第四章 少年王の怒り

 
 
「一体何が起こっておるのだ、説明せよ!!」
≪星の間≫に着くなり、一行は国王リシャールの甲高い怒鳴り声に出迎えられる羽目になった。
 彼は玉座を覆う帳を勢いよくむしり取り、華奢な肩をめいっぱい怒らせて叫んだ。
「この僕が知らぬとでも思ったのか!! 隠しおおせるとでも思ったか!? は……、馬鹿にするでない、とっくの昔に僕の耳にも届いておるぞ……、バイオレッタが姿を消したという話は!!」
「へ、陛下……、そのように激されますとお身体が――」
 猫なで声で諫めたシュザンヌを、リシャールは一蹴した。
「黙れ!! 形ばかりの王妃の分際で、僕に指図をするな!!」
 シュザンヌは悔しげに唇を噛む。
 それもそのはずだ。
 オルタンシアが昏睡状態に陥ったとき、リシャールはここまで狼狽したりはしなかった。
 女王選抜試験の進行が滞るのではないかと危ぶみはしたものの、こんなに激しく憤ったりはしなかった。
 彼にとっては愛する第二王妃エリザベスとの間に生まれたバイオレッタだけが何よりも尊い存在でありすべてなのだ。
 
 ピヴォワンヌはそこでふと、では自分たちは一体何のためにここに囚われているのだろうと考える。
 自分たちは彼にとって「都合よく動く手駒」の一つでしかないのだろうか。
 本当にそれだけの価値しかない人間なのだろうか。
 王位を継がせるため、そして政略結婚に利用するために狭苦しい後宮に閉じ込め、支障があれば尖塔に軟禁してその存在を隠蔽してしまう。それがリシャールのやり方だ。
 が、ピヴォワンヌはこの荒っぽい扱われ方に反感を抱いてもいた。
 確かに王子も王女も、彼の前では単なる手駒でしかないのかもしれない。彼にとってはエリザベスの忘れ形見であるバイオレッタだけが最愛で、それ以外はみなどうでもいい存在なのかもしれない。
 だが、たったそれだけの役割しか与えられないというのはあまりにも酷い話だ。
 結局、自分たちは国王であるリシャールにいいように扱われるしかないのだ。
 
 乱心したリシャールを前にして、ピヴォワンヌの芍薬色の双眸に剣呑な輝きが宿る。
 この≪星の間≫に足を踏み入れると、ピヴォワンヌは嫌でも養父の死を思い出す。
 あんな惨事だけは避けなくてはならない。
 こんな切迫した状況では、この危うい少年王は一体何をしでかすかわかったものではないのだから。
 
 玉座の置かれた≪星の間≫は、今やリシャールに近しいものたちで埋め尽くされていた。
 
 リシャールに最も近いところには、翡翠色の髪をした正妃シュザンヌがいる。
 不惑に達した美貌の王妃で、伯母の息子であるリシャールとはいとこの関係に当たる。
 リシャールの正式な相手として遇されていながら、男好きで派手好きという困った王妃である。
 そのため、王妃としての評判がきちんと維持できているのかどうかは甚だ怪しく、官僚によっては第二王妃エリザベスがいた時代を懐かしむ者もいるほどだ。
 
 その隣に控えているのはリシャールの生母、王太后ヴィルヘルミーネである。
 シュザンヌの伯母に当たる人物で、都の名門アウグスタス家の出身だ。年齢はすでに六十を過ぎており、王室女性たちの中では最も高齢だ。
 シュザンヌと同じ翡翠色の髪はきっちりとまとめ、黒真珠のピンを挿して飾っている。
 
 次いで、ピヴォワンヌは自らの周囲にたたずむ王子王女に目をやった。
 第四王女であるピヴォワンヌの周りには、すでに三人の王子王女がたたずんでいた。
 
 国王リシャールと王妃シュザンヌとの間に生まれた第一王子アスターは、王子としての正装姿でやってきている。
 紅い縁取りのされた群青のコートに同色のトラウザースを合わせ、内側には一段濃い紺色のベストを着込んでいる。襟元はたっぷりとしたシルクのクラヴァットで華やかにし、ルビーを使った豪奢な金細工のタイピンで留めていた。
 繊細に光り輝く金の髪はリシャール譲り、木々を思わせるエメラルドの瞳は母のシュザンヌから受け継いだものだ。
 だが、その片目には同じ緑色の色硝子が嵌め込まれ、わずかに紅の色彩が透けて見えていた。
 これは大陸を脅かすといわれる忌み子の証だ。片眼が血のように紅いために彼は忌み子の扱いを受け、成人した今も後宮の一角に軟禁されているのである。
 
 次に、次期女王候補の一人にしてピヴォワンヌたちの好敵手である第二王女ミュゲ。
 今日は翡翠の髪を際立たせる真紅のドレスにペールグリーンの手袋で着飾っている。
 随所に見受けられるのは燦然と輝くサファイアのブローチだ。惜しげもなく全身にちりばめられており、赤いドレスや薄緑の手袋と相まってなんとも鮮やかで流麗な印象だった。
 彼女は現在昏睡状態にある第一王女オルタンシアの妹に当たる姫君だ。
 翡翠色の髪と瞳を持つ少女で、どちらかといえば内気でおとなしい性格をしている。
 とはいえ、あのシュザンヌの娘だけあってその気性はしたたかだ。
 基本的には物静かだが、ふとした拍子にこちらがびっくりするほどの刺々しさをのぞかせることがあった。
 
 そして、普段は尖塔に軟禁されている末姫プリュンヌ。
 彼女はアスター同様、紅い色彩をその身に有する姫だ。
 忌み子の烙印を捺されているため、第五王女という身分を与えられていながらめったに城に出てくることはない。
 が、今日は父王の召集を受け、彼女も盛装姿でこの≪星の間≫にやってきていた。
 ドレスの色は初摘みの苺を思わせる愛らしいルビーピンクで、同じ色の長い髪は小ぶりなシニヨンにまとめられている。
 頭部にかけられている純白のヴェールは、忌み子の象徴である紅い髪を隠すためのものだ。作りこそシンプルだが、ヴェール全体に入れられた刺繍はどこまでも細やかで、相当に手の込んだ逸品だということが一目でわかる。
 小作りな額には黄金のサークレットを嵌め、微細な動きによって髪のヴェールがずれてしまわないように固定していた。
 
 ピヴォワンヌはそこで小さく息をついた。
(第四王女のあたしを含めると、ここにいる王子や姫は全部で四人、か……。オルタンシアとバイオレッタがいないわけだから、王女の数が減るのは当然だけど……やっぱりなんだか変な感じがするわ)
 
「さあ、お前たち。順番に話してもらおうか。何を知っている? ……いや、何を隠しておるのだ? 此度こたびの一件について、お前たちが知っていることをすべて話すがよい」
 ピヴォワンヌは王の鋭い声音に思わず固唾を呑む。
 すると、何を思ったかそこでアスターが歩み出た。
「……父上。話すも何も、僕たちはほとんど何も知りません」
「戯けたことを抜かすでない!! 一日中同じ敷地にいたはずのそなたたちが、何も知らぬとは笑わせる!! そんな嘘が僕に通用するとでも思ったか!!」
 喚くリシャールに、アスターはいっそ冷ややかともいえる態度で言い切った。
「ですが、女官長の報告がすべてでしょう。彼女は薔薇後宮における統括者。女官と侍女をまとめ、王女の生活習慣や予定といったものをあまさず把握している数少ない人物です。その女官長が有益な話をもたらさなかったというのであれば、それはつまり彼女の話がすべてだということです」
 彼はなおも父王に言い募った。
「もしこれで情報が少なすぎるというのであれば、女官や侍女に話を聞いてみたほうがいいのではありませんか。あるいは、後宮にいる見張りの兵士や王城での労働者などの話を参考にするというのも手でしょう。その方が合理的に事を進められるかと思いますが」
「……お前は、僕が無能だと言いたいようだな」
 ぞっとするようなリシャールの声に、アスターははっと口をつぐむ。
 凍てつくようなリシャールの眼差しに、彼は頑強な肩をたちまち強張らせた。うかがうようにリシャールを見る。
 どうやら自らが非難されることに対してではなく、居並ぶ他の王女たちにリシャールの怒りが飛び火することを恐れているようだった。
 アスターはすぐに父王の言葉を否定した。
「そのようなことはありません。僕はその権限を持ちません」
「では話せ。隠し立ては一切するでないぞ。僕に逆らえばいかなそなたたちとてただでは済まさぬ」
「ひうっ……!」
 プリュンヌがびくびくと小さな身体を震わせる。
 ようやく宮廷に招かれたと思った矢先にこれなのだから、もはや不憫としか言いようがない。
 アスターはそんな彼女を自身の後ろに庇うようにした。
「お兄様っ……」
「――下がっていろ。何が起こるかわからない」
「ふえっ……!」
 プリュンヌはすがるように異父姉ミュゲを見る。彼女もまた緩く首を振ってじっとしているように伝えた。
 それくらいリシャールの剣幕は壮絶なもので、最年少の姫であるプリュンヌがその恐ろしさに泣き出してしまわないのが不思議なくらいだった。
 
 ……≪星の間≫はもはや荒れ放題だった。
 平素であれば引見や謁見に使われる場だが、今は手も付けられないほど散らかっている。
 官僚や近衛騎士たちも必死で止めようとしたのだろうが、どれも徒労に終わったらしい。
 今では腫れ物に触るように広間の隅からリシャールの様子をうかがっているだけだ。
 きっとエリザベスが生きていた頃もこうだったのだろうと、ピヴォワンヌは怯えつつも考える。
 バイオレッタが最初に失踪したのは齢三つの時だ。
 当時、リシャールとエリザベスは新婚夫婦として幸福の絶頂にいたわけだが、その幸せがバイオレッタの失踪によって唐突に消え失せてしまったのである。二人の喪失感はすさまじいものだっただろう。
 二人の幸福というのはそもそも愛娘であるバイオレッタありきのものだ。
 バイオレッタは二人を結び付ける唯一の存在であり、また二人の愛や絆をさらに強いものに変えてくれるかけがえのない存在でもあった。
 仲睦まじく幼子の面倒を見ることで、二人は二人にしか分かち合えない新たな喜びを増やしていたのだろう。
(それがいきなりいなくなったんだものね……)
 当時もこうして暴れたのだろうか。そうだとすれば、彼を支えていたエリザベスの心労は計り知れないものがある。
 案外彼女が急逝したのもそれが原因なのではないだろうかとピヴォワンヌは考えたが、彼女の死については真相は闇の中だ。これ以上追及するのはやめておいた方がいいのかもしれない。
 だが、芳紀二十九の側妃の死は、どこか不自然な感じがした。
 政に必要以上に介入して反感を買うこともあったというから、そこには作為的な何かが潜んでいたのかもしれない。
 
「何とか申すがよい!! ただ突っ立っているだけの木偶が!! 子供のなりをした国王相手に言葉はいらぬということか!?」
 きんきんした少年特有のがなり声に、ピヴォワンヌは我に返った。
 見れば、リシャールが顔を真っ赤にして叫んでいる。
 そんな言動をするから子供扱いされるのだと、どうしてわからないのだろう。
 こうした場で取り乱すのはそれこそ子供の所業だ。こうした場においてこそ落ち着いた物言いを心掛けなければ、人はついてこない。
 君主たるもの、統率の場において取り乱さないというのは基本である。
 少なくとも、ピヴォワンヌがかつて住んでいた国――りゅうの女王はそうした女性だった。
(もっとも、こんなに心臓をばくばくさせてるあたしが言えることじゃないわね)
 ピヴォワンヌとて男の罵声など大嫌いだ。
 品がないし、何よりうるさい。鼓膜が破れそうなほどの大声で周囲を威圧するリシャールは、見ているこちらがはらはらするほど不安定アンバランスな表情をしていて、それもまたピヴォワンヌの怯えを増長させた。
 そもそも、年頃の少女相手に声を荒げるなど、大の男のすることではない。
 現に隣のミュゲはかたかたと震えている。顔は蒼白になっていて、今すぐにでもこの場から逃げ出してしまいたいといった体だ。
 彼女はこれまで何度かこっぴどくバイオレッタをなじったことがある。
 それを思えばいい気味だとも思ったが、それよりも「可哀想だ」という気持ちの方が遥かに勝った。
 思えば、姉であるバイオレッタもこうした場は大の苦手だった。怯えや恐怖といったものが形となって全身に表れるくらいで、息を乱したり震えだしたりすることも多々あった。
 しかも彼女の場合はもっと酷かった。相手の怒りや苛立ちを感じ取ると、ただそれだけでもう平然としていることができなくなってしまうのだ。
 誰かに怒られると冷や汗が出て息が詰まりそうになるのだと、いつもバイオレッタはこぼしていた。
 バイオレッタがリシャールのこんな一面を少しでも目の当たりにしていたら、きっと彼女はリシャールが嫌いになっていただろう。
 彼女の中の「頼もしく慕わしい父王」という印象は崩れ、瞬く間に「攻撃的で恐ろしい暴君」というレッテルを貼られていたに違いない。
 不謹慎ではあるが、やはりこの場にバイオレッタは居合わせなくてよかったのだろうとピヴォワンヌは考えた。
 
(あれ。そういえば、あの男がいない……)
 
 ピヴォワンヌは可愛らしい顔を険しくした。
 常にリシャールの傍らに控えているはずのクロードの姿が、今日に限って見当たらない。
 リシャールに徹底的に服従する様子から『黒衣の従者セルヴァン』『国王の影』などとも呼ばれる彼だが、今朝はどうしたのだろう。
 王に愛される寵臣の位を戴いている彼が、まさかこの召集に応じないということはないだろうが……。
 
 そんなピヴォワンヌの心中を見透かしたかのように、リシャールが言う。
「一国の王女がこうして消えたというのに、クロードも今朝に限って朝議に顔を出してはおらぬ。どうなっておるのだ……!?」
 
 ……あのクロードが、朝議に顔を出していない?
 ピヴォワンヌはその言葉に不穏な何かを感じ取る。
 同時に、明け方にサラから聞いた話がはっきりと思い起こされた。
(昨日、バイオレッタはクロードと一緒に散策に行ったってサラは言っていたわ。それから行方がわからなくなったと……。そして一夜明けた今日、あの男は宮廷に姿を現していない。これは何なの……? 本当にただの偶然なの……?)
 リシャールの腹心であるクロードが朝議に参加していないというのは、どう考えてもおかしい。
 普段の彼は朝議を欠席するような人物ではない。魔導士館でも最高位の魔導士として率先して会議を行っているようだし、これはやはり不自然だ。
(これは偶然なんかじゃない、きっとクロードが関わっているんだわ……バイオレッタの失踪に)
 
 その時、黙りこくったままの一行に痺れを切らしたのか、とうとうリシャールが喚いた。
「王であるこの僕が訊いているのだぞ!? 真面目に答えよ!! その口は何のためについておる!? ここには役立たずしかおらぬのかッ!!」
 吐き捨てて、リシャールは玉座に手をかけて力の限りなぎ倒した。背もたれに打たれた黄金の鋲が床に擦れて嫌な音を立てる。
「へ、陛下……!」
「落ち着きなさい、リシャール。王の証である玉座をそのように扱うものではないわ」
 王妃や王太后が懸命になだめるが、彼は構わず周囲の宝物ほうもつを床めがけて次々に叩きつけた。
 高価な玻璃のグラス、真珠の飾りがついた愛らしい菓子入れに、鈍い輝きを放つ黄金の置時計。
 どれもこのリシャール城に伝わる名品ばかりで、名君たちが丁重に扱ってきた年代物だ。
 今床の上へ無残に打ち捨てられているものは、いかな貴族でさえめったなことでは贖うことのできない代物ばかりだった。
 王のため、国の威厳のために、名工や職人が腕によりをかけてこしらえた特注品である。
 それをリシャールはためらうことなく次々と床に放り投げてゆく。
 先代国王の遺品である彫像を掴み、彼は何の躊躇もなく振り下ろした。
 なめらかな軍神の頭部が床めがけて強く打ち付けられる。
「ひっ……!」
 王妃シュザンヌが悲鳴を上げた。
 彼女がそうして怯えるのも無理はない。
 純白のタイルの上、たくましい軍神の彫像はもはや見る影もなかった。
 石膏でできていたそれは、今はただの欠片と化して床の上に飛散している。
 シュザンヌがドレスの裾をたくし上げてじりじりと後ずさった。
 
 リシャールは眼差しだけで周囲を牽制しながら、ふーっ、ふーっ、と獣のような息を吐く。
 整った顔を忌々しげに歪め、ぎらつく瞳で一行を威嚇する。
 その形相はすさまじく、彼が腰に提げた長剣を引き抜いて振り回さないのが不思議なくらいだ。
 とっさにピヴォワンヌは、子供の持つおもちゃ箱を連想してしまう。
 この王城そのものがリシャールにとってのおもちゃ箱なのかもしれないと、そう思ってしまったのだ。
 美しい女神像。きらびやかな装飾品。珍しい花を集めた庭園に、ギャラリーを彩る絵画や剥製。
 さらには自らを取り巻く人間たちまで。
 この城に存在するすべてのものが彼の玩具なのだ。
 彼の目を愉しませ、日々の憂さを晴らし、満たされない心の隙間を埋めてくれる、美しくも儚い玩具なのだ……。
 彼は、玩具を愛でて従わせることでかりそめの幸福に酔っている。
 きっとそうしなければ自我を保っていられないのだろう。足場が脆く崩れ去るような気がしてしまうのだろう。
 だが――。
 
(だけど、いくらそんなものを並べたって空しいだけじゃない。そこに人間らしいぬくもりなんかないし、応えてくれる声だってないのよ。そんなものに価値を見出すより、もっと先にやるべきことがあるんじゃないのかしら)
 
 リシャールはなおも声を荒げた。
「バイオレッタはどこだ!? どこへ消えた!? 後宮にいたはずの王女が突如として行方をくらますなど、あってはならぬことではないのか!!」
 そこで王太后ヴィルヘルミーネがすっと歩み出て、荒れ狂う息子をなだめようとする。
「リシャール、落ち着きなさい。まだ事の真相はわかっていないのよ。今、騎士たちを総動員して情報や手掛かりを集めさせています。念のため、北区の狩猟場にも遣いをやりました。あなたはただ黙って待っていればいいのよ。王たるもの、そうやって周りに当たり散らすものではないわ」
「……僕をこんな風にしたのは貴女でしょう、母上。自分の娘がいなくなったというのに、この僕に黙って見ていろというのか……!」
 しかし、こんな場面においてもヴィルヘルミーネは驚くほど冷静だった。
 憐れむような眼差しを息子に向け、これ見よがしにため息をつく。
「だから今探させているんじゃない。王というものはね、リシャール。いついかなる場合でも玉座を離れてはいけないの。国王の務めはどんな時でも動じないこと。そして国の象徴たる玉座を守ることよ。あとは官僚なり騎士なりが勝手に動いてくれるわ。あなたは何も手を下すことなどないの。たとえ自分の娘が失踪したのだとしてもね」
 孫娘が姿を消したというのに、ヴィルヘルミーネは冷ややかだった。大仰なため息をつき、リシャールをちらと見やって「なんてみっともない子なの」とこぼす。
 ピヴォワンヌはその態度にむっとした。
 積極的に行方を捜索するどころか、息子のリシャールに対しても「あなたは王なのだから何もしなくていい」などと強引に教え諭そうとする。
 ……それではまるでお飾りの王様のようだ、とピヴォワンヌが思った矢先、リシャールが動いた。
「馬鹿にするのもいい加減にしろ!! そなたらは何もわかっておらぬ!! 一度ならずか二度までも、僕の愛する王女をこんな目に逢わせおって……!!」
 彼はそこでとうとう腰の鞘からサーベルを引き抜いた。
 ……錯乱しているのだ。
 シュザンヌが奇声を上げて逃げ惑い、ヴィルヘルミーネもまた血相を変えて彼から離れる。
 残る三人の王子王女たちは突然の事態に固まっている。
 ピヴォワンヌはいつもの癖で腰に手をやったが、当然ながらそこに剣の柄の感触はない。
 彼女は周囲に悟られぬよう小さく舌打ちをした。
(まずい……。これじゃ何かあっても誰にも止められない……!)
 
 ――そこですっと動いた金色の影に、ピヴォワンヌは目を見張った。
 なんと、唯一の男児であるアスターがなんとか父王を止めようと玉座へ駆け出したのである。
「父上、どうかお気を静めてください」
「黙れ!! お前ごときに何がわかる、アスター!!」
 二人は純白のタイルの上で対峙した。
 サーベルを振り回す父から距離を取りながら、アスターは懸命に彼を説得した。
 眉根を寄せて声高に言い放つ。
「このようなところで人を傷つけて愉しむのはおやめください! それはあなたがなさるべき行いではない!」
「は……、玉座に就いたこともないお前が知ったような口を利くでないわ!! この玉座のために僕は今まで大事なものを失ってばかりだったのだぞ。人並みの自由も、愛する者との時間も……。王などと銘打ってはいるが、こんなものはただの傀儡にすぎぬ。玉座に縛りつけられ、手足を捥がれて意思を奪われた哀れな操り人形だ。何より、こんないびつな身体になっても一国の王だというだけで逃げることさえ許されぬ……!!」
 泣きそうな声音で言って、リシャールはサーベルの切っ先をすいとアスターの喉元にあてがった。
「そこをどけ、アスター。逆らうなら容赦はせぬ」
 血を分けた息子にさえ、リシャールは残酷に言い放つ。
 実父に抜身の刃を向けられたアスターは、逡巡ののち唇を開いた。
「……ですが、バイオレッタ姫はそれを望むでしょうか? 自分のために周りの人間や臣下が傷つけられたと知ったら、彼女はどう思うでしょう。まして、彼女とあなたとの間には確かな信頼関係も生まれていた。それを自ら打ち壊すような真似をなさって本当にいいのですか……!」
「お前たちが僕に歯向かうからだ!! いざという時に役に立たない人間など僕はいらぬ!! いくら血族であろうが、僕をないがしろにする気なら罰するのみだ!!」
 そこでアスターはやおら父王の足元に跪いた。
「……ではどうぞこのまま僕をお斬りになってください。あなたにはそうするだけの権利がある」
「何……!?」
「僕はもともと人々に疎まれる忌み子だ。もとよりこの命は出生時にあなたに奪われていても何ら不思議はなかったものだ。父王であるあなたに斬られるなら文句はない」
 ……金の髪をした王とその王子は、しばし激しく視線を交わし合った。
 顔立ちこそ鏡に映したように瓜二つなのに、その姿はまるで異なっている。
 華奢で未熟な体つきのリシャールと、成人した立派な体躯を持つアスター。
 二人はよく似た特徴を持っていながら、その境遇も考え方もまるで違っている。
 国王という地位に甘んじて現実から目を逸らし続けるリシャールに、己の境遇を受け入れて謙虚に生きようとするアスター。
 目の前に広がる世界を直視できるかどうかという点において、この二人の考え方は決定的に違っているのだった。
「アスター、お前……」
 リシャールは途端におとなしくなった。
 ちっ、と忌々しげに舌打ちをし、サーベルを投げ捨てる。
「……お前はいつもそうだ。いつもいつも、僕をそうやって醒めたような目で見る。お前に見つめられると、僕はまるで自分が阿呆のように思えてくるのだ。お前は僕とよく似た姿をしているのに、僕などよりよほどたくましく優秀な王子だ。僕はお前の目が嫌いだ。……お前の目は、僕を惨めにする」
 そう言い切ると、リシャールは一行に背を向けた。
「……もうよい。皆さっさと戻れ」
 吐き捨てると、リシャールはその場にくずおれた。倒れた玉座にもたれかかり、華奢な背を震わせて嗚咽を漏らす。
「っく……。うう……! なぜ……、なぜ僕は……っ!」
 その声はピヴォワンヌの耳にもはっきりと届いた。
 ……彼は自分の無力さを責めている。
 王であるというだけで、彼には愛娘を探すだけの力が与えられない。
 国王陛下などと呼ばれてはいても、父親らしく自分の力でバイオレッタを探しに行くことはできないのだ。
 十四年前、バイオレッタが王宮から初めて姿を消した時もこうだったのだろうか。
 こうして荒れ狂い、泣きわめき、身近にいる人間たちに手当たり次第に縋ろうとしたのだろうか。
(……だとしたら、なんて可哀想な王なの)
 先ほどまでの怯えも怒りもとっくに消え失せて、ピヴォワンヌの中にあるのはただ彼への憐れみだけだった。
 こうして目の当たりにするリシャールは普段よりずっと人間らしく感じられた。
 王としての威厳も、権力も、矜持も。
 今の彼には何もない。
 今ここにいるのはそうした装飾をすべて取り払ったただの一人の少年王だ。
 彼は自らに絶望し、心を丸裸にして泣いている。
 ピヴォワンヌはそのことに無性に胸打たれてしまった。
 そして気づいたのだ。
 どんなに取り繕っていても、彼はただの一人の人間なのだと。
 
 
 ……その時、力なくうなだれているリシャールのもとへプリュンヌが駆けだした。
 ルビーピンクのドレスを床の上にふわりと広げ、プリュンヌはタイルに膝をついた。
 そしてその小さな手をリシャールに向けてそっと伸ばす。
「お父様、プリュンヌは――」
「うるさい、戻れと言っておろう!!」
「……!」
 プリュンヌはなおも何事か言いたげではあったものの、自らを拒絶する父王の言葉に衝撃を受けたのか、しゅんとしょげて一行の後に続いた。

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