クロードは、リシャールから預かった書類を官僚の部屋へ運ぶべく国王執務室を出た。
廊下をまっすぐに進み、東の翼棟にある大臣の部屋を目指す。
クロードは眼鏡の奥の瞳を静かに閉じ、苛立たしげに眉間を指で押さえた。
いかにも成金といった風情の大臣の姿を思い出すだけで、早くも気が滅入ってくるのを感じる。
彼は苦手だ。クロードを毛嫌いしているのがよくわかるし、おまけに何かにつけて「私が、私が」としゃしゃり出てくる。
リシャールも彼のことはさほど好きなわけではないようだったが、それにしても官僚は官僚だ。公然と無視することなどできない。
また、彼の方もそれを逆手にとってクロードを貶そうとしてくることが多いから内心辟易していた。
クロードは自らの黒髪にするりと手を滑らせ、物憂げなため息をついた。
なまじ容姿が整っているだけに誤解を受けやすく、しかも口数もさほど多い方ではないから知らず知らずのうちに敵が増えてしまうのだ。
饒舌になるのはバイオレッタと二人きりでいる時くらいのもので、あとは終始必要最低限の会話しかしない場合が多い。
むろん気に入らない魔導士や官僚がいれば声高にやり返すが、めったなことでは感情的にはならない。理路整然と要点のみを伝える程度だ。
基本的に秘密主義なのは昔から変わらない。
そして今更変えようとも思っていない。
クロードにとっては本心を巧みにカモフラージュするのがもはや癖のようになってしまっているし、むしろそれでいいとさえ思っているのだ。
一人一人能力や個性が違っているのは当然のことだ。
だからこそ他人にむやみに心を覗かせたくはない。
(どうせ他人などに私の辛苦はわからない。いいや、わかるはずがない。千年もの間片割れを待ち続けていた私の気持ちなど。そして何より、こんなに醜い心を誰かに見せようなどとも思っていない。だからこれでいい。この舞台の幕が下りるまでは、このまま孤高の黒幕を演じ続けるのみ……)
そこで「なんとも損な性分だ」、とクロードは自らをせせら笑った。
こんなに複雑な性格でさえなければ、自分はこの宮廷でももっとうまくやれていたのだろう。目上に媚びへつらい、おべっかを使い、うまくごまをすって相手を出し抜いて。
いや、むしろそれこそが人の本来あるべき姿なのかもしれない。現に宮廷人の大半はそうした人間だ。
だが、そんな風に振舞っている自分というのがクロードにはどうしても想像できなかった。
もし仮に自分がそうした男だったら、きっとここまで真剣にアイリス一人を愛することはなかっただろう。
この千年の間に次の伴侶を見つけて新しい人生を歩んでいただろうし、そもそも大陸への復讐などという大それた計画も立てなかったはずだ。
だからこれでいいのだ、とクロードは自分自身に何度も言い聞かせた。
(私が私であったからこそ、千年の時を経てあの方ともう一度巡り合うことができたのだ。それを思えば何も惜しくはない)
クロードは黙って官僚のいる部屋を目指した。
靴の踵を純白のタイルに打ち付けながら、できるだけ足早に歩く。
天上の高い廊下に、クロードの靴音だけがいやに大きく鳴り響いている。
このリュミエール宮ではどんなに些細な物音もどこか優美に響く。
ドレスが擦れる音、靴の踵を打ち鳴らす音。秘め事めいたささやき声、貴婦人たちが上げる歓喜の声。
すべてがそこはかとなく上品に――そしていわくありげな重みを持って――聞こえる。
それがクロードには大層快かった。
純白のタイルが奏でる高らかで硬質な靴音が、嫌でも気分を高揚させる。
こうして闊歩するだけで並み居る宮廷人たちがみな一斉に道を開けようとする。
彼らが投げかけてくる畏怖と尊敬と羨望の入り混じった視線も、貴婦人たちが扇の影からこそこそと送ってくる艶と媚びを含んだ秋波も。
そのすべてがクロードの心を浮き立たせる。
人気のない通路に差し掛かった頃、彼はそこで妙な違和感を覚えて眉根を寄せた。
……背後からもう一つ、やけに派手なノック音のようなものが聞こえてくる。
この独特の音。恐らくハイヒールだろう。
それに呼応するようにしゃらしゃらというかすかな衣擦れの音も聞こえてくる。
クロードはそこで歩みを止め、相手に見せつけるようにわざとゆっくり振り返った。
「……どなたですか」
しばらくのち、頃合いを見計らったかのように小柄な人影が姿を現した。
「……クロード」
「ミュゲ姫様……」
こちらに近づいてきた彼女は、クロードの頬にそろそろと触れ、怯えたように言った。
「そんな怖い顔をしないでちょうだい。わたくし、お前に相談があってついてきただけなのだから」
「私にご相談とはなんでしょうか」
うそぶくと、すぐさまミュゲの手が伸びてきて純白のクラヴァットを掴み上げた。
「とぼけないで……っ! どうしたらいいの!? このままではお姉様を眠らせたのがわたくしだとばれてしまうわ……! 何かいい方法はない? お前にならわかるでしょう? 早く、早くどうにかしないと――」
「……しっ」
ゆるゆるとその背を撫でさすり、興奮を落ち着かせるべくひときわ甘い声音でささやいてやる。
「何も問題ございませんよ、ミュゲ様。スフェーン宮廷にこの私の術を暴ける魔導士はおりません」
現在、オルタンシアの身体はリュミエール宮の一室に運び込まれ、魔導士たちによって肌に残る魔術痕跡を徹底的に調べられている。
ミュゲはそれを危ぶんだのだろう。
恐らくオルタンシアの肌からクロードの魔術痕跡が見つけ出されれば終わりだと思ったに違いない。
そうなればクロードがリシャールの前に引き立てられることになるのは目に見えているし、もはや言い逃れなどできなくなる。
櫛の話やそれに施した闇の魔術の話、ミュゲとのこれまでの関係も。すべてを洗いざらい打ち明けるしかなくなる。
彼女はきっとそう考えたのだろう。
だが――。
「言ったでしょう。私の闇の魔術は発動したあとは霧散して消えてしまうのだと。私や貴女に要らぬ嫌疑がかけられる心配はないのですよ」
「でも、もし疑いをかけられるようなことがあれば――」
「この私の力をお疑いですか?」
「お前を疑ってなんかいないわ、だけど……!」
「貴女はただ今まで通りに振舞っていらっしゃればよいのですよ。何も心配なさることはありません。ただお身体のことにだけ気を付けて、健康を損ねないよう留意しながら穏やかに生活していらっしゃればよいのです。貴女はまだ何も失っていないし、失う必要がない。決定的な証拠がない以上、誰にも貴女を咎めることはできません」
宮廷に仕える魔導士たちはみなオルタンシアのもとへ駆り出され、彼女の肌に残った魔術痕跡を調べるべく使われているという。
だが、何をしようと徒労に終わるのは明らかだった。
闇の魔術は発動させた後は霧散してごく自然に消えてしまう。
そしてあの術式を施した場所はオルタンシアそのものではなくミュゲに渡した銀の櫛の方だ。
ミュゲが件の櫛を厳重に部屋にしまっている限り、誰にも暴かれることはない。
高位魔術である闇の力とはそういうものだ。
だが――。
「いいえ……、いるかもしれないわ……。わたくしの企みに気づいた人間が、一人だけ」
ミュゲはそう言って表情を曇らせる。
「……どういうことなのですか」
彼女はふるふると首を振った。
「いいえ、なんでもないわ……。なんでも……」
クロードはうまく事情を呑み込めずに眉宇をひそめる。
だが、顔を上げたミュゲはすぐさまキッとクロードをねめつけた。
「……覚えていて、クロード。わたくしに何かあったらお前も道連れよ。お前だけ逃げるなんて絶対に許さない。だって、わたくしとお前はとっくの昔に共犯者になってしまっているんだから」
二人の視線が鋭く絡み合う。
こちらの本心を探るような眼差しに思わず怯み、クロードは動揺を押し殺すべくにっこりと微笑んでみせる。
「……ええ。心得ました。貴女を見捨てるような真似は一切しないとお約束しましょう」
ミュゲが口に出してねだる前に、クロードは長躯をかがめて素早くその頬にキスを落としてやった。
すると、彼女の剣呑な表情は一瞬だけ崩れた。どこか幸福そうで隙のある顔つきに様変わりする。
一旦はおとなしく身を放したミュゲだったが、やがてクロードに向けてそろそろと両手を伸ばしてくる。
「……ねえ。お願い。一度だけ抱きしめて」
それは普段の落ち着き払った彼女の様子からはまるで想像できないような媚態だった。
とはいえ、根が知的な少女だからかいやらしさはない。
声音もどこか硬く、甘えるというよりは言葉通り願い出ているといった調子だった。
クロードは一度だけ喉を鳴らすと、ミュゲに近づく。
そして彼女の要望通り、その華奢な身体を胸に抱きしめた。
「……クロード。好き。愛してるの……。わたくし、わたくし……、お前を――」
吐息交じりの愛の言葉を、クロードは抱擁の力を強めることでうやむやにした。
無駄な肉のないほっそりとした肩が、クロードの腕の中でわずかに震える。
「お願い……、わたくしを見捨てないで……。そんなことをしたら許さない……。お前が好き、大好きなの……!」
「ええ……。私も貴女を愛していますよ、ミュゲ姫様……」
自らの乾ききった声を、クロードはどこか他人のもののように感じていた。
ミュゲが去ってしばらくのち、クロードの影から真紅の靄が立ちのぼる。
それはすぐさま黒髪と琥珀の瞳を持つ美女の姿を取った。
……すなわち、クロードと全く同じ色彩を持つ女性の姿に。
彼女は――アインは、おかしくてたまらないといったように哄笑した。
『ほう。これは傑作だ……! そうとは知らずに火の依代の片棒を担がされるとは哀れな娘よ。よほどお前を盲信しきっているのだな』
「そのような。むしろ加担させられているのは私の方ですよ」
ミュゲは姉姫を永遠に眠らせることを望み、クロードはそれに手を貸した。
それはクロードが望むことではけしてなかったが、結果として彼はあの第二王女に加担させられる形となった。
二人はこの一件における紛れもない共犯者であり、運命と罪を互いに分かち合う存在であるともいえた。
当のミュゲはこれでクロードとの繋がりができたと思って喜んでいるのだろうが、巻き込まれる側のクロードにとってはたまったものではない。
しかも、彼女が姉を手にかけたそもそもの原因は元をたどればクロードにある。
ミュゲはクロードの心を得たいがためにこんな悪事に手を染めてしまったのだから。
本当にあの姫には煩わされてばかりだ。
何せクロードを振り回すことに一片のためらいもないのだから。
クロードはそこで細く長い息を吐いた。
彼女はクロードの愛を得るためにこのスフェーンの次期女王を目指している。
しかし、たとえミュゲが次期女王として擁立されたところで、クロードが今まで以上に彼女を愛するかといえばそれは怪しい。
むろん、彼女によって直々に入り婿に選出されてしまえばもう逃げ場はなくなるだろう。
だが、心まで彼女に渡す気はない。この心はとっくにバイオレッタ――ひいてはかつての愛妃アイリス――ただ一人に捧げられたものだ。今更それを覆せるわけもない。
そこでクロードに纏わりついたアインの幻影が優雅に微笑む。
『ふふ……、あの娘、相当にまっすぐな性根をしているとみえる。お前を見る目に肉欲の色や濁りがなかった。宮廷に巣食う女どもとは雲泥の差だな』
「ええ……」
すべてアインの言葉通りだ。
ミュゲはまるで乙女のように楚々とした少女だった。物言いこそきついものの、彼女はいたって正直で真面目な娘だ。それはクロードにはよくわかっている。
ミュゲのことを「まるで真っ白な鈴蘭の花のようだ」、と思うことがある。それも、強い毒を持った鈴蘭だ。
誰よりも清雅で穢れがないからこそ、鈴蘭は猛毒でその身を守るしかない。
内に秘めた毒で悪意ある他者を寄せ付けないようにするしかないのだ。
前々から思っていた。彼女はこんな薄汚れた宮廷で生きていくには純真すぎる少女だと。
だからこそ近寄れなかった。
自分などが安易に触れてはいけないような気がするし、男の情欲を押し付けるような振る舞いは到底できないと感じてしまうのだ。
『クロードよ。あれをわたくしへの糧にする気はないか。いかにも質のよさそうな魂ではないか……、無垢で清らかで、おまけに生娘ともなれば……』
アインの言葉に、クロードは緩く首を横に振った。
「……それはできません。あの方は見ていていっそ気の毒になるくらい高潔な女性なのです。そのような御婦人に強引に迫るのは私の主義に反します」
クロードはそう言ってアインの提案を聞き流す。
本当はあの花を散らすのが怖いだけだととうに気づいていた。
あんなに一途で無防備な娘は、穢せない。どうしても。
アインは実体を持たない指先でクロードの頬を包み込み、からかうように言う。
『やけにきっぱり断るではないか。そんなにあの姫が気に入っているのか?』
「そのような……」
はぐらかし、クロードはアインに向けてにこりと微笑んでみせた。
「ご存知ですか、アイン様? 男女の仲において最も重要なのは、互いに深入りしようとしないこと、そして引き際をよく見定めることです。御婦人方を満たして差し上げた後は、相手の事情に立ち入ることなく速やかにその場を去る。これがこの宮廷において最も美しい愛の形なのですよ」
『戯けが。用済みになった後は、の間違いであろう?』
クロードはそれには答えずほのかに笑う。
そして、ミュゲが去っていった方角をぼんやりと眺めた。
折につけ、ミュゲには近づきすぎてしまったと後悔していたところだった。
最初は互いに単なる興味本位で距離を縮めた。
ミュゲは自らの話を聞いてくれる存在を求めていて、クロードもまた胸の虚ろを埋めてくれる相手を欲していた。
だからちょうどよかったのだ。
宮廷での暮らしの合間にほんのひととき会って、互いの無聊を慰め合うことができれば、クロードの方はただそれだけでじゅうぶんだった。
だが、彼女は色恋においてはとかく純粋すぎた。
男に尽くすことを最上の喜びとする彼女は、強い執着心と深すぎる情念の持ち主だった。
クロードが姓を授かれるよう父王に頼み込み、何かにつけて彼を褒め称え、あらん限りの愛情を注ごうと努める。
そしてまるで正真正銘の恋人のような顔をして世話を焼きたがり、どうにかしてクロードに寄り添いたがる。
その情熱はわからないでもない。クロードもまた自らの情の深さを自覚している人間だからだ。
しかし、ミュゲはとにかく貪欲なところのある姫だった。
精いっぱい尽くしたあとはそれに見合うような見返り――すなわちクロードのキスや抱擁やいたわりの言葉といったもの――を必要とし、またそれが当然であるかのような態度を取りたがる。
それがクロードには煩わしくて仕方なかった。
大して意味もないキスや抱擁を、ミュゲはいつもうっとりとした表情で受け入れる。触れ合わされる肌や唇からクロードの愛を少しでも多く感じ取ろうとしているかのように。
『ミュゲと呼んで』
『お前に抱きしめられるのが好き。ずっとこうしていて、クロード』
そんな風にもっともっととばかりにしがみつかれると、クロードの胸は罪悪感でいっぱいになった。
そして「この姫の相手をしていいのは自分ではない」と強く実感した。
彼女の翡翠色の髪に触れ、雪肌を撫で、慎ましく閉ざされた桜色の唇に温かくキスを落とす。それは少なくとも自分の役目ではないと感じたのだ。
何よりクロードは彼女ではなくバイオレッタを愛しているのだ。彼女の真剣な恋心にはどうしても応えられない。
ミュゲが宮廷で噂されている通りのわがままで男にだらしない少女だったら話は違っていただろう。
欲望の限り互いを貪り尽くしただろうし、利用できるものがあればあまさず利用したに違いない。
だが、そうするにはミュゲの気持ちはあまりにもまっすぐすぎた。
本当に厭わしかった。時として痛々しく見えるほどの、あのひたむきさが。
バイオレッタが王宮に帰還するまで、彼女の一挙一動に幾度となく勇気づけられていたのは事実だ。
胸の空洞や寂寞を埋めるのも、どうということはない話をして愉しむのも。すべてがミュゲの役割だった。
けれど、クロードの最愛の女性はもう帰ってきてしまった。
その時点でクロードの虚ろを埋める役目はすでに彼女の――バイオレッタのものになってしまっていたのだ。
バイオレッタ――そしてアイリス――がそばにいる以上、もうミュゲの手を取ることはないだろう。
心から愛するのは一人でいい。いや、むしろ、たった一人の最愛しかいらない。
それを思えば、このままミュゲに流されるわけにはいかないのだ。
クロードは早々にミュゲとの関係を断ち切ろうと決めていた。
これ以上バイオレッタを欺くことはできないし、このままずっとミュゲに纏わりつかれるのも困る。
……ミュゲは言った、バイオレッタのことが好きならそれでもいいと。
それでもクロードと繋がっていたい、こちらを見てくれるならなんでもすると。
そうして彼女は姉オルタンシアを永久の昏睡状態に陥らせるという凶行に走った。
クロードは彼女に引きずられるまま、気づけばこうして姉殺しの共犯者に仕立て上げられてしまっている。
クロードはそこに自らと同じ偏愛の匂いを嗅ぎ取っていた。
心を許した相手にだけ必死で愛を乞おうとするところが、まるで鏡に映したように自分とそっくりだ、と。
そうした彼女の姿や言動といったものが、嫌になるくらい自分と似ていると感じたのだ。
ただでさえ冷めていた関係は爛れに爛れ、複雑に絡まり合ってもはやほどくこともできなくなってしまった。
こんな関係を果たして絆という一言で片づけられるのかどうか、クロードにはわからない。
ただひとつわかることは、早急に彼女から離れなければいけないということだけだ。
「……潮時、でしょうか」
誰にともなくつぶやいたクロードの双眸は、何の感情も映していないかのように冷え冷えとしていた。