第十三章 ふたり

 
 次の日の朝。
 ピヴォワンヌは紅玉棟の私室で紙面を睨んでいた。
 テーブルの上にはリシャールに借りた城の見取り図が広げてある。
 その他にも王城やその周辺の区域に関する資料が山ほど並べられていた。
 鵞ペンを置き、ピヴォワンヌはしかつめらしく腕組みをした。
「捜索の許可はもらったし、資料もこれだけ揃ってる。あとは行動するだけなのよね。でも……」
 姉姫バイオレッタを見つけ出すと息巻いたはいいものの、正直まだどう動けばよいか見当もつかない状況だ。
 何せこのリシャール城というのは広大だ。
 先日のリシャールの解説通り、城そのものが六つの宮殿から成り立っているのである。
 複数の宮殿群を城と呼びならわしているわけだから当たり前だが、当然そのどれもを隅々まで探しつくすのは無理がある。
「あたしとしては片っ端から調べてまわりたいところだけど、むしろこういう時こそよく考えて動かないと……。ここはいっそ情報収集から始めた方がいいのかしら……」
 仕方なしにダフネの淹れてくれた紅茶を飲み、ほうっと大きな息をつく。
 ナッツをちりばめたプティフールを一つ取って噛み砕き、すっかり温くなったお茶をごくごくと飲み干す。
 すると、ドローイングルームの扉が開いて侍女が姿を現した。
「御取込み中申し訳ございません。ピヴォワンヌ様のところに劉の殿方がお越しになっておられるのですが」
「……は? 劉の?」
「ええ。喬彩月きょうさいげつ様と名乗られました。お通ししますか?」
「! いい、今行く!」
 ピヴォワンヌは椅子から立ち上がると急いで身なりを整えた。ドレスの乱れをさっと手で直し、後れ毛に軽く手櫛を通すと、ダフネとともに紅玉棟の入口へ向かう。
 主階段ステアケースを駆け下り、玄関ホールに降りる。
 そこで待っていたのは――。
「……よお、香緋ちゃん。いや、今はピヴォワンヌ姫様だったなァ」
 彩月はひらひらと手を振った。生成りの衣に道士めいて簡素な深紅のチュニックを合わせ、下はゆったりした脚衣という普段通りの出で立ちだ。
 隆起した首の周りに幾重もの首飾りを下げるのも忘れていない。数種類の貴石を連ねて作られたそれは彼にとっての魔術媒介なのだ。
 彩月は彼にしては珍しく今日は煙草を吸っていなかった。愛用の煙管は帯の隙間にしっかりと挿しこんである。
 侍女たちの手前遠慮してくれたのだと気づき、ピヴォワンヌはいささかほっとした。
 すると、彩月がいきなり瞳を細める。
「……おい、誰よ、そのひでえ美人。お前の知り合いか?」
 どうやら背後に控えているダフネのことを言っているらしい。
 珍しく来訪者が男だというので半ばお目付け役としてついてきたようなものだが、彩月には別の意味で気になるようだ。
 ピヴォワンヌが軽い目配せをすると、それを受けたダフネが淑やかにお辞儀をした。
「お初にお目にかかります。第四王女ピヴォワンヌ様にお仕えする筆頭侍女、ダフネ・ナルディエーロと申します」
「うわ。なんつう色っぽい姉ちゃんだよ。くあー、俺様こんな美女にお目にかかるのは生まれて初めてだぜェ。いやぁ、いいねえ。綺麗だよ、あんた」
「まあ、嫌ですわ。お上手なんですから」
「本当だっつうの。あんたみたいな美人が酌でもしてくれたら最高だねェ。俺様何杯でも飲んじまうぜ」
 二人はそのままたわいもない会話で盛り上がり始めた。
 スフェーンの女は別嬪が多くて最高だだの、いやいや劉の殿方こそ野性的で貫禄があってかっこいいだのといった話が軽やかに飛び交っている。
 そこにはちらほらピヴォワンヌの話も含まれてはいたが、それにしてもどういう了見なのかとピヴォワンヌはむっつりと唇を捻じ曲げる。
(なんなのよコイツ。まさかこんな話をするためにわざわざあたしのところに来たわけ?)
「面白くない」と、ピヴォワンヌは声を張り上げた。
「ちょっと彩月!! 何してんのよ!! 人の居住棟に上がり込んどいて、まさかダフネを口説いて終わりっていうんじゃないでしょうね!?」
「っと。そうだそうだ……。俺様が用事あんのはお前だった」
 がりがりと紅い髪を掻き、彩月はピヴォワンヌに手を差し伸べる。
「ってなわけで、行こうぜ」
「はあ? 行くってどこへ?」
「散歩。俺、まだこっちの後宮にゃ慣れてなくてな。お前に案内してもらえると助かるんだけど」
 相変わらず言葉が足りない男だ、とピヴォワンヌはまじまじと彩月を見つめた。
「んだよ」
「あたしと散歩に行きたいなら素直にそう言えばいいじゃない」
「はあ? 阿呆かお前。俺様は香緋ちゃんが一人で退屈してるだろうと思ってだな――」
「もー、いいから行くわよ!」
 ピヴォワンヌは呆れつつも笑って彩月の腕を引っ張った。
 
 
 二人はそのまま紅玉棟の外へ出た。
「んー、いい天気!」
「おう。まさしく秋晴れだなァ」
 こうしていざ部屋の外へ出てみると、思いがけず解放感があって驚かされた。やはり部屋に閉じこもっているよりも外の風に当たる方が性に合うようだ。
 秋特有のやや乾いた空気を堪能しながら西棟の庭を歩く。
 後宮の構造やら名称やらを大まかに解説しつつ、ピヴォワンヌはひとまず中庭の方へ出てみようと提案した。
 彩月はうなずき、泰然とした足取りでついてくる。
 西棟を出て中庭にある時計塔の辺りまで進んだところで、彩月がぼそぼそと言った。
「あー……、手持無沙汰なんで煙草吸ってもいいか?」
「うーん……。あたしはかまわないんだけど、ここじゃちょっとね。もうちょっと人気のないところに出たら吸ってもいいわよ」
「へいへい」
 煙管を咥えるのがもはや習慣になっているせいか、彩月は所在なさそうだ。頭をわしゃわしゃと掻きむしったり、首にかけた貴石の首飾りをいじったりして気を紛らわしている。
 二人は時計塔の中をくぐり抜けて後宮の北へ向かった。
 鐘楼の役割を持つこの塔は、内部が大きな通路になっている。左右対称の造りになっていて、最上階からは王城や薔薇後宮全体を見渡すこともできる。
 以前バイオレッタと上ったことがあるが、二人とも壮大な眺めにうっとりしたものだ。
 後宮の北へ向かう遊歩道プロムナードに差し掛かってしばらくしたところで、彩月が伸びをした。
「はー、なんつうか、すげえところだな。劉の後宮よかだだっ広いぜ」
 ピヴォワンヌは苦笑する。
 スフェーンと劉では後宮の概念がそもそも違うのだ。
 劉の公主二人はいわゆる王太子と同じ扱いをされている。そのため、母女王である芙蓉の用意した後宮では暮らしていない。
 後宮にいるのは芙蓉が目をかけている男妾とその世話役だけで、芙蓉や琅玕公、公主といった王室の面々はみな同じ殿舎で生活しているのだ。
 劉の後宮というのは男妾のための御殿でしかないので、必然的にその規模は小さなものになる。
 この薔薇後宮のように無駄に奢侈を尽くした設えになどしていないのである。
「まあ、劉ももとは五大国の一つだったから、後宮っていう制度自体はそこから伝わったものなんでしょうけどね。けど、その劉の後宮には男妾しか住んでないって知ったらみんな仰天してしまうでしょうねえ」
 二人は肩をすくめてやれやれと笑い合う。
「こっちは女の園であっちは男の園だもんなぁ。いや、なんつうか、指導者の性別が違うと結構恐ろしいことになるもんだなァ……。概念がそもそも違うんだろうけどよ……」
「劉で愛妾っていえば、言わずもがな“女王陛下の間男”って意味だからねぇ。けど、それを言うなら『寵臣』っていう言葉もなかなか怪しいわよ。要は王に寵愛されている臣下ってことだけど、まあ、裏で何やってるのかわかったもんじゃないからね……」
「過去には気に入った間男を寵臣に据えちまった女王ってのも多かったみてえだしなァ……、はは、欲望っつうのはおっかねえぜ」
 彩月は肩をそびやかすとへらりと笑った。
「いやー、それにしてもここ、本当は男子禁制なんだよなァ。『きゃあ、チカン!』とか言われたら俺様立ち直れねェぞ」
「大丈夫よ。あんたが公主様の護衛官だってみんな知ってるし、薔薇後宮への常駐もちゃんと許可してもらってるじゃない」
「まあな。けど、女の園を闊歩するっつうのはやっぱ気がひけるぜ。俺様ここじゃ害獣みてえなモンだしな」
 
 彩月はそこで「悪ィ、ちょっと煙草」と言いながら立ち止まった。
 そんなに日常的に喫って大丈夫なのかと思いつつ、ピヴォワンヌは自らも歩みを止めた。
 彩月はおもむろに煙管を取り出し、雁首に刻み煙草を詰め込んで火をつけた。
 すぐさま吸い口を咥え、ゆったりと吸い込む。
 ピヴォワンヌはその一連の所作に我知らず見とれた。なんとも手慣れている。
 ややあってから、煙とともに独特の匂いが立ち込める。
 宮城でともに過ごした時間の長いピヴォワンヌにはもはや慣れっこの匂いだが、このスフェーンでは正直あまり歓迎されない香りだろう。
 ここには芳香をくゆらせることはあっても煙草は嗜まないという貴人が多い。とかく美しさと優雅さだけがもてはやされる国だから、自慢の髪や衣類に匂いがつくようなことがあってはならないと思うのかもしれない。
 とはいえ、劉で生まれ育った彩月にはなくてはならない代物でもあるので、ひとまず好きに喫わせることにした。
 ピヴォワンヌと並んで歩きながら、彼は実にうまそうに煙草を喫った。
 刻み煙草はわりあいすぐに火が消えるから、ほんの一瞬の愉しみだ。
 だが、それでも満足そうに煙管を咥えている姿を見ると、どういうわけかピヴォワンヌまで微笑ましい気分になってしまった。
 そうして遊歩道の中ほどまで進んだところで彩月は煙管を喫うのをやめた。灰入れを取り出して始末をすると、また帯の隙間にしっかりと挿しこむ。
 丁寧なしぐさにまたしても見とれていると、やおら彼は切り出した。
「……お前の姉さん、今行方不明なんだってな」
 もう彩月の耳にまで入っているのかとびっくりしたが、大方女官か侍女にでも聞いたのだろう。
 女の噂話はすぐに広まる。たとえ相手が異国人であろうとも、この薔薇後宮に滞在している客人相手ならば彼女たちは遠慮せずになんでも話して聞かせるだろう。
 ピヴォワンヌは一つ息をつき、彩月を振り仰いでうなずいた。
「そうよ。バイオレッタは今ここにはいない。あの子はあたしの姉に当たる子で、腹違いの姉妹同士でもあるわ」
 二人は異母姉妹であるということ。
 踊り子だった母の清紗がバイオレッタの母妃の庇護を受けてこのスフェーンの第三王妃として生活していたこと。
 二人の出会い、仲良くなった経緯、二人揃ってこの薔薇後宮に押し込められた日のこと。
 そしてピヴォワンヌ自身はバイオレッタを実の姉以上に大事に思っているということまで。
 一体どこまで理解してもらえるかはわからなかったが、ピヴォワンヌはかいつまんで彼に解説してやった。
 彩月はそれを黙って聞いていたが、やがて「ふうん」とつぶやいて口元に手をあてがう。
「なるほどな。バイオレッタ姫……か。変わった響きだな」
 あまり馴染みのない響きらしく、彩月は何度か口の中でその名前を反芻した。
 ピヴォワンヌはなおも説明してやる。
「スフェーンではヴィオレットやヴィオレッタが“菫”を意味するんだけど、そこからきている名前らしいわ」
 実際に口に出してみると、彼女の名前を呼んでいたのが遠い昔のことのように思えてくるから不思議だ。
 バイオレッタが姿を消してからまだひと月も経っていない。
 しかし、心の中はまるで火が消えたようにわびしくなっていた。
 こうしている間にも秋は深まってゆく。木々が葉の色を変えてゆき、庭園に咲く花は次々と秋らしく移ろってゆき、森や林にやってくる鳥たちの種類もしだいに秋冬のそれになってゆく。
 そんなさなかにあって、一緒に季節の移り変わりを味わえる相手がいないというのはひどく物悲しいことだった。
 同時に、自分で思うよりずっとバイオレッタのことを大切に思っていたのだと悟る。
 ピヴォワンヌは重苦しいため息をついた。
「そうか……、お前の母さんって舞姫だったのか」
 ふいに話しかけられて、ピヴォワンヌは我に返った。
 どうやら彩月は母・清紗の過去について知りたがっているようだ。
「あ、ああ……、そういえば、あんたには話したことなかったわよね。母さんは剣舞の達人だったの。若い頃、大陸中を巡り歩いて舞を披露していてね」
 母の清紗は劉南方に位置する寒村の出で、物心ついたときから舞で日銭を稼いで暮らしていたのだそうだ。
 彼女は国や村に伝わる伝統舞踊を人々に見せ、その腕前だけで収入を得て生活していた。すなわち、いわゆる「流浪の踊り子」だったのだ。
 清紗は劉語のみならず、大陸語も完璧に習得していた。
 恐らく舞を披露して回るのに劉の言語しかわからないというのでは心もとなかったのだろう。
 そうして彼女は言葉を学び、地理を学んで大陸の各所を旅してまわった。
 劉の守護神である竜神にまつわる踊りを披露しながら、異国の子供たちにかの国の神話や伝承を話して聞かせた。
 時には楽器の奏者や詩人などと一緒に興行をすることもあったようだが、それはそれで楽しそうな旅の形だとピヴォワンヌは思っていた。
「つまり、あたしの母さんは若い頃は剣舞の腕ひとつで食べていたの。その話がちょうどリシャール王の耳に入ってね。それでこの王宮にも舞を披露しに来たんだって。あいつに見初められたのはそれがきっかけだったみたい」
 清紗は時折、自慢げに当時の衣やら首飾りやらを出してきては舞を見せてくれた。
 鋭くきらめく湾刀に、星屑さながらに光る衣のビーズ。妖艶でありながらもどこか清々しくてきりりとした手足の動き。彼女が舞い踊るたびにしゃらしゃらと鳴る両手足の鈴の音色……。
 女官に咎められてからというもの、離宮で披露することは少なくなったが、劉の城下町へ移り住んでからは誰に遠慮することなく堂々と踊ってみせてくれた。
 満ち足りた母との時間はあっという間に終わってしまったけれど、幼いピヴォワンヌにとって清紗の艶姿は自慢だった。そしてその残像はいつまでも眼裏にくっきりと残り続けた。
 そして折につけ思うのだ……、この身体に流れているのは確かに母と同じ「戦う者」の血なのだと。
「エリザベス王妃とも随分と懇意にしていたみたいなんだけど……やっぱり側妃同士気が合ったのかしらね」
「同じ後宮で暮らす愛妾同士なら、そりゃあ話も合っただろうなァ。……ふーん。そうか……。じゃあお前と姉さんの縁は親の代から続いてるってことなんだな……」
 彩月はしみじみとつぶやき、手で口元を覆って考え込むそぶりを見せる。
「……父さんが殺された日ね、あの子はずっとあたしを慰めてくれてたの。ずっとそばにいてくれて、心配してくれて。ショックで落ち込むあたしのところに、父さんの形見を届けてくれたりして……」
 ピヴォワンヌは手首に嵌めた翡翠の腕輪を指先でしきりにさすった。
 その様子に気づき、彩月がはっと息をのむ。
「それ、親父さんの――」
 ピヴォワンヌはこくりとうなずいた。
「そうよ。父さんがあたしに買ってくれた翡翠の腕輪。父さんがつけていたものはさすがに大きすぎて嵌められないんだけど……これだけはなるべくいつも身につけるようにしているの」
「……そうか」
「これ、父さんとお揃いなのよ。それが連れ子だったあたしにはものすごく嬉しくてね……。これを見るたび、まるで家族の証みたいだなってずっと思ってた。だから、今でも外せないでいるの」
 彩月はそこでぴたりと立ち止まった。ピヴォワンヌに向き直り、ばつが悪そうにその顔を見下ろす。
「……悪ィ。俺、お前に言いすぎちまったみてえだ」
「彩月……?」
「俺、お前がもう俺や姫さんたちのことなんか忘れちまったんじゃないかって、ちっとばかし面白くなかったんだよ。お前が俺たちのことを捨てて全然新しい生き方を選ぼうとしてるって思ったら、むしゃくしゃしてしょうがなかった。だからあんなこと言っちまったんだ。悪かった」
 ピヴォワンヌの様子をうかがいながら、落ち着きのある声音で彩月は続ける。
「……けど、お前は劉での暮らしを捨てたわけじゃなかったんだな。俺ァてっきりもう“ピヴォワンヌ姫様”としての人生を選んじまったんじゃねェかと勘違いしてたが、お前の姿を見てるとどうやら違うみてェだ」
「当たり前でしょ。あたしを育てたのはほかでもない劉の土地よ。父さんと母さん、芙蓉様に琅玕(ろうかん)公、玉蘭に宝蘭。そしてあんたも……みんなかけがえのない仲間だわ。それは今でも変わらない事実よ。今更変えろって言われても変えられるはずがないわ」
 劉で育まれたすべてのものが、今のピヴォワンヌを支え、生かしている。
 それは揺るぐことのない事実だ。
 勇気もたくましさも、物おじせずに相手と向き合おうとする溌溂としたこの気性まで。
 ピヴォワンヌのすべてはかの国で培われたものだ。忘れようとしたって忘れられるものではない。
「あたしはね、彩月。劉での暮らしが好きだったの。劉の人たちのあの温かさが大好きだったし、帰れるものなら帰りたいって何度も思ったわ。けど、今は駄目なの。だって、あたしはまだ自分のやるべきことを一つも終わらせられてないんだもの」
 ピヴォワンヌは彩月の木賊とくさ色の双眸を見据えると、一言一言を噛みしめるようにして告げた。
「あたしが戦うべき場所はここよ。あたしはもう、自分の運命から逃げないって決めたの。どんなに嫌なことや苦しいことが待っているとしても、未来への扉はこの手でちゃんと開いていきたい。だって、行く手を阻む扉や障害は、全部あたしのためのものなのよ。あたし自身が強くなるために避けて通れないものだから現れるの。……だから、もうあたしは逃げない。どんなことがあっても、最後まで諦めずに戦い続ける」
「……!」
 真紅の双眸の中に燃えるような情熱と決意を見て取り、彩月はひゅっと息をのむ。
 ピヴォワンヌは言葉をなくす彩月をそれでもなお強い視線で射抜き続けた。
 沈黙ののち、どこかほっとしたように彩月が息をつく。
「……そうか。俺、お前の気も知らねえで、随分辛く当たっちまったな」
「ううん、あたしの方こそごめん……。ついかっとなって酷いこと言っちゃった」
「別に気にしてねェよ。つうか、元はといえば俺が悪いんだし。いちいちそんな風に気に病むなっての」
「だって……。なんだかんだあんたとは喧嘩も多かったけど、あんなに感情的になったのは初めてだったでしょ。だから……ごめん」
 彩月はそこでふっと笑った。
「はは、何言ってんだ、構やしねえよ。俺相手になんか言いたいことがあるなら、これまで通り遠慮せず言ってくれていい。ガキのお守りにゃ慣れてるしな」
「もう……! ……でも、ありがと。あんたがそう言ってくれて、嬉しい」
「俺はお前と違ってもういい年齢としだかんなァ。まあ、それなりに厳しいことも言っちまうかもしれねえけど、もしなんかあったら聞いてやるよ」
 彩月はそう言ってピヴォワンヌの髪をぽんぽんと軽く叩く。
 不思議なことに、ピヴォワンヌの身体は全く動じずにそれを受け入れた。
 男に頭を叩かれるなんて、普段ならあってはならないことだ。
 そもそもそんなスキンシップは男に許したくないとさえ思っているし、ピヴォワンヌ自身もそうした行為に及ばれると思い切り拒絶したくなってしまうことが多い。
 だが、彩月の手は熱くて大きくて心地よかった。
 紅い髪を撫でるしぐさはいたってあっさりしていて、そこには邪な何かなど一切感じられない。
 ピヴォワンヌはしばし身体の力を抜いてその動きに身を任せた。
 
「それにしても……相変わらず不器用な生き方してるわよね、彩月は。あんたのあの言い方じゃ、普通の人には誤解されるわよ。何せ付き合いの長いあたしでさえかっとなっちゃったんだから」
 再びゆっくりと遊歩道を行きながら、ピヴォワンヌはそんな風に彼に話しかけてみた。
 すると、彩月は頭の後ろで腕を組んで開き直る。
「そりゃそうかもしれねェが、頭に来てたんだからしょうがねえだろうが。別に、俺だって酷いこと言おうと思ってあんな言い方をしたわけじゃねェ。気が付いたらぽーんと口から飛び出てたんだからよ」
「全くもう……。ほんっと変わらないわよね」
 
 思えば、宮城に勤め始めたときもあんな感じだった。
 初めて芙蓉女王に拝謁する香緋ピヴォワンヌを前に、彩月は「こんな小枝みてェなガキに剣術指南役なんか務まりますかねェ」とのたまったのだ。
 二人はそのまま一触即発のムードに陥った。周囲がなだめてくれなかったらあのまま取っ組み合いの喧嘩になっていただろうと思う。
 
(……けど、宮城に出入りするうちにこいつは別にそこまで意地悪な男じゃないってことに気づき出したのよね)
 
 公主二人の話相手を務める姿勢は朗らかで、二人をいたずらに傷つけようとしているようには見えなかった。二人の護衛役としての能力も高く、おかげで玉蘭たちが危険な目にあったことは一度もない。
 そして、年頃の公主たちを前にしても驕ることのない彩月の態度が、さらに香緋の好感を呼んだ。
 まるで兄が妹にするように、ごく自然に接している。時折罪のない冗談を飛ばして二人を笑わせようとするところなども好ましく、そのためか彩月の前では公主たちはまるでごく普通の平民の娘のように見えた。
 世継ぎの姫でもなく、芙蓉女王の愛娘などでもない、ただのあどけない少女のように見えたのだ。
 
(今にして思えば、あれこそが彩月なりの気遣いだったんでしょうね)
 
 ピヴォワンヌは玉蘭たちのように箱入りではないものの、男性と接するのはいささか不得手だ。
 劉にいた頃は異国からやってきたという物珍しさに加え、男勝りで無鉄砲な性格が災いし、同じ年恰好の少年たちからは煙たがられていた。
 若くして剣術指南役に抜擢されたこともあり、同じ地区の少年たちは意地悪くピヴォワンヌをからかった。
 好意的な目で見られるどころかやっかまれることの方が多く、ピヴォワンヌとしても「仲良くなりたい」という気持ちより「面倒くさい」という気持ちの方が遥かに勝った。
 しだいに自分から彼らを遠ざけるようになってゆき、「どうせ馬鹿にされるのだから」と徹底的に男という生き物を避けるようになった。
 だが、彩月はそうした少年たちとは明らかに異なっていた。
 年がそこそこ離れているせいだろうか、実際に付き合ってみると、彼はピヴォワンヌを貶めるようなことは何一つしなかった。
 少年たちのように「女のくせに生意気だ」などとは言わなかったし、そもそも性別や年齢でピヴォワンヌを卑下しようとしたりはしなかった。
 十一も年が離れているにもかかわらず、どこまでも対等に「仕事仲間」として扱おうとした。
 そして絶妙な塩梅でピヴォワンヌを少女扱いしたがった。気にしている細く柔な体つきや、華やかな襦裙を着込んで宴に赴くときの正装姿などを楽しそうにからかってくるのだが、これだけはやや厄介で気恥ずかしい部分だった。
 普段はまるで男同士のような気の置けないやり取りばかりしているせいか、そうやって妙なところで女扱いされるとくすぐったくてたまらなかった。
 怒って猛然と言い返してやるのだが、それでも彩月は諦めない。むしろより執拗に女扱いしようとしてくる。
 それは質の悪い男児の悪戯にも似ていたが、なぜかピヴォワンヌは憎めずにいた。
 
 ……いい年をした大人の男。なのに言動がどこか子供っぽいせいか、はっきり「悪」とは決めつけられない。
 自分にも子供っぽい面があるからなのかもしれないが、それを差し引いてもどこか気になる相手だということは確かだ。
 
(こいつが根っからの悪人ならあたしも思う存分憎みきれるんだけど……。宮城では困ったときに何度も助けてもらってるし、なんだかんだ間違ったことは言わないしで、安易に責められないようなところがあるのよね……)
 
 色事に積極的な少女なら、ここで彩月との距離を詰めるべく必死で策を巡らせたりするのかもしれない。
 上手に甘えてもたれかかったり、困っていることや相談事を打ち明けたりして、どうにか彼の関心を引こうと頑張るのかもしれない。
 だが、自分たちはきっと今のままでいいのだろうとピヴォワンヌは思う。
 むしろ彩月相手にそうした手管を駆使している自分というのが全く想像できないのだ。
 劉の宮城でもいつの間にか行動を共にしているということが多かったためか、今更互いの関係をどうこうするというのは考えられなかった。
 時に苛々させられることもあるけれど、いざこうしてきちんと話してみれば、彩月の言動は意外にも心地よいものだった。養父が気に入っていたのもわかる、とさえ思う。
 距離の取り方も絶妙で、そのあっさりと執着のない態度は男に慣れていないピヴォワンヌを安心させるにじゅうぶんだった。
 互いに深い仲になろうとしたことはないし、むしろ無意識のうちにそうした展開を回避したがっているような節さえあるが、その適度な緊張感がかえって自分たちにはいいのかもしれない。
 細かいところや先のことまで考えなくとも、ただ気が合うから一緒にいるだけというのでもかまわないのではないか。
 そこまで考えて、ピヴォワンヌはふっと笑みを漏らす。
 そして秋の空を見上げて大きく息を吸い込んだのだった。
 
 
 

 

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