、ベアトリクスはやおら声を潜めた。
「……ここだけの話、兄様は軍事訓練で近接格闘術を会得しているの。その気になれば骨の一本や二本……」
「うえっ!? そ、それは怖いどころか要注意人物っていうんじゃ……」
思わずのけぞるマーガレットに、ベアトリクスは慌てて言った。
「あ、でも、私にはとっても優しいのよ。この間は自力で身を守れるようにって簡単な護身術も教えてくれたし」
「へえ。まあ、ベアトは可愛い子だから、それくらいは身につけておいて損はないかもね。いいお兄さんじゃない」
マーガレットの言葉にベアトリクスははにかんだ。
「あ、そうだわ……マッジ、お茶のお代わりは? 次はローズティーにしましょうか」
ベアトリクスの問いかけに、マーガレットは一瞬答えあぐねる。
そしておずおずと口を開いた。
「あのぅ……」
「?」
「せ、せっかくだから、どこか行かない?」
ベアトリクスはきょとんとして目を瞬く。
マーガレットはもじもじ指先をいじくりながら続けた。
「あのねっ……、あたし、これまで同年代の子とお出かけしたことがなくて。今日あなたと遊びに行けるのをすっごく楽しみにしてたの。それで、もしよかったら、なんだけど……」
我ながら厚かましいお願いをしているという自覚はあった。
ベアトリクスは身体が弱いと聞いているから、こんな風にいきなり誘っても断られるだけかもしれない。
しかし――
「そうね。今日はちょうどお天気もいいしね。そうしましょうか」
事もなげに言い、ベアトリクスは天使のごとき笑みを浮かべた。