第二十八章 強さと弱さ

 
「いい月だなぁ。秋の月だ」
 
 噴水の縁に並んで座った二人は、何をするでもなくただぼんやりと夜空を見上げていた。
 傍らではなだれ落ちる噴水の水がなんとも涼しげな音を立てている。
 ミュゲの心はその水音にようやく平静を取り戻した。
 飛沫を上げる水を手ですくい、軽く指先を湿らせてみる。
 女神の捧げ持つかめから湧き出でる水流を無心でたなうらに受けていると、不思議と心が穏やかになってきた。
 
「浮かない顔してますね」
「え……」
 指摘され、慌てて頬に残る涙を手で払う。
 髪も頬も涙で濡れてぐしゃぐしゃになっていた。
 確認するすべはないけれど、今の自分は相当酷い顔になっているに違いない。
 顔をじっくり見られるのが嫌で、ミュゲはアベルからふいと顔を背ける。
「……わたくしのこと、馬鹿だとか思わないの?」
「思いませんよ、そんなこと」
「だってわたくし……、あなたを利用しているわ」
 
 クロードは「利用」という言葉を使った。自分たちは互いに利用し利用される関係だったのだと。
 だから私は貴女を愛せないのだと。
 
(そんなのってない……。わたくしは確かにあの人にすがっていた。でも、そんな風に思ったことなんかないのに……)
 
 ミュゲが思わずうつむくと、軽快な笑い声が降ってくる。
「利用? 僕は大歓迎ですよ。むしろ貴女にならそうされたいです」
「な……言ってなさいよ、馬鹿! 真面目に聞いてほしかったのに……」
「えー? 真面目に聞いてるのになー」
 アベルはしばらく唇を尖らせて拗ねていたが。
「でも正直言って、その言葉、僕には違和感あるんですけど」
「……え?」
 アベルは少し考え込むようなしぐさをしてから、やおら話し出した。
「普通、人間はみんなお互いを助け合って生きてます。……っていうとまあ、綺麗ごとに聞こえますけど、要は色々知恵や感情を出し合って生きてるんですよ。得意な能力を持ち寄ってる、っていうとわかりやすいかな? 今だってそうでしょう。貴女は僕に心情を吐露することで辛い気持ちを和らげているし、僕はそんな貴女を慰めることで自尊心を高めている」
「……ああ、確かにそうかもしれないわね」
 
 昔からきっと人間はそういった生き方をしてきたはずだ。はっきり言って今のスフェーンもそうだろう。
「利用」という言葉を用いるから物悲しくなるだけであって、結局は「支え合い」なのだ。
 
「貴女に何があったかはわかりませんけど、利用ってそもそもみんなしてますよ。貴女に『利用』される男の方にだって、何かしら得る物があるんですからね。助け合うことを利用しあうって言うなら、時間の無駄になるようなことなんて何もないんじゃないかと僕は思うんですけど……。助け合いと利用、その二つが同義イコールなら」
(助け合う……)
 アベルはそこでふいに普段通りの悪戯っぽい笑みを浮かべてみせる。
「僕はもともと誰かに頼りにされるのは嫌いじゃないんです。今だってそうですよ。ミュゲ様の悩みを聞いてあげられて、感謝されて、しかも花だって持たせてもらえる。よく考えればこれって結構おいしいお役目だと思うけどなあ」
 ミュゲは確かにそうかもしれない、と思った。
「ねえ……、そこまで言うなら、わたくしを助けてくれる? 以前あなたはわたくしが好きだと言ったわ。そこまで言ってくれたんだから……、お願い、わたくしを――!」
 
 ――……助けて。
 
 一縷の願いを込めてアベルを見つめる。
 ほろりとこぼれた涙を、長い指先がすくい上げた。
「やっとお前の本音が聞けたな。あー、長かった……。やっぱりお前、素顔の方がいいんじゃないの?」
 楽しそうに揶揄され、ミュゲは泣き笑いの表情で応戦した。
「……あなただって、そっちの口調の方がいいわよ。いつものはいい子ぶってて薄気味悪いわ」
「猫かぶり姫がよく言うよ。で? 今日は何があったわけ、お姫様。ちゃんと助けてやるから話してみろよ」
 ミュゲは一瞬だけ口をつぐんだ。
 しかし、アベルがアベルなりに本気で対話しようとしてくれていることに勇気を得て、少しずつ事の経緯を語りだした。
「わたくし、ある人に振り向いてほしかったの。だから色んなことをしてきたわ。彼がもっと活躍できるように取り計らったり、出世のための口添えをしたり。そして、彼を引き留めるためによくないことにも手を染めた。今思えば勝手なことばかりしていたのね。あの人は、そんなわたくしが嫌だったんだわ」
 やっとの思いで告白すれば、アベルは淡々と返した。
「……それってやっぱり、クロードのことなんだろ?」
「……!」
 ぎくりとしてアベルを仰ぎ見ると、彼はいたって平坦な表情のままミュゲを見つめ返した。
「御見通しだったってわけね……」
「だって俺、お前しか見てなかったから。お前の視線が行き着く先には必ずあいつがいるわけだからさ、そりゃあ気づくよなぁ」
 さらりと言ってのけるが、何やらものすごい発言をされたような気がして、ミュゲは顔を赤らめる。
「……そ、それは大変だったわね。報われない苦労ばっかりして、お気の毒様!」
「いや? 今夜報われたからもういいんだよ。すっごく大変だったけどなぁ……、お前に絡もうとする大臣を蹴散らしてやったり、隙あらば手ぇ出そうとする貴族のボンボンに睨み利かせたりさー」
「はあ!? あなた……、そんな、嘘でしょう? そんなことまでしていたの!?」
 アベルは「俺は嘘なんか言わないけど」と眉をひそめてみせる。
 ミュゲはたちまちしどろもどろになった。
「だ、だって、そんなことをして何になるの? スフェーンの王女を好きになったって、どうせ叶わないに決まっているじゃない」
 
 ……スフェーンとアルマンディンは敵国同士。
 しかもアベルはスフェーンに滅ぼされたアルマンディン側の人間だ。
 スフェーンの王女であるミュゲのことなど最初から相手にしたくないに決まっている。
 だが。
 
「そんなのお前が決めることじゃないだろ。俺が決めるんだよ、そういうのは」
 つまらなさそうに言い、アベルは自らの銀髪をくるくると指に絡めた。
「……呆れた。とんだ馬鹿がいるものね」
「はあ? お前、散々世話になっといてよく言うな。俺のことをねぎらってやろうとか、そういうのないの?」
「……えっ」
 わが意を得たりとばかりににやりとし、アベルはずいと身を乗り出してくる。
「お前狙いの連中から毎回ちゃんと庇ってやってたのに、報酬は一切ナシとかありえないだろ。ここは一つキスとかしてくれても……」
「そ、そんなことする理由がないでしょう!? あなたが勝手にしたことじゃない!!」
 ミュゲは慌てて頬をなぞるアベルの指先から逃れた。
 大声を出してしまってから、ミュゲははたと我に返った。
「あ……、やだもう。あなたといるといつもこうだわ」
「いいんじゃないの、別に。それこそお互い様だろ」
 二人してしばしくすくすと笑い合う。
 
 こうしてアベルの前で自分の感情を吐露するのは、思ったより嫌ではなかった。
 それどころか、ようやく本来の自分に戻れたようでほっとする。
 本当に言いたいことを好きなだけ言える状況というのは、思ったより気持ちのいいものだった。
 ミュゲは快さのあまりほうっと息をつく。
 こんな自由な気持ちになれたのは一体いつぶりだろう……。
 
 アベルはそこで懐をごそごそやりだした。
 コートの内側から小ぶりの硝子瓶を取り出すと、蓋を開けて口をつける。 
 つんとした独特の匂いに、ミュゲはぎょっとした。
「そ、それ何……?」
「いや? あんまり月が綺麗だから月見酒ってやつ」
 言って、ぐびりと中身を飲み下す。
 ミュゲは翡翠色のまつげをぱちぱちと瞬かせた。
「あなた、もしかしてお酒が好きなの……?」
「ご名答。ついでに言うと俺ウワバミなんだよねー。いくらでも飲めるっつーか、底なし?」
「ふっ……!」
 おどけた物言いに小さく噴き出すと、アベルが破顔する。
「やっと笑ってくれたな」
「……あ、こ、これはその……!」
「いやぁ、月と美人をさかなに酒が呑めるとか最高だよなー。眼福眼福」
 
 
 ミュゲは隣のアベルが酒を飲んでいるのをいいことに、少しずつ言葉を紡ぎ出した。
「……思えば、最初からわたくしは世継ぎには不向きだったのだと思うわ。お姉様のように健康でもなく、バイオレッタのように純真でもない。ピヴォワンヌみたいに物おじしない性格でもないし、かといってプリュンヌのような素直さもない。持っていないのよ……、人に誉めそやされるものなんか、何一つ」
 素直に言葉にすればまたちくちくと胸が痛んだ。
 取柄なんか自分は何一つ持っていない。
 そしてまた、他人に興味を持ってもらえるような素質もない。
 だからこんなことになってしまったのだろうか。最初からもっと自分自身を向上させる努力をしていれば、こんな目に遭わずに済んだのだろうか……。
 すると、アベルがぽつりと言った。
「……お前、なんでそうやって誰かのことを羨んでばっかりなんだよ」
「え……」
 アベルは酒瓶を噴水の縁に置くとミュゲに向き直る。
「お前の姿、まるで『自分はダメだ、出来損ないだ』って言ってるみたいに見える。けど、人は誰だって不完全だろ。今お前が名前を挙げた王女たちだって完璧じゃない。彼女たちには彼女たちなりの苦しみや悩みがあるんだ。彼女たちだってお前と何も変わらないんだよ」
「そんな……違うわ。だって、わたくしは本当に不出来な王女ですもの……!」
 ミュゲはそこで自らの左胸につと手を添えた。
「……わたくしには持病があるの。それは胸に巣食っていて、わたくしが活発に動こうとすると必ず起きるのよ。息ができなくなるだけじゃなくて、心臓を鷲掴みにされたみたいになって、とても苦しくなるの。だからわたくしには最初からこの試験に加わる資格なんてなかったのよ。だって戦うための武器なんか何一つ持ってないんですもの……」
「……だから姉姫をあんな風にしたのか?」
「……!」
 やはり全部お見通しというわけか。
 ごくりとつばを飲み込むと、ミュゲは意を決して唇を開いた。
「……そうよ。わたくしは、お姉様がずっと妬ましかった。お母様の愛情を独占できて、期待されて、『世継ぎの姫』として揺らぐことなく立っていられるあの人のことが。それだけじゃない、クロードから一心に愛されているバイオレッタのことも憎かったわ。わたくしがどんなに必死で努力したって、あの人たちはそれを平気で追い抜いていく。持ち前の能力も、人に愛される資格も……あの二人には最初からわたくし以上のものが備わっている。だから嫌だった。目の前から消えてしまえばいいと思うくらい憎かった」
 
 ただ「憎い」と口にするだけで、胸がきりきりと絞られたような感じがする。
 だが、それでもミュゲは言わずにはおれなかった。
 
「嫌いよ。大嫌い。あんな、能天気でいい加減な人たちのことなんか、わたくしは嫌い。わたくしが欲しているものを全部手に入れて、横取りして。それでもまだ足りないって顔をしてるあの人たちのことが、大嫌い……!」
「……」
 アベルは酒瓶を大きく傾けて一息に中身を干す。
 そして独り言のように言った。
「……自分の才能を、そんなことのために使うなよ」
「え――」
 ……才能?
 何を言っているのだろう。
 思わず目を瞬くミュゲに向かって、アベルは静かに言った。
「お前は確かに身体が弱いかもしれない。人と比べてできないことの方が多いかもしれない。けど、その心の強さだけは本物だ」
「心の……強さ?」
「ああ。お前は弱い身体と引き換えに誰よりも強い心を手に入れたんだ。そして心が強いってことは、他人をむやみに攻撃しなくてもじゅうぶん生きていけるってことだよ」
 アベルは滔々と語る。
「お前は人の痛みを誰よりも知ってるはずだ。どうされれば傷つくか、何をされたら痛いのか。誰に教わらなくても、お前は初めから全部知ってるんだよ。だからこれ以上誰かを貶めるような真似はするな。お前自身がどんどん薄汚くなっていくだけだ。何より、誰かを傷つけるのは……苦しい」
「……っ!」
 ミュゲはそこで自身の胸を締め上げていた箍がするりと外れたのを感じ取る。
 ミュゲは背を丸め、顔を覆って嗚咽した。
「っ、ふ、うう……!!」
 
 ……こんなことを言ってもらったのは初めてだった。
 身体が弱いということはミュゲにとってはずっと引け目でしかなかった。
 だが、アベルはそれだって一種の才能だという。
 そんな境遇に置かれているからこそ人の痛みが理解できるはずだと言ってくれる。
 そして病弱な分心には強さを備えて生まれてきたのだと言って励ましてくれる。
 どれもにわかには信じられないような言葉ばかりだ。
 なのに、今は彼の一言一言にひどく胸を打たれてしまう。
 
 ミュゲはさらに大きくしゃくり上げ、途切れ途切れに言った。
「……そんな、こと……、誰も言ってくれなかったわ……。わ、わたくしは一人の人間である前にこの国の世継ぎの姫で……! どこもかしこも完璧でなければ認めてもらえなかったし、それが当たり前とでもいうような態度で扱われて……! だけど、だけど本当はとても苦しくて……!」
 ミュゲはそこで「ああ、自分は泣きたかったのだ」と悟った。
 それも、寝室にこもって一人きりで泣くのではなく、誰かの目があるところで思い切り泣きたかったのだと。
 アベルはミュゲの肩に手を回すと、安堵させるように微笑んだ。
「……人の痛みがわかるってのは一種の才覚なんだよ。その気になれば、お前はいくらでも相手に寄り添える人間なんだ。だから、それ以上汚れるな。俺はそんなお前を見ていたくなんかないんだから」
 とっさに「わたくしは綺麗なんかじゃない」、と言いかけて、ミュゲは口をつぐんだ。
 アベルが力強い抱擁でその言葉をかき消したからだ。
「……慣れないことはしないほうがいいかもしれないな。お前はお前のままでいいよ。せっかくの自分自身を蔑ろにするような努力ならしなくていい。お前は今のままでじゅうぶん綺麗なんだから」
「……!」
 その言葉に、堰き止めていた感情がまたしても一気に溢れる。
 ミュゲはアベルの腕の中で幼い子供のようにいつまでも泣き続けた。
 
 
***
 
 ……しばらくして、ミュゲの涙がすっかり乾いた頃。
「なあ」
「ん……? なあに……?」
「俺のこと、覚えてる?」
 まるでスフェーン男たちが使う軟派の手管のようだと、ミュゲは噴き出す。
「いやだ、何の話をしてるの?」
 ハンカチーフで目元を拭いつつ訊ねると、アベルはどこか照れたような表情で切り出した。
「お前、俺のこと助けてくれたよな。昔、魔導士館の裏手で」
「……え」
「今から七年くらい前にさ」
 ぼそぼそと言われる。
 しかし、ミュゲには思い当たる節がなかった。
(え……。魔導士館の裏手で……?)
 そこでミュゲの脳裏にぼんやり浮かび上がってきたもの。
 それは、白銀の髪を胸のあたりまで伸ばした可愛らしい少女の顔だった。
 純白のコートと揃いのジレを着込み、少年たちに寄ってたかっていじめられていた少女。
(……え? 「少女」?)
 まさか、まさか――
 ミュゲはそこで勢いよく頭を下げた。
「……ごめんなさい。わたくし、実はあの時、あなたが男性だと思ってなかったの」
「はあっ!?」
 アベルが素っ頓狂な声を上げるのも無理はない。ミュゲは今、彼に対して一番言ってはならないことを口にしたのだから。
「だ、だから! その……、魔導士の女の子だと思っていたのよ。あなた、あの時すごく可愛らしかったから」
「はああー!?」
 アベルはぐしゃぐしゃと乱暴に髪をかきやった。軽く舌打ちしたかと思うと、ずいとミュゲに迫る。
「おい。それ、褒めてないよな?」
「だ、だから謝ってるじゃない!!」
「うっわ、気に入らねえな……。俺、宦官どころか女扱いされてたのかよ……! ったく、なんなんだよ、せっかくいい雰囲気になったと思ったら……!」
 ミュゲは「まずい」と思いつつ、必死で彼の擁護フォローに回った。
「か、可愛かったんだからいいじゃない。美少女だと思ったわよ?」
 だが、その発言はアベルの怒りをますます燃え上がらせてしまった。
「俺、男なんだけど」
「……し、知ってるわ」
「……じゃあ俺がお前に手ぇ出しても不思議じゃないって、わかってるよな? たとえば……こんなこととか」
 アベルはそう言って、細い首筋にキスをした。
「やっ……、何、して……!」
「宦官だとか、男色家だとか……お前にはこれまで散々色んなこと言われてきたけど……。こんな屈辱は初めてだ。許せない」
「や、やめてよ、くすぐったい!!」
 声を上げて抵抗すると、アベルは胡乱な目を向けてくる。
「お前さ、まさか煽ろうとしてわざとそういうこと言ってる? だとしたらとんだ悪女だな」
「ち、違……っ!」
 アベルはそのままゆっくりと唇を移動させた。
 翡翠色の髪をはじめとし、頬に瞼、額……。身体のあちこちに熱い唇が押し当てられる。
 意外にも、ミュゲはそれをちっとも不快に感じなかった。むしろ、心を許し合った者同士がするような気安い触れ合いにどきどきしてしまう。
 行為そのものは強引なのに、唇の感触がひどく優しいせいで抵抗する気が失せてしまう。
 ミュゲは瞳を閉じてそのぬくもりに身をゆだねた。
 
 こうして言葉を交わしてみて初めてわかった。
 アベルは男だ。
 それも、信念と矜持とを併せ持った頼もしい青年だ。
 これまでずっといい加減な男だと思っていた。
 ミュゲの記憶の中の彼はいつものらりくらりと行動していて、煙に巻くような言葉遣いや人を食ったような態度ばかりが目立っていた。
 しかし、彼のそれは単なる表向きの顔でしかなかったのだ。
 こうして互いに本音で話しているとよくわかる。彼はけしていい加減でも不真面目でもないのだと。むしろ、こちらが思う以上に人をよく見ているのだと。
 そして彼から自分が一番欲しかった言葉をかけてもらえたことが、今夜のミュゲには何よりも沁みた。
 
「アベル……」
「ん?」
「ううん。あの……、ただアベルって呼んでもいい?」
 問いかけると、水色の双眸が驚きに見開かれる。
「なんていうか、その……あなたの名前、もっとちゃんと呼んでみたくなって」
 すると、アベルはくすりと笑ってミュゲの額を小突いてきた。
「ふーん。じゃあ俺もお前のこと名前で呼ぶ。これでおあいこだな、ミュゲ」
「ええ、よろしく。アベル」
 
 
 
 
 ややあってから、ミュゲは意を決して切り出した。
「……アベル。あなたに一つだけお願いがあるの」
「何だ?」
「お姉様の解毒、あなたならできる?」
 ミュゲの異父姉オルタンシアは、現在深い昏睡状態にある。
 ミュゲが闇の魔術の使い手であるクロードに頼み込んだからだ。姉を殺してくれと。自分を女王にしてくれと。
 最初にアベルに咎められたとき、ミュゲは「解毒などしない」と断言した。
 自分が女王になってクロードと結ばれたいばかりに、アベルの諫言を突っぱねたのである。
「……どういう風の吹き回しだよ」
「わたくし、これまでお姉様のことを一方的に憎い存在だと決めつけていた。だけど、あなたが言うようにお姉様にもお姉様なりの苦しみや悩みがあったのかもしれないって思って……」
 
 何も見えていなかった。いや、見ようともしてこなかった。
 手を伸ばせば誰の心にだって触れられたのに、ミュゲはそうしなかった。
 外の世界が恐ろしかったから、『箱』に閉じこもってそこから出ようともしなかった。
 
(……自分の身だけが可愛くて大事なのは、わたくしの方だったんだわ。だけど、そんな時間ももうおしまい……。ちゃんと向き合っていかなければ……)
 
 ……これは、ほかでもない自分の物語なのだから。
 
 ミュゲはアベルの顔を正面から見据えて言った。
「あなたは光の魔導士だって聞いているわ。それで、その……もしも力を貸してもらえるようなら、あなたに解毒をお願いしたいの。あの毒はクロードが生成した闇の魔術の一種。相反する力の使い手であるあなたになら、術式を打ち消すことができるんじゃないかと思って」
「なるほど。確かに俺の魔術属性なら闇の魔術を相殺できる。あれが闇の魔術によるものなら、第一王女の昏睡状態くらいはすぐに解けるだろう。……けど、その前に訊いていいか」
「何……?」
 問いかければ、そこでアベルは先ほどとは打って変わって真摯な面持ちになる。
「お前は自分のしたことをちゃんとわかってるんだよな?」
 その言葉に、ミュゲはぴたりと動きを止める。
 そして数秒置いたのちにきっぱりと答えた。
「……ええ。わかっているわ。わたくしはこの先ずっとこの罪を背負って生きていかなければいけない。一歩間違えばわたくしは姉殺しの烙印を捺されるところだったのだから」
 ミュゲは自らのしたことを一つ一つ思い返しながら、言う。
「女王選抜試験のため、そしてクロードのためとはいえ、わたくしはけして許されないことをしたわ。これはわたくしの罪。すべてお父様にお話しなくてはならないし、それによって女王候補としての権利がはく奪されてしまうというならそれも仕方のないことだと思っているわ」
 すべて言い切ってしまうと、アベルがそこでようやく息をついた。
「……わかった。俺の力を貸してやるよ。お前に現実を受け止めるだけの覚悟があるなら」
「ええ、あるわ」
 
 すべて、受け止めなければならない。
 これは他の誰でもないミュゲ自身の罪だ。
 ミュゲが生涯背負っていくべきもの、そして克服していかなければならないものでもある。 
 たとえどんな処罰が待っていても、耐えられる。否、耐えてみせる。
 
 まずは姉に謝らなければ。その眠りを解き、もう一度彼女と話をしなければ……。
 
(……わたくしは、彼女たちのことが嫌いだったんじゃない。本当は羨ましかったんだわ)
 
 そうだ。本当は自分もあんな風にのびのびと生きてみたかっただけなのかもしれない。
 オルタンシアやバイオレッタがそうしているように、ただ自由に、ありのままの姿で生きていきたかっただけなのかもしれない……。
 アベルと並んで晩秋の風を身に受けながら、ミュゲはようやく自らの進むべき道が開けたような、不思議な感慨に包まれていた。
 
 
 

 

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