第十章 すれ違い

 
 
 リシャールは、傲然とこちらに歩み寄ってくる。長靴の踵で断ち切られた帳を踏みしめ、濃紫のマントを引きながら、緋色の絨毯の上を進んでくる。
 男の血がこびりついた長靴ちょうかは赤黒い色に染め上げられ、年若い姿の少年王からえもいわれぬ妖艶さを醸し出していた。
 
「やっと会えたな。わが王女たちよ」
「……誰があんたの王女ですって?」
 ピヴォワンヌの言葉に、少年王は喉の奥だけで低く笑った。
「そなたらが、であろう? 結局はこうなるさだめだったのだ。……そうだな、クロード?」
「ええ。万事、あなた様の意のままに進んでおいでです……」
 バイオレッタは怯え切って後ずさったが、リシャールはどんどん距離を詰めてくる。
 ピヴォワンヌはリシャールと対峙するように進み出ると、ためらうことなく刀の切っ先を彼に向けた。
「王はどこなの? あたしは影武者に用はないわよ」
 ピヴォワンヌの問いに、リシャールは不機嫌そうに眉根を寄せる。
「……僕が王だ。僕こそがリシャール・リュカ・フォン・スフェーン。このスフェーン大国を統べし者」
 まるで話にならないことに、ピヴォワンヌは本気で頭に来たようだった。芍薬色の髪を振り乱し、剣をさらに強くリシャールに突き付ける。
「馬鹿を言わないで! あたしやこの子の父親なら、そんな子供みたいな姿をしているはずがないじゃない! あんたはどこをどう見てもあたしたちと同じ年格好だわ。ましてや十六、七の子供がいるような年になんて到底見えないわよ!」
 
 バイオレッタはその通りだ、と思う。
 目の前の少年はまだ自分たちと同じくらいの年頃に見える。華奢な体躯にあどけない顔立ち、まだみずみずしく若々しい素肌。
 見た目からして、二人の子供を持つような年齢ではけしてない。
 
 そこで、長らく沈黙を貫いていたクロードが歩み出た。
「貴女がどう思われようと、この御方がスフェーン国王であることには変わりありません。忠誠の証が必要ならば、ほら、このように……」
 クロードはリシャールのそばへ寄る。そして流れるような所作で跪くと、その小さくなめらかな手を取った。
 アルバ座でバイオレッタに施したような恭しいキスをし、深い吐息を漏らす。目元に壮絶な色香を滲ませ、彼はリシャールを見上げた。
「……私が真の忠誠を捧げるのは、リシャール様ただ御一人です」
「よい、クロード。放せ」
 半ば強引にクロードの手を振り払うと、リシャールは挑むようにバイオレッタたち二人を見つめる。
「信じられぬのも無理はないが、それでも僕はそなたらの父だ。……いや、今さら信じろとは言わぬ。親として慕えとも言えぬ。ただし、もう二度とそなたらを手放す気はない」
 あまりに自分勝手な言い分に、ピヴォワンヌが眉を撥ね上げる。
「な……! そんなのって……!」
「安心するがよい。下賤の民や蛮族に染め上げられた記憶は、この僕がしっかりと塗り替えてやろう。王女として、わが玉座を継ぐ後嗣として……、そなたらには王宮で暮らしてもらう」
「ふざけないで!! 父さんを殺したやつとなんか、暮らせるわけがないわ!!」
「果たしてそうか? ピヴォワンヌ・パイエオン・フォン・スフェーン。そなたにはもう帰るべき場所はないであろう。未練はすべて断ち切ってやったぞ。たとえ劉に帰ったところで、もうそなたを待っている人間など一人もおらぬではないか」
 
 あまりの発言に、バイオレッタは愕然としてうつむいた。
 
(そうか……、そのため、だったんだわ……!)
 
 養父を罰と称して殺し、劉へ帰る意味をなくしてしまえば。そうすればもう、ピヴォワンヌはリシャールを頼りにするしかなくなる。
 王女と証明され、唯一の身寄りである養父と引き離されてしまえば、彼女はもう姫君としてスフェーン宮廷に留まるしかなくなるのだ。
 
 ピヴォワンヌは剣を構えたまま、静かにリシャールの前に歩み出た。
「……だから、殺したの?」
 リシャールはさもおかしそうにくつくつと嗤う。
「は……、その男が生きているように見えるのか? 哀れだな。そなたを守ろうとしたばかりに、その男はもう剣すら振るえぬただの骸に――」
 刹那、ビュッ、という鋭い音を立てて、ピヴォワンヌの長剣が振り上げられた。切っ先が、リシャールの飴色の髪をわずかに切り落とし、白皙の頬に赤い刻印のごとき傷をつける。
 リシャールにぴたりと狙いを定めたピヴォワンヌは、世にも悲痛な叫び声を上げながら彼に斬りかかった。
「あんたを絶対に許さないって、言ったでしょう!! うわあああ……!!」
「――衛兵!! 取り押さえなさい!!」
 クロードの指示を受けて、≪星の間≫に控えていた衛兵が次々に動き出す。バイオレッタがぼうっとしている間に、素早くピヴォワンヌを拘束して身動きが取れないようにしてしまった。
「はな、して……!! いや……ッ!!」
「暴れるな。……この僕に盾突くとは愚か者め。『あれ』のようになりたいか」
 言って、リシャールは絨毯に転がった男の屍を指す。……憎悪を滾らせるピヴォワンヌの双眸を、どこか愉快そうに見つめながら。
 
 その光景を、バイオレッタはなすすべもなく呆然と見つめていた。
 ただただ「酷い」と感じた。
 目的のためにピヴォワンヌを傷つけようとするリシャールのやり口になのか、それとも異母妹を拘束しろというクロードの非情な采配になのか、それさえしだいにわからなくなってゆく。
 
 だが、一つだけはっきりしていることは、このままではピヴォワンヌはもっと痛めつけられることになるということだ。
 国王もその寵臣も恐ろしかったが、それでもピヴォワンヌが罰せられるよりよほどいいと、バイオレッタは駆け出した。
 
「……お、おやめください!」
 リシャールの双眸が、ついとこちらに向けられる。
「……エリザベスの産み落とした、忘れ形見……、か……」
 彼はもがくピヴォワンヌの脇をすり抜けると、バイオレッタの眼前まで歩いてきた。
 こつこつという長靴の音が緊張を煽る。
 身構えていると、思いがけず静かな声が降った。
「ふん……。物を言わぬ人形のような娘だと思っておったが……、口が利けたのだな」
 バイオレッタははっと顔を上げて父王を見た。
 鋭くつり上がった、猫のような琥珀の瞳。そこには今までの苛烈さや冷酷さはなく、ただ興味深そうな色が浮かんでいる。……まるで何かを推し測るかのような。
「……ご、ご無礼を、お許しください。ピヴォワンヌが国王陛下であらせられるあなた様に剣を向けたこと、姉として謝罪します」
「……!」
 リシャールが息をのむ。
 バイオレッタは、祈りを捧げるように両手の指先を組み合わせてこいねがった。
「わたくしは、彼女が大切です。ですので、どうか罰だけは……!」
「そなたが代わりになるというのか」
「……それがお望みならば、どうかそうなさってください。わたくしは何も恐れません。お怒りが収まるのなら、たとえ陛下に斬られても、文句は……」
 
 バイオレッタは恐怖から寒気がおさまらなくなった身体で、それでも必死に懇願した。
 歯の根も合わないほど震えているというのに、「自分を罰してくれ」とはばかげている。
 だが、そんなことも気にならなくなるくらい、ピヴォワンヌを守りたくてしょうがない。
 否、正確には、「彼女の命を無惨に摘み取られるわけにはいかない」という使命感のようなものが、今のバイオレッタの心を燃やし、駆り立てているのだった。
 組んだ指先が凍え、もはやうまく組み合わせていることさえ辛い。
 だが、バイオレッタは眼前の少年王をなんとか見つめ返す。
 本当に今ここで命を奪われるかもしれないという状況でありながら、しかし心は信じられないほど熱く滾っていた。
 
「そなた――」
 リシャールは一瞬黙り込んだ。張り詰めた彼の表情にただならぬものを感じ、バイオレッタは身を震わせる。
 王の逆鱗に触れてしまったかもしれない――。
 ……そう思った矢先。
「ふっ……、ははは……!! これはいいものを見せてもらった!!」
 リシャールは細い体躯を折り曲げ、軽やかな笑い声を上げた。
「はははははっ……! これは……わが妃を思い出すな。あやつもそうだった。女官や王妃、捕虜の姫などが粗相をして僕の機嫌を損ねると、いつも自分が盾になった。王妃の威厳をもかなぐり捨て、そやつらが僕に罰せられぬよう影で立ち回っていたものだ……」
 リシャールに寄り添うクロードも、瞳を伏せて密やかな微笑を浮かべた。
「お懐かしゅうございます。シュザンヌ妃の失言、清紗妃の不作法も、すべてを丸く収めていらっしゃったのはあの御方でしたね」
「……これもエリザベスの導きやもしれぬな。大陸を繁栄に導く、『聖なる御印みしるしの女王』、か……。はは! よいよい、実に面白いではないか!」
 
 ひとしきり笑うと、リシャールはピヴォワンヌを拘束している衛兵たちに目配せをする。
「戒めを解け」
 王命を受け、衛兵たちは即座にピヴォワンヌから手を放す。
 それを見届けると、リシャールはバイオレッタたちにつと向き合った。二人に交互に目をくれて、言う。
「そなたらには王女としてここで暮らしてもらう。理由はただ一つ。次期女王の選出のためだ」
「じょう、おう……?」
 震える声で訊ねると、リシャールはこくりと頷く。
「そなたらはスフェーンの王室についてどこまで知っておる?」
「……恥ずかしながら、詳しいことはほとんど知りません。庶民でしたから、王女様が二人いらっしゃることくらいしか」
 リシャールはうなずいた。
「うむ……では、教えてやろう。まず、現時点では正確には王女は五人。王子も一人おるが、王位継承権をはく奪されて久しい」
「王子……? そのようなお話は聞いたことがありませんでした」
 やはり、王城には秘密が眠っているというのはあながち間違いではなかったのだ。
 バイオレッタがこくりと喉を鳴らすと、リシャールは「うむ」と鷹揚に肯定した。
「第一王子と末姫は忌み子…、俗にいう『殺戮の子』で、異教徒たちの王に祀り上げられることを懸念して、普段は軟禁されておる。異教徒は紅い髪や瞳を持った忌み子を狙うのだ。邪神ジンへの供物としてな」
「そのような事情が?」
「ああ。異教徒らの弾圧、そして王子と姫を守るため……致し方ない措置でもある。紅い色彩を持った子供は、異教徒たちに生きたまま贄とされてしまうのだ。ジンへの供物として祭壇に捧げられることもあれば、神格化され、勝手に奴らの王とされてしまった忌み子の王子もおる。そこにはむろん叛意もあったのであろう。だが、異教徒たちはそうした感情につけ入るのがうまいのだ。ゆえに、異教徒に付け狙われるような子供を出せば、王室にとっては最大の危機となる……。奴らの暴挙を防ぐには、忌み子の特徴を持った王子や姫を軟禁するのが一番手っ取り早い」
 
 痛ましい話に息をのみ、眉根を寄せる。
 第一王子と末姫がいて、しかも忌み子という異端の存在だったなんて。
 
(……忌み子の話は少しだけ聞いたことがある。でも、それはあくまで童話の中の話だと思っていたわ)
 
 スフェーン中に浸透している童話の中で、忌み子は「紅き神」への捧げものとして登場する。けれど、その中での忌み子はあくまでも救世主のような扱いだった。「紅き神」に捧げられる代わり、国の動乱を鎮めてくれるのである。
 
 だが、リシャールの言葉が真実なら、それはつまり異教徒に忌み子を差し出すことによって彼らのかつえた欲望を満たすということだ。忌み子を贄として犠牲にすることで、国民たちがひとときの安寧を享受できると、そういう教えなのだろう。
 確かにそれならば、民たちにはわずかながら平穏が約束される。
 火の邪神をよみがえらせる供物を秘密裏に与えてやれば、異教徒もしばらくは大人しくしているだろう。ともすれば国民に手出しをすることはないかもしれない。
 あの童話はすなわち、大っぴらに鎮圧しない代わりに生贄を与えて黙らせようということなのだろうと、バイオレッタは解釈した。
 
 考えてみればすごい話だ。しかも、そんな作り物めいた世界がこんなに身近に広がっていたとは……。
 しかし、宮廷魔導士と呼ばれる異能力者がこうして国王の隣に控えていることを考えれば、忌み子が王城に存在していたとしても何ら不思議はないように思われた。
 
「……なんだ? 忌み子の話を聞くのは初めてか?」
「は、はい……。ずっと、童話の中でしか語られないものと思っていたので」
「そうだな。普通に暮らしている分にはあまり縁のない話かもしれぬ。忌み子は若いうちに狩られてしまいやすいからな。だが、歴代の王の中には忌み子が生まれるとすすんで異教徒たちに与えた者もいたのだ。忌み子を差し出す代わり、自分たちの国だけは脅かさないでくれと懇願したという。そして結局は異教徒たちを従えた自らの子に牙を剥かれた。……なんとも滑稽な話よ」
 
 これまでの話から察するに、きっとリシャールはそうしなかったのだろう。
 第一王子も末姫も、確かに軟禁されてはいるのだろうが、酷い扱いを受けているような印象は受けない。
 現にリシャールは、「守る」という表現さえ使ったではないか。
 
「……時間が惜しい。話を続けるぞ。先ほども申した通り、スフェーン王家の血を引く王女は正確には五人だ」
 リシャールは「五人いる王女のうち二人は、そなたらのことだ」と続け、自らの胸元に手を添える。
「僕はエリザベスとの華燭の典で、ある予言をされた。それは、次代の王は女、それも少女だというもの……。第一王子が王位継承権をはく奪されておるのも、ひとえにそのため。僕はその予言を信じ続け、王女たちを厳しく養育してきた」
 婚礼の儀での予言を、リシャールは滔々と披露する。
「……“次代のスフェーンを統べしもの。其はただひとりの娘なり。娘はその身に聖なる御印を持って生まれ出で、王家の血脈に連なる者。類まれなる武力、美貌、信頼をもってして、国をとこしえの繁栄へ導くものなり”……」
 少年王はわずかに顔を曇らせ、続ける。
「“聖なる御印の女王。その姿は闇によって覆い隠されん。しかしもう一人の女王、これを憂いて闇を打ち払わんとす。黎明が広がり、二人の女王、君主として大陸を繁栄に導きたもう”……。なんのことかわかるまい。これは箝口令かんこうれいの敷かれた予言の一節だ。不吉な言葉の羅列に、宮廷人たちはみな顔をしかめたものだ」
 箝口令が敷かれているなんて嫌な予言を聞いてしまったとバイオレッタは怯えたが、単なる予言でしかないのだと思い直し、再びリシャールを見る。
「……変わった予言ですね。次代の王が女性……、女王だなんて」
「そうだな。確かに一風変わった斬新な予言であろう。だが、スフェーンでは女が国を統治するなど前代未聞。五大国では過去に女が玉座に就いたという記録はない……。そんな折、僕は劉の伝承を思い出したのだ。かの国では、より優秀な公主を玉座に就けるため、王位継承争いでは公主同士を競わせるという」
「……まさか、陛下」
 
 ……それはつまり、王家の血を引く姫たちを実際に戦わせるということか。
 そう問いかけるバイオレッタのまなざしに、リシャールはしっかりとうなずいた。
 
「一年の間、そなたら四人の王女を競わせる。試される資質は三つだ。武力、美貌、廷臣からの信頼。予言にある通りの三つの資質を、これから他の王女たちと競ってもらう」
「そ、そんな……! いきなりすぎます! 政の仕方なんて学んだことがないのに、そんなこと、できるわけが……!」
「いや、できる。そなたらには間違いなくその素養がある」
 まさか断言されるとは思いもよらず、バイオレッタは呆然となる。
 二の句が継げなくなるバイオレッタに、リシャールは腕組みをし、小さな顎を傲然と上げた。傍らに控えるクロードに目をやる。
「わからないことがあればクロードに訊ねよ。こやつは巷でいうところの帝王学をよく心得ておる男だ。不明なことはすべてこやつに聞いておけば間違いはないはずだ。特別に薔薇後宮への出入りも許可しておるゆえ、知識の源として存分に利用するがよい」
 美しい笑顔に妖しいほどの気迫を漂わせながら、クロードがゆっくりと頭を垂れる。
「……たとえいかなることであろうとも、このクロード・シャヴァンヌ、喜んで姫君がたにお教えいたしましょう。立派な女王とおなり遊ばすため、どうぞ心ゆくまで私をお使いください」
 そのさまを満足げに見つめながら、リシャールは言う。
「そなたらはれっきとした僕の血を引く娘。最初は戸惑うであろうが、胸を張ってほしい。そして僕ではもう、この国を治めきれぬ。そなたらにも協力してもらいたいのだ」
 
 何とも意味深な言葉に、バイオレッタは思わず絶句した。
 
(国を治めきれないって、どういうこと? どんな事情がおありになるのかはわからないけれど……陛下は驚くほどお若く見えるわ。お体だって至って健康そう。何か国を統治し続けられない理由があるということなの……?)
 
 ばさり、という音とともに紫の国王装束が翻される。見れば、リシャールが≪星の間≫の奥へ通じる扉へと手をかけたところだった。
「時が来れば王妃や王太后、王女たちと会ってもらう。それまで後宮で静かにしておれ。……ただしピヴォワンヌ、そなたの帯剣は禁じる」
 リシャールが退室して長靴の音が遠ざかると、ピヴォワンヌは憔悴しきった顔でうなだれた。
 
 
 
 
「ピヴォワンヌ……、怪我はしていない?」
 バイオレッタはそう言って異母妹の傍らに跪いた。
「してないわ」
 床の上に座り込んだピヴォワンヌはそっけない口調で言う。長い芍薬色の髪が、ヴェールのように顔を覆い隠していた。
「帰りましょう。ダフネたちが待っているわ」
「……いや。帰りたくない。あんただけ帰ればいいわ」
 ピヴォワンヌは養父の骸を見つめたまま、吐き捨てるように答えた。
 バイオレッタは彼女の隣にしゃがみこみ、細い両肩を手で包んだ。案の定、冷たく凍えて震えている。
「今はとても辛いだろうけれど、あの方を……国王陛下を本当に殺してしまわなかったのだけはよかったわ。あのままだと貴女は、実父殺しの烙印を捺されてしまうところだったから……」
 刹那、ピヴォワンヌは勢いよくバイオレッタを振り仰いだ。きっと睨み据える。
「あんたは……!! あたしの気持ちなんてわからないくせに、勝手なことを言わないで!! 慕っていた父親をあんな風に殺されたのよ!? 育ての親をただの病で亡くしたあんたとは、何もかもが違うんだから!! あたしはあんたとは違う……、間に合ってさえいれば、助けられたの……!!」
 刃のような言葉が、バイオレッタの心に容赦なく食い込んでゆく。
 けれど、その痛みから目を逸らすのは罪だと、バイオレッタはわかっていた。
「そうね。ごめんなさい。……わたくしに、貴女のすべてはわからない。それだけは謝るわ。でも、信じて。わたくしは貴女を傷つけないし、理解したいと思ってさえいるの。わたくしはあの時、本当は少しだけ怖かった。……貴女が復讐のためにすべてを犠牲にしてしまいそうで」
「……!」
「……こうして生きていてくれて、ありがとう。貴女を喪わなかったことは、わたくしにとって何よりも嬉しいことなの。神様に感謝しなくちゃね」
 
 そこでピヴォワンヌはついと顔を背ける。
「……なんであたしなんかに、そこまで親切にしようとするのよ。このお人好し。あたしにはあんたがわからない」
「貴女はわたくしに涙を流させてくれた。背を撫でて、泣き止むまでずっとそばにいてくれたわ。あの温かさが、わたくしにはただ嬉しかったの」
 すると、ピヴォワンヌのルビーレッドの双眸が、ゆっくりとこちらを向いた。
「……それだけで?」
「ええ。それだけでじゅうぶんだったわ。だって、わたくしにとってはとても価値のある出来事だったから」
 
 ピヴォワンヌはきっと、自分が何か人を救うようなことをしたとは露ほどにも思っていないのだろう。だが、バイオレッタにとっては違った。
 仲間にさえ嘲笑われ、大切な人を悼む行為を否定されたバイオレッタの心の傷を、ピヴォワンヌは確かに癒したのだ。
 泣きたければ泣いてもいいのだと、あの時彼女はバイオレッタを「赦した」。
 ピヴォワンヌはバイオレッタがずっと抱え込んでいた心の重荷を下ろさせ、故人を想って涙を流すという行為を彼女にさせた。いわばそのためにバイオレッタの心は救われたのだ。
 
(だから、今度はわたくしの番でしょう? ピヴォワンヌ……)
 
 バイオレッタはその紅の双眸を見つめながら、精一杯の感情を籠めて続けた。
「ピヴォワンヌ。わたくしでは何も貴女の力になってあげられないかもしれない。でも、話を聞くことはいつでもできるし、そばにいてあげることだってできるの。だからお願い。たった一人で心の中に閉じこもろうとしないで。貴女の後悔も無念も、できることなら全部解かしてあげたい……。わたくしを助けてくれた貴女が、この先もちゃんと前を向いて歩いていけるように」
 その言葉に、ピヴォワンヌは目を見張る。
 隣にいるバイオレッタが何を言っているのか瞬時には理解できないといった表情を、彼女はした。
 だが、じわじわとその言葉の意味を悟っていったピヴォワンヌは、強く唇を引き結んだ。
 ……自分が「赦される」側に回るとは思ってもみなかった。そんな驚きと諦めとが、そのおもてに浮かぶ。強く気丈な少女だからこそ、バイオレッタに自分の弱さを見られたくはなかったのだろう。
 心の内側へ踏み込んでしまったことに罪悪感を覚えつつも、バイオレッタは膝をつき、半ば強引に彼女を抱き寄せた。
「……辛かったわね」
 ピヴォワンヌは次の瞬間、くしゃりと大きく顔を歪めた。
「……っ!!」
 ……噛みしめた唇の隙間から、嗚咽が漏れる。
 ピヴォワンヌはバイオレッタの背に手を回し、盛大にしゃくり上げた。
「ふっ……、うう……! なんで……! なんで父さんが死ななきゃならないのぉ……!」
「……」
 バイオレッタは安易な慰めの言葉はかけずに、ただピヴォワンヌの細い背を抱いていた。時々あやすように背を叩いてやる。
 彼女と養父との間の繋がりは、けしてバイオレッタには理解できないものだ。それを思えば、気安く声をかけるのは憚られた。
 ピヴォワンヌは今、養父との記憶や彼の温かさを反芻している。帰ってこない温度、もう触れられない存在。そんなものを思い出して――そして恐らく自らの力不足に腹を立てて――泣いているのだ。だからこそ、今は水を差したくない。
 言葉を並べて慰めるのは簡単だが、今自分がすべきことはそんなことではないだろうと、バイオレッタは思う。
 今、ここにいる自分にできることは……。
 
(……同じ場所で、同じ痛みを分かち合うこと。ピヴォワンヌが感じている辛さを、一緒に感じること。わたくしには、それくらいしかできないけれど……)
 
 誰もいないところで一人で泣くよりも、たとえ事情を知らない人間であってもいいから誰かが見ている前で泣いた方が救われる。
 バイオレッタはそれをピヴォワンヌに教えてもらった。
 だから今度は、自分が返す番だ。
 
(早く、元気になって……)
 
 バイオレッタはただ黙って、異母妹の小さな体を抱きしめていた。
 
 ……と。
 
「――陛下に剣を向けるなど愚かしい行為ですよ。次回からはせいぜい気をつけなさい、ピヴォワンヌ様」
 冷酷な声音に、バイオレッタは振り返る。
 そこには無表情に二人を見下ろすクロードがいた。ゆったりと腕を組みながら、心情のいまいち読み取れない顔でたたずんでいる。
「……本当に愚かな方だ。養父を殺されるばかりか、今度は貴女ご自身も葬られるところだったのですよ。陛下を怒らせたら、いかな宮廷人であってもただではすみません。宴の席で“見せしめ”と称して罰される宮廷人のなんと多いことか……」
 その言葉にピヴォワンヌは凍り付き、さっとバイオレッタから身を放した。
 未だ流れる涙を荒っぽく拭うと、クロードを睨み付ける。
「……は。子供みたいね。あの王様のことだから単なるわがままでしょ?」
「子供……ですか。その喩えはある意味的を得ているでしょうが、陛下の御前では使われないことをお勧めいたしますよ。惨い結末となるのは目に見えています」
「何が言いたいのよ!? 煙に巻くような言い方して……っ!」
 しかしクロードは取り合わない。
 冷ややかに漆黒の上着を翻し、二人に背を向ける。
「お二人とも、今日のところは薔薇後宮にお帰りになることですね。そしてしばらくの間、後宮で大人しくなさっていた方がよろしいかと」
 
 彼は躊躇なく≪星の間≫の入口まで進み、閉じていた門扉を押し開いた。
「……どうぞ? ちょうど筆頭侍女殿がお待ちかねのようですよ」
 その言葉にはっとし、扉の外を見る。待機していたらしいダフネが、強張った面持ちでこちらをうかがっていた。
「……行きましょう、ピヴォワンヌ」
 バイオレッタが促すと、渋々といった体でピヴォワンヌはついてくる。
 ピヴォワンヌの手を握りしめたまま、クロードの開いた扉の向こうへと進む。
 ダフネをさしまねいてピヴォワンヌを後宮まで送り届けてくれるよう頼み、自分はクロードに向き直った。
 
「クロード様」
 呼びかけに、クロードは嘲るように笑った。
「“様”などと……。貴女は姫君なのですから、ただ『クロード』とお呼びくださればよろしいのですよ」
 確かに、バイオレッタにはそれができる。王女だと正式に認められた今は、彼を臣下として扱い、命令を下して思うままに動かすことさえ許されている。
 けれど。
 
(わたくしは、あなたを信じることができない。……どうしても)
 
 まんまと美しい外見に騙されてしまったが、クロードは恐らく、バイオレッタが乙女らしい幻想を抱けるような男ではない。
 ≪星の間≫への巧みな誘導。国王の残虐な仕打ちを、あえて見て見ぬふりをする淡泊な態度。傷つき弱ったピヴォワンヌにかけた、容赦のない蔑みの言葉も。
 すべてがクロード・シャヴァンヌという男のまぎれもない一面であり、ともすれば本性だ。
 そして彼が想像通りの冷徹な男ならば、必要以上に踏み込んでこられぬようにあえて距離を置かなければ、とバイオレッタは思っていた。
 第一、臣下としての信頼を寄せてもいない男を、気安く呼び捨てるわけにはいかない。そんな間柄になれば、彼はバイオレッタを自分の意のままに扱おうとするかもしれない。
 恩人として彼に感謝する気持ちこそあるが、今はどうしても親密な間柄にはなれそうもなかった。……あんな場面を目の当たりにしてしまったあとでは。
 簡単に信頼を寄せられるような生易しい相手ではないのだと、バイオレッタは自身によく言い聞かせた。
 いくら耳障りのよい言葉を吐かれようとも、容易に心を許してはならない。それはピヴォワンヌへの裏切りだ。
 
 バイオレッタは返答を待ちわびている様子のクロードに、厳しくかぶりを振った。
「……いいえ。このまま……、クロード様とお呼びします。よろしいですわね?」
「お好きなように、姫」
 姫などと呼ばれることにも、今は正直嫌悪感しか感じない。
 だが、バイオレッタは手のひらをきつく握りしめると唇を開いた。
「ではクロード様。どうしてあんなひどいことを……? あなたには最初からわたくしたち王女を《星の間》に入れないという方法もありましたわ。それに、国王陛下の振る舞いを御止めすることだって、あなたにはできたはず。どうして、あなたはそれをなさらなかったのですか」
「不可能だからです」
 きっぱりと言い切ったクロードに、バイオレッタは瞠目する。
「そんな……、どうして!?」
「すべて陛下のご命令だったのです。あの方の養父に罰を与え、王女たちへの見せしめとすること。王女たちに絶対的な恐怖を植え付けることも……。私はそのように動かせて頂いたまで」
「――!」
「私は腹心として陛下の補佐役を仰せつかった身。宮廷での権力者として、地位と力と姓を賜り、何不自由ない暮らしを約束されている身です。その代わり、あの方の命には逆らえないのです」
 優しそうな青年だと思っていた。なのに、その印象が大きく揺らぎだしてバイオレッタは戸惑っていた。
「それでも酷い……、酷いわ……!! どうしてあんな、陛下に加担するようなことを……!? わたくしには、およそ人の所業とも思われません……!!」
 怒りのあまりクロードのコートを思い切り掴んで揺さぶる。だが、彼はまるで言われ慣れているとでもいうように、表情一つ変えなかった。
「なんとでも気の済むまでおっしゃって下さい。『年を取らない化け物』に、心は不要ですから」
「っ……! あなたは……! あんなか弱い女の子を傷つけて、一体何が楽しいのですか!? ピヴォワンヌの心をずたずたにして、一体何を得ようというのですか……!!」
 クロードはただ一言、「何も」と言った。
「私にとってピヴォワンヌ様は赤の他人も同然。共感する理由もない方です。それならば、命じられたことを遂行するのが最優先でしょう」
「……!」
 その言葉に、バイオレッタはなぜかひどく悲しくなり、クロードのコートから手を放してうつむいた。
 
 胸に満ちたのは壮絶な痛みだった。一方的に信じていた相手に裏切られたことが、どうしても耐え難い。
(……別に、わたくしと同じようにピヴォワンヌと接しろとは言っていないわ。でも……、あまりにも冷酷だわ)
 なぜだろう。一人ひとり考え方が違うというのは当たり前のことなのに、クロードに突っぱねられると心が痛む。もしかして、勝手におかしな期待をしてしまっていたのかもしれない。彼になら理解してもらえないことなどないのだと。けれどそれは間違いだったのだ……。
 
 必死で涙をこらえていると、ふいにクロードが唇を開いた。
「……許してください、姫。今の私には、陛下のご命令をはねつけるすべがありません。寵臣とは厄介なもの。権力を得る代わり、その意思と自由は主君に捧げなければならない。時には命や力さえ差し出さなければなりません。お分かりですか? たとえ意に染まぬ命令をされたとしても、私はリシャール様に従わなければならないのです」
「だけど……っ!!」
 理屈なんてわかっている。寵臣が王に従うのは当然のことだ。けれど。
 バイオレッタはごしごしと目元を擦り、平然とした表情を保ちながら唇を開く。
「……あなたが、こんなに心ない方だったとは思いませんでした」
「そうですか。姫のご期待に添えられず、申し訳ございません」
 その端整すぎる面立ちはまるで仮面のようだった。意思もぬくもりも、一切感じさせない無機質さがある。
 悲しくなりながらも、バイオレッタはその瞳をじっと見つめる。
 互いの想いをぶつけ合うかのように視線を交わらせると、クロードはふいと視線を逸らす。まるで傷つけあうのを避けようとしているかのように。
「……どうぞ、存分に私を嫌ってください。それで貴女の気が済むのなら」
 突き放すように言い、クロードは回廊の向こうへ消えていった。
 
 

 

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