暗い部屋の中で、男はもう何度目になるかわからない涙を流していた。
――脳裏に鮮やかに浮かび上がるのは、愛しい妃の顔。
記憶の中で、彼女は美しい青紫の瞳を細めて微笑んでいた。
「アイリス……、アイリス……!」
……床の上には魔術の本が散乱している。
男は最愛の彼女をよみがえらせようと、大陸中の様々な書物を集めていた。蘇生術をはじめ、生命についてのあらゆる秘法を学んだ。
だが、どれを試してもうまくいかなかった。
何を試みても最愛の妃の蘇生はなし遂げられず、彼はそのたびにやり場のない苛立ちと空虚感に苛まれる羽目になった。
それと同時に、彼は自らの人生に失望してもいた。
皇妃を死なせて、自分一人だけが生き延びて。
こんな命に価値はないとさえ思っていた。
男はそこでのろのろと顔を上げた。
(この術も、恐らく失敗に終わるだろう……)
膝を抱えると、彼は暗闇と静けさに満たされた室内で唯一明々と主張して燃える炎を見つめる。
……男は先ほど、とある書物にあった禁断の術を試したばかりだった。
彼はその頁を見つけたとき、今度もきっとうまくいかないだろうと思った。また失敗するのだろうと。
だが、試す価値はあるかもしれない。そんな誘惑に負け、自らの肌を勢いよく裂き、噴き出る血をランプの灯りに浴びせかけた。
術の代償として大量の鮮血を捧げたために、肉体は疲れ果てていた。短剣で深く切りつけた腕からは未だ絶え間なく血が滴り落ちている。
それとは裏腹に、男の血を吸った炎はまるで歓喜しているかのように燃え盛っていた。
しかし、もうかなりの時間が経っているが、それらしい反応はない。
鮮血と涙にまみれながら、彼は自らを嘲笑ってうなだれた。
(私は一体、何をやっているのだろう)
しかし、諦めるわけにはいかなかった。この術が成功すれば、彼女はまたきっと隣で笑ってくれるはずなのだ。
(私はあの時、貴女を救えなかった……)
男は額に汗を滲ませると、自らの右手を強く握りしめる。
愛しい妃が包み込んでくれ、好きだと言ってくれたこの手も、今ではひどく頼りないものに思えた。
……それにこの手は、彼女を殺した手だ。
そうだ。自分は彼女を、殺したのだ――。
(アイリスは、きっと私を許さない。こんな酷い伴侶のことを、どうしたって許せるはずがない……)
抱えこんだ膝に顔を埋めると、ただでさえほの暗かった視界がさらに暗くなった。
なぜ、ただ一人だけでも救えなかったのだろう? 彼女さえ助かるなら、他の人間たちなどどうでもよかったのに。
呻くと、男は唇を噛む。
(いっそのこと、死ねばよかったのだ……。あのとき、一思いに命を絶って)
後悔の念が沸き起こってくると同時に、急かされたような気分になった。じわじわと背中を押す昏い衝動に呑み込まれる。
……もしかしたら、今からでも遅くないのかもしれない。
そう思って、彼は床に投げ捨てていた短剣を静かに取った。
天窓から差し込むわずかな星明りに身をゆだねると、瞳を閉ざして血にまみれた銀の短剣を翳す。
今夜はきっと、好機だろう。無意味に繋いできた命への執着を断つには。
そうして男が切っ先で胸を突こうとした、そのとき。
――ランプの炎が、突然毒々しいほどの紅に染まった。
「!?」
『ああ……、久方ぶりの生きた血だ……』
低くまろやかな女の声が響き渡ったかと思うと、狼狽する男に嘲るような笑い声が降り注いだ。
紅い炎は揺らめき、床を這い、やがて美しい人間の女の姿を取る。
……漆黒の髪、琥珀色の双眸。形のいい唇は男の血らしきもので赤く光り、隙間からは不気味なほど艶めかしい舌がちらとのぞく。
あまりに整いすぎた豊かな肢体を、炎の粒子がさっと包む。やがてそれは真紅のガウンになった。
女は男の顎を強く掴んで仰向かせると、悠々と彼を見下ろした。
『わたくしを呼び出したのはお前だな? 天族の男よ』
術が成功したことに慄きながらも、男はうなずいた。
『さあ……、わたくしに何を望む……? 言ってみるがよい』
拒むには、女の声は甘すぎた。鼓膜を震わせる声音は、まるで彼を誘惑しているかのようだった。
抗いきれずに、とうとう男は唇を開く。
「……わが妃を、よみがえらせてほしいのです」
苦しげな声音で男は希った。
『ああ……、お前が殺したあの女のことか?』
「なぜ、それを……!」
『わたくしにはお前のことはすべてわかるのだ。お前のことをずっと見てきたからな……。殺された母の骸に取りすがって泣く幼いお前の瞳は、復讐に燃えていた。世界を憎んでいるのがはっきりとわかる目だった。その滑稽なほどの貪欲さはちょうどよいであろう……、わたくしの器には……』
「私のことがすべてわかるというなら、彼女を――アイリスを生き返らせて下さい!!」
男は必死に彼女に取りすがった。
「……アイリスのいない世界など、私には意味がない。彼女だけが、私を救ってくれた……。誰からも理解されず、顧みられることすらなかった私を……」
『それほどまでにあの妃が大事か?』
「私にとっては、何者にも代えがたい方です」
女は喉の奥で低く笑った。
『……いいだろう。お前のその望み、叶えてやろう。しかし条件がある』
「……条件?」
『それは……』
ささやかれた言葉に、男は蒼白になる。
……この女は魔女だろうか。自分の望みを叶えると言いながら、残酷な取引を持ち掛けてくる。
その条件を呑んでしまえば、恐らくもう二度と当たり前の身体には戻れないだろう。
本当にアイリスが戻ってきてくれる保証もない。
(……だが)
彼はもう、ためらわなかった。
差し出された女の手を取る。
「……かまいません。アイリスが帰ってくるというなら、その程度のこと……私には耐えられる」
『人とは愚かだな。浅ましいといってもいいほどだ。まっとうな命よりも一時の愛を選ぶというのか』
「諦められません。私は彼女を、守りたかった……。もう一度アイリスに出逢えるというなら、すべて棄てても悔いはありません」
女はそこで一度だけくっ、と嗤った。
『――では、その身体にわが印を刻め!』
「!!」
哄笑する女に息をのんだ瞬間、彼女が掴んだ右手が勢いよく燃えた。
文字通り、「燃えた」のだ。
にわかには信じがたい光景。肌を這う炎の痛み。
耐えかねた男は、のたうち回って叫び声を上げた。
不可思議な紅の炎が爆ぜ、骨も肉も焼き尽くしていく。見れば、掲げた右手はもう原形を留めていなかった。
息も絶え絶えになりながら、男は喩えようのない恍惚に身を任せる。
その傍らにしゃがみ込んだ女が、やはり甘すぎる声でつぶやいた。
『……あの妃に仮にもう一度出逢えたとして、お前たちの生命の理はもう異なっているであろうに。人の心とはわからぬものよ』
彼女は男の長い髪を一房すくい上げる。
陽光を思わせる金色をしていた彼の髪は、見る見るうちに闇が凝ったかのような漆黒に変わっていった。
それは闇のようでもあり、何かが燃え尽きた残骸のような色でもあった。
――あたかも一つの『死』のような。
『見るがいい、わが依代よ。これでお前は、わたくしのものだ……!』
「……は、い……」
男はそこでうっすらと笑った。
(……空白の孤独の時になど、耐えられる……。私は今度こそ、貴女を守ります。今度こそ、貴女とずっと一緒に……)
人としての男の意識は、そこでぷつりと途切れた。