第三十三章 白き毒華

 
「本日はいかがなさいましたか、ミュゲ姫様」
 その日、ミュゲは彼女にしては珍しく、私室に彼を呼び出していた。
 彼――クロードは、出された紅茶にも手をつけずにミュゲを見つめ返した。
「……御用がないのでしたら、私は下がらせて頂きます。姫君のお部屋に長居はできません」
「……そう」
 冷ややかにそう返しながらも、ミュゲは内心彼を恨んでいた。
 
(バイオレッタの部屋にはいくらでも「長居」をするくせに)
 
 
 二人の仲は後宮ではもはや語り草だ。知らないのはきっと父王と本人たちだけだろう。女の噂話が広まるのは早い。しかもみな娯楽と醜聞には目がないから、二人の話は喜々として――そして面白おかしく――語られた。
 
 ――あのように仲睦まじく身を寄せ合って踊られるなんて、よほどいい仲でいらっしゃるのね。
 ――色事に関してはまるで正反対の遍歴をお持ちのようだけれど、かえって刺激になってよろしいのではないかしら。
 ――シャヴァンヌ様も案外これが最後の恋になるかもしれませんわよ? そうなったら貴女どうします?
 ――まあ、嫌だわ。わたくしだって今か今かと機会チャンスをうかがってましたのに!
 
 ……二人が舞踏会でワルツを踊ってからというもの、女たちは宮廷の随所でそうした話をかしましく繰り広げ始めた。
 それが偶然ミュゲの耳にも入ってきたわけだが、その話題がいかに彼女の心中を掻き乱したか、本人たちはまるで気づいていないようだった。
 ミュゲは浮かれる彼女たちを尻目に、焦燥と嫉妬で燃え立つ胸を必死でなだめるしかなかった。
 
(よりによってどうしてあの子なの?)
 
 美しい女ならごまんといる。肉感的な肢体を誇る女もいれば、舞踏や歌、楽器などの芸事に秀でた女もいる。
 王宮は虚栄と倦怠渦巻く場所だ。目立つ貴婦人など掃いて捨てるほどいるし、そんな彼女たちと恋仲になるのは宮廷の男にとっては一種のステイタスである。
 
 それを思えば、バイオレッタなど特に目立ったところがあるわけでもない、普通すぎるほど普通の娘だ。変わった部分があるとしたら、足しげく厨房に通って料理をするなどといういかにも庶民的なことをやっていることくらいだろう。
 だが、それが一体何の足しになるというのだろう。髪や瞳の色が少し珍しいだけで、造作や雰囲気はいたって普通――むしろやや地味なくらいである。
 王城に集う同じ年格好の貴族の令嬢たちに比べれば、華やかさにも欠ける。発言力がないせいで王宮では見ていてじれったくなるほど大人しくしているし、気概がないのか父王を前にすると萎縮してしまうことも多い。
 
 クロードは一体あんな姫のどこが気に入ったのだろうか。自分ならもっと彼の望みを叶えてやれるのにと、ミュゲは眉をひそめる。
 
(バイオレッタなんか相手にしたって、お前には一文の得にもならない。ちゃんとわかっているの? クロード)
 
 ミュゲは自分の方が魅力的な王女だと自負している。クロードの出世のために父王に進言したこともあるし、バイオレッタのように彼に余計な手間をかけさせたこともない。クロードと釣り合いが取れるのは絶対に自分の方だという確信が、ミュゲにはあった。
 
(でも、お前はわたくしを欲しがらないのね。あの子の部屋にはいくらでも長居をするくせに、わたくしには他人行儀で冷たい……。そんなのってないわ……)
 
 実際、これはかなりの屈辱でもあった。これまで散々青年貴族たちに誉めそやされてきたミュゲが、唯一手に入れられないもの。それがクロードの心なのだ。
 
 
 カサンドルの淹れた紅茶を静かに味わい、ミュゲは平静を装ってクロードに話しかけた。
「……ねえ、クロード。お前に頼みがあるのよ」
「貴女が私にお願い事とは……珍しいこともあるものですね。お話を伺いましょうか」
 ミュゲは唇を噛んでうつむいた。
(女王になったら、わたくしはお前を婿にしたい……)
 女王は自分の意思で配偶者を決めることができるらしい。その証拠に、エピドートやクラッセルは、自国の王子や公子を女王の入り婿として送り込もうとしている。
(……もし、わたくしが女王になったら。そうしたら、お前はずっとわたくしのそばにいてくれる?)
 異国へ嫁ぐことなど考えたくもない。クロードにずっと隣で微笑んでいてほしい。
 そう願うことさえ罪なのだろうか?
 ミュゲはこみ上げる切なさを懸命に呑み込むと、ゆっくりと唇を開く。
「わたくしとお前が最初に言葉を交わした日のこと、覚えている? あの時わたくしは十四で、夏の鈴蘭園で苦しんでいた……」
「そうですね。よく覚えていますよ」
「発作を起こしたわたくしに、初めて手を差し伸べてくれた人。それがお前よ」
 
 姉にも母にも甘えられなかったミュゲを支えてくれた人物。それがクロードだった。
 彼はミュゲを助け起こし、宮廷医のところまで運んでくれた。優しく甘い声と、力強い腕の感触をまだ覚えている。
 それ以来、ミュゲの瞳は彼ばかりを追いかけるようになっていった。ミュゲは急速にクロードに惹かれ始めた。彼以外の男性が目に入らなくなるほど。
 
「……だから、わたくしはお前が好き。それは変わらない。たとえお前の心がここになくてもいい……、バイオレッタが好きならそれでもいいから……」
 クロードははっと息をつめた。
「……気づいていらしたのですか」
「気づかないはずないでしょう……? わたくしにはずっとお前しか見えていないのだから。いつだって、わたくしが求めるのはお前だけよ」
 言いながら、ミュゲは切なくなった。
「……どうしたら、わたくしだけ見てくれる? こんなにお前が好きなのに、お前はわたくしを見ない。こんなのってないわ」
「貴女が女王になることがあれば、私は貴女にお仕えいたします」
「それは、配偶者としてなの? それとも、臣下として?」
「……」
 冷淡ともいえるクロードの態度に、ミュゲはがたんとソファーから立ち上がった。
「……お願い!! わたくし、お前との繋がりが欲しいの!! なんだってかまわない……、お前がわたくしを見てくれるなら」
 クロードはうつむくと、組んだ脚の上にそっと手を置いた。
「……では、貴女のお望みどおりに。私がいかがすればよいのか教えてくださいませんか」
「女王にならなければわたくしを見てくれないというなら、お姉様を……殺して」
 泣き笑いのような顔でつぶやき、ミュゲは手のひらを握りしめた。
 
 ……そうだ。脆弱なバイオレッタも、王位に関心のないピヴォワンヌも、最初から敵ではない。
 確かにバイオレッタはクロードの心を捕らえたが、政略結婚で異国へ嫁ぐことになればどうせ彼とも離れ離れになるのだ。
 次期女王によって輿入れ先が決まってしまえば、二人が引き裂かれるのは必定である。
 ならば、王位継承者として最初に消すべきはオルタンシアだ。
 
(あの女の力を削いで、試験でわたくしが勝てるように仕向ければいい。バイオレッタは端から敵ではないし、ピヴォワンヌだっていい加減なことばかりやっているもの。わたくしよりも劣った王女なんて、どうせ選ばれるはずがない。要はお姉様を消せばいいのよ。そしてわたくしが女王になれば)
 
 そうすれば、完璧な身分を手に入れられるばかりか、クロードを婿として選出することさえ可能になる。
 自分が絶対的な地位に登りつめてしまえば、もう他の王女たちに好き勝手させることはできないのだから。
 そうミュゲは考えたのだった。
 
 バイオレッタは確かに健闘しているが、試験の結果では姉オルタンシアに遠く及ばず、廷臣たちからの支持という意味ではミュゲの方が遥かに有利だ。
 ピヴォワンヌに関しては言うまでもない。がさつで優雅さのかけらもない姫として嘲笑されている。剣技の腕では姉オルタンシアとほぼ同格だが、美貌や信頼、領地を治める能力といった項目では劣っている。
 
(それなら、わたくしが女王になればいいんだわ)
 
 幸い、年若い青年貴族たちと懇意にしてきたおかげで、試験の票はそこそこ入っている。
 今のところ優勢なのは姉だから、ミュゲは次点といったところだ。だが、勝算はじゅうぶんにあるだろう。
 即位したのちは、バイオレッタを女王権限で他の男に嫁がせてしまえばいい。適当な臣下のところに降嫁させてもいいし、目障りなら異国へやってしまえばいい。そうすれば余計な嫉妬に駆られる心配もなくなる……。
 
 ミュゲは心の裡で静かに彼女をせせら笑い、改めてクロードを見た。
「……命令よ、クロード。お姉様を亡きものに。お前がわたくしを見てくれるというなら、なんだってするわ」
 だが、クロードは冷たい表情でミュゲを見据えた。
「……そのようなことをなさっても、貴女の望みは叶わないのでは?」
 ああ、とミュゲは密かに絶望する。
 そうだ。こんなことをしたって意味はない。姉を殺したところで、ミュゲの欲するクロードの心が手に入る保証はない。ただ王宮が混乱するだけだ。
 そしてこのクロードの口ぶりから察するに、彼はミュゲの気持ちに応えようなどとは思っていない。口先だけでミュゲを喜ばせようとも思っていない。
 つまりミュゲを愛することになんのメリットも感じていないのだ……。
 
 絶対に泣くものかと、ミュゲはきつく唇を噛みしめる。手のひらに爪を食い込ませると、なんとか声を振り絞った。
「だけど、お前は言ったわ。わたくしが女王になったらわたくしを見てくれるって。それならいいのでしょう? 女王になりさえすれば、お前はわたくしのそばにいてくれるのでしょう……?」
 それが臣下として仕えたいという意味なのか、それとも女王あなたの婿になってもいいという意味なのか。
 ミュゲにはわからない。わかりたくもない。
 しかし、一度玉座にのぼってしまえばあとはミュゲの好きにできる。
 
(スフェーンの行方も、他の姫たちの未来も……。そんなもの、わたくしには一切関係ないわ。わたくしが欲しいのはただ一つ……。お前の心、そしてお前と一緒に過ごせる毎日よ……!)
 
 一縷の望みを託して、ミュゲはクロードを見つめた。この必死な想いを少しでも汲んでほしかったのだ。
 
 だが、クロードは形のよい眉をわずかにひそめただけだった。
 彼は一瞬だけ何とも言えない笑みを浮かべたが、やがて何事もなかったかのように居住まいを正した。
「そのようなことでよろしいのでしたら、貴女の意のままにいたしましょう」
 言って、クロードは立ち上がった。
「――後日、貴女が目的を果たすために必要な品をお届けしましょう。今日はこれで失礼いたします」
「……ええ」
 
 彼が退室したあと、ミュゲは乾いた笑い声を漏らした。
「……忘れないで、クロード。これはわたくしたちの最初の罪の共有よ」
 
 ――クロードの幸福を願う気持ちと、彼だけ幸福には浸らせたくないという気持ち。
 相反する矛盾した感情は、ミュゲの心を容赦なく取り巻いた。
 
「お前の心を手に入れるまで、絶対に諦めないから」
 つぶやくと、ミュゲはまたぎりぎりと手のひらに爪を食い込ませた。
 
 
***
 
 
 ミュゲはその日、姉オルタンシアの住まう天藍ラズーラ棟に足を踏み入れた。
「……まあ、一体どうしたっていうの」
「久しぶりにお姉様のお顔が見たくなって……」
 瞳を伏せ、所在なさげに身を縮こまらせるミュゲに、オルタンシアは姉姫らしく鷹揚に促した。
「そう。いいわ、お入りなさい」
 第一声こそ冷ややかだったものの、彼女はすぐにミュゲをドローイングルームに招じ入れた。
 オルタンシアは根がそこまで複雑な人間ではない。
 一度敵対することがあったとしても、わりとすぐに水に流してしまうのだ。
 
「実は、今日はお姉さまにぜひお見せしたいものがあって。気に入っていただけるといいのですけれど」
 ミュゲは微笑み、持っていた銀の櫛を姉に見せた。革細工のケースから取り出されたそれは、シャンデリアの光を受けて鈍いきらめきを放つ。
「素敵でしょう? アルマンディンの職人からの献上品ですのよ」
 オルタンシアは素直にうなずいた。
 それはなかなかに凝った意匠の櫛だった。随所にちりばめられたルビーやエメラルドの輝きが見事である。
 彼女はすぐにミュゲの手の中の櫛に興味を示した。
「本当に。素敵だわ。では、お前が挿してくれる?」
「もちろん」
 ミュゲは化粧台の椅子に姉姫を座らせると、ゆっくりとした手つきで彼女の瑠璃色の巻き髪を梳かしはじめた。
「お姉様の御髪は本当に綺麗ですわね。鏝を当てなくてもいいくらい。羨ましいわ」
「まさか! ひどいくせ毛で困っているのよ、これでも。お前の髪の方がお母様に似てとても美しい色をしているじゃない。こしも艶もあって素晴らしいわ」
 二人はしばし、鏡の中でにこやかに微笑み合った――かのように思われた。
 口火を切ったのはミュゲの方だ。
「お姉様はお幸せね。剣もお強くていつも溌剌としていて。美貌でだってこの国ではお姉様の右に出る者はいないほどだわ」
「……試験が始まる前に宣戦布告したことなら謝るわ」
 やけに素直にオルタンシアは謝罪したが、ミュゲはそんなことで絆(ほだ)されるものかと、鏡の中の彼女を軽く睨む。
「いいえ、謝らないでくださる? だってそうでしょう。王位継承争いも、現時点ではお姉さまが一番優位よ。わたくしは姫の中では非力な方だし、あとの二人だって大したことないわ。王宮で育ったことがないのだから、領地など与えてもどうせ見当外れなことしかできないのよ」
 オルタンシアが黙り込んだのをいいことに、ミュゲはたたみかける。
「プリュンヌはまだ幼いし、忌み子だからという理由で機会は絶対に与えられない。アスターお兄様に関してだってそうよ。あの人は呪われた瞳の持ち主というだけで、王位継承争いから早々に離脱させられてしまったわ」
 
 プリュンヌの髪は薄桃といえば聞こえはいいが、実際は薄い赤をしている。あどけない双眸もだ。
 アスターもまた同じだ。彼の片目は薔薇を思わせる紅色をしており、それが邪神や血を連想させるとして忌み嫌う臣下も多い。
 
「お姉様はとても恵まれている。自分で道を切り拓くための能力が、すべて備わっている。努力なんかしなくても、貴女はもう何もかも持っていらっしゃるの」
「いきなり何を言い出すの。なんだか今日のお前はおかしいわよ。大体、わたくしは試験において自分が優位だとは思っていないわ。お前が非力な姫だとも思っていない。お前のことはきちんと妹として認めているし、試験でも正々堂々と戦うつもりでいるわ。それに、お前とわたくしはいつだって公平に扱われてきたじゃないの。一体、何が不満でそんなことを言いだすの?」
「公平……? 不満……? ふざけないで!!」
「きゃっ……!?」
 ミュゲがいきなり強く髪を引いたので、オルタンシアは痛みに顔を歪める。
 ミュゲは勢いに任せてまくしたてた。
「お姉様が全部持って行ってしまったのだわ! 健康な身体も、溢れるほどの知性も! お母様からの愛情だって……。そうよ、貴女に全部与えられてしまったせいで、わたくしにはもう何も残っていない……。わたくしはもう、ここから一歩も動けそうにないわ。試験だってもう、投げ出してしまいたい……!」
「ミュゲ。そんな風に取り乱すものではないわ。お前らしくもない。とりあえず落ち着きなさい。きっと試験のせいで神経が逆立っているのね。今、アデライドに温かいお茶を持ってこさせるから……」
 そんなことを口にする姉に、ミュゲは弱々しく微笑んでみせる。
「ああ、ありがとう、お姉様。お姉様は本当にお優しいのね。でもわたくしは、もう本当に何もできそうにないの。――こうして、お姉様の動きを止めて差し上げることくらいしか」
 
 ――刹那、ぐさりと鈍い音がした。ミュゲがやおら手に持った銀の櫛を姉の頭部に突き立てたのだ。
「……がっ……!!」
 短く呻き、オルタンシアは全身をだらりと脱力させる。
 紫陽花色の瞳が不穏にゆらゆら揺れたかと思うと、白いまぶたが自動人形オートマタのようにすっと閉ざされる。
 やがてオルタンシアは、糸が切れたように呆気なく倒れ伏した。どさっという音とともに、瑠璃色の巻き毛が絨毯の上に散らばる。
 
 ミュゲはゆっくりとしゃがみ込み、姉の髪から櫛を引き抜いた。
「この櫛には毒が塗られているのよ。人を仮死状態のまま眠らせることのできる毒が……。だからお姉様、貴女はもう王女としてこの戦いで争う必要がない」
 姉の傍らに跪き、ミュゲは小さな笑い声をこぼす。
「……貴女の命はわたくしが大事に使わせてもらうわ、お姉様。貴女のぶんまで立派な女王になってみせるから……。ふふ……」
 そうつぶやいて、ミュゲは蒼褪めた姉の頬をつと指先でなぞった。
 
「……姫様、本当によろしかったのですか?」
 ずっと部屋の隅に控えていた筆頭侍女のカサンドルが、どこか咎めるような口調で訊ねてくる。
「何のこと? カサンドル」
「最近の姫様は姫様らしくありません。姉君をまさかこんな目に遭わせるなんて。これもすべてあの……クロードとかいう魔導士のせいなのですか?」
「――クロードを悪く言わないで。いくらお前でも許さないわよ。それからカサンドル。お前はわたくしとお姉様、どっちの味方なのかしら?」
「……ミュゲ姫様ですわ」
「では今まで通りわたくしに従うことね。わたくしが気に入っている魔導士のことを悪く言ったり、お姉様の味方についたりしたら……わかるわよね?」
 カサンドルは青褪めた顔でうなずいた。
「……はい」
 
 二人がかりで姉を寝台に寝かせる。
 ミュゲは血の気を失くした姉の顔をいつまでも見つめていた。
 
 

 

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