eclatant 午後の執務室(後編)

 

 なんとか落ち着きを取り戻したバイオレッタが隣室に入ると、クロードがお茶の支度をしていた。

 パステルピンクの愛らしいティーセットと色とりどりの芸術的なお菓子。陶製の美しいボンボニエール、磨き抜かれた銀器。テーブルを飾るのは深紅の薔薇だ。
 どれもひたすらに美しく、ため息がこぼれそうになる。
 美意識が高いクロードらしい見事なセッティングだ。
 彼なりに一生懸命バイオレッタをもてなそうとしているようで、いたるところから気遣いを感じた。
 
(こういうところ、やっぱり好きかも……)
 
 促されておとなしくソファーに腰かけると、蝶が描かれた薄紅色のティーポットを手にしてクロードが語りかけてきた。
「姫……。先ほどは配慮が行き届かず申し訳ございませんでした。まさか貴女がお見えになるとは思いもよらなかったもので」
 バイオレッタのぶんの紅茶を注ぎながらクロードが苦笑する。
「嬉しいですよ、とても……」
 濡れた髪のまま色気たっぷりに微笑まれて、バイオレッタは落ち着かなくなった。
「さっきは、お取込み中に勝手にお部屋に入ってごめんなさい……」
「いいえ。行き詰まるとつい湯浴みをしたくなってしまう私もいけないのですよ。貴女のためにもう少し配慮しておくべきでした。お許し下さい。ですが……」
「……?」
「私は貴女に見られて困るものは何もありません。むしろもっと私のことを知っていただきたいと常々考えていますよ」
 漆黒の髪をかきやり、クロードは余裕たっぷりに言った。
 クロードの裸身を思い出してしまったバイオレッタは膝の上で手を握りしめる。顔が真っ赤になっていそうで、今だけは鏡を見たくないと思ってしまう。
「ほ、本当に思いがけなくて……! まさか湯浴みをなさっていたとは思わなくて。もし倒れていらっしゃったらどうしようって思ってしまいましたの……」
「姫……。それほどまでにこの私が心配なのですか……?」
「だって……!」
 視線が強くぶつかって、バイオレッタはふいと顔を背ける。
 そして、蚊の泣くような声で言った。
「あの……さっきみたいなことはもうなさらないでくださいませんか。し、心臓に悪いので……」
「ああ……。先ほどの、あのことですか。……ですが、ベッドの上の貴女はとてもお可愛らしかった。思わず食べてしまいたくなるほどに」
「なっ……!?」
 したたるような微笑を浮かべるクロードに、バイオレッタは思わず身構えたが、意を決して言う。
「ま、前から思っていましたが、あなたは意地悪です……! すぐにわたくしをからかうし、その上いきなり抱きしめたりキスしたりして……!」
 できるだけぴしゃりと言ってやりたかったが、声はみっともなく震えてしまった。
 クロードはさもおかしそうに笑う。
「これはまた随分とお可愛らしいことを……。宮廷の男たちはみな愛しいご婦人にしているではありませんか。ですが、貴女に意地悪と言われるのは悪くないですね。その先の行為に及んだら、貴女が私をどう罵倒するのか……大変興味がございます」
「で、ですからそういう恥ずかしいことを平気でおっしゃらないで! 誰かが聞いたら誤解しますわ……!」
「誤解、ですか……」
 ティーポットをテーブルに置いたクロードは、それにティーコゼーをかぶせてからバイオレッタの隣に座った。
 ゆっくりと一つため息をつく。
「……私の心理を全くご存知ないのですね」
「し、心理……?」
「ええ。私は貴女がそばにいれば、どうしても触れたくなってしまいます。子供じみた幼稚な衝動だとわかっていても、触れずにはいられない。抱き締めるのも、口づけるのも、愛しさゆえです。……そして、この燃えるような独占欲も」
 本当にクロードの瞳の奥に何かが燃えているような気がして、バイオレッタは瞳が逸らせなくなった。
「……欲しいのです。何よりも貴女が。もうこんな気持ちになるのは……耐えられません」
「クロード様。わたくしは――」
 バイオレッタを抱きしめると、クロードは呻くように言った。
「どうしたら貴女は私だけのものになって下さるのです? どうして、ここまで私を苦しめるのですか?」
「苦しめてなんか……」
「いいえ。貴女は私をいたぶって愉しんでいらっしゃいます。まるで真綿で首を絞めるように、じわじわと……。私の欲しいものが何なのか、本当はもうお分かりになっていらっしゃるのでしょう?」
 思わずうつむく。
 クロードはきっと、バイオレッタのすべてが欲しいのだ。
(やっとわかった気がする。この物欲しげな瞳の意味が……。クロード様は、わたくしを求めていらっしゃる……)
 本当はバイオレッタだって、今抱えているすべてのものを投げ出してしまえたらと思うことがある。
 王位継承争いのことも、自らの立場も、二人を隔てる身分差さえ。
(でも、それができるほど、今のわたくしは強くないのです。だから、お願い……)
 バイオレッタはそろそろとその背に腕を回して抱きついた。
「……姫」
「わたくしは、クロード様のことが大好きです。その優しい瞳も、わたくしが困っていると助けて下さるところも、いつもかけて下さる温かいお言葉も全部愛しいのです。わたくしだって、本当はあなたが欲しがっているものを与えて差し上げたい……。あなただけのわたくしになりたい。……でも」
 
 ……それはどうしても不可能なのだ。
 王女と臣下という立場を考えれば、この恋が実る可能性は低い。
 バイオレッタがクロードとの甘い逢瀬を愉しめるのは、彼女がこのスフェーンにいる間だけだ。
 そして、女王選抜試験で敗北すれば、今の関係はすべてなかったことになる。
 バイオレッタは異国の王族男性の妻に。クロードは新しい女王の臣下としてこの国に留まることになるだろう。
 そうなれば、二人の間に接点はなくなる。もうほとんど会うこともなくなるのだ。
 
 バイオレッタは胸を痛めつつも強引に言葉を継いだ。
「今のわたくしにはとてもクロード様だけを見つめることができません。わたくしは今、自分の未来にさえ自信が持てないのです。そんな状況であなた一人を愛し抜けるほど、わたくしは強くありません。まだ迷ってばかりで、頭がいっぱいで……。ごめんなさい、クロード様……」
 一言一句に想いを籠めながら、バイオレッタは続ける。
「だけど、信じてください。わたくしにとって一番大切な殿方はあなたなのです。たとえ実らない恋だとしても、わたくしはあなたを愛しています。たとえ今だけの恋だとしても、好き。大好きです、クロード様……」
 きつくしがみつく。クロードが本当に求めているものは、今のバイオレッタには到底与えられないけれど。
(伝わってほしい。わたくしが本当はとてもあなたを愛しているということ。だって、わたくしは何度もあなたに助けられたのだもの)
 クロードはバイオレッタの髪に顔を埋めた。吐息が耳元にかかる。
「姫。困らせてしまって申し訳ございませんでした。貴女の辛いお立場も考えずに勝手を申しました。許してください。ですが、そのお言葉を聞けただけで……。そして、今日貴女が私の部屋にいらしてくださったというだけで。私はもう、じゅうぶん勇気を頂きました」
 クロードは腕の力を緩めた。
「貴女はお強くていらっしゃる……。やはり私とは違うのですね」
「いいえ……、わたくしは弱いですわ。……でも、弱いなりに頑張っているのです。あなたが導いてくださったこの場所で」
 クロードが息をのんだのがわかった。
「……ここに来たばかりの頃、クロード様が気分転換に連れ出してくださったり、贈り物をしてくれたりして、わたくしはとっても嬉しかったのです。緊張していた気持ちが一気にほぐれていくみたいで、すごく安心して……。おかげで今では自分らしく毎日を過ごせていますわ」
 
 最初こそ恐ろしいと感じたものの、クロードは実際はそこまで残酷な男性ではなかった。
 舞踏会では物慣れないバイオレッタをかばい、事あるごとに庭園や書庫に誘って強張った彼女の心をほぐそうとした。
 ハーブティーや薔薇の鉢植え、花束といった贈り物はバイオレッタを和ませ、日々の暮らしに彼女がこれまで知らなかった美しい色彩いろを与えてくれた。
 そればかりではない。彼は貴族たちの嫌がらせから助けてくれ、困っていることがあれば案じてくれた。それだけで復権したばかりのバイオレッタにはひどく心強かったのだ。
 
 しだいに、完全無欠に思えるクロードにも人並みの弱さや脆さがあるのだと知り、その闇に寄り添いたいと思うようになった。
 どうすればもっと彼に近づけるだろう。どうすれば彼の痛みや悲しみを理解できるだろう。
 そんなことばかり考えるようになった。
 もちろんこれがスフェーンにいる間しか謳歌できない恋だということはよくわかっている。いつか訪れる別れがクロードを傷つけるかもしれないということも。
 
(それを思えば、わたくしは残酷なことをしているのかもしれない。最初からこの方を愛するべきではなかったのかもしれないわ……)
 
 だが、バイオレッタはもう自身の想いを無理やりせき止めようなどとは思っていなかった。
 この感情は、クロードとの出会いがあったからこそ生まれたものだ。その事実を大切にしたいし、今目の前にいる彼のことも一生懸命慈しみたい。
 自分がこうしてスフェーンにいられるうちは、クロードとの時間を大事にしたいのだ。
「……大好きです、クロード様」
「姫……。ああ……」
 艶めいた吐息とともに再び強く抱きしめられて、息が詰まりそうになる。
「愛しています。貴女だけが、本当の私を理解してくださいます」
「クロード様だって、同じだわ……。あなたはわたくしの気弱なところや怖がりなところも嫌がらずに受け入れてくれる。わたくしが変に飾らなくたって、ちゃんとわたくしを愛してくれる……」
「……愛さないはずがないでしょう? そうした弱い部分も含めて貴女なのに……」
「わたくしも同じ気持ちです。クロード様の弱さも痛みも、あなたの全部を受け止めたいのです」
 クロードはバイオレッタからそっと身を放し、白銀の髪を撫でる。少しはにかんだような、困ったような表情だ。
「ありがとうございます、私の姫……」
 私の、という部分をいやに強調してクロードがささやく。
 そんなところにさえクロードらしさを感じて、バイオレッタはわずかに唇をほころばせた。
「ああ……紅茶が冷めてしまいますね。どうぞ、お召し上がりに」
「え、ええ……」
 バイオレッタはそこでふと我に返って恥ずかしくなる。
 なんだか勢いに任せて随分情熱的な告白をしてしまったような気がする。それがどうにも気恥ずかしく、逃げられるものなら逃げ出したくなる。
 照れ隠しに、バイオレッタはクロードの顔を下から覗き込むようにして言った。
「あの、一つだけ、お願いが」
「何なりと、姫……」
「今日だけは、わたくしだけのクロード様になってくださいませんか?」
 クロードは目を見張ったが、やがてふっと微笑んだ。
「ふふ……、そのような。私はいつでも貴女だけのものですよ」
「え……。あの、そういう意味では……。ただ、せっかく執務室に来られたので、ゆっくりお話が出来たらいいなぁって……」
「なるほど」
 少し考え込んでからクロードは提案する。
「そうですね、では……お茶のあとは部屋の中をご覧になりますか?」
「……はい!」
 バイオレッタは笑ってうなずいた。
 
 
***
 
 柑橘の爽やかな香りの紅茶――天然の甘みをつけたものだと教えてもらった――と茶菓子を愉しんだあと、バイオレッタはクロードに案内されて執務部屋の中に足を踏み入れた。
「執務室といっても、広いのですね……。驚きましたわ」
 仕事に使う一室のほか、応接間、浴室、休憩室、本を収めた書斎。クロードの執務室は大まかにこの五つの空間から成るという。
 説明されたバイオレッタは単純に驚いてしまった。
「すごいですわ。さすがに寵臣の方ともなると違いますわね」
「そのような……。寵臣などと……」
「でも、お父様はあなたを一番信頼していらっしゃるでしょう?」
「……ええ、まあ」
 賛辞の言葉を大して喜んでもらえないことに、バイオレッタは首を傾げる。
 クロードは照れでも謙遜でもない心底複雑そうな顔つきをしていた。
「……あの、わたくし、何か……」
「ああ……申し訳ございません。貴女にはそのような隔たりを作って頂きたくないと、そう思っただけなのです。あの方の寵臣だから好きだとか、優しくて頼りになるから好きなのだとか、そのような認識だけはして頂きたくないと思いまして」
「え、どういう意味……ですか?」
「まだおわかりにならないのですか? 初心な方だ。……私は貴女に、一人の男として見て頂きたいのですよ」
 バイオレッタはうろたえた。
「……え、でも、わたくしは」
「そうですね。貴女は抱擁をお許しになったうえ、私の口づけを受けて下さいました。そのうえ、今ではれっきとした恋人同士。これ以上、一体何を望むのだという気もいたしますが……」
 はあ、と息をついたクロードに、バイオレッタは慌てる。
「だ、大丈夫です……、わたくしはとっくにあなたを男性として見ていますわ」
「……。男として見るということの意味が、本当にわかっておいでなのですか?」
「え……?」
「なんでもありませんよ。さあ、こちらへ」
 
 口をつぐみ、バイオレッタは執務部屋の奥へ進む。
 ……奥まった箇所に、ウォールナット製の机と本棚が配してある。
 落ち着いたディープグレーの床に、立派な木製の執務机はよく映えていた。揃いの椅子には濃紫の背もたれがついている。左右には文献や歴史書を収めた棚があり、彼の熱心な仕事ぶりがうかがえた。
 飾り棚の部分には金時計や硝子のオブジェ、オイルランプなどが行儀よく置かれている。
 どっしりとした雰囲気の部屋に、そうした重厚な小物は非常によく似合っていた。まさに魔導士の仕事部屋といった印象だ。
 
 バイオレッタは何気なく机の上を見た。綺麗に整えられて、塵一つない。
 余裕を持たせて鵞ペンとインク壺が載せられている。
 インク壺はとても豪華なもので、黄金で蝶の翅とレースの模様がかたどられている。翅には小粒のサファイアが瞬いていた。
 思わず駆け寄ってしげしげと眺める。
「まあ、繊細な細工で素敵……!」
「ああ、そちらのインク壺ですか? 安定のよさが気に入っているので、実はこれしか使いたくないのです」
「そうなのですか? でも、可愛いです……」
「底の部分がしっかりしているので、一見華奢に見えても意外とインクがこぼれなくて使いやすいのですよ」
 意匠の見事なインク壺を、食い入るように見つめる。今にも動きだしそうな蝶の姿やふわりとしたレースの質感が見事だ。正直なところ、自分の部屋にも飾りたいと思ってしまったほどである。
「そちらがお気に召したのですか? ふふ……やはり姫も女の子ですね」
「わたくしのインク壺はこんなに可愛くないのです。もっとシンプルなデザインですから」
 私邸の部屋の様子からもうかがえたが、クロードは「こだわりを持った大人の男性」といった印象が強い。身に着けるものといい部屋に置くものといい、どんなものが自分に一番似合うか熟知しているのだろう。だからこそ自らを魅惑的に演出できるのかもしれない。
 そんな風に服飾品や小物を選ぶというのは、自分にはまだ難しそうだとバイオレッタは思う。本当に似合うものだけを選び抜いてそばに置くというのは、一見簡単そうでもすぐにはできないことだからだ。
 バイオレッタはその大人びた感性をとても羨ましいと思った。
「わたくし、クロード様はセンスがとてもいいと思います。装いも小物も、華やかで甘くて、夢がありますもの」
 ぽうっとしながら言うと、クロードはほのかに笑った。
「ありがとうございます。では、今度貴女に同じものを差し上げましょうか。金属と色石は少々変えた方が姫にお似合いになるかもしれませんね。そうですね、銀細工とアメジストで作らせましょう」
「え、そんな……、ねだったつもりではないのですけれど……!」
「……よろしいのですよ、私に対してだけはもっと貪欲になって頂いても。貴女に喜んで頂けるなら本望です」
「ありがとう、ございます……」
「いいえ……」
 クロードは朗らかに笑う。
 
 手を引かれて次に案内されたのは書斎だ。凝った木製の書棚が所狭しと並べられている。
「こんなに本を読んでいらっしゃるのですか?」
「ええ。プランタン宮の書庫と後宮書庫にある蔵書はあらかた読みました。書物はよいものです。空想の翼を羽ばたかせて、どこまでも甘美な世界へと旅立たせてくれます」
「まあ。ロマンチックですね」
 ころころと笑うと、クロードは瞳を細めた。
「貴女は読書がお好きですか?」
「え……」
 バイオレッタは返答に困った。
 いかにも高尚な趣味のありそうな彼の前で、まさか恋物語しか真剣に読んだことがないとは口が裂けても言えない。
 年頃の娘がそういった類の話を読むことは、貴族たちの間ではあまり好まれない。「嫁入り前の娘がはしたない」と後ろ指を指されがちだからだ。
 
 王族の女性たちもまたそうだった。後宮書庫には軽い読み物が多く、濃厚な恋愛小説というのはほとんどない。
 しかしその代わりに、後宮の小劇場で催される芝居のほとんどの原作が置いてあった。人気のある戯曲家のものや、歴史的に有名なものはすべて置いてある。
 バイオレッタは劇場で育ったので戯曲や歌劇が好きだ。年上の女優たちがアルバ座で演じるのは、恋に身を焦がして命を燃やす、美しい女性の役が多かった。そして彼女たちの相手は美男と相場が決まっている。
 小さい頃は舞台袖から美麗な役者たちの姿を眺めてはうっとりしたものだ。
 その時分の記憶のためか、恋の物語にはどうしても憧れてしまう。非現実的なものほど夢があって好きだ。
 だから書庫から借りてくるのも巷で有名な恋愛戯曲の原作ばかりだった。
 
(わかっていただけるかどうか不安だけれど、クロード様なら……)
 
 自らのシャツの胸元をぎゅっと握りしめて、バイオレッタは言った。
「……白状しますわ。実は戯曲の原作しか読みませんの。それも、恋のお話ばかりです」
 軽蔑のまなざしで見られるかと思ったが、クロードは「ああ……」とうなずいた。
「姫もでしたか……」
「は……、えっ?」
 びっくりしてその顔を見上げると、彼は微笑む。
「驚いていらっしゃいますね。実は私はその手の物語には特に目がないのです。最近の戯曲家たちは本当によい仕事をします。一体何度王都から新しい戯曲の原作を取り寄せたことか……」
「そうなのですか? なんだか意外ですわ。もう少し……、その、本格的な本がお好みなのかと……」
「本格的、ですか……。姫にはそう見えているのですね。そういった本を読むのは、半分は仕事のためです。ですが……本音を申しますと、つまらないのですよ」
「つまらない?」
「あまりにも夢がなさすぎます。正直、常識と理屈を押し付けてくるような本というのは、あまり好きになれないのです。空虚な現実を突き付けられているようで……」
「空虚だなんて。いつもとても華やかにしていらっしゃるのに」
 バイオレッタは普段の彼を思い浮かべた。
 ……純白のクラヴァットに豪奢なタイピンを留めつけ、軽やかに漆黒の上着を翻すクロードの姿を。
 最初に彼を見たとき、あまりの甘い容貌に言葉をなくしてしまったほどだった。
 立場もまた容姿に負けないくらい華々しいものだ。宮廷ではクロードの名を知らぬ者はいない。
「……華やか、ですか。いいえ、そのような……」
 クロードは書棚に手をつくと、物憂げにつぶやいた。
「それはうわべだけです。真の私はひどく薄汚くて滑稽な男なのですよ。……ですが、今は貴女がいてくださるので、痛みにも飢えにも耐えられます。姫はいつもこの虚ろな心を、癒してくださいます。誰よりも、貴女だけが……」
「クロード様……」
「これからも私のそばにいてください、姫。貴女の光は、いつも私を照らしてくれる」
「ええ。お約束しますわ。だから……クロード様も、いつでもわたくしのそばにいてくださいますか……?」
「はい。貴女がそれを許してくださるのなら……」
 温かな視線のやり取りに、バイオレッタは小さく微笑んだ。
 クロードもまたつられたように笑う。
 彼は書棚に収められた本の背をなぞりながら口を開いた。
「戯曲に関しては本当は舞台を見たいのですが、生憎私はこのプランタン宮に縛られている身。容易に劇場に足を運べないのが口惜しくてなりません」
 心底残念そうに彼はため息をついたが、さりげなくバイオレッタの手を取ると本棚の裏へ導いた。
「こちらに少しだけ、詩集や小説を置いているのです。すべて邸から持ってきたものですが、姫のお気に召すものがございましたらどうぞお持ちになってください」
「え、でも、大切なものなのでしょう? お借りしたいのはやまやまですが、多分お返しできませんわ。こちらには今度いつ来られるかわかりませんし……」
 あたふたとバイオレッタが言うと、クロードは艶やかに笑った。
「では、今日私が本を御貸しすれば、貴女はまたこの執務室に来てくださるということですね?」
「え? え……!」
 そこでクロードはくくっと笑った。
「そのような態度を取られてはいけませんよ、姫。男はつけあがるばかりです。私のような男は特に」
「ず、ずるいですわ! 計算ずくだったなんて!」
 バイオレッタは憤ったが、クロードは指先を口元に添えておかしそうに笑うばかりだ。
「男の下心をご存知ない貴女が悪いのですよ。これに懲りたら、そんなふうに隙を見せるのはおやめなさい。……と、言いたいところですが」
 本棚の中ほどから一冊の本を抜き取ると、クロードはバイオレッタに手渡した。
「私はぜひまた貴女にこの部屋に来ていただきたい。……約束の証に、こちらを」
「……これは?」
 差し出されたそれをまじまじと見つめる。
 紙製のカバーに収められた小さな本だ。カバーの色は落ち着いた黒で、真紅の椿が描かれている。
「さほどよい結末とはいえない話ですが、苦しい立場に置かれた女性の心情がきちんと描写されている美しいお話ですよ。悲恋ではありますが、すれ違う恋人たちの葛藤の描き方がとりわけ秀逸です。私の趣味を押し付けるようでお恥ずかしいのですが……貴女ならきっとお好きなはずです」
「ありがとう、ございます……」
 どんな物語なのだろうと、わくわくしながら本を抱き込む。それはすっぽりとバイオレッタの胸に収まった。
「読んだら感想をお聞かせしますわ」
「ええ、ぜひ。貴女と意見を交わせたら嬉しいですから」
 書斎の窓から陽光が降り注いで二人の髪をきらめかせている。眩しさから瞳を細めているクロードを見つめ、バイオレッタは心から満ち足りた気分になった。
 
(今日、思い切って来てみてよかったわ)
 
 予想外に恥ずかしいこともされたが、やはりクロードの隣は落ち着く。
 まるでそばにいるのが当たり前であるかのような錯覚を覚えるのだ。だが、自分が今まで知らなかっただけで、世間の恋人たちの心境というのもそういうものなのかもしれなかった。
 
 クロードはバイオレッタを抱き寄せると、低くささやいた。
「私としては、貴女との『お話』は幸福な結末であることを望んでしまうのですが……姫はいかがでしょう。貴女もそう思ってくださっているのなら、私はもう何も言うことはありません」
「わたくしも、クロード様との恋物語は幸せなものがいいですわ。ずっと、あなたとこうしていたい……」
 そう答えると同時に、クロードが顎を捕らえてそっと上向かせる。
 バイオレッタは静かに瞼を下ろして彼に身をゆだねた。
 唇に柔らかな感触が下りる。クロードは角度を変えながら、バイオレッタの花弁のごとき唇を何度も甘く吸った。
 口づけの余韻に震える肢体や、時折漏れるあえかな吐息さえ、彼は贅沢な菓子を味わうように余さず愉しんだ。
 ……ひとたびこの腕の中に閉じ込められると、バイオレッタは彼のためのデセールデザートに変わってしまう。
 柔らかく蕩けてクロードに応え、その舌を悦ばせる。そんなデセールに。
 そして、クロードという存在もまた、バイオレッタにとっては極上の甘露だった。
 しっとりと何度も重ね合わされる唇に、陶然としたため息を漏らす。口づけの合間に名をささやき合い、時折髪や肌に触れながら、二人は互いの熱を堪能し合った。
 やがて、名残惜しげにゆっくりと唇が離れてゆく。バイオレッタはそろそろと瞳を開けた。
 そっと抱きしめられ、愛おしげに髪を撫でられて、満たされたバイオレッタは彼の身体にもたれかかる。
「クロード様……」
「貴女の唇は甘い……。柔らかくて、ふっくらとして……まるで私に吸い付いてくるようだ」
「や、いや……、何をおっしゃっているのですか。そんな……!」
 反論しかけた唇を再度塞がれて、バイオレッタはなすすべもなくそれを受け入れる。
 まるで悪戯をするように下唇を食まれる。その感触に、バイオレッタは思わず小さな声を漏らした。
「ん……っ! ず、ずるいです。不意打ちなんて……」
「貴女にずるい男とそしられるのは悪くないですね。もっとそうやって罵られたくなってしまう」
「もう……」
 いやに楽しそうに言われれば、バイオレッタとしても苦笑するしかなかった。
「もう一度、今度は貴女から口づけをして、姫……。私の心にしっかりと残るように……」
 そう切なげにねだられ、渋々バイオレッタはうなずく。彼女は手にした本を一旦書棚に立てかけると、クロードの顔を見上げた。
「……届かないから、かがんでください」
 クロードは微笑ましげに瞳を細め、それに倣った。
 下りてきたクロードの顔を手で挟み込み、バイオレッタはそっとキスをした。
 彼はおとなしく目を閉じてされるがままになっている。
 バイオレッタは優しく触れ合うだけの口づけを何度も贈り、その柔らかさを思うさま確かめた。
「クロード様、好き……」
 混ざり合う吐息に恍惚として、バイオレッタは少しだけ大胆になった。
 先ほどのクロードの口づけを真似て、その唇を軽く食んでみる。厚みのある唇を、やんわりと吸う。
 するとたちまち深い口づけにいざなわれて、バイオレッタは彼にしがみついた。
 触れ合っている体も、重なる唇も。どこもかしこもめまいがするほど熱かった。
 触れれば触れるだけ、自分が自分でなくなっていくような感覚に囚われる。クロードに、融けてしまいそうになる……。
 クロードに散々口腔を味わいつくされたのち、バイオレッタは赤い顔のままその胸に身を預けた。
「クロード様……」
 なおも息を荒げている彼女の背を何度も撫でさすりながら、クロードが甘く哀願する。
「またいらしてください、姫。私はずっとお待ちしております。たとえ貴女が来てくださらなくても」
(クロード様……)
 未だ彼の熱が残る唇をそっと押さえ、バイオレッタはこくりとうなずいた。
 
***
 
「気をつけてお帰りなさい、姫。ああ、身づくろいを忘れてはいけませんでした」
 執務室の出入り口で、クロードは手ずからバイオレッタのシャツのボタンを留め、クラヴァットを結んでやった。
(……不埒な男に目をつけられては大変ですからね)
 あえて口には出さなかったが、今日のバイオレッタは可憐すぎる。
 侍従の格好をしているのに手足などいかにもほっそりとしており、そのアンバランスな色香がたまらなく魅力的だった。
(私がそのようなことを口にしたら、貴女はきっと幻滅なさるのでしょうね……)
 バイオレッタが自分に求めているのは紳士的な男性像だ。
 彼女好みの、優しくて温和な男性。それが彼女が恋人であるクロードに望む役柄なのだ。
(そう……。優しくて頼りになって、貴女の嫌がるようなことを一切しない……、貴女のお好みはそういった男なのでしょう)
 それならば、その役柄を演じ続けるまでだ。
 第一、夢見がちな年頃の少女の「夢」を、わざわざ壊してやることもあるまい。
(本当の私を見て頂きたいという思いが全くないわけではありませんが……今はまだ受け入れては頂けないのでしょうね……)
 ため息をつくと、クロードはバイオレッタを見た。すると、くくった白銀の髪をわずかに揺らし、彼女もにこにことこちらを見上げる。
(なんとお可愛らしい。おや……、そういえば……)
 一つだけ引っ掛かることがあった。
「……そういえば、よく私の執務室の場所がおわかりになりましたね」
 クロードの双眸がきらりと険しく光ったことに、バイオレッタは気づかない。
「まさか、どなたかに案内して頂いたのですか」
「あ、ええ」
 クロードは軽い衝撃を受ける。
 一人では何もできないひ弱な少女だと思っていたのに、これは一体なんということだ。まさか男に道案内を頼むとは――。
(……姫のこのお姿を私より先に堪能し、あまつさえ案内役を買って出た男とは一体……)
 クロードの苦悩をよそに、バイオレッタはにこやかに答えた。
「ちょうどプランタン宮の入口でアベル様と会いましたの。途中まで案内して頂きました」
「……なるほど。アベル、ですか」
「どうかなさいましたか、クロード様?」
「いいえ……」
(部下の分際で私の姫に手を出すなど、一度よく思い知らせる必要がありそうですね、アベル……)
 優美な笑みで、クロードはどす黒い感情を押し殺した。あくまでも優しく呼びかける。
「ねえ、姫……?」
「はい……?」
「貴女さえよろしければ、薔薇後宮まで送り届けて差し上げましょうか」
「えっ……、で、でも。お仕事はよろしいのですか? まだやることがあるのでは――」
「かまいません。私にとっては執務などより貴女の方がよほど大切です」
「え……」
 バイオレッタは恥じらいに頬を紅潮させたが、次の瞬間、とても嬉しそうに微笑んだ。
「……はい! では、お願いしますわ、クロード様」
 そこでクロードはバイオレッタにすっと手を差し出した。
「失礼。はぐれてしまわれるといけません。手を……」
「え、あ……。はい……」
 おずおずと伸ばされた細い手をしっかりと繋ぐ。
「貴女はプランタン宮に慣れていらっしゃらないのですから、どうか私から離れないでくださいね」
 我ながらくだらない嘘をつくものだ。ただもうしばらくこの手に触れていたいだけだというのに。
 だが、そんな独占欲には一向に気づいていないらしく、バイオレッタは幸せそうに微笑んだ。
「ええ、わかりました。ふふ……、今日はお互い手袋をしていませんけれど、こうしていると温かいですわね。クロード様の手、大きいのに優しい……」
「姫……」
 クロードはこの姫の過去を思い出して少しだけ同情した。
 彼女は男は恐ろしいものだと思いこまずにはいられない環境にいたのだ。
 珍しい容姿をしているというだけで貴族の若者たちに迫られ、時には脅迫されて悪罵された。
 過去に戻ってその時の彼女を守ることができるなら、自分はなんだって犠牲にするだろう。
「……私の手は、貴女をお支えするためのものです。ずっと私が、守って差し上げます」
「ふふっ。クロード様が一緒なら怖いものなしですね」
「ずっとそうやって笑っていて、姫……。貴女に憂い顔など似合いません。貴女の心を覆い尽くすものは、すべて私が取り去って差し上げますから……」
 バイオレッタは無邪気に笑いながら、繋いだ指先に力を込めた。
「……だから好きなのです、あなたが……」
 クロードは得も言われぬ充足感に瞳を閉じる。
「……ええ。私もです。お慕いしています、姫……」
(貴女と私の未来が、幸せなものでありますように……)
 幸福そうに笑み崩れるバイオレッタの手を引きながら、クロードはそっと微笑した。
 
 
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