その日、ミュゲはバイオレッタに会うため単身菫青棟へと足を運んだ。
薄紫の扉を叩き、筆頭侍女に取り次いでもらう。
「……バイオレッタ姫にお会いしたいのだけど」
言葉少なにそれだけ言い、ミュゲは眉を引き絞る。
筆頭侍女サラは一瞬だけきょとんとしたが、すぐに女主人に客人の来訪を知らせに行った。
――自分を凶行に走らせるに至ったものの本性を、実際にこの目で確かめてみたい。
そんな風に感じたミュゲは、気づけばバイオレッタの居住棟へ向かって歩を進めていた。
バイオレッタはミュゲが長いこと「悪」と決めつけていた存在だ。
しかし、それが本当に正しい判断だったのか、本当に彼女がすべて悪かったのか、ミュゲにはずっと気になっていた。
ミュゲはこれまでに何度もバイオレッタを悪罵してきたし、敵視してきた。
同じ女王候補だからという理由だけではない、クロードを横から奪い去られるのが恐ろしかったからだ。
だからこそ彼女を蔑むような言動を繰り返した。ああやって罵り敵視することによって平常心を保とうとしてきた。
しかし、アベルは言った。せっかくの自分の才能をそんなことのために使うのは間違っている、と。他人を傷つければ他の誰でもない自分自身が汚れていくのだと。
あの頃、確かにミュゲは平静ではなかった。どうにかしてこの姫を傷つけてやりたいと思っていたし、とにかくあの澄ました表情が憎らしくて仕方なかった。
どんな手を使ってでも彼女の顔を醜く歪んだものに変えてやりたかったし、彼女にも自分と同じようなひねくれた感情があるのだとどうしても確かめたかった。
そうしなければいてもたってもいられなかったからだ。
バイオレッタのことを、自分と同じレベルの人間だと思いたかった。
ミュゲに挑発されて憤怒と敵愾心を露わにするただの女の顔が見たかったのだ。
なのに、バイオレッタはミュゲの挑発には一度たりとも乗らなかった。
彼女はミュゲのように薄汚れることもなく、今も変わらずその気高さを保ち続けている。
ミュゲはそのことを妬ましく――そして不思議に思った。
(わたくしと彼女は一体何がどう違うというの? わたくしはなぜ選ばれなかったの? なぜ、わたくしはあんな子に負けてしまうの?)
アベルと言葉を交わした夜を境に、ミュゲの心の中にはしだいにそんな疑問がわだかまるようになっていった。
そして、一度バイオレッタ本人と話をしてみればすべてがはっきりするはずだと思ったのだ。
ドローイングルームに案内されたミュゲは、中で待っていたバイオレッタと対面した。
薄紫と深緑を基調とした部屋の中、バイオレッタは白銀の髪を揺らして微笑した。
「ごきげんよう、ミュゲ様」
にこやかに言って、バイオレッタはミュゲにソファーを勧めた。
「わたくしのお部屋に遊びに来てくださるのは初めてですわよね。今お茶を差し上げますから座っていてくださいませ」
ミュゲはとっさに拒絶する。
「い、いらないわ……、すぐに帰るから」
「せっかくですから一杯だけでも」
信じられないことに、バイオレッタはミュゲに背を向けると手ずからお茶の支度を始めた。
部屋の隅にあるティースペースに立ち、手際よくケトルに水を汲んで沸かし始める。
そこでミュゲは一瞬、彼女の立ち姿に母性にも似た何かを感じ取った。
……母妃にはけして感じることのなかったものを。
母妃シュザンヌは根っからの放蕩好きで、娘たちのこともほとんど顧みることがなかった。
彼女がはりきるのは盛装する時と男に会いに行く時だけで、王女たちの教育や躾すら教師に任せきりだった。
そのため、ミュゲは母親との温かい触れ合いや会話などとはほとんど無縁のまま大人になった。
父王リシャールの言いつけで実の父親に会いに行くことは禁じられていたから、当然実父ともほとんど顔を合わせたためしがない。
むろん名前と職種くらいは知っているけれど、それだけだ。父と娘などとはいっても、実父とミュゲはたったそれだけの間柄だった。
姉オルタンシアとともに母の広大な居住棟で暮らしていた頃、ミュゲは常に孤独だった。
姉姫であるオルタンシアには常に同年代の取り巻きやご学友と呼ばれる存在がいたが、ミュゲはうまく友人を作ることができず、いつも一人ぼっちだった。
ミュゲの人見知りはいつも「取り澄ました嫌な態度」として受け取られたし、積極的に友人を作ろうとしないことも災いして、ミュゲはいつもどこか浮いていた。
そんな中、一人で部屋ですることといったら手仕事や読書くらいのものだった。
「教養のある知的な姫」と認識されるようになったのもひとえにそのせいだったが、一方でミュゲはその評価を恥じてもいた。
何せ学問においては姉に遠く及ばないのである。それなのに「教養がある」「知的だ」などと誉めそやされるのは不快だったし、単純に恥ずかしかった。
それに引き換え、姉オルタンシアはまさに女王になるために生まれてきたような才覚の持ち主だった。
乗馬、剣術、討論。何をさせても完璧にやってのけてしまう。
持ち前の美貌だってけして劣ってはいない。気品があってすらりとした立ち姿は優雅そのものだ。
シュザンヌが優秀な彼女ばかりを贔屓していたのも致し方のないことなのだろう。
だが、ミュゲはもっと自分にも目を向けてほしかったし、真剣に対話してほしかった。
簡単に口にするのははばかられるが、今だってそうだ。
シュザンヌはミュゲたちのことを単なる自分の手駒としてしか扱わない。
もしかすると、彼女は自分の娘たちに人並みの感情があることさえ知らないのではないだろうか……。
「どうぞ」
バイオレッタは洗練された所作で紅茶を淹れ、ミュゲの前に差し出した。
「こちらはこの前焼いておいたものですけれど、よかったら召し上がってください」
そう言ってカップの脇に置かれたのは、きつね色に焼き上がった蜜林檎のタルトだった。
不覚にもそれを「おいしそうだ」と感じてしまい、ミュゲはうろたえる。
ミュゲは普段はそこまで熱心に茶菓子を食べない。
王太后や母妃のサロンで出されれば仕方なしに口をつけるものの、本当はどれもあまりおいしいと感じたことがなかった。
ミュゲにとって、それらはむしろこの上なく味気ないもののように思われた。
贅沢品である砂糖を使って作られ、目もあやな装飾を施されたそれらは、決して純粋な甘みやおいしさを楽しむためのものではなかった。
サロンで貴婦人たちの顔色をうかがい、時たま気のない相槌を打ちながら、ミュゲは“王都における最新流行”と名高いそれらのデセールを黙って咀嚼した。
デセールはいつ食べてもぱさぱさと味気なく、ミュゲの心を浮き立たせるものにはなりえなかった。
祖母や母は実に満足げにそれらを味わい、時に感嘆のため息をついてみせることさえしたが、ミュゲにはその感覚がわからなかった。
しかし、バイオレッタによって供された茶菓は違っていた。
丁寧に注がれた熱い紅茶に、綺麗に切り分けられた蜜林檎のタルト。周囲にはさらにガレットやサブレの皿が並ぶ。
サロンでの設えに比べれば確かに華美さには欠けるかもしれない。母の取り巻きの貴婦人たちなら地味で質素だと一笑に付すかもしれない。
だが、バイオレッタの様子からは精いっぱいミュゲをもてなそうとしてくれているのがよく伝わってくる。
ほんの小さなお茶会だが、真心は感じる。
「冷めないうちにどうぞ」
「ええ……」
勧められ、ミュゲは泣きそうな気分でティーカップに口をつけた。嚥下すると、熱くまろやかな紅茶の味わいにいくらか緊張が和らいでゆくのがわかった。
皿を引き寄せてタルトも口に運ぶと、思いがけず優しい甘みが口内に広がって驚かされる。
もっとわざとらしい味がするだろうと思っていたのに、バイオレッタの出すものはお茶もお菓子もどこか心和む味わいだった。
そのことにまた涙腺を刺激され、ミュゲはぐっと唇を噛みしめる。
ミュゲは生まれてこの方自分でお茶を淹れたことなどない。普段は筆頭侍女であるカサンドルが淹れてくれたものを飲むし、菓子を自分で手作りした経験もない。
こうして自分をもてなすバイオレッタを見ていると、ありとあらゆる面で彼女に負けているような気がして虚しい気持ちになった。
同時に、一抹の悔しさが沸き起こる。
バイオレッタの纏うきらきらしい空気と自信に、不覚にも呑み込まれそうになってしまう。
茶器を手にするその姿には心なしかどっしりとした貫禄があり、もてなしを受けるミュゲをいたたまれない気持ちにさせる。
どうしてだろう。
城に連れてこられたばかりの頃はいつも自信がなさそうにうつむいていたのに、今ではそんな弱々しさは一切見受けられない。
むしろ堂々とミュゲを見つめ返している。
その気迫たるや思わず怯んでしまうほどで、今ではミュゲの方が小さく身をすくめてうつむいているしかなかった。
(なんなの、この子……。今までと全然雰囲気が違う……)
自分の卑屈さや意気地のなさといったものを剥き出しにされるような心もとなさに、ミュゲは思わずカップを叩きつけるようにしてソーサーに置いた。
朗らかだった空気が一瞬にして冷め、明らかにそれまでとは違ったものへと変化してゆく。
ミュゲの不穏な沈黙に、バイオレッタはぱちぱちと瞬きをした。すみれ色の瞳が不思議そうに見開かれる。
「……ミュゲ様?」
「……」
あんな風に声高に宣戦布告したにもかかわらず、バイオレッタはミュゲを嫌厭しない。それどころか邪気のない態度で受け入れようとする。
居心地の悪さから、ミュゲはぎゅっと肩をすくませた。
ややあってから、バイオレッタは恐る恐るといった調子で訊く。
「あの……今日は一体どうなさったのですか? わたくしに御用があるのだとうかがっていますけれど」
ここで萎縮していてはいけない、と、ミュゲはゆっくりと顔を上げた。
脳裏にアベルの力強い微笑を思い浮かべながら、静かに唇を開く。
「わたくし、ずっと貴女のことが嫌いだった。貴女のことが……羨ましかった」
口にするだけで泣いてしまいそうになったが、それでもミュゲはめげずに続けた。
「――わたくしは、貴女みたいな女が嫌いよ。何かあればすぐに男のせいにできると思っている女が。いかにも頼りない女ですって顔をして、男に寄りかかって……。そういう女は男の誘惑を理由にどこまでも快楽に流される。そのくせ与えられるものには貪欲で、殿方の愛情はあますことなく受け取ろうとする……。そういう見え透いた魂胆で殿方に迫る女が、わたくしは大嫌いなの」
言いながら、まるで自分のことを批判しているようで嫌な気分になった。
ミュゲの嫌いな女性像はそっくりそのままミュゲ自身の投影であるかのようで、それを自覚するや否や心がじくじくと痛みだす。
まるで自分で自分の胸に刃を突き立てているかのようだった。
バイオレッタは口を挟むこともせずにただ黙ってミュゲの告白を聞いている。
「……わたくしはね、バイオレッタ姫。貴女と違って欠陥のある女王候補なの。わたくしは貴女みたいに完璧じゃないし、健康な身体でもない。貴女に勝てるようなものなんて何も持ってないのよ」
「それは、どういう――」
「わたくしは、胸に持病があるの。だから、わたくしには最初から貴女たちと戦うだけの素質なんかなかった。玉座を背負う資格さえ」
バイオレッタはそこで小さく息をのんだ。
「ミュゲ様……」
「だけど、わたくしは身体が弱いなりにこれまで一人で一生懸命頑張ってきたわ。病弱なことを理由に殿方にすがったこともないし、自分でできることはなんでもやった。試験に臨む時だってそうだったわ。これでも精一杯剣術の稽古をしたし、美しさや教養に磨きをかけるために今まで以上に頑張った。それがわたくしのあるべき姿だと思ってきたから」
ミュゲは続ける。
「……なのに貴女を見ていると心が灼けそうになる。ただ城下で育ったというだけで、貴女は大目に見てもらえる。愛される。周りから気にかけてもらえるし、少しくらい不手際があったって許してもらえる。悔しかったわ、この上なく。わたくしにはそうやって許されたり甘やかされたりした経験がない。わたくしは確かにこの城で生まれ育ったけれど、貴女のように愛を無条件に与えられるなんてことはなかった。むしろ逆だった。王女であるからこそ毅然としていなければならなかった」
ちらりとうかがい見ると、バイオレッタは唇を引き結んでミュゲの話に耳を傾けている。
ミュゲは激情のままにとうとう本音を吐き出した。
「本当に憎らしかったの。貴女はただでさえ愛される姫。特に変わったことをしなくたって、周りの人間たちから助けてもらえる。それだけでもじゅうぶん羨ましかったのに……なのに、貴女はあろうことかあのクロードの心まで手に入れてしまったんだもの」
そこで初めてバイオレッタの顔にそれまでとは違った感情の色が浮かんだ。
「ミュゲ様……」
うろたえるバイオレッタに、ミュゲは嗚咽交じりにたたみかけた。
「わたくしだって、あの人が欲しかった……! あの人と結ばれたかったし、あの人の全部が欲しかった……! なのに、どうして貴女なのよ……!」
ミュゲは生まれて初めて整った美貌をぐしゃぐしゃにして泣きわめいた。
……やるせなくて、どうしようもなく惨めで。
こんなに痛くて苦しい思いをするくらいなら、もう二度と恋なんかしなくていいとさえ思う。
それほどまでに恋を失った衝撃というのは強く激しいものだった。
(もうあの人を想うのはやめるって決めたはずよ。なのに、どうしてこんな……。浅ましい……! 浅ましくて苦しくて、息が止まってしまいそう――!)
病の発作など比ではないくらい激しい苦しみが、ミュゲを襲う。
堰を切ったように次から次へと溢れてくる涙を、彼女は懸命に押しとどめようとした。
あの夜、ミュゲはクロードを諦めるよりほかなかった。
彼自身の口からバイオレッタのほうが好きだと言われてしまえばそうするしかない。
これ以上クロードに煙たがられるのは怖かったし、強欲な娘だと思われるのもまた怖くて、どうしても引き留めることができなかった。
共犯者として彼を失うのが嫌だったからではない。引き留めることによってその気持ちが丸ごと遠のいていくのが恐ろしかったのだ。
だからああするしかなかった。意地を張って、彼を罵倒するしか。
なのに、目の前にたたずむこの美姫は今でもクロードの愛情を独占しているのだ。きっと今でも彼との愛をつつがなく継続させているのだ。
そう思ったらやり場のない思いでいっぱいになる。
……同じ女なのに。同じスフェーンの姫なのに。
なのになぜ、クロードは自分を選んではくれなかったのだろう?
どうして自分では駄目だったのだろう?
「見ないで……、こんなわたくしを見ないで……! 貴女なんか、貴女なんか大嫌い……!」
そう言って喚くと、バイオレッタが困ったような吐息を漏らすのがわかる。
……当然だ。敵対する姫にいきなり私室に踏み込んでこられたと思った矢先にこれなのだから。
「ミュゲ様……」
案じるようにこちらに手を伸ばしてくるバイオレッタを、ミュゲは拒絶した。
彼女の手を突っぱね、泣き濡れた眼でキッとそのおもてを睨みつける。
「こんなの不公平よ……! だって、わたくしの方が先にあの人と出会っていたのに! なのに、どうして選ばれるのは貴女なの!? こんなのってないわ……!」
本当は気づいている。
親しくなるのに時間など関係ないのだということに。
いかに心を通わせられるかが大事なのだということに。
(そんなことわかってる……! だけど、わたくしは本当にクロードのことが……!)
惨めで切なくて、みっともなくて。
ミュゲはただただ泣きわめき続けた。
ミュゲの嗚咽が少しずつ収まり始めた頃、バイオレッタが小さな声で切り出した。
「……ミュゲ様とわたくしって、なんだか似ていると思いませんか」
「……変なことを言うのね」
そう咎めれば、バイオレッタはくすりと笑う。
「ええ、実はわたくしにもその自覚はあるのです。ですが……貴女を見ていると、わたくしは時々錯覚しそうになるのです。まるでもう一人のわたくしを見ているようで……」
「……え?」
視線で問いかけると、バイオレッタは目元だけで穏やかに微笑した。
「ミュゲ様の姿を見ていると、わたくしと似たところがいっぱいあるような気がしてしょうがないのです。人目を気にするところ、臆病なところ、些細なことで傷つきやすいところ。そして、殿方と接するときにだけほんの少しだけ怯えたような態度を取るところも」
「……気づいていたの」
「ずっと見ていればわかります」
ミュゲは唇を噛んだ。
……そうか。ずっと見られていたのだ。
ミュゲがバイオレッタを盗み見るのと同じくらい、彼女の方もミュゲを見ていたのだ。
二人は互いに興味関心を持ち合いながらもずっとそれを隠し続けてきた。
そしてきっとミュゲが彼女に対して感じた「嫌い」は、相手に興味があるが故の「嫌い」だったのだろう。
人はよく知りもしないものをすぐには嫌うことができない。
逆に言えば、「嫌い」の中には少なからず相手に対する親近感や共鳴が潜んでいるということだ。
ミュゲはそこで、「自分は本当はバイオレッタと仲良くなりたかったのかもしれない」と悟った。
「……そうよ。わたくしは人が怖い。いいえ、正確には人の目が怖いの」
口にしてしまうと、思いのほか心がすっとした。
「全部貴女の推測通りよ。わたくしは殿方が恐ろしい。彼らの甘言に騙されるのが嫌だったの。物心ついた頃から、殿方に身を任せればお母様のようになってしまうと信じていた。だからこそ彼らを避け続けるしかなかったの」
シュザンヌのような浮ついた女になりたくない。あんな色狂いになってしまうのなら、恋など一生知らなくていい。
ずっとそう思ってきた。
このまま波風を立てず、ただ平穏に生きてゆけたらと願っていた。
「そんな時、わたくしを助けてくれた男性がいた。それがクロードよ。宮廷の男たちがぎらついた視線を向けてくる中で、あの人だけは違った。下心なんて見せずにただ優しくしてくれた。あの日のわたくしには、あの温かい手の感触だけで『ああ、生きていける』と思ったの……」
脳裏に、夏の鈴蘭園が浮かび上がる。
薫風に揺れる小さな白い花と、草いきれの合間にのぞく漆黒。
差し伸べられた手と、落ち着いたテノール……。
未だにその残像は色褪せずミュゲの中に残っている。
美しく――そして心痛む――思い出として、胸の中を独占し続けている。
彼の手は慄くほど温かくて、人の体温に久しく触れていなかったことを思い知らされた。
一度そのぬくもりに身をゆだねきってしまうと、そのままずっと温められていたくなった。
心のどこかではわかっていたのかもしれない……、自分と彼はそこまで深い仲にはなれないかもしれないと。
ほんのいっとき温め合うだけの関係で終わるのかもしれないと。
……けれど、好きだった。すべて敵に回してもいいと思ってしまうくらい、好きだった。
自分の情熱のすべてを傾けてしまうくらい、愛していた。
それだけがミュゲの「真実」であり「すべて」だ。
(クロード。お前がわたくしの世界の「すべて」だったわ。そして同時に、わたくしにとって唯一の「道標」でもあったの……)
過去、そして未だ胸に残る想いを断ち切るように、ミュゲは早口でまくしたてた。
「今にして思えば、わたくしは勘違いしていたのね。あの人はわたくしのことなんか、別に好きじゃなかった。お父様の娘だから優しくしてくれただけだったのに、わたくしはそんなことにも気づけなかった。一人で舞い上がってバカみたい。それも、きっぱり断られて痛い目を見なきゃわからないなんて、わたくしは本当に駄目な人間だわ……」
すると――。
「駄目な人間なんかじゃありません。だって、ミュゲ様は見ているこちらがびっくりするくらいいつも頑張っていらっしゃるわ。わたくし、女王選抜試験で一体何度悔しい思いをしたかわかりません。ミュエット領の統治がいつも完璧だって聞かされるたび、そして廷臣たちが自慢げにミュゲ様のことを称賛するたび、わたくしは毎回貴女に嫉妬していました」
間髪入れずに否定されたこと、そしてその後に続いた「嫉妬」という単語に、ミュゲは軽く目を見開いた。
「貴女みたいな女が、わたくしに嫉妬? そんなの、ありえないわ……」
少なくともバイオレッタはミュゲの欲しいものをすでに手に入れている。
これ以上何を望み、何に嫉妬するというのか。
だが、バイオレッタは構わず言ってのけた。
「わたくしは、ミュゲ様のその強さが羨ましかった。いいえ、もしかすると、憧れていたのかもしれませんわ。宮廷人たちに何を言われても凛として立っていられる貴女の姿に」
バイオレッタは眩しそうな目でミュゲを見つめた。
「ミュゲ様って、とても努力家で真面目ですわよね。見ているこちらが思わず手を差し伸べてあげたくなるくらい、いつも精一杯頑張っていますよね」
「なにを……! わたくしはそんな、別に努力家なんかじゃ――」
「そうかしら。貴女のような女性のことを人は『努力家』と呼ぶのではないかしら。わたくしは所詮付け焼刃の姫でしかないけれど、貴女は違うと思うんです。自分が何をすべきかよくわかっていて、それに対して惜しまず努力を続けることができる。与えられた期待に一生懸命応えようとしているし、そのために自分を律することも厭わない。わたくしの方こそミュゲ様が羨ましいです」
ミュゲは絶句する。
そして、胸中で密かに白旗を掲げた。
こんなに前向きで頑張り屋な姫なのだ、クロードが惹かれてしまうのも訳はない。
そして、もし自分が男だったらこんな少女に惹かれたかもしれないとも思った。
仮にミュゲがクロードだったなら、きっとバイオレッタを選んだだろう。
彼女は明るい。そして一緒にいる相手を光射す方へとどんどん導いていってしまうようなところがある。
クロードはきっとそこに惹きつけられたのだ。
ミュゲとクロード、二人のものの考え方はどことなく似ている。
物事に対して冷めているところ。言葉遣いこそ如才ないけれど、心の中ではひどく淡々と相手を観察しているところ。
異性の関心を捕らえやすいところ、そしてその好意をいかにうまく利用するか常に打算しているところ。
そして最たる部分は暗くて卑屈なところだろうとミュゲは思った。
だからこそ一緒にいると疑心が芽生えてしまうのだ。相手の考え方や出方が手に取るようにわかるだけに、素直にその言葉を信じることができない。
自分とよく似ている男だと思えば思うほど、クロードの言葉をすんなり受け止めることができないのだ。
そして、純粋に恋を愉しむには二人は互いの手の内を明かしすぎている。
クロードは他人を利用するのが残酷なまでにうまい男だが、それはミュゲも同じだ。異性の気を惹くことで――そして彼らをうまくおだてることで――宮廷での地位を盤石なものにしてきたようなところがある。
青年貴族や騎士、母妃と懇意にしているアウグスタス派の大臣や官僚たち。
他のどんな人物が知らなくとも、クロードだけはよく知っているのだ。ミュゲがそうした男性たちの好意を巧妙に利用して自身の立場を安泰なものにしてきたということを。
ミュゲがクロードのやり方を熟知しているように、クロードの方もミュゲの手管は理解しているのだ。
いつもどこか腹の探り合いをしているような関係だったと思う。
クロードの本音がどこにあるのかがわからず、疑って、探って、それでも信用できないからさらに言葉で確かめようとしていた。
何度でも「好きだ」、「愛している」と言われなければ安心できなかったし、落ち着かなかった。
初めて宝物を手に入れた子供のように、ミュゲはクロードを片時も放したくないと思っていた。
褒められれば恍惚となったし、甘い言葉をかけてもらえれば舞い上がった。
初めての恋だったからこそ、彼しか見えなかった。
なんでも与えたいと思い、そしてまた何もかもを与えてほしいと望んだ。
それが互いのあるべき姿だと思っていた。
だが、本当は違っていた。
自分が愛しているつもりでいたけれど、本当はミュゲの方が彼にあやされていたのだ。
こうしてじっくり見ていると、バイオレッタはそうではないように思える。
きっとバイオレッタはクロードにとっての「くつろげる場所」なのだ。
下手な駆け引きなどせず、ありのままをさらけ出せる場所。それがこの少女の腕の中なのだろう。
そしてきっとバイオレッタの方もそんなクロードを認めているのだ。
自分の前でだけ鎧を脱ぐ彼のことを、バイオレッタはただ黙って受け入れる。
ミュゲのように彼を急き立てたりなじったりすることなく、ひたすら大らかに彼を許す。
だからこそクロードは安心してこの姫のところへ帰ってゆくことができるのだろう。
透き通ったアメジストを彷彿とさせるバイオレッタの双眸を見つめ、ミュゲはじっとその瞳の色を探ろうと試みる。
(この子はわたくしを脅かすかしら)
――「女の敵は女」。
それがミュゲの認識だ。
何かにつけてこちらにかまいたがる女ややたら力になりたがる女というのは総じてろくなものではない。
なぜなら、彼女たちは格下の人間相手に好き放題世話を焼くことで自分たちの承認欲求を満たそうとしているだけなのだから。
だから、ミュゲは同性と一緒にいる時ほど気が抜けなかった。
彼女たちの前では絶対に素顔を晒してはいけないと思っていたし、こちら側の弱みを握られるようなことがあってはならないと思っていたくらいだ。
(……だけど、この子にはそういうところがないような気がするわ)
変に垣根を造らず、かといって不躾に相手の事情に探りを入れるような真似もせず、ただのんびりと穏やかに微笑んでいる。
城下育ちのわりにわきまえるべきところはしっかりわきまえているし、こうしていざ対話してみれば思ったよりおとなしくて控えめな少女であることもわかった。
同時に、勝手にライバル視していたから腹が立っていただけで、この姫は案外話しやすい性格をしているのかもしれないとミュゲは思った。
二人の間に男が介在していたのも悪かったのだろう。
ミュゲは知らず知らずのうちにバイオレッタのことを「想い人を横取りした嫌な女」という色眼鏡で見てしまっていたのだ……。
(わたくし、自分がされたら嫌なことを彼女にしてしまっていた。いくらクロードのことが好きだったからって、ろくに知りもしない子をそんな目で見ていいはずがないのに……)
ミュゲはスカートの生地をぎゅっと握りしめると、ぽつりと言った。
「……貴女のこと、本当はまだ許せないの。憎らしいし腹が立つし、一緒にいると自分が矮小に思えてきて仕方ないくらい。今だって平然としてなんかいられない。貴女を前にしてどんな顔をすればいいかもわからない」
すると、何を思ったかバイオレッタは苦笑した。
「それは仕方がないことだと思いますわ。わたくしもミュゲ様も、これまでほとんど会話らしい会話をしてこなかったのですから」
「え……」
すみれ色の瞳がミュゲのささくれだった心をなだめるようにやんわりと細められる。
「知らないものを拒みたくなるのは至極当然のことではないでしょうか。わたくしはきっとまだ、ミュゲ様に信用してもらえるだけの要素が圧倒的に足りないのだと思います。だから受け入れてもらえないのでしょう」
「信用してもらえるだけの、要素……?」
「ええ。ですから、わたくしにももっとミュゲ様のことを聞かせてくださいませんか。どんな些細なことでもいいので」
ミュゲは思いもよらない一言につと顔を上げる。
すると、春の陽だまりのような微笑を湛えてバイオレッタは言った。
「人間は不器用ですから、伝えたい言葉はきちんと口に出すようにしないと伝わらないんです。たとえ口に出せたと思っても、言いたいことの半分も言えていなかったり、伝えるべき相手にはちゃんと伝わっていなかったりします。だから、ミュゲ様ももっと思っていることを言葉にしていいんですよ。そうしなければほとんどの思いは伝わりませんから」
ミュゲはあまりに楽観的な言葉にため息をついた。
「簡単に言ってくれるわね。もし発言したことが原因で相手と揉めるようなことになったらどうするの?」
「そうなってしまったら謝ればいいんです。もしくは、受け入れられそうなことだったら受け入れてみる。最初から無理だと決めつけないで、できる限り努力してみるのです。とはいえ、これは心が弱っているときにはちょっとだけ難しいのですけれど……」
そこでふいに悪戯心が生じ、ミュゲはわざと訝るような目をバイオレッタに向ける。
「……じゃあ、わたくしがもし貴女に対して暴言を吐いたら?」
「ええっ……!? あ、あの……、い、一応は、受け止めます。上手に言い返すことはできないかもしれませんけれど……」
「ほら、またそうやっていい子ぶるんだわ。言われっぱなしの女って嫌な感じよね、悲劇のヒロインぶってて」
「わ……わたくしのことを“女狐”なんて呼ぶ人だってじゅうぶん嫌な感じだと思いますけれど……!」
二人は一瞬だけ顔を見合わせた。
次いで、どちらからともなくくすくすと笑い声を上げる。
「……なんだか変な感じだわ、貴女とこうして笑い合ってるなんて」
「わたくしだってそうです。まだどこか夢みたいだわ」
ミュゲはバイオレッタの薄紫色の瞳をちらりと見上げ、そこでふっと微笑んだ。
ああ、人と心を通わせ合うというのは、こんなにも簡単なことだったのだ――。
「よろしかったらまたいらしてくださいね」
バイオレッタはそう言って見送ってくれたが、ミュゲはそれをきわめてシニカルな笑みで受け流した。
「……どうかしらね。気が向いたらまた、としか言えないわ」
つい今しがたまで恋敵と認識していた姫の居住棟に入り浸るほど自分は馬鹿ではないつもりだ。
まだ気持ちの整理も追いつかないのにそんな思いきったことはできない。
が、あろうことかバイオレッタはのんびりと言った。
「次はミュゲ様のお好きなものや興味のあることについて聞かせてほしいです」
ミュゲはこれ見よがしにため息をつく。
「……貴女、人の話聞いてた?」
「き、聞いてました。だけど、もったいないでしょう? せっかくお互いのことを知り合えたのに」
のんきすぎるほどのんきな回答に、ミュゲはやれやれとかぶりを振った。
「馬鹿を言わないで。わたくしの母シュザンヌはかつて貴女を失踪事件に巻き込んだ張本人なのよ。あの人は自分が蔑ろにされたことを恨んで貴女たち母娘の仲を引き裂いたのだと聞いているわ。母妃同士がそんな間柄にあったっていうのに、娘のわたくしたちが平然と仲良くするなんておかしいわよ」
「それはアスターお兄様にも言われましたわ。自分と仲良くなっても何もいいことなんかない、母妃と同じように貴女を傷つけることだってあるかもしれないのだから、と」
ミュゲは「それはもっともだ」と思った。
「お兄様の言い分も一理あるでしょうよ。いいえ、至極まともな意見だと思うわ。わたくしたちの母妃はかつて寵をめぐって争い合った。それも、宮廷全体を大きく巻き込む形でね」
そこでミュゲは、自分が確かにシュザンヌの娘であることを痛感した。
クロードとの恋を成就させたいがために無関係な姉オルタンシアを巻き込み、挙げ句の果てにはそこにアベルまで引っ張りこもうとしている。
これはほかでもないアウグスタスの血のなせる業なのだろうとミュゲは思った。
「……でも、わたくしたち、もっと仲良くなれないでしょうか」
「は……?」
「確かに母妃同士は不仲だったかもしれません。いがみ合ったり攻撃し合うこともあったかも……。だけどそれはあくまで母親の話であって、わたくしたち二人の話ではありませんよね?」
「それは、そうだけど……」
バイオレッタはそこでぐっと身を乗り出す。
「わたくし、もっとミュゲ様のことが知りたいです。いつも何を考えていらっしゃるのか気になるし、そして何より、同じ年の女の子同士、もっと親しくなりたいです。いけませんか?」
ミュゲはうっと詰まった。
何なのだろう、このやけに積極的な態度は。
「……無理よ、すぐに仲良くなんかできないわ」
たじろぎながらもなんとかそう言うと、バイオレッタはふわりと笑う。
毒気のない――そしてどこまでも無防備な顔で。
「それでもいいです。わたくし、ミュゲ様に歩み寄ってもらえるまでずっと待ちます。貴女を遠くから見守りながら」
「……!」
「見守る」という表現に、ミュゲはうっすら目を見張る。
……ああ、本当に敵わない。
彼女はクロードばかりか自分のことも受け入れようとしているのだ。
ミュゲと馴れ合ったところで、バイオレッタ自身にはなんのメリットもないというのに――。
もちろん、クロードとあれほどまでに愛し合っている彼女にならばデメリットもないだろう。だが、それにしても思い切った提案をするものだ。
器が大きいという言い方もできるだろうが、ミュゲにはただ単に無鉄砲なだけのように思えた。
ついでに言うと、彼女はこれまでされたことやこれからされるかもしれないことについては何も考えていないのだ。
こうしてまっすぐこちらを見据えるバイオレッタは見るからに馬鹿で能天気で、打算や損得勘定などまるで頭にないかのようだ。
面倒見がいい少女であるということはよくわかったが、純真すぎていっそ危うい感じがする。
この情の深さときたら、いっそ破滅的と呼んでもいいくらいだ。
一瞬だけクロードにいいように利用される彼女の姿が脳裏に浮かんだが、さすがにそれは杞憂だろうとミュゲはその考えを打ち消した。
あれだけ好き合っているのだから、今更利用も何もないだろう。
二人の姿はまさに愛し合う恋人同士のそれだったし、クロードが本気で彼女のことを欲しているのは傍目にも明らかだ。
(そう、よね。だってクロードは臣籍降嫁を望むくらいこの子のことを愛しているのだから……)
未だ胸に残る切なさをなだめつつ、ミュゲは菫青棟の扉を開けて外に出た。
「また来てくださいね!」
「……待っていたって無駄かもしれないのに、貴女ってお人好しね」
ミュゲがそんな憎まれ口を叩くと、バイオレッタは皓歯をのぞかせて朗らかに笑う。
「よく言われます」
皮肉げに口角を歪めると、ミュゲは玄関ホールに立つバイオレッタを振り仰ぐ。
「貴女なんか嫌いよ。大嫌い。わたくしの心に無遠慮に入ってこようとするから、大嫌い」
すると、バイオレッタはそれに応えるように穏やかに笑った。
「……ええ、知っています。ミュゲ様の『嫌い』が本当は『好き』の裏返しだということも」