――話はピヴォワンヌが王宮を出立する数日前にさかのぼる。
バイオレッタはその日、クロードに連れられて彼の邸宅にある温室へと足を踏み入れていた。
彼の選んだ真っ白なシルクのシュミーズドレスを着せられ、人形のそれのように繊細なリボン使いの室内履きを履かされて、彼女は温室の中でじっと身を硬くしていた。
「……退屈そうなお顔だ。こちらの温室はお気に召しませんか、バイオレッタ?」
「……」
クロードの問いかけに、バイオレッタはただ無言でうつむいた。
……ここにバイオレッタを運んでからというもの、クロードは日ごと夜ごと彼女の面倒を見たがった。
『ご機嫌はいかがですか、私の姫』
『今日は顔色がいいようですね。少しばかり庭を見てまわりましょうか』
そんなことを口にしながら、まるで人形遊びでもするようにバイオレッタの相手をしたがる。
ここに来たばかりの頃、彼から食事や飲み物を与えられるのをバイオレッタは拒んだ。
食事に何らかの薬を混ぜ込まれているかもしれないと危ぶんだからである。
だが、それは杞憂に終わった。
クロードが自ら食べ物を口に運んでみせたからだ。
『……用心深いのですね、貴女は。では、私が先に食べてみせましょう。それならば納得いただけるのでしょうから』
そう言って、彼は食べ物に何も混ぜていないことを見事証明してみせた。
おかげでバイオレッタは食事を摂らざるを得なくなってしまい、今では抗うことなく口にするようになった。
幸いにして身体に悪影響を及ぼすようなものは入っておらず、味付けにも何らおかしなところはみられない。
クロードが食べ物をすくった匙を毎回口元まで運ぼうとすることを除けば、今ではいたって穏やかなひとときとなっている。
夜になってクロードが姿を現すまで、バイオレッタは寝室の中を探索して過ごすことにしていた。
日中はクロードも監視の目を甘くしている。自分が一日中相手をしてやれないことに罪悪感があるのか、出かける際にバイオレッタの首の戒めを解いてくれるのだ。
そのため、まだ陽の高いうちだけはバイオレッタは少しだけ自由を満喫することができた。
その間、彼女は調度品を眺めたり、長いネグリジェの裾を揺らして部屋の中を興味深く見てまわったりする。
もちろん、どこかに脱出の手掛かりがないかと目を皿のようにして観察してみたりもする。
けれどどこにもそんなものはなく、彼女はいつもすごすごと寝台の上に戻るしかなかった。
クロードの置いていった美しい画集を眺めたり、ナイトテーブルに置かれた蓄音機でレコードをかけたり、日ごとボンボニエールの中に足される新しい味のボンボンを試してみたり。
日がな一日そうしたことをして気を紛らわすしかなかった。
今の生活にこれといって不満はない。
いや、そう認識させられてしまっているのだ。
単に心を麻痺させられ、あたかもクロードの用意した部屋が快適であるかのように思い込まされているだけだ。
しかしながら、寝室の外に出してもらえないのはやはり苦痛だった。
外に出してくれ、城に帰してくれと何度訴えても、彼はただ首を横に振るだけで、まるで聞き入れようとはしなかった。
バイオレッタはすでに部屋の外に出るのを諦めかけていた。
クロードが不在の折に何度か脱出を試みたものの、扉を開けることさえ叶わなかったのだ。
重厚な作りのドアノブには何らかの術がかけられているようで、バイオレッタがドアを開けようとすると不可思議な力が働く。
紅い閃光が走ってバイオレッタの手を弾いてしまうのだ。
身体を強く押し戻される形になり、渋々彼女はドアから離れざるを得なくなるのだった。
そんな折、今日は珍しく寝室の外で食事をしようということになり、バイオレッタは彼に伴われて寝室を出た。
不思議なことに、例の寝室から一歩出たとたん、そこはクロードの私邸に変化していた。
黒橡色の内装。濃紫のタペストリー。
寝室からやや先へ進んだところには立派な正面階段があって、その先はまっすぐ玄関ホールへと続いている。
いつか見たのと全く同じ光景が広がっていることに、バイオレッタは言葉を失ってしまった。
(……これが魔術?)
この正面階段を突っ切れば外に出られるかもしれないと、彼女はクロードから離れてよたよたと階段の方へ向かった。
刹那、首筋にきりきりとした痛みが走って顔を歪める。
「……っ!」
「……そちらに用はないはずですが」
クロードはそう言ってバイオレッタの首にぶら下がった銀の鎖を引いた。
そうされると、革の枷が首筋に食い込んで柔肌を締め付ける。
きつく喉を圧迫される感触に、バイオレッタの呼吸はあっけなく乱れた。
「んうっ……!」
くいくいと何度か鎖を引かれて、バイオレッタは荒い息を吐きながら彼に従った。
……馬鹿みたいだ、とバイオレッタは自らを嘲笑う。
こうして獣のように鎖に繋がれ、男の手でいいように服従させられているなんて。
今の自分はまるで奴隷か捕虜だ。自分を屈服させた勝利者のもとに跪くしかない、哀れな虜……。
けれど、歩みを止めればどうせまた痛みに苦しむ羽目になるのだ。
ならば今は彼の後をついてゆくしかない。彼の思い通りに動いてさえいれば、ひとまず痛い思いはしなくて済むのだから。
バイオレッタが半ば諦めかけた時、廊下の反対側から細い声が聞こえた。
「旦那様……!」
廊下の向こうから案じるように自分たちをうかがうその初老の男性には見覚えがあった。
彼は確か初めてこの邸を訪問した折にもてなしてくれた家令で、名をクレメンスといった気がする。
「……」
彼は虜囚のように引きずられてゆくバイオレッタを見て何事か言いたげではあったが、主人の手前無礼に当たると思ったのか口をつぐんだ。
クロードは気にするそぶりも見せず、バイオレッタを連れてどんどん廊下を進んだ。
細く長い廊下を行き、階段を下り、バイオレッタは彼に促されて邸の外にある温室へと連れていかれた。
その場所へ一歩足を踏み入れたバイオレッタは、あまりの光景に驚いた。
……そこは硝子張りの温室になっていた。辺りには濃厚な香りを漂わせる熱帯植物や珍しい品種の花々などが植えられている。
温室の天井まで届く硝子の柱にはつる薔薇やクレマチスが誘引され、温室上部の空間を目指してするすると伸び広がっていた。
硝子の支柱そのものがまるでクリスタルのように透き通っており、陽光を受けて時折儚いきらめきを放っている。
バイオレッタは不覚にもそれを綺麗だと感じた。
誘うように甘い花の香りか、それとも美しい硝子の柱のせいか。
彼女は一瞬だけ、自分の置かれている残酷な状況を忘れた。
(素敵なところ……)
バイオレッタはほうっと息をついた。
……と、やっと表情を和らげた彼女に向かってクロードの手が伸びてくる。
「……っ!」
バイオレッタは反射的に身構えたが、彼の手が向かった先はその細い首筋だった。
錠前に鍵を挿しこむと、彼は首を戒めていた枷を外した。じゃらりと重たげな音がして、バイオレッタの陶器のごとき首筋から枷が取り去られる。
「ああ……、随分痛ましい色になってしまった」
そう言って、クロードは痣のできた首筋を指でなぞり上げた。
あまりに愛おしげな手つきで素肌を撫でられ、バイオレッタはその快さに瞳を細める。
クロードはまだ、自分を愛しているのかもしれない。
まだ純粋な愛の対象として自分を見てくれているのかもしれない。
思わずそう錯覚しそうになったバイオレッタだったが――。
「なるほど……悪くありませんね。これはほかでもない私がつけた傷痕だ。この痛みをどうか忘れないでください、姫……。この痛みと傷痕だけが、私と貴女を繋ぐ唯一の証なのだから……」
「……!」
ほとんど本気でそう思っているらしい笑顔にぞっとして、バイオレッタの脚はがたがた震えた。
逃げなければ、本当に痛みを刻まれる。彼の破壊衝動をぶつけられてしまう。
バイオレッタはうつむくふりをして自らの背後をうかがった。
……このまま後方へ下がれば逃げられる。温室の出入口まで駆ければ。
なのに、肌が覚えているのだ。
逆らえばまた痛めつけられると。また無理やり服従させられると。
「……」
諦めたバイオレッタはおとなしく彼の相手をすることにした。
どうせこんな温室でできることなど限られている。せいぜい植物を鑑賞して、お茶とお菓子を堪能しながら彼とどうということはない会話をする程度だろう。
ならば今は彼の言うとおりにしよう。
バイオレッタとて無駄に痛い思いをしたくはなかったし、なめらかな肌にこれ以上痣をこしらえるのは嫌だった。
第一、こんな温室で彼がバイオレッタをどうこうできるわけもない。
(……お茶の相手をするくらいなら)
そう思い、バイオレッタは彼の提案を受け入れた。
その決断がさらに自分を苦しめることになるとは、その時の彼女は微塵も予想していなかったのである。
「紅茶はいかがですか?」
「……」
まめまめしく機嫌を取ろうとするクロードに、バイオレッタはただ無言で首を振った。
虚ろな表情で卓上を眺めやり、彼女は整った顔を曇らせる。
ここで暮らし始めてからというもの、バイオレッタの心は今まで以上に空虚だった。身体の中から何かがぽっかりと抜け落ちてしまったような気さえする。
大好きなクロードと一日中ずっと一緒にいられる夢のような状況だというのに、バイオレッタはそのことについて軽い嫌悪感さえ抱いていた。
(……一体いつになれば帰れるの)
最初からこの純潔だけが目的だったのだろうかと、バイオレッタは悲しくなる。
おとなしそうな顔をしてはいるが、このクロードという青年は色事に長けた美男だ。
世間知らずな少女の心を弄ぶことなど容易だろうし、その肉体を自分のものにすることまでを一つの遊戯(ゲーム)のように捉えていたとしても何ら不思議はない。
時折見せる物欲しげな――そしてどこか恍惚とした――瞳。
バイオレッタのことが欲しくて欲しくてたまらないのだという目つき。
あれこそが罠だったのかもしれないと、バイオレッタは今更ながらに考えていた。
(だっておかしいもの。そうでなければわたくしをこんなところに閉じ込める理由がないわ)
バイオレッタはシュミーズドレスの上からそっと胸元を押さえる。
澄んだ真珠色をしていた素肌には今や点々と紅い痕が散らばっていた。
古いものもあれば新しいものもある。一際きつく吸われた箇所は治りが遅く、その間にも新しい所有の証を刻まれるので、バイオレッタの柔肌は一向に元の白さを取り戻す気配がなかった。
クロードはしばしばそうやってバイオレッタを辱めて愉しんだ。
純潔の花を手折られなかったのは幸いだが、それにしても横暴が過ぎる、とバイオレッタはクロードを弱々しく睨んだ。
夜更けに部屋にやってくるクロードは、どこまでもバイオレッタを傷つけようとする。
蕩けるように優しい顔でこちらを見つめていたかと思えば、次の瞬間には息をのむほど剣呑な瞳で身体を押さえつけてきたりもする。
クロードは夜ごとそうしてバイオレッタを痛めつけた。
指先で、唇で。あるいは言葉で。
そして監禁という行いによって。
彼の持つ情念のナイフはいともたやすくバイオレッタの心に突き立てられる。
苛立ちか、怒りか。はたまた愛憎なのか。
クロードの隠し持つ感情は昏く鋭かった。
まるで彼こそが薔薇の花のようだ、とバイオレッタは思う。
いつもとても優雅に微笑んでいるのに、彼の激情はじわじわとバイオレッタを苛んでゆく。巧みに忍ばせた鋭利な棘で、容赦なくこの心を血だらけにしてゆく。
バイオレッタはそこで赤く擦れた喉に手を伸ばす。
愛を盾にこの心を弄んで、身体を貪って、そして最後には捨てるつもりなのだろう。
どんなにバイオレッタがクロードを愛していても、彼の方は違う。
バイオレッタのことなど所詮ただの慰みものとしか考えていないのだ。
だからこんな卑怯な真似ができるのだろう。
(そんなのは嫌……!)
考えれば考えるほど苦しくなる。
自分は最初からそのための相手でしかなかったのかと苦悩し、空しくなるのだ。
クロードの動機や目的がわからない以上うかつなことはできないし、かといって何の抵抗もせずにされるがままになっているわけにもいかない。
いっそ彼がこちらへの興味をなくしてくれれば一番いいが、この熱っぽい様子を見るにつけ、それは今のところ不可能ではないかと思った。
そうして必死で考えを巡らせていると、ふいに落ち着き払った声がかかる。
「随分物憂げなお顔だ」
バイオレッタを喜ばせようとしているのか、クロードが目の前に山ほどプティフールが載った皿を押し出してくる。
まるで宝石のように愛らしいそれを、クロードは恭しく勧めた。
「どうぞ。これからは好きなだけ甘えてくださってかまわないのですよ。高価な綺羅も宝玉も……貴女にならばどんな贅沢も許しましょう。何せ私がこの世で最も愛する女性なのですからね」
やけにねちっこい口調でクロードが言う。
だが、バイオレッタはなぜ彼がそんなことを言いだすのか全くもって理解できずにいた。
(ただ愛しているというだけでここまで必死に機嫌を取ろうとするものかしら)
アルバ座に集う貴族たちの中にもこうした輩は大勢いた。今でもよく記憶している。
彼らは最初こそバイオレッタの気を引こうと躍起になったが、思い通りの応対が望めないと知るとたちまち豹変した。
バイオレッタを力ずくで服従させようとしたり、あらん限りの暴言や罵りの言葉を投げつけて萎縮させようとした。
バイオレッタはそもそもそうした豹変の仕方を男性らしいなどとは思えなかったし、自分が気に入らなければ相手を貶めて自らの強さを証明しようとするその傲慢な姿勢を疎んじてもいた。
女を傷つけて自らの価値を上げようとするなど、どう考えたって浅ましい行為だ。どんなに迫られてもそうした男性たちに身を任せようなどとはけして思えなかったのだ。
だが、今のクロードのやり方は彼らのそれと非常によく酷似していた。
クロードの手口はもっと執拗で狡猾だったが、やっていること自体は彼らと何ら変わらない。
否、欲望を巧みに押し殺して近づいてきた分だけ質が悪かったといえるだろう。
バイオレッタは上下の唇を軽く触れ合わせると、意を決して唇を開いた。
「……クロード様。どういうおつもりなのですか。わたくしをこんなところに閉じ込めて、自由を奪って。一体何をなさるおつもりなのです? わたくしにはあなたを喜ばせられるような力は何もないわ。なのに、どうして――」
「貴女はただ私のそばにいてくださればよいのです。この邸で、ずっと一緒に暮らしましょう」
バイオレッタは口をつぐむ。
二人の未来が絡む時にだけ、クロードはこの上ないほどの執着心をのぞかせる。
バイオレッタを束縛し、どこへも行けないように身も心も繋ぎとめておこうとする。
クロードに対して最初に感じた違和感は、今まさに一斉に芽吹き始めていた。
数えきれないほどの贈り物に、甘く優しい愛の言葉。まるで壊れ物を扱うような独特の触れ方。
そして、どうにかして自分の方を向かせようとするこの態度も。
そのすべてがクロードという青年の本質を見事に物語っているような気がした。
(この方は、もしかするとわたくしが思っている以上に自分に自信がない方なのかもしれない)
自分に自信がないからこそ、女性に優しくできるのかもしれない。
過剰に愛を与えることで、なんとか自分に注意を向けさせたがっているのかもしれない。
……そうしなければ、バイオレッタが自分から離れていってしまうとわかっているから。
黙りこくるバイオレッタに痺れを切らし、クロードが身を乗り出してくる。
彼はテーブルの上に行儀よく置かれたバイオレッタの手を、自らの掌にしっかりと包み込んだ。
「お慕いする貴女の望みをすべて叶えたいと思うのはそんなに不自然なことでしょうか? 私は貴女が喜んでくださるなら何でもいたします。跪けというなら跪きます。足蹴にしたいというならどうぞそのように。どうぞこの哀れな男を貴女の好きなようにお使いください」
思わずバイオレッタはキッと彼を見上げた。
「……馬鹿なことをおっしゃるのはやめて!!」
腹立たしさのあまり強い口調になってしまったが、それでもクロードは気分を害した風でもない。
そっと立ち上がると、彼はバイオレッタの身体をその長い腕で包み込んでしまう。
「恋をすると、人は奴隷になるのです。その感情を自らに与えた人間をことごとく敬い、まるで自分の主人であるかのように神聖視するようになる……。私にこの感情を与えたのは貴女だ。私が貴女になんでもして差し上げたいと思うのはごく当たり前のことでは……?」
クロードに頬をすり寄せられて、バイオレッタはこくりと白い喉を鳴らした。
……恋は蜜のように甘いけれども、自分たちのそれは致死量の猛毒を孕んでいる。
愛すれば愛するほど束縛され、一歩たりとも動けなくなってしまう。
それは互いの愛が深すぎるからではないかとバイオレッタは考えた。
(互いに愛を返すという行為そのものが、わたくしたちにとっては諸刃の剣となるのだわ……)
バイオレッタの喉からこぼれた悲痛な吐息に気づく様子もなく、クロードはその髪や耳たぶに唇を落としては愉しんでいる。
バイオレッタは苦悶した。
自分たちは一体どこで道を間違えたのだろう。
一体どうしてこんな場所まで迷い込んでしまったのだろう。
……どうしてこんな凶行に彼を走らせてしまったのだろう。
辛くて苦しい。
なのに、胸の奥に残された想いの残滓が、浅ましくもまだクロードを恋しがっていた。
(こんなのは、嫌)
もっと純粋にクロードを愛したかった。
たとえ異国へ嫁ぐことになるのだとしても、この国にいられるうちは彼との甘い時間を満喫したいと思っていたし、幸福な恋人同士でありたかった。
なのに、バイオレッタは今こうして檻の中にいる。
隔絶された世界で彼の偏愛に身も心も縛りつけられてしまっている。
彼の腕を振り切って逃げてしまいたいのに、どうしてもそうすることができない。
檻に繋がれてしまった肉体と同じように、心もまた彼のもとに繋がれている。
……こんな現状がひどく嫌でたまらなかった。
「わたくしを、城に帰してください……。こんなところには……いられません」
「なぜ? 貴女は私が欲しかったのでしょう? だから私の求婚の言葉に応じた。そうではないのですか」
「……では逆にお尋ねしますけれど、あなたはわたくしをこんな風に飼うことが目的だったのですか。『妻にする』というのはつまり、こんな風にわたくしを猫や鳥のように檻に閉じ込めて飼い馴らすということだったのですか……!?」
考えれば考えるほどわけがわからなくなってくる。
バイオレッタは白銀の髪を振り乱した。
「……いや、いやっ!! あなたなんか……、あなたなんか大嫌い……!! わたくしはこんな風に愛されたかったわけじゃない……!! もっと、普通の恋人同士みたいに――」
「普通の恋人同士……ですか。では、貴女が実際にそれを私に教えてみせるというのはいかがですか。キスでも抱擁でも、その先の行為でも……。いくらでも貴女のご要望にお応えしますよ。もっとも、その『普通』というのが一体どういうものなのかは私にはわかりかねますが」
バイオレッタは唇を噛む。
クロードとの会話は互いに理屈をこね合っているかのようでまるで実がなかった。
バイオレッタとて、『普通の恋人同士』というのがどういうものなのかを口で説明するのは難しい。
それを知ってか知らずか、クロードはこんな提案をする。実際にどう振舞えばいいのか知りたがり、どうすれば年下の王女が自分に懐いてくれるのか把握したがる。
だが、バイオレッタが主張したいのはそういったことではないのだ。
つまり、世の恋人たちがやらないようなことを彼がしているのだと、そう伝えたかっただけなのだ。なのに――。
バイオレッタは両手で顔を覆った。
(こんな不道徳な愛し方をしないで……! もっと普通に……わたくしが怯えないで済むような愛し方をして……!)
愛しているというなら、自由を奪わないでほしい。
せめてこの心を脅かさないでほしい。
バイオレッタが伝えたいのはただそれだけなのだ。
「……クロード様。わたくしを信じてください。わたくしはあなたから逃げたりしないし、こんなことをしなくたっておそばにいます。こんな……こんな方法を使うのは、卑怯ですわ……」
「では、貴女が私に教えてください。貴女が望む愛し方を」
「そんな!」
クロードは背に流れる白銀の髪を指に巻き付け、バイオレッタの耳元で酩酊したような吐息を漏らす。
「ここではなんでも貴女の思うがままです。いくらでも貴女のお気に召すように動いて差し上げる……。ですからどうか出ていくなどとおっしゃらないでください。私はただ、貴女と二人きりで過ごせる時間が欲しいだけなのだから」
「今までだって、二人きりの時間くらい持てたではありませんか……。どうしてこんなことをしなければならないのですか!? どうしてこんな――」
バイオレッタの叫び声はそこで唐突に途切れた。クロードがいきなり耳朶を甘く食んだからだ。
反論する力を奪われたバイオレッタの唇から、途切れ途切れに艶を帯びた悲鳴が漏れ聞こえ始める。
その様を瞳を細めて眺めながら、クロードは耳元で低くささやいた。
「……私を愛している? 姫」
「あ、愛してなんか――」
「嘘つきな女性だ。こんなに頬を紅くして、全身を震わせて。なのにまだ私への恋心を認められないと……?」
……誘うようなテノールの声に、熱い唇。
しかし、当のクロードの態度はどこか投げやりにも思えた。
夜更けに所有の証を刻み付けるときと同じ、どこか空虚な瞳。
きらめく琥珀のような双眸は、バイオレッタのことなど最初から見ていないようにも思えた。
それはまるでバイオレッタという存在を透かして別の誰かを見出そうとしているかのようだった。
それが恐ろしくて、そして無性に悲しくて。
バイオレッタはただ唇を噛みしめてうつむいた。
(あなたは、どこを見ているの……?)
バイオレッタに触れるとき、クロードは必死で何かを探したがっているように見える。
髪や肌の上を、まるで何かを確かめるように動くクロードの手。
それにいつもバイオレッタは翻弄されてしまう。
ぬくもりか、息遣いか、あるいは面影なのか。
彼はバイオレッタの身体から自らの望むものを巧みに引き出そうとしている。
そのくせ、バイオレッタという少女の輪郭を指先に覚え込ませるように、幾度も幾度もその素肌をなぞりたがる。
ここに来て数日で、バイオレッタはとっくに気づいてしまっていた。
「クロードの愛し方は矛盾している」、と。
もしかしたら自分はその誰かの替わりでしかないのかもしれない。
かつて愛した女性の代替品でしかないのかもしれないと、一人空しくなるのだった。
「わ、わたくしは世継ぎの王女です……。女王選抜試験を放棄してあなたと結ばれるわけにはいきません。お願いですから、こんな形でわたくしを繋ぎとめようとしないでください。こんなのは嫌……!」
なんとか声を振り絞ってみても、クロードはさして気にも留めなかった。
それどころか平然と言う。
「そうおっしゃるだろうと思っていましたよ。貴女は軽々しく男に身を任せるような真似はなさらないだろうと……、私相手でも最後の最後まで拒むのだろうと」
「当たり前です……! わたくしは自分の役割を投げだすつもりなんかありません! 世継ぎの姫として、領主として……たとえ女王として擁立されなかったとしても、最後まで役目を全うするつもりで――」
必死の抗議はさらりと聞き流された。
クロードはバイオレッタの背後に立つと、シュミーズドレスの表面に後ろからするすると手を滑らせてゆく。
「純白の絹は貴女に最もよくお似合いになる色ですね。このしなやかな触り心地といい柔らかな光沢といい……貴女のイメージにとてもよく合っている。こうして触れた時のなめらかな感触も……」
「……!」
クロードの手が、悪戯をするように腕から肩口ヘ這いのぼる。
その途端、バイオレッタの身体がぴくりと跳ねあがる。
「さ、触らないで……。あなたのような方に触られるのは嫌」
「貴女のわがままは大好きですが……それだけは聞けませんね。ああ……、貴女の素肌もまるで絹のようだ。絹の肌触りとはよく言ったものです。まさかこうして実際に味わえる日が来るとは思ってもみませんでしたが……」
恍惚とした表情で言い、クロードはなおも身体に触れようとする。
バイオレッタは勢いよく彼を押しのけた。
「やめて……っ!! 触らないでください……、いや……!!」
ピヴォワンヌ、クララ。
アスターにプリュンヌ、ユーグ、アベル、リシャール。
誰でもいい。
早くここから連れ出してほしい。
この滑稽に歪んだ狂恋の檻から一刻も早く解放してほしい――。
(誰か、わたくしを助けて……! もう嫌なの……! これ以上こんな殿方の相手なんかできるわけない……!)
バイオレッタは必死で拒絶を示した。身体を、皮膚を、唇を強張らせて、クロードの与えるものを何一つとして受け入れまいとする。
すると、クロードはそこでふっと笑みをこぼした。
「……では、世間一般の恋人たちがやるようなことをして差し上げればよろしいのですね?」
「えっ……、……!」
クロードはバイオレッタを軽々と抱きかかえた。
そのままテーブルを離れ、温室の奥へと連れていく。
「いや、何をなさるのですか……!」
有無を言わさぬ態度で、クロードは歩を進めた。
青々とした緑の茂みを抜け、色鮮やかな花々を横切り、いたるところに置かれたいくつもの衝立を抜ける。
奥に進むにつれて、熱帯植物の放つ甘い香りがより強くなる。頭がぼうっと霞むような、甘くて濃いイランイランの匂いだ。
バイオレッタは張り詰めていた意識が緩んでくるのを感じた。
(むせ返るような匂いだわ……、随分と強い……)
華やいだ香りに気を取られているうちに、クロードが最後の衝立を抜けた。
「さあ、こちらですよ。私のバイオレッタ」
頭上のクロードが低い声で嗤ったのがわかり、バイオレッタは首を傾げつつもこわごわそこにあるものを見た。
そこにあったものは――。
(嘘……っ!)
……そこにはクリスタルでできた豪奢な寝台が置かれていた。
硝子でできた四本の立派な支柱。天蓋から落ちかかるレースは真昼の光を受けてまろやかな輝きを放っている。
揃いのナイトテーブルに、薫り高い白百合を活けた花瓶。
シーツの上にたっぷりと敷き詰められたリラの花びら。
それを目の当たりにしたバイオレッタの全身から面白いように血の気が引いた。
……ただの温室だと思っていた。
ベッドなどあるわけがないと。
だが、ここにあるのは紛れもなく寝台だった。
これを見ただけで、クロードの次の行動はすぐに予測できた。
初めてここへ連れてこられた日と同じように、バイオレッタを無理やり自分のものにするつもりなのだ。
「やっ……!」
バイオレッタはじたばたと暴れた。
そんなしぐささえ愛おしくてしょうがないとでもいうように、頭上のクロードがくつりと低く嗤った。
「さあ、姫。愛し合いましょう……?」
(これじゃ、わたくしはこの方に手籠めにされてしまう。ここで身体を奪われてしまう――!)
バイオレッタはきつく瞳を閉ざした。